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2014/08/07

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 八景

    ●八景

金澤八景は。心越禪師の西湖に擬して名くる所。今尚ほ其の八景を傳へり。菊池三溪嘗て記あり、善く其の勝を盡せり。

[やぶちゃん注:以下の菊池三溪に記は底本では全体が一字下げ。]

金澤之勝。凡有ㇾ耳者鼎鐺亦能聞之矣。鎌倉志所謂八勝之眺矚以能見堂爲ㇾ最。信矣。堂負ㇾ山而面ㇾ海。締搆雅潔。坐而眺ㇾ之。嵐光水色一矚暸然。呼ㇾ之欲譍。有一沙彌千里鏡。喋々指説。乃對ㇾ鏡覘且問曰。箏柱下上相連而下汀沙者。何邪。曰平潟落雁。倒影在ㇾ樹茅屋臨ㇾ水。戸外晒二漁網一者。何邪。曰野島夕照。鯨吼殷々。出ㇾ山度ㇾ水。餘音舂容。無ㇾ所底止者。何邪。曰稱名晩鐘。烟靡雲颺矣。曰洲崎晴嵐。樹暗山白矣。曰内川暮雪。豆人寸馬。蓑往笠來矣。曰小泉夜雨。烟蒼水明矣。曰瀨戸秋月。如鷺斯飛如鳧斯翔。隱見洲渚間矣。曰乙艫歸帆。八勝之觀畢矣。又問曰。如蜉蝣舂。如螻蟻集者。鳥乎。曰漁者牽ㇾ網也。蜿蜒飮水者。虹邪。曰橋也。如鳥帽者帽島。如二獼猴一者爲猴島。囘汀曲灣。綉峙綺錯。悉集寸眸尺幅中。不ㇾ暇目數而指屈。暮色蒼然自ㇾ遠至焉。忽爲壡舟矣。悵惘久ㇾ之。不レ忍割愛。徘徊願望下ㇾ山而去矣。

   能見堂八景

           心越禪師〔杜多東皐明人歸化〕

    洲崎晴嵐

滔滔驟浪歛餘暉。滾滾狂波遶竹扉。市後日斜人靜悄。行雲流水自依依。

    瀨戸秋月

淸瀨涓涓不ㇾ繫ㇾ舟。風傳虛籟正中秋。廣寒桂子香飄處。共看氷輪島際浮。

    小泉夜雨

暮雨淒凉夢亦驚。甘泉汨汨聽分明。蓬牕淹蹇無相識。膓斷君山鐡笛聲。

    乙舳歸帆

朝宗萬派遠連ㇾ天。無ㇾ恙輕帆掛日邊。款乃高歌落雲外。依稀數艇到洲前

[やぶちゃん字注:承句の「帆」は底本では「※」(「※」=「馬」+「風」)であるが、諸本から「帆」と訂した。また、転句の「款乃」は「欵乃」が正しいが、諸本が多くこの誤りを出すので、ここではママとし、注の書き下しで訂した。]

    稱名晩鐘

夙昔名藍成覺地。華鐘晩控茗鯨音。幽明聞者咸生悟。一片迷離祇樹林。

    平潟落雁

列陣冲冥堪ㇾ入ㇾ塞。荻蘆蕭瑟幾成ㇾ隊。飛鳴宿食恁棲遲。千里傳ㇾ書誰不ㇾ愛。

[やぶちゃん字注:転句の「恁」は底本では「凭」であるが意味が通じない。誤植と断じ、諸本から「恁」に訂した。]

    野島夕照

獨羨漁翁是作家。持ㇾ竿ㇾ盪漿日西斜。網得魚來沽酒飮。披ㇾ蓑高臥任堪誇。

    内川暮雪

廣陌長堤意沒ㇾ潛。奇花六出以ㇾ鋪ㇾ縑。渾然玉砌山河色。遍覆危峯些尖

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

武州金澤擲筆山能見堂有潚湘八景之風味因觀鎌倉志甚詳一夕寥々對靑燈漫賦八景之陋句以識斯勝境云歳執除夏日

               東皐越杜多艸

[やぶちゃん注:「心越禪師」東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年にまさに「新編鎌倉志」の著者でもある徳川光圀の尽力によって釈放、水戸天徳寺に住して、専ら篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、ここ金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。心越の漢詩及び歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像は、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の注で掲載している。是非、御覧あれ。

