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2014/09/30

本日閉店

本日、教え子のカップルと会食につき、これにて閉店――心朽窩主人敬白

杉田久女句集 281 花衣 L 「飛鳥みち」「大和橘寺の鐘樓初見」 二句

  飛鳥みち

 

稻架の飛鳥みちなり語りつゝ

 

[やぶちゃん注:「稻架」は「いねかけ/いなかけ」と素直に読んでいるようである。稲架は「はさ」「はざ」(挟むの意)とも読んで秋の季語である。]

 

  大和橘寺の鐘樓所見

 

つらね干す簷の橘まだ靑く

 

[やぶちゃん注:「橘寺」(たちばなでら)は奈良県高市郡明日香村にある天台宗寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たぢまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。『橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の』一つとされている。『太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で』。「日本書紀」天武天皇九(六八〇)年四月の条に、『「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である』。『皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰え』、現存する建物は江戸期に徐々に再建されたものである(ウィキの「橘寺」に拠る)。]

耳嚢 巻之九 妖も剛勇に伏する事

  妖も剛勇に伏する事

 

 藝州の藩中に、名も聞(きき)しが忘れたり、至(いたつ)て剛勇の男ありしが、近ごろ主人の供して廣島へ至り、其頃交替の住居、程近(ほどちかく)になかりしが、至極都合宜(よろし)き屋舖(やしき)明(あ)き居たりしゆゑ右屋敷に住(すま)はん事をのぞみしが、右は妖怪ありて住人に災(わざあひ)ありと人々止(とめ)しかど、何條(なんでふ)さる事あらんとて乞請(こひうけ)て住居(すまゐ)せしが、其夜家なり抔して物凄きことども有(あり)しが、事ともせずしてありしが、江戸に住ける同家中の伯父來りて對面なしけるが、右伯父は、在所へ供せし事も不聞(きかず)、全(まつたく)怪物ならんと思ひしに、彼(かの)伯父申けるは、此住居は人々忌憚(いみはばか)りて住居するものなし、押(おし)て住(すま)はば爲(ため)あしかるべしと異見なしけるを、我等主人へ申立(まうしたて)、住居するうへは、爲あしかるべき謂(いはれ)なしと答えけるに、彼伯父大きに怒りて何か申罵(まうしののし)りけるが、其樣いかにも疑敷(うたがはしく)、全く怪異に無紛(まぎれなけ)れば拔打(ぬきうち)にきり倒し、妖怪を仕留(しとめ)けると下人を呼(よび)て其死骸を改(あらたむ)るに、怪物にもあらず、やはり伯父の死骸なれば大きに驚き、所詮存命難叶(かなひがたし)、腹切らんと覺悟極(きめ)けれど、所詮死すべきに決する上はと、猶又刀を拔(ぬき)て彼伯父の死骸の首打落(うちおと)し、猶(なほ)切刻(きりきざ)まんとせしに、彼死骸忽然と消失(きえう)せぬ。さればこそ妖怪なれと、猶まくらとりいねんとせしに、さもやせがれて怖(おそろ)しげなる老人出て、さてさて御身は勇氣さかんなる人なり、我(われ)年久敷(ひさしく)此家に住(すみ)て是迄(これまで)多く住來(すみきた)る者を驚(おどろか)し我(わが)永住となせしが、御身の如き剛勇の人に逢(あひ)て、今住果(すみはて)んことかたし、是より我は此所を立退(たちの)く間、永く住居なし給へといひて消えぬる由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本巻最初の本格怪談であるが、ロケーションが「藝州の藩中」であり、主人公は藩士の一人で「至て剛勇の男」とあること、またそこで起こる怪異の複雑な様態、さらに結末で物の怪が出現、男の剛勇に負けて退去するという話柄は、明らかに現在知られているところの「稲生物怪録」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく)が種本であると考えてよい。ウィキの「稲生物怪録」から引いておくと、「稲生物怪録」は寛延二(一七四九)年に備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名平太郎)が体験したとされる長編の妖怪怪異譚とされるもので、江戸後期には国学者平田篤胤によって広く世間に知られるようになった「実話」怪談とされるものである。基礎定本とされるものの著者は柏生甫(かしわせいほ:以下に示す主人公と後に同役になった三次藩士)で、体験当時は未だ十六歳であった実在する三次藩士稲生平太郎が寛延二年七月の一ヶ月間に体験したという怪異をそのまま筆記したものと伝えられている。粗筋は、知れる相撲取りと行った肝試しにより、妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷に、さまざまな化け物が実に三十日の間、連続して出没するも、平太郎はこれを悉く退け、最後には大魔王たる山本(さんもと)五郎左衛門から勇気を称えられて木槌を授かる、というものである(平太郎には非常に優れた守護霊がついていた)。奇怪至極の豊富な怪異を描いた絵巻物風のものもあり、『平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、『稲生物怪録』の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある』とある。何を隠そう私も本作のフリークで関連の諸本を数十冊所持している。例えば最初に絵本化された「稲生平太郎物語」では、その九日目の夜の怪異として次のような話が載る。――知人の亮太夫という者(実は妖怪が化けたもの)が伝家の名刀を兄から借り受けて訪ねて参り、化け物を退治すると豪語して、石臼を斬りつけてしまい、刀を刃こぼれさせてしまう。亮太夫は、兄に申し開きが出来ぬ、とその場で切腹、平太郎は仰天、遺体をどう処理したものかと考えあぐんでいるところに裏口を叩く音がし、出て見れば、外には亮太夫の亡霊が立って恨み言を浴びせかける。屋敷内に立ち戻ってみると、最早、亮太夫の遺骸は消え失せていた――この怪異の結構は本話との類似性が認められるように私は思う。なお、平田篤胤は編した全四巻からなる絵巻物「稲生物怪録」(四種の異本から校訂)は既に文化三(一八〇六)年に刊行されている。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、体験時とされる時からは六十年が経っているものの、同書の刊行は三年前の直近、根岸が仮に読んでいなかったとしても、そこから都市伝説が派生するには十分過ぎる時間であろう。話の〆め方も都市伝説っぽい、裁ち入れである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  妖怪も剛勇には伏するという事

 

 安芸国の藩中に――これ、確かな姓名をも聞いたが、残念なことに失念致いた――至って剛勇なる男があった。

 しかもこれ、近年のこと申す。

 この男、主人の供をして広島へ参り、滞留致すことと相い成ったが、折り悪しく、近侍御用のための交替の住居がこれ、主人屋敷近くに見つからず困って御座ったところ、至極都合宜しき屋敷が空いておるとの話を耳に致いたゆえ、その屋敷に住まいせんことを望み、地元の者に仲介を頼んだところが、

「……実は……そのぅ……その御屋敷は……これ……よ、妖怪の御座ってのぅ……住める人に災いをなすこと……これ、御座いますれば、のぅ……」

と、何人もの者が借しきりその家に住まうを押し止めた。

 しかし男は、

「どうしてそんな馬鹿げたことが、これ、あろうか!」

と、強いてその屋敷の貸借を乞い請け、住まい致いたと申す。

 ところが、移り住んだその夜のこと、

――ズズ、ズン!

と奇っ怪なる家鳴(やな)りが致いた。

 しかし、男は何事もなかったかの如く平然と端座して御座る。

 すると今度は、突然、江戸に住んでおるはずの同藩家中の伯父が夜半に訪ねて参る。

 対面(たいめ)なしてはみたものの、男は内心、

『――かの伯父は、藩主が国元へ帰った折り、これ、お供を致いて戻ったとも、聞いてはおらぬ。――これ、全く、物の怪に相違あるまい――』

と踏んでおった。

 かの伯父は開口一番、

「……この住まい……巷にては、人々、忌み憚って住まいする者ものないと、聴き及んでおる……無理にもかく住まいせんとせば、それはそながために悪しきことにてなろうぞ!」

と、異見を始めた。しかし男は、

「――我ら、主人へ既にしてここを定宿(じょうやど)とせんことを申し立てまして、住まいと致しました上は、拙者がために悪しきことなど、これ、あろう謂(いわ)れは、御座らぬ!」

ときっぱりと応えた。すると、かの伯父、大きに怒って、口角泡を飛ばし、何やかやと罵しり謗って御座った。

 その様子――平素知れる叔父の所作や言動とも思われず――さればこそ、如何にもますます、その者が「伯父」なること、疑わしゅう感ぜられて参ったによって、

『――これは全くの怪異! 物の怪の類いに紛れなし!』

と心中に断じ、その場にて相手を抜き打ちに斬り倒し、

「――妖怪をし留めたりッツ!!」

と、下人を呼び、その死骸(むくろ)を改めさせた。

 ところが……怪物にもあらず……これ、死して変ずることものぅ……やはり、正真正銘の……伯父の死骸(むくろ)……

 さればこそ、男は大きに驚き、

「……かくなる不届きを犯したる上は……所詮、存命(ぞんめい)、これ、叶い難し! 我ら、ここにて腹、切らん!」

と、覚悟の言挙げをも成したれど、

「……所詮死せずんばならずと決した上は――」

と、なお、また、刀を抜き直し、

「……確かに伯父ごかどうか、一つ――かの伯父ごの死骸(むくろ)の首をも、打ち落とし――なお――それを寸々に切り刻んでみるに――若かず!」

と、やおら、かの死骸(むくろ)にたち向かったところが……

――死骸(むくろ)

――これ

――忽然と消え失せておった。

 さればこそ、

「――やはり妖怪じゃッたかい! はははッツ!」

と、呵々大笑するや、そのまま、その居間にごろりとなって、枕を取り、寝(いね)んと致いた。

 するとその目の前に……

――何処から湧いて出たものか

――さも、痩せがれて、何とも言えず、怖ろしげなる老人の、一人出て参り……

「……さてさて……御身は……まっこと……勇気の盛んなるお人ではある……我ら……年久しゅう……この家(や)に住みて……これまで実に多くの……住まんとせし者を……驚かしては……ずっと我が永住の地と……成して参ったれど……御身の如き……剛勇の人に逢うてはのぅ……これ……今となっては……かく住み続けんとすること……これ……し難きことじゃ……これより我は……ここを発(た)ち退(の)くによって……どうか……永く住みなし給え…………」

と、言うたかと思うと――ふっと――消えてしまった……とのことで……御座った。

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (4)

Kumoseitekinikei

[「くも」の一種 (大)雌 (小)雄]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。]

 

 動物には種類によつて身體の大きさの目立つて違ふものも隨分ある。獸類の中でも「をつとせい」の如きは牡は牝に比して遙に大きく、身長は二倍以上、重量は殆ど十倍以上にも達する。概して獸類では雌雄で大きさの違ふ場合には、必ず雄の方が大きい。猿なども牡の方が牝よりも少く大きいのが常である。これに反して昆蟲類には、雄よりも雌の方が大きいものが多い。亭主が小さくて細君の方が大きいと、俗にこれを「のみ」の夫婦といふが、實際「のみ」に限らず「はへ」でも蚊でも雌の方が幾らか大きい。これは一つは卵巣が大きくて、そのため腹が膨れて居る故でもあらう。稻の害蟲の「うんか」なども同種のものを調べて見ると、いつも雄よりも雌の方が著しく大きい。外國に産する「くも」類の中にはその相違がさらに甚だしく、雄は僅に雌の十分の一にも及ばぬものがある。

[やぶちゃん注:「をつとせい」オットセイ(膃肭臍・英名 Fur seal )哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae に属するキタオットセイ属 Callorhinus 及びミナミオットセイ属 Arctocephalus の総称。雄は最大、体長二・一メートル、体重一八〇キログラムに達するが,雌は一・四メートルで五十キログラム程度と有意に小さく、顕著な性的二型を示す。鬣(たてがみ)も雄にのみある。雌雄の差は成体となった六~七歳以後であっても、雄の成長が継続するためにはっきりと分かる。

『外國に産する「くも」類の中にはその相違がさらに甚だしく、雄は僅に雌の十分の一にも及ばぬものがある』ウィキ性的の「極端な体格の差」の項に、『体格の差が極端に大きく、もはや同種とは思えないほどになる例もある。特に有名なのが造網性のクモで、コガネグモ科』(節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科コガネグモ科 Araneidae)やヒメグモ科(フツウクモ亜目ヒメグモ科 Theridiidae )など『のものでは、同じ種とは思えないほどに形も違っているものがある。日本の例では、最も差が大きいのは多分オオジョロウグモ』(Nephila pilipes 南西諸島以南に生息)で、雌は体長三五~五〇ミリメートルにもなるのが、雄は一〇ミリメートル程度にしかならない。また、コガネグモ科オヒキグモ属キジロオヒキグモ Arachnura logi では、『卵嚢から出た時点で、雄は既に成熟している。これがどのような配偶システムに繋がっているのかは定かでない(ちなみに徘徊性のクモはあまり雌雄の体格差がなく、雄は雌よりやや華奢な程度である)』とし、『それよりも差が大きい場合、雄はもはや雌に見られるような構造を持たず、はるかに簡単な仕組みだけを持つ例もある。そのようなものを矮雄(わいゆう)という。ちなみに、雌ではこの例ははない。雌は卵を産むからには、そこまで小さくはなれないということであろう』と附言してある。丘先生の出した外国産のクモの図は種同定は出来ないものの、比率を比べて見ると、この本邦産オオジョロウグモも引けを取らないことが分かる。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 夏

〈昭和十三年・夏〉

 

瀧おもて雲おし移る立夏かな

 

田水滿ち日出づる露に蛇苺

 

胡桃生(な)る瀧川よどみ鮠とびぬ

 

アカシヤの耕馬にちりて薄暑かな

 

  天目山勝賴夫人墳墓

 

山墓に薄暑の花の鬱金かな

 

[やぶちゃん注:「天目山」現在の山梨県甲州市(旧大和村)木賊(とくさ)及び田野(たの)にある峠。元は木賊山(とくさやま)と呼ばれていたが、後に山中に棲雲寺が創建され、その山号から天目山と改称した。武田氏二度の滅亡の地である。ウィキ天目山」によれば、まず応永二四(一四一七)年に室町幕府に追われた武田氏第十三代当主武田信満がこの山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶、その後に再興された甲斐武田氏も百六十五年後の天正一〇(一五八二)年に以下に見るように、この山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡したとある。後、『武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川家康は、領民懐柔政策の一環として麓に勝頼主従の菩提を弔うため景徳院を建立している。付近には武田氏関係の史跡が点在し、景徳院の境内の勝頼親子』三人の墓の近くには、この勝頼正室北条夫人の以下に示す最初の一首の辞世の『が刻まれた石碑が立っている』とある。

「勝賴夫人」甲斐国主武田勝頼の継室北条夫人(永禄七(一五六四)年~天正一〇(一五八二)年四月三日)。北条氏康六女とされる。ウィキの「北条夫人」によれば、天正一〇(一五八二)年二月一日、勝頼は『織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた』。彼女は同年二月十九日に『勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮』(現在の山梨県韮崎市神山町北宮地にある武田家の氏神)『に願文を奉納している』(現存し、県指定有形文化財)。しかし同年三月になると『戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた』。三月十一日、豊穣夫人は『日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害した』。享年十九であった。辞世は、

  黑髪の亂れたる世ぞ果てしなき思ひに消ゆる露の玉の緒

で、「小田原北条記」によると、『「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記して』、

  歸る雁賴む疎隔の言の葉を持ちて相模の國府(こふ)に落とせよ

『(南に帰っていく雁よ、長い疎遠の詫び言を小田原に運んでくれないか)という、もう』一首も残している。『法名は北条氏供養で桂林院殿本渓宗光。 武田氏からは「法泉寺位牌」で陽林院殿華庵妙温大姉、「景徳院位牌」に北条院殿模安妙相大禅定尼と贈られている』。『山梨県身延町の南松院には恵林寺住職快川紹喜の遺墨である蘭渓字説(県指定文化財、現在は山梨県立博物館に寄託)が残されている。これは「甲州城上淑女君」の侍局に対し法諱雅号を与えその由来を記したものであるが、この淑女君は北条夫人を指していると考えられており、「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり」と淑徳を称えている』とあり、この若くして散った才媛への蛇笏の哀憐の情の意味がよく分かってくる。

「鬱金」「うこん」は鮮やかな黄色のこと。何の花であろう。キンポウゲか。]

 

キャベツ採る娘が帶の手の臙脂色

 

[やぶちゃん注:「臙脂色」で「えんじ」と読ませていよう。黒みを帯びた赤色で、日焼けした肌の形容で、健康的なエロスを感じさせる佳句である。]

 

蒟蒻(こんにやく)の咲く藥園のきつね雨

 

枝蛙風にもなきて茱萸の花

 

[やぶちゃん注:「茱萸」老婆心乍ら、「ぐみ」と読む。]

 

水喧嘩墨雲月をながしけり

 

蛞蝓の流眄(ながしめ)してはあるきけり

 

[やぶちゃん注:「流眄」音は「リュウベン」で流し目のこと。「眄」自体が、流し目で見る・脇き見をするの意。]

 

綠金の蟲芍薬のただなかに

 

[やぶちゃん注:「綠金の蟲」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae のタマムシ(玉虫)の類であろう。]

 

桑の實に顏染む女童にくからず

 

[やぶちゃん注:「女童」は「めらは(めらわ)」と読んでいよう。「め(女)わらわ(童)」の音変化で、中世以降に見られる読みである。]

 

芋の花月夜を咲きて無盡講

 

[やぶちゃん注:「無盡講」頼母子講(たのもしこう)に同じい。金銭の融通を目的とする民間互助組織で、一定の期日に構成員が掛け金を出し合い、籤や入札で決めた当選者に一定の金額を給付、全構成員に行き渡ったところで解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行した。]

 

嶽腹を雲うつりゐる淸水かな

 

焼肉(やきにく)にうすみどりなるパセリかな

 

吹き降りに瀨をながれ去る女郎蜘蛛

 

蟬鳴いて夜を氾濫の水殖(ふ)えぬ

 

つばめ野には下りず咲き伸す立葵

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「伸す」は「のす」と読み、伸びるの意。]

 

しげくして雲たちこむる梅雨の音

 

ふりつぎて花卉にいと澄む梅雨湛ふ

 

梅雨霽れの風氣短かに罌粟泣きぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「罌粟」は「けし」。]

 

さつこんは愛兄(いろえ)と呼びて更衣

 

[やぶちゃん注:「愛兄(いろえ)」は「日本書紀」に既に出る上代語で母を同じくする兄、又は兄を親しんで呼ぶ語。「いろ」は接頭語で親族関係を表わす名詞に冠して同母の・肉親の、の意を添える。]

 

旭影來し茄子馬にまた夕影す

 

月光のしたゝりかゝる鵜籠かな

 

[やぶちゃん注:この踊り字は実に効果的である。]

 

篝火に雨はしる鵜の出そろへり

 

泊(は)つる夜は鵜舟のみよし影澄みぬ

 

[やぶちゃん注:「みよし」「水押し」「舳」「船首」と漢字表記する。「みおし」の音変化で 狭義には船首にある波を切る部材、転じて舳先・船首の意となった。]

 

鵜篝のおとろへて曳くけむりかな

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、芭蕉の名吟「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」のインスパイア。]

 

畫廊出て夾竹桃に磁榻濡る

 

[やぶちゃん注:「磁榻」は「じたふ(じとう)」と読み、野外に置かれた焼き物(磁器製)の座具かベンチのことであろう。]

 

椶櫚さいて夕雲星をはるかにす

 

[やぶちゃん注:「椶櫚」棕櫚に同じ。]

 

  横濱高臺の舍弟が新居を訪ねて

 

明け易き波間に船の假泊かな

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 若狹前司泰村舊跡

    ●若狹前司泰村舊跡

若狹前司泰村か舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。東鑑に寛元三年七月六日、將軍家御方違(ごはうゐ)して、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ、泰村か家は御所より北の方なりとあり。按するに將軍は賴嗣なり、賴嗣の屋敷は若宮大路なれは此所(このところ)正北(まきた)なり、鎌倉物語に賴朝屋敷の北と書(しよ)せり、將軍の御所より北に當るとあるを見て賴嗣も賴朝屋敷に居せられたりと心得たり。泰村は三浦平六兵衞尉義村か長子なり、甚だ權威あり寶治元年六月五日、一門悉く亡ふ。

[やぶちゃん注:三浦泰村邸跡。この叙述はまるまる「新編鎌倉志卷之一」からの引用で、「按」じているのは筆者ではない。しかも途中を省略してとんだ誤りを犯してもいる。以下に総てを示してそれを明らかにしておく。

   *

○若狹前司泰村舊跡 若狹(わかさの)前司泰村が舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。【東鑑】に、寛元三年七月六日、將軍家、御方違(をんかたたがへ)として、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ。泰村が家は、御所より北の方也とあり。按ずるに、將軍は賴嗣也。賴嗣の屋敷は若宮大路なれば、此の所ろ正北なり。【鎌倉物語】に、賴朝屋敷の北と書せり。將軍の御所より北に當ると有を見て、賴嗣も、賴朝屋敷に居せられたりと心ろ得たり。【東鑑脱漏】を未見ゆへに、賴經將軍の時、嘉禎二年に、若宮大路へ遷られしと云事を知らざる歟。賴經屋敷の事は、賴朝屋敷の條下に詳也。泰村は、三浦平六兵衞尉の義村が長子也。甚だ權威あり。寶治元年六月五日、一門悉く亡ぶ。

   *

「若狹前司泰村」三浦泰村(元暦元(一一八四)年~宝治元(一二四七)年)は義村の次男。承久三(一二二一)年の承久の乱の際、父とともに北条泰時に従って宇治川合戦で戦功を立てる。嘉禎三(一二三七)年に若狭守、暦仁元(一二三八)年には評定衆に補せられ、延応元(一二三九)年、父の死によって家督を継ぎ、三浦介相模守護となって幕府内に絶大なる権威を有するようになったが、宝治元(一二四七)年、時頼と安達景盛の策略に嵌まった泰村は鎌倉で挙兵するも大敗、法華堂の頼朝の御影の前で一族郎党とともに自害した。

「寛元三年」西暦一二四五年。以下、「吾妻鏡」の同日の条を示す。

○原文

六日戊戌。天晴。將軍家爲御方違。渡御若狹前司泰村之家。御騎馬也。供奉人皆爲歩儀。是入道大納言家令奉讓御所於將軍家給之間。來十日。可被建御厩侍北對。依當西方。爲令違秋節給也。泰村家自御所北方也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

六日戊戌(つちのえいぬ)。天、晴る。將軍家、御方違(おんかたたがへ)の爲、若狹前司泰村が家へ渡御す。御騎馬なり。供奉人は皆、歩儀たり。是れ、入道大納言家、御所を將軍家に讓り奉らしめ給ふの間、來る十日、御厩侍(おんうまやざむらひ)を北の對(たい)に建らるべきに、西方に當るに依つて、秋節を違(たが)へせしめ給はんが爲なり。泰村が家は御所より北方也と云々。

この「入道大納言家」は先の第四代将軍藤原頼経のこと。反幕派の関東申次として宮中で勢力を伸ばしていた父九条道家とともに、執権北条経時との関係が悪化、この前年の寛元二(一二四四)年五月五日、経時によって将軍職を嫡男頼嗣に譲らされ、この前日の七月五日に鎌倉の久遠寿量院(頼朝の持仏堂であった法華堂が発展した後代の名称と思われる)で出家している。以下、ウィキ藤原頼経」によれば、『その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され』、当代の執権時頼によって、寛元四(一二四六)年に『京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた』。その後、宝治元(一二四七)年に『三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)』。また、建長三(一二五一)年『足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる』が、結局、建長三(一二五二)年には頼嗣も『将軍職を解任され、京都へ送還され』てしまい、『まもなく父・道家は失意の内に没した』。頼経は四年後の康元元(一二五六)年八月に赤痢のために三十九歳で京で死去、翌月には頼嗣も死去した。『この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之』氏は吉川弘文館「鎌倉北条氏の興亡」・新人物往来社「鎌倉・室町人名事典」の九条頼経の項目(共に奥富による執筆)などで、九条家三代の『短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している』とある。

「御方違(ごはうゐ)」読みは誤り。

「鎌倉物語」医師で貞門の俳諧師にして仮名草子作家であった中河喜雲(寛永十三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)が万治二(一六五九)年に菱川師宣画で出した仮名草子。通俗鎌倉名所記。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 餅

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図―490

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図―491

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 モチは新年に好んで用いられる食品で、恰度ニューイングランド人が感謝祭と降誕祭(クリスマス)とに、沢山のミンスパイや南瓜のパイをつくるのと同じように、日本人も餅を調製する。これは、ねばり気の多い米の一種でつくられるが、先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力つよくかき廻す。餅をつくっているのは、昨今往来でよく見受ける光景である。図490は、人々が生麪(なまこ)様のものを、かきまぜている所である。次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ。非常にべ夕べタしているので、槌がへばりついて了うこともある。北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした。このようにして、適宜にこねた後、平たい丸い塊にするが、時にそれは直径二フィートもあり、そして巨大なプディングに似ている。伸して、薄い盤状にすることもある(図491)。餅は多くの店で売られ、日本人は非常にこれを好む。食うと恐しくねばり気があって、不出来な、重くるしい麪包(パン)を思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦した、或は褐色にした豆の粉と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい。これは普通に行われる食い方である。図492は餅を供える一つの方法を示す。それは小さな竹製の机或は台で、下の棚には大な塊が二つあり、その周囲を稲の藁の環、常緑葉、条片に切った白紙、若干の羊歯(しだ)の葉が取りまいている。

[やぶちゃん注:「感謝祭」原文“Thanksgiving”。アメリカ合衆国とカナダの祝日の一つで、アメリカでは十一月の第四木曜日、カナダでは十月の第二月曜日に行われる。参照したウィキ感謝祭によれば、『感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムがプリマスに到着した』一六二〇年の『冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンのワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた』。一六二一年の『秋は、特に収穫が多かったので、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っていて、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた』一六二三年の『感謝祭は食事会というよりもどちらかというと教会で礼拝を行って、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった』とある(但し、この話のインディアン交流部分にはリンク先の後の方の「アメリカ合衆国における感謝祭の起源説」の項の再説部分に大きな疑義が示されてある)。『現代の感謝祭では、宗教的な意味合いはかなり弱くなっており、現代アメリカ人の意識の中では、たくさんの親族や友人が集まる大規模な食事会であり、大切な家族行事のひとつと位置づけられている』とある。「感謝祭の食事」の項には、『伝統的な正餐のメインディッシュとなるのは、角切りにしたパンを用いた詰め物(「スタッフィング(stuffing)」または「ドレッシング(dressing)」と呼ばれる)をした大きな七面鳥の丸焼きである。そのため、感謝祭の日は「七面鳥の日」(Turkey Day)と口語的に呼ばれることもある。切り分けた七面鳥にグレービーソースとクランベリーソースを添えて供する。ベジタリアン向けには、七面鳥を模し豆腐や麩で作った食品(トーファーキーなど)も市販されている』。『副菜には、マッシュポテトとグレービーソース、オレンジ色のサツマイモの料理、さやいんげんのキャセロールなどが一般的である。デザートには、アップルパイやパンプキンパイが供されることが多い』とある。

「ミンスパイや南瓜のパイ」原文“mince and pumpkin pies”。「ミンスパイ」はドライ・フルーツから作った「ミンス・ミート」を詰めたパイのこと。参照したウィキの「ミンスパイ」に、『クリスマスに食べる菓子として知られ、径数センチの独特の形で作られることが多い。ミンスミート( mincemeat )とは元来は、ミンス(みじん切り)にした肉、つまりひき肉のことで、ミンチの語源でもある。しかししだいに、ドライフルーツを主体としたものに変化した』。『東方の三博士がイエス・キリストの誕生を祝うために捧げた没薬が、ミンスパイの起源と言われ』、『かつては果実や肉に香辛料と甘みを加えたものをパイ生地やビスケット生地で包んでゆりかごをかたどり、上面部に切り口を入れてイエスを表す小さな像を入れて焼き上げていた。この工程には、ゆりかごの中に神の子を置き、その誕生を祝っていた意味合いがあった』。『清教徒革命の際には偶像崇拝にあたるとしてミンスパイの製造が禁止されるが、間もなく禁止令は解ける。やがて、中に詰める具から肉が消え』、『また、イギリスが世界各地に植民地を持っていた時代になると、各地から様々な果実やナッツがイギリスに入り、ミンスパイの具として使用されるようになった』『現在は、リンゴ、ブドウ(干しぶどう)、柑橘類などが使われる。これらをみじん切りにし、ブランデー、砂糖、ケンネ脂』(スエット。牛や羊の腰の腎臓付近の脂身を言う)、『香辛料などを加え、煮込んだのち数日間寝かせ』て作る、とある。

「生麪」「麪」は音は「メン/ベン」で、訓で単漢字でも「むぎこ」と読む。生の麦粉。メリケン粉。

「北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした」「北斎漫画」の一枚を指す。個人ブログ『おしゃれに「きもの語り」』の北斎漫画に見る江戸時代の仕事と衣裳①に載る。

「二フィート」六〇・九六センチメートル。

「プディング」(pudding)は牛乳・鶏卵・砂糖を主材料として香料を加えて型に入れ、蒸し焼きにした菓子。カスタード・プディングやプラム・プディングなど。プリン。

「豆の粉」底本では直下に石川氏の『〔きなこ?〕』という割注が入る。]

2014/09/29

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (3)

Kuwagatamusi

[くはがたむし (右)雄 (左)雌]

Seibetusoui_2

[雌雄によつて色の異なる動物の例]

[一二 外國産「あげはてふ」の一種(一 雄 二 雌)

 三四 めすぐろひようもん(三 雄 四 雌) 五六 大るり(五 雄 六 雌)]

 

[やぶちゃん注:「雌雄によつて色の異なる動物の例」の画像は底本では省略されている図版で、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をした。]

 

 昆蟲類に雌雄の著しく違ふ例は幾らでもあつて、到底枚擧の遑はない。甲蟲のなかで、「さいかちむし」〔かぶとむし〕の雄には頭部に大きな突起があるが、雌にはこれがない。「くはがたむし」の雄は左右の顎が頗る大きくて、恰も鹿の角の如くに見えるが雌はこれが甚だ小さい。日本の螢は雌雄ともに飛ぶが、外國の螢には、雄だけが空中を飛び廻り雌は翅がなく、蛆の如き形で地上を匍うて居る種類がある。毛蟲を飼うて置くと、それから出る蛾が、雄だけは翅を具へ雌には全く翅のないやうな種類もある。蝶類には雌雄で色や模樣の違ふものが特に多い。「つまぐろひようもん」といふ蝶の雄は、豹の皮の如くに黄色の地に黑い斑點があるが、雌は前翅の外半分が黑いから直にわかる。また、「めすぐろひようもん」では、雌の翅は雄のとは全く違つて、前後ともに全部暗黑色の中に白い紋があるだけ故、誰の目にも同一種の蝶とは見えぬ。早くから日本の蝶類を調べて居た横濱のプライヤーという人の如きも、始はこの蝶の雌を全く別種のものと思うて居た。柳の枝によく止まつて居る「こむらさき」といふ蝶は、雌雄とも翅は元來茶褐色であるが、雄は見やうによつて紫色に輝き、實に美しい。しかるに雌はどの方角から見ても、決して紫色に光ることはない。このやうな例は幾つでもあるが、限りがないから略する。

[やぶちゃん注:「さいかちむし」甲虫の別名。「さいかち」は落葉高木のマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属 Gleditsia japonica で、別名をカワラフジノキとも呼ぶ。参照したウィキの「サイカチ」によれば、漢字では「皁莢」「梍」と表記するが、本来、「皁莢」はシナサイカチ( Gleditsia sinensis )を指すので注意。日本の固有種で本州・四国・九州の山野や川原に自生し、実などを利用するために(サポニンを多く含むため古くから洗剤として使用され、豆はおはじきなどの子供用玩具としても利用される)栽培されることも多い。『サイカチの幹からはクヌギやコナラと同様に、樹液の漏出がよく起きる。この樹液はクヌギやコナラの樹液と同様に樹液食の昆虫の好適な餌となり、カブトムシやクワガタムシがよく集まる。そのため、カブトムシを「サイカチムシ」と呼ぶ地域もある』とある。

「日本の螢は雌雄ともに飛ぶ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae に属するクシヒゲボタル亜科(エダヒゲボタル亜科) Cyphonocerinae ・マドボタル亜科 Lampyrinae ・ホタル亜科 Luciolinae

ミナミボタル亜科 OtotetrinaePhoturinae 科に属するものをホタルと総称するが、参照したウィキの「ホタル」によれば、『メスは翅が退化して飛べない種類があり、さらには幼虫のままのような外見をした種類もいる』とある。そこには本邦には四十種以上のホタルがいるとあり、その代表的な種は以下とある。

ゲンジボタル Luciola cruciata Motschulsky, 1854

ヘイケボタル Luciola lateralis Motschulsky, 1860

ヒメボタル Luciola parvula Kiesenwetter, 1874

マドボタル属 Pyrocoelia

オバボタル Lucidina biplagiata Motschulsky, 1866

但し、丘先生は「日本の螢は雌雄ともに飛ぶ」と述べられているが、これらの内、どうも関ヶ原に棲息するマドボタル属 Pyrocoelia のオオクロマドホタル(何故か、学名はネット上では検出不能)は飛ばないとある(岐阜県大垣市小野にある市立小野小学校公式サイト内のホタル疑問に拠る)。

「毛蟲を飼うて置くと、それから出る蛾が、雄だけは翅を具へ雌には全く翅のないやうな種類もある」有翅昆虫亜綱新翅下綱 Panorpida 上目鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ヒロズコガ上科ミノガ科 Psychidae に属する、所謂、「蓑虫」と総称している種の雌は多くの種の成虫が雌は翅も脚も持たないことはよく知られている(但し、ウィキミノムシ」によれば、『脚を残している種や痕跡的に退化した翅を持つ種もある。中にはヒモミノガ類のように雌が雄同様に羽化する種も存在する』とあるので注意が必要)。

「つまぐろひようもん」鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius ウィキツマグロヒョウモンによれば、『雌の前翅先端部が黒色で、斜めの白帯を持つのが特徴』的で、成虫の前翅長は三八~四五ミリメートル程度、『翅の模様は雌雄でかなり異なる。雌は前翅の先端部表面が黒(黒紫)色地で白い帯が横断し、ほぼ全面に黒色の斑点が散る。翅の裏は薄い黄褐色の地にやや濃い黄褐色の斑点があるが、表の白帯に対応した部分はやはり白帯となる。また前翅の根元側の地色はピンクである』。『全体に鮮やかで目立つ色合いだが、これは有毒のチョウ・カバマダラに擬態しているとされ、優雅にひらひらと舞う飛び方も同種に似る。ただしカバマダラは日本では迷蝶であり、まれに飛来して偶発的に繁殖するだけである。南西諸島ではその出現はまれでないが、本土では非常に珍しい。つまり、日本国内においては擬態のモデル種と常に一緒に見られる場所はなく、擬態として機能していない可能性がある』とあり、『雄の翅の表側はヒョウモンチョウ類に典型的な豹柄だが、後翅の外縁が黒く縁取られるので他種と区別できる』とある。長野市公式サイト内の環境保全研究所のただ今のウオッチング(2012年春)の「ツマグロヒョウモン」の項に♂♀の写真が載る。

「めすぐろひようもん」ヒョウモンチョウ族メスグロヒョウモン Damora sagana ウィキメスグロヒョウモンによれば、『和名通りメスが黒っぽく、雌雄で極端に体色が異な』り、分類学上は一種のみで、『メスグロヒョウモン属 Damora に分類される。近縁のミドリヒョウモン属 Argynnis に組みこまれていたことがあり、その場合の学名 Argynnis sagana はシノニムとなる』とし、成虫の前翅長は三五~四五ミリメートルほどで、『和名通りメスの体は黒く、光沢のある青緑色を帯びる。前翅の前端に白帯、前翅の中央部に横長の白色紋が』二つあって、『後翅の中央部に白の縦帯がある。翅の裏側は表側より白っぽい。黄色の地に黒い斑点が散らばるヒョウモンチョウ類の中では特徴的な体色で、ヒョウモンチョウというよりオオイチモンジなどのイチモンジチョウ類に近い体色である。メスには類似種が少なく、判別しやすい』。『一方、オスは黄色地に黒い斑点の典型的なヒョウモンチョウ類の体色をしている。前翅には』三本の黒い横縞があるが、『これは大型ヒョウモンチョウ類のオスに見られる発香鱗条である』(発香鱗条とは蝶の翅の鱗粉の中で特殊な形状を示す、ある種の臭いを発する鱗粉のことを発香鱗と称し、この発香鱗粉が固まって生えていて筋のように見える部分を発香鱗条と呼ぶ)。『後翅表側のつけ根には細い黒線、後翅裏側の中央には稲妻状の白い縦帯がある。この体色はウラギンスジヒョウモンやオオウラギンスジヒョウモン、ミドリヒョウモンによく似るが、表側の前翅前端や後翅つけ根部分に大きな黒斑がなく、全体的に黄色部分が多い点で区別できる』。『オスとメスの体色がまるで別種のように異なり、チョウ類の中でも極端な性的二形をもつ』種で、『中央アジア東部から中国、アムール地方、朝鮮半島、日本まで分布する。日本では北海道、本州、四国、九州に分布し、南限は薩摩半島、大隅半島だが、屋久島までとする文献もある』とし、『分布域の中でいくつかの亜種に分かれており、このうち日本に分布するのは亜種 D. s. liane (Fruhstorfer, 1907) とされる』とあって、『日本産ヒョウモンチョウ類の中では分布が広い方だが、生息地は各地に散在しており、どこにでも生息するわけではない。環境の変化などで見られなくなっている地域もあり、レッドリストの絶滅危惧種に指定している都道府県がある』と記す。成虫は年一回だけ、六月から十月にかけて発生するが、『夏の暑い時期は一時的に活動を停止し夏眠するので、飛び回る姿が見られるのはおもに初夏と秋である。冬は卵、または若齢幼虫で越冬する』。『成虫は平地や丘陵地の森林周辺部に生息し、ツマグロヒョウモンに比べると湿った日陰の多い環境で見られる。飛ぶ速度はあまり速くなく、各種の花に訪れて蜜を吸う』。『幼虫は野生のスミレ類を食草と』しており、『終齢幼虫は藍色の地に黄褐色の突起がたくさん生えたケムシである』とある。リンク先で雌雄の違いが画像で見られる。

「プライヤー」ヘンリー・プライア―(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治期に来日したイギリス人ナチュラリスト。ロンドン生まれ。明治四(一八七一)年に来日し、横浜の保険会社に勤めながら、日本各地の昆虫、特に蝶や蛾を採集した(同地で急逝)。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年刊)。本書の英文に和訳を添えたことに彼の見識が表れている。ブラキストンとの共著で「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年刊)もある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。小西正泰氏のサイト「コレクターのショーケース」の「Henry J.S.Pryer "Rhopalocera Niphonica" (1886-89)(プライヤー『日本蝶類図譜』)は必見。

「こむらさき」鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科タテハチョウ科コムラサキ亜科コムラサキ属 Apatura metis ウィキコムラサキによれば、『南西諸島を除くほぼ日本全国に分布する。雄の翅の表面は美しい紫色に輝くので、この和名がつけられた。和名は昆虫学者の高千穂宣麿の命名とされ』、『日本亜種の学名としては Apatura metis substituta が用いられる』とある。『飛翔は軽快敏速で、特に午後から夕方にかけ、陽光のあたる樹上で活発に活動する。雄雌とも樹液や熟した果実に誘引され、花にはあまり訪れることがない。雄は湿った地面や動物の死骸に集まる習性をもつ』。暖地では五月頃から発生し始め、秋までに一、二回の発生を繰り返す(寒冷地では七月頃に一回の発生のみ)。『幼虫で越冬し、食樹の樹皮の皺などに密着して晩秋から春までを過ごす。一般に、多化する地域では春の発生個体がやや大型で、地色も暗いなどの季節型が認められる』。『遺伝的な多型現象を示すチョウとしても有名で、地色がオレンジ色の個体をしばしば「アカ型」、地色が暗色で明色紋が少ない個体を「クロ型」と呼ぶ。クロ型は静岡県や愛知県、能登半島、九州南部などに局地的に分布し、紫色の輝きがより強く見えるので、美麗な印象を与える。このような遺伝型が拡散せずに特定の河川流域に留まっているのは本種に移動性が乏しいことを物語っており、一見飛翔力が強そうなことから考えると意外である』と丘先生の叙述に現われる特徴が語られてある。『日本国外では東欧からカスピ海にかけて名義タイプ亜種 metis が分布し、広大なシベリアには分布の空白があり、日本の近隣地域では沿海州、モンゴル東部、中国東北地方、朝鮮半島に分布』しており、『大陸ではごく近縁のタイリクコムラサキ Apatura ilia と一緒に分布し、一見分類が難しいが、日本ではタイリクコムラサキの分布が知られていない。古い文献では本種の学名が Apatura ilia と書かれていることが多いことからも理解される通り、かつてはタイリクコムラサキの亜種、あるいは型として扱われてきた歴史がある』とある。『コムラサキ亜科の各種はほぼ世界全域に分布し、主に暖帯から亜熱帯の森林や林縁を棲息地とする。その中でも、本種を含む Apatura 属はヤナギ類を食樹に選ぶことにより、北半球の冷涼な地域に進出した種群であるといえる』。食性は、『幼虫は Salix(ヤナギ属)、Populus(ハコヤナギ属)といったヤナギ類を食する。通常は河川流域にある前者を選んでいることが多い。水辺のチョウといえる。生活史や幼生期の形態は近縁のオオムラサキやゴマダラチョウなどと似る』とある。『Apatura属に所属する他種は、以下の通り』として、

   《引用開始》

Apatura irisイリスコムラサキ

戦前にはチョウセンコムラサキという和名が用いられた。欧州、極東ロシア、中国、朝鮮半島に分布する。英国では本種に対して Purple Emperor という名称を使用する。コムラサキ亜科の中では最も古くリンネによって記載され、Apatura 属の模式種である。

Apatura bieti ビエトコムラサキ

イリスコムラサキと近縁であるが、中国南部の高標高地にのみ分布する。

Apatura ilia タイリクコムラサキ

欧州、極東ロシア、中国、朝鮮半島に分布する。地域変異に富む。

Apatura laverna ラベルナコムラサキ

遼寧省から雲南省にかけて分布する。

   《引用終了》

とある。因みに、『「コムラサキ」という名称は本種だけを指すのではなく、コムラサキ亜科に分類される他種も含んだ集合的な呼称として使われることもある。また、Apatura 属ではなくても「コムラサキ」の和名がつく近縁種としては、アサクラコムラサキ(台湾)、シラギコムラサキ(朝鮮半島)などが知られる。これらは戦前に日本人が命名使用していた名残として、現在も使われている』と附記する。チェコスロバキア語のサイトであるが、で同種の雌雄の違いが画像で見られる。]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (2)

 これに反して、鹿の角、獅子の鬣の如きは直接には生殖作用と關係せず、たゞ雌を奪ひ合ふための爭鬪の具として、または威巖を整へるための一種の裝飾として役に立つだけである。人間の鬚なども同じ組に屬する。かやうな性質の雌雄の相違は獸類には割合に少いが、鳥類や昆蟲類等には極めて普通で、且つ隨分著しいものがある。雞・「くじやく」が詩雄によつて形が違ひ、「きじ」・「錦雞」・鴨・「をしどり」などが雌雄によつて毛色の違ふことは、誰も知つて居るが、「大るり」と名づける「もず」に形の似た鳥は、雄は全身美しい瑠璃色、雌は全身茶色であるから、初めてその標本を見た西洋の學者は、雌雄を別の種類と考へ、各に學名を附けた。その他にも殆ど同一種とは思へぬ程に雌雄の異なる鳥類は澤山あつて、ニューギニヤに産する有名な極樂鳥のごときも、雄には實に美麗な白茶色の長い羽毛が總の形に兩翼から垂れて居るが、雌にはこのやうなものが全くないから、見た所がまるで違ふ。

[やぶちゃん注:「鬣」「たてがみ」と読む。

「大るり」スズメ目ヒタキ科オオルリ Cyanoptila cyanomelana ウィキの「オオルリ」によれば、『日本へは夏鳥として渡来・繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。姿も囀りも美しい』。全長約十六センチメートル、翼開長は約二十七 センチメートルで、『雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには』二~三年を『要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。雌はキビタキの雌やコサメビタキなどに似ている』。『コルリ、ルリビタキなど共に、「青い鳥」御三家の一つである』とある。雌雄の違いもリンク先で見られる。

