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2014/08/05

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤案内

  ○金澤の部

    ●金澤案内

金澤は武藏國久良岐郡(くらきごほり)にあり。横濱より五里許、鎌倉を距(さ)る二里、道路險惡にして、横濱よりすれば、十三峠の難所あり、鎌倉より行かんには、朝比奈の切通しにかゝりて川路を行く、人車あるも殆(ほと)むと通(つう)すべからず、一輛往復壹圓貮拾錢、片道八九拾錢位如何に其險難なるを知るべし、如かず逗子より横須賀に赴き、小舟を雇ふて海路渡航せんには、其間風光絶美なれば、却て趣きあるべし。

[やぶちゃん注:本総説では各段落毎に注を附し、後を一行空けとした。

「久良岐郡」ウィキの「久良岐郡」によれば、古代の郡衙(ぐんが)の比定地は判明していないが、現在の磯子区栗木・港南区笹下・南区弘明寺等が候補地とされているとある。文武天皇四(七〇〇)年頃、藤原京跡から出土した木簡に久良郡の文字が見られ、「続日本紀」に神護景雲二(七六八)年で「武蔵国橘樹郡人飛鳥部吉志五百国於同国久良郡獲白雉献焉」の記述が載るのを文献上の初出とする。承平年間(九三一~九三八年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂した「和名類聚抄」には久良郡八ヶ郷(鮎浦郷・大井郷・服田郷・星川郷・郡家郷・諸岡郷・州名郷・良椅郷)の記述がある。明治一一(一八七八)年、『行政区画として発足した当時の郡域は、横浜市中区、南区、西区、磯子区、金沢区および南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)にあた』り、『行政区画として発足した当時に隣接していた郡は』橘樹郡(たちばなぐん:鶴見区・神奈川区全域と西区保土ケ谷区港北区の一部及び川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区全域と麻生区の一部を含む郡。)・鎌倉郡・三浦郡とあるが、『古代の郡域はさらに北の鶴見川まで広がっていた』と考えられている。『現在は、中村川と堀割川の分岐点の久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめる』とある。

「五里」一九・六キロメートル。

「二里」七・八五キロメートル。

「十三峠」現在の神奈川県横須賀市の旧国道四十五号(現在は廃道)にあった峠。横須賀市の北西部にある長浦町の谷戸の最奥部に位置するが、峠を越える道は尾根筋を通り、西の田浦(現在の田浦町二丁目)の谷戸と東の逸見(現在の西逸見町三丁目)の谷戸とを結ぶ。元の浦賀道であり、明治から大正にかけては国道に指定されて、程ヶ谷(保土ヶ谷)と浦賀、また明治以降は横浜と横須賀とを結ぶ幹線道路ではあったが、田浦・逸見の両谷戸から尾根筋への登り坂が極めて急峻であったことから、荷車等の通行は困難であった。そのため、昭和三(一九二八)年に田浦―逸見間の海岸沿いにトンネルで通り抜ける道路(現在の国道十六号)が開通すると幹線道路の地位を完全に失った、と参照したウィキの「十三峠 (横須賀市)にある。十三峠自体は現在の横浜横須賀道路の横須賀IC附近(金沢八景六キロほど南南東)であるが、ここはそこに代表される難路ということであろう。

「川路」侍従川。]

 

横須賀停車場に到らば、右に五六町歩め、其間長き隧道(トンネル)あり、隧道を出づれば、漁師町ありて、こゝに吉倉(よしくら)と呼べる船宿あり船賃は一名八錢、五名以上の乘客(じやうかく)を得れば、何時(なんどき)にても舟を出すべし、四拾錢を奮發(はづ)めば、一艘を買ひ切ることも容易なり。此の海は横須賀の軍港なれば、灣口軍艦の碇泊(ていはく)するもの幾艦(いくそう)水雷艇あり、水兵の操練を見るも快、左右峭岩倒立する所、以て船を通すべし、舟子が繰つる帆綱のおもしろかるに、岩は自然の屏風を作り、怒濤の餘勢其隙間(げきかん)に亂入して、雪沫激騰し壯快いふべからす、遠く房の鋸山、總の鹿野山を望み、巖礁の散布する處、白鳥の飛交ふもおもしろく、舟愈(いよいよ)進めば、風景愈佳なり、夏島を右に見て、烏帽子岩の下を過き、金澤に入る、所謂る八景とはあれかこれかと指さゝるゝこそ心ゆく限りなれ、野島は近かし、正覺院、善應寺の社(やしろ)も見ゆるに、野島館(のじまくわん)といふ旅亭あり、内海波は穩やかに漣(さゝなみ)よせて只(たゞ)靑むしろ、干潟には漁夫の海藻をとるさまなど、珍らかに見送りて左に室木の村落炊煙のぼる處、大寧寺の伽藍、この邊りを過ぎて、舟は靜かに帆を捲いて進む、遙かに見ゆるは瀨戸の明神、琵琶島の辨財天すら指さゝるゝ、船の歩み益(ますます)緩(くわん)なり、瀨戸斷橋の傍らに纜(ともづな)を繫ぐ。舟を捨て岸に上る、旅亭あり、土地に名高き東屋なり、瀨戸橋は洲崎と瀨戸の間に、懸けわしたる橋なり、中間に土臺を築き、南方に橋をかけたり、故に瀨戸の断橋の名あり。瀨戸橋を西に渡れば、また旅亭千代本あり、層樓海に面し、風雅なるが多し。

