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2014/08/29

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 九覽亭及び昇天山九覽亭之記(後者はネット上初公開)

    ●九覽亭

九覽亭は。金澤灣の西岸。即ち金龍院庭隅(にはすみ)の山上にあり。径路迂餘。半腹に碑文あり。登れは則ち小亭翼然(よくぜん)海に臨む。董堂敬義書する九覽亭幷に梅堂散僊の筆に成れる。聚綠山龕の扁額を掲く。俯瞰すれは。八景指顧の間に在り。其の風光の美なる能見堂と匹敵すべし。客來れは。老媼寺より茶具を携へて到り。茶菓をすゝむ。亦風流なり。江戸名所圖會には。九覽亭跡とあり。然れは今の亭は其の後に建(たて)しものにや。山腹の碑文は左の如し。

    ●昇天山九覽亭之記

九覧亭在ㇾ於武藏國金澤昇天山。距江都十有餘里。歳丁未八月。余弄勝于是山。而山顚之亭曰九覽亭者。今唯存遺址耳。幷其所以名亦莫識者焉。乃班ㇾ荊以臨ㇾ之、時適煙雲開。佳麗之匿點綴連綿。如碁初布然。其尤著者爲洲崎晴嵐。爲瀨戸秋月。爲稱名晩鐘。爲小泉夜雨。爲乙鞆歸帆。爲平潟落雁。爲野島夕照。爲内川暮雪。若夫錯出其間神祠佛宇。島岫怪石舊蹟古樹者。亦盡皆使人應接之不一レ遑焉。是其所三以稱九覽也。歟土人乃加所ㇾ謂八景濃見堂以當ㇾ之。蓋駕説之誤耳。夫九者數夥之詞。九族九合之類。抑□齊桓盟會以史傳所一レ言。亦不ㇾ止九數。則是亭之命名果不ㇾ背古義矣。於ㇾ是呼ㇾ蔎引ㇾ酒又列海羹。一啜一呑或詩或歌。以ㇾ與古人所一レ樂以ㇾ與今人同歡。不ㇾ覺日之將ㇾ沈虞淵。而惟見鯨音之響ㇾ耳〔〕。而歸帆之向ㇾ洲而已。既又矚三月掛橋邊。其景也斯趣也。皥皥洋洋未ㇾ易具狀也。嗚呼金岡生之擲ㇾ筆抑非ㇾ是耶。東皐氏之所ㇾ賞抑非ㇾ是耶。因把ㇾ翰略記其勝槩以贈之曾觀一焉。

嘉永四年辛亥三月上潮

     江都田村愛資撰幷書    朝川麎額

       當山現住王田     窪世舛刻字

                  鬼熊加功

[やぶちゃん注:〔〕は脱落と判断して私が補ったもの。「江戸名所図会」によれば、この主に八景一望の観光目的で建てられたと思しい亭の創建は不詳である。現在は九覧亭跡に聖徳太子堂が建つが、想像以上にしょぼい。景観の方も周囲の木立が伸びていることによるよりも、金沢八景全体の景観が最早一変してしまって、本記載のような展望は全く望むべくもない状態にある(前段でも引いた「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」と、「鎌倉遺稿探索」の「金龍禅院 九覧亭」の現況画像を参照した。但し、その両解説者は「九覧」とは(八景+富士山)のことを指すように書いておられる。それもまた一興ではある。なお、「江戸名所図会」の寺僧の言によれば、『この地の八景に能見堂を加へて見るこころにて、名づけたりとなり』ともある。後者のリンク先では「江戸名所図会」の絵図が見られ(但し、これは丘の頂上ではなく、半腹の平地の景である)、筆者によって判読が試みられているので必見)。