「極樂鳥」スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae に属する鳥類の通称。和名は「風鳥」で「極楽鳥」「ゴクラクチョウ」という別名の方で人口に膾炙するが、これは英名の“Bird-of-Paradise”を和訳したもので、正式な和名としては採用されていない。ウィキの「フウチョウ科によれば、『オーストラリア区の熱帯に生息し、特にニューギニア島には多数の固有種が生息する。雄の成鳥が美しい飾り羽を持ち、繁殖期に多彩な求愛ダンスを踊ることで知られる。雌の成鳥は地味な外見をしている』。十六世紀、『ヨーロッパに初めてオオフウチョウがもたらされた時各個体は交易用に足を切り落とされた状態で運ばれていた。そのため、この鳥は一生枝にとまらず、風にのって飛んでいる bird of paradise (天国の鳥)と考えられた。また、昔風をえさにしていたとされることから「風鳥」と名づけられた』とある。雌雄の違いはこちらの絵を。]

北條九代記 卷第六 武藏守泰時執権 付 二位禪尼三浦義村を諫めらる〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅱ 北条政子、突如直々に三浦邸を訪問、三浦義村に諫言、翌日、義村は泰時の許へ参上、乱の未然の終息を報告、泰時、淡々と政村への悪意なきを仰せらる〉

二位禪尼、安からず思ひ給ひ、七月十七日の子刻(ねのこく)計(ばかり)に、駿河局計(ばかり)を召倶(めしぐ)して潛(ひそか)に駿河前司義村が家に入り給ふ。義村、思寄らず、恐れたる氣色なり。禪尼仰せけるやう、「前の陸奥守義時の卒去に付て、武蔵守泰時、鎌倉下向ありける所に、世の中靜ならず、陸奥四郎政村、式部丞光村等(ら)、頻(しきり)に義村が家に出入して密談の事あるの由、風聞す。若(もし)、泰時を謀りまゐらせん爲か、義時忠勤の大功、承久(しようきう)逆亂(げきらん)の治運(ぢうん)、干戈(かんくわ)靜謐(せいひつ)せし、其跡を繼ぎて關東の棟梁たるべき者は武蔵守泰時なり。誰か之を爭んや。政村、泰時の兩人、和平の諫を加へらるべし。政村を扶持(ふち)して叛逆(ほんぎやく)を企てられば、言語道斷の事なるべし。かく申すを用ひらるべきか、用ひまじき歟(か)、申し切るべし」とありければ、義村、申しけるは、「陸奥四郎政村は全く逆心なし。式部丞光宗等は用意ありと覺え候。仰の趣、畏りて制禁(せいきん)を加へ候はん。此事遁避(とんひ)仕るまじ」と誓言(せいごん)をもつて請合(うけあひ)申す。二位禪尼、「必ず和平(くわへい)の事打置き給ふな」とて、やがて御所にぞ歸り給ふ。夜明て後、三浦義村は泰時の方へ參りけるに、最殊(いとこと)となく出合ひて對面あり。義村、申されけるやう、「故義時の御時に、義村屢(しばしば)忠勤の抽(ぬき)いで、御懇志(ごこんし)を表せられ、四郎殿御元服の時、義村を烏帽子親とし、愚息泰村を御猶子(ごいうし)になさる。此芳志(はうし)あるを以て泰時、政村御兩所に付て、いづれを疎(おろそか)に存ずべき。只願ふ所は、兩所、御和平(くわへい)候へかし。式部丞は日比、計略の事、候歟(か)。義村、諷諫(ふうかん)いたし候へば漸く歸伏して候」とぞ申しける。武藏守〔の〕泰時、更に喜怒(きど)の色なく、「我は政村に、聊も野心なし。何事によりて別意を致さるべき」とぞ申されける。義村、心少し安堵して宿所にぞ歸りける。

 

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅱ 北条政子、突如直々に三浦邸を訪問、三浦義村に諫言、翌日、義村は泰時の許へ参上、乱の未然の終息を報告、泰時、淡々と政村への悪意なきを仰せらる〉

「駿河局」北条家に古くからいる女房で、政子の信頼厚く、女中頭的存在であった。

「式部丞光村」後文で分かるように伊賀「光宗」の誤り。三郎光村は義村の四男であるが、官位は「式部丞」ではない。

「用意あり」何か事を企もうとしておるようにては御座る。

「制禁」ある行為をさし止めること。

「遁避」遁(のが)れ避けること。

「打置き」物事をそのままに放っておく。

「御懇志を表せられ」特に私に目をお掛けなさって、懇ろなる御厚情をお示しになられ。

「四郎殿」北条政村。

「烏帽子親」仮親(かりおや)の一つ。元服する男子に烏帽子を被らせて烏帽子名(えぼしな:男子元服の際に幼名を改めて烏帽子親の名前から一字を貰ってつける元服名)をつける人。

「諷諫」遠回しに忠告すること。また、その忠告。

「何事によりて別意を致さるべき」一体、如何なる理由によって政村に敵意を抱かねばならぬなどということがあろうか? いや、ない。

 

 以下、「吾妻鏡」であるが、伊賀の乱関連でまず、貞應三(一二二四)年七月五日の条を示す。

 

○原文

五日庚子。鎌倉中物忩。光宗兄弟頻以往還于駿河前司義村許。是有相談事歟之由。人恠之。入夜。件兄弟群集于奥州御舊跡。〔後室居住。〕不可變此事之旨。各及誓言。或女房伺聞之。雖不知密語之始。事躰不審之由。告申武州。々々敢無動搖之氣。彼兄弟等不可變之由。成契約。尤神妙之旨被仰云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日庚子。鎌倉中物忩。光宗兄弟、頻りに以つて駿河前司義村が許(もと)に往還す。是れ、相ひ談ずる事有るかの由、人、之れを恠(あや)しむ。夜に入り、件(くだん)の兄弟、奥州の御舊跡〔後室、居住す。〕群集し、此の事を變ずべからずの旨、各々誓言(せいごん)に及ぶ。或る女房、之れを伺ひ聞き、密語の始めを知らずと雖も、事の躰(てい)不審の由、武州に告げ申す。武州、敢へて動搖の氣無し。彼(か)の兄弟等(ら)、變ずべからずの由、契約成すは、尤も神妙の旨、仰せらると云々。

・「光宗兄弟」光宗とその弟光資であろう。光宗の兄伊賀光季は既に見てきたように、承久の乱勃発時、高辻京極にあった宿所を襲撃されて自害している。

・「奥州」故北条義時。

・「此の事を變ずべからず」このこと(内容不明)について決して変節することは致しません。

・「武州」北条泰時。]

 

 以下、四日(六・九・十一・十三日)に亙って天空の星の運行に異常な変異が起こっていることが記され、十三日には特別な祭式が挙行されている。十一と十六日には故義時の四七日(よつなぬか:二十八日目の法事。)と五七日(いつなぬか:三十五日目の法事。)が行われている。

 次に十七及び十八日の条を続けて出す。

 

○原文

十七日壬子。晴。近國輩競集。於門々戸々卜居。今夕大物忩。子尅。二位家以女房駿河局計爲御共。潛渡御于駿河前司義村宅。義村殊敬屈(原文口偏)。二品仰云。就奥州卒去。武州下向之後。人成群。世不靜。陸奥四郎政村。幷式部丞光宗等。頻出入義村之許。有密談事之由風聞。是何事哉。不得其意。若相度武州。欲獨歩歟。去承久逆亂之時。關東治運。雖爲天命。半在武州之功哉。凡奥州鎭數度烟塵。戰干伐令靜謐訖。繼其跡。可爲關東棟梁者。武州也。無武州也。諸人爭久運哉。政村与義村。如親子。何無談合之疑乎。兩人無事之樣。須加諷諫者。義村申不知之由。二品猶不用。令扶持政村。可有濫世企否。可廻和平計否。早可申切之旨。重被仰。義村云。陸奥四郎全無逆心歟。光宗等者有用意事云々。尤可加禁制之由。及誓言之間。令還給云々。

十八日癸丑。晴。駿河前司義村謁申武州云。故大夫殿御時。義村抽微忠之間。爲被表御懇志。四郎主御元服之時。以義村被用加冠役訖。以愚息泰村男爲御猶子。思其芳恩。貴殿与四郎主。就兩所御事。爭存好惡哉。只所庶幾者。世之安平也。光宗日者聊有計略事歟。義村盡諷詞之間。漸歸伏畢者。武州不喜不驚。下官爲政村更不挿害心。依何事可存阿黨哉之旨。返答給云々。

○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挟み、直接話法化したため、やや訓読表記に違和感があるかも知れない)

十七日壬子。晴る。近國の輩、競ひ集まり、門々戸々に於て卜居す。今夕、大いに物忩(ぶつそう)。子の尅《深夜十二時前後》、二位家、女房駿河局計りを以つて御共と爲し、潛かに駿河前司義村が宅に渡御す。義村殊に敬屈(けいくつ)す。二品、仰せて云はく、

「奥州卒去に就きて、武州下向の後、人、群れを成し、世、靜まらず。陸奥四郎政村幷びに式部丞光宗等(ら)、頻りに義村が許へ出入し、密談の事有るの由、風聞す。是れ何事ぞや。其の意(こころ)を得ず。若し、武州を相ひ度(はか)りて、獨歩せんと欲するか。去ぬる承久の逆亂之時、關東の治運(ぢうん)、天命たりと雖も、半ばは武州の功に在るか。凡そ奥州、數度の烟塵鎭め、干伐を戰はせて靜謐せしめ訖んぬ。其の跡を繼ぎ、關東の棟梁たるべき者は、武州なり。武州無くんば、諸人、爭(いか)でか運を久しうせんや。政村と義村とは、親子のごとし。何ぞ談合の疑ひ無からんや。兩人無事の樣に、須らく諷諫を加ふべし。」

てへれば、義村、

「知らざる。」

の由を申す。二品、猶ほ用ひず、

「政村を扶持せしめ、濫世(らんせい)の企(くはだ)て有るべきや否や、和平の計(はかりごと)を廻らすべきや否や、早く申し切るべき。」

の旨、重ねて仰せらる。義村、云はく、

「陸奥四郎は全く逆心無きか。光宗等は用意の事有り。」

と云々。

「尤も禁制を加へるべき。」

の由、誓言に及ぶの間、還らしめ給ふと云々。

 

十八日癸丑。晴。駿河前司義村、武州に謁し、申して云はく、

「故大夫の御時、義村、微忠を抽(ぬき)んづるの間、御懇志を表せられんが爲に、四郎主《北条政村》御元服の時、義村を以つて加冠の役に用ゐられ訖んぬ。愚息泰村が男を以つて御猶子(ごいうし)と爲す。其の芳恩を思ふに、貴殿と四郎主、兩所の御事に就きては、爭でか好惡を存ぜんや。只だ、庶幾(しよき)する所は、世の安平なり。光宗、日者(ひごろ)聊か計略の事有るか。義村、諷詞(ふうし)を盡すの間、漸くに歸伏し畢(をは)んぬ。」

てへれば、武州、喜ばず、驚かず、

「下官《卑小の一人称》は政村が爲に更に害心を插(さしはさ)まず。何事に依つてか阿黨(あたう)を存ずべききや。」

の旨、返答し給ふと云々。

 

・「庶幾」心から願うこと。

・「諷詞」遠回しに言うこと。

・「阿黨存ず」原義は権力のある者に阿(おもね)り、組すること。また、その仲間を指すが、ここはやや捩じれた表現で一方の権威とその取り巻きの敵対集団として認識する、という謂いのようである。]

耳嚢 巻之九 入定の僧も有事

 入定の僧も有事

 

 寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組同心組頭なりける栗原次郎左衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘候處、八疊敷程廣掘(ひろくほり)候穴室あり。其内に人座し候やう成(なる)形見へしゆゑ立寄(たちより)見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰のごとく、其脇に鐘一つ殘り其外調度あるやうなれど、悉く腐(くさ)れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年號などもありつらんを、後の祟(たたり)をおそれいみて其儘に埋(うづ)め、其所に印などたてし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本話は文章に異同はあるが、耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事と同話である。

 

 入定の僧を掘出せし事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭萩原賴母組千人同心某が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚て内へ人を入れ見しに、巾六七尺其餘も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘一つありて、一人の僧形、其邊に結迦扶座の體なり。いかなる者よと、大勢松明など入て立寄見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。

 

しかも、これはそこにも掲げた岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の巻之十に所収する「入定の僧の事」とははほぼ完全に相同である。一応、再掲しておく。

 

    入定の僧の事

 

 

 寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄に窪むに付、怪しみて掘ける處、八疊敷程廣く穴室有り。其内に人坐候樣成形見えし故立寄見ければ、無程崩れて塵灰の如し。其脇に鉦一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。

 

「委く」には、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。

 注はリンク先に譲る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 入定の僧も実在するという事

 

 寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)組の同心組頭であった栗原次郎左衛門方の墓所が俄かに陥没した。

 そこで、覗いてみると、何やらん、空洞のようなものが見えたによって、怪しく思って試みに少し掘ってみて御座ったところ、凡そ八畳敷ほどもあろうかという、広く掘ってある穴状の部屋があった。

 その内部に、何か、こう、人が座って御座るような感じの、これ――人形(ひとがた)――が見えたによって、恐る恐る、その近くまで立ち寄って見てみようとした――

――ところが、それと同時に、ほどのぅ、その人形(ひとがた)、これ、一切の残骸も残さず、完膚無きまでに崩れ落ち、ただ塵灰(じんかい)の山の如くに成り果てて御座ったと申す。

 その、塵埃(じんあい)の積もった脇には、叩き鉦が、これ、一つ、残っておるだけにて、その他には、何か調度らしきもののあるようには見えたが、これらは悉く、腐(くた)れて、その形から識別出来得るものは、たた、その鉦のみであった、と申す。

 このたった一つの入定(にゅうじょう)僧と思しい者が誰かを知り得る物証と言い得る鉦には、何やらん、年号なんども彫り込まれてあったようで御座ったれど、後の祟りを恐れ忌(い)んで、そのままに再び埋め戻してしまい、そこには後代の栗原家子孫にのみ分かるような、さり気なき印なんどを建ておいた由にて御座る。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 92 寂しさや須磨にかちたる濱の秋

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その四】同じく、いろの浜本隆寺での句。「奥の細道」の同段に第一に収録された。この句順は実に計算されていて素晴らしい。

 

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

  越前いろの濱にて

寂しさや須磨にかちたるうらの秋

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「初蟬」(風国編・元禄九年刊)の句形。

 言わずもがな、「源氏物語」「須磨」の、

 須磨には、いとど心盡くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覺まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、彈きさしたまひて、

 

  戀ひわびて泣く音にまがふ浦波は

  思ふ方より風や吹くらむ

 

と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。

 

のシークエンスを受けはする。しかし彼の「寂しさ」は光などよりも、もっと多層的で神経症的である。ここにあるのは芭蕉という、彼自身にとっても不可解な孤独者の悲哀と寂寥を孕んだ「寂しさ」である。これは正常なる人間の、魂の平穏をかろうじて保っているところの極北の精神――孤高の蕊(ずい)そのものである、と私は思うのである。そこを読み解けない者は――遂に――芭蕉を捉え損なうであろう――]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 91 浪の間や小貝にまじる萩の塵

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その三】同じく、いろの浜本隆寺での句。「奥の細道」の同段に次の「寂しさや」句の後に収録された。

 

  ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の

  島に舟のり出(いで)たり。法花寺(ほ

  つけでら)にあがりて酒のむ

浪の間(ま)や小貝にまじる萩の塵

 

[やぶちゃん注:「類柑子」(其角著・宝永四(一七〇七)年跋)から。「種の島」の「島」はママ。

 私は「塵」は芭蕉自身だと思う。誰もそうは言っていないけれども、それは老残の彼である……されど……花は残るべし……だ。……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 90 衣着て小貝拾はんいろの月

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その二】同じく、いろの浜本隆寺での句。

 

  種(いろ)の濱

衣(ころも)着て小貝拾はんいろの月

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。衣は僧衣、西行の面影である。「月」は十六夜(いざよい)の月。前日は雨に祟られて、無念の思い――というより私は慙愧の念と言いたいのだが――をした芭蕉は、このいろの浜で十六夜の名月を賞翫し得たのであった。そうしたある種の魂の爽快感が、これら四句の名吟を生んだとも言えよう。これが「奥の細道」のコーダであったと私は思っている。……因みにかの曾良もまさにこの七日前の八月九日に、この本隆寺に泊まっていたのである。……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 89 小萩ちれますほの小貝小盃

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その一】この日は、前夜とうって変わって天気晴朗(伊勢長島の天候ではあるが、当時そこにいた曾良の日記にも快晴とある)となり、例の敦賀の廻船問屋天屋五郎右衛門の接待で、敦賀湾北西岸にある種(いろ)の浜に舟を走らせ、一日(いちじつ)、遊んだ(この事実は以下に出すように「奥の細道」に出る)。

 

  いろの濱に誘引(いざなは)れて

小萩ちれますほの小貝小盃(さかづき)

 

[やぶちゃん注:「薦獅子集」(こもじししゅう・巴水編・元禄六年自序)。「俳諧四幅対」には、『色濱泛舟(色の濱に舟を泛(うか)ぶ)』と前書する。

 「ますほの小貝」貝類収集家の間では斧足綱マルスダレガイ目チドリマスオガイ科チドリマスオガイ Donacilla picta に同定されている。殻長は約一・一センチメートル、殻高七ミリ、殻幅四ミリメートル。殻は小さく卵型三角形で殻は大きさに対して比較的厚く硬い。前背縁は後背縁より長く,殻頂は後方に寄り、個体によっては殻頂部周辺がかなり明るい桃色を帯びている。腹縁はゆるやかに彎曲する。殻頂下内面には大きな弾体受けを有し、それを挟んで強い歯がある。外套線は弯入する。潮下帯の砂地に棲息する。いろの浜に打ち上がっているか? 我々収集家を侮ってはいけない。Shellsfukui 氏のブログ「福井の打上げ貝」の「チドリマスオガイ」をご覧あれ。太平洋側は相模湾、日本海側は福井が北限であるから、芭蕉は「奥の細道」の旅では、ここで初めてこの貝を目にした。グーグル画像検索「Donacilla picta

 詠まれたのは本文に出るいろの浜近在の本隆寺(現在の敦賀市色浜(いろがはま)にある法華宗の寺院)での茶席と後座の酒食の宴であるが、句のイメージは小貝散る浜の野点(のだて)のそれである(本隆寺は現在の海岸線である色浜海水浴場からは凡そ九十メートル近く離れている)。一句のもとは西行の「山家集」に載る当地で詠んだとされる(但し、西行が越前に来たという事実は知られていない)知られた、

 

潮染むるますほの小貝拾ふとて色の濱とは言ふにはあるらん

 

で、本歌は続く二句の本歌でもある。なお、本歌のロケーションを事実に即して浜から離れた本隆寺に馬鹿正直に設定すると、句のイメージが著しく委縮するので注意されたい。有意に海から離れた寺の庭に散った萩の花に小貝が混じるはずがないことをいちいち注意しなくてはならないような評釈、がっちがちの国土地理院みたような評釈(ここまでで大分お世話になっているので誰とは敢えて言わない)は、真正の俳句の鑑賞とは言えないと私は思っている。

 この句、当初(土芳自筆「赤冊子草稿」・宝永五~六(一七〇八~〇九)年稿等)から後に出す「奥の細道」に載る「浪の間や小貝にまじる萩の塵」という句の初案かとされているが(山本健吉氏の「芭蕉全句」には同行していた等栽が寺に残した句文にこの句が認められてあるとある。これは以下に見るように「奥の細道」に載る事実である)、山本氏も述べておられる通り、私も別案と採る。山本氏は『小萩・小貝・小盃と可憐なものを並べ立てて、「こ」の頭韻とi音の脚韻とを重ねて、すこぶるリズミカルである。その句のリズムに乗るかのように「小萩ちれ」と、小萩へ言いかけるような発想をもっている。小貝はまた、小盃をも連想させる。小貝は浜、小萩は庭、小盃は床の上ながら、離れ離れ三つの景物が作者の脳裏で一つになり、種の浜の秋景色を描き出す』と優れた評釈をなされておられる。私は軽みの句ながら、このいろの浜で作られた本句を含む以下四句は「奥の細道」の最後の旅のぼろぼろの駝鳥みたような句の中にあって、流れ着いた小貝、散った小萩のごとき、可憐な佳句であると思う。

 本句のみ、「奥の細道」には採られていない。可哀そうなので、ここで最後に「奥の細道」のいろの浜の段を引いて、本句を賞したい。

 *

十六日空晴たれはますほの小貝ひろ

はんと種の濱に舟を走ス海上七

里あり天屋何某と云もの破籠さゝ

へなとこまやかにしたゝめさせ僕あ

また舟にとりのせて追風時の間に

吹付ぬ濱はわつかなる蜑の小家

にて侘しき法華寺有爰にちや

をのみ酒をあたゝめて夕暮のさひしさ

感に堪たり

  さひしさやすまに勝たる濱の秋

  波の間や小貝にましる萩の塵

其日の日記等栽に筆をとらせて

寺に殘

   *

「走ス」従来、「はす」と読みならわしている。

「海上七里あり」「海上」は「かいしやう(かいしょう)」と読む。二七・四九キロメートル。実際は海上三里(約一一・七八キロメートル)という、と伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道」「敦賀」の段の注にはある。地図上でシュミレーションしてみると、十キロメートル強ある。同注に『現在は敦賀原発建設時に工事用の陸路が建設されている』とある。現代のいろの浜の彼方には、チェレンコフの業火の蒼白い色が見えるのである。

「天屋何某」「てんやなにがし」と読む。既に示した敦賀の廻船問屋主人天屋五郎右衛門。

「破籠」「わりご」と読む。薄い檜の白木を曲げ物に作った弁当箱。

「小竹筒」「ささえ」と読む。竹筒を利用した携帯用の酒入れ。

「僕」「しもべ」と読む。

「追風時の間に吹き付きぬ」「源氏物語」の「須磨」へ辿りつく場面、『道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、 御舟に乘りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり』をインスパイアして、後の「寂しさや」の句への匂いつけとする。

「わづかなる」一叢(ひとむら)の貧しげな。

「侘しき」「わづかなる海士の小家」の対句であるからと言って「もの寂しい」とか「貧素な」などと訳している見かけるが、デリカシーを欠く。「もの寂びた」ぐらいにして欲しいものだ。

「法華寺」「ほつけでら」と読んで、法華宗(ここでは日蓮宗を指している)の寺院という一般名詞。既に説明した本隆寺。]

2014/09/28

結婚式出席の為 閉店

本日は教え子の結婚式のため、これにて閉店と致しまする――心朽窩主人敬白

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 年始 / 合鴨

 日本人は年頭の訪問を遵守するのに当って、非常に形式的である。紳士は訪問して、入口にある函なり籠なりに名刺を置くか、又は屋内に入って茶か酒をすこし飲む。その後数日して、淑女達が訪問する。元日には、日本の役人達がそれぞれ役所の頭株の所へ行く。また宮城へ行く文武百官も見受ける。外国風の服装をした者を見ると、中々おかしい。新年の祝は一週間続き、その間はどんな仕事をさせることも不可能である。この陽気さのすべてに比較すると、単に窓に花環若干を下げるだけに止るニューイングランドの新年祝賀の方法が、如何に四角四面で、真面目であることよ! ニューヨーク市で笛を吹き立てる野蛮さは、只支那人のガンガラ騷ぎに於てのみ、同等なものを見出す。

[やぶちゃん注:「その後数日して、淑女達が訪問する」夏目漱石の「こゝろ」で、Kが先生に衝撃の告白をする前段のシーンで「女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらう」と質問する下りがあったのを思い出す。これは女正月(めしょうがつ)のことで、一月十五日の小正月前後の女性の年始回りを指す。正月は女性は家内の事始と親戚や年賀の挨拶客の接待で忙しくて休みがなく、年始廻りの挨拶も出来なかったため、年賀の行事が一段落した小正月の時期に一息ついたことから「女正月」と呼んだ。地方によって時期や内容が大きく異なるが、場合によっては男が家事一切を取り仕切って女を休ませる風習があった地方もあった。最早、このような習慣は都会では全く失われてしまった。

「役所の頭株」原文は“the heads of departments”。部門の長官。部長。

「支那人のガンガラ騷ぎ」原文は“the racket made by the Chinese”。中国人がする(旧正月を祝う)どんちゃん騒ぎ、の謂いか。]


M489

図―489

 

 我々の家へ、大きな、ふとった刁鴨(あいがも)二羽の贈物が届いた(図489)。これ等は四本の短い竹の脚を持つ、四角くて浅い籠に入っていた。刁鴨は野菜と緑葉と、三個の丸い檸檬(レモン)との上に置いてあった。刁鴨はお汁にし、檸檬はしぼってそれにかけるのだが、日本で物を贈る方法が、如何に手際よく、そして完全であるかは、これでも判るであろう。この国では贈物というものが非常に深い意味を持っている。そして如何に些少であっても、必ず熨斗(のし)がつけられる。

[やぶちゃん注:「刁鴨」この字の正しい音は「ちょうかも」である(この字は「悪い」「欺く」「乱れる」などのよくない意味を持っており、不詳。交雑種であることを指すものか。識者の御教授を乞うものである)。カモ目カモ科マガモ属マガモ品種アイガモ(合鴨) Anas platyrhynchos var. domesticus 。野生のマガモ(Anas platyrhynchos)とそれを家禽化したアヒルとの交雑交配種のこと(アヒルの学名はアイガモと同じ)。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 春

   昭和十三年

 

〈昭和十三年・春〉

 

初機のやまひこしるき奥嶺かな

 

深山川連理(れんり)の鳥に年たちぬ

 

春還る山川機婦に奏(かな)でけり

 

春淺き灯を神農にたてまつる

 

初竈みづほの飯(いひ)は白かりき

 

ねこやなぎ草籠にして畔火ふむ

 

  富士川波木井のほとり

 

富士渡し姉妹の尼に淺き春

 

[やぶちゃん注:現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井を流れる、日本三大急流富士川の支流域地名。大城川と相又川が合流して波木井川となり、身延町を南から北に大きく蛇行して富士川に合流する。]

 

  鰍澤古宿

 

春淺くやくざを泊むるはたごかな

 

[やぶちゃん注:「鰍澤」山梨県南巨摩郡旧鰍沢町(かじかざわちょう)。富士川に面し、江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置されて栄えた。近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い、商業圏の拠点としての役割が低下、特に近年は過疎化が進行している。現在は北隣の増穂町と合併して富士川町(ふじかわちょう)となっている(ウィキの「鰍沢町」に拠る)。それにしても「やくざ俳句」とは傑作!]

 

國原の水縦横に彼岸鐘

 

絨毯に手籠の猫子はなたれぬ

 

壁爐冷え猫子あくまで白妙に

 

花祭みづ山の塔そびえたり

 

[やぶちゃん注:「花祭」灌仏会・仏生会のこと。釈迦の生誕とされる四月八日に行われる。「花祭」は明治以降の呼称。]

 

彼岸會の故山邃(ふか)まるところかな

 

暾にぬれて陸橋の梅さき滿ちぬ

 

[やぶちゃん注:「暾」朝日。「ひ」と訓じているか。]

 

梅ちりて蘭靑みたる山路かな

 

宿入の身をなよなよと會釋かな

 

[やぶちゃん注:「なよなよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

花菜蔭蝶こぼれては地に跳ねぬ

 

夜嵐のしづまる雲に飛燕みゆ

 

  ころしも三月みそか

 

歸省子の擁すギターに宿雪盡く

 

[やぶちゃん注:「ころしも」とは「頃しも」(強意の副助詞「し」+詠嘆の係助詞「も」)で、その頃丁度の意。「宿雪」は「ねゆき」と訓じているか。]

 

  興津園試作場

 

暮春の娘柑樹の珠に戲れぬ

 

[やぶちゃん注:「興津農林省園藝試作場」は明治三五(一九〇二)年に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市清水区)に創られた農商務省農事試験場園芸部が大正一〇(一九二一)年に農林省園芸試験場として独立したもので、現在の茨城県つくば市藤本にある独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の一つである果樹研究所の前身。ナシの豊水・幸水、リンゴのふじなどを育成、また、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.のポトマック河畔にある桜並木の桜は明治の末に当時の東京市長尾崎行雄が送ったものであるが、その桜の苗木の育成を担当したのは当時の農商務省農事試験場園芸部(現在独立分離したカンキツ研究興津拠点)でこのワシントンの桜と兄弟の桜が興津拠点に現在も植栽されており、薄寒桜と呼ばれて親しまれている、と参照したウィキの「果樹研究所」にある。「山廬集」の昭和一〇(一九三五)年の夏の句にも、

 

  興津農林省園藝試作場

白靴に場(には)の睡蓮夕燒けぬ

がある。]

 

春の雷白晝(まひる)の山を邃うせり

 

[やぶちゃん注:「邃う」は先行句にもある通り、「ふこう」(深う)と読む。]

 

風吹いて蝶杣山を迅くすぎぬ

 

   註――杣山は木を伐り出す山の稱

 

山墓の濡るむら雨に櫨子(しとみ)咲く

 

[やぶちゃん注:「櫨子(しとみ)」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜) Chaenomeles japonica の別名。普通の木瓜のことである。通常は「しどみ」であるが、拡大してみても濁点が認められないので暫くママとする。「しどみ」とは、野焼きの際、これ以上延焼させたくない境にこれを植えて火を止める「火止め」から「しどめ」「しどみ」となったとも、また赤い花から「朱留(しゅどめ)」となりそれが転訛したものとも言われる(語源説は個人ブログ「爺ちゃんの花日記」のクサボケ(しどみ) 今日の誕生日の花は「クサボケ」を参照させて戴いた)。]

 

  大德坊句筵

 

松蟬に神山雲遠ざけぬ

 

[やぶちゃん注:「山廬集」の昭和五(一九三〇)年の句にも、

 

  大谷山大德坊

 

神山や風呂たく煙に遲ざくら

 

と出るのであるが、「大德坊」は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

別れ霜音質花月光りさす

 

春驟雨迅く蕊しるき野茨かな

 

龍舌蘭夜は闌春の星下る

 

[やぶちゃん注:「闌春」は「らんしゆん(らんしゅん」で、春の中ほどの意。]

 

山櫻嶺々に靑草香をはなつ

 

風雨凪ぐ大巖山のなごり花

 

  四月十七日、粕谷の蘆花舊居を訪ふ

 

蘆花舊廬灰しろたへに春火桶

 

[やぶちゃん注:現在の東京都世田谷区粕谷にある徳富蘆花の旧宅。まさにこの直近の昭和一三(一九三八)年二月二十七日に、既に未亡人愛子氏によって東京都に寄附されていたものが、都立公園蘆花恒春園として開園していた。個人的に私の非常に好きな場所である。]

 

  山盧庭前

 

巖温く芽牡丹たわむ雨の絲

 

  某君経営の温室に遊ぶ

 

土蒸してメロン花咲く小晝時

 

  六峰氏より贈られたる觀世音を祀らんと

  するに折柄山上曹源師來庵、開眼供養せ

  らる

 

白木瓜に翳料峭と推古佛

 

[やぶちゃん注:「六峰氏」不詳。「山上曹源」(やまがみそうげん 明治一一(一八七八)年~昭和三二(一九五七)年)は曹洞宗の禅僧で仏教学者。佐賀県生まれ。号、霊岳。インド・セイロン(スリランカ)に留学、サンスクリット及びインド哲学を学び、帰国後は母校曹洞宗大学(現在の駒沢大学)教授・駒沢大学長などを勤めた。著作に「仏教思想系統論」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「料峭」は春風が肌にうすら寒く感じられるさま。「れうせう(りょうしょう)」と読み、春風が肌に薄ら寒く感じられるさまをいう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅱ) ~ 了

丸山稲荷社(まるやまいなりしや) 本社の西山上〔丸山と號す〕にあり、古上宮の地に、稻荷の社あり、松ケ岡明神と號せしを、建久中賴朝卿、本社造營の時、此地に遷され、丸山明神と唱ふ、後(のち)星霜を經て、頽廢せしかば寛文《》中、二王門前にありし、稻荷社を爰に移す、則(すなはち)今の社是なり、其頃は十一面觀音と、醉臥人の木像(大工遠江里と云へる者、甚酒を好(このみ)て、此像を寄進すと云ふ)を安し、酒(さけ)の宮(みや)と號せしが、醉臥(すゐぐわ)の像は非禮なりとて、是を廢し、觀音を以て、本地佛とす云々風土記及鎌倉志に見えたり。

[やぶちゃん注:この稲荷は現在の鶴岡八幡宮上宮西側にある丸山と呼ぶ小高い丘の上にある鶴岡八幡宮末社丸山稲荷社本殿で、社殿によれば建久二(一一九一)年の本宮造営に先だって、現在地に移築された古来からの地主神と伝える。本殿は鶴岡八幡宮境内にある建造物の中では最も古く、国重要文化財に指定されている。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」中に、

松が岡に鎌を埋み給ふ事、松は木公と書く。是れ司東(東を司る)義也。彼此(かれこれ)金を兼る人君符合する者乎。鎌倉山に詠松(松を詠める)事、上古の作者末代を鑒(かんが)みるに非ずやと有。今按ずるに、大織冠、鎌を埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故に後(うしろ)の山を大臣(たいしん)山と云なり。此地に本は稻荷の社(やしろ)ありしを、賴朝卿、建久二年に、地主稻荷を西の方(かた)丸山に移して、八幡宮を此の所に勸請し給ふ。是の故に上宮(かみのみや)を松が岡の八幡宮と云ふ。【鶴岡社務次第】にも、松が岡八幡宮別當職とあるは、上の宮の事也。社務の云傳るにも、上の宮を松が岡と云、下(しも)の宮を鶴が岡と云ふ。又松が岡の明神と云て、鶴が岡にて御供具(そな)ふる神あり。丸山の稻荷明神なり。是れ舊に依て松が岡の明神と云なり。俗に傳ふる淨妙寺中の稻荷明神を、鎌を埋(うづ)みたる舊地と云ひ、又東慶總持寺を、松が岡の舊地と云は皆誤りなり。

とある。引用文中の「東慶總持寺」は東慶寺のこと。山号は松岡山で正しい寺号は東慶総持禅寺と称する。総持とは陀羅尼の訳語でもあるが、禅の初祖達磨大師の弟子尼総持に因んで禅の尼寺の意を含むものと推測される。植田は地名古称を誤りとするが、「相模風土記稿」には『里俗呼んで松岡と稱す』とあり、東慶寺は現地では古くから「松ヶ岡」と呼ばれ、歴史的な公文書にもそう書かれていることが多い。これがこの「東慶寺」の地名であった可能性は極めて高いと言ってよく、鎌倉には二つの「松ヶ岡」が存在したと考える方が自然である。

 本社は「新編鎌倉志卷之一」には「稻荷社」の項で出る。

稻荷社(いなりのやしろ) 本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣(いがき)三間四方也。此山を丸山と云なり。本社の地に、初は稻荷の社ありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷の社を此山に移して、今の本社を剏建(さうけん)せらる。爾後頽破す。今の稻荷の社ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥(すいぐは)の人の木像とを安じ、酒(さけ)の宮と號す。近き頃大工遠江(とをとをみ)と云者有。甚だ酒を好(このん)で此を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體(てい)神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊(ふる)きに依て松岡(まつがをか)の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。

この「酒の宮」については、恐らく本書以外に別ソースのデータはないように思われるが、まことに面白く興味深い話だけに惜しい。もし、御存知の方があれば、是非、御教授願いたい。]

 

下の宮 若宮と稱す、上宮石階の下、東方にあり、若宮大權現の額を掲ぐ、祭神四坐、中央は 仁德天皇、右は久禮、宇禮、左は若殿、本社(ほんしや)、幣殿、拜殿、向拜等(とう)あり、三十六歌仙の額を扁す、是(これ)元文御修理(ごしゆうり)の時、造らるゝ所なり、治承四《一一八〇》年十月、源賴朝由比郷より移して、建立ありし社なり、當國(たうごく)桑原郡を以て、供料所(くれうしよ)となす、十二月、鳥居を建(たつ)、養和元《一一八一》年正月、賴朝參宮して神馬を奉り、法華經を聽聞せらる、閏二月、立願に倚て、七ケ日參詣す、神託あり、此後參宮屢(しばしば)あらし事、東鑑其外記錄等に見えたり、五月、社頭營作の沙汰あり、六月材木由比濱に着岸す、七月、武州淺草の工匠(かうしやう)を召(めし)て、造營の事始あり、此月、上棟の儀を行ひ、八月正遷宮あら、壽永元《一一八二》年六月、社頭に怪異あり、八月賴家誕生によりて、龍蹄(りうてい)を奉納せらる、九月賴朝參宮の時、拜殿にて、僧圓曉に、別當職を命す、二年二月、當國高田、田島の二郷、及武州瓺尻郷を、社領に寄附あり[やぶちゃん注:「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。]、元曆元《一一八四》年四月、左馬頭能保參詣す、是(これ)新任拜賀の爲なり、文治二《一一八六》年五月、黄蝶(くわうえふ)の怪(くわい)あるをもて、臨時に神樂を行はれ、託宣の事に依て、神馬(しんめ)を奉納あり、八月賴朝參宮の時、西行(さいぎやう)鳥居の邊に徘徊す、依て其名を問(とは)しめられ、奉幣の後、謁見す可き由を命せらる、四年三月、梶原平三景時本願として、新寫の大般若經を供養す、八月、岡崎四郎義實をして、一百日の間、當社に宿直響衛(しゆくちよくけいゑい)せしめらる、十月、大庭平太景義、社頭警衛の爲、社地に小屋を搆へ、寓宿の所とす、賴朝來臨ありて、庭上(ていじやう)の霜葉を賞す十一月、馬塲の樹木倒るゝに依て、賴朝參宮、神馬を奉納あり、五年八月、奧州秀衡追討の祈禱として、夫人女房等をして、百度詣をなさしむ、十二月、奧州凱陣(がいじん)の報賽として、夫人參宮す、建久二《一一九一》年三月、神殿巳下回祿に罹る、賴朝參詣ありて、礎石を拜し、涕泣(ていきう)を催さる、十三日へ假殿に遷宮あり、八月、本殿上棟、十一月、落成して正遷宮の式を行ふ、三年正月、修正會を行はる、建仁三《一二〇三》年六月、鳩一羽、寶殿の棟上より落て死す、嘉祿二《一二二六》年、十月、神殿修理により、神體を竈殿に遷す、十二月、正遷宮の儀あり、嘉禎二《一二三六》年四月、社頭に羽蟻集る、寛元二《一二四四》年正月、天變(てんへん)に依り、祈(いのり)を命せらる、五月、世子乙若、病惱(びやうのう)の祈禱として、大般若經を轉讀す、寶治二《一二四八》年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す、建仁三《一二〇三》年七月、怪異の事に依て、八講を行ふ、建長四《一二五二》年正月、神殿に怪異あり、文永二《一二六五》年三月管絃講(きわんげんかう)を行ふ、弘安四《一二八一》年七月蒙古退治の祈(いのり)あり、正和四《一三一五》年三月、炎に罹り、六月再建の事始あり、五年四月、正遷宮あり、元弘三《一三三三》年五月、北條高時滅亡の時、新田義貞拜殿にて首級を實檢し、神殿に入て重賓を披見あり、延元元《一三三六》年八月、惡徒等(ら)社頭に濫入し、神寶を奪(うばは)んとす、時に宿直に在し、小栗十郎防戰するに依て、惡徒等退散す、十郎創を被りて終(つひ)に死す、曆應元《一三三八》年五月、神殿鳴動す、二年八月、社頭にて、世上無爲(せじやうむい)の祈禱を修す、應永廿二《一四一五》年五月、社頭にて、最勝王經の講讀を始む、永正《一五〇四~一五二一》の頃は、宮殿大(おほい)に破壞せり、天文元《一五三二》年十月、中門を修理す、三年十一月、社邊に光り物あり、四年二月、奈良大工藤朝、寶前に常燈を寄附す、九年北條氏綱、神殿を再興す、天正二《一五七四》年閏十一月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡及雲板を寄附す、例祭四月三日、東鑑には此(この)例祭を、臨時祭(りんじさい)とも記せり、當日流鏑馬、馬長、競馬、相撲等(とう)あり、今皆廢す、正月四日修正會(しうせいゑ)を行ふ、按ずるに天正十九《一五九一》年の修理圖に、當宮の前に樓門あり、其左右に續きて、廻廊を圖せり、東鑑にも、當社廻廊の事、往々見ゆ、元曆元《一一八四》年正月、廊中にて法華八講を行ふ、四月、三善康信入道善信、賴朝に謁す。文治二《一一八六》年四月、賴朝及夫人參宮の次、靜女の舞曲を見物す、四年二月、廻廊にて、流鏑馬を覽る、五年四月、廊内にして、神事の相撲あり、建久元《一二一九》年二月、大般若經を輪讀す、二年三月、囘祿に罹り、八月、上棟あり、建仁二《一二〇二》年八月西の廊に鳩來(きたり)て、數刻去らず、依て、問答講を修す、賴家來て是を聽聞す、三年七月、鴿鳥の怪あり、建長六《一二五四》年五月、神事(じんじ)の時鬪亂(たうらん)ありて、殺害(せつがい)に及ふ、是に依て造替(つくりかへ)あるべき由、評議あり、此餘、賴朝及泰幣の使等、廻廊に着座の事見えたれど、爰に略せり、社前に銅燈二基を置西方末社の傍に、槐樹あり、社傳に、應神天天皇、槐樹の下にして降誕ありし故、此社地にも植(うゑ)しなり、故に安産守護の樹と稱せりと云ふ。

[やぶちゃん注:「武州瓺尻郷を、社領に寄附あり」「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。これは「たけじり」と読むようで、現在の埼玉県熊谷市三ケ尻(みかじり)周辺に相当する。

「寶治二年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す」の「家時」は「義氏」の誤り。しかも時系列に変調をきたしている。このデータは「吾妻鏡」ではなく鶴岡八幡宮文書に拠るデータであるから、筆者が複数の資料を元に本項を書き、その結果として錯入してしまったものと思われる。

「管絃講」仏前で読経とともに管絃を演奏して仏徳を讃える法会。「かげんこう」とも読む。]

 

白旗明神社  其以前は上宮の西にありて周圍に玉垣を築き、三間に二間の祠(し)なりしこと、鎌倉志に見えたり。新編相撲風土記稿云、賴朝を祀る、木像あり、左右に住吉、聖天を合祀す、賴家の造建(ざうけん)なりと云ふ、元旦に尊供あり、正月十三日、神事(じんじ)を行ふ、鎌倉管領年首の拜賀に、先當社を拜して、後(のち)本社に詣(まい)るを例とす、天文九年北條氏綱再建(さいえん)す、天正十八《一五九〇》年、小田原凱陣の時、豐臣秀吉當社に詣し賴朝影像を見る、當社も文政の災(さい)に烏有し、十一年御再建あり、御殿司職(ごでんしゝよく)司(つかさ)とれり、と今若宮の東に遷す武衛殿と號せり。

[やぶちゃん注:「文政の災」先に出た文政四(一八二一)年一月十七日の夜に襲った火災。上宮とともに全焼したものと思われる。]

 

馬場  東鑑、文治二《一一八六》年十一月條に、馬場本假屋(ばゞほんかりや)とあれは、其項既に開かれしなり、三年八月放生會の時、始て流鏑馬あり、此後(このゝち)鎌倉將軍、及夫人等、馬塲の棧舖にして、流鏑馬見物の事往々所見あれと、爰に省けり、四年十一月、馬塲の木、風なきに倒る、正治二《一二〇〇》年五月、神事(しんじ)の時、馬塲にて長江四郎明義か僕從(ぼくじゆう)、刄傷(にんじやう)に及ふ、承元四《一二一一》年八月、始て神事以前に、流鏑馬射手の堪否を試(こゝろみ)らる、建保六《一二一八》年六月、實朝左大臣の拜賀として參宮の時、北條義時の内室(ないしつ)以下、此邊に棧敷を搆へて、其行列を見物す、寶治元《一二四七》年六月、兵火の爲に、流鏑馬舍回祿す、十一月再建あり云々風土記に見えたる、今武衞殿の社前に馬塲あり、柵を繞(めぐ)らせり、池月(いけつき)の駒留石(こまとめいし)あり、(池月は武衛公(ぶゑいこう)の愛馬、後佐々木高綱に賜ふ)。