[やぶちゃん注:「五六町」五四五~六五四メートル強。

「隧道」現在の逸見隧道及び新逸見隧道の間にあった旧吉倉隧道のことと思われる。明治二二(一八九二)年起工、明治二十四年四月に竣工した。参考にした私が秘かに愛好しているヨッキれん氏の廃道サイト内の「隧道レポート 吉倉隧道」をご覧あれ。十三峠のあった旧国道からの変遷図も嬉しい。

「瀨戸橋は洲崎と瀨戸の間に、懸けわしたる橋なり」はママ。脱字ではあるが、「懸けわたしたる橋なり」か「懸けかわしたる橋なり」か不明なため、ママとした。

「鋸山」房総半島南部、現在の千葉県安房郡鋸南町と富津市の境にある標高三二九・四メートルの山。

「鹿野山」は「かのうざん」「かのさん」と読む。千葉県君津市にある房総丘陵の一角を成す千葉県で三番目に高い山で、上総地方の最高峰。鹿野山とは、白鳥峰(東峰三七九メートル)・熊野峰(中央峰三七六メートル)・春日峰(西峰三五二・四メートル)の三峰の総称(ウィキの「鹿野山」に拠る)。

「夏島」現在は埋立てによって島としては消滅した。名の由来は「鎌倉攬勝考卷之十一附録」によれば、『玄冬に至りても此島に雪つもらず。ゆへに夏鳥と名附く』とある。伊藤博文は最重要機密として保守するため、この孤島に作った夏島別荘に籠って日本帝国憲法を起草している。

「烏帽子岩」やはり現存しない。佐久間則夫氏の「秋水プロジェクト」の「夏島・貝山海軍地下壕周辺遺跡」(地図によって烏帽子島の位置も明確に分かる)によれば、烏帽子島は追浜の海浜にあったが大正七(一九一八)年に『海軍航空隊の建設にともなう飛行場敷設のために切り崩され消滅した』。失われた烏帽子島は標高十五メートル、周囲二百メートルの烏帽子形の小島で、『対岸の夏島と対をなし風光明媚な場所であった』と記しておられる。横須賀市追浜地区広報HP「おっぱまタウン」の「烏帽子島と夏島」(http://www.oppama-town.com/history/A012.htm)で明治四十年代の写真が見られる。]

「正覺院」「善應寺」孰れも廃寺であるが、現在、横浜市金沢区野島町、野島のほぼ中央位置にある古義真言宗御室派野島山染王寺と関係がある。小市民氏のサイト「小市民の散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 野島コース」』の「染王寺と筆子塚」によれば、

   《引用開始》

 野島山染王寺は、真言宗御室派に属し、本尊は聖観音菩薩立像です。

 貞享2年(1685)の「新編鎌倉志」は「善応寺」と記していますし、「善王寺」と表記した史料もあります。現在は染王寺と書きますが、土地の人は「ぜんのうじ」と呼んでいます。「武蔵風土記」には「この寺は、もとは野島の山頂にあったが、南方からの強風を受けて堂舎を破損したため、山麓の現在地に移った、山頂には今でも善応寺屋敷の地名が残っている」と寺伝を記しています。また、同書には、「現在の本堂は約六間(約10.8メートル)と五間(約9メートル)、本尊の観音は約八寸(約24.24センチ)ほどの立像だが、昔は愛染明王が本尊だったのであろう、火災に遭って改めたものだ」とも伝えていますから、寺号もこのときに変更されたのでしょう。

