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2014/08/31

耳嚢 巻之八 不思議に失ひし子に逢ふ事

 不思議に失ひし子に逢ふ事

 

 文化四年八月十五日、深川八幡祭禮の節、人群集(ぐんじゆ)し大勢永代橋落(おち)て落入(おちいり)し事あり。或る町人の妻娘、並(ならび)に四五才の男の子を連れて祭見物に出(いで)しに、橋落て三人とも水中に落入り行衞不知(しれず)。夫(をつと)並(ならびに)親族どもも手を分(わけ)て所々尋(たづね)しに、妻娘の死骸は出て引取(ひきとり)しが、幼年の男子は死骸も不出(いでず)。海上へも流れ出けるやと、夫は大(おほい)に歎きけれど甲斐なし。然るにあくる五年の夏、右の男子存在にて廻(めぐ)り合(あひ)しとかや。其譯を尋(たづぬ)るに、右大變の折から、神奈川邊の押送(おしおく)り船(ぶね)にて、幼年者流れ來りしを見て取上(とりあげ)、いろいろ養生して息出けれど、いづ方のものにや父母の名もしらず。事靜りて永代最寄へ來りて、かくかくの事にて去年子供を水中より拾ひ上げしが、若(も)し尋る人もありやと、あちこち江戸へ出る度毎(たびごと)に尋しに、夫(それ)と差事(さすこと)もなければ知るべきやうなかりしに、四月のころ彼(かの)男買出し物に出て茶やに休(やす)らいし折柄、神奈川のおし送り船もつきて、かくかくの子を尋る人やなしと、又々居合(ゐあひ)し者へ尋しに、折節彼(かの)親居合て、我等忰(せがれ)其年頃にて去年永代落(おち)し時より行衞不知、もしや御咄しの男子、其(その)者にや、何卒對面致度(たし)と申けるゆゑ、神奈川へ右親まかりしや、又神奈川より連れ來りしや、右の子を見せけるに、まがふ所なければ、親はさらなり、神奈川の者も大きに悦びけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「文化四年八月十五日、深川八幡祭禮の節」「卷之八」の執筆推定下限文化五(一八〇八)年夏の丁度一年前の事故から、執筆時の頃になって意外な展開を見せた出来たてほやほやの都市伝説、というか、これは事実ととってよかろう。「深川八幡」は東京都江東区富岡にある富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の別名であるが、こちらの方が通りがよい。建久年間(一一九〇年~一一九八年)に源頼朝が現在の横浜市金沢区富岡に勧請した富岡八幡宮の直系分社。大相撲発祥の地として知られる。寛永4(一六二四)年に長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の富岡八幡宮の明治二六(一八九三)年の八幡宮明細帳によれば、江戸初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したとの記録が残るという。創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより六万五百八坪に及ぶ広大な社有地があった。八幡大神を尊崇した徳川将軍家の比護を受け、庶民にも「深川の八幡さま」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれて商業地としても重要視された(以上はウィキの「富岡八幡宮」に拠った)。なお、この日付は通常の深川八幡例祭日付としては正しいが、この年の例祭当日、即ち永代橋崩落の起った日付としては誤りである。岩波版長谷川氏注によれば、『この文化四年は雨天のため、十五日が十九日にのびた』とあるからである。現代語訳では正しい日付に訂した。

・「永代橋」深川八幡の西北西一・一キロメートルほどの位置にある隅田川に架かる橋。現在は東京都道・千葉県道十号東京浦安線(永代通り)が通る。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。参照したウィキの「永代橋」によると、『永代橋が架橋されたのは、元禄一一(一六九八)年八月で、第五代将軍徳川綱吉五十歳の賀慶として、現在位置よりも約百メートルほど上流の「大渡し」(深川の渡し)のあった所に、隅田川で四番目に架橋された。『「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある』。『架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ』、長さ一一〇間(約二〇〇メートル)、幅三間余(約六メートル)で、ここは『隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも』三メートル以上残り、『当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る』。元禄一五(一七〇二)年十二月の『赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという』。ところが、財政が窮地に立った享保四(一七一九)年、『幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが』、文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)、深川富岡八幡宮の十二年ぶりの祭礼日(調べてみると現在の当社の例大祭も三年に一度で、恐らく当時は非常に金のかかる大祭はこれだけのスパンをおいて行われていたものらしい)に『詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こ』した。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち』(岩波版長谷川氏注には『真中より深川よりの所三間ほど崩れ落ち』とある。深川寄りは右岸、三間は、凡そ三メートル半)、『後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に』千四百人を超え、『史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が、下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』。