[やぶちゃん注:ここは境内を東西に貫通する流鏑馬馬場辺を指す。「鎌倉攬勝考卷之二」では「馬場迹」として異様に長い考証が載る。

「堪否」「かんぷ/かんぴ」と読み、堪能(かんのう:上手下手。)か否かの意。

「池月」「生月」「生喰」とも書く。頼朝が梶原景季に与えた摺墨と並ぶ名馬で、二頭ともに富士川先陣争いで知られる。]

 

柳原  昔此邊を柳原とも稱せり、白旗神社の池畔、枯株(こしゆ)今尚ほ存せり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」には、

○柳原 柳原(やなぎはら)は、八幡宮舞殿(まひどの)の邊より東、藥師堂の前までを云。昔し柳の多かりけるに因て也。枯株今尚を存せり。里俗傳ヘて古歌あり作者不知(知れず)。「年へたる鶴岡邊(つるがをかべ)の柳原、靑みにけりな春のしるしにと」。此の歌を、【歌枕の名寄】には、平の泰時と有て、柳原を松の葉のとあり。何れ是(し)なることを知らず。久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗の傳へ語れるを本とすべき歟。

とある。「年へたる鶴岡邊の柳原、靑みにけりな春のしるしに」の和歌は、「夫木和歌抄」に「春歌中、柳」、作者「平泰時朝臣」として、

 年へたる鶴のをかべの柳原靑みにけりな春のしるしに

植田が言う「歌枕名寄」鶴岡には、

 としへたるつるがをかべの松の葉のあをみにけりな春のしるしに

更に、「六花集註」春部には、

 年へたる鶴が岡邊の柳原靑みにけりな春のしるしに

と出る。]

耳嚢 巻之九 龍を捕るといふ説の事

 龍を捕るといふ説の事

 

 御府内(ごふない)は繁花にて人氣(じんき)さかんなれば、昇龍など見しといふも邂逅(たまさか)の事なり。國々にてはかゝる事度々ありし事なり。予佐州に居(をり)し時は、昇龍といふ樣子を見侍りし。又佐州には龍損(りゆうそん)と唱へ、風雨の損じの外、田畑の損じ家作の損じを書出(かきいだ)し候事時々ありしが、越後越前抔もまゝ龍損の事を唱ふる由、山崎宗篤へ咄しければ、宗篤此頃淸朝より渡來の書の内、刑錢新語(けいさんしんご)といへる書を見しが、專ら經濟の事を書(かき)たるものにて、右の内に龍の動靜にて田畑を損ざし、家屋を破る事あり。是に依(より)龍を捕へ刑する事あり。其手法は、雪の降りしころ、蟄龍(ちつりよう)ある處は其處(そこ)斗(ばかり)雪消へてつもらず。其所を見定めて、檜の材木を土中へ深く打込みぬれば、龍損の愁なしと、右書に見ゆる由語りぬ。予彼(かの)書は見ざれども、一事の奇法に付、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:昇龍から暴龍封じ呪法で直連関で、しかも山崎宗篤談二連発。なお、ここで根岸も見たという「龍」とはもう、自然現象としての竜巻のことと考えてよい。ただ、そこに根岸も幾分かは超自然の「龍」をそこに感じていたのであろうことがこの叙述からは感じられる。

・「邂逅(たまさか)」「邂逅」は万葉時代の古語では「わくらば」と読み、たまたま・偶然に・まれにの意。「たまさか」は「偶さか」「適さか」などとも漢字表記する。私はこの「めぐり逢い」という語が好きなので、現代語訳ではひねって残した。

・「予佐州に居し時」根岸の佐渡奉行としての現地勤務は天明四(一七八四)年三月から

天明七(一七八七)年七月までの二年四ヶ月で、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから二十二年前のこととなる。

・「刑錢新語」不詳。岩波長谷川氏注に、寛政七(一七九五)年に渡来した書の中に「刑銭必覧」があるとある。この「刑銭必覧」は、明清時代に数多く出版された地方官の官箴書(かんしんしょ:実務マニュアル本)の一冊で、内容は官道徳・訓戒格言・政績実録の他に地方の政治・経済・法律・社会・風俗に関する資料が含まれている。

・「檜の材木を土中へ深く打込みぬれば、龍損の愁なし」ただの直感に過ぎないのであるが、これは五行説の「相克」による呪術ではなかろうか? 龍は「水」である。五行の「相生」では直接には「水生木」(原義は木は水によって養われており水がなければ木は枯れてしまうというもの)であるものの、「相克」では「木剋土」(原義は木は根を地中に張って土を締め付けて養分を吸い取っては土地を痩せさせる)で「土」を支配し、支配された「土」は「土剋水」(原義は土は水を濁して水を吸い取ってしまい常に溢れんとする水を堤防や土塁などによって堰き止める)で「水」に克つ(以上の分かり易い(しかし実際の五行の相生相克はもっと記号論理学的なものであってこのように単純明快なものではない)意味はウィキの「五行」を参照した)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 龍を捕まえて罰を与えるという事

 

 江戸御府内(ごふない)は繁華にして人の気(き)も盛んなれば、「龍の昇天」なんどに邂逅したという者は、これ、稀れであるが、地方の国々にあっては、「龍の昇天」なんどはたびたびあることにて御座る。

 私が佐渡にあった時分にも、龍が昇天する様子をよく見かけて御座った。

 また、佐渡にては「龍損(りゅうそん)」と称して、風雨による金山関連の損害の他にも、民間の田畑の損害及び家作の損害などをこと細かに報告書として作成することが、これ、しばしば御座った。

 越後や越前などにても同様の災害を「龍損」と称しておるということを、たまたま来ったかの山崎宗篤(そうとく)殿に話し致いたところが、宗篤殿が、

「近頃のこと、清朝より渡来せる書の中(うち)に、「刑銭新語(けいせんしんご)」と申す書を見出し、披見致いて御座った――これ概ね、経済政策に就いて書かれるもので御座ったが――いや、その中に、

 

――龍が動静致すに依って、田畑を損ねては家屋を損壊せること、これあり……

――されば、龍を捕らえて、これを罰するという法、これあり……

――その仕儀は、雪の降ったる折り、地中深くに蟠ったる蟄竜(ちつりょう)の居る場所にては、そこばかり、降ったそばから雪の消え、積もること、これなし……

――さればそこを見定め、太き檜(ひのき)の材木を、しっかりと土中深くへ打ち込んだれば「龍損」の憂い、これなし……

 

と、その書に、確かに記されて御座った。」

と、語って御座った。

 私はその書は見て御座らぬが、一種の奇法なればこそ、ともかくもここに記しおくことと致す。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 卷貝 ~ 大方の御批判を乞う

【和品】

卷貝 殼ノ長一寸許殻兩方不相向右片ノ殻左ニ向

ヒテ如卷左ノ方ヨリ殼少掩カ如ニシテ不卷首ハ卷軸

ノ如ク有囘旋之模樣末ハ矢ハズノ如シ細文多シ紋ハ

紫黑色殻色有光是貝子ノ類乎

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

卷貝 殼の長さ、一寸許り。殻、兩方相ひ向かはず、右の片の殻、左に向かひて卷くがごとく、左の方より、殼、少し掩〔(おほ)〕ふがごとくにして卷かず。首は卷軸のごとく、囘旋の模樣有り。末は矢はずのごとし。細文、多し。紋は紫黑色。殻の色、光り有り。是れ、貝子〔(たからがひ)〕の類いか。

[やぶちゃん注:どうもこの叙述は、腹足綱 Gastropoda の「巻貝」総体を指して語っているようには思われない。まず、全体を現代語訳して箇条書きにして注を附してみよう。

   *

巻貝

・殻(巻き方が特異であるからこれは必ずしも殻長とは言えず、長径と採るのが自然である)の長さは三・〇三センチメートルほどしかない。

・殻は、通常の貝のように左右の貝殻が相い対峙する形状を成していない。

・右の方の殻は、左方向(反時計方向)に向かって巻き込むようになっている。

・左の方の殻は、その巻き込んだ右の殻を微かに覆うようにあるだけで、巻き込みを全くしていない。

・首の部分(右の殻が巻いた巻き込みの部分、則ち、螺塔を指していよう)は軸物の巻物のようで、そこには旋回する紋様がある。

・先端部分(次の「矢はず」という表現からこれは殻頂ではなく、その反対の前溝部・臍孔部から突出した水管部を指すか、又は内唇部の歯状襞の凸凹を指していると考えてよかろう)は矢筈(矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦につがえるための切り込みのある部分)によく似ている。

・その螺旋形になった部分には細かな紋様が多く見られる(螺肋部と結節部及び縫合部、更には縦に入る縦張脈も含んでの謂いであろう)。

・その紋様は紫がかった黒い色をしている。

・殻には光沢がある(以下でタカラガイとの類似性を述べていることから殻表面の光沢を言っているとまず採るが、しかしこれは殻の内面をも言っていないとは断言出来ない)。

・これは按ずるに宝貝(腹足綱直腹足亜綱下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae に属するタカラガイ類)のたぐいであろうか?

   *

 問題は大きさと形状及び殻の色と光沢総てである。しかもそれはタカラガイ科 Cypraeidae に属するタカラガイ類に近似して見えるというのである。これはどれをとっても、逆立ちしても腹足綱 Gastropoda の巻貝に汎用出来る内容ではない。

 ところが、ここで一歩下がって見てみると、ここまでの「大和本草」で益軒の挙げている貝類は概ね(「タコブ子(ネ)」を除く)斧足類(二枚貝)綱 Bivalvia で、巻貝は少し後の「石決明」(アワビ:しかも益軒はこれを巻貝と認識していない可能性が大である)、ずっと後の「螺」(これが益軒ににとっての腹足類、巻貝である)以降にしか出ないのである。

 とすれば、ここに特に敢えてこの「卷貝」なるものを先行して出したのは、それが「螺」のような典型的な現在の我々に馴染み深い「巻貝」とは全く異なるものと益軒が認識していた「もの」であったと考えるのが至当である。

 そこで私なりにこれが如何なる種であるを推理して見たい。

 まずは陸産有肺類と淡水産は除外する。陸産は益軒自身が「陸蟲」に別掲している点、色彩と形状からピンとくるものが浮かばない点、及び後掲するように「田螺」「河貝子(ミナ)」といった淡水産種はちゃんと淡水産であることを明記して後に掲げているからである。

 一つのポイントは特異な巻き方の叙述部分にある。

 これは――一見すると、二枚貝の右殻のみが螺を成し、左殻が巻かずに殻口を半ば塞ぐようになっているだけ――に見える、というのである。私がまず想起したのは、

 

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ目アマオブネガイ科 Nerita Theliostyla 亜属アマオブネ Nerita(Theliostyla)  albicilla

 

であった。多くの種を有するアマオブネガイ科 Neritidae は、ある意味、はなはだ特徴的な形態を持ち、素人はまさに(少なくとも小学校二年生の時に由比ヶ浜で拾った時の私は)『これって巻貝、なのかなぁ? タカラガイの出来そこないかなぁ?』と疑問に思う形をしている(見るに若かず。グーグル画像検索「Theliostyla albicilla)。

 ご覧の通り、殻は著しく腰高の感じを与える球形又は斜卵形を成し、螺塔も塔の形状を成さず、短小で低平で、種によっては全く平坦となって螺塔を形成しない。しかも体層がはなはだ大きく全殻の大部分を占めており、益軒の言うように――二枚貝の一方の殻が異常に肥厚してずんぐりむっくりの奇形となったような感じ――と言われれば、何となく信じてしまいそうなのである。しかも腹足類、巻貝の今一つの一般的な特徴とも言える螺管は二次的に吸収されてしまっていて痕跡を残さず、画像で見るように本来なら螺管や臍孔・臍索を有するはずの臍域に相当する箇所を見出せない。さらに、内唇が――二枚貝の残りであるかのように(螺を巻かない片貝であるかのように)平坦に殻口に中央から突き出て広く見え(しかも滑らかで光沢のある白い色を成すものが殆んどである)、しかもその内縁端には――まさしく「矢筈」と呼ぶに相応しい――著しい凹凸を成す歯状襞が形成されているのである(この解説部には吉良図鑑(教育社昭和三四(一九五九)年改訂版)の「アマオブネ科」の総説記載の一部を参考にしている)。

 アマオブネ Nerita(Theliostyla)  albicilla は殻がやや大きく馬蹄型の半球状を成し、螺塔は小さく巻き込まれて体層は大きい。吉良図鑑によれば、表面に螺状脈を形成し、『黒白の絣状または帯状斑があり、時に暗褐色さえ出現する』(益軒の「細文、多し」「紋は紫黑色」と類似する)。『殻口内外両内縁に歯状刻があり』(益軒の「矢はず」と一致)、『内唇滑層面に顆粒』状の突起を有する。大きさは長径が標準成体個体で凡そ三センチメートルで叙述「一寸」とも一致する(本邦の生息域は本州南部以南)。

 問題はこれをタカラガイの仲間のようだと評するかどうかであるが、私は小学生時代の時分自身の思い出の感懐を大切にしたい。確かに、そう、見える。

 他にも同定候補はあるであろう。大方の御批判を俟つものである。ただ、恐らく、容易に管見出来る記事でこの「大和本草」の「卷貝」を同定考証しているものは見当たらない。一つの議論のたたき台として拙考を提示するものである。]

僕は確かにジャミラであったという事実

そうか……

僕の体は二つあったのだな!……

しかも……

対科特隊のそれを見るがいい!……

左右の手の長さが異なるではないか!……

これは……

僕の腕が結核性カリエスのため左腕が五センチ短いのとそっくりではないか?!

……僕は……やっぱり……ジャミラであったのだ……


サイト「光跡」の「★更新情報★」にある「14.9.27第2研・ジャミラ」を参照されたい。ここは特撮オタクの僕には侮れないサイトである。私の定期チェック・サイトでもあり、これも昨日のアップ分である。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 88 雨の仲秋無月の敦賀にて四句

本日二〇一四年九月二十八日(当年の陰暦では九月五日)

   元禄二年八月 十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十八日

【その一】この日は仲秋の名月であったが、雨で月見は出来なかった。以下、「奥の細道」通行本より、句前の前書風の章句を前書として一部読み易く直して示す。

 

  十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨、降る

名月や北國日和(ほつこくびより)定(さだめ)なき

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」では、

 

  うミ

名月や北國日和定なき

 

と不思議な前書がある。「荊口句帳」ではこの句の前にある二句(私は時系列に従って後に掲げる)を見ると、

 

  はま

月のミか雨に相撲もなかりけり

 

  ミなと

ふるき名の角鹿や戀し秋の月

 

とあることに気づく。これは芭蕉が敦賀の景を「浜」「湊」「海」の三景に分けて詠んだものであることがここから分かる。とすれば、本句を詠じている芭蕉は雨の降って、荒れて(だから浜での相撲も中止となった)波のほの白く立つ夜の敦賀の湾の全景を前にこの句を詠んでいるのだ。……そうして……そのような景として読む時、初めて、この句が「奥の細道」に採られた意味が、私には腑に落ちるのである。……これは恐らく、裏日本の海浜に住んだことがない方々には分からぬ――私の青春の記憶に基づく――感懐ではある。……

 自筆本は以下の通りで異同はない。

   *

十五日亭主の詞にたがはす雨降

  名月や北國日和定なき

   *

■やぶちゃんの呟き

 この日、曾良は大垣を午前八時に長島に向けて船出しているが、日記(最早、随行日記ではない)には(大垣の天候ではあるが)、

未ノ刻、雨降出

とある。

……そら、やっぱり雨でしたでしょう、芭蕉さま。だから言ったんです、殊更に芋名月の月見月見と拘っちゃだめですって。……「雨」と言挙げしてはだめですよってね。……芭蕉さま、いやさ、光殿……これは、もしや……曾良、いやさ、かの六条御息所の……その生霊の、成せる業(わざ)にては……これ、御座いますまいか?……]

  

*   *   *


【その二】仲秋の名月の見えぬ雨夜の今一つの句。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句解説頁及びネット上の情報によれば、この晩方、廻船問屋天屋五郎右衛門(俳号は玄流子)の案内で金ヶ崎城(後注参照)の麓にある誓法山金前寺(こんぜんじ:真言宗。福井県敦賀市金ヶ崎町にある。宝暦一一(一七六一)年十月に建立された福井県最古の芭蕉句碑である芭蕉翁鐘塚(後注参照)が建つ。)に参詣して詠んだ句とされる。「奥の細道」には採られていない。

 

  中秋の夜は敦賀にとまりぬ。雨降(ふり)ければ

月いづく鐘はしづめる海の底

 

  おなじ夜あるじの物語に、此海に釣鐘の

  しづみて侍るを、國守(ノカミ)の

  海士(アマ)を入(いれ)てたづねさせ

  給へど、龍頭(りやうづ)のさかさまに

  落入(おちいり)て、引きあぐべき

  便(たより)もなしと聞(きき)て

月いづく鐘はしづみて海の底

 

[やぶちゃん注:第一句目は「俳諧草庵集」(句空編・元禄十三年自序)の、第二句目は「俳諧四幅対」の句形。

 「俳諧草庵集」には、

 

  敦賀の驛の屛風に侍り、北國行脚の時の吟なるべし

 

という注記があるとする。この句を認めた(真蹟でなくてはこうは書くまい)屏風が敦賀宿にあるのを句空は実見したということであろう。「荊口句帳」には、

 

   金が崎雨

月いつく鐘ハ沈める海の底

 

という前書が附されてある。「金が崎」は「かながさき」とも「かねがさき」とも読み、古跡金ヶ崎城で知られる、敦賀市北東部の金ヶ崎町。この城は別名、敦賀城とも呼ばれ、敦賀湾に突き出した海抜八十六メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山塞であった。源平合戦の折り、平通盛が南下する木曾義仲を防戦するため、ここに城を築いたのが最初と伝えられる。また同城跡の麓には足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。その後も戦国史上有名な織田信長の撤退戦である金ヶ崎の戦い(元亀元(一五七〇)年に起きた織田信長と朝倉義景との戦闘の一つ)でも知られる戦跡である(ここはウィキの「金ヶ崎城」とそのリンク先に拠った)。

 ここに示された沈鐘伝説とここの句碑が「芭蕉翁鐘塚」と呼ばれる所以は、先に示した通り、南北朝の延元元(一三三六)年に新田義貞らの南朝軍が後醍醐天皇皇子恒良親王・尊良親王を奉じて北陸路を下って金ヶ崎城に入ったものの、ここで足利軍との戦いに破れたため、義貞は義顕にその場を任せて脱出、杣山城から彼らの救出を試みたが失敗、遂に兵糧尽き、弱冠二十歳の若大将義顕は城に火を放って、尊良親王及び三百余人の兵とともに自害した(恒良親王は捕縛されて足利直義によって幽閉され、翌年に没した(毒殺されたとも言われる。この辺りはウィキの「新田顕」に拠る)。この最期に際し、義顕は陣鐘を海に沈めたとされ、「俳諧四幅対」の前書にあるように、後に当国の国守が海に海士を入れて探らせてみたが、陣鐘は逆さまになって沈んでおり、龍頭が海底にすっかり埋まって、しまっていて引き上げることが出来なかったという伝承に基づくもの。

 見えない沈鐘の海の底からの妖しい響きの夢幻音と、中秋雨夜の隠れて見えない月の光りの眩暈景とが無限遠で共鳴する。

 鬼趣好きの私としては、これ、もう少し、きゅっと来る慄然の締りがあったなら、佳句となると感ずる句である。]

 

*   *   *


【その三】同じく同夜、雨の敦賀の気比の浜での吟。時間的には前の二句よりも前、昼間の景であろうが、つまらぬ句なので後に回した。

 

  濱

月のみか雨に相撲もなかりけり

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種」。「奥の細道菅菰抄附録」には『近江國長濱にて、此時觀進相撲有けるよし』と編者前書があるが、これでは琵琶湖畔の景となるので採らない(長浜には敦賀の次辺りに泊まってはいるが、この句、「芭蕉翁月一夜十五句」の中にあってのみ辛うじて生存し得る句である)。

 「相撲」現代の歳時記では相撲は初秋の季語とされる。奈良・平安時代には毎年七月に宮中で相撲節会(すまいのせちえ)が行われたことによる。江戸時代は奉納相撲や地方巡業の相撲興行が盛んに行われたが、地方各地の素人衆のそれは秋祭りの頃に開催されることが多く、草相撲・宮相撲(神社の「宮」の意)などと呼ばれた。相撲のルーツである力競べは、記紀の遙か昔から、豊作祈願の祭祀や、政(まつりごと)に於ける重要な裁定に際して神前で行われた吉凶占の場などで、盛んに催された、祝祭としての神事であった。

■やぶちゃんの呟き

……芭蕉さま……我儘なあなたへの罰は……月を隠した雨だけではありませんでしたね……神々の祝祭も……なくなったのですよ。……あなたは結局、自ら、精神の孤独を選んでしまったのです……]


*   *   *



【その四】同じく雨の敦賀の湊での仲秋無月の一句。

 

  みなと

ふるき名の角鹿(つぬが)や戀し秋の月

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。

 「角鹿」は敦賀の古名(和銅年間(七〇八年~七一五年)に敦賀と改名された)。敦賀の湊は北陸の海路の、主に海産物の陸揚げ港としてはもとより、大陸交通の要港としても古代より栄え、北陸路陸路最初の拠点となる古い宿駅でもあった。

■やぶちゃんの呟き

 正直、この「芭蕉翁月一夜十五句」の痙攣的連作をこの句まで読んでくると、芭蕉のマニアックな未練がましさが、流石に鼻について厭になってくる。これら、少なくとも敦賀に至るまでの月見待望と無月の句は研究者以外の一般の芭蕉好きの方は、知らない方がましな部類に属する、という気が強くしてくる。]

2014/09/27

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 87 月淸し遊行の持てる砂の上

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その六】この夜、芭蕉は気比神宮に参って、待宵の月を賞した。

 

  元祿二年つるがの湊(みなと)に月を見

  て、氣比の明神に詣(まうで)、遊行上人

  の古例をきく

月淸し遊行(ゆぎやう)の持てる砂の上

 

  氣比のみや

なみだしくや遊行のもてる砂の露

 

  氣比の宮べは遊行上人の白砂を敷ける古

  例ありてこの比(ころ)もさる事有(あ

  り)しといへば

月淸し遊行の持てる砂の露

 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」「猿蓑」の句形。これと同形を載せる「俳諧四幅対」(東恕編・享保四年刊)には以下の長い前書が附されてある。

 

  元祿二年

  八月十四日敦賀の津(つ)に宿をもとめ

  て、氣比の宮に夜參す。むかし二世の遊

  行上人この道の泥土(でいど)をきよめ

  んとて、みづから砂をはこび玉ふより、

  砂持(すなもち)の神事とて今の代にも

  つたへ侍るとかや。社頭神さびたうあり

  さま、松の木の間の月の影もりて、信心

  やゝ骨に入(しむ)べし

月淸し遊行の持てる砂の露

 

 第二句目は真蹟短冊でこれが初案、第三句目は「其袋」(そのふくろ・嵐雪編・元禄三年自序)の句形で再案らしい。改作過程の抑制はよく分かる。光景もこれまでの月光のそれに比して格段に鮮やかである。であるがしかし、まさにこの長々しい前書なしには本句の荘厳さは味わえず、従ってこの句はやはり必ずしも優れた句とは私には思われないのである。

 以下、ここでは一つ、福井の等栽宅訪問からここまでの「奥の細道」自筆本を読み易く、整序補足して示しておくこととする。

   *

 福井は三里計なれば夕飯(ゆふめし)したためて出るに、たそかれの道たどたどし。爰に等栽と云ふ古き隱士有り。いづれの年にや、江戸に來りて、予を尋ぬ。遙か十とせ餘り也。

いかに老いさらぼひて有るにや、將(はた)死にけるにや、と人に尋ね侍れば、いまだ存命して、

「そこそこ。」

とをしゆ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に、夕顏・へちまのはかゝり、雞頭・帚木に戸ぼそをかくす。扨(さて)は此うちにこそと門を扣(たた)けば、侘しげなる女の出でて、

「いづくよりわたり玉ふ道心の御坊にや。あるじは、このあたり何某(なにがし)と云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらは尋ね玉へ。」

と云ふ。かれが妻なるべしとしらる。

『むかし物かたりにこそ、かゝる風情は侍れ。』

と、やがて尋ねあひて、其家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるがの湊(みなと)に、と旅立つ。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、道の枝折(しをり)とうかれ立つ。漸(やうやう)白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の芦は穗に出でけり。鶯(うぐひす)の關を過ぎて、湯尾(ゆのを)峠を越(こゆ)れば、火打(ひうち)が城(じやう)。かへる山に初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に宿をもとむ。

 其夜、月、殊(こと)に晴れたり。

「あすの夜もかくあるべきにや。」

といへば、

「越路(こしぢ)のならひ、明夜(めいや)の陰晴、はかり難し。」

とあるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜參(やさん)ス。仲哀(ちゆうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭、神(かん)さびて松の木間に月のもり入りたる、おまへの白砂(はくさ)、霜を敷けるがごとし。

「徃昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、大願發起(たいがんほつき)の事ありて、みづから、葦を刈り、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、參詣徃來の煩(わづら)ひなし。古例、今にたえず、神前に眞砂(まさご)を荷ひ玉ふ。これを『遊行砂持』と申し侍る。」

と、亭主のかたりける。

  月淸し遊行のもてる砂の上

   *

■やぶちゃんの呟き

 明らかに芭蕉は文章を書く面白さに没頭しており、句作への専心度は急激に低下している(採用しなかった句群の拙劣さを見よ)。

 これは曾良と別れたことに端を発していると見てよい。ある意味で芭蕉自身の確信犯、半ばは意識的仕向けたとも言える曾良との留別の仕儀であったが、やはり芭蕉にはそれに対して微かな呵責と悔悟の念を持っていたのではなかったか?

 そうした対人心理的焦燥感の中では、芭蕉は会心の句が作れなくなる。

 作れても妙に投げ出したような、或いは「崩る」「裂く」といった棘のある語彙を選んで、それがどこか仄かに芭蕉独り門弟たちの中で浮いたような印象を残すものとなる(これは若き日の芭蕉から死に至る迄、一貫した特性であると私は考えている)。

 「月淸し遊行のもてる砂の上」の句が辛うじて静謐さを保っているのは、「なみだしくや」と「露」という如何にもな主情性を完全に殺ぎ落として、遂には芭蕉自身を滅却して(それが大袈裟なら他阿上人に擬えて)擬時代詠化したからに他ならない。

 「奥の細道」の句は残りたった四句、文章も自筆本の行で二十三行足らずである。――]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 86 國々の八景更に氣比の月

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その五】この日、芭蕉は敦賀に到着、待宵の月を気比神宮に見た。

 

  氣比(けひ)の海

國々の八景更に氣比の月

 

國々や八景さらに氣比の月

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳」の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」の句形。

――既にこの頃には諸国に八景の名数が作られてあったが、ここ越前の国でも私はそうした私の中の名勝歌枕を八景と成して数えつつ、この敦賀まで辿りついた。その「気比秋月」をここに八景の一として、待宵の名月を眺めている――という謂いであろう。駄句である。しかも待宵の月を名月として八景に数えてしまえば、翌くる十五夜の名月は臍を曲げて出ぬに決まっている。事実を文飾のために枉げて何ら恥じない芭蕉にして、そうした当たり前の言霊の様態を信じなかったというのは如何にも奇異だ。特にこの一連の如何にもな月の駄句の羅列はどうか? 月読命(つくよみのみこと)も鼻白んでしまうと私なら思う。

 以下、「奥の細道」敦賀の段。本句はないが、次の「月淸し」が出る(次の当句の評釈で再掲する)。

   *

其夜月殊晴たりあすの夜もかく

あるへきにやといへは越路のならひ

明夜の陰晴はかり難しとあるしに

酒すゝめられてけいの明神に夜參

仲哀天皇の御廟也社頭神さひて

松の木間に月のもり入たるおまへの

白砂霜を敷るかことし徃昔

遊行二世の上人大願發起の事

ありてみつから葦を刈土石を荷

泥渟をかはかせて參詣徃來の煩

なし古例今にたえす神前に

眞砂を荷ひ玉ふこれを遊行砂持

と申侍ると亭主のかたりける

  月淸し遊行のもてる砂の上

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇明夜の陰晴はかり難し → ●猶明夜の陰晴はかりがたし

〇葦          → ●草

〇遊行砂持       → ●遊行の砂持

■やぶちゃんの呟き

「其夜」八月十四日。待宵。

「けいの明神」現在の福井県敦賀市曙町にある北陸道総鎮守とされた氣比神宮。参照したウィキの「氣比神宮」によれば、記紀では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に第十四代仲哀天皇・神功皇后・第十五代応神天皇との関連が深く、『古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた』とある。

「夜參」「やさん」と読む。

「神さひて」「かんさびて」と読む。古びて如何にも神々しく見えて。

「徃昔」「そのかみ」と読む。

「遊行二世の上人」時宗開祖の一遍(遊行上人)の高弟で二世遊行上人となった他阿弥陀仏上人(他阿上人)。

「大願」新潮古典集成の富山奏氏の注に、当神宮の近くの『池沼に住む龍が明神を悩ませたのを、上人が埋立てて神慮を安んじたとの古事』を指すとある。

「荷」「になひ」と訓じている。

「泥渟」「でいてい」で、泥水の溜まった泥濘(ぬかるみ)・泥沼の謂い。

「煩」「わづらひ」と訓じている。

「古例」時宗では遊行上人を継ぐ歴代の者は、この気比神宮の神前に敦賀の浜砂を荷い来、敷きつめることを仕来りとし、それを「遊行の砂持」と称した。]

杉田久女句集 280 花衣 ⅩLⅨ 筑紫觀世音寺三句外九句

  筑紫觀世音寺三句外九句

 

さゝげもつ菊みそなはせ觀世音

 

菊の香のくらき佛に灯を獻ず

 

月光にこだます鐘をつきにけり

 

かゞみ折る野菊つゆけし都府樓址

 

道ひろし野菊もつまず歩みけり

 

こもり居の門邊の菊も時雨さび

 

菊の簇れ落葉をかぶり亂れ伏す

 

簇れ伏して露いつぱいの小菊かな

 

遂にこぬ晩餐菊にはじめけり

 

菊根分誰ぞわが鏝を使ひ失す

 

菊の根に降りこぼれ敷く松葉かな

 

日の菊に雫振り梳く濡毛かな

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年秋に福岡県太宰府市にある観世音寺(「続日本紀」の記述によれば天智天皇が母斉明天皇(六六一年没)追善のために発願した寺であったが、完成したのは発願から約八十年も経った天平一八(七四六)年のこととされる。ここはウィキ観世音寺」に拠る)及び「都府楼趾」(とふろうあと)を訪れた。ここは大伴旅人・山上憶良・観世音寺別当沙弥満誓(さみまんぜい)らが集った筑紫万葉歌壇の舞台であった(坂本宮尾氏の「杉田久女」(一三七頁)の記載を参照した)。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 85 中山や越路も月はまた命

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その四】西行の和歌と同名の越の中山を遠望した一句。木の目峠を過ぎた「奥の細道」本文に出る帰山(かえるやま)の西方に望見されたはずである。

 

  越(こし)の中山

中山や越路(こしぢ)も月はまた命

 

中山の越路も月は又いのち

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」の句形。

 西行の知られた一首、

 

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

 

を本歌とした一句。但し、西行の詠んだ「小夜の中山」は遠江国で東海道の金谷宿と日坂宿の間、現在の静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)の峠。若き日の西行が奥州行脚の折りに越えたそこを、西行は六十九の高齢でまたしても越えた折りの感慨を詠んだもので、「命」は「運命」である。芭蕉はそれをインスパイアして、私もまた、この越の中山を再び越えることがあろうか――と詠んだものだが、これに先立つ十三年前の延宝四(一六七六)年夏、伊賀上野に帰郷した際に実際の小夜の中山で芭蕉が詠んだ名吟(これはやはり芭蕉が二度目に小夜の中山を越えたという感慨に裏打ちされたもの)、

 

命なりわづかの笠の下涼み

 

に遠く及ばぬ。遙かに自身の齢(よわい)からネガティブな響きを隠せない本句は、却って妙に作り物臭く感じられる。]

 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅰ)

   ●鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は鎌倉の中央部に位(くらゐ)し、昔松ケ岡の地なり、北は大臣山を負ひ、西は源氏山、白旗山を望み、東は屛風山、絹張山に連り、南、由井濱を距る行程十八町、一帶の松原、第三の鳥居は遠く海濱にあり。

[やぶちゃん注:長いので、分割注する。読み易さを考え、各段落で分け、注がなくても一行空けを施す。年号の西暦換算は面倒なので文中で当該年の直下に《 》四桁で示した。また、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」(一巻総てが鶴岡八幡宮の記載に費やされてある)及び同「卷之三」(こちらも一巻総てが鶴岡八幡宮関連資料とその周辺施設旧跡の詳説)の本文及び私の注を参照されたい。本文はそれらに依拠している記載が多い。]

 

本社は康平六《一〇六三》年秋八月、伊預守源賴義勅を奉(ほう)して安部貞任征伐の時、丹祈の旨有て潛(ひそか)に石淸水八幡宮を勸請(くわんぜう)し、瑞籬を當國由比郷に建つ、永保元《一〇八二》年二月陸奧守源義家修復を加ふ、其後治承四《一一八〇》年十月十二日、源賴朝祖宗(そゝう)を崇めんために、小林郷松ケ岡今の地に遷し、舊地の名に仍(より)て鶴岡八幡宮と稱す、明治十六《一八八三》年勅して國幣中社に列せらる。

[やぶちゃん注:「鶴岡八幡宮年表」(鶴岡八幡宮編)によれば、「國幣中社に列せら」れたのは明治一五(一八八二)年九月十三日である。]

 

蔚(うつ)たる社壇、古松老杉(こしようらうさん)深く鎖して神々(かうかう)しく、端なく想起(おもひおこ)す七百年來治亂興亡の夢、仰(おふ)げば朱殿碧瓦(しゆでんへきぐわ)の莊麗、瑞籬嚴めしく築ける、源氏山の烏の啼かぬ日はあるべきも、鶴岡に八幡宮のましまさぬ日ぞなき、まことに靈(くしび)の神なりけり。

[やぶちゃん注:「靈(くしび)」は「奇び」とも書き、バ行上二段活用の動詞「くしぶ」(霊ぶ/奇ぶ:霊妙に見える・不思議な状態になるの意)の連用形が名詞化したもので、不思議なこと・霊妙なこと、また、そのさまをいう上代語。]

 

鳥居  治承四《一一八〇》年十二月、神前に始て鳥居を建てらる、今三基あり第三の鳥居は、由比の濱にあり、大鳥居と云ふ、建保三《一二一五》年八月、暴風により顚倒し、十月新造せらる、寛元三《一三〇五》年十月鳥居再造あり、延元元《一三三六》年七月、雷(らい)の爲に損(そん)す、延文三《一三五八》年四月、造營あり、嘉慶二《一三八八》年六月、上杉安房守憲方入道道合造建す、應永二十一《一四一四》年三月、管領持氏、上杉右衛門佐氏憲入道禪秀を奉行として建立あり、足利成氏の頃は、毎年二月、神殿に參籠の時、大鳥居を廻(めぐ)りて、七度詣をなせるを例とす、文明十八《一四八六》年、聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌(わか)を詠す、僧萬里が記に、兩楹の大さ三圍と載せ、又詠せし句あり、十九年、僧堯惠參詣の時、鳥居邊の風景を賞す、名所方角抄には、磯邊十八町に、大鳥居ありと記せり、天文四《一五三六》年正月名越安養院の僧玉連、瑞夢により、本願主(ほんぐわんしゆ)となり、再建(さいこん)の事を企つ、四月玉運北條氏綱の許(ゆるし)を得て、十方を募緣(ぼゑん)す、十月より六年七月に至り、材木運致(うんち)せし事見えたり、九年正月、釿始あり、其後匠作の事姑(しばら)く廢し、十二年を歷(へ)、二十一年十一月に至り、北條氏康再ひ匠功(せうこう)を興(おこ)し、翌二十二年四月落成す、按ずるに關東兵亂記、小田原記等には、氏康建立の年を謬(あやま)れり、古は三基共木にて造立せしを、寛文八《一六六八》年再建(さいこん)せられし時すべて石の鳥居とせらる、(新編鎌倉志云大鳥居兩柱の間下にて六間半、高さ三丈一尺五寸、石柱のめぐり一丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり、一二の鳥居は兩柱(りやうちう)の間下にて四間、柱のめぐり七尺なり、又云赤橋の前の鳥居より間た四町十五間半にして又鳥居あり、二の鳥居と云ふ、二鳥居より間六町四十五間にして鳥居あり、三の鳥居なり是を大鳥居と云ふ、中畧大鳥居より波打際まで五町あり云云)東鑑に寶治元《一二四七》年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌(もくはい)に記して、鳥居前に立しと見えしは、第一の鳥居を指(させ)るせなるべし、此餘横大門の東西に、木鳥居各一基、〔四足あり〕上宮社地の西門内に、石鳥居一基あり、天正の修理圖(しゆりづ)を閲(けみ)するに、赤橋の内に又一基あり〔内の鳥居と記す、〕鎌倉年中行事にも、此鳥居の事見えたり、廢せし年代を知らず。

[やぶちゃん注:鳥居の名称が現在のものとは全く異なる点に注意されたい。本誌は「新編鎌倉志」と同様、古い呼称を用いている。現在、我々が一の鳥居と称している一番由比ヶ浜に近い鳥居は「大鳥居」「三の鳥居」であり、鶴ヶ岡八幡宮社頭の、現在、三の鳥居と呼んでいるものが、当時の「一の鳥居」である。なお、「一間」は約一・八メートル、「一丈」は三・〇三メートル、「一尺」は三〇・三センチメートル、「一寸」は三・〇三センチメートルである(この換算注は以下省略する)。

「聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌を詠す」「廻国雑記」のこと。「鎌倉攬勝考卷之二」の私の注に当該箇所全部を引用してある。

「萬里が記」「梅花無尽蔵」。「鎌倉攬勝考卷之二」に出、私が注で訓読してある。「句」とあるのは漢詩を指す。

「兩楹」「りやうはしら(りようはしら)」と読んでいよう。

「三圍」「みめぐり」と訓じていよう。大人が両手を一杯に広げた長さとしての「一尋」(一・八一八メートル)で換算すると五・四五メートルとなる。現在の石造の一の鳥居(最も海に近い鳥居)の左右の石柱円周は約三・八メートルしかないから、当時の木造のそれはとてつもなく大きなものであったことになる。

「僧堯惠參詣の時」堯恵「北国紀行」を指す。以下に「鎌倉攬勝考卷之二」に出る本文と私の校訂した和歌を示す。

   *

あくれば鶴が岡へ參りぬ。靈木長松つらなり森々たるに、玉をみがける社頭のたゝずまゐ、由比の濵の鳥居はるかにかすみわたりて誠に妙なり。

 

 吹殘す春の霞も奥おきつ洲に立てるや鶴が岡の松風

   *

「名所方角抄」宗祇作(後世の偽作であろう)と伝えられる成立年未詳(寛文六(一六六六)年版本刊)の国別に分類された歌枕の解説書。

「募緣」修復などのために浄財を募ること。

「運致」運搬搬入。

「釿始」「てうなはぢめ(ちょうなはじめ)」と読み、吉日を撰んで、大工が礼服を着用、天神地祇と職業神たる聖徳太子を祀り、神酒・鏡餅・肴などを供えて行なう起工祈願の儀式。

「匠功」建築作業。

「關東兵亂記」「相州兵乱記」とも言う。中世関東戦乱の戦記物。四巻。序によれば、後北条氏の家人が先祖の記録を編したものとする。鎌倉公方の歴史に始まって、永禄七(一五六四)年の国府台(こうのだい)合戦、武田氏の箕輪城攻めまでの関東の諸兵乱を記す。後北条氏勃興史が中心であるが、史料としての利用には厳密な史料批判が必要。次の「小田原記」の前半の内容と類似する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「小田原記」「北条記」とも言う。小田原後北条氏の台頭から滅亡に至る五代、鎌倉幕府滅亡の元弘三(一三三三)年頃から天正八(一五九〇)年までを東国の隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物。六巻(類似書名に「小田原北条記」があるが、これは江戸期に江西逸志子が著した別書)。

「新編鎌倉志云……」「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「大鳥居」の条を見られたい。詳細既注済み。

「東鑑に寶治元年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌に記して、鳥居前に立し」「吾妻鏡」宝治元(一二四七)年五月二十一日の条を引いておく。

〇原文

廿一日癸酉。若狹前司泰村獨歩之餘。依背嚴命。近日可被加誅罰之由。有其沙汰。能々可有謹愼之旨。注簡面。立置鶴岡宮鳥居前。諸人見之云云。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日癸酉(みずのえとり)。若狹前司泰村、獨歩の餘りに、嚴命に背くに依つて、近日誅罰(ちうばつ)を加へらるべきの由、其の沙汰有り、能々(よくよく)謹愼有るべきの旨、簡(ふだ)の面(をもて)に注し、鶴岡の宮の鳥居前に立て置く。諸人之を見ると云云。

「一の鳥居」社頭(太鼓橋前)の鳥居(現在の三の鳥居)。

「横大門の東西」流鏑馬馬場の東西の神域結界を示す位置のことであろう。

「天正の修理圖」天正十九(一五九一)年秀吉が家康に命じた鶴岡の修理に関わる「紙本墨書 鶴岡八幡宮修営目論見絵図」のこと。鶴岡八幡宮公式サイト内の「宝物」のこちらを参照されたい。但し、この修理は文禄の役などの影響により、下の宮の工事のみで中断してしまい、上の宮も含めた全体の修理が終わるのは、江戸幕府成立後、家康・秀忠の二代に亙った造営による寛永元(一六二四)年のことであった(後半部は個人サイト「鎌倉史跡・寺社データベース」の「鶴岡八幡宮」に拠った)。]

 

池  一の鳥居を過ぎて、左右に蓮池(はすいけ)あり、石梁(いしばし)を架し踈水相通ず。東鑑に、壽永元《一一八二》年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停(とめ)られて池に堀(ほ)るとあるは此池なるべし池中(ちちう)に七島あり、相傳賴朝卿平家追討の時、御臺所政子の願いにて、大庭平太景義を奉行として社前の東西池を掘(ほ)らしむ、池中の東に四島、西に四島、合て八島を東方よりこれを滅(ほろぼ)すと祝す東に三島を餘す、三は産なり、西に四島を置(をく)、四は死なり、と云心なりけるとぞ、又池の東に白蓮(しらはす)、西に紅蓮(あかはす)を植(うゑ)て源平の色を表す、是又厭勝の義なりと云ふ。元弘の亂に新田義貞首實檢の時、此池にて刄(やいば)の血を洗はしむ。天文二《一五三三》年北條氏鋼、社頭再建(しやとうさいけん)の時池中を踈鑿(そさく)す、十三年六月氏康か出せし社中の掟書に、二月八月の兩度、池中を掃除すべき由見ゆ。今は七島も全く埋もれて址を殘留(とゞめ)ねど、昨日今日曉靄(ぎやうあい)濛々(もうもう)せるの裡(うち)、忽ち聲ありて香の遠く心に沁みたらんいかに。

[やぶちゃん注:この源平池については、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「辨才天社(べんざいてんのやしろ)」の注に附した享保十七(一七三二)年版の彩色の鶴岡八幡宮寺境内図をご覧になられることをお薦めする。

「壽永元年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停られて池に堀る」は「吾妻鏡」の養和二(一一八二)年四月二十四日の条(養和二年は一ヶ月後の五月二十七日寿永に改元されている)。

○原文

廿四日甲子。鶴岳若宮邊水田〔號弦卷田。〕三町餘。被停耕作之儀。被改池。專光。景義等奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

廿四日甲子(きのえね)。鶴岳若宮邊の水田〔絃卷田(つるまきだ)と號す。〕三町餘りの耕作の儀を停め、池に改めらる。專光(せんこう)・景能、之を奉行す。

「絃卷田」については、私が「吾妻鏡」の検索で参考にさせて頂くことの多い、サイト「鎌倉歴史散策加藤塾」の中の「源平池について調べてみよう」に、「三町」(約三万平方メートル弱に相当)という数値を現在の源平池と比較した際、約『三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう』と記されており、加藤氏は飛騨高山の民家園でこれを実見されており、その際の田植えの方法について、田圃を丸く作って、中央に棒を立てて縄を結び、伸ばしたきったその縄の一方の端に三〇センチ間隔で苗を植えながら柱の周りをぐるぐると回っていく、すると『自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に縄の巻きついた柱を抜く』と述べられておられる。他にも、この辺りが古くから広大な湿地であり、そこに吉祥のシンボルである鶴がやってきては、稲籾を播いたからとか、神域として武将がここで弓弦を外したことによるといった由来説があるようだが、加藤氏のこの見解が最も腑に落ちるものである。リンク先は豊富な画像と、加藤氏の膨大な資料の渉猟によって成された、素晴らしいページである。一読をお奨めする。

「厭勝」は「えんしよう(えんしょう)」と読み、呪(まじな)い。また、呪いによって他者を屈服させることをいう。

「踈鑿」「そさく」(「踈」は「疎」の異体字)とは土地を切り開いて水や川を通すことをいう。

「忽ち聲ありて」この「聲」は何の声であろう? 風雅なる感懐のコーダながら、ちょっと気になる。「曉靄」とあるから鶏鳴かしらん?