 寺伝によると、開山の僧・源朝は永禄9年(1566)3月17日寂、とあるので、そのころの創建とされていますが、境内の墓地の入り口には、高さ73.5センチほどの古びた宝篋院塔があり、安山岩の基礎石正面には「比丘尼角意、永徳二年六月十八日」と刻まれています。永徳は北朝の年号で、南朝の弘和2年(1382)ですから、寺の創建は源朝開山の伝えよりも200年近くもさかのぼるかもしれません。ただし、角意という尼僧と染王寺との関係ははっきりしていません。

 野島には染王寺のほかにも夕照山正覚院や円明院という寺院があって、いずれも洲崎町龍華寺の末寺でしたが、円明寺は早くから廃寺となり、正覚院の過去帳の一部などが染王寺に伝えられています。

 染王寺は、金沢札所第八番であるとともに、新四国東国八十八所霊場第七十七番にもなっています。

   《引用終了》

とある。この内容からは「正覺院」「善應寺」は孰れも江戸時代に廃寺となっているように思われ、どうも『風俗画報』の筆者は少なくとも本寺については実地検証をせずに、恐らくは維新以前の古い地誌によってこの部分を極めて安易に記してしまったものの如く感ぜられる。

「野島館」本文に後掲。

「室木」現在の平潟湾を挟んだ野島の対岸、夕照橋(ここも現在、同地区)の陸側の室ノ木地区。神奈川県の「タウンニュース」金沢版の『かねさわ地名抄 第31回「室ノ木」』によれば、現在のこの一帯は『江戸時代までは逗子方面から野島に向かって続く丘陵が海に突き出した半島(岬)で、半島の先の地域が「室ノ木」で』、『明治期以降の埋め立てと軍用地化により周辺の景観は変貌。太平洋戦争時には海軍航空隊追浜飛行場の延長として大規模な削平工事が行われたため、住民は四散し、当時のものは残されてい』ないとあり、『室ノ木の鎮守は「熊野権現社」で、境内にあったムロノキが地名の由来と言われ』、かつては『その参道入口に観音堂があり「室木庵」と称』されて、金沢三十四観音の第九番札所となっていた。『江戸時代後期には山頂に「四望亭」という展望台があり、また半島の先端部の断崖を天神崎と呼び、天神の祠が置かれ観光名所』で、『この付近一帯は「雀ヶ浦」と呼び「雀ヶ浦の一つ松」などの名木』もあったが孰れも現存しないとある。最後の記載で、昭和一一(一九三六)年に横浜市に編入されるまでは久良岐郡六浦荘村字三分の小字で、現在は六浦町東一丁目東端と、そこに隣接する横須賀市追浜本町二丁目付近がここでいう室ノ木に相当することが分かった。

「大寧寺」本文に後掲。

「瀨戸の明神」本文に後掲。

「琵琶島の辨財天」平潟湾に浮かぶ琵琶の形をしていたと伝わる周囲六十メートル足らずの小島。参照したウィキの「琵琶島」によると、『北条政子が琵琶湖竹生島の都久夫須麻神社から弁財天を勧請した琵琶島神社(琵琶島弁財天)があり、陸から伸びた参道と小橋で結ばれている』。『平潟湾の風景は「平潟落雁」(ひらかたのらくがん)として金沢八景の一つであったが、琵琶島や琵琶島神社は近江八景「堅田の落雁」の浮御堂のようには特筆されてはいない』。次の段にこの由緒は載る。

「辨財天」は本文に後掲。

「瀨戸斷橋」瀬戸橋。本文に後掲。

「東屋」本文に後掲。

「洲崎」本文に後掲。

「瀨戸」本文に後掲。

「瀨戸橋は洲崎と瀨戸の間に、懸けわしたる橋なり」はママ。脱字ではあるが、「懸けわたしたる橋なり」か「懸けかわしたる橋なり」か不明なため、ママとした。

「千代本」本文に後掲。]

 

神社あり、瀨戸明神といふ、源賴朝の勸請なり、境内老樹深鬱日光を洩らさず、社前の海中に島あり、天女の祠を安ず、賴朝公の御臺所平政子、江州竹生島の辨財天を勸請せられしとなり、辨財天へ詣すべき橋の東の下、千代本の傍に巨石の横はれるを福石といふ、直路は鎌倉道にて六浦に出づ、六浦には、天照姫が松葉にてふすべられし時、身代りに立ちしといふ觀世音あり。六浦の南は三艘浦、昔唐船三艘此處に着く、故に名くと、瀨が崎を望む。

