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2014/08/02

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 別荘

    ●別 莊

絶景なる逗子の海濱、轉(うた)た無二の保養地たるを認めてや近年別莊の新築引續きて起り、先年葉山に御用邸の設けさせられし後は、又一層其の數(すう)を增したり。

 葉山に在るもの

[やぶちゃん注:以下の固有別荘名は底本では二字下げポイント落ち。次の逗子パート内も同じ。底本で数段表示であるが、ここは一段組で示した。]

  有栖川宮御別邸(下山口打鯖)

  北白川御別邸

  細川侯爵別邸(高砂)

  華族秋田家

  高崎男爵(三ケ浦)

  ベルツ氏

  岩倉公爵

  近衞篤麿公

  金手堅太郎氏

逗子に在るもの[やぶちゃん注:一字下げになっていない。]

  華族池田家

  平田東助氏

  德富猪一郎氏

  永井久一郎氏

  岸本辰雄氏

  佐久間貞一氏

  三浦功氏

  軍醫矢野某

  大島貞恭氏

  湯淺次郎氏

  福原資生堂主人

  軍醫菊池某

[やぶちゃん注:「轉た」老婆心乍ら、副詞で、ある状態が益々進行して甚だしくなるさま。いよいよ。ますます。

「先年葉山に御用邸の設けさせられし」現在の三浦郡葉山町にあり、本誌刊行の四年前の明治二七(一八九四)年に設けられた。

「有栖川宮」本誌刊行当時(明治三一(一八九八)年八月二十日)の当主は有栖川宮家最後の威仁親王。今の三浦郡葉山町一色で葉山御用邸の傍(葉山御用邸前の磯は打鯖礒と呼ぶ)。現在は跡地に神奈川県立近代美術館葉山館が建つ。以下、宮家や当時の上流階級には全く興味がないので詳細を知りたい方の検索に供する程度の最低の注に留める。

「北白川御別邸」同じく当時の当主は北白川宮成久王。

「細川侯爵」同じく当代当主は細川護成(もりしげ)。細川 護久(ほそかわ もりひさ)は、肥後熊本藩最後の藩主細川護久長男。

「華族秋田家」同じく当代当主は秋田映季(あきすえ)。陸奥三春藩最後の第十一代藩主。

「高崎男爵」元薩摩藩士高崎正風(まさかぜ)。二条派の歌人で御歌所初代所長、初代國學院院長、枢密顧問官。

「三ケ浦」葉山の港町・脇町・西辻町の地元での地域呼称。

「ベルツ」旧ドイツ帝国の医師エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz 一八四九年~ 一九一三年)。お雇い外国人。一八七六年(明治九年)に東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として招かれ、明治一四(一八八一)年には東海道御油(ごゆ)宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚、明治三五(一九〇二)年の東京大学退官後は宮内省侍医を務め、日本医学界の発展に尽くした。明治三八(一九〇五)年に夫人人とともに帰国。滞日は二十九年に及んだ。彼は偉大な博物学者で日本の近代化に功のあった医師ハインリッヒ・フォン・シーボルトの親友でもあった(ここまではウィキの「エルヴィン・フォン・ベルツ」に拠る)。「ベルツの日記」の編者トク・ベルツは彼の長男。ベルツは医学的見地から海水浴の効能を訴え、大磯や鎌倉・片瀬などの日本最初の海水浴場開設を促し、また、草津温泉の立地とその効能を科学的に評価して温泉治療の有効性を訴えた人物としても知られる。

「岩倉公爵」当代当主は岩倉具視次男(第三子)岩倉具定。

「近衞篤麿」五摂家筆頭の近衛家公爵。貴族院議長、学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。

「金子堅太郎」福岡藩士の子として生まれ、藩学修猷館を出た後、明治四(一八七一)年に団琢磨とともに米国ハーバード大学に留学、帰朝後は伊藤博文を助けて大日本帝国憲法の制定に最も大きな功績を残した。また、ハーバードの学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露講和にも活躍をした。九州大学の誘致や八幡製鉄所の設置などでも功があった(こちらのページに拠る)。

「華族池田家」天城池田家であろう。元岡山藩主池田氏一族で備前天城の領主の家系で、明治二四(一八九一)年に第十一代当主政和が男爵に叙されて華族となっている(ウィキの「天城池田家」に拠った)。

「平田東助」山形県米沢出身の政治家。伯爵。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任、山縣有朋の側近としても有名で、第二次桂内閣において神社合祀を強力に推進した(ウィキの「平田東助」に拠った)。

「德富猪一郎」徳富蘆花の実兄でジャーナリストの『國民新聞』を主宰した徳富蘇峰の本名。

「永井久一郎」(ながいきゅういちろう 嘉永五(一八五二)年~大正二(一九一三)年)は尾張出身。政治家・実業家・漢詩人。アメリカ留学後に文部省に入省、東京図書館長、会計課長を勤め、後に日本郵船の上海、横浜支店長を歴任。永井荷風の実父である(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「岸本辰雄」明治大学の創設者で法学者。