 

辨天社 東蓮池の中嶼に安置したりき其以前は琵琶橋の邊にありしを、養和元《一一八一》年爰に移せりと云ふ、神躰(しんたい)は運慶作、長三尺餘〔膝に琵琶を横たへたり俗に云小松大臣の持たる琵琶なりと〕背に、文永三《一二六六》年九月の銘あり、天文九《一五四〇》年、北條氏綱再建す、伶人八員の預る所とぞ、新編鎌倉志に二間に一間の社なり云々今七島とともに基礎を絶ちぬ。

[やぶちゃん注:「小松大臣」平重盛。六波羅小松第に居を構えていたことに由来する呼称。

「今七島とともに基礎を絶ちぬ」実は当時は、おぞましい廃仏毀釈によって破壊されてしまっており、全く原型をとどめていなかった。後、戦後の昭和三一(一九五六)年になってやっと再興されたもので、現在の社殿に至っては鶴岡八幡宮創建八百年に当たる昭和五五(一九八〇)年になって、文政年間の古図を本に復元された極めて新しいものである。

「伶人」「れいじん」と読み雅楽を奏する楽人(がくにん/がくじん)のこと。]

 

赤橋 社前、兩個蓮池の間に架す、穹窿(きうりう)虹の如し、石の反橋(そりはし)なり、〔長五間幅三間〕昔時(せきじ)板橋にして、朱を以て塗抹す、故に名く、壽永元《一一八二》年五月、新に架する所なり、建保元《一二一三》年五月、和田の亂に、土屋大學助義淸、橋邊(きやうへん)にて流矢に中り、命(めい)を殞(おと)す、鎌倉將軍社參の時は、此橋邊にて下乘(げじよう)あり、寶治元《一二四七》年六月、三浦泰村を誅する時、安達泰盛軍兵を率て、此橋を渡る、文永三《一二六六》年七月宗尊親王歸洛の時橋邊に輿を駐(とゞめ)て遙拜あり、且倭歌を詠せらる文和元《一三五二》年閏二月、橋邊にて三浦新田の輩(はい)、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり、永正十七《一五二〇》年七月、橋本宮内丞某再造す、天文八《一五三九》年より十一年に至て、修理(しゆり)の事あり。

[やぶちゃん注:「三浦新田の輩、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり」とは、新田義貞次男義興や三浦介高通(たかみち)らが後醍醐天皇皇子実良親王を奉じた南朝軍として、この年の閏二月十八日に鎌倉の一時攻略に成功したものの、敗走した足利尊氏が反撃に転じ、三月には鎌倉を奪還、三浦・新田勢が逆に鎌倉を追われたことを指す。「高掃部助、石堂左衛門助」は尊氏方の高師義(こうのもろよし)らか。]

 

新橋  赤橋の側に架す、板橋なり、鎌倉年中行事に、此橋の事見ゆ。

 

二王門址  赤橋を渡り二百歩、皇族下乘(くわうぞくげじやう)の掲示札(けいじふだ)あり、壇を築きて左に手洗鉢(てうづばち)あり、左右梅林(ばいりん)にして正面は拜殿なり、昔此地に二王門あり、額に鶴岡山と題す、曼殊院良恕法親王の筆(ふで)にして、兩傍に金剛力士の像を置く、今取拂はれぬ。其他輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂も此近邊(あたり)にありしものか。樹蔭鬱せして啼鳥(ていちよう)聲(こゑ)幽(かす)かなり。

[やぶちゃん注:流鏑馬馬場の先にあって、当時の境内がここに更に結界を造っていたことが判る。ここにあった仁王像は廃仏毀釈後、寿福寺に移されたとされ、寿福寺本堂内には旧鶴岡八幡宮寺仁王門仁王像と伝える二体が現存する。「新編鎌倉志卷之一」に画像を配してある。以下の廃仏毀釈によって完膚なきまでに破壊された「輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂」も「新編鎌倉志卷之一」に詳述されており、往時の写真も含めて注記してあるので是非とも参考にされたい。

「歩武」は「ほぶ」と読み、厳密には距離単位で「歩」は六尺(一八一センチメートル)又は六尺四寸(一九三センチメートル)、「武」はその「歩」の半分の意であるが、転じて僅かの距離、咫尺(しせき)の意となる。ここも僅か二百歩あまりという用法であろう。

「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]

 

拜殿  正面上の地へ登る石階(せきかい)の下にあり。

 

石階 六十二級、此石階を登り、北に向(むかひ)て本社へ行(ゆく)なり、是より上を上の地と云ふ、本社あり、是よら下を下の地と云ふ、若宮あり。

[やぶちゃん注:「級」言わずもがなであるが、階段を数える際の数詞である。

「若宮」とは下の宮のことである。源頼義が勧請した本社濫觴の地である由比若宮(元八幡。現在の材木座一丁目に現存)とは違うので注意が必要。]

 

銀杏樹 石階の四方に大なる銀杏樹(いてうのき)あり、東鑑に承久元《一二一九》年正月二十七日、今日將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲め鶴岡八幡宮に御參刻也夜陰に及て神拜(じんはい)の事終て漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉石階の際(きは)に窺來り、劔(けん)を取り丞相を奉ㇾ侵とあり。相傳ふ公曉、此銀杏樹の下に女服(ぢよふく)を著(つけ)て隱れ居て、實朝を弑すとなり、隱れ銀杏(いてう)の名あり。

[やぶちゃん注:先に述べた隠れ公孫樹は勿論、この女装なども私は後世の偽説と思っている。

「酉刻」午後六時頃。]

 

樓門 石階盡くる所樓門あり、額に八幡宮と題し、左右に隨身を置き以て廻廊に通す、正面は本殿にして上の宮と稱す。

 

上宮 祭神三座、中央は崇神天皇、右は神功皇后、左は比咩大神、本社、幣殿、拜殿、建續(たてつゞ)けり、建久二《一一九一》年、新に勸請ありし社是なり、四月上棟(じやうとう)の儀あり、十一月、遷宮の式を行はる、六年二月、賴朝參宮の時、幣殿に著座、法華經供養を聽聞あり建曆二《一二一二》年十月、神前に羽蟻(はあり)羣飛し、建保元《一二一三》年八月、黄喋(くわうてふ)集る、嘉祿二《一二二六》年二月、神樂(かぐら)の時、神扉(しんひ)數刻開かず、十月、神殿修理により、神體を下宮に遷座す、程なく落成、正遷宮あり、建長二《一二五〇》年五月、修造の事始あり、四年五月、神戸開かず、正和五《一三一六》年十一月、再建成て正遷宮あり、延元元《一三三六》年、世上祈禱して、別當頼仲、六月より百日の間、神殿に參籠す、永德《一三八一~一三八四》の頃に至り、社地の舊名を以て、當社を松岡八幡宮と稱し、社務職も別に補任あり、應永、永享中《一三九四~一四四一》の物、尚松岡の號(がう)見えたり、其後は絶て所見なし、應永二十四《一四一七》年閏五月、管領持氏、常州北條郡宿郷を、社領に寄進し、三十二年六月、武州河越の地を、供料に寄す、永享四《一四三二》年十月、小田原關隘の征錢(せいせん)を以て、當社修理の料に宛つ天文元《一五三二》年六月、神輿(しんよ)を拜殿に安し、諸人群參す、三年十月、北條氏鋼の命に依て、諸士募緣して寶前(ほうぜん)に燈明(とうめう)を置けり、八年十一月、轉經舞樂(てんきやうぶがく)等(とう)あり、北條氏綱父子聽聞す、天正二《一五七四》年閏十月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡(しんきやう)及ひ雲板(くもいた)を寄附す、文政四《一八二一》年正月十七日の夜、囘祿(くわいろく)に罹り、十一年御再建あり例祭八十五日相撲(すまゐ)等(とう)あり、東鑑に據に、文治三《一一八七》年八月十五日、始て放生會(ほうぜうゑ)、及流鏑馬を行なはれ、弓馬堪能の輩(はい)を填て、射手(しやしゆ)に充(あて)らる、此時諏訪太夫盛澄に命して、流鏑馬其外射藝を施さしむ、四年八月よら舞樂(ぶがく)を興行す、五年の祭期(さいき)には、賴朝奧州の役に在へきを以て、七月放生會、舞樂、馬長、競馬、相撲等を行はれ、祭期に及て、亦例の如く放生會、舞樂、馬長、流鏑馬等あり、建久元《一一九〇》年に至り、祭事繁劇(はんげき)なるを以て、兩日に分たれ、十五日、放生會、舞樂、十六日、流鏑馬、競馬、相撲、田樂(でんがく)等(とう)行はる、此日流鏑馬の射手、一兩輩闕如(けつぢよ)するを以て、大庭平太景能吹擧(すゐいよ)して、囚人河村三郎義秀に射せしめられ、且三流の作物を射て失禮なきを以て、其罪を免さる而來兩日の神事、年毎に歷々として記載す、又增鏡にも、當社放生會の事見えたり、按ずるに式月(しきげつ)障(さは)りある時は、九月或は十一月、十二月等に、行はれしなり、又法會のみにして、流鏑馬等を廢せし事あり、延文三《一三五八》年八月、放生會の用途として、社領武州鶴見郷より、十二貫文を送進す、永和三《一三七七》年八月亦然り、應永二《一三九五》十一年八月、管領持氏、常州那珂東、國井郷を寄進す、是放生會料所、武州津田郷の不足分を補ひしなり、享德《一四五二~一四五五》の頃は、十六日に猿樂(さるがく)を催し、管領の見物ありし由、成氏年中行事に見ゆ、天文中《一五三二~一五五五》、放生會の時、北條氏綱、神馬(しんめ)太刀等(とう)を獻(けん)す、其後放生會は廢して、流鏑馬相撲のみ、僅(わづか)に古例(これい)の萬一を存す、又年中の祈禱法會、是建久三《一一九二》年正月元日、始て行はれしなり、二月、十一月、初卯(はつう)の日、七月七日、八月十六日、此四度法華經供養あり、按ずるに東鑑正治二《一二〇〇》年二月、當宮にして經供養(きやうくやう)の事、始て見えしより往々記載す。

[やぶちゃん注:「關隘の征錢」「せきあいのせいせん」と読む。「隘」は道や土地などが塞がって細い意であるから、関所の通行税のことであろう。

「北條左衛門大夫氏繁」北条康成(氏繁)(やすしげ/うじやす 天文五(一五三六)年~天正六(一五七八)年)のこと。以下、ウィキ北条氏繁によれば、福島正成の子とされる北条綱成の嫡男で玉縄城主。後に岩槻城城代・鎌倉代官なども務めた。天文五(一五三六)年に後北条氏の家臣北条綱成の嫡男として誕生、『母方のおじにあたる北条氏康に仕え、偏諱を賜って康成と名乗る(生涯の大半はこの諱を名乗っている)。また、のちに氏康の娘で康成の従姉妹にあたる七曲殿を妻としている』。父同様、武勇に優れ、天文二三(一五五四)年の加島の戦い(駿河での北条氏康と武田晴信との激戦)では先鋒の一人を務め、功を立てた。『駿河国の今川氏を甲斐国の武田氏の侵攻から救援すべく氏康が出兵した際にも、陣頭に立って活躍』永禄四(一五六一)年に上杉謙信や永禄一二(一五六九)年に武田信玄が侵攻してきた際には、『玉縄城に籠城して守り抜いている。里見氏との第二次国府台合戦では父綱成や松田憲秀と共に奇襲をかけて里見軍を打ち破った。また、白河結城氏や蘆名氏との外交交渉にも携わっている。このように軍事・外交に長けた氏繁は氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された』。元亀二(一五七一)年頃に父綱成が隠居したのを受けて、氏繁に改名、家督を継いだが、天正六(一五七八)年に父に先立って対佐竹氏の最前線であった下総飯沼城中に於いて病死している。『氏繁は自分の印判に『易経』からとった「顚趾利出否」という文を刻んだ。政治秩序が顚倒しており、旧弊を一掃するのに好都合だという時勢観を表したもので』、『武人画家としても知られ、『鷹図』(個人蔵)などの作品を残している。また、『北条記』の「北条常陸守氏重事」によれば、鷹を飼育する事にかけても名人だったという』とある。今、私の書斎から見えるのは玉縄城の城跡である。さすれば、特に彼については詳述するのが礼儀であろう。

「雲板」神棚などを設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材。

「囚人河村三郎義秀」(生没年不詳)相模国の住人で藤原秀郷の子孫波多野氏の一族。治承四(一一八〇)年の頼朝の石橋山挙兵の際に平家方に属して頼朝軍と戦い、後に捕らわれて大庭景能の許に預けられていた。斬罪になるところ、ここ記されるように鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言によって流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟(てばさみ)・八的(やつまと)(本文中に出る「三流の作物」)などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。同年九月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され、以後、御家人として活躍、頼朝の二度の上洛や曾我兄弟の仇討で有名な富士野巻狩りにも随行、後の承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍に属して、軍功を挙げている。現在のJR御殿場線山北駅の南に河村城址が残る(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

[やぶちゃん注:以下の「神寶」は底本では有意にポイント落ちで全体が一字下げとなっている。]

 

        神 寶

弓  壹張。

靫  壹口。

直羽矢 十五本。

衞府太刀  壹振、長二尺餘、無銘鞘は梨地なり。

兵庫鍍太刀  貮振、共に二尺餘、無銘。

太刀  貮振、銘行光とあり、目釘穴なし、二尺餘あり。

大刀  壹振、銘綱家とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘泰國とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘綱廣とあり、三尺餘あり。

硯箱  壹合、梨地蒔繪籬に菊を金具にす、内に水入筆管あり、共に銀にて作る。

十二手匣  壹合。

十二單   貮襲。

院宣  壹通、應永二十一年四月十三日とあり。

賴朝書  貮通。

華嚴輕  壹卷、第五十一卷如來出現品、大職冠鎌足筆也。

菩提心論  壹卷、細字なり、智證大師の筆。

大般若經  壹卷、弘法筆也。

功德品  壹卷、菅丞相の筆なり。

心經  貮卷、共に紺紙金泥、一卷は源基氏、一卷は源氏滿の筆也。

袈婆坐具 各々一具。

五鈷杵  壹個、是を雲加持の五鈷と云ふ。

小五鈷杵  壹個、禪林寺宗叡僧正の持金剛杵と云ふ。

如意賽珠  壹顆。

牛玉  壹顆。

鹿玉  壹顆。

五指量愛染明王像  壹軀弘法作、四五寸許の丸木を蓋と身に引分け、身の方に愛染を作付たり、臺座ともに一木にて作る。

辨才天 壹軀、蛇形の自然石なり

藥師像 壹軀弘法の作、厨子に入、前に十二神をも小さく刻み、扉に四天王を彫る。

回御影 祕物にて昔より終に見たる人なし。

二舞面 貮枚。

陵王面 壹枚。

拔頭面 壹枚。

磯良面 壹枚、皆妙作也。

歌仙 上下の社内に之を掛く、上宮に懸たるは尊純法親王の墨蹟なり、下宮に掛たるは良恕法親王の墨蹟、繪は共に狩野孝信なり。

[やぶちゃん注:以上は「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」・同「卷之三」に詳細を究めてある。そちらの私の注を参照されたい。ポイント落ち一字字下げはここまで。]

 

毎歳夏期に及べば、寶物展覽會と稱へ、神寶を縱覽に供す。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 84 義仲の寢覺の山か月悲し

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その三】芭蕉偏愛の木曽義仲が平家方を打ち破った砦の跡、燧(ひうち)が城を遠望しての吟詠。湯尾峠東南方(現在の南越前町今庄)にあり、敦賀へ進行する芭蕉の右手に見えた。

 

  燧山(ひうちやま)

義仲の寢覺(ねざめ)の山か月悲し

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種」。

 峠越えが夜であったとは思われないから、この句は昼の景から時間を巻戻って陣中の義仲を詠んだ時代詠である。「平家物語」巻七「燧合戦」に詳しい。但し、この義仲平家追伐の緒戦に於けるここの城築を命じたのは義仲であるが、自身はまだその時には信濃にいたので注意されたい。孰れにせよ、破竹の勢いで南下した義仲がこの営中に辿りついた頃には、まさに寝覚めの名月を賞する余裕もあったに違いなく、しかしその英雄の兵(つわもの)も、みるみる夢の跡として露の如くに消えいったことを思えば、まさに芭蕉の「月悲し」はしみじみと生きてくるとは言える。「奥の細道」で何故か、語らなかった自身の愛する悲劇の英雄義仲の一句である。思い入れは伝わるものの、「寢覺」と「月悲し」の衝突が上手くいっておらず、句力が分散してしまい、義仲へのオマージュたり得ていないと私は思う。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 83 月に名を包みかねてやいもの神

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その二】湯尾峠(ゆのおとうげ:福井県南条郡南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にある標高約二百メートルの峠。)にて。

 

  湯尾

月に名を包みかねてやいもの神

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種(たね)」。「荊口句帳」には、

 

  木の目峠 いもの神やど札有

 

という前書がある。この「やど札」とは、姓名などを記して門口に掲げ、その人の住居であることを知らせる門札、今の表札の意で、ここは「いもの神」=疱瘡神が住まっていることをこの貼札で告げて、疱瘡の厄を払うための御札を指すものと思われる。

 「いも」は天然痘のこと。前に注した通り、当時、この峠附近には四軒の茶屋が賑やかに商売を営み、また、峠の西端にある疱瘡神を祀ったとされる孫嫡子神社があって、これらの茶屋ではその御守札も配布していた。 y_ogawa 氏のサイト「北陸の峠道」の「湯尾峠」によれば、『峠に老夫婦住みて子なきを嘆く、通りかかった役小角(えんのおづぬ)が哀れんで如意輪観音の七星の神呪を授けた。暫くして娘現れ子となり、光明童子の化身現れて娘と結ばれて子を授け云々とあ』り、後、『孫嫡子長じて奈良東大寺等に学び、この地に庵をむすび観音を祭り人々の災厄を除き開導せし』めたばかりか、『醍醐天皇疱瘡を患い当社に祈願したらたちまちに平癒したまう、それより疱瘡の神として世に伝わった』と記す。疱瘡神絡みの「いも峠」は諸国にあったと山本健吉氏の注にある。ここは「いも」に八月十五夜の月「芋名月」(里芋を供えることに由来)を掛けた如何にも軽い洒落句である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 82 あすの月雨占なはんひなが嶽

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その一】宿泊地や旅程からの厳密な比定ではないものの、句意から、この十四日の句と採っておく。

 

  ひなが嶽

あすの月雨占なはんひなが嶽

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。

「ひなが嶽」は前に注した「比那が嵩」で霊山日野山(ひのさん)のこと(現在の福井県越前市と南条郡南越前町、武生の南東に聳える)。その霊験あらたかな山の頂きにかかる雲を以って明日名月の晴雨を占おうというのであるが、芭蕉が「雨」と詠み込んでしまったことは、これ、悪しき言挙げとなってしまった。]

2014/09/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 おせち料理

 年の初めに、町々をさまよい歩き、装飾の非常に多数の変種を研究することは、愉快さの、絶えぬ源泉である。表示された趣味、松、竹その他の象徴的材料を使用することに依て伝えられる感情は興味ある研究題材をつくる。元旦、私は廻礼をしていて、店の多くが閉ざしてあるのに気がついた。町は動作と色彩との、活々した光景を現示する――年賀に廻る、立派な着物を着た老人、鮮かな色の着物を着て追羽子をする若い人々、男の子はけばけばしい色に塗った大小いろいろの紙鳶を高低いろいろな空中に飛ばせる。上流階級の庭園では、華美なよそおいをした女の子達が、羽子を打って長袖をなびかせると、何ともいえず美しい色彩がひらめくのである。非常に多数の将校や兵士が往来にいた。いたる所に国旗がヒラヒラし、殆どすべての家が、あの古風な藁細工で装飾されていた。子供が群れつどう町町を見、楽器の音を聞き、そこここに陽気な会合が、食物と酒とを真中に開かれているのをチラチラ見ることは、誠に活気をつける。私が訪問した所では、どこででも食物と酒とが、新年の習慣の一つとして出された。食物でさえも、ある感情と、それから満足とを伝達するのである。新年には必ず甘い酒が出されるが、それに使用する特別な器は、急須のような注口を持っており、鉉(つる)即ち磁器なり陶器なりの柄は、器の胴体と同一片である。これが急須の蒐集の中に混合しているのを、よく見受ける。

M487

図―487

M488

図―488

 

 膳部は皿と料理に就ては、本質的にみな同一だから、その一つを写生したものを出せば、すべてに通用する。図487は酒、菓子、その他の典型的な膳部で、私が写生帳を取出してもよい程懇意にしていると感じた、日本人の教授の一人の家で出たもの。この絵はいろいろな品が、畳の上に置かれた所そのままを見せている。甘い酒を入れた急須は右手にあり、松の小枝と、必ず贈物に添えられるノシとが、柄についている。普通の酒は低い、四角な箱に納る瓶に入って給仕される。積み重ねた三つの、四角い漆塗の箱には、食物が入っている。食物というのは、魚から取り出したままの魚卵の塊、砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物、棒のように固い小さな乾魚、斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根(れんこん)、鋭い扇形に切ったウォーター・チェスナット〔辞書には菱とあるが慈姑(くわい)であろう〕、緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚、切った冷たい玉子焼、菓子、茶、酒(図488)。

[やぶちゃん注:「魚から取り出したままの魚卵の塊」数の子。

「砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物」黒豆。図488最上部。

「棒のように固い小さな乾魚」田作り(ゴマメ)。図488上から二番目。

「斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根」酢蓮。図488上から三番目。

「ウォーター・チェスナット」底本では直下に石川氏による『〔辞書には菱とあるが慈姑(くわい)であろう〕』割注が入る。原文“a water chestnut”。確かに英語辞書ではそう出るが、調べてみると別に、単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科ハリイ属シログワイ Eleocharis dulcis という種も英名で“Water chestnut”ということが分かった(ウィキの「シログワイに拠る。以下引用も)。シログワイ(別名イヌクログワイ)は根茎を食用とし、レンコンに似た食感と味があって美味である。インド原産の、多年生、水性の草本で、日本に広く分布するクログワイ Eleocharis kuroguwai に似るが、より大型で、高さ一メートルを越え、穂が白っぽくなる。但し、注意して頂きたいのは、この「シロログワイ(白慈姑)」も「クログワイ(黒慈姑)」も根茎の形状がやや似ているために、かく呼称しているに過ぎず、実は本邦で正月に食す単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ変種クワイ Sagittaria trifolia var. edulis とは別科の全く異なった植物で、根茎の食感も大きく異なる点である。ともかくもここ膳に出ているのは真正の慈姑(クワイ Sagittaria trifolia var. edulis)と考えてよかろう。但し、祝儀用に扇型に型抜きしたものらしいのだが、そうなると私は、これは目が出るに掛けたはずの芽出し慈姑としてはおかしく、寧ろ、大型の八つ頭(単子葉植物綱サトイモ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta )なのではないかなどと考えた。識者の御教授を乞うものである。図488上から四番目。

「緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚」鰊の昆布巻きか。図488最下部。

「切った冷たい玉子焼」伊達巻。実は私はこれに目がない。]

羽蟲の羽 萩原朔太郎 (短歌三十三首)

[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「羽蟲の羽」歌群。最後のクレジットによれば大正二(一九一三)年四月の作である。圏点「ヽ」(各首頭部)及び「○」(各首下)は、編者注に従って推定復元したものである(特に「○」の位置は「下」とのみあるので不確かである)。]

 

 羽蟲の羽

        街の葉ざくら作

 

ヽおしなべて羽蟲の羽(はね)のさも白く

 ひかるをみれば夏は來にけり

    

 花がたみ艶(あで)なるひとを我が待てば

 遠里小野に月のぼるなり

 

 足の爪すこしぬらして宵毎の

 濱邊づたひを好む君かな

 

ヽうち出でゝ濱邊にたてば月見草

 月かたむきてにほふなりけり

 

[やぶちゃん注:「」は判読不能字の抹消を示す。]

 

ヽなわすれそ勿忘草の花つみに

 來よと言ひなばおどろきて來む

 

 たれこめて物や思へとわがために

 雨ふりぐさの花咲きにけむ

 

ヽいかにせんならんろべりや吹くときくだにも

 泣かまくほしくもの思ふ身は

 

[やぶちゃん注:「ろべりや」既注であるが再掲する。キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobelia のロベリア・エリヌス Lobelia erinus 、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種をいう。南アフリカ原産の秋播きの一年草で、高さ二十センチメートルほどでマウンド状に広がる。四月から七月頃に青紫色の美しい花を咲かせ、花色は赤紫色やピンク・白色などがある。(weblio辞書の「植物図鑑」にある「ロベリア・エリヌス(瑠璃蝶草)」に拠った。画像はグーグル画像検索「Lobelia erinusも参照されたい)。]

 

 

 春日野の若菜いろぐさおきなぐさ

 けふわが來れば下萌えにけり

 

 さくらの實(み)さくらばなよりほの紅き

 そのくちびるをさしあてたまふ

 

 ひとはいさ知るや知らめやみぢか夜の

 月の出窓にくちづけしこと

 

[やぶちゃん注:「みぢか夜」はママ。次の一首も同じ。]

 

 ひとはいさ知るや知らめやみぢか夜の

 月の出窓にくちづけしこと

 

ヽかくとだにえやは言へざるさりげなく

 夏來にけるとつげやりしかな

 

 おしめども散りゆくものを花びらを

 くちにふくみて物おもふかな

 

[やぶちゃん注:「おしめども」はママ。]

 

 うたかたの水の流れとさくらばな

 かひなきものは我身なりけり

 

 かくとだにえやは言えざる女氣に

 夏くるとのみつげやりしかな

 

[やぶちゃん注:「言えざる」はママ。]

 

 しめやかに舗石みちを歩むとき

 さつきながあめふりそめにけり

 

 電車みちよこぎりしとき靴さきを

 ぬらして過ぎし夏の雨かな

 

 夏若葉つばめ飛び行き飛び來り

 めぢのかぎりを人あゆむなり

 

 辻待ちの俥のほろも葉柳の

 しつくに濡れて嘆く夜かな

 

 たそがれてゆくゑもしらに氣車みちの

 堤(つゞみ)のうへをたどるなりけり

 

[やぶちゃん注:「堤」のルビ「つゞみ」はママ。]

 

 磯打浪(いそつなみ)小磯が濱の貝がらの

 かひなく濡れて物思ふころ

 

 うれしきはその紅貝(べにがひ)のふたつみつ

 袂のすみにちゝと鳴ること

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。]

 

ヽつばくらめきのふかへりてかくばかり

 うれしきことを告げにけらしな

 

 あすかやま年つきへても忘れねば

 いまは牡丹の花つみにけり       ○

 

[やぶちゃん注:「いまは」は原本では「いはま」。意味が通じないので校訂本文を採用した。]

 

 憂きことはさらになけれど紅爪(べにづめ)を

 かめばあやふく涙するかな

 

 かぶと蟲黑くひかりて音もなく

 くぬぎ林になげくなりけり       ○

 

 さくらさくらさくらちりかひみちもせに

 とりどりなれや春ゆかんとす      ○

 

 はらはらと柳ちりかひ忘れじの

 そのひとことはあかくにほひぬ

 

      きのふといひ、けふといひ

      あゝせんかたもなき日頃かな

 あさましき我がおこなひもいかばかり

 草もえ出でゝかなしかるらむ      ○

 

 とりつめし心ばかりは哀しけれ

 玉菜は梅雨(つゆ)にぬれてひかれど

 

 ながらへてまたこの頃は若葉する

 木立の中を歩むなりけり

 

 見せばやなうすみどりせるそうぞくの

 ひとにつまれしゆすらごのはな

 

[やぶちゃん注:「そうぞく」はママ。「ゆすらご」はサクランボに似た赤い小さな実をつけるバラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa の俗名。漢字表記では「梅桃」「山桜桃梅」。ウィキの「ユスラウメ」には『現在では『サクラ』を意味する漢字『櫻』は元々はユスラウメを指す字であった。ユスラウメの実が実っている様子を首飾りを付けた女性に見立てて出来た字である』とある。知らなかった(グーグル画像検索「ユスラウメの花」)。]

 

 やわらかにきみがおゆびをくちびるに

 ふくみて居れば花散りにけり

 

[やぶちゃん注:「やわらかに」はママ。]

 

 いつの日かその石段に立ちしとき

 ぎんなんの實の落ちてきたりき

              (一九一三、四、)

橋本多佳子句集「海彦」 長崎行(Ⅰ) 久女を弔ふ

 長崎行

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、以下の「阿蘇」までは確実に昭和二九(一九五四)年五月の九州旅行の際の句群である。六日に津田清子と同伴で旅立ち(伊丹から板付まで航空機を利用した。冒頭異例の九句にも及ぶそれらから見ると、もしかすると多佳子はこの時初めて航空機に乗ったものかも知れない)、長崎に三泊の後、『十数年ぶりに阿蘇山に登』った。その後、『横山白虹らと共に、久女終焉の地、筑紫観音寺にある九大分院、筑紫保養院に行き、久女を弔』ったとある。]

 

夏雲航(ゆ)く地上のことを語りつゞけ

 

巣燕を見しこと遠し天(あま)翔けつゝ

 

灼くる翼その上に重き無限の碧

 

[やぶちゃん注:「上」は「へ」、「碧」は「へき」と読んでいるか。私は少なくともそう読みたくなる。]

 

夏の雲天航く玻璃に露凝らす

 

夏の雲翼とゞまるゆるされず

 

夏天航く四ツ葉プロペラ健かなり

 

灼くる翼ゆれつゝ平らたもちつゝ

 

双翼が地上の梅雨の暗さに入る

 

天降りて青野に車輪ぐゝと触る

 

  横山白虹氏と共に久女終焉の地を弔ふ、

  筑紫観音寺保養院にて

 

青櫨が蔽ひ久女の窓昏む

 

[やぶちゃん注:「青櫨」「あをはぜ」でムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の新緑。]


鑰(かぎ)はづし入る万緑の一つの扉(と)

 

万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子

 

[やぶちゃん注:「筑紫観音寺保養院」は現在の、福岡県太宰府市五条にある福岡県立精神医療センター太宰府病院の前身である。単科精神科病院福岡県立筑紫保養院の開院は昭和六(一九三一)年十一月二十五日で、当初は百床であった(同病院公式サイトの院長挨拶に拠る)。

 久女はここで八年前の昭和二一(一九四六)年一月二十一日、極寒の中、腎臓病悪化――精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(坂本宮尾「杉田久女」一九八頁より孫引き)――のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった。

 多佳子は後の「自句自解」(『俳句』昭和三三(一九五八)年一月発行)で、この句に自注し、以下のように述べている(底本全集第二巻を底本とした)。

   *

 万緑やわが額にある鉄格子 (海彦)

 昭和二十九年筑紫保養院の作。

 杉田久女の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかかつてをりました。偶々「自鳴鐘」の好意によつて、それを実現することが出来ました。医学博士である横山自虹氏が同行されましたので、つぶさにその当時の模様を院長から伺へました。

 久女終焉の部屋は、櫨の青菜が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格子は、私の額に影を刻みつけました。

 久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至らないわが身を、この時ほどつよく悔まれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終焉の部屋のたたずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう。

 夕暮、保養院の門を出ると、菜殻火が炎々と燃えてゐました。白虹氏に聴くと、久女の入院は昭和二十年の秋で、翌年の一月に逝つたのですから、久女はこの菜殻火を見てゐないのです。夕日の中に燃えてゐた菜殻火の炎の美事さ恐ろしさは、到底忘れることが出来ません。

   *

 この感懐はこれらの句に孕む非常に深い多佳子の思いを知らせているところの、厳粛な一文であると私は思っている。]

 

  保養院を出づれば菜殻火盛んなり

 

一切忘却眼前に菜殻火燃ゆ

 

[やぶちゃん注:如何にも意味深長な句である。自句自解ではこれは多佳子の心境というよりは、久女の意識に共時化した意識(菜殻火の燃えたつ如き久女の情念が憑依したと言ってもよい)に基づく感懐のように読める。孰れにせよ、この時確かな先師と再実感した久女に対する、恩讐の彼方の思い、であることは間違いない――間違いないが、しかし、私はここに、今一つ――多佳子が、久女没後のおぞましき「久女伝説」の形成に確信犯で自ら組したこと(と私は思っている)を――「一切忘却」しようとしている、と意地悪くも読みたくなるのである。多佳子以上に久女を愛している私はどうしてもこのことを言わずにはおれないのである――]

 

菜殻火の燃ゆる見て立つ久女いたむ

 

菜殻火の火蛾をいたみ久女いたむ

 

つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため

 

菜殻火や入日の中に焰もゆ

 

  久女の終焉をみとりし末継はつみ女

 

万緑下浄き歯並を見せて閉づ

 

[やぶちゃん注:「末継はつみ女」明らかに久女門下の女流俳人と思われるが、不詳。敢えて言うと、「女流俳句を味讀す」(昭和七(一九三二)年三月発行『花衣』創刊号)に、

 

 さげ髮して床にあり風邪の妻  波津女

とある人物、また同『花衣』二号(昭和七年四月発行)に、

 

 うたゝねやさめて疊む花衣  波留女

 

とある人物がそれらしくは見える。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

杉田久女句集 279 花衣 ⅩLⅧ 出雲旅行 四十三句

 出雲旅行 四十三句

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」によれば、昭和一〇(一九三五)年のことであるが、年譜には載らない。]

 

  一 出雲御本社

 

水手洗の杓の柄靑し初詣

 

雪解の雫ひまなし初詣

 

仰ぎ見る大〆飾出雲さび

 

巨いさや雀の出入る〆飾

 

神前に遊ぶ雀も出雲がほ

 

椿落ちず神代に還る心なし

 

斐伊川のつゝみの蘆芽雪殘る

 

斐伊川のつゝみの蘆芽萌え初めし

 

  二 宍道湖(松江大橋)

 

蘆芽ぐむ古江の橋をわたりけり

 

蘆の芽に上げ潮ぬるみ滿ち來たり

 

上げ潮におさるゝ雜魚蘆の角

 

若蘆にうたかた堰を逆ながれ

 

  三 美保關に向ふ途中

 

目の下に霞み初めたる湖上かな

 

立春の輝く潮に船行けり

 

春潮の上に大山雲をかつぎ

 

若刈干す美保關へと船つけり

 

  四 日の見磯に至る途上風景絶好

 

群岩に上るしぶきも春めけり

 

潮碧しわかめ刈る舟木の葉の如し

 

[やぶちゃん注:「日の見磯」前後の句から考えて、日御碕(ひのみさき)のことと思われる。私は不遜にも出雲に行ったことがないので、ウィキの「日御碕」から引用する。『島根県出雲市大社町日御碕に位置し、島根半島のほぼ西端で日本海に面する岬』で、『大山隠岐国立公園に含まれる』。『流紋岩から構成される山が沈降して海に浸かり、波に侵食された後にわずかに隆起し「海食台」と呼ばれる地形が形成された』。『周辺には柱状節理や洞穴が見られ、海上には小島や岩礁が点在する』。『海底にはサドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に彫られた階段や参道、祭祀跡が確認されている。これは沖縄県の南城市にある世界遺産斎場御嶽に似ているといわれ天照大神の神話によく似た神話が斎場御嶽に伝わっている。岬上には』明治三六(一九〇三)年初点灯の『出雲日御碕燈台が立つ』。この灯台は海抜六十三メートルに位置し、光達距離二十一海里(三十八・八九二キロメートル)、灯塔四十三・六五メートルと『石作りの灯台としては日本一の高さを誇り、また白亜の姿が美しい。参観灯台なので見学も可能である』。『日御碕駐車場近くには商店街があり、いか焼き、ソフトクリームなどの飲食店や土産店がある。季節にもよるが、「天日干し」のカレイやノドグロなどの干物も売っている』。『「日御碕の大ソテツ」及び南方に浮かぶ経島の「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物』である。久女が辿ったと思われる島根県道二十九号大社日御碕線についても、『出雲大社(出雲市大社町杵築東)と日御碕を結ぶ海沿いの道。冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に冬の日本海を体感できるコースとなっている。晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。カーブが非常に多く急峻な場所も目立つ。トンネル等の付け替えにより路線改良は行われているが、現在でも時折、荒天等を原因とする法面等の崩落が起こりやすく、その度に交通規制が発生する場合があるので、走行には十分に注意されたい』とある。]

 

  五 出雲神話をよめる。稻佐の濱

 

群岩に春潮しぶき鰐いかる

 

虛僞の兎神も援けず東風つよし

 

春潮の渚に神の國讓り

 

[やぶちゃん注:「稻佐の濱」は「いなさのはま」と読み、島根県出雲市大社町にある砂浜海岸である。ウィキ稲佐の浜によれば、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名がみえる。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、ここでは出雲大社の神事である神幸祭(八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日)が行われる、とある。以下、周辺の名跡として弁天島(稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命を祀る)・塩掻島(しおかきしま。 神幸祭に於いてはこの島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える)・屏風岩(大国主神と建御雷神がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる)・つぶて岩(国譲りの際、建御名方神と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる)を挙げてある。久女が詠んでいる知られた「稲羽の白兎」伝説との関連は書かれておらず、ウィキ因幡の白兎にも稲佐の浜は出ないが、如何にもそれらしい名でもあるので調べてみると、mlsenyou 氏のブログ「橙色の豚~旅と株と共に去りぬ~」の稲佐の浜(稲狭の浜) 国譲りの伝説と古代史に、『ちなみに、稲佐の浜は稲羽(因幡)の白兎の伝説の場所でもある。因幡の白兎の話は、白兎がワニを騙したせいでひどい目にあったというものだが、その後日談として、大国主は白兎を助けている』とある。]

 

  稻佐の濱國讓りの故事――高天原から天孫

  降臨の爲、この濱で出雲族と國讓りの議に

  ついて神々相會し、遂に亂を好まぬ大國主

  命は賢明にも國土を全部獻上。その爲、天

  照大神大いに喜び給ひ、御子を出雲につか

  はし、大國主の宮を造營して仕へせしめ給

  ふとある。

 

椿咲く絶壁の底潮碧く

 

春潮に眞砂ま白し神ぞ逢ふ

 

春潮からし虛僞のむくいに泣く兎

 

潮浴びて泣き出す兎赤裸

 

兎かなし蒲の穗絮の甲斐もなく

 

[やぶちゃん注:「穗絮」は「ほわた」。]

 

春潮に神も怒れり虛僞兎

 

春寒し見離されたる雪兎

 

ゆるゆると登れば成就椿坂

 

[やぶちゃん注:「椿坂」は固有名詞ではないと思われる。]

 

雪兎援けず潮にわがそだつ

 

[やぶちゃん注:この一句、連想の感懐ながら、私は掬すべき佳句と感ずる。]

 

  六 小泉八雲の舊居

 

春寒み八雲舊居は見ずしまひ

 

燈臺のまたたき滋し壺燒屋

 

[やぶちゃん注:島根県松江市北堀町にある。中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会公式サイト「山陰」の小泉八雲旧居(ヘルン旧居)を参照されたい。「壺燒屋」の「壺燒」は栄螺の壺焼きのことと思われる。ネットを管見すると当地の名物であることが分かる。]

 

  七 出雲御本社寶物

 

春光や塗美しき玉櫛屋

 

  八 八重垣神社

 

處女美(うま)し連理の椿髮に挿頭(かざ)し

 

[やぶちゃん注:島根県松江市佐草町にある神社で、ここには現在も二股の根をした連理玉椿(夫婦椿)がある。大木浩士氏のサイト「ぶらり神社めぐり」の八重垣神社」の写真が二股の根をよく写しておられる。]

 

  九 境内に鏡の池

 

みづら結ふ神代の春の水鏡

 

日表の莟も堅しこの椿

 

椿濃し神代の春の御姿

 

春の旅子らの緣もいそぐまじ

 

[やぶちゃん注:ウィキ八重垣神社」に、『「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かぶという手法。紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれ』、『また、紙の上をイモリが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるという』とあるが、哀しいかな、一九七〇年代頃、『この「鏡の池」に賽銭泥棒が出没して以来、池の底には目の大きめな金網が張られるようになっ』てしまったともある。これ、世の末の鏡ならむや……]

 

  十 出雲八重垣

 

神代より變らぬ道ぞ紅椿

 

節分の丑滿詣降られずに

 

[やぶちゃん注:「節分の丑滿詣」というような仕来りは少なくとも現在は行われていないようである(ネット検索に拠る)。これは後の句に「夜汽車」とあり、出雲の旅の最後で、たまたま深夜の参拝(前の句群は明らかに昼景であるから、出雲出立の最後に再拝したものかと思われる)となったことを言っているものか。識者の御教授を乞う。]

 

東風吹くや八重垣なせる舊家の門(と)

 

煖房に汗ばむ夜汽車神詣

耳嚢 巻之九 潛龍上天の事

 潛龍上天の事

 

 文化五年六月十七日、淺草觀音の堂上、幷(ならびに)山門の屋根上に黑雲集り、其内燃(もゆ)る火のごときものたち登り強雨しきりなるを、人の語りしが、山崎宗篤が許へ來る髮結も顯然見し由咄しぬれば、虛談にもあらずやと、宗篤子の語りぬ。何れの御代や右樣の事有りしが、火の災ありしと申傳(まうしつたふ)る旨、土地の者恐れけるが、是を以(もつて)愼(つつしま)ば一德成(なる)べし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。但し、昇龍譚は先行する「卷之八」の最後から七、八番目に載り、見た目の強い連関性が窺える。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本「卷之九」がほぼそっくり「卷之十」となっており、逆に本書の「卷之十」が「卷之九」のないようとなっていることは、頗る重要な相違点であるので、特にここで指摘しておくことにする。なお、この順序の齟齬はバークレー校版の書写者によるもの推測され(巻九と十の稿本の作成経緯に危急性があって巻号が記されず、跋文位置からこの順に判断されたものかという仮説が岩波版の長谷川強氏の解説にある)、記事内容の編年性から見て、底本の順序が正しいと考えられる。

 なお、底本の鈴木氏注に『此事、武江年表に記さず。(三村翁)』とあり、所謂、流言飛語で留まったところの怪しげな低レベル都市伝説の類いであることが分かる。根岸もそのようなものとして捉えながらも、最後に味な、しかももっともな台詞で結んでいる。流石は名町奉行! 鎭(ちん)さん! いいね!