「菊池三溪」(文政二(一八一九)年~明治二四(一八九一)年)は幕末明治期の漢学者。名は純、字は子顕、通称純太郎、三渓と号し、書楼を晴雪楼と称した。紀州生まれで和歌山藩儒菊池梅軒の子。江戸で安積艮斎や大槻磐渓に学び、藩邸内の明教館で教えた。藩主が第十四代将軍家茂となったのに従って奥儒者となったが、慶応二(一八六六)年の家茂逝去とともに致仕、采地下総に住んだ。維新後は下館・笠間・土浦各藩の文教刷新に携わったが、明治七(一八七四)年頃から京都に移居、『西京日々新聞』の編集に加わった。明治十年代に再び東上して官に就き、傍ら、竹中邦香の「大日本野史」校訂を助けたが、文筆の暇なきを憂いて、明治十六年、再度、京都に赴いた。晩年は福井小浜に寓居し、そこで没した。詩は袁枚を奉じたが、漢文風俗誌「東京写真鏡」・「西京伝信記」や、本邦の俗伝や古典を漢訳した「本朝虞初新誌」)・「訳準綺語」など、雅俗に亙る縦横の才筆を身上とした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

 以下、菊池三溪の雅文を我流で書き下してみる。但し、必ずしも底本の返り点に従っていない。

   *

金澤の勝、凡そ耳有るは鼎鐺し、亦、能く之を聞く。「鎌倉志」、所謂、八勝の眺矚、能見堂を以つて、最と爲す。信たり。堂、山を負ひて海に面す。締搆、雅潔、坐して之を眺む。嵐光水色、一矚(しよく)暸然、之を呼べば譍(こた)へんと欲す。一沙彌有りて、千里の鏡を出だす。喋々(てふてふ)として指説す。乃ち鏡に對し、且つ問ひて曰く、箏柱下上(さうちゆうげじやう)、相ひ連なりて汀沙に下れるは、何か。曰く、「平潟落雁」。倒影、樹に在り、茅屋(ばうおく)、水に臨む。戸外、漁網を晒(さら)すは、何か。曰く、「野島夕照」。鯨吼殷々(げいこういんいん)、山を出でて水を度(わた)る。餘音舂容(よいんしようよう)。底止する所無きは、何か。曰く、「稱名晩鐘」。烟靡雲颺(えんびうんよう)たり。曰く「洲崎晴嵐」。樹、暗くして、山、白し。曰く、「内川暮雪」。豆人寸馬(とうじんすんば)、蓑往笠來(さわうりふらい)たり。曰く、「小泉夜雨」。烟蒼水明(えんさうすいめい)たり。曰く、「瀨戸秋月」。鷺(さぎ)のごとく斯(か)く飛び、鳧(けり)のごとく斯く翔く。洲渚(すしよ)の間に隱見す。曰く、「乙艫歸帆」。八勝の觀、畢(おわ)んぬ。又、問ひて曰く、蜉蝣(かげろふ)の舂(つ)くごとく、螻蟻の集(つど)ふがごときは、鳥か。曰く、漁者、網を牽く。蜿蜒(ゑんえん)として水を飮む者は、虹(こう)か。曰く、橋なり。鳥帽(えぼう)の者のごときは、帽島(ぼうしま)と爲す。獼猴(びこう)のごときは猴島(さるしま)と爲す。囘汀曲灣(くわいていきよくわん)、綉峙綺錯(しうじきさく)。悉く、寸眸尺幅(すんばうしやくふく)の中(うち)に集まる。目數指屈(もくすうしくつ)するに暇(いと)まあらず。暮色蒼然、遠きより至れり。忽ち、壑舟(がくしふ)を爲す。悵惘(ちやうまう)、之れ、久し。割愛するに忍びず、徘徊願望(はいかいがんまう)して山を下りて去る。

   *

 以下、語注を附す。難読語も多いが、何か作者の名指す実景が手に執るように見渡されて、私は非常に好きな美文である。現在の能見堂からは残念ながら(私は二度訪ねたことがあるが)、このような絶景は最早展開していないせいもあるかも知れない。

「鼎鐺」「ていさう(ていそう)」。鼎鐺玉石(ていそうぎょくせき)。尊い鼎を当たり前の鍋のように思い、高価な宝石を石くれのように見做す。並外れて贅沢を尽くすさまを言う(杜牧の「阿房宮賦」に基づく)。贅を尽くすように、という形容詞であろう。

