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2014/08/26

野鶴飛翔の圖   杉田久女

野鶴飛翔の圖   杉田久女

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年十二月二十三日のクレジットを持つ杉田久女の随筆である。年譜記載から見ると、発表誌は『俳句研究』か。これは私の「杉田久女句集」(現在ブログ・カテゴリ「杉田久女」で進行中「鶴の句」群のために電子化した。底本は一九八九年立風書房刊の「杉田久女全集」を用いたが、恣意的に正字化した。末尾に簡単な注を附した。]

 

 野鶴飛翔の圖

 

 山口縣八代村の一夜は月光と霧につゝまれ實に美しかつた。曉方(あけがた)田鶴の飛んで來るのをしきりにまつて私は夜中しばしば起きたのであるが、夜がしらじらあけそめた頃亭前の刈田に疳高い鶴の一と聲をきいた樣な氣がして私はとび起きた。

 障子をあけて露臺に出て見ると、向うの松山から今ねぐらをたつた三羽の鶴が高なきつゝこちらを向いて悠々と飛んで來るのであつた。

 三羽の田鶴は私の佇んでゐる眞上にきてまつ黑い翼をひろげつゝ繪に描いた鶴そのまゝの美しい姿で簷高く旋囘した。

 大空の月を中心に舞ひすみなきすむ三羽鶴をうち仰ぎつゝ佇ちつくす私の魂は恍としてをどつた。

 やがてあとからあとから幾むれかの田鶴が門前の刈田をさして舞ひ下り、四山の山容に谺してしきりになき交した。

 大地も稻城も霜白く、太陽は今東の山から朝霧を破つて日の征矢を盆地にそゝぎはじめ、田の面の稻城はくつきりと紫影を曳いて霜煙をあげてゐた。

 田鶴は尚幾むれも幾むれも舞ひ來り、飛翔しては遠近の刈田にまひ下り、或は日輪のまぶしい光芒の中でさかんに飛翔した。

 田鶴の舞ひ來る數は三羽或は四羽五羽以上、時に數十羽、むれをなしてじつに美しく、翅をかへして舞ひ下りる時その右左にまつ直にのべた翅の表がキラリクキラリと純白に輝き光る樣は誠に美事であつた。

 朝餉をすまして宿を出た私は鶴のむれを見るべく刈田を縱横にひろひ歩いた。

 天氣はよく晴れ渡つてゐた。

 刈田の畔は紅葉し、小川のそばには美事な一株のかれ薄が、純白の穗を風に梳られてゐた。それは丁度お帽子をぬがれた蘇峰翁のお白髮のやうに美しく輝いてゐた。

 私は稻城を出てそろそろと田鶴のむれに歩み近づいて行つた。

 雛鶴をつれて刈田を餌る群鶴は、私の歩み近づくに從つて、しづかに山の方へ山の方へと歩みを移しつゝあつた。

 鶴は山田の邊りに舞ひ下りては谺しつゝなき交す。殊に靑空高く翼をのべ脚をそろへて圓を描きつつ舞ひすむ時の群鶴の姿はたしかに聖代の瑞相であつた。

 まだそれら數十羽の鶴よりも群れを離れて、飛ぶ時も、稻城のかげに餌る時も必ずひとりの歩みの田鶴の姿のみが私の胸にやきつくやうに刻みつけられた。

 四山に谺して寂しげに泣く田鶴の姿を追ふ私の目には涙があつた。

 

 天氣は實に明朗で瑠璃色に透いてゐた。私は數枚のヱハガキを出すべく八代村の人家の方へ歩みを運んで行つた。

 どの家もどの家も數株の菊咲かぬ戸はなく南天は赤い實を房々つけて苔むした庇に茂り、私の歩いてゆく家の向うの刈田にも田鶴がのどかに啼きつゝ舞ひ下りるのを眺めて私のこゝろはいつかまたけふの天氣同樣明るくなつた。

 私は終日八代村の群鶴と親しみ刈田をせうやうとして瑞氣にみちた日の光りをあび暮した。

 中にもかはいゝ雛鶴の中にしきりに餌をあさつてゐる親子の田鶴、數羽の家族づれの睦しい鶴は殊に私の目をひいた。

 田鶴は大空に舞ひ刈田にあそび、稻城に影をおとしつゝ聖代をことほぎ奉るかの如くであつた。

 