・「文化五年六月十七日」本「卷之九」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化六(一八〇九)年夏とされているから、ホットなアーバン・レジェンドではある。なお本話では、この超常現象と実際の火災発生の連関性に対し、人々が強く恐懼していることが分かるが、これには訳がある。実にこの年より二年前の文化三年三月四日(西暦一八〇六年四月二十二日)に明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる文化の大火(丙寅(ひのえとら)の大火・車町火事・牛町火事)の記憶が生々しく残っていたからである。参照したウィキの「文化の大火」によれば、出火元は芝・車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近。午前十時頃に発生した火は、『薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった』。翌五日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸八か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えているとある。

・「山崎宗篤」不詳。「むねあつ/そうとく」と読むか。何となく医者っぽい名ではある。次の類話にも登場。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 潜みたる龍が昇天するという事

 

 文化五年六月十七日のこと、浅草観音堂の堂上及び、仁王門の屋根上に、これ、妖しき黒雲(くろくも)が生じ、それが夥しく蝟集致いたかと思うと、そのうち、そのおぞましき黒雲の中より、妖しき燃ゆる火の如きものが、真上の空に向こうて、しきりに飛び立ち昇ったるやいなや、どっと雨の降りしきって参った――とのこと、知れる人の語って御座ったが、知人山崎宗篤(そうとく)の所に来たる髪結いも、

「――へえ!――確かに『はっきりと明らかに見た』と、知れる者の申しておりやしたから、これ、嘘っぱちでも、ごぜえますめえ。」

と、宗篤殿御自身が語って御座った。

 『何時頃の御代で御座ったか、全く同じようなことのあったが、こうしたことが起こるは、これ、火の災いの前兆じゃと言い伝えておる』なんどと申し、浅草辺の民草はしきりに恐懼しておるとも伝えるが――

 私は、こうした出来事や流言飛語のあったを以って、人々が火の元にも、よう注意を致すようになるのであってみればこそ、これもまた一つの利得と言えようと思うておるので御座る。

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖

[やぶちゃん注:ここで、次の「鶴岡八幡宮」の記載の見開き「四」頁と「五」の間に挟み込まれている底本のオリジナルと思われる地図「鎌倉實測圖」を画像で示すこととする。前の「区分」から「十橋」に至る地名名跡が概ね記されており、実に今から百十七年以上前の鎌倉の面影を知り得る非常に貴重なものである。私は近代の鎌倉地図を何枚か見てきたが、これは侮れない一枚と認識している。ちょっと困るのは無理矢理一枚に収めるために、方位が四十五度弱西に傾むけてあることと、十二所及び峠村の部分が由比ヶ浜湾内に記されている点である。その辺りに注意してご覧になられたい。なお、大きさがA4を遙かに超えるので、中央部をダブらせて二枚で撮ってあるので注意されたい。
 
 鎌倉霊園に惨たらしく破壊され(実に自然に還るべき魂が自然を完膚無きまでに破壊するというおぞましい逆説である)る以前のこの一帯が知れるだけでも非常に貴重な地図と言えると私は思うのである。]

1

2

[やぶちゃん注:本ブログ版では規定容量ギリギリの1MB弱にしてあるので、十分細部まで判読出来ると思う。但し、その際、画像を直接左クリックで表示せずに(そうするとブラウザによっては右手が切れる)、右クリックで別なウインドウに表示されたい。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 81 あさむつや月見の旅の明けばなれ

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その三】前の「月見せよ」の冒頭で述べた通り、句柄からは、この日の未明に福井を発って、朝まだき、玉江を過ぎて歌枕浅水(あそうず)橋(現在の福井市浅水町)を明け六つ(午前六時頃)に通った(と仮想したものかも知れぬところの)吟詠。「奥の細道」での順序の逆転は前の「月見せよ」の注を参照されたい。

 

  淺水のはしを渡る時、俗あさうづといふ。

  淸少納言の橋はと有(ある)一条あさむ

  つとかける所也

あさむつや月見の旅の明(あけ)ばなれ

 

  阿曾武津(あそむつ)の橋

あさむつを月見の旅の明け離れ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「其袋」の、第二句目は先に示した「荊口句帳」の句形。

「枕草子」六十一段の橋尽くしに、

 

 橋はあさむつの橋。長柄(ながら)の橋。天彦(あまびこ)の橋。濱名の橋。ひとつ橋。うたた寢の橋。佐野の舟橋(ふなはし)。堀江の橋。かささぎの橋。山菅(やますげ)の橋。をつの浮橋。一すじ渡したる棚橋(たなはし)、心狹(せば)けれど、名を聞くにをかしきなり。

 

と筆頭に掲げられてある。「心狹けれど」いかにも恣意的で私個人の偏向した感じを受けるかもしれないけれど、という謂いであろう。いやいや、芭蕉も私も「あさむつの橋」はなかなか「をかし」と思いますよ、清さん。

 芭蕉は「あさむつ」を「朝六つ」=「明け六つ」に掛けた。掛けたからには事実はどうであったかよりも、この景は十三夜月を堪能した明け方午前六時の浅水(あそうず)橋の景である。因みに、この日の当地での月没は午前二時八分であった。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 80 月見せよ玉江の芦を刈らぬ先

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その二】句の並びと句意からは(後注及び次の「あさむつや」の考証を参照)この日の未明に福井を発って、朝まだき、福井と麻生津の間にある「玉江の蘆」で知られた玉江(現在の福井県花堂(はなんどう)町の虚空蔵川の架かる橋で蘆を合わせて読むのを常とする歌枕)を過ぎたと思われる。地名は「奥の細道」に載るが句はない。

  玉江

月見せよ玉江の芦(あし)を刈(から)ぬ先

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種(たね)」(荷兮編・元禄七年自序)に載る句。

――月見をせよ!――古歌で知られた玉江の蘆は、いままさに丁度、穂を出したところ……さあ、この穂が刈られてしまう前に……その風雅な穂波の彼方に浮かぶ月影を!――

 またしても強気の命令形である。敦賀の月見と洒落たところの自身の決めたその思いつきを下敷きにして、何か、妙に力んで詠んでいる感じがする。私はどうも好感が持てない。

 「奥の細道」の敦賀到着までの段を示す(ここは自筆本では前の福井の旅立ちと連続していて、最初の行の頭には「立」が入っている)。

   *

 漸白根か嶽かくれて比那か

嵩あらはるあさむつの橋をわ

たりて玉江の芦は穗に出けり

鶯の關を過て湯尾峠を越れ

は火打か城かへる山に初鴈を聞

て十四日の夕暮つるかの津に

宿をもとむ

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇穗に出(いで)けり → ●穗に出でにけり

   *

「漸」やうやう。

「白根か嶽」加賀白山。

「比那か嵩」「ひながたけ」と読む。日野山(ひのさん)。現在の福井県越前市と南条郡南越前町に跨る標高七九四・八メートルの山。養老二(七一八)年、泰澄によって開山された山岳信仰のメッカで、白山・越知山(おちさん:福井県福井市と丹生郡越前町の境にある)・文殊山(もんじゅさん:福井県福井市と鯖江市の境にある)・蔵王山(福井県永平寺町にある)と併せて越前五山の一つに数えられてきた霊山(ウィキの「日野山」及び同各リンク先に拠る)。『福井平野から眺める山容が秀麗な景観を見せることから、現在では俗に越前富士と呼ばれている』とある。

「あさむづの橋」現在の福井市浅水(あそうず)町を流れる浅水川に架した橋で、福井城下から南へ凡そ八キロメートルほどの位置にある、「枕草子」などにも出る歌枕。但し、位置関係からは次に出る玉江を過ぎて、浅水の橋に至る、と山本健吉氏の「芭蕉全句」にある。「橋」「渡る」「江」「蘆」という縁語順列というか、意識の景観配列の自然さを狙ったものか。

「鶯の關」新潮日本古典集成の富山奏氏の注には、現在の『福井県今庄町と南条町との間。この当時は歌枕の関跡を留めるのみ』、伊藤氏の「芭蕉DB」の「敦賀」では、現在の『福井県南条郡南越前町湯尾にあった歌枕』、安東次男氏は『南条郡鯖波(さばなみ)の旧関、当時は既になかった』とある。また、こちらの「福井県史」では『今宿・脇本続いて鯖波の宿を過ぎると関ケ鼻に着く。「帰鴈記」は関の原の名所の歌として、「うぐひすの啼つる声にさそはれてゆきもやられる関のはらかな」をとりあげ、鴬の関ともいい関ケ鼻をいい誤ったものとしている』とあって、これだと、南条郡南条町関ケ鼻が比定地となる。

「湯尾峠」福井県南条郡南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にある標高約二百メートルの峠。参照した個人サイト「街道の風景」の「湯尾峠」によれば、『峠名は峠下にある湯尾に由来しますが、昔は柚尾の峠とも書かれています。昔から北陸街道がこの峠を通り交通、軍事上の要地でした』。『江戸期には峠の』附近に四軒の『茶屋があって、にぎやかに商売を営み、また御利益の多い疱瘡神の孫嫡子御守札を配布していました』とある(後の句注で詳述する)。

「火打か城」燧(ひうち)が城。湯尾峠東南方(現在の南越前町今庄)にある芭蕉の好きな木曽義仲軍の砦跡。

「かへる山」帰山。南越前町湯尾にある歌枕で、続くように併せて雁を詠むのを常とした。

 歌枕の羅列で、若い頃、父に車でそばを通ったきりの和歌嫌いの私には実景も浮かばず、ひたすら月見、月見と声高にして、「奥の細道」ではここ暫く、私には如何にもダルに感ずる箇所である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 79 名月の見所問はん旅寢せむ

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その一】諸資料から、この八月十三日辺りに、芭蕉は福井の旧知の俳人等栽宅から彼を伴って敦賀気比(けひ)の明神に十五夜の月見をせんものと旅立ったと考えられる(従って慫慂の作句であるから前日の十二日の吟かも知れぬが、タイミングとしてはここに配したい)。福井から敦賀までは二日ほどの旅程に相当する。

 

  福井洞栽子をさそふ

 

名月の見所(みどころ)問(とは)ん旅寢せむ

 

  越前福井等載に對して

名月の名どころ問ん月見せん

 

名月の名所問はむ旅寢せむ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳」(荊口筆/路通序・元禄二年成立・この書名は仮称であって荊口の残した懐紙の綴りであり、その「芭蕉翁月一夜十五句」の冒頭に載る句。個人サイト「温泉ドライブのページ」の『「芭蕉翁月一夜十五句」(荊口句帖)』によれば、これは『大垣藩士宮崎荊口と、その子此筋・千川・文鳥を中心とする発句・連句の書留で』、昭和三四(一九五九)年になって、『大垣市で発見されて大垣市立図書館に寄贈された』という非常に新しく見出された資料である)の句形。「芭蕉翁月一夜十五句」は以下の通り(「十五句」としながら、実際には十四句しか載らないが、これは原資料が断裂して見えないためであることが以下の引用の後書で分かる。以下に上記サイトに載る「芭蕉翁月一夜十五句」を正字化して示した。無論、以降、順次各句を評釈する)。

 

芭蕉翁月一夜十五句

 

   福井洞哉子をさそふ   は(せを)

名月の見所問ん旅寢せむ

 

   阿曾武津の橋

あさむづを月見の旅の明離

 

   玉江

月見せよ玉江の蘆をからぬ先

 

   ひなが嶽

あすの月雨占なハんひなが嶽

 

   木の目峠いもの神也と札有

月に名をつゝミ兼てやいもの神

 

   燧が城

義仲の寢覺の山か月かなし

 

   越の中山

中山や越路も月ハまた命

 

   氣比の海

國々の八景更に氣比の月

 

   同明神

月清し遊行のもてる砂の上

 

   種の濱

衣着て小貝拾ハんいろの月

 

   金が崎雨

月いつく鐘ハ沈める海の底

 

   はま

月のミか雨に相撲もなかりけり

 

   ミなと

ふるき名の角鹿や戀し秋の月

 

   うミ

名月や北國日和定なき

   いま一句きれて見えず

 

「芭蕉DB」の「敦賀」の解説には、これらの句はこの元禄二年八月十四日の夜一夜にして詠んだと伝えられているとあるが、これは単なる伝承の類いであり、明らかにそれ以前、十三日のロケーションのもの(但し、これらを纏めて一気呵成に詠じたのは確かに十四日であったかも知れない。それだけにこれらの句は殆んどが戴けない句となっているとも言える)、最後の方や「名月や」の句は明らかな十五日の句で、私は先に述べた行路日程から見ても、やはり本句を十三日の句と採る。

 第二句目は「奥の細道菅菰抄附録」の句形。前書の「等載」はママ。

 第三句は「芭蕉翁句解参考」(何丸(なにまる)・文政一〇(一八二七)年)の句形。中七と下五の意志を重ねたぎくしゃくした口振りはまことに拙い。

 芭蕉が「奥の細道」の旅の最後の見所を敦賀の気比の名月とようとしたことがこれで分かる(その予定は山中で芭蕉によって決定されていたものと思われ、しかもそこで芭蕉は曾良とではなく、この等栽と、と曾良に提案した可能性を安東次男氏は述べる。これは実に面白い。まさにそれが桃妖の一件で悶々としていた曾良が最後にキレた瞬間であったという可能性は、私はすこぶる高いものと感じているのである)。しかし、後に「奥の細道」の本文に見るように、その期待は裏切られ、雨が降って月は見得なかった。

 響もきも匂いもない。芭蕉の旅程とその意図は知れるものの、私には駄句としか見えない。残しおかぬ方が芭蕉のためにはよかった部類の句と私は断ずるものである。]

2014/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅳ)~了

川流  音無川、極樂寺川、稻瀨川、滑川、豆腐川、山内川、若水川。

   稻村ケ崎、靈山ケ崎、飯島ケ崎。

   由井ケ濱、七里ケ濱。

大社  鶴岡八幡宮、鎌倉宮。

五山  建長寺、圓覺寺、淨智寺、壽福寺、淨明寺。

七切通 朝比奈切通、名越切通、極樂寺切通、大佛切通、假粧阪通、龜ケ谷切通、巨福呂坂切通。

五名水 日蓮乞水、梶原太刀洗水、錢洗水、金龍水、甘露水。

十井  六角井、銚子の井、星の井、鐡の井、棟立の井、瓶の井、甘露の井、泉の井、扇の井、底脱の井。

十橋  亂橋、逆川橋、延命寺橋、琵琶橋、夷堂橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、十王堂橋、裁許橋。

[やぶちゃん注:名数は「鎌倉攬勝考卷之一」に載り、十全なる私の注を附してあるので、そちらを参照されたい。因みに、「鎌倉五山」は順列がおかしい。本誌の筆者は「山嶽」以降、地域区分的に個々の対象を並べる傾向があることから生じたものかも知れぬが、鎌倉に限らず五山には格があり、第一位建長寺・第二位円覚寺・第三位寿福寺・第四位浄智寺・第五位浄妙寺の順で示すのが正しい。

「豆腐川」古い地図を見ると、材木座の弁ヶ谷の東の谷戸を水源とする川で、材木座海岸の和賀江の島近くで由比ヶ浜に流れ込んでいる。個人サイト「鎌倉の川と橋」の「豆腐川」を参照されたい。そこでは最早、流域全長を百メートルとしている。また、近年、市によって完全な暗渠化が企図されており、既に暗渠となってしまっている可能性もある。

「山内川」北鎌倉(旧山内(やまのうち))円覚寺前を流れる山之内川のことであろう。前に示したサイト「鎌倉の川と橋」の「小袋谷川(こぶくろやがわ)」に「山之内川」と出るが、この名称は恐らく現地でしか認識されていない気がする。

「若水川」これは現在は神奈川県横浜市金沢区朝比奈町の川。朝比奈峠を水源とし、同水源の侍従川の支流である。本誌の折込の「「鎌倉實測圖」の「峠村」の端に辛うじて川名を見出せた。]

[やぶちゃん注:以下の鎌倉総説の附記は、底本では「江の島」の前まで、頭の「○」のみ二字目位置にあって全体が二字下げ。]

 

○東京を距(さ)る十三里、滊車(きしや)の便(べん)あり、新橋發横須賀行の列車に乘込(のりこ)み、鎌倉停車場迄は僅々(きんきん)二時間を要せず、停車場を辭して鶴岡へ六町、更に長谷へ十數町、材木山座へ二十餘町、其日歸りても難からじ。

鎌倉に遊はゞ、先づ莊嚴なる鶴岡八幡宮に詣てよ、鎌府衰廢せしより唯是(ただこれ)巋然(きぜん)たり、舞殿を見ては文治の昔、靜女(しづか)が舞曲の悲哀なるを追懷し、石階の下、隱れ銀香樹(いてう)に公曉がせ實朝を弑せし、過きし昔の夢を訊ね鎌倉宮に詣でてゝは、足利氏が無道を憤り、大塔宮が多年幽閉の苦を偲び、遂に毒刄(どくじん)に罹り、刄(さいば)を含むて永く瞑(めい)せず、其巖窟に臨んでは徐ろに懷舊の涙を催し兩袖爲めに露けかるべし、去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦(つた)封(ふう)し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざる、去て建長寺に行け、當時猶莊嚴(さうごん)の一斑(いつぱん)を觀るを得へし。

腕車(わんしや)を雇ふて長谷に赴け、觀音堂、大佛尊、孰れも一覽の値あるベし、見終れば材木座に走(は)せよ海水浴場の設あり、由井ケ濱邊の波は沙(いさご)を嚙み、曉凉(ばんれう)一番鮮鱗膳に上(のぼ)る、日の未だ落ちざるに、源氏山に鳴くかなかな蟬の聲を聞き夕滊(ゆふぎ)車にて歸京せよ。七百年來治亂興亡の夢眼前に髣髴として一日の行遊(こういう)足(た)る。

兩三日の暇(いとま)あらば、五山に歷詣(れきけい)し、五名水を掬(きく)し、七切通、古戰塲、古墳墓及び著名の諸舊蹟を訊ね、轉じて江の島に赴かは更に一層の興を添ふベし。

[やぶちゃん注:使用距離単位の一町は一〇九・〇九メートル。

「巋然」高く聳え立つさま。

「文治の昔」義経の愛人、静御前が母磯禅師とともに鎌倉に送られたのが文治二(一一八六)年の三月、頼朝の命により鶴岡八幡宮の回廊(当時は舞殿などはなかったので注意)で、

 

 しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな

 

 吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

と詠って舞ったのは同年四月八日のことであった。

「隱れ銀香樹」としばしば言われるが、その頃にはかの折れた公孫樹はあったとしても、ひょろひょろの苗木のような按配で、とても公暁を隠すべくもなかった。公暁が隠れていたとしても、それは公孫樹ではなく、周囲の植え込みか杉木立の木下闇であった。

「去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦封し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚んぞ起たざる」ここ、私が馬鹿なのか、どうも叙述がしっくりこない。「去つて、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざるの賴朝が墳墓を探れば、今は苔蒸して蔦封じ、見る影もなき五輪塔、山川依然たり」と直したいのだが。

「莊嚴(さうごん)」ここは「しやうごん」でないとおかしい。

「一斑」豹の毛皮にある沢山の斑(まだら)紋様の中の一つ、という意から、全体からみて僅かな一部分の意。

「腕車」人力車。

「七百年來」本誌の発行は明治三〇(一八九七)年八月二十五日であるから、その七百年前は建久八(一一九七)年で奇しくも頼朝による幕政が磐石となり、新都鎌倉が活況を呈した時期に一致する。]

 

      江の島

江島は鎌倉を距(さ)る二里、片瀨の南にあり、蜿々(ゑんゑん)たる棧橋を蹈みて到るベし、數十丈の翠巖(すゐがん)海上に突兀(とつこつ)し、常に巨浪(きよらう)山址(さんし)を洗へり。東望(とうばう)すれば近くは七里濱、遠くは房總の山嶽を見渡し、南に伊豆大島、西に箱根の諸岳を望み、遙かに富嶽に對せり、眞に佳境と謂ふベし。

嚴窟及巖石  龍窟、白龍窟、飛泉窟、十二窟、魚板石。

崎及淵    鵜ケ鼻、大黑の鼻、不動鼻、泣面ケ崎、兒ケ淵。

屬島     聖天島、鵜島。

社祠     江島神社。

[やぶちゃん注:「數十丈」「十丈」は三〇・三メートルで、現在の江の島の最高点の標高は標高約六十メートル、しかも関東大震災で隆起した結果であるから、この「數十丈」は誇張に過ぎる。

「山址」島の山塊とその麓の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅲ) 谷

 扇ケ谷、龜ケ谷、梅ケ谷、泉ケ谷(以上扇ケ谷)。大御堂ケ谷、蛇ケ谷(以上西御門前)。佐々目ケ谷、佐助ケ谷、松葉ケ谷、比企ケ谷、名越ケ谷、花ケ谷、經師ケ谷(以上大町)。葛西ケ谷(小町)。尾藤ケ谷、瓜ケ谷、蛇居ケ谷(以上山之内)。桑ケ谷(長谷)。馬塲ケ谷、月影ケ谷(以上極樂寺)。辨ケ谷(亂橋)。桐谷(材木屋)。釋迦堂ケ谷、宅間ケ谷、犬懸谷、胡桃谷、十二郷谷、泉水谷(以上淨明寺)。泉ケ谷、明石ケ谷、七曲リ谷、牛蒡ケ谷、多々羅ケ谷、積善ケ谷、番塲ケ谷(以上十二所)。

[やぶちゃん注:鎌倉は谷戸(やと)の町である。そして通常は概ね「〇〇ヶ谷」と呼称し、しかも「〇〇がやつ」と読む。鎌倉時代から、ごく小さな谷戸に至るまで、名がついており、この同定だけでも鎌倉地誌研究の大きなテーマ足り得るものである。私はここに出る谷戸名は、終わりの方の十二所の二つを除いて、ほぼ総てについて認識しているものではあるが、なるべく初心者にも比定地が分かるように総てに注しておくことにする。同定には先に示した「鎌倉實測圖」の他、所蔵する複数の鎌倉地誌関連本、特に東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊の白井永二編「鎌倉事典」を多く用いた。なお、山名と同じく読みは煩瑣なだけなので、ここでは現代仮名遣のみ示した。主な谷戸名と位置はこちら及びその作成サイト「いざ鎌倉」の「鎌倉の谷」が分かり易い。

「扇ケ谷」現在の扇ガ谷一丁目から扇ガ谷四丁目であるが、往時のそれはもっとその周縁へと及んでおり、しかもその中に以下に出る「梅ケ谷」「泉ケ谷」などの谷戸を含む。「鎌倉歩け歩け協会」の「鎌倉の谷戸」によれば、『時計回りに「無量寺ヶ谷」「智岸寺谷」「御前ヶ谷」「山王堂ヶ谷」「梅ヶ谷」「会下ヶ谷」「清涼寺ヶ谷」「法泉寺ヶ谷」「勝縁寺谷」「藤ヶ谷」「泉ヶ谷」とそれぞれに名前がついた』十一の谷戸を数えることが出来るとある。因みに名は、前記「鎌倉事典」によれば、先の「山嶽」で注した扇ヶ谷にある飯盛山の麓にある『扇の井にちなむと言うのが俗説』とあるものの、『鎌倉時代には『吾妻鏡』に「義朝の亀谷旧跡」』(次注参照)『とあるように、亀谷(かめがやつ)が総称で、扇ケ谷の名はみえない。後世、管領上杉定正がこの地に住み、家名をあげて扇ケ谷殿と称せられてから亀ケ谷の名がすたれ、扇ケ谷とよぶようになったといわれて』いる。尤も、最も古い部類では「太平記」巻十の新田義貞鎌倉攻めの「鎌倉兵火の事 付けたり 長崎父子武勇の事」の記事中に、『かかるところに、天狗堂(てんぐだう)と扇谷(あふぎがやつ)に軍(いくさ)有りと覺えて』とあり、鎌倉後期には既に定着していた地名であることが窺える。

「龜ケ谷」前注に示したように、元来は「扇ケ谷」の古称と考えてよい。名は位置からも恐らくは鶴岡八幡宮寺の対としてついたものと思われる。初出は「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月七日の頼朝鎌倉初入城の条で、『七日丙戌。先奉遙拜鶴岡八幡宮給。次監臨故左典厩〔義朝。〕之龜谷御舊跡給。即點當所。可被建御亭之由。雖有其沙汰。地形非廣。又岡崎平四郎義實爲奉訪彼没後。建一梵宇。仍被停其儀云々』(七日丙戌。先づ鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。次いで故左典厩〔義朝。〕の龜谷(かめがやつ)の御舊跡を監臨し給ふ。即ち當所を點じて、御亭を建てらるべきの由、其の沙汰有りと雖も、地形、廣きに非ず、又、岡崎平四郎義實、彼の没後を訪(とぶら)ひ奉らんが爲に、一梵宇を建つ、仍つて其の儀を停めらると云々)と出る。

「梅ケ谷」化粧坂下の北の谷を指すとされるが、比定地としては定まっていない。但し、現在は亀谷切通しを下った、薬王寺附近をこう呼称しているので本誌の記者の指すのはそこと考えてよい。

「泉ケ谷」英勝寺の東北、浄光明寺のある谷。「吾妻鏡」の建長四(一二五二)年五月二十六日の条に『廿六日己酉。晴。今日。被壞右兵衞督泉谷亭。爲御方違本所。依可有新造儀也』(廿六日己酉。晴る。今日、右兵衛督が泉谷(いづみがやつ)の亭を壞(こぼ)たる。御方違への本所として、新造の儀有るべきに依つてなり)と出、鎌倉中期にはあった谷戸名であることが分かる。

「大御堂ケ谷」大倉幕府の南方、長勝寿院(これが名の由来であろう)があった谷戸。尾根を隔てて西に「葛西ケ谷」、東に「釋迦堂ケ谷」がある。

「蛇ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄(やつなよせ)」(これは谷戸考証に貴重な史料である。是非、披見されたい)に、

   *

蛇ケ谷 鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者の女が兒(ちご)を戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。

   *

とある(以上の説話についてはリンク先及びそこにリンクさせたやはり私の「新編鎌倉志巻之七」の「〇蛇谷」の注に全文を掲示してあるのでご覧になられたい。私のすこぶる好きな説話群である。なお、前記「鎌倉事典」によれば、「相模国風土記稿」には衣張山(報告路の背後の山)には『「蛇屋敷」の地名があったことを伝え』、『鎌倉は湿地帯で山谷が入りくんでいるので、蛇が多く住んでいたことに因む地名であろう』と記す。私の住んでいるところ(鎌倉市植木)もかつての山深い場所でその山腹にあるのであるが、辺りはかつては蝮と百足の名所と言われていた。いや、三日ほど前にもアリスと散歩していたら、一メートル近い青大将が小道を過ぎっていった……。

「佐々目ケ谷」「佐助ケ谷」と尾根を隔てた西と長谷の間に位置する深く貫入した谷戸。「吾妻鏡」に出る鎌倉時代からの古い名である。

「佐助ケ谷」現在の鎌倉駅の西側にあって、南北に横たわって東西に口を開いた大きな谷戸である。内側東西にさらに細かな支谷が多数あり、かつてはそれらにもいちいち名がある。由来説としてはこの谷戸内に上総・千葉・常陸の三介(すけ)の屋敷があったその転訛という里伝の他、ここの隠れ里(現在の銭洗弁天)の神が翁の姿で夢に現われ、佐殿(すけどの)源頼朝に旗挙げを薦め助けたことによる、という如何にもな伝承もある。孰れにせよ、「吾妻鏡」のも出る古名である。

「松葉ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

松葉ケ谷 名越の内なり。安國寺、長勝寺の境内を松葉ケ谷と唱ふ。日蓮安房小湊より當所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を踰て此邊に庵室を給ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊蹟の條を合せ見るべし。

   *

とあり、「立正安国論」絡みの、知られた日蓮の松葉ヶ谷法難で人口に膾炙する谷戸名である。因みに、ここに出る「本國寺」は鎌倉には現存しない。これは、現在の大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にあるものである(かつては六条堀川であったが、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転した)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖であった日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であった)。

「比企ケ谷」妙本寺附近の谷戸名。諸本は、頼朝の乳母であった比企禅尼(比企の乱で亡ぼされた比企能員の養母)が住んだことを由来とするとする。これも古い谷戸名である。

「名越ケ谷」「松葉ケ谷」の東、現在の横須賀線名越トンネル手前とその北側一帯を指すものと考えられる。

「花ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

花ケ谷 名越の佐竹第跡の東の方の谷をいふ。昔此所に慈恩寺といふ寺ありて、其寺の歌壇に數百種の草花を集て、春秋は色をまじえて咲けるゆへ、人々遊觀して賞しければ、花ケ谷と地名せしといふ。其寺もいつの昔にか廢跡となれりといふ。

   *

とある。この谷戸名の由来とされる慈恩寺については、「新編鎌倉志巻之七」の「〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕」に詳しく注した。そこには足利直冬の菩提寺であり、開山は桂堂聞公、京五山の名僧たちが、この風光明媚な寺を詩題として詠んだ詩群を掲載しており、それを読むと、この慈恩寺なる寺が由比ヶ浜(飯島)に近く、境内には多様な種類の草花樹木が植えられ、池塘や岩窟、何より七層の荘厳な塔を持った相応な規模の禅寺であったことが知られる。因みに、この慈恩寺、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」によれば成立は鎌倉時代で、万里集九の「梅花無尽蔵」に『「脚倦不登慈恩塔婆之旧礎」とあって、文明末(一四八五)にはすでに廃絶していたこと』が知れる、とある。

「經師ケ谷」材木座の東北、「辨ケ谷」の北で「桐谷」の西北の、現在の長勝寺の東、名越にある谷。写経を行う経師たちがここに住していたか。「吾妻鏡」元久二(一二〇五)年六月二十三日の条に榛谷(はんがや)四郎重朝が、子の重季・秀重ともども三浦義村に討たれた(重朝が畠山重忠の乱で従兄弟であった重忠謀殺に荷担したことを主罪とし、また、三浦氏にとっては三浦義明討死の最後の恨みを晴らす格好となった)記事で、「於經師谷口」で謀殺とあり、鎌倉初期から存在した古い谷戸名であることが分かる。

「葛西ケ谷」宝戒寺の裏手東南方一帯の谷を指す。全体が東勝寺の寺域で幕府滅亡の地である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。右大將家鎌倉へ移給ひし後は、淸重が事は【東鑑】に見へたる處稀なり』とあるのを由来とする(但し、清重は特に失脚した感じはしない。ウィキの「葛西清重」を参照されたい)。

「尾藤ケ谷」一説に山内(やまのうち)管領屋敷の向かいで、浄智寺の東の谷を指すとし、「尾頭谷」とも書くとするが比定地としては確かではない。一説に北条得宗家令であった尾藤左衛門将監景綱(北条泰時に若い頃から近侍して栄達、貞応三・元仁元(一二二四)年に内管領の前身ともいえる家令が新設されると、その初代として抜擢された。「吾妻鏡」の記述によれば、この時既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていたとされる。また泰時の後見人も務めていたと思われ、朝廷との折衝・御家人の統制に貢献、条例制定、義時追福の伽藍建立など、様々な行事の奉行を務めて、泰時の懐刀として活躍、病いを得て病没する前日である天福二(一二三四)年八月二十一日まで家令を務め、没後も尾藤氏は代々鎌倉幕府内で御内人を輩出する家系として繁栄した(ここはウィキの「尾藤景綱」に拠る)の邸跡と伝えるもかなり怪しい。私は北条得宗家令となった彼が「既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていた」点や、死の前日まで現職に就いていたことなどを考えると、彼がこんなところに自邸を構えていたとは少し信じ難いのである。事実、「吾妻鏡」の彼の関連叙述を見ると、彼の屋敷は大倉幕府のすぐ近くにあったとしか読めないからである。

「瓜ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」の「比企ケ谷」の条の中には、比企『禪尼の瓜薗を作りけるゆへにや、此邊を瓜ケ谷と地名せしか、中古以來其唱へはなけれども、文明の頃迄は稱したるゆへ、道興准后【廻國雜記】にまづ谷とを人に尋ね侍りてよめる、うりが谷にて、   ひと夏はとまりかくなり暮過て、冬にかゝれる瓜かやつ哉』と記すのであるが、現在、この地名で比企ヶ谷が呼ばれることはなく、それに対して、秘かに私の愛しているやぐらの中に「瓜ヶ谷やぐら群」があり、鎌倉好きならば即座にここを思い浮かべるはずである。葛原ヶ岡から大仏へ抜けるハイキング・コースの葛原岡神社を過ぎて浄智寺へと向かう途中の踏み分け道を北側に下りた辺りにこのやぐら群はあり、ここが現在、知られているところの瓜ヶ谷である。筆者もここを比定しているものと考えてよい。このやぐら群は現認では五穴から成り、鎌倉期のやぐらとして認定されている(地蔵菩薩像が安置されている一穴を特に「地蔵やぐら」と呼称する)私は二十の頃、初めて八重葎をかき分けてここに行ったのだが、やぐらの内陣の壁面に鳥居や五輪塔などがはっきりと彫られてあって(当時は非常に明確に見てとれた)、その荒れ果て忘れられたような周囲との落差に(一応当時から市指定史跡ではあったが)、何んとも言えぬ激しいショックを受けたことを忘れない。

「蛇居ケ谷」これはこれで「じゃくがやつ」と読む。ハイキングコースの浄智寺と葛原岡の間、丁度、海蔵寺裏手に当る箇所にある古い切通しがある辺りの谷戸名である。サイト「鎌倉探索」の「海蔵寺」(但し、この切通しへは海蔵寺境内からは直接は行けず、少し迂回をする必要がある)を参照されたい(現況画像有)。

「桑ケ谷」「鎌倉事典」に露座の長谷大仏に向かって、左側にある小さな谷戸で、『かつて極楽寺忍性が』ハンセン『病患者のために施療院を建てた所と伝える』とある。

「馬塲ケ谷」極楽寺から大仏坂方面に向かう谷戸。山塊が左右から迫っており、現在は狭い道に民家が密集している。それでも、いや、それだからこそ車の喧しきなき鎌倉散策をするに私の好きな谷戸ルートの一つである。

「月影ケ谷」恐らく鎌倉の谷戸名で最も美しいものと私は思っている。極楽寺の西奥の谷で冷泉為相の母阿仏尼の「十六夜日記」にある、

   *

あづまにて住む所は、月影の谷(やつ)とぞいふなる。浦ちかき山もとにて風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて、浪の音、松の風絶えず。

   *

とある棲家はここと伝えられているのも、この名の由来に相違あるまい。

「辨ケ谷」紅ヶ谷とか別ヶ谷などとも表記する。材木座の東方、補陀落寺の東北を入った谷戸である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、

   *

辨ケ谷 材木座の東なる谷をいふ。或記に別ケ谷ともいえりと。是は介の唐名を別駕といふ、千葉介の宅地の邊ゆへ、別駕を略し別ケ谷と稱すといえり。按ずるに千葉介は此邊には住せず、長谷小路より東の方に舊跡あり。爰よりは佐竹の舊跡へ近ければ、彼家にても常陸介又は上總介などを名乘りしかば、彼家は係りてのことにや覺束なし。千葉介にはあらず。又一説に言へば、紅ケ谷と唱えしゆへ、文明中道興准后の記に、べにが谷にてよめる。

 かおにぬるべにかやつより歸りきて早くも越るけはひ坂哉

   *

とある。この「廻国雑記」の歌は群書類従版では、

 

 顏にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな

 

で、遙かにいい。

「桐谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『經師ケ谷の東の谷をいふ』とのみある。これは「辨ケ谷」の南で、現在の材木座の光明寺から長勝寺の辺りに比定されるようだが、それらしい谷戸を現認出来ない。なお現在、「桐が谷」(きりがやつ/きりがや)と呼称する淡紅色で主に八重咲きの、最高級品種とされる桜があるのであるが、この花は実はここ桐ヶ谷にかつて植生していたことに由来するという(未確認であるが静岡県三島市にある遺伝学研究所発行の資料によるものらしく、確度は高い)。

「釋迦堂ケ谷」釈迦堂切通の北方の谷、「大御堂ケ谷」の東にあった小さな谷の、その東の谷とする(「鎌倉事典」)。ここには北条泰時が父義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったと伝えられるが、現在ではその遺構その他は見つかっていない。(ここの本尊であった清凉寺式釈迦像は後に杉本寺へ移った後、今は東京の目黒行人坂にある大円寺に現存している)。

「宅間ケ谷」浄明寺地区の東方、現在、報国寺の建つ谷戸。報国寺自体、古くは宅間寺と呼ばれていた。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『古え宅間左近將監爲行と稱し、將軍家の繪所なるものゝ住せし地なるゆへ地名に傳ふ。足利家の世となりて、宅間法眼淨宋と稱する佛師ありしも、爲行か子孫なるべし』と記す。「宅磨左近將監爲行」(生没年未詳)とは、文治元(一一八五)年、頼朝が勝長寿院本堂の壁画浄土瑞相及び二十五菩薩を描かせた、『無雙畫圖繪達者』と「吾妻鏡」が絶賛した宅間為久の子と考えられる人物で、将軍頼経に仕え、「吾妻鏡」寛喜三(一二三一)年十月六日の条に、頼経が五大堂建立予定地に於いて『宅磨左近將監爲行を召し、之を圖繪』させたという記載がある。人物。次の「宅間法眼淨宋」は不詳であるが、現在、杉本寺にある毘沙門天像は伝宅間法眼浄宏作とするが、この誤植であろうか。孰れにせよ、鎌倉中期以前からの古地名であったと考えてよい。

「犬懸谷」先の「山巓」に出た「衣張山」の東側に金沢街道方向から延びる谷。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

犬懸谷〔或ひは「駈」に作る。〕 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路の間道有て、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻し時、三浦小次郎義茂鎌倉へ立寄りしに、合戰の事を聞て、馬に乘て犬懸坂を馳越し、と有は爰の事なり。或説に、此所に衣掛(キヌカケ)山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまざ慥成説を聞ず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依て、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初て此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。

   *

とあり、私も「犬懸」と「衣掛」は同一の地名で、しかも「衣張山」の「衣張」も「衣掛」と同一と考えている。「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきで、「畠山が三浦を攻し時」というのは「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるものを指す(詳細はリンク先の私の当該注を参照のこと)。]

「胡桃谷」浄妙寺の東の谷戸。「山巓」で述べた、その北に位置する瑞泉寺南の胡桃山に由来。やはり述べた通り、宅地浸食によって自然景観は殆んど失われている。

「十二郷谷」「新編鎌倉志」のプロトタイプともいうべき「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」に、

   *

   十二郷谷〔十二所村トモ云〕

淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。

      *

とある。但し、この「十二所村トモ云」は誤認で、この位置は十二所のずっと下流の浄明寺川の上流部である。この「川越屋敷」の川越とは河越重頼(?~文治元(一一八五)年)のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官で、頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた結果、後の源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺されている。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものは全くない。

「泉水谷」浄妙寺の裏山の山腹にある熊野神社の東側の谷か。

「泉ケ谷」先に出たものと同名異谷。金沢街道が十二所神社を過ぎて、旧朝比奈切通しに分岐するところに泉橋があり、ここから北へ延びる細長い谷をこう呼称した。現在は……鎌倉霊園のど真ん中を流れる水路がその名残である。……

「明石ケ谷」光触寺に向かう右方の谷。現在、ここの胡桃川(滑川上流の呼称)に明石橋が架かり、この谷戸の尾根を越えた西方を抜け、東泉水を経て久木に抜ける道路が、完膚なきまでに宅地浸食とした景観とともにある。

「七曲リ谷」朝比奈旧切通しを鎌倉側から少し行ったところで、旧切通しルートから外れて直進した辺りの谷戸名。ここも知っている人は少ない。私も二度行ったきりである。現在は個人の果樹園がある。「鎌倉以降探索」の「十二所七曲」を参照されたい。私が行ったのは初春で私の心も屈託していたから、ここに見るような開けたしかも抜けるように明るい映像の記憶がない。必見。

「牛蒡ケ谷」十二所光触寺の北、十二所神社の社前まで広がる、かなり広域な谷戸名。以下に出る谷戸をも包含するものととった方がよいと思われる。「鎌倉事典」には、『牛蒡ケ谷はあて字で、一説には大慈寺の僧坊のあった所なので御坊ケ谷の転訛ともいう。谷入口には御坊の井がある』とある。

「多々羅ケ谷」不詳。次注参照。

「積善ケ谷」不詳。但し、この十二所に住んでおられる kawaiimuku 氏のブログ「一去一来 一日一歌」の「鎌倉ちょっと不思議な物語115回」に、

   《引用開始》

私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。

   《引用終了》

とあり、「多々羅ケ谷」も「積善ケ谷」も確かに十二所に存在した谷戸名であったことが分かる。感触的にはやはり鎌倉霊園によって消失した幻の谷ではなかろうか?(但し、kawaiimuku 氏の記載順から見ると、胡桃側の南側のようでもある)……それにしても「タタラ」「積善」……何かいわくあり気で、ソソルヶ谷(やつ)也……

「番塲ケ谷」「ばんばがやつ」と読む。私の偏愛する十二所の谷戸。……ここなら、何時でもご案内しよう。……まず、「鎌倉アルプス」の団塊世代の百足のような塊の集団跋渉とは無縁な、幽邃な自然境である。ここには「お塔が窪」と呼ばれ、「北條高時の首やぐら」と伝えるやぐらがあり、内部には鎌倉で最も古式の形態を伝える宝篋印塔(籾塔と呼称される)がある。……しかし……ここについてのみは……具体的なルートと位置を明かさない。……濫りに多くの人には立ち入って欲しくない、鎌倉の最後の(と同時に驚くほど簡単に行ける)秘境と呼ぶに相応しい谷戸の一つだからである……]

耳嚢 巻之九 上手の藝其氣自然に通る事――電子化始動記念 附 謡曲「葵上」全曲

耳嚢 卷之九

 

 上手の藝其氣自然に通る事

 

 明和安永より天明の頃まで專ら亂舞(らつぷ)の上手と唱へし、金春太夫(こんぱるたいふ)、脇師(わきし)寶生新之丞(ほうしやうしんのじよう)兩人の事を人の語りけるは、金春太夫或時葵の上の能の時、新之丞脇をなせしが、葵の上のシテきぬをかづき、両手に持(もち)て立(たち)かゝりし有樣、面は見えざれども、襟元よりぞつとせし由。金春は上手成(なり)と、新之丞申(まうし)ける由。其頃の事にてありしか、怨靈事にて新之丞珠數押しもみて祈りしに、自然とシテの頭へ響(ひびき)、頭痛のごとく覺えける。新之丞はわきの名人なりと、金春かたりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:卷之八末尾との連関はない。お馴染みの能役者の芸譚。短いが、個人的に非常に好きな話柄である。私の観た数少ない能の中でまさにこの金春流の「道成寺」の乱拍子を忘れられないのである。……あの時、私はまさに息を呑んで見、苦しくなって息をしたのを思い出す。……まさに能役者にドゥエンデが降りた時、観客も呑み込まれて、狂言方の一人となって、真に慄然とするのである。……「道成寺」は――役者を志したこともある私の観劇史の中の辛口印象にあっても――

――アントニオ・ガデスの「血の婚礼」

――転形劇場の「水の駅」

に並ぶ、数少ない忘れ難き震撼の目くるめく名舞台、いや、超自然の異空間であったと断言する。……

・「明和安永より天明の頃」西暦一七七二年から一七八九年。「明和」は一七六四年から一七七一年、「安永」は一七七二年から一七八〇年、「天明」は一七八一年から一七八九年にほぼ相当する。

・「亂舞」「らんぶ」と読んでもよい。狭義には中世の猿楽法師の演じる舞、また、近世では能の演技の合間に行われる仕舞などをいったが、ここは広義の能の意。

・「金春太夫」岩波版長谷川氏注によれば、金春信尹(のぶただ)とする。彼については「耳嚢 金春太夫の事」で底本の鈴木氏の注に金春十次郎信尹(天明四(一七八四)没)が出、これは先の「明和安永より天明の頃」に一致する。リンク先の私の注を見て戴くと分かるが、「古今の名人」と称されるに足る稀代の能役者であった。生年が分からないのが残念であるが、感触としては「寶生新之丞」よりも年上であろう。

・「脇師」能楽でワキの役を演ずる者。脇太夫(わきたゆう)。

・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)のこと。宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳。