「翼然」翼のように左右に広がっているさま。

「董堂敬義」中井董堂(とうどう 宝暦八(一七五八)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の江戸生まれの書家で狂歌師、戯作者でもあった。名は敬義(たかよし)、狂号は腹唐秋人(はらからのあきんど)。戯作名は島田金谷(かなや)。書は明の董其昌(とうきしょう)に傾倒。大田南畝門下として狂詩集「本丁文酔」(ほんちょうもんずい)、狂歌は大屋裏住(おおやのうらずみ)門下として本町連に属した。洒落本には「狂訓彙軌本紀」(きょうくんいきほんぎ)がある(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「梅堂散僊」幕末明治の書画家で浦賀奉行を勤めたこともある浅野梅堂なる人物がいるが、彼の雅号に「散僊」は見出せない。取り敢えず注しておく。

「聚綠山龕」「じゆりよくさんがん(じゅりょくさんがん)」と読むと思われる。「龕」は仏龕(ぶつがん)で、本来は石窟や家屋の壁面に仏像・仏具を納めるために設けられた窪みや仏壇・厨子を指すが、ここはこの緑を集めた丘の懐ろにある金龍院を龕に喩えたものであろう。

「山腹の碑文」「昇天山九覽亭之記」この碑文は現存する。先の「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」にあるこの写真がその碑である(拡大すると字も見えるが、私の疑義のある部分が草に覆われてしまっていたり、□の字も見えるには見えるものの、不学の私には判読出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである)。また、メタボン氏のブログ「メタボンのブログ」の江戸名所図会挿絵-K222 金龍院飛石」に何かの書籍のこの石碑の写真が載り、『この登り坂の途中に石碑が有る。「昇天山九覧亭記」とある。嘉永4年(1851年)の年号が刻んである。田村資愛の文で、九覧亭からの眺望をほめている』(改行を省略した)とある。ネット上にも情報は皆無、識者の御教授を乞うものであるが、この私のテクストは従って初めて電子化されるものと思われる。以下、我流で書く下してみる。なお、一部の漢字は判読がし難く、推測で字を当てたものもあることをお断りしておく。また、返り点の一部に従えない部分(訓読出来ない箇所)があり、その通りには訓読していないので悪しからず。読みも私の感覚で附してある。訓読に際しては、私の杜撰な最初の読みを、いつも世話になっている中国語に堪能な教え子T.S.君が白文で読み解いて呉れ、最終的にそれと突き合わせて決定稿とした。後の語釈では彼の解説して呉れたものを【T.S.君の解】『 』で示した。いつも乍ら、この場を借りてT.S.君に心から謝意を表するものである。

   *

    昇天山九覽亭の記

九覧亭は武藏國金澤昇天山に在り。江都を距(へだ)つこと十有餘里、歳丁未(きのとひつじ)の八月、余、是の山を弄勝(ろうしよう)す。而して山顚(さんてん)の亭を九覽亭と曰(い)ふも、今は唯だ、遺址(ゐし)を存するのみ。幷びに、其の名づくる所以は、亦、識る者、莫(な)し。乃ち、荊(うばら)を班(わ)け、以つて之に臨むに、時に適(かな)ひて、煙雲、開く。佳麗の匿(とく)、點綴(てんてつ)して連綿たり。如(まさ)に碁が初布然たり。其の尤(いう)にして著なる者(もの)は、洲崎晴爲嵐たり、瀨戸秋月たり、稱名晩鐘たり、小泉夜雨たり、乙鞆歸帆たり、平潟落雁たり、野島夕照たり、内川暮雪たり。若し夫(そ)れ、其の間(かん)に神祠・佛宇・島岫(たうしう)・怪石・舊蹟・古樹の錯出せば、亦た盡(ことごと)く皆、人をして應接の遑(いとま)なさしむるものなり。是れ其の九覽と稱する所以なり。土人、乃(すなは)ち所謂(いはゆる)八景に濃見堂を加へ、以て之に當(あ)つるは、蓋し、駕説(がせつ)の誤まれるのみ。夫れ、「九」は「數夥(あまた)」の詞、「九族」「九合」の類なり。抑(そ)も、齊桓公の盟會を□にするに、史傳の言ふ所を以つて九數に留まらずと。亦、九數に止まざるなり。則ち是れ、亭の命名、果して古義に背かず。是に於いて、蔎を呼び、酒を引き、海羹(かいかん)を列し、一啜(いつせつ)一呑(いつとん)、或(ある)は詩し、或は歌ひ、以つて古人の樂しむ所に與(くみ)し、以つて今人の同歡せるところに與(くみ)す。覺えず、日の將に虞淵(ぐえん)に沈まんとして、惟だ、鯨音の耳に響き、歸帆の洲に向へるに見(まみ)ゆるのみ。既にして又、月、橋邊に掛くるを矚(み)る。其の景や、斯くの趣きや、皥皥(かうかう)にして洋洋、未だ易(たやす)く狀(なり)を具(のぶ)ることあたはざるなり。嗚呼、金岡生の筆を擲(なげう)つや、抑(そも)、是れに非ずや。東皐氏の賞する所、抑も、是に非ずや。因つて翰(かん)を把(と)つて、其の勝槩(しようがい)を略記し、以つて未だ之を曾つて觀ざる者に贈る。

