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2014/08/02

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 法性寺

     ●法性寺

猿畠山法性寺と號す、日蓮宗、鎌倉妙本寺末、本尊三寶、寺傳に、文應元年八月甘七日夜、祖師鎌倉松葉ケ谷の厄(やく)に逢て此所に遁れ來り崛中に籠居(ろうきよ)す、將に白猿三匹來て食物(しよくもつ)を供す、師喜悦し、宗法弘通の後、此所に一寺を建立すべき由を弟子日朗に命す、朗其事を果さずして卒す、其弟子朗慶志を繼(つ)き、朝堂宇落成す、故に日朗を開山とし、朗慶を開基(かいそ)とす。

[やぶちゃん注:以下の、「新編鎌倉志」の引用は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

鎌倉志には日蓮鎌倉に來りし初、此山の岩窟に居る、諸人賤み憎て一飯をも贈らず其時此山の猿來り畑に集り食物を営て蓮に供す、故に猿畠山を號すと見ゆ

祖師堂 像は朗慶の作、長二尺。

岩窟 祖師堂の後にあり、方八尺、則ち日蓮籠居の所なり、首題を彫りし石碑を立つ。

日朗墓 祖師堂の前にあり、高八尺、後背に枯松あり、圍九尺許、右は陀落松(だらくまつ)と唱ふ、中古枯稿せしを衆僧祈て再ひ枝葉(しえふ)を生す、是より蘇生松と稱す、文化元年秋大風に終に枯死す。朗は池上本門鎌倉妙本兩寺を開基し、元應二年正月二十一日本門寺に於て卒す、遺言により遺骨を爰に納む、故に當寺を兩寺の奧院と號す

[やぶちゃん注:現在の逗子市久木九丁目にある日蓮宗猿畠山法性寺(えんはくさんほっしょうじ)。

「文應元年八月甘七日夜、祖師鎌倉松葉ケ谷の厄」日蓮四大法難の一つである、松葉ヶ谷の法難。日蓮は建長五(一二五三)年に安房国清澄寺から海路で三浦へ渡って鎌倉に入り、松葉ヶ谷(まつばがやつ:現在の鎌倉市大町名越地区内)に草庵(後に法華堂と号した)を構え、文応元(一二六〇)年までに、ここでかの大プロパガンダ「立正安国論」を著し、同年七月十六日に同書を幕府第五代執権北条時頼へ提出した。そこで日蓮は、法華経正法(しょうぼう)の唯一絶対性を強く主張、当時頻繁に発生していた地震・異常気象・疫病・飢餓といった自然災害は、平安旧仏教はもとより、法然を始めとする浄土教や、幕府が公式に帰依し旦那となっている禅宗といった法華経以外の有象無象の邪教に起因するものであるとして、幕府の宗教政策への転換を促した。凡そ一ヶ月後の八月二十七日(グレゴリオ暦換算で十月十日)、それを知った浄土教信者である念仏者たちによって、松葉ヶ谷の草庵が夜間に襲撃され、焼き討ちにされた事件を指す。この時、日蓮の前に白猿が現われて裏山からこの今、法性寺がある辺りまでの尾根を安全に導いたとされる。参考にしたウィキの「松葉ヶ谷」によれば、『日蓮は富木常忍のいる下総国中山に避難した。襲撃の黒幕に幕府為政者、鎌倉宗教界の実力者である北条重時、6代執権北条長時(極楽寺北条氏)、大仏朝直、極楽寺忍性、蘭渓道隆、念阿良忠がいたと言われる。その後、日蓮は鎌倉に戻り』、に伊豆伊東へ流罪となった。