・「葵の上」「源氏物語」の「葵」の帖に取材したもので、世阿弥が手を入れた古作の能とされる。主題の傑出さ・詞章や作曲の流麗さ・演出の変化のどれをとっても謡曲中人気第一の曲である。シテは六条御息所の生霊であって、題となっている葵の上自身は一切登場せず、彼女は生霊に祟られて寝込んでいることを、舞台正面先に延べられた一枚の小袖(「出し小袖」という)で表現するという能ならではの演出がなされる。ウィキの「葵上」によれば、『六条御息所は賀茂の祭の際、光源氏の正妻である葵の上一行から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者である』横川(よがわ)の小聖(こひじり)が呼ばれて祈禱が始まると、『生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる』というシノプシスである。最後に調伏された後、改めて御息所の魂が迷妄から得脱するというクライマックスが用意されており、原作とは激しく異なった頗る戯曲的な構成を持つ。なお、この注を書くためにも参考にさせて戴いた増田正造氏の「能百番 上」(平凡社一九七九年刊)によると、改作の結果、『当初前シテに伴って出ていた青女房の生霊の役が、舞台に登場しなくなっているのに、その謡をすべてツレに謡わせているため、戯曲的には混乱がある』とある。詞章を読む限り、確かにそれは疑問として感じた。実は私は生の本作の舞台を見たことが残念なことに、ないために、この新之丞が心底慄っとしたという決定的シーンが作中の何処であるかを明確に指示出来ないという痛恨の恨みがある。しかし、だからといってこの注をこのままに終わらせる訳にはいかない。……それは言うなら……御息所の執念のようなものである。……そこで、まずは、

――「葵上」本文(ほんもん) これ 掲ぐるに若くはなしてふ思ひを遂げざること能はず――

である(以下を読むのが面倒な方は個人サイト「和子 源氏物語」のこちらに、詞章と現代語訳などが載る)。

 本文の基準底本は新潮日本古典集成伊藤正義校注「謡曲集 上」のそれに拠り乍ら、恣意的に正字化し、読み表記も歴史的仮名遣とした。表記の一部も変更・省略(形(かた)の名その他)してある。特に読みは私が振れるものと判断したもののみに限り、初出の読みに変更のない場合は、再掲された語にはつけていない。底本の伊藤正義氏によるト書き部分は、それを参考にしつつ、【 】で一部を少しいじったものを出してある(著作権上の問題があるが、ここではどうしても考証に必要なので敢えて以上のようにした)。禁欲的に底本の頭注やネット上の「能楽用語事典」などを参考にしながら注を挟んだが、故実の基づく部分(例えば冒頭の「三つの車にのりの道 火宅の門(かど)をや出でぬらん」が、羊と鹿と牛に牽かせた三つの車が仏法の教えの換喩で、それに乗って火宅(迷いの世界)から解脱したという「法華経」に基づく章句でありながら、実は牛車に乗って登場する六條御息所生霊のその怨執の深さを逆に表象するものであることなど)などは底本注その他をお読み戴きたい。登場人物は以下の通り。

 

前シテ  上﨟 実は 六条御息所(ろきじょうのみやすどころ)生霊

後シテ  鬼女 六条御息所生霊

ワキ   横川の小聖

ワキツレ 朱雀院の臣下

ツレ   梓巫女(あずさみこ)たる照日(てるひ)の巫女(みこ)

アイ   左大臣の従者

 

[やぶちゃん注:梓巫女は、巫女の名称で、実際には関東地方から東北地方にかけて分布する。梓弓は万葉の古えより霊を招くために使われた巫術のための呪具で、この弓の弦を鳴らしつつ、「カミオロシ」「ホトケオロシ」(口寄せ)をしたことから、「アズサミコ」の名がおこった。津軽地方の「イタコ」は「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒でたたいたりしてトランス状態になる。また、陸前地方の巫女である「オカミン」は「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしつつ入神する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「いらたか」は「葵上」本文にも出る語であるが、同じく「世界大百科事典」には、「最多角」「伊良太加」「刺高」などと書き、角(かど)のある百八つの珠を用いた数珠のことで、主に修験者が使用する。通常、仏教では数珠を揉む際には音を立ててはならないとされているが、修験道にあっては悪魔祓いの目的で読経や祈禱の際、この数珠を両手で激しく上下に揉んで音を立てる。「いらたか」とは角が多い意だ、とする説もあるが、一般には揉み摺る音の高く聞こえることに由来するとされる、とある。]

 

   *

 

 葵上

 

【後見、舞台正面に小袖を広げて敷く。ワキツレ、アイを従えて登場、常座に立つ】

ワキツレ

「そもそもこれは朱雀院(しゆじやくゐん)に仕へ奉る臣下なり さても左大臣のおん息女 葵上(あふひのうへ)のおん物(もの)の怪(け) もつての外にござ候ふほどに 貴僧高僧を請(しやう)じ申され 大法秘法(だいほふひほふ)醫療さまざまのおん事にて候へども 更にその驗(しるし)なし ここに照日の巫女と申して 隱(かくれ)なき梓の上手の候ふを召して 生靈死靈(いきりやうしりやう)の間(あひだ)を梓に掛けさせ申せとのおん事にて候ふほどに このよしを申し付けばやと存じ候

ワキツレ

「いかに誰(たれ)かある 照日の巫女を召して參り候へ」

【アイ、ツレを呼び出し、ツレ、登場して脇座に着座】

【「アヅサ」の囃子(本作に特長的な霊が憑依した梓巫女を表現するもの)始まる】

ツレ【着座のまま】

〽天淸淨(てんしやうじやう)地淸淨 内外(ないげ)淸淨 六根淸淨

〽寄り人(びと)は 今ぞ寄り來る長濱の 蘆毛(あしげ)の駒に 手綱搖り掛け

【「一セイ」(シテが登場する直後などに謡われる短い謠)でシテ登場、一ノ松に立つ。】

シテ【正面へ向き】

〽三つの車にのりの道 火宅の門(かど)をや出でぬらん

〽夕顏の宿の破(や)れ車 【涙を押さえつつ】遣る方なきこそ悲しけれ

【「アシライ」(「会釈」と表記。多様な場面で用いる能用語で基本的には「応対する」の意。演技では相手に身体を向けて正対する所作を、囃子方の用語ではその場の状況を見ながら比較的柔軟に付かず離れずの伴奏をすることをいう。ここは後者)で舞台に入る。】

シテ【常座に立ち】

〽憂き世はうしの小車(おぐるま)の 憂き世はうしの小車の 廻(めぐ)るや報ひならん

シテ【正面へ向き】

〽およそ輪廻は車の輪のごとく 六趣四生(ろくしゆししやう)を出でやらず 人間の不定(ふぢやう)芭蕉(ばせを)泡沫(はうまつ)の世の慣(な)らひ 昨日の花は今日の夢と 驚かぬこそ愚かなれ 身の憂きに人の恨みのなほ添ひて 忘れもやらぬわが思ひ せめてやしばし慰むと 梓の弓に怨靈(をんりやう)の これまで現はれ出でたるなり

シテ【面を伏せ】

〽あら恥かしや今とても 忍び車(ぐるま)のわがすがた

シテ【正面へ向き】

〽月をば眺め明かすとも 月をば眺め明かすとも 月には見えじかげろふの 梓の弓のうらはずに 【葵上に迫る体(てい)】立ち寄り憂きを語らん 立ち寄り憂きを語らん

シテ【右を向き、音を聴く体】

〽梓の弓の音(おと)はいづくぞ 【正面を向いてなお音を聴く】梓の弓の音はいづくぞ

ツレ

〽東屋(あづまや)の 母屋(もや)の妻戸(つまど)に居たれども

シテ

〽姿なければ 【涙を押さえる】問(と)ふ人もなし

ツレ【シテへ向き】

〽不思議やな誰とも見えぬ上﨟(じやうらふ)の 破(やぶ)れ車に召されたるに 靑女房と思しき人の 牛もなき車の轅(ながえ)に取りつき 【シテ、何度も涙を押さえる】さめざめ泣き給ふ痛はしさよ

ツレ【ワキツレに向かい】

「もしかやうの人にてもや候ふらん」【ワキツレには見えない】

ワキツレ【ツレを向き】

「大方は推量申して候 ただ包まず名をおん名乘り候へ」【シテ、涙を押さえていた手を下して、真中へ出る】

シテ【真中で小袖を見まわしつつ、坐す】

〽それ娑婆電光(しやばでんくわう)の境(さかひ)には 恨むべき人もなく 悲しむべき身もあらざるに 【涙を押さえ】いつさて浮かれ初(そ)めつらん【ツレ、シテへ向く】

シテ【着座のまま】

〽ただいま梓の弓の音に 引かれて現はれ出でたるをば 如何なる者とか思し召す 【シテ、ツレへ向く】これは六條の御息所(みやすどころ)の怨靈なり【ツレ、ワキツレへ向く】 われ世に在りしいにしへは【ワキツレ、ツレへ向く】 雲上(うんしやう)の花の宴(えん) 春の朝(あした)の御遊(ぎよいう)に馴れ 仙洞(せんとう)の紅葉(もみぢ)の秋の夜は 月に戲(たはぶ)れ色香(いろか)に染(そ)み 花やかなりし身なれども 衰へぬれば朝顏の 日影待つ間(ま)の有樣なり【面を伏せる】 ただいつとなきわが心【じっくりと面を上げ】 ものうき野邊(のべ)の早蕨(さわらび)の 萌え出で初めし思ひの露 かかる恨みを晴らさんとて これまで現はれ出でたるなり【シテはツレへ、ツレはワキツレへ向く】

〽思ひ知らずや世の中の 情は人のためならず

地【シテ、正面を向く】

〽われ人のため辛(つら)れければ われ人のため辛(つら)れければ 必ず身にも報ふなり【シテ、面を伏せるが】 なにを歎くぞ葛(くず)の葉の【キッと腰を上げて小袖を見据え】 恨みはさらに盡きすまじ 恨みはさらに盡きすまじ【腰を下ろして涙を押さえる】

シテ【涙を押さえた手を下ろし】

〽あら恨めしや。「今は打たでは叶ひ候ふまじ【腰を上げて小袖を見込み】

ツレ【座のまま、シテへ】

〽あらあさましや六條の御息所ほどの御身にて 後妻(うはなり)打ちのおん振舞ひ いかでさる事の候ふべき ただ思し召し止(と)まり給へ

[やぶちゃん注:「後妻打ち」前妻(こなみ)が後妻(うわなり)を嫉妬して打ちたたくこと及び、暗黙のうちに許容されていたそうした習俗を指すが、能の成立した室町期には、離縁になった先妻が後妻を妬んで親しい女たちと隊を組み、後妻の家に押しかけて乱暴狼藉を働く風習に発展している。そうした当代の習俗をも踏まえての謂いと考えてよかろう。]

シテ【シテ、ツレに向かい】

「いやいかに言ふとも 今は打たでは叶ふまじと【立ってツカツカと小袖に近づき】 枕に立ち寄りちやうど打てば【扇を以って打ち、常座へ戻って立つ】

ツレ

〽この上はとて立ち寄りて わらはは後(あと)にて苦(く)を見する

シテ

〽今の恨みはありし報ひ

ツレ

〽嗔恚(しんい)の炎(ほむら)は

シテ

〽身を焦がす

ツレ

〽おもひ知らずや

シテ

〽思ひ知れ【扇で小袖を指し、足拍子を踏む】

〽恨めしの心や【シテ、また数拍子を踏む】 あら恨めしの心や 人の恨みの深くして【目付へ出て】 憂き音(ね)に泣かせ給ふとも 生きて此世にましまさば【廻りながら扇を広げ】 水闇(くら)き澤邊(さはべ)の螢の影よりも【扇を翳して螢を追って見廻し】 光る君とぞ契(ちぎ)らん【正面の彼方を眺め】

シテ

〽わらはは蓬生(よもぎふ)の【扇を撥ね揚げ、騒ぐ心で】

〽本(もと)あらざりし身となりて【シテ、舞台を廻り】 葉末(はずゑ)の露と消えもせば それさへ殊に恨めしや【シテ、常座で恨みの心を嚙み締め】 夢にだに【シテ、数拍子】 返らぬものを我が契り【大小前から小袖の前へ進み】 昔語(むかしがた)りになりぬれば なほも思ひは増鏡(ますかがみ)【小袖を見廻し、舞台を廻り】 その面影も恥かしや【扇を抱えて面を隠す】 枕に立てる破(や)れ車【扇を捨て】 うち乘せ隱れ行かうよ うち乘せ隱れ行かうよ【真中へ出て小袖を見つめて魂を奪う体にて、着ている唐織(からおり)を被き、小袖に覆い被さって、そのまま、身を伏せ、後見座に行く】

[やぶちゃん注:「唐織」女役に用いる小袖の表着(裏地がついた袷)で能装束を代表する豪華絢爛なもの。]

【物着(次の段の間に後場の扮装を整える)】

ワキツレ

「いかに誰かある

アイ【真中で膝まずき】

「おん前に候

ワキツレ

「葵の上のおん物の怪いよいよ以ての外に御座候ふほどに 横川(よかは)の小聖(こひじり)を請じて來たり候へ

アイ

「畏(かしこ)まつて候

アイ【常座に立ち】

「やれさて 葵の上のおん物の怪 やうやうご本復(ほんぷく)なさるるかと存じたれば ご違例もつての外(ほか)な まづ急いで横川へ參り 小聖を請じて參らうと存ずる

アイ【一ノ松に立ち】

「いかにこの屋(や)の内へ案内し候

ワキ【幕を出、三ノ松に立ち】

〽九識(くしき)の窓の前 十乘(じふじやう)の床(ゆか)のほとりに 瑜伽(ゆが)の法水(ほつすゐ)を湛へ 三密(さんみつ)の月を澄ますところに 案内申さんとはいかなる者ぞ

アイ

「大臣(おとど)よりのおん使ひに參じて候【膝まづいて】 葵の上のおん物の怪 もつての外にござ候間 おん出でなされ加持ありて給はり候へ

ワキ

「この間は別行(べつぎやう)の子細あつて いづかたへも罷り出でず候へども 大よりのおん使ひと候ふほどに やがて參らうずるにて候

[やぶちゃん注:「この間は別行の子細あつて」この度は特別の修法(ずほう)を執り行っておったがために。]

アイ【舞台に戻り、ワキツレに】

「小聖を請じ申して候

ワキツレ【その場に立ち、ワキへ】

「ただいまのおん出でご大儀にて候

ワキ【常座に立ち】

「承り候。さて病人ないづくにござ候ふぞ

ワキツレ

「あれなる大床(おほゆか)にござ候

ワキ【小袖を見て】

「さらばやがて加持(かぢ)し申さうずるにて候

ワキツレ

「畏まつて候

【ワキツレは着座、ワキは大小前にて膝ずいて数珠をとり出して祈禱の準備を整える】

【「ノット」(祝詞(のりと)の意。神職や巫女の役が神を祭って祈るときに神前で謠うもの。本職の祝詞に似せたものともいわれ、謠では低音域を中心に拍子に合わせずに謠う。「ノット」を謠う際に奏する囃子方の手組(リズムとパターン)も同じ名称で、小鼓が拍を刻むように打ち続けるのが特徴的で、笛と大鼓が入る)の囃子が始まるとワキは真中へ出でて小袖の前に着座】

【ワキの謠が始まるとシテは唐織を被いて舞台に入り、ワキの後ろへ出て身を伏せる】

ワキ

〽行者(ぎやうじや)は加持に參らんと 役(えん)の行者の跡を繼ぎ 胎金両部(たいこんりやうぶ)の峰を分け 七宝(しつぱう)の露を払ひし篠懸(すゞかけ)に 「不淨を隔つる忍辱(にんにく)の袈裟(けさ) 赤木(あかぎ)の數珠(じゆず)のいらたかを さらりさらりと押し揉んで ひと祈りこそ祈つたれ 曩謨三曼縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ)

【シテ、身を起こしてワキを見込み、ワキがシテに向かって祈ると身を伏せる】

【「祈リ」(怒り狂う鬼女(シテ)に対して僧又は山伏(ワキ)が法力で対抗、鬼女が祈り伏せられるまでをあらわす働き事(囃子を伴う所作のこと)の一つ。笛・小鼓・大鼓・太鼓で奏する。特に、太鼓が打つ「祈リ地」という手組と、ワキが数珠を擦って祈り続ける音が「祈リ」の雰囲気を作り出す)】

【シテ、立つ。鬼女の姿。唐織を腰に巻き、打杖(うちづえ:能では鬼・天狗・龍神などが神通力などを使うために持つ杖。)を振り上げ、ワキの祈りに対抗、一進一退の後、シテは葵上(小袖)に憑りつこうとするも、ワキがそれを数珠で打ち据えて、シテは膝をつく】

シテ【打杖を逆に構えて】

〽いかに行者はや歸り給へ 歸らで不覺し給ふなよ

ワキ

〽たとひ如何なる惡靈なりとも 行者の法力(ほふりき)盡くべきかと 重ねて數珠(じゆず)を押しもんで

【シテ、立ち上がる。以下、謠に合わせ、争いが続く】

ワキ

〽東方(とうばう)に降三世明王(がうざんぜみやうわう)

シテ

〽南方軍荼利夜叉(なんばうぐんだりやしや)

ワキ

〽西方大威德明王(さいはうだいゐとくみやうわう)。

シテ【数拍子】

〽北方(ほつぱう)金剛

〽夜叉明王

シテ【足拍子】

〽中央大聖(ちうあうだいしやう)

〽不動明王 曩謨三曼陀縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ) 旋陀摩訶嚕遮那(センダマカロシヤナ) 娑婆多耶吽多羅※干*(ソハタヤウンタラタカンマン) 聽我説者得大智慧(チヤウガセツシヤトクダイチヱ) 知我身者即身成佛(チガシンシヤソクシンジヤウブツ)

[やぶちゃん字注:「※」=「口」+「乇」。「*」=「牟」+「含」。]

【シテ、ワキへ打ちかかる。しかし敗退し、常座に安座、打杖を、捨てる】

シテ【両手で耳を塞ぎ】

〽あらあら恐ろしの 般若聲(はんにやごゑ)や

地【シテ、ワキへ向き】

〽これまでぞ怨靈 この後(のち)またも來たるまじ

地【シテ、広げた扇をはね掲げつつ立ち】

〽讀誦(どくじゆ)の聲を聞くときは 讀誦(どくじゆ)の聲を聞くときは 惡鬼(あくき)心を和らげ 忍辱慈悲の姿にて 菩薩もここに【シテ、足拍子】來迎(らいがう)す 成佛得脱(じやうぶつとくだつ)の【シテ、常座で合掌して】 身となり行くぞありがたき【シテ、脇正面を向いて留拍子】 身となり行くぞありがたき

 

   *

 

 さて、幸い、私には、金春流の謠を習った教え子がいる(因みに彼は、私に先に示した驚愕の金春の「道成寺」へと招待して呉れた人物でもある)。そこで、本「耳嚢」の前半の「葵上」のシーンを読んで貰い、決定的なその箇所について考察して貰った。以下、それを本人の承諾を得て引用しておく。

 

   《引用開始》

 

 金春太夫(シテ)が、『きぬをかづき、両手に持て立かゝり』『面テは見え』ない状態なのに新之丞(ワキ)をぞっとさせた場面。それは、物着(一曲の前半と後半を分ける扮装変えの場面)の直後、シテの生霊とワキの横川の小聖の死闘が始まる段以外には考えられません。本性をあらわしたシテを、ワキが初めて眼にする瞬間です。それは、祈りの言葉が響く中でシテがゆっくり顔を上げたその一瞬のことでしかありません。しかも唐織の陰に隠された般若の面相は、ワキの眼にはっきり映らない。衣を被ぎ、両手に持って立ちかけたその姿の奥、暗い翳のうちに、ただ襟元が鈍く光るばかりです。顔も見えないのに、唐織の翳に恐ろしいものが潜んでいることが体感され、背筋を凍らせる――まさに……ここです。詞章で言いましょう。下記の段です。

 

ワキ

〽赤木(あかぎ)の珠數(じゆず)のいらたかを さらりさらりと押しもんで ひと祈りこそ祈つたれ 曩謨三曼縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ)

【シテは身を起こしてワキを見込み、ワキがシテに向かって祈ると身を伏せる】

 

 この決定的な箇所が、いかなる緊張状態のうちに到来するかを知らねばなりません。次のような展開が前提にあります。怨霊折伏のために横川の小聖が呼ばれ、祈祷を依頼する云々のやり取りが進行する中、シテは後見座の前(舞台の左奥)で唐織を引き被ったまま後ろを向き、後見の助けを借りて面を泥眼から般若に掛け替えます。生霊が本性をあらわす準備です。直後に祈禱が始まります。と同時に、舞台の左奥で背中を向けて蹲っていたシテがゆっくりと腰を上げます。といっても唐織を被った姿勢を崩さず、上半身は屈んだままです。そうして、おもむろに正面に向き直ります。能の体捌きというものは身体の軸を滅多なことで捻ってはなりません。身体ごと彫像のようにゆっくり前に向き直るのです。そのあと、上体を伏せたまま、じわりじわりと前に出てきます。その間、唐織を引き被ったままですので、般若の面は衣の陰に隠れてまず見えません。何だか分からないけれども恐ろしいものが、病人と、横川の小聖と、そして我々にゆっくり着実に近づいてくるのです!そうして臥せっている葵上のすぐ手前、すなわち横川の小聖のすぐ横に達し、再び蹲ります。私が上記の通り同定した「葵上」の決定的な箇所は、これに続くものなのです。

 

 私は思います。能は、孤独な個々の見者に対し、強烈な自己投影を求める芸能だと。六条御息所の生霊がその鬼相をあらわし、臥せっている葵上に襲い掛かります。寝込んでいる葵上は舞台に置かれた小袖で表現されますので、そのつもりで観ないと何のことやらわかりません。また、六条御息所の生霊が病人と小聖に近づいてくるのも、ぼんやり眺める迂闊な観客にとっては、単に衣を被り顔を隠した鬼がゆっくり前に出てくるだけです。ところが、衣を引き被ってゆっくり近づいてくる顔の見えないシテを、憎悪と嫉妬と哀しみに凝り固まった人間であると信じて凝視し続ける。すると舞台上のシテが、情念そのものに感じられてくるはずです。そして、はっと気づくのです。自分が目前にしている何か恐ろしいものは、六条御息所であると同時に、実は自分のこころの中の憎悪、嫉妬、哀しみの投影なのだと。シテは別に何か派手な動作をするわけではない。決して喚いたり、激しい立ち回りを演じたりしない。ただ単に、しかし揺るぎなく立っているシテ……。そして……だからこそ、です。観る者が全力でシテに自分をぶつけたとき、どんなに恐ろしく、美しく、哀しい情念そのものが、舞台上にゆらりと立ち現れるか!――そう、能を観るとは、恐らく、舞台に映る自分のこころを観ること、なのです……。

 能は、あからさまに表現しようとしない瞬間にこそ、深い表現が成立することが多い。「井筒」に居グセという、シテが動かない一段があります。そこに匂い立つ懐旧の情趣たるや、シテが井戸の水鏡を覗き込む一曲のクライマックスに決して引けを取りません。また、「頼政」で床几に腰掛けたシテが合戦の物語をする場面があります。彼はただじっと座り昔を語るだけです。それなのに、見者の眼には飛び交う矢が見え、阿鼻叫喚の怒号が聞こえることがあります。何という深い表現! そうして、ひとつの極北の表現としての、「道成寺」(新之丞の祈りが金春太夫の魂に届いたという後半のエピソードに、私は金春流の「道成寺」を思いました)の乱拍子。長い長い無音の中に凝然と立ち尽くす白拍子……胸の内で恋心と執心と怒りがごちゃ混ぜになって、気も狂わんばかりの極めて激しい渦を巻いています。それにも関わらず、彼女の舞たるや……! 逆説的に全く微動だにしません。そうして、見る者は気づくのです。いつの間にか舞台の上に、人を死に誘うほど純粋で強烈な情念が、すっくと佇立していることに……。

 

   《引用終了》

 

 メールとともにリンクされてあったのが、中文動画サイト(彼は現在、北京在住)の喜多であった(調べてみると当該シーンはないものの、金春流の「葵上」の超短縮版がやはり中文動画サイトのにあった)。

 当該詞章は10:50辺りから始まる。

 11:15辺りで唐織を被ったシテが起き上がり始めるが、この間、ワキ僧は小袖を前にして正先に座位で修法を修している。

 惜しいことに11:27辺りでカメラがシテをアップにしてしまうのでよく分からないのだが、その直後に画面の右端をワキ僧の袖が翻るのが見える。

 シテはカメラがアップで照明も明るいため、視聴している我々にははっきりと鬼女の面が見えてしまうが、ワキ僧の立ち位置(次にカメラが引くと座って中腰で修法をしているから、振り返った際のワキ僧の視線位置は明らかに唐織より上であると考えられる)及び当時の暗い舞台から考えると、ワキ僧にはまさに「襟元面テは見えざれども、襟元」しか見えなかったと考えてよかろう。私と教え子は遂に「寶生新之丞」が「金春太夫」演ずる「葵の上」の六条御息所の「シテきぬをかづき、両手に持て立かゝりし有樣、面テは見えざれども、襟元よりぞつと」したと述懐するその瞬間を同定し得たのであった。

 

・「怨靈事」能で怨霊をテーマとする曲、強いそれを示す怨霊面を用い、ワキ僧によって調伏が行われる曲とすれば、この「葵上」以外では「道成寺」「黒塚」辺りであろう。わざわざこう語っているところをみると、これは同じ「葵上」ではないと考えるのが自然である。私個人としては偏愛する「道成寺」に違いないと勝手に思っているのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上手の芸にはその超自然の気が自然と通うという事

 

 明和・安永より天明の頃まで、専ら乱舞(らっぷ)の上手と称えられた、金春太夫(こんぱるたいふ)と、その脇師(わきし)をつとめたることの多御座った宝生新之丞(ほうしょうしんのじょう)両人のことにつき、さる御仁の語ったことで御座る。

 

……金春太夫がある時、「葵上(あおいのうえ)」を舞われた折りのこと。

 新之丞殿がそのワキ僧をなして御座ったが、葵の上のシテが衣を被(かつ)ぎ、両手に持って立ちかけた――

――その瞬間

――その時のワキ僧役新之丞殿の位置からは、これ、面(おもて)は全く見えず御座ったにも拘わらず……

「……あの時……シテの襟元を見ただけで――我ら、まさしく、生涯に感じたことがないほどに、これ――慄っと――致しまして御座います。……」

としみじみと語られたかと思うと、

「――いや! 金春殿は――これ、まっこと!――能の上手――にて御座る!――」

と、きっぱり申されたそうな。……

 

……はたまた……その同じ頃のことででも御座ったものか……

 

……怨霊事の能舞台にて、ワキ僧を演じておられた新之丞殿が、金春太夫演ずるところのシテ怨霊へ向かい、一心に数珠を押し揉んで祈る場面の、これ、御座った。

 舞台のはねて、下がってこられた金春太夫は、お傍のお付きの者に、

「……いや! 自然、シテの我らが頭(こうべ)へ……かのワキ僧の数珠の音(ねぇ)が……これ――シャァラ! シャラ! シャッツ! シャラッ! シャアラ!――と――響きに響いて、のぅ!――我が頭(ず)の芯(しん)を、痛とぅ貫く如――感じて御座ったわ!……」

と申さるるや、

「――いや! 新之丞は――これ、まっこと!――名能ワキ師――にて御座る!――」

と、如何にも感心なされたと申す。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 78 福井 芭蕉、光源氏となる 

本日二〇一四年九月二十五日(当年の陰暦では九月二日)

   元禄二年八月 十二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十五日

諸資料からこの八月十二日辺りに芭蕉は福井の旧知の俳人等栽宅に到着したものと推定出来る(敦賀の月見の予定から逆算)。まず、「奥の細道」の福井の段の通行の校訂本文を示す(但し、思いのあって、平仮名書きを増やし、直接話法及び心内語部分を改行してある)。

 

 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、たそかれの道たどたどし。ここに等栽といふ古き隱士あり。いづれの年にか、江戸に來りて、予を訪(たづ)ぬ。はるか十とせあまりなり。いかに老いさらぼひてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命して、

「そこそこ。」

と教ゆ。市中(いちなか)ひそかに引き入りて、あやしの小家(こいへ)に、夕顏・へちまの延(は)えかかりて、鷄頭・帚木(ははきぎ)に戸ぼそを隱す。さては、このうちにこそ、と門をたたけば、侘(わび)しげなる女の出でて、

「いづくよりわたり給ふ道心の御坊(ごばう)にや。あるじは此のあたり何某(なにがし)と云ものの方に行ぬ。もし用あらば訪ねたまへ。」

といふ。かれが妻なるべしとしらる。

『昔物語りにこそ、かゝる風情ははべれ。』

と、やがて尋ねあひて、その家に二夜(ふたよ)泊りて、名月は敦賀(つるが)の湊(みなと)に、と旅立つ。等栽もともに送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、 路の枝折(しをり)と浮かれ立つ。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

福井は三里計なれは夕飯した

ためて出るにたそかれの道たと

たとし爰に等栽と云古き

隱士有いつれの年にや江戸に

     尋

來りて予を遙十とせ餘り也

いかに老さらほひて有にや將死け

るにやと人に尋侍れはいまた

存命してそこそことをしゆ

市中ひそかに引入てあやしの

小家に夕顏へちまのはかゝり雞

頭はゝ木ゝに戸ほそをかくす扨

は此うちにこそと門を扣は侘し

けなる女の出ていつくよりわたり

玉ふ道心の御坊にやあるしは

このあたり何某と云ものゝ方に行

ぬもし用あらは尋玉へと云かれか

妻なるへしとしらるむかし物

かたりにこそかゝる風情は侍れと

やかて尋あひて其家に二夜

とまりて名月はつるかの湊に

と旅立等栽も共に送らんと裾

            と

おかしうからけて道の枝折とうかれ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇夕顏へちまのはかゝり → ●夕顏へちまの延(は)えかかりて

[やぶちゃん注:元は「夕顔・糸瓜の葉掛かり」(延び掛かって)であった可能性が窺えるか。]

■やぶちゃんの呟き

「等栽」「とうさい」と読む。洞哉とも書く。神戸氏。生没年未詳。福井俳壇の古老で、芭蕉と同じく北村季吟の流れを汲む。安東次男氏によれば、芭蕉が初めて江戸に下ったのは寛文一二(一六七二)年二十九歳頃のことであるが、元禄二年から「十とせ餘り」とすれば、延宝七(一六七九)年で芭蕉三十六頃より前ということになり、その頃は『まだ深川に庵を結んでいない』頃と記しておられる。

「道の枝折」案内役。古来、旅する者は後から来る人が道を違えぬよう、枝を折って道標べとしたことに由来する。この時、彼は芭蕉を敦賀まで見送っている。芭蕉の独り旅が実際には如何に短いものであったかが知れる。

 さても本段は高校生でも即座に「源氏物語」の「夕顔」の段のインスパイアであるとは気づく。しかし、それだけの曲のない流用によるパロディ化だけであるなら、これは当の高校生でさえも鼻白むに違いない。その辺りの深奥を美事に剔抉したのは、やはりかの安東氏の「古典を読む おくのほそ道」(岩波同時代ライブラリー)であった。補助部分も含めるとかなり長いが、私はこれ以上に腑に落ちる解釈はないと思うによって、そのままあえて引かせて戴く。

   《引用開始》

○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ――意味は、いかにも物語にありそうな風情ということで、特定の物語を指すわけではないが、この云いまわしは『源氏物語』の「帚木」と「夕顔」に出てくる。

 「…いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音にきほへるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。」(帚木)「…ただこの枕がみに、夢に見えつる容(かたち)したる女、面影に見えてふと消え失せぬ。昔物語などにこそかかることは聞けと、いと珍らかにむくつけけれど…」(夕顔)前の方は、久しく通わぬ女からの歌(「山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよなでしこの露」)にほだされた頭中将が、常夏の女を又尋ねた話を源氏に語る場面(雨夜の品さだめ)で、女はのちの夕顔、「なでしこ」は娘の玉鬘である。後の方は、八月十五夜の明方ちかく源氏に連出された夕顔が、その晩、六条御息所の生霊に取付かれて頓死するくだりである。

 福井訪隠の興は、それとさとらせる詞の借用ぶりにもよく現れているようだ。「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)、名月にちかく、ハハキギも既に老いた宿で(帚木の季は晩夏である)、ユウガオの実と出合えば、常(とこ)懐しさに駆られぬ方がおかしい。夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があったから、猶のことそう思う。

 「遥十とせ余り」の旧知を尋ねるという思付は、頭中将の夜ばなしにかさねて、玉鬘をいとおしむ源氏の懐旧が、面影になっているだろう。「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根(夕顔)を人や尋ねん」(常夏)美しく成長した娘を実父内大臣(もとの頭中将)に、ふと、逢わせてみたくなって源氏が詠む歌だが、これは夕顔の死から十九年後だ。

 訪隠の心はどうやらこの歌らしい。そういう男は、案の定、等栽を敦賀の月見に連出している。通説は、「たそかれ」「あやしの小家」「夕貌」などの片言をとらえて、福井入の描写を「夕顔」の巻の書出に較べたがっているが、俳文の面白さはそんな幼稚な裁入にあるわけではない。「帚木」に見定めた漂泊の興がまずなければ、そして「常夏」という後日譚がなければ、福井のくだりは児戯に類する作文としか見えぬはずだ。

   《引用終了》

 この途中の『「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)』と『夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があった』についても当然、等閑には出来ぬ。まず、前者であるが、これは「奥の細道」の旅立ちの段のかの「月は有明にて……」の名文句の注を指す。

   《引用開始》

○月は在明にて光をさまれる物から――「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。」(源氏物語、帚木)有明の描写など、古歌・古文には掃いて捨てるほどある。その中でこの『源氏』の描写がとくにすぐれているわけではな  い。光が穏やかになったから反(かえ)って月の形がはっきり見える、というのはいかにも夏の月らしい観察で、うまいといえばそこがうまいが、それとて特に云うべきほどのことではあるまい。芭蕉は、一字の変更も加えずに裁入(たちい)れている。芸のないことをしたものだと思いたくなるが、恋の遍歴も漂泊だと考えれば納得がゆく。「帚木の巻」は、光源氏のさすらいの第一歩である。援用箇所は空蝉(うつせみ)との後朝(ごちょう)の場面で、物語は先の文に続けて、「何心なき空の気色も、ただ見る人から、艶にも凄くも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言づて入れむよすがだになきを、かへりみがちにて出で給ひぬ」とある。

 芭蕉はこれを、例の須磨流謫(るたく)につないで読んでいるらしい。「道すがら、おもかげにつとそひて、胸も塞(ふた)がりながら、御舟に乗り給ひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申(さる)の時ばかりにかの浦に着き給ひぬ。(中略)うち返り見給へるに、来し方の山は霞み、はるかにて、まことに三千里の外(ほか)の心ちするに、櫂のしづくもたへがたし。」(須磨)時分は弥生も末のことで、これも『ほそ道』の旅立と符合しているが、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく」は瞭かに踏替(ふみかえ)だと気がつく。戻って、「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」も、「いつか又春のみやこの花を見む時うしなへる山がつにして」(須磨、春宮(とうぐう)への源氏の消息歌)を下に敷いているらしい。前年、須磨明石に吟興を尽したばかりであってみれば、それも当然と思われるが、紀行は旅じまいの種(いろ)の浜のくだりでも、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」の一句を書留めている。『ほそ道』の俳詣師は、自分を光源氏になぞらえて旅立妄った(雛流しにされるなら光源氏でゆこうという思付はうまい)、そう考えてよさそうだ。

 さすらいの手はじめは「帚木の巻」から、という趣向は俳諧がある。この道行のちょっとした興、浮かれ心に気がつかぬと、「月は在明にて光をさまれるものから」と、わざわざ無芸に、言葉を丸のまま裁入れた狙も見落すことになる。

   《引用終了》

 また、後者の『因縁』については補注があるので、これも引用させて戴く(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

 深川墓庵には素堂が命名した名物瓢(「四山」ノ瓢)があって、訪庵者たちをよろこばせたという話は有名だが、ヒサゴはユウガオの実である。夕顔の恋は挨拶の恰好のたねになった。貞享五年、更科の月見のあと、そのまま越人を江戸に連れ帰った芭蕉が、後の名月(九月十三夜)に寄せて興行した両吟の歌仙(発句は「雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人」、脇は「酒しゐ[やぶちゃん注:右に安東氏の『(ひ)』という傍注がある。]ならふこの此の月 芭蕉」)はまさにそれだったようだ。酒(瓢)好の越人を、今度は娘(玉鬘)に見立て替えて、前の名月(夕顔の恋)を偲ぼう、というしゃれた思付である(拙著『連句入門』の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」を参照されたい)。加えてこの歌仙は、出来映と云い趣向と云い、其後の蕉風俳諧の一手本になったと見えて、元禄六年初冬、越後屋の手代たちが芭魚庵に押掛けて請うた例の「夷講」の巻(『炭俵』所収)には、初折(しょおり)の月の扱をめぐつて、明らかに右の両吟を意識したと思われる転合(てんごう)な恋の仕掛が見られる(「解釈ということ」、289ベージ参照)。

 戻って、『猿蓑』の「夏の月」の巻にも「夕顔」の巻からの裁入がある(『連句入門』「連句の興 の起るとき、其三」)。

   《引用終了》

ここに示された参照注記の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」「解釈ということ」の孰れもがこれまた優れてディグされたものなので是非、それぞれお読みになられることを強くお薦めする(と記しておけば掟破りの長文引用も許されよう)。

 いや、凄い! 退屈極まりない典拠挙げの羅列でよしとするような凡百の国文学者の評釈とも言えぬ評釈と比べ、何というキれにキれた評言、否、俳言であろう!

……上野谷中の桜の梢……かさねという八重撫子……市振の萩……山中の菊……花尽しの蔭には恋があった。……

……何よりここに、夕顔(等栽)を訪う光(芭蕉)を心秘かに慕(しと)うている悶々たる六条御息所(曾良)もいるではないか?!……

……禁断の朧月夜(桃妖)との契りによって引き起こされた、失脚の寂しき羈旅は……

 

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

……まさに……須磨への流謫であったのである…………]

2014/09/24

杉田久女句集 278 花衣 ⅩLⅦ 母の句 五句

  母の句 五句

 

八十の母てまめさよ雛つくり

 

母淋しつくりためたる押繪雛

 

娘をたよる八十路の母よ雛作り

 

扶助料のありて長壽や置炬燵

 

雛つくる老のかごとも慰めり

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年の久女四十五歳の折りの句群。久女の母さよは三十六歳の時に久女を生んでいる(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれ)かた、当時は満八十一。兵庫県出石(いずし)の出身で、坂本宮尾氏は「杉田久女」で、さよは『龍生派池之坊の稼働教授』で、『赤龍軒美玉と号し、最高職の関西家代理として八十八歳まで現役を務めた人だという。久女も華道、茶道、書道の心得があった』と記しておられる。母さよは戦局の悪化する昭和十九年七月に亡くなっている。因みに、この時の葬儀で上阪したのが、長女昌子が逢った最後となった旨の記載が年譜にある(久女の逝去は昭和二十一年一月二十一日)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅱ) 山嶽

山嶽 大臣山、狻躁峯、貝吹山、大堂山(以上西御門前)。鶯谷山、源氏山、諏訪山、飯盛山(以上扇谷)。衣張山、名越山、淺間山、佐竹山、天狗堂山、甲山、辨ケ谷山(以上大町村)。屛風山、小富士山(小町)。大丸山、天台山、大平山、獅子巖、鷲峯山(以上二階堂)。勝上嶽、明月山(以上山之内)。佐々目ケ谷山、長樂寺山、見越嶽、大佛坂山(以上長谷)。觀音山(坂之下)。親不知山、陣鐘山(以上極樂寺)。稻荷山、胡桃山、丸山(以上淨明寺)。明石山、天臺山、羽黑山、御坊山、林相山、岡松山、丸山(以上十二所)。權現山、石名畑山、大澤山、鈴野山(以上峠)。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:この山(というか、ただの丘やピークである)の名の中には私の知らないもの(知っていても即座に位置を名指せないもの)が幾つか含まれているので、それを中心に以下に注しておく。同定には後に画像で掲げる予定の底本に挟み込みで附いている底本のオリジナルと思われる地図「鎌倉實測圖」及びネット上の複数の地図サイトを用いた。なお、読みは煩瑣なだけなのでここでは現代仮名遣のみ示した。なお、主な(中にはかなりマイナーなものも含む)山巓位置は及びその作成サイト「いざ鎌倉」の鎌倉山」が分かり易い。

「狻躁峯」これは「さんろほう」と読む。現在の鶴岡八幡宮後背の神域大巨(たいしん/だいじん)山西北奥、二十五坊ヶ谷の最深部の直北上にあるピーク(或いは山塊)を指す。建長寺の回春院から南南西一一九メートルほどの位置と考えてよかろう。「鎌倉實測圖」には右に「昇仙臺」という別の(?)ピーク名も併置されている。

「貝吹山」名称から瑞泉寺裏の貝吹地蔵を連想するが、全く異なるので注意。本文にも「西御門前」とあるように、これは西御門にある来迎寺(鎌倉には材木座に同名異寺があるので注意)の裏手の山を指す。

「大堂山」これは釈迦堂切通しの西方直近のピークで、現在の浄明一三丁目と大町三丁目の境界上にあるように見受けられる。

「鶯谷山」これは現在の岩屋不動尊背後にあるピークである。

「諏訪山」不詳ながら、これは諏訪屋敷(跡)と呼ばれた現在の御成小学校の敷地の背後の山並の内で、南の方のピークを指すものではなかろうか?