[やぶちゃん注:「福石」せお離都氏のサイト「山陰・但馬の小さな村から・・・・・」内の神社探訪ページの「ふるさと横浜・横須賀の神社 瀬戸神社」によれば、『源頼朝が瀬戸神社参拝のおり、平潟湾の水で禊をしたときに衣服をかけた石で服石と呼ばれるようになったという』。『また、この石の前でものを拾うと裕福になるといわれ「福石」と呼ばれるようになった』と由来を記しておられる。

「天照姫が松葉にてふすべられし時、身代りに立ちしといふ觀世音あり」「新編鎌倉志 卷之八」に、

 

○專光寺 專光寺は、光傳寺の東の方にあり。日光山と號す。淨土宗、金澤町屋村天照寺の末寺なり。本尊觀音、春日が作。是れ照天姫(てるてひめ)が守り本尊なり。ふすべられし時、身代(みがはり)に立しと也。三十三年に開帳す。

 

とある。この寺は現在の金沢区東朝比奈にある日光山千光寺と考えられるが、現在位置は光伝寺の南西一キロ弱の位置にある。調べてみると昭和五十八(一九八三)年に六浦の川地区と呼ばれる光伝寺の東域から、この位置に移転していることが分かった。また、同巻には、

 

〇照天姫松 照天姫松(てるてのひめまつ)は、瀨戸橋の北に當て、西の岸より出崎に、一株の松あり。里人の云く、照天姫(てるてのひめ)を、ふすべし時の松の木の跡、故に姥(うば)が燒(た)きさしの松とも云。照天姫幷に小栗(をぐり)が事、世俗云傳ふる説たしかならず。今按ずるに、【鎌倉大草子】に、應永卅年癸卯春の比より、常陸國の住人小栗孫五郎平滿重と云ふ者有て、謀反を起し、鎌倉の御下知を背きける間だ、源の持氏、御退治として御動座なさる。結城の城まで御出で、同八月二日より、小栗の城をせめらるゝ。小栗兼てより、軍兵數多城より外へ出し、防ぎ戰ひけれ共、鎌倉勢は、一色(いつしき)左近の將監木戸内匠(たくみ)の助、先手(さきて)の大將として、吉見伊與の守・上杉四郎、荒手にかはりて、兩方より攻め入ければ、終に城を攻め落され、小栗は行方不知(知れず)落ち行けり。後に忍んで三州へ落行けり。其子小次郎は、ひそかに忍て關東に有けるが、相州權現堂と云所へ行きけるを、其邊の強盗共集まりける所に宿(やど)をかりければ、主の申すは、此浪人は、常州有德仁の福者のよし聞く。定めて随身の寶有べし。打殺して可取(取るべし)由談合す。去りながら、伴なる家人共有、いかゞせんと云ふ。一人の盗賊の申すは、酒に毒を入れ呑ませ殺せと云ふ。尤もと同じ、宿(しゆく)々の遊女共を集め、今樣などうたはせ、躍り戲ふれ、彼の小栗を馳走の體にもてなし酒をすゝめける。其の夜の夜酌に立ける照姫(てるひめ)と云ふ遊女、此の間だ小栗に逢ひなれ、此の有樣をすこし知りけるにや。自らも此の酒を不呑(呑のまず)して有けるが、小栗を哀れみ、此の由をさゝやきける間だ、小栗も呑のむ樣やうにもてなし、酒を更にのまさりけり。家人(けにん)共は是を不知(知らず)、何れも醉(ゑ)い伏してげり。小栗は、かりそめに出る體(てい)にて、林(はやし)の有る間だへ出て見ければ、林の内に鹿毛(かげ)なる馬をつなぎて置けり。此の馬は、盗(ぬすびと)共海道中へ出、大名往來の馬を盗み來りけれ共、第一のあら馬にて、人をもくひふみければ、盗共不叶(叶はず)して、林の内につなぎ置けり。小栗是を見てひそかに立ち歸り、財寶少々取り持て、彼の馬に乘り、鞭を進め落行けり。小栗は無雙の馬乘(むまのり)片時の間に藤澤道場へ馳せ行、上人を賴みければ、上人哀み、時衆(じしゆ)二人付けて三州へ送らる。彼の毒の酒を呑みける家人并に遊女、少々醉ひ伏しけるを、河水へ流し沈め、財寶をも尋ね取り、小栗をも尋ねけれ共無かりけり。盗(ぬす)人どもは其の夜に分散す。酌に立ける遊女は、醉ひたる體(てい)にもてなし伏けれども、元より酒をのまざりければ、水にながれ行き、河下より匍ひ上り助かりけり。其の後、永享の比、小栗小栗、三州より來て、彼遊女を尋出し、種々の寶を與へ、盗人(ぬすびと)を尋ね、皆誅伐しけり。其子孫は、三州に代々居住すといへりとあり。今爰に云傳へたる照天姫(てるてのひめ)は【大草子】に所謂(謂は所る)照姫(てるひめ)が事か。小栗が名を、世俗には兼氏と云。【大草子】には名を不記(記せず)。小次郎とばかりあり。【小栗系圖】を考ふるに、孫五郎平の滿重、其の子助重と云者あり。助重は則ち小次郎歟。