「鎌倉志」非常に重要なことなのでここで注しておくが、「新編鎌倉志」の完成時には東皐心越が定めた八景は成立していない。実はまさに「新編鎌倉志」の成立後に、筆者水戸光圀に庇護されていた心越が、恐らくは「新編鎌倉志卷之八」の記事を読んで、実際に当地を訪れて新金沢八景の漢詩を認め、それが現在の八景として定着したものである。「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の記事には以下のようにある(能見堂は本文に後掲されるが、今現在は堂宇は現存せず、跡が残るのみである)。

 

〇能見堂〔附釜利谷 筆捨松 夫婦松〕 能見堂は、稱名寺の西北の山上にあり。里俗はのつけん堂と云。昔し、畫工巨勢金岡、此の所の美景を寫さんとして、あきれて、のつけにそりたる故に、のつけん堂と云ふなり。或は云、風光の美、此の所より不殘(殘らず)能く見ゆる故に、能見堂と云ふ。又云、昔は堂なし。此の地より望めば、瀨戸の海道能く見ゆる故に、能見道と云ふ。又【梅花無盡藏】には、濃見堂とかけり。今の堂は、頃年、久世大和の守源の廣之建立なり。此の西の塩燒濵を、釜利谷(かまりや)と云ふ。能見堂の西の方より、新町(しんまち)の宿へ出づる道あり。此の地、東南は海水にて、眺望窮りなし。富士山・上總・下總・房州の諸峯不殘(殘らず)見ゆ。天下の絶景なり。里民、相傳へて、西湖(さいこ)の八景有と云ふ。洲崎(すさき)の民家連(つらな)りたる所を。山市晴嵐(さんしのせいらん)と云ふ。町屋村の東、平方(ひらかた)の西、塩燒濵(しほやきばま)を、平砂落雁(へいさのらくがん)と云ふ。野島(のじま)の南へ出でたる所ろを、漁村夕照(ぎよそんのせきせう)と云ふ。瀨戸の浦邊(うらべ)をも云ふ。室木(もろのき)の西、瀨崎村(せがさきむら)の前の海上を、江天墓雪(こうてんのぼせつ)と云ふ。野島の南、刀切村(なたぎりむら)の北に、船見ゆるを、遠浦歸帆(えんぼのきはん)と云ふ。釜利谷村の内、手子(てこ)の明神の北、塩屋のある邊を、瀟湘夜雨(しやうしやうのやう)と云なり。其の所に、瀟湘の夜雨松と云ふ松あり。稱名寺の東の出崎、柴崎村の南の邊を、洞庭の秋月と云なり。稱名寺の鐘を、煙寺の晩鐘と云ふ。八景總て能見堂より云なり。鶴が岡鳥居の前より、能見堂まで、關東路十四里あり。

 

ここに出るものが所謂、金沢八景のプロトタイプで、後掲する中国の瀟湘八景の呼称をそのまま用いていて、現在、知られる東皐心越の命名のものとは呼称が異なる。ウィキの「金沢八景」によれば、『金沢の風景の美しさは鎌倉時代から認識されていたが、特に鎌倉後期以降に鎌倉五山の禅僧によって杭州西湖と金沢の風景の類似が指摘された。江戸時代に入り、後北条氏のもと家臣であった三浦浄心が』残した「名所和歌物語」(慶長十九(一六一四)年刊)の中で、中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の瀟湘夜雨(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)・平沙落雁(砂洲に舞い降りる雁)・煙寺晩鐘(清涼寺の夕霧に煙る鐘声)・山市晴嵐(霞に烟る山里)・江天暮雪(日暮れの川に舞う雪)・漁村夕照(夕陽に染まる漁村)・洞庭秋月(洞庭湖上の秋の月)・遠浦帰帆(おんぽきはん:夕暮に帰って来る帆かけ舟。)『にならって金沢の地名を名指したことが金沢八景の最も古い例である。その後も現地比定は流動的であったが、水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧・東皐心越が』、正にこの貞亨二(一六八五)年に版行された「新編鎌倉志」の本項の記載に基づいて、九年後の元禄七(一六九四)年、『山の上(現在の金沢区能見台森)にある能見堂から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえた七言絶句の漢詩に詠んだことで現地比定が方向づけられ』た。『心越禅師の権威と能見堂や金龍院の八景絵図が版を重ねることで普及』、『心越禅師の漢詩によって金沢八景の名は高まり、江戸市民の観光が盛んになっ』て、更に後には『歌川広重を始めとする多くの浮世絵師が名所絵(浮世絵風景画)として描いた』ことで江戸近郊有数の名数として定着することとなった(以下の語注は次の「能見堂」注で再掲して注する)とある。ここまでの部分の注を読んだ私の教え子で、かつてこの金沢の地に住んだことがあり、現在、中国在住のS君が以下の疑義を送ってきてくれた。大変共感出来る内容なので本人の承諾を得て以下に引用する。