「飯盛山」前注で私が諏訪山の同定候補地として挙げた、現在の御成小学校の敷地の背後の山並の南方の尾根には天狗堂という堂があったが、「新編鎌倉志卷之四」の「扇谷」には、『「太平記」に、天狗堂(てんぐだう)と、扇が谷に軍(いくさ)ありと有。又此の所に、飯盛山(いひもりやま)と云あり』とあることから、これも前の諏訪山と並ぶピーク若しくはここから源氏山に続く山塊を呼称しているものかも知れない(これらの「太平記」記載の地名についてはリンク先で私が考証をしているので参照されたい)。また、扇ヶ谷にある岩船地蔵近くの扇の井の背後にある山を現在、飯盛山と呼称してもいるので、本誌の記者はそこをかく呼んでいるものと考えてよいであろう。鎌倉にはこれとは別に、金沢街道の明王院(山号飯盛山(はんじょうざん))の手前の大慈寺跡の背後にあった山を同じく飯盛山と呼称しているので注意が必要。

「淺間山」現在の横須賀線の名越のトンネルの北直近の名越山の北北東七〇〇メートルほどの大町三丁目と浄明寺二丁目の町境上のピーク。

「佐竹山」不詳ながら、安養院の東方に佐竹屋敷(跡)という地名が残るから、その背後北西の山塊、現在の大寶寺の背後で妙本寺の南から延びた尾根の辺りを呼んでいる可能性がある。

「天狗堂山」不詳。錯綜があるのか、いや、もしかすると鎌倉には、明治頃まで、天狗堂及び天狗堂山と呼称する場所や山が複数存在した可能が高いとも私は考えている(煩瑣になるのでここでは個別に示さないが、実際、「太平記」を読み解いてゆくと、そうでないと辻褄の合わないことが多いのである)。「飯盛山」の注で示した「新編鎌倉志卷之四」の私の考証も参照されたい。

「甲山」不詳乍ら、記載位置から考えて私は妙法寺の東で松葉ヶ谷の北の山塊、若しくは、次に出る「辨ケ谷山」(これはその北の山塊と横須賀線を挟んで対称位置にある)の西、弁ヶ谷の奥にあった山塊(長勝寺の南で現在の鎌倉材木座霊園のある辺り)の呼称ではなかったかと考えている。「甲」はその山の形状(前者はやや長円、後者は成層的な独立峰であったと思われる)か。この辺りに例えば鎧兜の職人が住まっていた可能性も否定出来ない。実際、確か、この辺りにそうした職能集団がいたという記載を読んだように記憶する。

「屛風山」宝戒寺の背後の東にある山。

「小富士山」「新編鎌倉志卷之七」に「寶戒寺」に、

小富士 屏風山の傍の高き峯を云ふ。社あり。社中に富士の如くなる石あり。淺間大菩薩と銘あり。毎年六月一日男女參詣多し。

とある。

「大丸山」これは、現在の鎌倉アルプス(私はこの呼称は大嫌いである)の「天台山」と「太平山」の間にある、現在の天園(六国峠)のことである。

「明月山」の東の建長寺との間にある山。

「佐々目ケ谷山」佐々目ケ谷の最奥のピーク。東麓が佐助ヶ谷になる。

「長樂寺山」現在の鎌倉文学館背後の山。

「見越嶽」「長樂寺山」西の長楽寺ヶ谷を隔ててある甘繩神明社の背後の山。個人的に私の好きな場所である。

「大佛坂山」ピークは現在の大仏坂トンネルの南直近のはずだが、航空写真ではそこが平たく削られてコートのようになっている。

「觀音山」長谷寺の左背後の山。

「親不知山」番場ヶ谷奥の西北の、現在の極楽寺四丁目と笛田六丁目の境に位置した山。現在はかなり宅地浸食されている。

「陣鐘山」現在の江ノ電稲村ヶ崎駅の近く。個人サイト「戦国時代の城」の「陣鐘山(稲村ヶ崎)」を参照されたい。知らないし、行ったこともないなぁと思ったら、『現在は、民有地で山には登れない』とあった。

「稻荷山」浄妙寺背後の山。同寺の山号は稻荷山(とうかさん)である。

「胡桃山」瑞泉寺直近の南のピーク。「稻荷山」の北東約三八〇メートル。この間も激しく宅地浸食されている。

「丸山」不詳乍ら、前後の山及び位置的に見ると「大丸山」=天園に近いから、ここの近くの尾根のピークの可能性が高いようには思われる。以下、同名の山が出るので注意。

「明石山」光触寺の南西にある山。

「天台山」これは先の近くの鎌倉アルプスのそれとは異なるもので、光触寺の南奥にある山で、前の「明石山」との間に池子村に向かう山道があった。現在はこの道は地図上では確認出来ない。私は三十数年前、ここより少し北方の、朝比奈旧切通しの東側にある熊野神社の背後から、まさにこのルートに繋がっていたであろう池子方面への山の廃道を分け入ったことがあるが、暫く進むと、山中に有刺鉄線が張り巡らされてあって、すぐ近くに監視塔が聳え立っており、そこに自動小銃を持った米兵がいて、眼が合ってしまった。彼は凝っと私を見つめていた。私は静かに後退りして退散したことは言うまでもない。池子の弾薬庫であった。……私は神仏罰を恐れず、かつて大船の広大な荒地であった高野を分け入って有刺鉄線を越え、遂に出たのが普段は入場出来ない円覚寺の舎利殿の裏で、平然と中を見、何食わぬ顔をしてまた元の道を戻ったものだったが……この時、米兵の飛び道具には負けたのであった……

「羽黑山」南西から明石山・柏原山・羽黒山と連なる、鎌倉市と逗子市の境界をなす山の一つであるとネット上の情報にはある。

「御坊山」御坊ヶ谷は私が鎌倉で最も愛する場所であるが、そこから察するに御坊山とはこの谷戸の最奥部の左へ登ってゆく山ではなかったかと推測する(この山塊は現在は鎌倉霊園として無惨に抉りとられており、その周縁に名残の山道を残すばかりである)。

「林相山」不詳。ところが、あまでうす氏のブログ「あまでうす日記」の鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7」に、『十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある』が、その『右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである』とある。これは明らかにこの山名である。しかしこの山名がネットでヒットしないのは、やはり消失してしまったからではあるまいか? とすれば非常に高い可能性でそれはやはり現在の鎌倉霊園のどこかに位置していた可能性が高いのではなかろうか?

「岡松山」不詳。やはり「林相山」と同じ運命を辿った山では?

「丸山」これは旧十二所村の南東のピーク。次の「權現山」の南南西五五〇メートルほどのピーク。

「權現山」朝比奈旧切通しの峠南側(若しくはこの山塊全体)の山名。

「石名畑山」「權現山」の北五五〇メートルほどの位置にあったピーク。それらしい場所は現在の鎌倉霊園の東縁にある。

「大澤山」「石名畑山」の東北二〇〇メートルほどにあったと思しい尾根のピーク。やはりそれらしい場所が現在の鎌倉霊園の東縁に残る。

「鈴野山」「大澤山」のさらに北四、五百メートルほどにあったと思しい尾根のピーク。これは現在の横浜市朝比奈と鎌倉市十二所の東北の角か若しくはそこから少し南下したところであろう。これらのピークを結ぶと、現在、天園に向かう霊園北迂回のハイキング・コースのルートの横浜側からの登りの山道にかなり近くなるように思われる。ああ、あそこも三十年以上歩いてないなぁ……]

2014/09/23

杉田久女句集 277 花衣 ⅩLⅥ 筑前大島 十二句

  筑前大島 十二句

 

大島の港はくらし夜光蟲

 

濤靑く藻に打ち上げし夜光蟲

 

足もとに走せよる潮も夜光蟲

 

夜光蟲古鏡の如く漂へる

 

海松(みる)かけし蟹の戸ぼそも星祭

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏は「杉田久女」で、『この句の中七は「ホトトギス」(昭和9・9)、久女の草稿、いずれも「蜑の戸ぼそ」となっている。句集に「蟹の戸ぼそ」とあるのは蟹(かに)と蜑(あま)という文字の形が似ているいるために植字段階で生じた間違いではないだろうか』と述べておられ、私もそれを支持するものである。以下に正しい句形を読みを附して示しておく。

 

海松(みる)かけし蜑(あま)の戸ぼそも星祭

 

実は当初、海産無脊椎動物フリークの私は、真顔で、砂蟹などの巣の入り口に海松が懸っているのを擬人化したのだな、などと独り合点して読んでいたことを告白しておく。]

 

  大島星の宮吟咏

 

下りたちて天の河原に櫛梳り

 

彦星の祠は愛しなの木蔭

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏は「杉田久女」で、本句について、『まず「愛(かな)し」と読んで、それにつづく「な」は「何(な)」ととって、「祠(ほこら)には深く心を惹かれるか、いったいこれは何の木の陰であろうか」という意味と解釈しておく。木陰にある彦星の祠を見つけた作者の気分の高揚が伝わってくる』と鑑賞されている。穏当なところであろう。私は『高揚』というより、年に一度、盥の面を介してしか語り合えぬ貴公子(彦星)への強い愛惜の思いを詠んだものと思う。]

 

口すゝぐ天の眞名井は葛がくれ

 

  玄界灘一望の中にあり

 

荒れ初めし社前の灘や星祀る

 

大波のうねりもやみぬ沖膾

 

星の衣(きぬ)吊すもあはれ島の娘ら

          星の衣は七夕の五色の紙を衣の形に

          切り願事をしるして笹に吊すもの

 

乘りすゝむ舳にこそ騷げ月の潮

 

[やぶちゃん注:これらは底本年譜で、昭和八(一九三三)年の八月末に、響灘と玄界灘の境界部に面する現在の福岡県宗像市に属する筑前大島のほしの宮の七夕祭りに詣でており、その折りの吟詠と考えてよい。この年の旧暦の七月七日は八月二十七日であった。この島の中央部にある最高峰の御嶽(標高二百二十四メートル)の山頂には宗像大社中津宮の奥の院に当る御嶽神社がある。この山の麓の丘の上にある中津宮(船着き場近くでもある)には宗像三女神が生まれたという伝承を持つ天の真名井(まない)があるが、同時にここは本邦での七夕伝説発祥の地としても知られる。宗像大社公式サイトの「夏のまつり」によれば、ここでの七夕祭は古く、鎌倉時代から行われており、宗像大社中津宮の境内に流れる「天の川」を挟んで牽牛神社と織女神社が祀られており、現在では旧暦の七月七日に近い八月七日に島内で盛大に七夕祭りが行われる、とある。そこにある「筑前大島天の川伝説」や坂本宮尾氏の「杉田久女」にある同伝説によれば――昔、貴公子が唐の国に遣いし、何人かの唐人の織女を伴って帰国の途次、その内の一人と深い愛し合ったが、それは果敢ない仮初の縁でしかなく、帰国するや、貴公子は無論、都に戻ってしまい離ればなれとなった。織女を忘れられぬ貴公子は鬱々と日を過ごしていたが、ある夜、夢枕に天女が現われ、この筑前大島の中津宮に行けと告げる。来職を擲った貴公子はその中津宮の神官となった。ある星の美し晩、「天の川」に盥(たらい)を浮かべて禊(みそぎ)をしていると、その盥の中の水の面に織女が映っていた。二人はそうして秘かに二人きりの逢瀬を楽しんだという。――]

杉田久女句集 276 花衣 ⅩLⅤ 横濱外人墓地 一句

  横濱外人墓地 一句

 

ばら薰るマーブルの碑に哀詩あり

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 始動 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百四十七号「鎌倉江の島名所圖會」である。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。因みに先に電子化し注を附した、この一年後の明治三十一年八月二十日発刊になる同誌の「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」に先行する一年前のもので、「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」は謂わば本誌の補完号であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷(しょうこく 明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年山本昇雲(本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した(但し、冒頭の「鎌倉」(総説部)の傍点は「○」である)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部のルビの誤字は注記せずに訂した。原則、各項の最後に注を附し(長い条の場合は途中に入れた)、その後は一行空けとした(但し、短いものは行空けを施さずにおいた部分もある)。私には「新編鎌倉志」と「鎌倉攬勝考」及び沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」等のオリジナル注を附した全本文電子化テクストがあり、それを踏まえた上で、それでもカバー出来ない若しくはここでは再注が必要と思われた場合、私自身の智が読解するに不十分と思われる場合にのみ限定してあるので悪しからず。【ブログ始動:2014年9月23日】]

 

Img099_2

[やぶちゃん注:同誌表紙。せめても本電子テクスト化のためにも、ここに公開しておきたい。表紙絵「鎌倉停車場の圖 松谷」と右上方にある)ではなく、本を撮ったものとして、トリミングをせずにおく。]

 

Hgkamamokuji

 

[やぶちゃん注:表紙見開き。目次。この電子化は労多くして、益なきものなれば御勘弁願う。十分判読出来る大きさで撮ってある。]

 

[やぶちゃん注:ここに山本松谷の、掬すべき見開きの「七里ヶ濱より江の嶋を望むの圖」が入る(著作権存続のため省略)。大いなる雪を被った富士と、延びた砂洲とそこに一直線に続く細い弁天橋、その先の江の島の偉容(富士同様、かなり誇張されて大きめに描かれてある)を遠景に、可愛らしい裸の童子の一群が浜辺に遊び、多くの男女の観光客が描かれる。洋装は鞄にステッキの男性一人で他は皆、和装である。右手前には陸揚げされた漁師の舟が四艘並び(二艘は舳先のみ)、漁師たちは網を背負って仕舞ったり、舟内の垢を拭っており、周囲には蟹で遊んだりする地元漁師のそれと思しい半裸の子らが描かれてある。右手から左手前水際にかけて浅い極楽寺川と思しい川が海へ流れ込んでおり、そこを徒歩渡りする人々も描き込んである。左手手前にはかなり大きな岩場の端が覗いていることから、この絵が稲村ヶ崎からのロケーションであることを示しているように思われる(距離感覚は圧縮されてパースペクティヴにはデフォルメがある)。漁師の中央に菅笠を被って傘を刀のように挿した後姿の男がおり、右手には筆を持ち、画帳のようなものを開いて小動の鼻(先が弁天橋のたもと辺りまで延びており、少し実景とは異なる)と思しい右手陸の方を向いて頻りにスケッチしているように描かれているのは松谷自身であろうか。]

 

〔『風俗畫報』臨時増刊〕「鎌倉江島名所圖會」〔明治三十年八月廿五日〕

    ●總説

     鎌倉

鎌倉は相摸國鎌倉郡に屬し、当難は山嶺を以て武藏國久良岐郡相摸國三浦郡に隣り、北西又丘陵起伏して本郡の諸村と界(さかい)し、南は相摸灘に臨み、遙に伊豆の大島と相(あひ)對す。幅員(ふくゐん)東西二里、南北一里四丁、周圍六里餘、三方山を繞(めぐ)らし一面海に瀕(ひん)し、固(まこ)とに關東の一名區と爲す。

[やぶちゃん注:「久良岐郡」古代の郡衙(ぐんが)の名を継いだ旧郡名。ウィキの「久良岐郡」によれば明治一一(一八七八)年、『行政区画として発足した当時の郡域は、横浜市中区、南区、西区、磯子区、金沢区および南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)にあた』り、『行政区画として発足した当時に隣接していた郡は』橘樹郡(たちばなぐん:鶴見区・神奈川区全域と西区保土ケ谷区港北区の一部及び川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区全域と麻生区の一部を含む郡。)・鎌倉郡・三浦郡(古代の郡域はさらに北の鶴見川まで広がっていたと考えられている)。『現在は、中村川と堀割川の分岐点の久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめる』のみ。]

 

沿革 郡名の國史に見えしは、三代實錄を始めとす、古事記景行天皇の條に、足鏡別王は、鎌倉の別か祖と見えたれは、鎌倉の地名も、最舊き唱(せう)なり、倭名鈔にも郡名を載せ、加末久良(かまくら)と唱を附す、萬葉集中にも、しか記せり。古風土記殘本(ざんぽん)には、鎌倉は屍藏なりと見え、詞林釆葉抄には、大職冠鎌足、大藏(おほくら)の松岡に、鎌を埋めしよみ、鎌倉の唱(となへ)ありと云ふ、其(その)後裔、染屋太郎太夫時忠、此地に居住し、其後平將軍貞盛の孫上總介直方、此に居住し、伊豫守賴義、相摸守に任(にん)して、下向せし時、直方が婿となり、義家を設け鎌倉を讓りしより、源家相傳の地たり。斯(かく)て治承四年、賴朝兵を起すに當り、安達藤九部盛長、賴朝に申して、居を此地に移さん事を述(の)ふ、是年十月六日、賴朝遂ひに鎌倉に遷る、遂に平家を亡(ほろぼ)し、覇府(はふ)を開きしより繁榮の地となれり、貞應二年光行が紀行に、其頃の風景繁華を記す、古昔を想像するに足る。賴朝より相承(あひつい)て三世、威令(いれい)四方に行はれしかとも、老臣北條時政、執權の職(しよく)に任せしより、他に與奪せず、子孫其職を襲(つ)きしかは、遂に廢立(はいりつ)の事を恣にして、威權(ゐけん)自ら其一門に歸(き)し、九世高時に至り、奢侈殊に甚しく、元弘三年五月、新田義貞が爲に、敗亡しに及びて、一旦朝廷に歸し、建武二年足利尊氏叛(はん)して鎌倉に據り、再幕府を開き、其子左兵衞督基氏を、開東の管領(くわんれう)にして、此地に置かる、夫より左馬頭氏滿、左兵衞佐滿兼、左兵衞持氏、相繼(あひつい)て管領たり、其後左頭成氏、關東の主となるに至り、執事上杉右京亮憲忠と、矛盾に及ひしかば、寶德四年六月、京師(けいし)よる討手(うつて)として、今川上總介範忠、下向あり、成氏是か爲に沒落し、遂に武藏國菖蒲に遁れ、又下總國古河に移る、是よりして扇谷の上杉定正、山内の上杉顯定と數年戰爭の地となれり、斯て後星霜(せいさう)を經て、荒凉たる村落とはなりにけり、上杉氏衰微して三浦義同の所領となる、永正十五年義同北條早雲の滅す所となり、爾後同氏五世の間之を領す、小田原北條氏割據(かつきよ)の頃は、郡中の地を割(さい)て、諸士に附與せり、天正十八年北條氏亡びて德川氏之れに代り、御料及び松平大和守、大久保佐渡守か封邑(ほういう)、麾下(きか)の士の釆地と爲す、明治元年太政(たいせい)維新の際韮山縣所管に屬し、同年十二月神奈川縣管轄となりぬ。

[やぶちゃん注:「三代實錄」「日本三代実録」。六国史の第六番目。五〇巻。藤原時平・大蔵善行らが宇多天皇の勅をによって撰修した。昌泰四年・延喜元(九〇一)年完成。清和・陽成・光孝の三代(天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年)の凡そ三十年間を編年体で記述したもの。

「景行天皇」伝承年代では西暦二七一~三一〇年相当。

「足鏡別王は、鎌倉の別か祖」「古事記」(和銅七(七一二)年成立)の「中つ巻」の景行天皇の倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜を綴った条に、彼と山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)との間に生まれた足鏡別王(あしかがみわけのみこ)について、

足鏡別王者、〔鎌倉之別、小津石代之別、漁田之別之祖也。〕

 足鏡別王は、鎌倉の別(わけ)、小津(をつ)の石代(いはしろ)の別、漁田(すなきだ)の別の祖(おや)なり。〕

と記す。この「別」とは古代の姓(かばね)の一つで、皇族の子孫で地方に封ぜられたと指す氏族の姓であるから、これは「鎌倉」氏というヤマトタケルの苗裔がいたことを意味しているのみであって、果たしてそれが事実、同地名として後に現われる相模の鎌倉と関わるかどうかは不明である。これを除けば、以下の記載は「新編鎌倉志卷之一」の冒頭の「鎌倉大意」や「鎌倉攬勝考卷之一」の「鎌倉總説」に記されてある。不明の箇所があれば、それぞれの本文及びそれぞれの私の注を参照されたい。十分にカバーしてあるつもりである。

「武藏國菖蒲」現在の埼玉県久喜市菖蒲町(しょうぶまち)。ここの新堀(旧武蔵国埼玉郡新堀村)には古河公方足利成氏が康正二(一四五六)年に築城させた菖蒲城があった(五月五日の菖蒲の節句に竣工したことによる命名)。また、成氏が室町幕府及び管領上杉憲忠との抗争過程で、鎌倉から古河へ転戦する際、享徳四(一四五五)年六月に『武州少府(しょうふ)』という場所に一時逗留した旨の記述もあり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力であると、参照したウィキの「菖蒲城」にある。

「松平大和守」江戸中期の大名で武蔵川越藩藩主であった松平朝矩(とものり)及びその曾孫で幕命により相模警護役となった第五代藩主松平典則か(ここまでの松平家は代々が大和守)。「新編相模国風土記稿」には朝矩の所領として鎌倉郡十三ヶ村が含まれている。因みに、江戸時代の鎌倉は幕府の直轄領であった。

「大久保佐渡守」下野烏山藩(現在の栃木県那須烏山市城山)第六代藩主大久保忠保か。同藩は大久保家が藩主となった享保年間以降、相模国鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部をも支配し、愛甲郡厚木町(現在の神奈川県厚木市)に厚木陣屋(厚木役所)を置き、相模国内支配の拠点としていたとウィキ下野烏山藩にある。

「封邑」封ぜられた領地。封地。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来(狭義には旗本)を指す。

「釆地」采地(さいち)領地。知行所。采邑(さいゆう)。

「太政」「おおまつりごと」で、天皇の政治の意。大政に同じ。

「韮山縣」慶応四(一八六八)年に駿河国・相模国・武蔵国・甲斐国内にあった幕府領・旗本領及び伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の静岡県・神奈川県・埼玉県・山梨県・東京都多摩地域など、非常に広域に分布している。但し、同年十二月には相模国鎌倉郡・三浦郡の管轄地域を新設の神奈川県に移管している明治四(一八七一)年の廃藩置県後の第一次府県統合に伴って廃止された(以上はウィキ韮山県」に拠る)。

 

區分 鎌倉を區劃(くくわく)して雪之下、小町、大町村、扇ケ谷、西御門前村、山之内村、二階堂村、長谷村、阪之下村、極樂寺村、亂橋材木座村、淨明寺村、十二所村、峠村となす。

 以下、底本では「峠村」まで、全体が一字下げで、且つ、村落の解説の二行目以降は五字下げ。]

 

雪之下 古幕府の下にして、諸士の邸宅を搆(かま)へし地なり。

大町村 鎌府隆盛の頃は目抜きの街衢(かいく)にして、人煙稠密(じんえんちうみつ)、商賈(しようこ)繁榮を極む、今や空しく稻田麥圃、悵然として懷古の念を深からしむ。

小町 其昔群臣の邸宅を賜はり、其間市鄽(してん)駢羅(べんら)して、頗る饒富(きやうふ)の地なりしとぞ。茅屋四五、當時の面影だになし。

[やぶちゃん注:「商賈」「賈」は商品を売り買いする。また、商人の意。「商估」「商沽」(「估」「沽」ともに売るの意)とも書き、商人・あきんど・商店のこと。

「市鄽」市(いち)の店。

「駢羅」沢山の物が並び連なること。

「饒富(きやうふ)」「ぜうふ(じょうふ)」が正しい。豊かなこと。

西御門前村 賴朝舊館、西門の所在地に基て村名に唱ふ。

扇ケ谷 山間の地なるも昔は諸士の餓邸宅多く、遊廓假粧坂も此内にありき、足利氏の頃、管領上杉定正爰に住す、山川依稀(さんせんいき)たり寂寞(せきばく)の境。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」に、

◯扇谷〔附扇の井 飯盛山 大友屋敷〕 扇谷(あふぎがやつ)は龜谷坂(かめがやつざか)を越へて、南の方、西北は海藏寺、東南は華光院、上杉定政の舊宅、英勝寺の地を扇谷(あふぎがやつ)と云ふ。龜が谷の内なり。今里人扇が谷とばかり云ふ時は、藤谷(ふぢがやつ)の前、英勝寺の裏門前を、扇が谷と云。

とある(「定政」は誤記)。]

山之内村 往古首藤刑部丞義通莊園として此地に住す、其頃より山内と稱せり、後上杉顯定住す。草深く苔封ず。

[やぶちゃん注:「首藤刑部丞義通」山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち ?~平治元(一一六〇)年)は平安後期の武将。藤原秀郷の後裔首藤義通の子で山内首藤氏の祖。ここ相模国鎌倉郡山内荘に住んだ。保元・平治の乱では子俊綱とともに源義朝に従い、京都四条河原の戦いで討ち死にした(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

二階堂村 文治年中源賴朝奧羽凱旋の後、奧の大長壽院の二階堂に擬(ぎ)して、當所に二階堂を建立し、永福寺と號す、此地其寺域の内なるが故に名づく。

長谷村 觀音堂起立ありしより、寺號によりて村名となす。

極樂寺 當村極樂寺所在の地なるにより、即村名となれり。

坂之下村 村名の起りは傳へされど、山麓の村落にて、隣村(りんそん)極樂寺切通(きりどほし)の坂下は、當村の聚落なり、されば村名是に起れるなるべし。

亂橋材木座村 其昔一村たりしを元祿の頃分て二村とし、亂橋村、材木座村と別稱す、村人舊に因(より)て一村の如く村名も二名を合して唱呼す。

淨明寺村 五山の一淨明寺所在の地なる故、村の稱となれるなり、古刹雨に寠(やつ)れて萬骨(ばんこつ)枯(か)る。

[やぶちゃん注:「萬骨枯る」は故事成句「一将功なりて万骨枯る」(一人の成功が成就するためには、その背後に数多の犠牲がある)を寺域の衰亡のさまに用いたもの。]

十二所村 同所に熊野十二所の社(やしろ)あり、是を村鎭守とす、されば是より村名も起りしなるへし。

峠村 鎌倉の東北隅にあり、峯高く溪(たに)深し、武州久良岐郡に界(さかい)し金澤往還なり、村名考ふるまでもなし。

[やぶちゃん注:「峠村」朝比奈切通しから朝比奈峠を越えたさらに現在の金沢区朝比奈町一帯を含む。現在の六浦側の朝比奈一帯も古くはずっと鎌倉郡に含まれていた。新編鎌倉志卷之八の「朝夷名切通」には、
   *

《峠坂》此の坂道を峠の坂と云ふ、坂の下六浦(むつら)の方を峠村(とうげむら)と云ふ。

   *

とあり、しかも同書では六浦側の「鼻缺(はなかけ)地藏」の項で、

   *

鼻缺地藏は、海道の北の岩尾(いわを)に、大ひな地藏を切り付てあり。是より西は相州、束は武州なり。相・武の界にあるを以て、界(さかひ)の地藏と名く。

   *

とあることからも、この「峠村」が鎌倉郡内の独立した一村であったことが分かる。これについては、kanageohis1964 氏がブログ「地誌のはざまに」の【武相国境】峠村は何故鎌倉郡に属していたのか?で詳細な考察をなさておられる。優れた引用なので失礼してお借りすると(一部の新字を正字に直させて戴いた)、まず、以上の記載以降では、「新編相模國風土記稿 卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」に、

   *

峠村[多不牙牟良]

江戸より行程十二里小坂鄕に屬す、家數十八、東西七町半南北八町許[東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良伎郡の屬、西、郡内十二所村、]新田[高六石七斗九升二合、]……

◯鼻缺地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云[長一丈許]是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缺損せし如くなれば鼻缺地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缺とは唱へしなりと云、

   *

とあり、また、「皇國地誌 村誌 相模國鎌倉郡峠村」には、

   *

本村往古ヨリ本郡ニ屬シ鎌倉大倉郷ノ内ニアリ此地鎌倉ヨリ六浦ニ出ル坂路[即チ朝夷奈切通是ナリ]アリテ之ヲ峠坂ト呼ブ其下方ニアル部落ナルヲ以テ峠村ト名クト云鎌倉府ノ頃ハ大倉ノ内ノ小名ナリシヲ德川幕府ノ初ヨリ獨立ノ一村トハナレリト云……

地味
灰色ノ腐壚多ク間々細砂ヲ混スル所アリ其質瘠薄諸植物ニ宜シカラズ水旱ノ兩災ハ甚稀ナリ……

戸數
本籍平民     十八戸
社         一戸
寺         一戸

人口
本籍平民男   五十七人
同   女   六十六人
總計    一百二十三人
寄留平民男     一人
同   女     四人
總計        五人……

   *

とあるとする(……はブログ筆者による省略を示すものと思われる)。以下、朝比奈町内会編になる「朝比奈の歴史」(二〇〇四年刊)からの引用で、その後、『戦乱に明け暮れた中世の時代背景の下で、この国境いの山地に人が住みついて、村落が形成されるまでにはいた』らなかったこと、『朝比奈の地に、小さいながらも農耕を主業とする村落が生まれたのは、関が原の役(慶長五年、一六◯◯年)を節目として戦乱の世が終わり、平安な江戸時代に入ってから』であったこと、先の天正一九(一五九一)年の秀吉による天正検地に基づいて、『一箇の行政村「峠村」が誕生』、『相模国鎌倉郡峠(とうげ)村として、幕藩体制下の独立した一村として認知された』ことが述べられある。しかしこの『峠村の誕生には、一般の村にくらべて異例ともみられるほどのきわだった』『特色が指摘される』とし、それは『検地によって線引きされた峠村の位置で』、『通例の境界線は自然地形の河川または山脈・丘陵の尾根』が指標とあるはずであり、『そのような線引きの通例原則からすれば、自然地形上は武蔵国久良伎郡に所属すべき位置の峠村が相模国鎌倉郡に編入線引きされたのは』それから外れた『異例の扱い』と言える点であるとする。『これについては、この土地の鎌倉時代いらいの鎌倉との密接な歴史的関連性が重視されたものとおもわれ』ると当該書にはある。そこからkanageohis1964 氏は、

   《引用開始》

つまり、天正検地によって初めて「峠村」が行政上の実体を持ったという解釈です。それまではどうやら一時的にはともかく、この辺での集落の形成はあまり進まなかったために、空白地の様になっていたということでしょう。そして、実体が持たされると同時に峠村がその時代には鎌倉との結び付きが強かったために、結果的に相模国鎌倉郡と認知されるに至った、という訳です。

   《引用終了》

お推定なさっておられる。最後に同書にある『鎌倉郡から久良岐郡へと転籍して当時の六浦荘村、現在の横浜市金沢区と合併した経緯について』の引用も転記させて戴くと、

『江戸時代初期から約二百七十年間、独立した一個の行政村として存続してきた峠村は、御一新の改革によって制度上は姿を消しました』。『江戸時代の峠村は、異例の特殊事情から村請制を最大限に活用した自主独立の村づくりと組織づくりを進め、小さいながらも安定した完全自給自足の平和な農村として存立していました。これにたいして御一新の地方制度の改革は、村請制といった村落共同体の自治を否定し、全国のすべての村を一串いっし整然とした強力な中央集権国家の下部組織に組み込むことを目指したのです』。『明治二十二年に創設された東鎌倉村の東のはずれに位置する旧峠村の村民にとっては、大区小区制いらいの新しい村役場も村行政も、旧時代にくらべてあまりにもよそよそしい間柄に様変わりしたと目に映ったことでしょう。そしてそのことが、明治三十年(一八九七年)にいたって東鎌倉村(当時は町)大字峠が、地理的に近く、また経済的なつながりを強めつつあった東京湾側の隣村久良伎郡六浦荘村に、さしたる抵抗感なく郡を超えてまで編入されていく背景をなしていたといえましょう』とある。kanageohis1964 氏は最後に、『江戸時代には六浦藩の重税振りを尻目に旗本領の一ヶ村として自立した生活を営むことができたため、鎌倉郡に属していたことは峠村に相応にメリットがあった様ですが』、『それが失われてしまった以上、地の利が優先される行政区に所属する様になったのは時間の問題だった、というとになるのでしょうか』と推理されておられる。リンク先では地図などもあって非常に分かり易い。必見である(何故、長々とこの「峠村」について述べたかというと、私のこの地誌テクストを楽しみにしている教え子が一人おり、その彼女は、ここ朝比奈の出身だからである。特に kanageohis1964 氏、お許しあれかし。

 なお、ここまでが一字下げ。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 77 永平寺

本日二〇一四年九月二十三日(当年の陰暦では八月三十日)

   元禄二年八月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十三日

この前の松岡(「奥の細道」は「丸岡」と誤記)辺りでの北枝との別れを私は取り敢えず個人的な欲求から八月九日としたが、この後の福井の等栽宅到着は、諸資料から八月十二日辺りと推定されている(敦賀の月見の予定から)。「奥の細道」ではその間に芭蕉は永平寺を訪れていることになっている。以下、「奥の細道」の永平寺の段。まず、通行の校訂本文を示す。

 

 五十町山に入りて、永平寺を禮(らい)す。道元禪師の御寺(みでら)也。邦畿(はうき)千里を避けて、かかる山陰に跡を殘したまふも、貴(たふと)きゆゑ有りとかや。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

        平

五十丁山に入て永寺を礼す道元

禅師の御寺也邦機千里を避て

かゝる山陰に跡を殘し玉ふも貴き

故有とかや

   *

■やぶちゃんの呟き

「五十丁(町)」約五・五キロメートル。これは現在のえちぜん鉄道勝山・永平寺線の永平寺口附近から寺までの距離に相当する。これは広大な永平寺の境内地からの距離という。後注「奥細道菅菰抄(すがごもしょう)」(蓑笠庵梨一著・安永七(二七七八)年刊)参照のこと。

「邦機(畿)千里」本邦の王城の地である京を中心とした四方千里。「詩経」にある、『邦畿千里、惟民所止』(邦畿千里、惟(こ)れ民の止(とど)まる所)の俗塵の域の謂いである。

 「奥細道菅菰抄」に、

 

永平寺ハ、越前國、志比村ニ立。(福井ヨリ三里。丸岡ヨリ四里)吉祥山ト號ス。後深草院建長五年ノ草創。北条時賴ノ修願ニテ、曹洞禪宗ノ本山ナリ。コヽニ五十町山ニ入トハ、此寺領ノ入口ヨリ、山中ノ寺マデノ行程ヲ云。(山へ登ル事ニハアラズ)道元禪師、姓ハ源氏、京師ノ人、宋ニ入テ天童如淨禪師ニ謁シ、曹洞宗ヲ傳フト云。邦機千里とは、機ハ畿ノ字ノ誤ニテ、邦畿ハ帝都ノ稱。詩ニ、邦畿千里、維民所ㇾ止、ト云是ナリ。貴きゆへありとは、相傳ふ、はじめ寺地を京師にて給らんと有しを、禪師の云、寺堂を繁華の地に營ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕するものあらん歟、と固く辭して、終に越前に建立すと云。此事なり。

 

とある。

 さて。

 永平寺の位置及びそこを芭蕉が一人で往復したというのは、事実としては、独り旅の苦手な芭蕉にして、寧ろ考え難いとも言える気はする。

 立枝との別れは実はこの永平寺訪問の後であったと考えた方が自然な気もするし(私が立枝なら必ずそれを望む)、独り旅を芭蕉が例によって虚構したというのも如何にもありそうなことではある。因みに、松岡を起点とすると、永平寺までは約十四・五キロメートル、そこから直に福井に向かうとやはり同程度の距離があって、足すと三十キロメートルほどになる。

 しかも「奥の細道」にはご覧の通り、短い詞を述べるだけで句はなく、諸資料にも現存する中に永平寺で作句したと思われる句は不思議にも存在しない。

 実は、本当に芭蕉は永平寺に行ったのだろうかと疑いたくなる気持ちを、私はどうしても抑えられないでいる。

 いや……そう考えれば考えるほど、この独り行く芭蕉の後ろ影が……否応なく謎めいて見えてくるからでもある。……]

2014/09/22

落葉 ヹルレエヌ 上田敏譯

 落葉(らくえふ)
 