嘉永四年辛亥(かのとゐ)三月上潮(じやうちやう)

     江都 田村愛資 撰幷びに書

                朝川麎 額

        當山現住 王田

                         窪世舛 刻字

                鬼熊  加功

   *

「十有餘里」「十有餘里」は約三九・三キロメートル、江戸城から金沢八景までの陸路の概算は四十五キロメートルほど、江戸の南端である品川宿までは凡そ四十キロメートル。

「丁未」最後のクレジットが「嘉永四年辛亥」(西暦一八五一年)であるから、「丁未」は四年前の弘化四(一八四七)年である。

「弄勝」勝れた景色を遊び楽しむの謂いか。

「佳麗之匿點綴連綿」【T.S.君の解】『隠れた美景が散らばり且つ連なっている――「點」と「綴」の間には強い引力が働いており、一語を形成すると感じます。現代中国語では口語でもよく用いられる語です』。

「如碁初布然」【T.S.君の解】『囲碁の初局において、碁石が疎らに配置され、ただしそれぞれが遠く近く有機的に連関している様子に似ている』。「碁」の「初布」とは、囲碁の「布石」、序盤に全局的な構想に立って石を置くこと、また、その打ち方をいう。

「其尤著者」【T.S.君の解】『既にして「尤」の字自体に、絶美なるという意味が感じられます』。

「若夫錯出其間神祠佛宇島岫怪石舊蹟古樹者亦盡皆使人應接之不遑焉」【T.S.君の解】『「若夫」は、話題転換機能をもつ軽い接続句と理解し、「神祠」から「古樹」までの単語の羅列は、景点間に散在するものの列挙と理解しました』。

「錯出」は本来、異なった意見が代わる代わる出ることをいうが、ここはそれぞれの八景の美観の中に、神社仏閣がこれまた、それぞれにオリジナリティを持って、それぞれ異なった雰囲気で美しく立ち現われている、という意味であろう。

「島岫」島々や岬。

「使人應接之不遑焉」人がそれらを総て味わい尽くすには、ちょっとした時間ではとても無理である、見切れぬ、という意の使役形である。森鷗外の「舞姫」で最初に狭いベルリンの地に名所が凝集しているのに吃驚した太田豊太郎の台詞、『始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり』を想起されたい。

「是其所以稱九覽也歟」【T.S.君の解】『「也歟」はセットで強い感嘆の語気を表すものと思います。「是」は直前の文を指しており、人をして應接の遑(いとま)なさしむるほど数多い景勝があること、これこそが九覽の名の所以であるのだよ、と強く言い切っているように感じられます』。

「駕説」【T.S.君の解】『「駕説」は、一般に流布している説という意味かと思います。中国語古文にこの語の用例があるようです。土地の人々が八景に濃見堂を合わせて九つの景色と言っているのは、流布した説が誤っているに過ぎぬ、の謂いです』。