   《引用開始》

 金沢八景のウィキの記述において、瀟湘と西湖の取り扱いに慎重さを欠くような気がしました。具体的には『……能見堂から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえた七言絶句の……』の『故郷の』の謂いです。瀟湘八景の瀟湘は、あくまでも湖南省の話であり、西湖とは完全に別物です。西湖に関して言えば「八景」というのは乏しい僕の経験では聞いた覚えがありません。西湖はやはり「十景」です。瀟湘八景も西湖十景も宋代以来の長い歴史を有する概念で、画題としての瀟湘八景は当然知っていたでしょうし、杭州西湖の永福寺にいたという心越にとって西湖の記憶は鮮明だったであろうとは思われますが、果たして心越が実際に湖南の方を親しく訪れたことがあったかどうかは不分明です。但し、ここは明らかに「八景」を意識して名勝を定着させてはいます。従って僕としては、ウィキの記載の『故郷の』を『故国の』と変更したい気がします。

 因みに瀟湘八景と西湖十景では話の規模が違います。西湖の風景のスケールを日本のどこかに例えるなら、山中湖といったところ(両者ともに大きさ二~三キロ四方と同程度です)。その程度の面積の湖(しかも水深はせいぜい三~四メートルしかない)の周囲を、京都嵯峨野の情趣で包み込んだ、とでも言うべきものでしょうか。

 一方、湖南はもっとスケールが大きい。僕は日本で例えるべき景致を知りません。そもそも瀟湘八景の八景は、湖南省中の二百~三百キロメートル四方の範囲に散在しています。これはちょっと日本人には想像することが難しい。あえて例えれば、近畿地方に点在する八つの名勝とでもいうくらいの大きなスケールです。(お遊びで僕なりの近畿八景を作ってみました。京洛夜雨、近江落雁、南都晩鐘、熊野晴嵐、淀川暮雪、大津帰帆、葛城秋月、由良夕照……笑止、笑止)。

   《引用終了》

ここでS君の示してくれた「西湖十景」は以下の通りである。

 断橋残雪

 平湖秋月

 曲院風荷

 蘇堤春暁

 三潭印月

 花港観魚

 南屏晩鐘

 雷峰夕照

 柳浪聞鶯

 双峰挿雲

一応、瀟湘八景(前)と対応する金沢八景(後)の名数を示しておく。

 瀟湘夜雨   小泉夜雨

 平沙落雁   平潟落雁

 煙寺晩鐘   稱名晩鐘

 山市晴嵐   洲崎晴嵐

 江天暮雪   内川暮雪

 漁村夕照   野島夕照

 洞庭秋月   瀨戸秋月

 遠浦帰帆   乙舳歸帆

 

「眺矚」眺望。

「締搆」「結構」と同義であろう。景観。

「雅潔」優雅且つ清澄という謂いか。

「一矚暸然」一目瞭然に同じい。

「譍」応える・答える。

「一沙彌」これは東皐心越のことであろう。

「千里の鏡」如何にも道教の仙術めいた、千里(但し、中国での単位なら四〇〇キロメートル)の遠い先をも易々と映し出し、言葉を発する神鏡なのであるが、事実は望遠鏡。但し私は、恐らくは画題として知られる「千里の」彼方の湖南省の瀟湘八景をここに「移す(映す)」という謂いをも含んだものではなかろうかと読む。