「佐久間貞一」(嘉永元(一八四八)年~明治三一(一八九八)年十一月六日)は実業家。幕臣の家に生まれ、戊辰戦争に参加したが敗敗北、徳川家に従って静岡に移住。保田久成に学んだ後、藩の命令で九州を視察し、天草島民の北海道移住を援助、自らも函館で物産業を営んで成功すた。明治九(一八七六)年に友人らとともに活版印刷所秀英舎(現在の大日本印刷株式会社の前身)を創立、他にも西洋式製版所である生巧館や大日本図書株式会社などの印刷出版関連会社も経営した。それ以外にも東洋移民会社・国民貯蓄銀行などの多くの事業経営に当たった。早くから労働問題への理解が深く、明治十一年に労働者のための徒弟学校を開設、同二十二年には早くも秀英舎で従業員の八時間労働制を実施するなど、労働者の待遇改善や福祉に努力した。労働組合についても直接間接の援助を与え、日本のロバート・オーエン(イギリスの社会改革思想家で協同組合運動の先駆者)。とも称された(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。本誌発刊三ヶ月後に逝去している。

「三浦功」(いさお 嘉永三(一八五〇)年~大正八(一九一九)年)は海軍軍人。運用、航海の大家で海軍士官の目標とされる存在であった。最終階級は海軍中将。参照したウィキの「三浦功によれば、『幕臣三浦彦五郎の長男として生まれ、戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府艦隊の一員として宮古湾海戦を戦』ったが、『明治維新の後、「金剛」副長として西南戦争に従軍、北清事変に功績を挙げ』、さらに『「山城丸」艦長として日清戦争に出征し、旅順口海軍根拠地知港事となるが、三国干渉の結果旅順は清国へ返還となった』。『次いで英国に発注された「富士」回航委員長に選ばれる。「富士」は「八島」とともに日本海軍にとって最初の戦艦であり、明治天皇の建艦詔勅、6年におよぶ官吏の給与一割献納などで建造された』『日本海海戦における主力艦である。運用の神様の異名があった三浦は特にこの任に就いたのであ』った『副長斎藤實少佐が外交交渉などの補佐にあたり』、無事、『スエズ運河を通過し帰国した』。『日露戦争では戦時艦隊集合地港務部長、艦隊附属港務部長として、掃海などに従事。連合艦隊などの安全確保に努め、戦後は旅順口港務部長として同港の整備を行った。この際引き揚げた艦船は340隻におよぶ。「三浦以前に三浦なく、三浦以後に三浦なし」と言われた卓抜した技量の持ち主であった』とある。

「軍醫矢野某」当時の逗子の別荘邸宅用地としての発展に寄与した人物の中に海軍軍医大監矢野義徹なる男を見出すことは出来る。

「大島貞恭」明治初期の兵学寮で西洋式陸軍幹部の養成を手掛けた洋兵学者大島貞薫(さだか)のウィキに、『次男:貞恭(別名に恭次郎、恭二郎。父と共に勤めた京都兵学校では教授方助役。原田一道にも学ぶ。後に陸軍少将)』とある彼か。

「湯淺次郎」政治家・実業家・社会運動家。上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)で味噌醤油醸造業者有田屋を経営する父の長男として生まれ、元治元(一八六四)年に有田屋3代目当主となったが、福澤諭吉の著書を読んで教育の重要性を認識、明治五(一八七二)年、安中に図書館事業の先駆となる私立図書館「便覧舎」を設置、また、同郷の新島襄と親しく交わり、明治一一(一八七八)年には洗礼を受けた。翌年、碓氷郡書記、その翌年の明治一三(一八八〇)年には群馬県会議員となり、明治二六(一八九三)年には群馬県県会議長に就任、廃娼運動の先導役ともなった。安中小学校設立に寄与、新島の同志社や義弟徳冨蘇峰(後妻初子が徳富蘇峰や蘆花の実姉)の民友社のパトロンとなり、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事を務めた(以上はウィキの「湯浅治郎」に拠る)。

「福原資生堂主人」資生堂の創業者福原有信(ありのぶ 嘉永元(一八四八)年~大正一三(一九二四)年)。安房国松岡村(現在の千葉県館山市)の郷士の家に生まれ、幕府医学所、明治維新後の大学東校(現在の東京大学医学部)で西洋薬学を学んだ。卒業後は海軍病院薬局長となったが、その翌年の明治五(一八七二)年、二十三歳で官を辞し、民間初の洋風調剤薬局となる「資生堂」を銀座に開業、当時の日本にはなかった医薬分業を唱えた。明治二一(一八八八)年には日本初の練り歯磨き「福原衞生齒磨石鹼」を、明治三〇(一八九七)年には化粧水「オイデルミン」を発売、後の大正六(一九一七)年には化粧品部を独立させて、今日の資生堂の基礎を築いた(以上はウィキ福原有信に拠る)。

「軍醫菊池某」当時、二等軍医正(中佐相当)で陸軍衛生会議議員・東京衛戍病院長であった菊池常三郎なる人物がいる。本誌発行後の凡そ一ヶ月後の明治三一(一八九八)年十月一日には第四師団軍医部長となっている(ウィキ菊池常三郎を見よ)。彼か。但し、彼と逗子を結ぶ情報は検索では得られなかった。]

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