「抑□齊桓盟會以史傳所言亦不止九數」【T.S.君の解】『ここは「九」が数多くを指す例として、桓公が諸侯の会合を何度も開いて戦国の覇者になったという故事を持ち出したのだと思います。論語には『桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也……』とありますが、実際会合は九回に留まらず、春秋の記載によれば計十六回もの会合を開いたとのことです』。その後、碑文画像を彼に送った後、以下の消息文が届いた。『碑文の写真の判読不能の文字は――上が「木」――右下の払いに相当する部分が部首(ヒトアシ)の右側に相当する形状――に見えます。手元に漢字字典がないので、中国語辞書で「木」の部を舐め、「木」が上に乗った字を捜してみましたが、これに近いものは見出せません。諦めかけた頃にふと思ったのですが、これは「木」偏の異体字ではないでしょうか? そこで「木」偏、且つ、最終画が(ヒトアシ)状の字を捜してみました。そこで目に留まったのが「概」です。確かにこじつけの感は否めません(「木」を下に持ってくる異体字はあっても、上に持ってくる例は見出せないこと、下半分が「既」にやや遠 いことなどが理由です)。しかし、ここを判読不能として放置するよりは、「概」(の異体字)として読んだ方が丁寧ではないかと思うのです。あくまでもその前の字が「抑」であると信じて読解してみます。

 抑も齊桓公の盟會を概(かへりみ)るに、史傳の言ふ所を以て九數に留まらずと。

如何でしょうか?』――私はこの彼の見解を現時点での最も肯んずるに足る本箇所の判読訓読と信ずるものである。大方の御批判を俟つ。

「於是呼蔎引酒又列海羹一啜一呑或詩或歌以與古人所樂以與今人同歡」【T.S.君の解】『そうして茶を淹れ、酒を出し、海産物を並べ、啜って、飲んで……或いは詩、或いは歌を口にする。これはまさに昔の人の楽しみと重なるものであり、また今の人の歓びにオーバーラップするものでもあるのだ、という謂いです』。

「蔎」茶の別称。

「海羹」海産物の羹。吸い物や味噌汁。

「虞淵」中国神話に於いて太陽が沈むとされた遙か西方の地にあるという崦山(えんじさん)の山裾にある蒙水という川の中の深い淵の名称。ここは単に西の意。

「鯨音」鐘の音。ここは特に称名寺のそれであろう。

「皥皥」白く明らかなさま。

「未易具狀也」【T.S.君の解】『その素晴らしさを形容することは実に難しいなあ、の謂いです』。

「金岡の生」能見堂の筆捨松伝承で出た巨勢金岡。既注。

「東皐」金沢八景を改めて世に知らしめた東皐心越。既注。

「翰」筆。

「勝槩」優れた趣き。優れた景色。勝致。

「上潮」月の満ちる大潮の謂いか。とすれば、嘉永四年三月十五日(新暦一八五一四月十六日)である。

「田村愛資」これは先に掲げたメタボン氏の記載や、以下に示す書誌から恐らく「田村資愛」の底本の錯字と思われる。如何なる人物分からないが、明らかに朝川麎(次注参照)と近しいことから江戸在住の儒者と考えてよい(朝川の著作「尚書古今文管窺」(しょうしょこきんぶんかんき)の校訂者にも「田中資愛」の名が見える。ここの書誌情報に拠った)。

「朝川麎」「あさかわしん」と読む。朝川同斎(どうさい 文化一一(一八一四)年~安政四(一八五七)年)のこと。儒者・書家。本姓は横江、麎は名。通称、晋四郎。別号に嘉遯(かとん)・眠雲山房など。加賀生まれ。江戸で市河米庵(べいあん)に書を、朝川善庵に漢学を学んで善庵の養子となった。後に肥前平戸藩に仕えた(講談社「日本人名大辞典」による(前注も参照のこと)。

「額」石碑などの上部に篆書で書かれた題字のこと。

「王田」金龍山の燈台の住持らしいが不詳。

「窪世舛」不詳。読みも不明。

「鬼熊」下の「加功」とは石碑の切り出し加工を言うか。その石工の名であるらしい。]

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