「喋々」頻りに喋るさま。

「指説」指さしてはあれこれ言うこと。

「箏柱下上」琴柱が並ぶように上下に連なって見えるもの。

「鯨吼殷々」ある音が轟き渡ること。

「舂容」力強い音、また、大きく且つメロディアスな声。

「底止」行きつくところまで行って止まることで、余韻が完全に消えることをいう。

「烟靡雲颺」霞が棚引き、雲が高く舞い上がること。

「烟蒼水明」月光に霞が青白く輝き、澄んだ海も美しく輝いて見えること。

「鳧」チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus 。草原や畑地の外、水田・河原・干潟などにも多く見られる。参照したウィキの「ケリ」によれば、全長約三十四 センチメートルで『雌雄同色。くちばしは短く、黄色で先端が黒い。足は長くて黄色。目は赤橙色で黄色のアイリングがある。また。嘴の付け根には黄色い肉垂がある。雌雄同色』。『翼の小翼羽付近には爪があり、爪の大きさや色から雌雄の見当をつけることができる。成鳥の夏羽は頭部から胸上部が灰青色で、体上面は灰褐色で、体下面は白い。胸上部と体下面の境目には黒い胸帯がある。翼は先の方が黒く、基半部は白色と灰褐色で、飛ぶときこれらのコントラストが目立つ。尾は白色で黒い帯が入る。冬羽は頭部からの灰青色がやや褐色を帯びている。雛は淡褐色の綿羽に覆われている。若鳥は頭部からの胸部にかけて灰色でやや褐色を帯びる。胸帯は薄い。また目は褐色で、アイリング・肉垂とも小さく目立たない』とあり、『食性は主に動物食で、昆虫類、ミミズ、カエルなどを捕食する。稀に穀類も食べる』繁殖期は三月から七月で『巣は水田内や畦などの地面に藁を敷き作る。よって農作業による影響が著しく大きい』。『非常に警戒心が強く、テリトリーにトビやカラス、人間などの外敵が近付くと、鳴きながら激しく威嚇し、追い払う。その為、夜でも鳴き声が聞こえてくる場合がある』。『甲高い声で鳴き、「キリッ、キリッ」、「ケリッ」、「ケケッ」というふうに聞こえる。この鳴き声からケリという名がついたといわれる』とある。但し、ここも遙かな眺望であり「如」で分かる通り、帰帆の遠景を鷺や鳧に比喩したものである。

「舂く」「舂」は「衝」(つく)に通ずる。動く。

「螻蟻」ケラとアリ。転じて虫けら。小さくて取るに足りないものの譬え。。

「蜿蜒」蛇がうねりながら行くさま。転じて、うねうねと続くさま。

「水を飮む」「虹」は虹龍(雄の龍)であるから、その龍が海に首を突っ込んで水を飲んでいるように見える、と言ったのである。

「帽島」烏帽子島。

「獼猴」大猿。

「猴島」猿島。

「囘汀曲灣」複雑に海浜や椀が曲りうねること。

「綉峙綺錯」「綉」は刺繡の「繡」の俗字、「峙」はそばだつ、又は高い丘の意、「綺錯」は綺麗な模様のように入りまじることであるから、ここはその複雑に彎曲する湾内に聳える岩や崖、その上を覆う美しい緑樹を縫い取りの美に喩えたものであろう。

「目數指屈するに暇まあらず」視認してその美景を指を折って数える余裕すらないほどの佳景の多きを言う。

「壑舟」舟壑とも。物を安全な場所にしっかりと仕舞い込むことの譬え。舟を深い谷底にしまうの意で、「荘子」大宗師篇にある「藏舟於壑(舟を壑に蔵(かく)す)」に基づく語。ここは尽きぬ眺望の感動を心に確かに留めおくことを言うか。

「悵惘」「悵」は傷む・嘆く・恨む、「惘」は悲しみのなどのために心がぼぅっとしてして、ぼんやりするさまであるから、佳景に、心情としてはとても立ち去り難きことを述べるものであろう。

「割愛」ここは愛着の念を断ち切ること。仏語での恩愛や煩悩を捨て去ることも掛けていよう。

 

 次に「能見堂八景」を注する。書き下しや語注は、既に私が鎌倉攬勝考卷之十一附錄」で行ったものをベースとしたが、やや読みや注を増やした。なお、リンク先にはウィキ「金沢八景」にあるパブリック・ドメイン画像を用いて、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図を配し、彩りを添えるとともに往古を偲ぶ縁とした。未見の方は、お薦めである。

   ※

    洲崎晴嵐

滔々(たうたう)たる驟浪(しゆうらう) 餘暉(よき)を歛(ねが)ひ

滾々(こんこん)たる狂波 竹扉(ちくひ)を遶(めぐ)る

市後(いちご) 日斜めにして 人 静悄(せいしやう)たり

行雲流水(かううんりうすい) 自(をのづか)ら依依(いい)