「日朗」(寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮六老僧の一人。号は筑後房。下総国出身。父は上総(印東)氏の流れを汲む武士平賀有国。文応二(一二六一)年に日蓮を師として法を学び、文永八(一二七一)年の日蓮の佐渡流罪(龍ノ口の法難で斬首を免れて一等減ぜられた。これは奇跡でも何でもなく、北条一族の一部などから悪僧とは言え、僧を殺害することへの難色が示された。また、当の時の執権時宗の妻が当時妊娠していしたりして、さらには既に幕臣にも日蓮宗への帰依者が増加していたからであった)の際には土牢(現在の光則寺裏)に押し込めとなった。文永一一(一二七四)年には佐渡に流罪となっていた日蓮を八度も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っている。弘安五(一二八二)年には池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。最後は遺言に従って日蓮の草庵近く、松葉ヶ谷に後に立てられた安国論寺で荼毘に付され、法性寺に葬られた(以上は主にウィキの「日朗」に拠ったが、龍ノ口の法難の解説部分は私のオリジナルである)。

「朗慶」日蓮九老僧(くろうそう)の一人、日蓮の孫弟子越中阿闍梨朗慶。

「新編鎌倉志」以下、私の評釈附電子テクスト「新編鎌倉志卷之七」からダブる部分もあるが注も含めて引用しておく。

   *

○御猿畠山〔附山王堂の跡〕 御猿畠山(をさるばたけやま)、名越(なごや)の切り通しの北の山、法性寺の峯也。久野谷村(くのやむら)の北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。賤しみ憎んで一飯をも不送(送らず)。其の時此の山より猿ども羣(むらが)り來て畑(はた)に集り、食物(しよくもつ)を營(いとな)んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其 後日蓮、猿どもの我を養ひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山(えんはくさん)畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟(いはや)は、堂の後ろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟相並んで六(むつ)あり。此れ六老僧の居たる岩窟也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。

[やぶちゃん注:「【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり」とあるが、これは建長六(一二五四)年一月十日の記事の誤りであろう。以下に引用しておく。

〇原文

十日甲申。晴。西風烈。卯一點。濱風早町邊燒亡。至名越山王堂。人家數百宇災。日出以後火止。燒死者數十人云々。依彼穢。今日將軍家御神拜延引云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日甲申。晴。西風烈し。卯の一点、濱風早く、町の邊、焼亡す。名越山王堂に至るまで、人家數百宇、災ひす。日の出以後、火止む。燒死者數十人と云々。彼の穢に依りて、今日、將軍家の御神拜延引すと云々。

「又弘長三年三月十三日、名越の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり」これもおかしい。これも弘長三(一二六三)年三月十八日の記事の誤りであろう。

〇原文

十八日戊戌。天晴。亥尅。名越邊燒亡。山王堂在其中。失火云々。

但し、これらの山王堂は必ずしもここには同定出来ない。例えば現在、中世遺跡として発掘された「名越・山王堂跡」と呼ばれるものは北條時政邸跡の西、釋迦堂切通を挟んだ対称の位置にあり(鎌倉市大町三丁目一三四〇外。現在の電通鎌倉研修所付近)、ここはお猿畠ではない。上記の「吾妻鏡」の「山王堂」もここである可能性が高いように思われる。

「山王の御利生」猿は山王権現(日吉山王)の御使いとされる。

「釋迦多寶」これは元来は釈迦如来と多宝如来を意味する。後者は法華経に現れる東方宝浄国教主の如来で、釈迦の説法を讃した仏とされる。一つの多宝塔に釈迦と並べて配し、一塔両尊の本尊とすることが多い。ここでもそのような石塔と思われる。

「六老僧」は日蓮六老僧のこと。日蓮が死を前に後継者として示した直弟子日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指す。絵図を見て驚くのは、ここにあるやぐらが有意に六つの形状を示しており、そこに『六老僧巖窟』と記されていることである。ここは日蓮の弟子である彼等の羅漢堂でもあった(少なくともそのようなものとして認識されていた)のである。[やぶちゃん補注:図はリンク先で確認されたい。]

「日朗」(寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は安国論寺で荼毘に付され、法性寺に葬られた。

「弘安九年」西暦一二八六年。

「文化元年」西暦一八〇四年。]

   *

「二尺」約六十一センチメートル弱。

「方八尺」約二・四メートル四方。

「圍九尺」周囲二・七三メートル。この枯れたとある陀落松、無論、最早、現存しない模様である。]

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