ともある。現在は姫小島跡(瀬戸神社に近い現在の金沢地区センター附近の姫ノ島公園内)がこの「照天姫松」旧跡とされている。

 「照天姫」伝承は、中世後期に「小栗判官(おぐりほうがん)」伝説として発生、後に説経節・浄瑠璃・歌舞伎でブレイクする貴種流離譚の一つであるが、ヴァリエーションが多い。とりあえずウィキの「小栗判官」を参照にして粗筋を示すと、モデルは常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)の小栗城城主の小栗助重(応永二十(一四一三)年~文明十三(一四八一)年)で、実際の彼は画僧宗湛(宗丹とも)として知られる。相国寺画僧周文に水墨画を学び、寛正四(一四六三)年には周文の後任として第八代将軍足利義政の御用絵師となり、京画壇の重鎮として高倉御所や石山寺などの襖絵を残す。但し、伝承上の設定は、実際の彼とはあまりクロスせず、『小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ』、八十三歳で亡くなった(実際の助重は六十九歳)とされるものの、異説によっては下って十六世紀頃の人物ともする。『乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされ』るのは、貴種流離譚にありがちな設定である。現在の藤沢市遊行寺(清浄光寺)の長生院(別名小栗堂)に伝わる小栗判官照手姫(表記が「照天姫」とは異なる)の伝承によれば、応永二十二(一四一五)年、『上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上』、相模国に於いて家来十人と潜伏中、『相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘・照手姫を見初め』、横山には内緒で『結婚の約束を交わす』。ところがこの『横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊で』、照手姫も実は彼の子ではなく、元は『上皇や法皇の御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた』のであった。婚約の事実が知れ、横山庄司父子は怒り、『小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛おにかげ」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗』、しかし遂に酒に毒を盛られ、家来もろとも殺されてしまう。『横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来』十一人の遺体も上野原に捨てさせた。『この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける』(一説に侍従川。相模川から六浦では話が合わない。この説では前振りの設定がやや異なるが、照天姫に附いていた乳母の「侍従」という名の女が前出の油堤まで姫の行方を求めて訪ねて来るも見つからず、悲嘆の末にこの川に身を投げたとし、「侍従川」の名もそれに因むとも伝える)。『危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に』その美しさを妬まれ、松の木に縛り付けられて火で炙り殺されそうになるなど(本記載の松はその松)のさまざまな虐待を受けて、果ては『六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが』、あくまで小栗への貞節を守り通すのであった。一方、死んだ『小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし』ミイラのような『異形の餓鬼阿弥の姿となって』、『歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助け』を受け、地車(いざり車)に乗せられて東海道を西に向かうのであった。この大空上人の助力には、次のような謂れがある。『小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち』、「上野原に十一人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れて元の体に戻すために力を貸せ」という夢告があったというのである。『上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった』。『小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが』、小栗の余りの変容に気付かぬ照手姫、小栗の方は活ける屍故に二人は互いの素性に気づかず同行することとなる。『小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する』(本文にはないが、ここで小栗を小栗とは遂に知らずに照手姫とは一度別れるようである)。『小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出』し、かくして二人はようやく夫婦になることが出来た。後、『小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門に』入って、正長二・永享元(一四二九)年に遊行寺境内に草庵を結んだ、とある。以下、引用元には説経節の小栗判官伝説を載せる。『鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になるが、龍神なればこそ七日間も暴風雨が続いた上に、『小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は』十人の家来とともに『照手姫のもとに強引に婿入りする。これを怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓の万屋でこき使われる』こととなる(この千手観音が先に示された「專光寺」(現在の千光寺)本尊千手観音(厳密にはその胎内仏)が姫の身代わりになったとの伝承があるのである)。『一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は小栗と知らずに』五日に渡って大津までいざり車を引き、熊野は湯の峰温泉に辿り着き、四十九日の湯治の末に、小栗の業病は完治、『元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた』とある。引用元によれば、この正本は延宝三(一六七五)年作とされる作者未詳「おぐり判官」に基づくもので、この版行は正に本「新編鎌倉志」版行の翌年というのが、偶然ながら何やらん興味深いではないか。なお、私の電子テクスト「新編鎌倉志 卷之八」には、「江戸名所図会」の「金沢勝槩一覧の図」の「其二」を載せてあるので是非参照されたい(「勝槩」は「勝概」で景勝の意。図の端に「照天姫松」が見える)。それを見ると、どうも「新編鎌倉志」の時代の「照天松」の位置と、江戸末期のそれ(ひいてはそれが現在の姫ノ島公園のそれ)は異なる場所であった可能性があることを示唆しておく。