 

「餘暉」は夕陽余暉で残照のこと。

「静悄」は静か。

「依依」は名残おしく離れがたいさま、恋い慕うさま。

 洲崎の夕暮れの光の中、潮と風が力強くその静かな洲崎の漁村を経巡っている景に、まさに文字通りの空を行く雲や流れる水、そのように一事に執着せず、自然のままに行動するの謂いの禅語「行雲流水」(「宋史」の「蘇軾伝」に基づく)を配した。

   ※

    瀨戸秋月

淸瀨(せいらい) 涓々(けんけん)として 舟を繫がず

風は 虛籟(きよらい)を傳ふ 正中の秋

廣寒の桂子香(けいしかう) 飄(ただよ)ふ處

共に看る 氷輪の島際(たうさい)に浮ぶを

 

「涓々」は水がちょろちょろと流れるさま。

「虛籟」は梢を抜けて淋しい音を立てる風の音か。

「正中の秋」ここは秋のただ中の意であろう。

「桂子香」は双子葉植物綱マンサク目カツラ科カツラCercidiphyllum japonicum の香り。秋に黄色に紅葉し、その落葉は甘い香りを放つ。

「氷輪」冷たく輝く月。]

   ※

    小泉夜雨

暮雨 淒凉(せいりやう)として 夢に亦 驚く

甘泉 洞々として 聽きて 分明たり

蓬窓(はうさう)に 淹蹇(えんけん)として 相ひ識る無く

腸(はらわた)を斷つ 君山鐡笛(くんざんてつてき)の聲(こゑ)

 

 本詩のロケーションは現在の金沢区釜利谷南にある手子神社とされるから、この「甘泉」もその附近に湧き出る泉水であると仮定してよいであろう。

「淒凉」は凄涼に同じい。慄とするほどもの寂しいさま。

「蓬窓」は蓬の生い茂る貧しい家。

「淹蹇」は、私は、すっかり激しくびしょ濡れになって、の謂いと解する。

「君山鐡笛の聲」は、宋代の詩人衰忠徹の「張秋塘の畫龍に題す」の、

何當置我君山湖上之高峰

聽此老翁吹織笛

  何か當に我を君山湖上の高峰に置き

  此の老翁の鐵笛を吹くを聽くべき

を踏まえるか。これは画龍点睛の故事を本にしたもので、老翁とは画中の龍で、龍が鉄笛を吹くというのは、雨音の雲を穿って石を裂くが如き音を以って龍の鳴き声に比したものと思われる。

   ※

    乙舳(おつとも)歸帆

朝宗(てうそう) 萬派(ばんぱ) 遠く天に連なる

恙無(つつがな)く 輕帆(けいはん) 日邊(につぺん)に掛かる

欵乃(あいだい)高歌 雲外に落ち

依稀(いき)たる數艇 洲前(しふぜん)に到る

 

「朝宗」は原義は「朝」は春、「宗」は夏、それぞれの二期に古代中国で諸侯総てが天子に拝謁したことを言い、恐らくはそこから転じて、多くの河川がみな海に流れ入ることとなった。

「万派」の「派」も川の流れの意。

「日辺」太陽の辺り。ここは夕刻であるから、水平線に無事、帰帆の船影の見えたことを言う。

「欸乃」は「あいない」とも読み、漁師が棹をさして漕ぎながら歌う舟歌のこと。前に注したように底本は「款乃」に誤る。

「依稀」は微かに見えるさまを言う。

   ※

    稱名晩鐘

夙昔(しゆくせき)の名藍(めいらん) 成覺(じやうがく)の地

華鐘 晩に控(たた)くに 鯨音(げいいん)のごとし

幽明にして 聞く者 咸(みな)して悟りを生ず

一片の迷離 祇樹(ぎじゅ)の林

 

「夙昔」は昔から今までの間。以前から。宿昔。名藍「咸」は「みな」(皆)と読む。

「名藍」名刹の伽藍。但し、当時の称名寺は甚だ衰亡していた。

「成覺」「覺」(かく)は涅槃の理を悟った上での智慧、菩提を言うから、嘗て修行場として名高かった称名寺の地をかく称したものであろう。

「咸」皆。悉く。普く。

「迷離」は原義はちらちらと散乱すること、また、迷って離散すること、ぼんやりすること、模糊の意であるが、それでは意味が通らない。ここは転句を受けて、一片の迷いが雲散霧消するの謂いで採りたい。