■やぶちゃん注

・「山口縣八代村」旧山口県熊毛郡八代村。現在は周南市。ここの八代(やしろ)盆地はツル目ツル亜目ツル科ツル属ナベヅル Grus monacha の飛来地として知られる。ウィキナベヅルによれば、中華人民共和国東北部・ロシア東南部・モンゴル北西部などで繁殖し、冬季になると日本・朝鮮半島南部・長江下流域へ南下し越冬する。世界の生息数はおよそ一万羽と推定されており、全体の九十%近くが鹿児島県出水市で冬を越すとある。全長約九一センチメートルから一メートルで、翼開長は一・六~一・八メートルになる(以下引用では注記記号、改行を省略した)。『雌雄同色。成鳥は頭頂から眼先にかけて黒く細い毛状の羽毛に覆われ、頭頂の羽毛がなく裸出した部分は赤色である。頭部から頸部にかけての羽衣は白い。種小名 monacha はラテン語で「修道士の」の意で、頭部から頸部にかけての羽衣が修道士がかぶっていたフードのように見えることに由来する。体部の羽衣は灰黒色。和名は胴体の羽衣の色が鍋についた煤のように見えることに由来する。三列風切が長く房状であり、静止時には尾羽が三列風切で覆われる。風切羽は黒い。雨覆は灰黒色で、雨覆より風切羽のほうが暗色であるが、飛翔時においてその差は不明瞭である。虹彩は赤または赤褐色。くちばしは黄色みがあり、基部は灰褐色で、先端は淡黄褐色。足は黒か黒褐色または緑黄色』。『沼地、湿原、河口、干潟、農耕地などに生息する。食性は雑食で、植物の根、昆虫、両生類などを食べる。越冬地では、水田の刈跡でイネの二番穂を採食するほか、出水ツル渡来地においては小麦やイワシなども給餌される』。越冬地では、雌雄二羽若しくは家族群として三~四羽(内、幼鳥は一~二羽)でおり、『雌雄が跳ね上がったり、くちばしを上にして鳴き交わしたりする行動が見られたりもする。ときに数十羽を越える群れにもなる。鳴き声は「クールルン」や「クルルー」で、幼鳥は「ピィー」と鳴く。ディスプレイ時には雌雄が「コーワッカ」または「クーカッカッ」と鳴き交わす』。『幼鳥や若鳥は、頭頂に黒色や赤色の斑はなく、頭部から頸部が黄褐色みを帯びており、眼の周りは黒色で、体は成鳥より黒い』。『日本では、ナベヅルは「くろづる」という名前で鎌倉時代より知られており、江戸時代には全国各地に渡来し、『和漢三才図会』などの玄鶴(黒鶴)もナベヅルとされる。明治以降は鹿児島県、山口県などに限られ、現在では、越冬渡来地として鹿児島県出水市の出水平野 (荒崎地区)に集中している。ほかに山口県周南市(旧熊毛町)の八代(やしろ)盆地などが一般に知られている』。『山口県八代のナベヅルは、日本初の禁猟対象として』明治二〇(一八八七)年に『指定され、鹿児島県出水平野と山口県八代盆地のツルは』、大正一〇(一九二一)年に『国の天然記念物に指定された』。現在、「八代のツルおよびその渡来地」として国特別天然記念物。ナベヅルは山口県の県鳥でもある。なお、『主な越冬地である出水平野では他種も含め多数の個体が飛来し過密状態になっていることから、感染症による生息数の激減が懸念されている。そのことから複数の他の地域に、越冬するツル類を分散させることが課題となって』おり、『山口県周南市八代』その他では『デコイが設置されるなど、越冬地を分散させようとの試みも始まっている』とある。Kimura Yoshiki の「ナベヅル山口県周南市八代 2012/11/15動画がある。

・「田鶴」は「たづ(たず)」で一般的な鶴の総称。古くからの歌語でもある。

・「疳高い」底本では「疳」の右に編者によるママ注記があるが、「甲高い」は「疳高い」とも書く。

・「簷」「のき」と訓じていよう(「ひさし」は採らない)。軒。

・「舞ひすみなきすむ」老婆心乍ら、「舞ひ澄み、啼き澄む」で、優雅に落ち着いて舞い、冴えてよく響く声で啼くの謂い。

「稻城」「いなき/いなぎ」と読み、稲束を貯蔵する小屋のこと。ただ、私はこの折りの「鶴の句」の「並びたつ稻城の影や山の月」や「鶴の群屋根に稻城にかけ過ぐる」という句を眺めていると、これは稲城ではなくて稲木(いなぎ)、刈り取った稲を束にして掛け並べて干す柵や木組み(稲架(はさ)・稲掛(いねか)け)のことを指しているように思えてくる。そう読んだ方がロケーションとして遙かによい。

・「蘇峰翁」徳富蘇峰。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、高浜虚子が蘇峰の『国民新聞』(明治二三(一八九〇)年二月創刊)の俳句欄の選者であったことから(明治四一(一九〇八)年には同新聞社に入社し、「国民文学欄」を担当するも、自身の俳誌『ホトトギス』に専念するために二年後に退社した)、蘇峰と親交があった。蘇峰も坪内逍遙・幸田露伴・夏目漱石・森鷗外らと交友して文学への造詣深く、与謝野晶子・吉屋信子などの才媛への援助を惜しまなかった(蘇峰の孫名和長昌氏の談)とあり、恐らくは杉田久女もそうした蘇峰のお眼鏡にかなった才女であったのである。久女は、虚子から一向に句集序文を得られず、『ホトトギス』で全く入選しなくなったことから、虚子に出版許諾の意志がないと知り、蘇峰に句集出版の打診と思われる依頼をしたらしい。その返事と推定される蘇峰の久女宛昭和一一(一九三六)年二月七日附書簡が平成七(一九九五)年に久女の長女石昌子氏によって発見されている(当該書一六三~一六四頁に全文掲載)。実際にその句集出版(この幻の杉田久女句集の当初の題は「磯菜」であった)は原稿も揃っており、蘇峰も出版に好意的であった。しかし、理由は不明ながら、遂に「磯菜」は出版されなかった。しかし、この虚子の与り知らぬところで行われた久女と蘇峰の関係が虚子の耳に入らぬはずはなく、恐らくそれが虚子の逆鱗に触れたであろうことも想像に難くない。この年の十月、突如、久女は『ホトトギス』から一方的に除籍されるのである。

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