「三艘浦」京浜急行逗子線六浦駅東方三百メートル付近の侍従側沿い。かつては入り江。「新編鎌倉志 卷之八」に、

 

〇三艘浦〔附瀨ヶ崎〕 三艘浦(さんぞうがうら)は、六浦の南向ひの村なり。昔し唐船三艘此所に着く。故に名くとなり。其時に載せ來りしとて一切經・靑磁の花瓶・香爐等、稱名寺にあり。此東の村を瀨崎(せがさき)と云ふ。

 

とある。]

 

六浦に行かず、左に二三町、寺あり、金龍院といふ、寺の後に高さ一丈餘、廣さ九尺餘ある石あり。飛石といふ、三島明神此石上に飛來たれりと云傳ふ、其後山に登れば眺望尤も佳なり、九覽亭といふ金澤全景を望むを得べし。

[やぶちゃん注:「二三町」約二百十九~三百二十七メートル。

「金龍院」以下は本文に後掲。]

 

稱名寺は金澤文庫の舊蹟にして、東屋(あづまや)より横濱道(みち)を北へ七八町總門あり又二王門を得、門内左右に蓮池(はすいけ)あり、石橋を通ず、橋を渡りて左池の邊に、金澤文庫古地の碑建てり、本堂は草葺にして、右に鐘樓あり、稱名寺の晩鐘八景の一なり。是より能見堂までは一里と稱す。

[やぶちゃん注:「稱名寺」以下、本文に後掲。]

 

能見堂は稱名寺の西北の山上にあり、里俗にはノツケン堂といふ、眺望第一となす。

[やぶちゃん注:「能見堂」本文に後掲。]

 

金澤の地や、夙(つと)に風景を以て世にあらはる、近江八景に倣ひ、また八景の存するあり、其秀づるものに至りては、彼の右に出づるものあるべし、惜(おしむ)らくは道路險惡にして、都人(とじん)遊ぶもの少なし、望むらくは速かに鉄道支線を敷設し、其開通の日を待て金澤漸く賑やかならむとす、逗子や江の島や、避暑療養には無比の地なるべきも、金澤もまた後來(こうらい)望みを屬(ぞく)すべきの地なり。

[やぶちゃん注:「鉄道支線を敷設」ウィキの「京浜急行電鉄(初めから京浜急行電鉄株式会社であったわけではない。『現在の京浜急行電鉄の元となったのは、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から川崎大師まで標準軌で開通した大師電気鉄道である。同社は日本で三番目、関東では最初の電気鉄道会社であった。創立時には安田財閥が人的・資金で援助したこともあり、そのため現在でも安田財閥の流れを組む芙蓉グループの一員となっている』。昭和一七(一九四二)『年には陸上交通事業調整法に基づく戦時統合により東京急行電鉄(いわゆる大東急)に併合され』るも、昭和二三(一九四八)年『に京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の3社が分離・独立し、現在に至る』とある)の年表を見ると、昭和五(一九三〇)年の二月五日に高輪―横浜間開通、同四月一日に湘南電気鉄道の黄金町―浦賀間と金沢八景―湘南逗子間が開業したとあるから、これが書かれた明治三一(一八九八)年から実に三十二年かかっている。]

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