「祇樹」は祇園精舎の樹林。

   ※

    平潟落雁

列陣 冲冥(ちゆうめい)にして 塞(さい)に入るに堪ゆ

荻蘆(てきろ) 蕭瑟(しようしつ)として 幾(いくばく)か隊を成す

飛鳴宿食(とみやうしゆくしき) 棲遲(せいち)を恁(おも)ふ

千里 書を傳へて 誰(たれ)か愛せざる

 

「列陣」雁の群れ。

「冲冥」暗いこと。起句は、暗くなったから、塒に戻らんと懸命に疲労に堪え、飛び行く雁の群れを描くか。

「塞」塒(ねぐら)。

「蕭瑟」秋風の寂しく吹くさま。

「幾か隊を成す」潟のオギやアシが、三々五々、吹く秋風の淋しさに身を寄せるように群れをなして揺れ動くさまを言う。

「飛鳴宿食」鳥の生態である、飛ぶ・鳴く・宿る(羽を休める)・食べる(餌を啄む)の四つの姿態をいう。因みに本邦室町期の屏風絵に鳥を描く際には、この四つを描くことが求められたという。

「棲遲」は世俗を離れて閑適の生活を送ること。

 結句は蘇武の雁書の故事に基づく感懐であろう。ここ、亡命者であった心越の思いが重なる部分である。

   ※

    野島夕照

獨羨(どくせん)の漁翁 是れ 家を作る

竿を持ち 漿を盪(あら)ひて 日 西に斜めなり

魚を網し 得て來りて 酒を沽(か)ひて飮む

蓑を披(かぶ)りて 高臥し 任(ほしいまま)に誇るを堪ゆ

 

「獨羨」独り羨むところの。

「漿」は濃い液状のものを指すから、漁を終えて溜まった魚籠びくや船底の溜まり水を言うか。

 この句はもう、柳宗元の「江雪」の隠者「孤舟蓑笠翁」のインスパイアである。

   ※

    内川暮雪

廣陌(くわうはく)たる長堤(ちやうてい) 竟(つひ)に潛(ひそ)かに没す

奇花 六出(りくしゆつ) 絹を鋪くに似たり

渾然たる玉砌(ぎよくせい) 山河の色

遍へに危峰を覆ひ 些尖(しやせん)を露はす

 

 別に承句を「似」とするものがあり、それでも「以て絹を鋪(し)く」と読んで意味は通じる。

「廣陌」広い道。

「六出」六弁の花の形に似るところから雪のことを言う。六花。六出花。

「玉砌」は原義は玉で出来た階段、そこから豪華な宮殿などを言うが、ここは冠雪した山々を階(きざはし)に見立てたものであろう。

「些尖」わずかに尖った形という意であろう。

   ※

 以下、後書。

 

武州金澤、擲筆山(ちやくひつさん)能見堂、潚湘八景の風味有り。因りて「鎌倉志」を觀るに甚だ詳らかにして、一夕、寥々として靑燈に對し、漫(そぞ)ろに八景の陋句(ろうく)を賦す。以つて斯くなる勝境を識れりと云々。歳、執除の夏日。

               東皐越(とうこうえつ)杜多(づだ) 艸す

 

「擲筆山能見堂」この山号の由来は「能見堂」の条で明らかにする。

「風味」同様の味わいを持った景観の謂い。

「鎌倉志」「新編鎌倉志卷之八」

「寥々」もの寂しきままに。

「靑燈」書物などを読むときの灯火。繁華街の華やかな「紅燈」(こうとう)の対語。

「執除夏日」は恐らく、底本の「執徐」の誤植ではないかと思われる。執徐とは六十年周期の干支による干支紀年法の内、太歳紀年法と呼ばれるもので「辰」に相当するが、日本の暦法とは異なる。本詩群が詠まれたのは本邦の元禄八年乙亥(きのとい)(西暦一六九五年)である。

「杜多」頭陀に同じい。衣食住に対する欲望を払いのけるという原義が転じてあらゆる煩悩を払い去って仏道を求めること。また、そのために托鉢して歩くことから、その僧自体を指す語となった。]

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