 永代と かけたる橋は 落ちにけり けふは祭禮 あすは葬禮

『なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている』。『事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで』、明治三〇(一八九七)年に道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製トラス橋が現在の位置に架橋された。明治三十七年には『東京市電による路面電車も敷設された』が、『橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後』、大正一五(一九二六)年、『震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された』。『「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は』、ドイツの『ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長』百メートルを超えた橋でもあった、とある。

・「押送り船」帆をあまり使わずに数人で櫓を漕いで進める船。特に獲れた魚類を魚市場に運んでいた沿岸や河川用の早船を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不思議に失踪した子に再会した事

 

 昨年、文化四年八月十九日――この年は大雨で十五日に行われるはずで御座った十二年ぶりの例大祭が十九日に延期となっておった――その深川八幡の祭礼の折り、祭りに集まったる人の、これ、驚くべき群集となって、深川周辺は身動きもままならぬほどに、ごった返し、その大勢が永代橋に乗り掛かったところが、重みに耐えかね、橋が崩落致いて、折から前日までの雨で増水しておった隅田川へと、人々悉く皆、落ち入る、という大惨事が御座った。

 この時、ある町人の妻が娘と四、五才になる小さな男の子を連れ、祭見物に出でて御座ったところが、この橋の崩落に巻き込まれて、三人ともに川中へと落ち入って、そのま行方知れずと相い成った。

 夫並びに親族の者ども、手分けして、所々を尋ねてみたところが、ほどのぅ、妻と娘の死骸は見出だされ、引き取って丁重に葬ったものの、幼年の男の子は、これ、一向に死骸も見出されなんだ。

 沖の方へでも流され出でてしもうたものかと、夫は大いに嘆いたけれども、これ最早、甲斐なく、そのままに時日が流れ過ぎた。

 然るに、惨事より一年も経った、あくる五年の夏、この男の子が、これ、五体満足、存命にて、遂に廻り逢(お)うことが出来たとか申すので御座る。

 その仔細を訊ねたところ――

――かの大災厄の折りから、神奈川辺りを生業(なりわい)と致いておる押し送り舟の水主(かこ)が、幼年の者が舟の近くへ流れ来ったを見出だし、即座に引き上げると、いろいろ介抱致いた。すると暫くして息を吹き返したによって、一体、どこの者なるか、父母の名を質いてみても、ただ、

「……おとったん……おっかたん……」

とたどたどしい口つきで、名もろくに言えぬ。

 この子(こお)が何とか平常を取り戻し、永代橋の崩落の始末も一(ひと)段落した頃を見計らって、旧永代橋の最寄へと参り、

「……かくかくの事のことにて……去年、子(こお)を水中より拾い上げたが、もし! 何方か子(こお)を訊ねておるお人は御座らぬか!?」

と、かの地を中心に、あちこちと、江戸へ出る度毎(たびごと)に訊ねて回って御座ったが、そもそもが、この子(こお)が誰某(だれそれ)と姓だけでもそれと名差して呉れればまだしも、半年近く経っても、未だに、

「……おとったん……おっかたん……」

としか言わねば、これ、知ろうにも知る術がないので御座った。

 ところが、今年元禄五年の四月頃のこと、かの町人、買い出しに出でて、河岸(かし)近くの茶屋に一服して休んで御座ったところ、例の神奈川の押し送り船が丁度、着き、かの水主が、

「……かくかくの子を訊ねておるお人は御座らぬか!?」

と何時もの通り、そこに居合わせた者どもへ訊ねて呼ばわる声が響いた。

 折りから居合わせ、茶屋の縁台にあったかの親の男、

「……我らが倅(せがれ)……今、仰せられたその年頃の者にて御座って……去年、永代橋が落ちた時より行方知れずとなっておりまする!……もしや!……お咄しのその子(こお)は……わ、私の息子では御座いますまいか?!……何卒! 対面致したく存じまするッ!……」

と枯れ声にまでなって叫んだによって――神奈川へまでその親が参ったものか、はたまた、神奈川より水主が男の元へと子(こお)を連れ参ったものかは聴きそびれたが――かの水から引き上げ救うた子(こお)を男に見せたところが――紛う方なく――かの男の倅で御座ったによって――親はもとより、神奈川の水主も、また大きに悦び合った、とのことで御座る。

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