秋(あき)の(ひ)日の
ヸオロンの
ためいきの
身(み)しみて
ひたぶるに
うら悲(かな)し。
 
鐘(かね)のおとに
胸(むね)ふたぎ
色(いろ)かへて
涙(なみだ)ぐむ
過(す)ぎし日(ひ)の
おもひでや。
 
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散(ち)らふ
落葉(おちば)かな。
 
           〔ヹルレエヌ――『詩集(ししふ)』〕
   ~~~~~~~~~~~
 
佛蘭西の詩はユウゴオに繪畫の色を帶び、ル
コント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヹルレ
エヌに至りて音樂の聲を傳へ、而して又更に
陰影の匂なつかしきを捉へむとす。
                「譯者」
 
[やぶちゃん注:「ヸオロン」の方の「ヹ」は底本では「井」に濁点、「身にしみて」の「し」は「志」の崩し字。]
 
 
訳詩集「海潮音」上田敏訳 本郷書院 明三八(一九〇五)年十月刊より――
 
国立国会図書館蔵 同近代デジタルライブラリーより視認してタイプ――

耳嚢 巻之八 懸角 一名 訶黎勒の事

 懸角一名訶黎勒の事

 

 上古は禁中にて節會(せちゑ)行はるゝ時、天子高御座(たかみくら)といふに坐(ま)し給ふ御帳臺(みちゃうだい)の左の柱に、鬼角(をにづの)といふ器を懸け置(おく)事有り。是を犀角(さいかく)にて造りたるものなり。百鬼邪鬼瘴氣(しやうき)諸毒を解(げ)する功勝れたるものなれば、貴人の座右には必(かならず)置く事なり。中古亂世打(うち)つゞきけるころ、此器絶(たえ)けるにや、今は御帳臺の柱にも、木にて作り、むかしのかけ角に擬(なずら)へ置(おく)事、足利義政公此懸角(かけづの)を寫し、象牙にて訶黎勒(かりろく)の實(み)の形ち、則(すなはち)かりろくと名付(なづけ)、押板(おしいた)の柱に懸(かけ)て座上の飾(かざり)となせり。象(ざう)も毒を解し、其外の功も犀角におとらざるもの故也。かりろくは西土嶺南の産物にて、殊に食傷等に用藥なるゆゑ、常に座上に置べき物なり。稜(かど)六筋(ろくすじ)有るをよしとす。八筋より十三筋、品々も有を、椰精勒(らうせいろく)といふ。藥に用ひず。訶黎勒の功、食を下し、胸隔(きようかく)の結氣を破るゆゑ、嶺南にては茶の如く煎じ、常に客にもてなすといへり。天竺にても殊に用(もちゐ)る藥なるゆゑ、金光明經(こんかうめいきやう)にも熱病を下す藥に用ゆる事を載(のせ)たり。

 

Kakeduno

 

[やぶちゃん注:図の右上に「懸角一名 訶黎勒」とある。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。但し、二つ前の「かづき」の考証から有職故実物で連関すると言える。図を配したという点でも根岸の意識では強く結びついていたものと思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には墨塗りの同図があって、非常に見易いので以下に示す。

 

Kakeduno2

 

・「懸角一名訶黎勒の事」「かけづの いちめい かりろくのこと」と読む。

・「懸角」岩波の長谷川氏注には、『御帳台の入口の柱に掛けた犀の角』とある。

・「訶黎勒」底本の鈴木氏注に、『訶黎勒、翻して天主持来といふ、万病に効あるを以て、諸軌に、加持して飲む事を説けり、金比羅童子経の如きは、金経此樹の効能を説けりとぞ。(三村翁)』とある。これはバラ亜綱フトモモ目シクンシ科ミロバラン Terminalia chebula を指す(英名:Myrobalan)。「「訶黎勒」は仏典での漢訳名。個人サイト「タイの植物 チェンマイより」の「Terminalia chebula /ミロバラン」によると、『インド・熱帯アジア大陸部』を原産とし、『南伝仏典の伝えるところ「ブッダは成道後、激しい腹痛を患われたが、それを見たインドラ神(帝釈天)がミロバランの果実を捧げられ、ブッダは忽ちにして快癒された。」北伝仏典も同様の伝えである。ミロバランの梵語名はハリタキ』とある。その『果実は整腸・下痢止め』として用いられ、『抗菌作用があ』り、『我が国への伝来は古く、正倉院の種種薬帳に記載の呵梨勒(カリロク)は、このミロバランとされている』(以上、引用はコンマを読点に変えさせて戴いた)。樹皮・果実から『繊維を黄緑色/灰色に染色する』染料を作り、また、家具・車両などの木材原料とするとある。岩波の長谷川氏注には、『その実の形を象牙等で作って飾りにする』とある。仏典の伝承を受けたものであろう。

・「高御座」即位や朝賀などの大礼の際に使用される天皇の座所。当初は大極殿(だいごくでん)の中央に常置されていたが、その廃亡とともに紫宸殿(ししんでん)に置かれた。唐制を模したもので、南を正面とし、西東北の三方に階段をつけた約五メートルの方形を成し、高さ約一メートルの基壇上に、高さ約三メートルの八面の屋形を組む。屋根は神輿の形に似た八角で、中央に大きな鳳凰、おのおのの隅に蕨手(わらびて)の飾りを出だし、その上に小さな鳳凰を立てて玉旛(ぎょくはん:玉幡。この高御座や御帳台(みちょうだい。後注参照)の棟の下に懸ける装飾で、玉を鎖で繋ぎ、先端に薄金の杏葉(ぎょうよう:杏(あんず)の葉に似た装飾具。)をつけたもの。)を下げる。破風の南北に各五面、その他六方には各三面の鏡と、その間に白玉を唐草で囲んだ彫物を立て並べる(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「御帳台」宮中や寝殿造の母屋内に設けられる調度の一つ。浜床(はまゆか)という正方形の台の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳(とばり)を垂らしたもの。貴人の寝所又は座所とした。

・「瘴氣」中国で熱病を起こさせるとされた山川の毒気。

・「足利義政」(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年)は室町幕府第八代将軍。

・「押板」中世の座敷飾りの名で、壁下に作り付けた奥行きの浅い厚板。現在の床の間の前身。

・「嶺南」中国で古く南嶺山脈(五嶺山脈とも呼ぶ)から南の地域を指した広域地方名。主として現在の広東省と広西チワン(壮)族自治区に当たる。

・「金光明經」四世紀頃に成立したと見られる仏教経典の一つ。大乗経典に属し、本邦では「法華経」「仁王経」とともに護国三部経の一つに数えられる。詳細は参照したウィキの「金光明経を読まれたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 懸け角(づの)――一名、訶黎勒(かりろく)――の事

 

 上古は、禁中に於いて節会(せちえ)が行はるる際、天子は高御座(たかみくら)という御座(おんざ)に坐(ま)しまされたが、その御帳台(みちょうだい)の左の柱に、「鬼角(おにづの)」と呼ばるる祭器を懸けおくことを、これ、式として御座った。これは、犀の角で造ったものである。百鬼・邪鬼・瘴気(しょうき)・諸毒を悉く退け癒し、効の勝れたるもので御座ったによって、貴人の座右には必ず、これを置くを礼として御座った。

 中古、乱世のうち続いておった頃に、この祭器は失われ、その礼式も途絶えてしまったものか、現在は、御帳台の柱には木で出来た、往古の懸け角(づの)に擬(なぞら)えたものを、懸けおいておくと聴く。

 かつて、足利義政公は、この懸け角を模し、象牙にて、「訶黎勒(かりろく)」の実(み)の形に彫らせたものを造らせなさって、そのままにそれを「かりろく」と名付けられ、押板(おしいた)の柱に懸けては、座上の飾りとなされたと伺って御座る。象(ぞう)の牙も、これ、解毒の効あって、その他の種々の効能も犀の角に劣らざるものなるが故で御座る。

 「かりろく」と申すは、これ、西土(さいど)は嶺南(れいなん)地方の産物にして、殊に食当りなどに服用するものであるゆえに、常に貴人の座上には常備すべき品で御座る。

 稜(かど)が六筋(ろくすじ)あるものを上品となす。八筋より十三筋に至る品々もあるが、これは「椰精勒(ろうせいろく)」と称する。但し、これらは薬用とはしない。

 「訶黎勒」の効能は、不消化の変成物を速やかに下(くだ)し、鬱屈した胸隔(きょうかく)の悪しき気の結滞を鮮やかに破るものであるによって、嶺南にては茶の如くに煎(せん)じ、常に客にもてなすとも聴いて御座る。天竺にても、特に妙薬として用いる薬であるによって、伝来の古き仏典の「金光明経(こんこうめいきょう)」にも、熱病を快癒する薬として用いる、ということをはっきりと載せて御座る。

 

耳嚢 巻之八 完

耳嚢 巻之八 雷死を好む笑談の事

 雷死を好む笑談の事

 

 近き頃にや、茶屋四郎次郎家來に、大酒をなすといふにはあらねどあくまで酒を好みし老人有(あり)しが、我は雷にうたれ死(しな)ん事をねがふと常に言ひしを、いかなる物好(ものずき)にやと笑ひければ、さればとよ我(われ)數年酒を好み、或(ある)は欝を散じあるは寒暑をしのぎて、酒の恩を請(うく)る事報ずるに所なし、しかるに我(われ)何病にて死するとも、自害して死するとも、酒ゆゑなりと、子弟は勿論酒に科(とが)を負(おは)せん、恩は報ひずとも、酒に惡名付(つけ)んこそ心うけれ、雷にうたれ死なば其(その)愁(うれひ)なし、是(これ)によりてねがふなりといゝし。可笑(をかしき)事ながら、尤(もつとも)の一言(ひとこと)と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇人譚。

・「茶屋四郎次郎」底本の鈴木氏注に、『幕府の呉服所。初代四郎次郎(清延)は家康に属して戦功あり、二代清忠以後幕府調達を家職とした』とある。呉服所とは幕府・禁裏・大名家などに出入りして衣服類などを調達した呉服屋をいい、別に金銀の融通もした。呉服師。ウィキに「茶屋四郎次郎があり、それによれば、『安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった』とあり、『正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業』大永年間(一五二一年~一五二七年)に『京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け』、実に百六十年に亙って本拠としたとある。『初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる』。但し、十代目の延国(延因)時代の寛政一二(一八〇〇)年には納入価格を巡って呉服御用差し止めを受けてしまい、文化七(一八〇七)年に『禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した』とあるから、執筆推定下限を文化五(一八〇八)年夏とする本巻執筆当時は、まさにその差し止めを受けていた当時であることが分かる。『江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる』とある。また、蛸薬師下ルにあった本邸は宝永五(一七〇八)年の『大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転した。このためこの付近は茶屋町と呼ばれ』、また、『左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称した』とあって、さらに『清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾張茶屋家(新四郎家)を創設した。尾張茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めた。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓いた。蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されている』とあるから、本家が幕府差し止めを受けていても、こうした分家子孫が本家を支え、相応の家格を維持し得たものか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷死(らいし)を好むという冗談の事

 

 近き頃のことであろうか、旧幕府呉服所で御座った茶屋四郎次郎家の家来に、大酒(おおざけ)を呑む、という訳ではないものの、ともかくも酒を好める老人があった。

 この老人、常日頃より、

「我らは雷に打たれて死なんことを願(ねご)うて御座る。」

と真顔で申しておったを、ある人、

「……それはまた、奇体。……如何なる謂いの物好きか?」

と、笑って訊ねたところが、

「さればとよ。我ら永年、酒さまを好み、或いはそれで気欝を散じ、或いは寒暑を凌いで、実に深き酒さまの恩を請けて御座った。されど、それに報いる法、これ、御座らぬ。然るに、あろうことか、周囲にては言うにこと欠いて、身共が何かの病いにて死するとも、自害して死するとも、これ、須らく酒の所為(せい)、なんどと申すによって、我らに孝を尽くす子弟には勿論のこと、何より、酒さまに、どうして科(とが)を負わせ申しあぐること、これ、出来よう?! さればこそ、恩は報いずとも、酒さまに悪名(あくみょう)をつけ奉らんことこそ、心憂きことじゃ! ゆえに、酒さまとは無縁と誰もが請けがうところの、雷に打たれて死ぬるならば、そうした愁い、これ、御座らねばの! これによって、我ら、雷死を願(ねご)うておるのじゃて!」

と、言い放った。

 

「……いやいや、もう、おかしきことで御座れど……しかしこれ、聴きようによっては、もっともなる一言(いちごん)では御座いますまいか。」

と、ある御仁の語って御座った。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 76 物書きて扇引きさく余波(なごり)哉

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その二】金沢からついて来た立花北枝が芭蕉と別れたのは何時であるかは判然としないが(曾良と別行動となったために、山中以降は事実を推測するための一次資料が失われている)、芭蕉にはここで出来るだけ辛く孤独な旅をして貰おうと思う(但し、推定では福井の等栽宅までの、その手前の越前丸岡(現在の福井県吉田郡永平寺町。以下に見るように芭蕉は総ての箇所で「松岡」「丸岡」と徹底的に誤っている)から凡そ十キロメートルばかりの短い間のみとは思われるのであるが、これについては、山本胥氏が「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫)で述べておられるように、『芭蕉の生涯で、ひとり旅の初体験といえる。旅好きの芭蕉だが、ひとり旅は苦手のようだった。苦手というより、できない人だった、といったほうがよい』(四四九頁)という見解に私は激しく同意するものである。芭蕉が同行者なしに覚悟の旅に出たのは――他には実に――死出の旅路きりであったのだ……)。

 

物書(かき)て扇引(ひき)さく余波(なごり)哉

 

もの書て扇子引きさく名殘(なごり)哉

 

  松岡にて翁に別(わかれ)侍(はべり)し

  時、あふぎに書て給(たまは)る 

もの書て扇子へぎ分(わく)る別(わかれ)哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句は「卯辰集」(楚常(そじょう)撰・北枝補・元禄四年刊)。の句形で、この第三句が初案。「卯辰集」巻三には、

 

  松岡にて翁に別侍りし時、あふぎに書きて

  給はる。

もの書て扇子へぎ分る別哉    翁

    笑うて出づる朝きりの中 北枝

  となくなく申し侍る。

 

と北枝が脇を付けている。

 「へぎ分くる」というのは、扇の両面を骨で合わせてあるのを、剝(へ)ぎ分ける、剝いで二つとするの謂いである。諸家はこの改案をそれぞれにあからさまとか、意に寓するとか、なんだかんだと言っているが、私はこの「へぐ」も「わくる」も遺体を剖検しているような、甚だ不快な響きを感じるので、純粋に音韻的に初案を支持しない。本句の「引き裂く」を尋常でないとして、この折りの北枝との関係を詮索する方(山本胥氏など)もいるが、寧ろ、芭蕉は曾良との痛恨の訣別の後、自身を殊更に孤客とせんとした意識を強く感じるものである。少なくとも、私は「扇引きさく」に、立枝との人間関係の不具合を読む気には全くならないとだけ言っておこう。実際には扇を裂いて分け合ったのではなく、芭蕉が一筆ものした扇を与えたものであろうが、そこには寧ろ、これも一種の公案の応答の一つの所作と私には読める。安東氏も「古典を読む おくのほそ道」で、『無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇(無)にならぬ、という絶対的矛盾に禅機をもとめた句である。つまり、「物書て扇引さく」とは別れずに済す工夫である』と禅問答風に分かったような分からぬような(公案を出されて「作麼生」(そもさん)と促されたその答えとはそもそもがそのようなものである)評釈を述べておられて小気味よい。

 「奥の細道」の汐越の松から北枝との別れの段。

   *

越前の境吉崎の入江を舟に

棹指て汐越の松を尋

          西行

  終宵嵐に波をはこはせて

   月をたれたる汐越の松

この一首にて數景盡たり若一

辨を加ルものは無用の指を立るかこ

とし

丸岡天龍寺の長老古き因あれは

尋ぬ又金澤の北枝と云ものかりそ

 したひ

めに見送りて此處まて來ル所々

の風景過さすおもひつゝけて

折節あはれなる作意なと聞ゆ

今既別に望みて

  物書て扇引割名殘哉

   *

「吉崎」現在の福井県金津町。蓮如が開いた吉崎御坊があり、浄土真宗の聖地としても知られていた。

「汐越の松」「しほこしのまつ」と読む。吉崎の対岸の浜坂にある岬にあった松で、名は海浜に延びた枝が潮をかぶったことに由来する歌枕。現存しない。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「汐越の松」に苦労された探訪記と無惨な跡の画像が載る。

「終宵(よもすがら)嵐(あらし)に波を運ばせて月を垂れたる汐越の松」これは西行の和歌ではなく、蓮如の作であるが、芭蕉の頃には西行作という俗伝も行われていた、と新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の注にある。

「丸岡」冒頭に述べた通り、松岡の誤り。

「天龍寺の長老」清涼山天龍寺は現在の福井県吉田郡永平寺町松岡春日にある曹洞宗永平寺末寺。藩主松平家菩提寺でもある。当時の松岡は松平昌勝五万石の城下町であった。「長老」は禅寺の住持を指す語。当時は大夢(たいむ)和尚で、彼はかつて江戸品川にある曹洞宗寺院、瑞雲山天龍寺の住職であったことから芭蕉とは旧知の仲であった。

「北枝」立花北枝(生年不詳~享保三(一七一八)年)。ここで詳細を注しておく。通称は研屋源四郎。金沢に住み、刀の研師を業とする傍ら、俳諧に親しんだ。元禄二年のこの時、蕉門に入り、後、加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになった際には、

 燒にけりされども花はちりすまし


と詠んで芭蕉の称賛を得たエピソードは有名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢が窺える(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

耳嚢 巻之八 かつ著往古の形樣の事

 かつ著往古の形樣の事

 

 かつぎは、歩障(ほしやう)行障(かうしやう)被衣(ひい)といふ。代々うつりかわるさまにて、今のかつぎは左(さ)の圖に記せし通りにもなく、被衣を差略(さりやく)して綿帽子といふものを用ゆ。近來に至りて、練(ねり)の帽子、又は紫の絹帽子などあり。何れも婦女の面(をもて)を覆ふの具なり。鄙賤の者に至りては、東都の女、袖頭巾(そでづきん)といふ物を用ひ、甚敷(はなはだしき)に至りては米屋かぶりなど號(がうし)、新敷(あたらしき)手拭ひにて髮をつゝむ。是等も左に記す被衣の餘風ならんか。左の書付は或人の携(たづさへ)來るまゝ、今昔風俗のうつりかはる事を思ひつゞけて爰に記す。

 

Katugi

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。衣類風俗考現学物。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には二図についてのキャプションがあり(これがもしかすると本文の「左の書付」と称するものではなかろうか?)、しかも二つの図ともに墨塗りがあって非常に見易い。補足を正字化して以下に示し、両図も併置する。

 

歩障 行障 被衣 綿帽子

此圖はふるき土佐家の畫がける

物語にありけるをうつす。

是は靈光院法皇の御屛風

の繪にありけるを、うつ

しけるよし。

 

Katugi2

Katugi3

 

因みに、同岩波版長谷川氏注に、この「土佐家」とは『大和絵の一派土佐派の画師』、「靈光院」は、『霊元院か。百十二天皇。寛文三年(一六六三)即位、貞享四年(一六八七)譲位、正徳三年(一七一三)落飾』とある(霊元天皇の崩御は享保一七(一七三二)年八月)。

・「かつ著往古の形樣の事」「かつぎわうこのけいやうのこと」と読む。「かつぎ」は「かづき」とも呼び、「被」「被衣」と書く。外出時に頭ら懸けた衣服(古くは主に女性が用いた)を指す。

・「差略」作略とも書く。本来は対象や行為を適当に取り計らう謂いであるが、ここは簡略化・簡素化しての謂い。

・「綿帽子」は真綿を薄く引き伸ばし広げ、フノリで固めて丸形や船形にした被り物。現在は神前結婚式に於いて花嫁の被りもとしてしか見かけることはないが、もともとはここに出るところの、室町後期から安土桃山時代にかけて武家婦人の外出着として小袖を頭から被って着られていた「被衣(かづき)」を起源とし、元来は外出する際の埃除けや防寒具として男女ともに用いられていたものが、江戸時代になってこの綿帽子が若い女性の被り物として定着していった。綿帽子には丸綿・舟綿・古今綿・促綿(うなぎわた)などの形の違いによる種類がある、と参照した「ウエディング用語辞典」の「綿帽子」にある。

・「袖頭巾」江戸時代に女性が用いた着物の袖の形をした頭巾。袖口から顔を出すようにして被る。後に御高祖(おこそ)頭巾となった。画像は「風俗博物館」の「袖頭巾をかぶる婦人」を参照されたい。

・「米屋かぶり」「こめやかむり」とも呼び、本来は米屋・搗き屋などが糠のかかるのを防ぐためにした手拭いの被り方。手拭いで頭をすっぽりと包み、両端を後頭部で結ぶもの、と辞書にはあるが、喜多川守貞「近世風俗志(守貞謾稿)」(一九九七年刊の宇佐美英機校訂の岩波文庫版を使用したが、恣意的に正字化した。図も同書より引いた。一部の原文の誤りは校訂指示によって訂した)には、

   《引用開始》

 

Keihankome

[やぶちゃん注:京阪の米屋かぶりの図。]

 手拭のあるひは左あるひは右の端より頭に卷き、上の方を寄せて卷き終りの端前隅を挾むなり。京坂は初め眼を覆ふばかりに卷き、被り終りに隅を額に出し、眼を覆ひたるを上に引き返し挟むなり。すなはち上圖のごとし。

Edokome

[やぶちゃん注:江戸の米屋かぶりの図。]

 江戸は初めより目上に卷き被り、終りに前隅を上圖のごとく額に挾む。

 米屋と云ふことは、圖のごとく被りて埃を除くを專とし、米屋は特に埃多き賈なる故に、專らこれをなす故に名とす。その他にも業に應じてこれをなすなり。

   《引用終了》

とある。ネット上を調べるうちに、詞己(しき)氏がブログ「右月左月」の「手ぬぐいで米屋かぶり」に於いて、やはりこの「近世風俗志」を引用され、次のように述べておられるのを見出した。『つまり、手ぬぐいの端を頭の前からぐるっと巻いて、終りを前に挟み込む。上方(京都・大阪)では前を眼に被るぐらい深く巻いて、巻き終わったら外に折り返す。江戸では巻き終わりを内側に挟み込む。ということで』あろうとされ、以下のように正確に定義されておられる。

   《引用開始》

◇米屋かぶり(こめやかぶり)

手ぬぐいの右または左端を額から頭に巻き、巻き終わりを前に挟み込む。上方(京都・大阪)では前を眼に被るぐらい深く巻いて、巻き終わったら外に折り返す。江戸では巻き終わりを内側に挟み込む。

米屋・搗き屋(つきや)などが、精米作業中に頭に糠(ぬか)がかかるのを防ぐためにする手ぬぐいのかぶり方。

米屋冠(こめやかむり)。

   《引用終了》

・「今昔風俗のうつりかはる事を思ひつゞけて爰に記す」この異例の根岸の感想や、本文中の「差略」「甚敷」という批判的な物言いからは、明らかに彼が「袖頭巾」や「手拭ひにて髮をつゝむ」「米かぶり」を下品なものと意識し、こんなものなどは「被衣の餘風」なりとは認められぬという思いが透けて見えるように思われる。根岸の女性の嗜みに対する美意識が現れた非常に珍しく、興味深い章と私は読むのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 被衣(かつぎ)の往古の形様(けいよう)に就いての事

 

 「かつぎ」は、「歩障(ほしょう)」「行障(こうしょう)」「被衣(ひい)」などとも申す。

 世々、その形態は移り変わっており、現在の「かつぎ」と申すものは、左図に示したような原形とは、これ、かなり異なってきており、いわば、本来の被衣(かつぎ)を簡略化して「綿帽子」と申すものを用いるようになっておる。

 近年に至っては「練絹(ねりぎぬ)の帽子」または「紫の絹帽子」などと申すものもある。

 孰れも婦女の面(おもて)を覆い隠すための装着具であることに変わりはない。

 江戸近在の田舎や低き身分の女などにあっては「袖頭巾(そでづきん)」と申すところの雑なる物を用い、また、はなはだしきに至っては、「米屋かぶり」など称し、ただの何の変哲もなき新しき手拭いを以って髪を包んだだけのものも見受けらるる。

 これらも左に示した被衣(かづき)の余風ででもあるのであろうか。

 左図と書付(かきつけ)はと、とある御仁の携え来った、そのままを手を加えずに示したもので、今昔の風俗、その移り変わるさまに、我ら、少しばかりしみじみと感じたるところのあったによって、ここに特に記しおくことと致いた。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その一】山中温泉で芭蕉と別れた曾良は、当然のことながら、芭蕉のメインの行路をほぼ先行する形で大垣まで旅している(恐らくは大垣(推定ではほぼ同時に曾良は大垣に着いた可能性もある)芭蕉の到着を迎えた後、路通・木因(ぼくいん)らともに芭蕉従って伊勢長島に向かい(この事実は曾良の単独行の当初の理由と齟齬していてやはり怪しい)、更に伊勢神宮参宮へと向かった)。後掲するように「奥の細道」では『曾良も前の夜此寺に泊(とまり)て』とあって、本句を詠んだのは曾良がここ全昌寺(加賀市大聖寺神明町に現存。曹洞宗、山号は熊谷山(「ようこくざん」と読むか)。前に注した通り、山中和泉屋若主人久米之助桃妖の心遣いによる二人への紹介によったもの。和泉屋の菩提寺であり、当時の住持月印が和泉屋若主人久米之助の伯父であった)に泊まった翌日と記している。曾良の日記は曾良の独り旅となった後も記されており、山中を発った八月五日は全昌寺に午後四時頃に着、翌六日は雨のため同寺に滞留、翌七日の午前八時頃に発っているから、芭蕉の言葉が正しいとすれば、芭蕉が全昌寺に着いたのは八日、発つに際しての挨拶吟として本句を詠んだのはこの九日朝のことということになるのである。

 

庭掃(はい)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳

 

庭はきて出ばや寺に散柳

 

庭掃て出(いづ)るや寺に散柳

 

[やぶちゃん注:第一句目は通行本の「奥の細道」の句形。第二句目は「島之道」(玄梅編・元禄十年序)及び「東西夜話」(支考編・元禄十四年成立)の句形で、後者には、

 

  なにがし前昌寺といふ寺は先師一夜の秌(あき)をわびて

 

という支考の前書を記す。第三句目は井筒屋本「奥の細道」の句形。他に、「宇陀法師」(許六ら編・元禄十五年刊)に、

 

庭拂て出ばや寺に散柳

 

と載るが、私はこの「拂」は「掃」の誤字と断じて採らない。

 禅寺に一夜の宿を求めて翌朝行脚に発つ折りには、境内を払掃するのが礼式。

 「奥の細道」の全昌寺の段。

   *

大聖持の城外全昌寺と云寺に

泊る猶かゝの地也曽良も前の

夜此寺に泊て

  終夜秋風聞やうらの山

と殘ス一夜の隔千里におなし

我も秋風を聽て衆寮に臥

明ほのゝ空ちかふ讀經聞ユルニ板鐘

鳴て食堂に入けふは越前の

國へと心早卒にして堂下に下

若き僧共紙硯をかゝへて階の

もとまて追來ル折節庭中の

柳散れは

   庭掃て出はや寺に散柳

とりあへぬ一句草鞋なから書捨

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇終夜    → ●終宵

(但し、読みは孰れも「よもすがら」。)

○板鐘    → ●鐘板

〇堂下に下る → ●堂下に下るを

■やぶちゃんの呟き

「大聖持」現在の加賀市大聖寺町。当時は加賀藩前田利明七万石の支城であったが、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道 曾良との別れ」の語注によれば、『幕府ににらまれることを嫌って、金沢とは一体的に経営しなかったという』とある。山中温泉の北西約八キロメートルに位置する。町名はかつてあった大聖寺という寺名によるか(現存しない)。「持」は誤字ではなく、寺名を憚って地名の字を変えたものであろう(鎌倉の浄妙寺と地名浄明寺などよく見られる)。

「全昌寺」冒頭の私の注を参照。

「終夜秋風聞やうらの山」「よもすがらあきかぜきくやうらのやま」と読む曾良の句。秋夜孤客の常套の奥に、私は山中で芭蕉と別れたことへの曾良の自責の念が強く響く。芭蕉が敢えてここに曾良の句を挿入したのには、そうした曾良の心境を芭蕉が既にして汲み取っていた――その上で、しかも敢えて曾良と決別したのだったという事実を私には伝えるものでもある。芭蕉の孤愁も、実は深かったことが次の「一夜の隔だて千里に同じ」の語彙選びからも窺える。

「一夜の隔だて千里に同じ」――ただ一夜(ひとよ)だけの違いだのに、まるで千里も彼と隔たったいるような断腸の思いが我が身を引き裂く――というのである。以下の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の蘇東坡の五言古詩を、曾良との離別(更には私に言わせれば哀しい意識の齟齬をさえ)インスパイアしていることは最早、明白である。

 

  頴州初別子由二首 其二

 

近別不改容

遠別涕霑胸

咫尺不相見

實與千里同

人生無離別

誰知恩愛重

始我來宛邱

牽衣舞兒童

便知有此恨

留我過秋風

秋風亦已過

別恨終無窮

問我何年歸

我言歳在東

離合既循環

憂喜迭相攻

悟此長太息

我生如飛蓬

多憂髪早白

不見六一翁

 

  頴州(えいしふ)にて初めて子由(しゆう)に別る 其の二

 

 近き別れは  容(かほ)を改めざるも

 遠き別れは  涕(なんだ) 胸を霑(うるほ)す

 咫尺(しせき)にして相ひ見ざれば

 實は千里と同じ

 人生 離別が無くんば

 誰(たれ)か恩愛の重きを知らん

 始め我(われ)  宛邱(ゑんきう)に來たりしとき

 衣()を牽()きて  兒童舞ふ

 便(すなは)ち知(しん)ぬ 此の恨うらみ有るを

 我を留めて 秋風を過ごさしむ

 秋風 亦 已に過ぎ

 別れの恨みは 終に窮きわまり無し

 我に問ふ 「何(いづ)れの年に歸る」と

 我は言ふ  「歳(さい)の東(ひんがし)に在るとき」と

 離合 既に循環すれば

 憂喜 迭(たが)ひに相ひ攻む

 此れを悟りて 長太息(ちやうたいそく)す

 我が生は飛蓬(ひはう)のごとし

 憂ひ多ければ 髪 早く白からん

 見ずや 六一(りくいつ)の翁(おう)を

 

本詩は蘇軾三十六歳の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の作。王安石の新法党を批判していた彼が、弾圧が強まる中、この年、自ら地方官を望んで、通判杭州(現在の浙江省杭州市の副知事)となって赴任した、その途次の師との再会であった。詩の内容は弟蘇徹の頑是ない子らととの一時の対面と別れのシークエンスを語っているが、遂に最後となった師との別れをもさりげなく、最後の一句に暗示させる造りともなっている(かのように私は感じられる)。

●「頴州」現在の安徽省阜陽県。

●「子由」欧陽脩。科挙試を監督した際、蘇軾を見い出したのは彼であった。王安石の抜擢も彼であったが、彼の起こした新法には反対派の先頭に立ち、そのままこの前年に政界を引退して、ここ頴州に隠棲していた。当時六十五歳。この翌年同地にて没している。

●「咫尺不相見」「咫」は周尺の八寸(約十八センチメートル)、「尺」はその一尺、十寸で、二二・五センチメートル。転じて、距離の極めて近いことをいう。

●「宛邱」陳州(現在の河南省淮陽(わいよう)県)の異称。頴州の西北百キロメートルほどに位置する。蘇軾の弟蘇徹が陳州学官(教授職)の任にあったのを、赴任の途次、訪ねて同道して欧陽脩に謁したのであった。

●「兒童」蘇徹の子どもたち。「問我何年歸」はこの子どもの台詞である。

●「歳」注の参考にした岩文庫小川環樹・山本和義選訳「蘇東坡詩選」の語注によれば、『歳は太歳(たいさい)。太歳は十二年で天球を西から東へ一巡する歳星(さいせい)(木星)を十二支に位置づけ、その対角にある十二支で呼ぶもの。この詩が作られたのは辛亥(しんがい)の歳で、太歳は亥(がい)にある。それが東すなわち寅(いん)に位置するのは、杭州の任期が満了する三年後の甲寅(こういん)の歳(熙寧七年)である』とある。

「迭」代わる代(が)わる。

●「悟」「語」とするテクスト有り。

●「飛蓬」同じく「蘇東坡詩選」の語注によれば、『蓬はアカザ科の植物で、砂漠地帯に生え、根を吹きちぎられて、風のままに転びゆく』(これは本邦の「蓬」、キク科キク亜科ヨモギ Artemisia indica とは全く異なるので注意。この説明から想起出来るように、西部劇でしばしば見るところの、あのころころと転がる草、ナデシコ目ヒユ科オカヒジキ属 Salsola 、英名“Tumbleweed”の類であると思われる。アカザ科とあり、実際に多くの植物分類学者はアカザ科を独立の科として扱っているものの、二〇〇三年版の被子植物新分類体系APG“Angiosperm Phylogeny Group”(被子植物系統グループ)第二版の略称)では認められておらず、ヒユ科 Amaranthaceaeの中に含まれている。ここは主にウィキの「アカザ科」の記載に拠った)『古来、飛蓬・転蓬に比喩して人生の不安定さが嘆かれた』とある。なお、以上の私のタンブルウィード(ロシアアザミとも言う)の同定に疑義のある方は、例えば個人ブログ「書迷博客」の「李白/送友人(三)」の比定などを参照されたい。

●「六一翁」欧陽脩の号。「蘇東坡詩選」の語注によれば、彼は『蔵する書物一万巻・金石遺文一千巻・琴一張・碁一局・酒一壺に自らの一老翁を加えて六一居士(りくいつこじ)と号した』とある。

「衆寮」禅寺の雲水らの宿寮のこと。

「板鐘」「ばんしよう」と読んでいよう。鐘板(しょうばん)。雲板。禅寺で食事の合図に打ち鳴らす板。少なくとも私の目にした多くは木製で、口に珠を銜えた長身の魚形(主に鯉という)をしていて、食堂(じきどう)若しくはその近くの軒下に吊られてあった。

「心早卒にして」「こころさうそつにして」と読む。気がせくままに急いで。

「とりあへぬさまして」差し当たっての即応吟として。謝意の他に、禅の公案の答えを諧謔化したもののようにも私には読める。特に、直前の「若き僧共、紙・硯をかゝへて階(きざはし)のもとまて追ひ來たる」というドタバタとした滑稽で俗な〈動〉に対して、「庭掃いて出でばや寺に散る柳」のあくまで澄んだ〈静〉が、そのような対位法的コール・アンド・レスポンスを醸成しているように私は感ずるのである。]

2014/09/21

橋本多佳子句集「海彦」 淡路島

 淡路島

 

   七曜同人朝倉十艸氏宅に滞在

 

みどりの島へ舷梯懸るわたりけり

 

[やぶちゃん注:「七曜」は昭和二五(一九五〇)年一月に『天狼』系の俳誌として多佳子が主宰していた(多佳子没年の昭和三八(一九六二)年に堀内薫が継承)。「朝倉十艸」不詳。]

 

あぢさゐのくれなゐ潮路来りけり

 

地にのこる鮮血鱝(えひ)を競りしあと

 

月光来る靴がばがばと搾乳夫

 

月光(て)る桶びしびし奔る牛乳享け

 

月光濃き搾乳の桶股ばさみ

 

  天女丸

 

思ひ切り西日の舵輪まきかへす

 

 

[やぶちゃん注:「天女丸」摂陽商船株式会社が大正一五(一九二六)年に大阪と淡路島の洲本間に運行を開始した急行線で就航したディーゼル・エンジン搭載の新造船天女丸四九五トン。個人サイト「~ぶらり散歩~淡路島 歴史の小径」の記載によれば、運行当時は大阪―洲本間を二時間三十分で運行、『その姿と快速ぶりが人気をよんだ。さらに、昭和5年にはディーゼルの此花丸』『による兵庫洲本急行便を加え、天女丸とともに春から初秋の淡路島観光を盛り上げた』とある。リンク先には優雅な船体の写真もある。]

耳嚢 巻之八 赤貝和らか煮兩法の事

 赤貝和らか煮兩法の事

 

 赤貝を煮るに兎角かたく、或は能くたゝけば肉崩れて其形不宜(よろしからず)。是を和らかにせんに、別の趣法(しゆはう)なし、熱湯の上へ箸樣の者を渡し、其上にのせて蒸(むす)に、和らかに成る事奇妙の由、人のかたりぬ。其かたわらに有(あり)ける人のいえるは、敲(たた)く事つよく敲(たたく)ゆゑに内損(うちそん)じ見ぐるしく、箸にひとしきものを以て靜(しづか)に心永(こころなが)くたゝけば、和らかに成る由、ためし見しと語りぬ。いづれも手法はあるものなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。一般に貝類は長く煮れば堅くなる。さっと湯通しするのが普通だが、まさに第一の方は遠くから湯気を当てて緩やかに蒸す適法と言える。また、青柳などでもそうだが、強く叩き過ぎると逆に(というより俎板に叩きつけると)肉が締る(そこでお兄さんになって肉が緩んでしまったものをわざと叩きつけて新鮮なものに偽装する仕方を悪しき板前はよくする)ので、新鮮なものでは、軽く刺激を与えて血行をよくさせてやるならば、逆に柔らかになろうかとは思う。しかしこの話、訳しているうちに、人間のあらゆる直接的な粗暴行為に対する一種の換喩のようにも見えてくるから不思議である。

・「赤貝」アカガイ Scapharca broughtonii であるが、当時の漁師はいざ知らず、一般の江戸庶民はアカガイと近縁のサルボウ Scapharca kagoshimensis の区別は出来なかったものと考えてよかろう。因みに両者の判別のポイントは殻の凸方の肋にあり、アカガイの殻上の肋の数が四十二本前後であるのに対して、サルボウは三十二前後と有意に少ない。また、殻の輪郭がアカガイではすっきりと丸くなっているのに対して、サルボウは船形で開口部がアカガイに比すと直線状になっている。まあ、江戸っ子が殻の肋の数を数えているなんぞというのは、サマにならねえ、という気はする。但し、寺島良安は和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部(全巻完成は正徳二(一七一二)年頃)の「蚶(あかゞひ)」の項でちゃんと、この違いを述べて(『猿頰【一名、馬の甲(つめ)。】 蚶の小さき者にして、自(をのづか)ら此れ、一種なり。殻、圓く厚く、溝、亦深く粗し。大なる者、一~二寸。肥州〔=肥前〕長崎に最も多し』と区別している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 赤貝を柔らかく煮る二種の方法の事

 

 赤貝を煮るに、とかく堅くなり、あるいは柔らかくしようとして調理の前に盛んに叩くと、これ、肉が崩れて、その形が如何にも不味そうに見え、よろしゅう御座らぬ。

 さて、これを柔らかにするには、実はこれといった特別なる手の込んだ手法は必要で御座らぬ。

「熱湯の上へ箸のようなものを渡しておき、その上に赤貝を乗せて蒸せば、柔らかになること、請け合いで御座って、これ、実に不思議で御座る。」

とある人の語って御座ったが、その折り、傍らにあって、それを聴いた別のお人が付け加えて申したことには、

「よう、柔らかくせんものと、無暗に赤貝の肉を強く叩く御人があるが、これは度を越せば、必ず肉を打ち損じ、ぐたぐたとなって見苦しくなって仕舞いまする。こういう時は、箸に似たようなものを以って、静かに、とんとんと、心穏やかにして、しかも、少し長めにゆっくら叩いたならば、きっと赤貝は柔らこうなるものにて御座る。実際に拙者も試してみ申したが、確かに柔らかくなり申した。」

と語って御座った。

 孰れの物事にも、かくも易しく、しかも確かなる手法と申すものが、これあるもので御座る。

耳嚢 巻之八 貫之の書ける月字の事並日野資枝和歌の事

 貫之の書ける月字の事日野資枝和歌の事

 

 土佐の國野田郡水田村、松山寺の土中より出し由。門前に八十餘の老婆ありて、此字貫之といふ人書(かき)たりとて、此寺の堂の上に釘にてしめ置(おき)たりと語りしに付、夫(それ)より敬し侍ると也。其圖左にしるしぬ。近頃日野一位資枝(すけき)卿其品を見て、

 世々遠く有るかなきかの影とめて月をかたみのみづぐきのあと

 

Tuki

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂句譚から和歌譚で連関。この段以降、急に図が増える。

・「野田郡水田村松山寺」郡名村名ともに不審。底本鈴木氏注に『野田、水田村の地名は見当らず、松山寺も現存しない』と記すが、岩波版の長谷川氏注には、高知県幡多(はた)郡大方町黒潮町伊田『にあった真言宗の寺。清岸山東光院松山寺。月字の額が寺宝として伝え羅られていた』とある。この寺は、開基は空海とか、本尊地蔵菩薩像は行基作とか、聖武天皇勅願所とかいった伝承が残っていたらしいが、明治初年頃に廃仏毀釈により廃寺となって、現在は黒潮町文化財史跡に指定されている(情報は同町の記事のキャッシュによる。但し、この寺の後身が観音寺と名を変えて無住ながら現存するらしい。後文参照)。また鈴木氏注は前に三村竹清の注を引いて、土佐幡多郡瀬海という地に松山寺という寺があり、そこに扁額にした「月」の字が残っている。言い伝えによればこれは紀貫之公が書き残したものであるとされるが、僻地なれば未だこのことを知れる人もない。この事蹟が徒らに忘れられて朽ち埋もれることを惜しんで、天明年中(一七八一年~一七八九年)に土佐藩士で和歌を好まれた春水尾池翁が顕彰した旨の引用記載(原文漢文。但し、最後に『文政十三年記』とあってこの記載自体は本「耳嚢」の記載よりずっと後の一八三〇年である)があり、ここに出る『尾池春水は名を敬永といい、日野資枝門の歌人国学者。紀貫之を崇拝し、藩主山内豊薙に書を請い、紀子旧跡の碑を建てた。文化十年歿、六十四』とある。

 さて、ところがネット上で検索した結果、この「月の字」の扁額は現存することが分かった。個人サイト「私の大方町」の月字の額は恐らく、これについての現在望みうる最も詳細な情報である。それによると(引用ではコンマを読点に変えさせて戴いた)、伊田の松山寺というのは『明治初年の廃仏棄釈で廃寺となり、その後復興して観音寺と称し、国道沿線に移って』おり、そこに、『紀貫之の書と言われている月字の額が残ってい』るとあり、幡多郡黒潮町伊田に現存する『観音寺は無住の寺であるため、月字の額とそれに関係した文書類は、現在、伊田部落の区長宅に保管されている』とある。さらに、『この「月字の額」は、紀貫之が土佐守として比江の国府に在住していた時、自ら書して庁舎に掲げてあったものが松山寺に移されたと伝えられてきたが、貫之が幡多路へ巡察の足を伸ばしたことがあって、そのおり、松山寺へ立ち寄って書き残したものかもしれない』と考証され、『ある年の暮れ、松山寺の煤掃きの際、梁上に片付けてあったこの扁額を寺僧の誰かが不用物と思って塵焼き場で焼き棄てようとして気がつき、その焼け残りの「月」の一文字のみを取り上げて置いてあったものを、たまたま「尾池春水」が見出したものである』。『「尾池春水」は、後に幡多郡奉行となった政治家であり又歌人でもあるが、天明元年(1781)の春、高知への道中に松山寺に立ち寄って一泊』、そこで『住持台浄に、かねがね聞き及んでいた「月字」を見せてもらった春水は、これは紀貫之の真筆に相違ないと言って、その搨本(とうほん)を作り、京都の日野大納言資枝に送って鑑定してもらったのである。資枝は確かに貫之の筆になるものであるとして、所懐を一首和歌に託して送ってきた』とあって、まさに本話にある日野資枝の和歌が載っている(「搨本」は拓本のこと)。また『春水が寛政3年(1791)に書いた「月字額之記」と、同年篆刻(てんこく)の副本を作成した作成したおり書いた「月字墨本後序」も現在も伊田の区長宅に保存されている。また、月字の額を天下に顕彰した春水の徳を讃えて松山寺の住持龍昌がその遺歯を埋めて建てた「えい歯の碑」が、松山寺の後身である観音寺に現存』するともあって、『尾池春水は文化10年(1813)に没したが、それより後30年余りを経た弘化2年(1845)の貫之没後900年忌にあたり、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘という人が、貫之の月字の搨本(とうほん)を手に入れて感激し、更にそれを模刻して諸方の文筆愛好家に贈って、それらの人々から和歌を求めて一帖を作り、これに「月字和歌集」と題して松山寺に奉納した。上質の紙に筆写したその和歌集が、現在色なお新しくこれも伊田区長宅に保管されている』という現況の委細が記されてあって、実に緻密な事蹟記載に頭が下がる思いがする必読の頁である。また、検索で見つけたページでは松山寺跡とその後身である観音寺の現況写真が見られる。

・「日野一位資枝」「耳嚢 巻之五 日野資枝卿歌の事」「耳嚢 巻之五 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」等、本書では多く既出する。再注しておく。日野資枝(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹(さだもと)・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」日)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 紀貫之の書きたる「月」の字の事並びに日野資枝(すけき)卿の和歌の事

 

 土佐国野田郡水田村と申すところに松山寺という寺があるが、その境内の土の中より出でたるところの、紀貫之の書きたる「月」の字の扁額がある由。

 門前に八十余りの老婆が住んでおるが、その者の話によれば、

「この字はの、貫之というお人が書いたものじゃ。この寺の堂の上に、釘にて打ち付けおいたものなんじゃ。」

と語ったによって、それよりこの方、ずっと敬し奉っておる旨、聴いておる。

 その扁額の拓本から写した図を左に記しおいた。

 近頃、日野一位資枝(すけえ)卿が、その品(拓本にとったるもの)を御覧になられて、

 

 世々遠く有るかなきかの影とめて月をかたみのみづぐきのあと

 

と詠まれた、とのことで御座った。

耳嚢 巻之八 連歌其心自然に顯るゝ事

 連歌其心自然に顯るゝ事

 

 古物語にあるや、また人の作り事や、夫(それ)はしらざれど、信長秀吉、乍恐(おおそれながら)神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公(ほととぎす)を聞(きか)ずとの物語り出けるに、信長、

  鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

とありしに秀吉、

  鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥

とありしに、

  なかぬなら鳴時聞ふ時鳥

とあそばされしは神君の由。自然と其御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、其自然をあらはしたるが、紹巴(ぜうは)も其席にありて、

  鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じけるとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本話のソースをネット上に松浦静山の「甲子夜話」とするものを見かけたが、この「耳嚢」の方が遙かに早い。岩波版長谷川氏注には「百草露」(著者は含弘堂偶斎とも小野高潔ともされ、成立は天保一一(一八四〇)年頃か)の「九」にも載る、とある(これは所持しないので未見)。「甲子夜話」の「第五十三 八」から引いておく(底本は東洋文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。

 

夜話のとき或人の云けるは、人の假托に出る者ならんが、其人の情實に能く協へりとなん。

  郭公を贈り參せし人あり。されども鳴かざりければ、

  なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府

  鳴かずともなかして見せふ杜鵠  豐太閤

  なかぬなら鳴まで待よ郭公    大權現樣

このあとに二首を添ふ。これ悼る所あるが上へ、固より假托のことなれば、作家を記せず。

 なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす

 なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

 

 因みに、

 

織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餠座して喰らふは德の川

 

という落首もあるが、これは幕末の天保期(一八三〇年~一八四四年)或いは嘉永期(一八四八年から一八五四年)に作られたとされるものである。

・「紹巴」戦国期の連歌師里村紹巴(さとむらじょうは 大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)。以下、ウィキの「里村紹巴」によると、里村姓は後世の呼称で、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生まれ。連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)につき、後に里村家を継いだ。その後公家の三条西公条条(さんじょうにし きんえだ)をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など、多数の武将とも交流を持ち、天正一〇(一五八二)年に明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名で、本能寺の変の後には豊臣秀吉に疑われるも、難を逃れたとある。四十歳の時、連歌界の第一人者であった宗養(そうよう:「東国紀行」の作者として知られる連歌師宗牧の子。)の死でスターダムにのし上がるも、文禄四(一五九五)年の豊臣秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹した一件に連座し、近江国園城寺(三井寺)前に蟄居させられた。『連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などが現存している。近衛稙家に古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる』。「逸話」の項には、『辻斬りに遭遇したが、逆に刀を奪い取って追い払ったことがあり、これを信長に賞賛された、と、弟子の貞徳が伝えている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 連歌にはその心の自然に顕わるる事

 

 古き物語にでも記されてあるものか、はたまた、誰かの作り話てもあるものか、それは定かではないが――信長公、秀吉公、そうして――お畏れながら――神君家康公の御三方が御参会なされたる砌り、卯月四月の頃おい、いまだ郭公(ほととぎす)の音を聴かず、との御物語りが場に出でたりけるところ、信長公は、

 

  鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

 

と詠まれたところが、秀吉公にては、

 

  鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥

 

とものされた。すると、

 

  なかぬなら鳴時聞ふ時鳥

 

と遊ばされたは神君家康公であられた由。

 自然と、神君家康公の広大無辺なる御徳化の温順であらせられること、また、信長公の残忍たりしこと、秀吉公の巧妙なる智をめぐらしつつも度量の広きところなど、その自然を句に顕わして御座ったが、たまたま、かの連歌師紹巴(じょうは)も、その席にあって、

 

  鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公

 

と吟じたとか。

耳嚢 巻之八 石中蟄龍の事

 石中蟄龍の事

 

 江州の富農石亭(せきてい)は、名石を集め好むの癖あり。既に雲根志(うんこんし)といへる愛石を記したる書を綴りし事は、誰(たれ)しらぬ者なし。或年行脚の僧、是(これ)がもとに泊り、石亭が愛石の分(ぶん)を一見しけるゆゑ、石亭も御身も珍石や貯へ給ふかと尋(たづね)しに、我等行脚の事ゆゑ更に貯(たくはふ)る事なけれど、一つの石を拾ひ得て常に荷の内に藏す、敢て不思議もなけれど、水氣を生ずるゆゑに愛する由語るを聞(きき)、もとより石に心を盡す石亭なれば、強(しい)て所望して是を見るに、其色黑く一拳斗(ひとこぶしばかり)の形にて、窪(くぼ)める所水氣(すいき)あり。石亭感心無限(かぎりなく)、何卒お僧に相應の代(しろ)もの與(あたへ)ん間、給(たまは)るべきやと深切にもとめければ、我(わが)愛石といへども、僧の事敢て輪廻(りんね)せん心なし、打鋪(うちしき)にても拵へ給はらば、頓(とみ)に與へんといゝしゆゑ、石亭大に歡びて金※(きんらん)の打鋪を拵へ與へて、彼(かの)石とかへぬ。扨(さて)机上に置(おき)、硯の上におくに、淸淨の水硯中に滿(みち)てそのさまいはんかたなし。厚く寵愛なしけるを、或る老人つくづく見て、かく水氣を生ずる石には果して蟄龍有(ある)べし、上天(しやうてん)もなさば大きなる憂(うれひ)もあらん、遠く捨(すて)給へと申けれど、常に最愛なしける石なれば曾(かつ)て其異見に隨はざりしが、有時曇りて空さへきる折柄、右石の中より氣を吐(はく)事尋常ならざれば、大きに驚きて、過(すぎ)し老人の言(いひ)し事思ひ出(いで)て村老近際の者を集めて、遠き人家なき所へ遣すべしといゝしに、其席に有(あり)ける老人、かくあやしき石ならばいかなる害をやなさん、燒(やき)捨(すつ)べしと云(いひ)しを、左(さ)はすまじきとて、人離れたる所に一宇の社堂有し故、彼(かの)處へ納置(をさめおき)て皆々歸りぬ。然るに其夜風雨雷鳴して彼(かの)堂中より雲起(おき)、雨烈敷(はげしく)、上天せるものありしが、跡にて右堂に至り見しに、彼(かの)石は二つにくだけ、右堂の樣子、全(まつたく)龍の上天なしける體(てい)なりと、村中奇異の思ひをなしぬ。其節彼(かの)やきうしのふべしと發意(ほつい)せし者の宅は、微塵(みじん)になりしと人の語りぬ。

[やぶちゃん字注:「※」=「糸」+「蘭」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:硯中の龍の話柄で連関するが、こちらは本格物である。但し、ストーン・フリークの石亭がこうした実体験をしていたら、「雲根志」に書かぬはずもなく、刊行後なら、これだけで単独の奇瑞として書き残して世に喧伝されるレベルの奇譚であればこそ、全くの都市伝説に過ぎぬ。そもそもが話柄の後半は真正博物学者たる石亭なら絶対にしない行為であることは言を俟たない。彼なら危険を冒してでも堂の近くに仮小屋を建てて成り行きを観察するからである。私もそうする。そうして、そういう話柄を作ってこそ本話のホントらしさは生まれてくる。私なら絶対にそう創り変える。それが怪談のリアリズムのキモになる部分だと言ってもよいからである。なお、この話は先行する「耳嚢 巻之三 玉石の事」を容易に想起させ、私はそこで参考に引いた「雲根志 後編卷之二」にある「生魚石 九」の類話を直ちに連想したが、そこで久し振りに「雲根志」を手に執ってそこを開いてみると、何とまあ、その次に「龍生石 十」の項があるではないか!……それを一読したところが、何のことはない、本話はこの「雲根志」の記載から(但し、それは硯石ではなく、石の形状も全く異なる有意に大きなものである)文才のない誰かが主人公を安易に作者石亭に変え、如何にもな、入手奇譚を添えて作り出したところの、まっこと安っぽい都市伝説の類いであったことが判明したのである。以下に引用するので方々、御自身で御判断なさるるがよい(底本は昭和五四(一九二九)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」版を用いたが、句読点がなく、やや読みづらいので独自に諸記号を加えてある。一部ルビに衍字があるので除去した)。

 

     龍生石(りやうせうせき)

 

或縉紳家(しんしんか)に御珍藏の一石あり。五色を備へて、大さ、升(ます)のごとく、尤も美觀なり。故に、御愛賞、甚だ厚し。其初、何方(いづかた)より得給ふや産所もさだかならず。當時、伊藤仁齋(いとうじんさい)を召してこれを見せ給ふに、仁齋云、「是、龍を生するの石なり。高貴の御手にふれさせらるゝ物にあらず。遠くすてさせらるべき」よし申上らるれとも、一かたならぬ御祕藏なれば不興氣(ふけうげ)にて下賀茂(しもがも)より壹丁北の野中に小祠(ほこら)を建て、をさめ給ふ。其後十年余過(すぎ)て、彼(か)の小祠、微塵(みぢん)に碎て龍上天したりと。其時、仁齋、已に沒せられて後也と。漢書(かんじよ)に載る、新豐後湖觀音寺(しんほうごこくわんおんじ)西岸に得たるといふ「龍石」なるもの、是なるべし。

 

 簡単に語注しておく。

●「縉紳家」笏(しゃく)を紳(おおおび=大帯)に搢(はさ)む(=挟む)者の意で高位高官身分の高い人のこと。

●「伊藤仁齋」(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)は江戸前期の儒者。名は維楨(これえだ)。京都の商家の出。朱子学を批判して「論語」「孟子」の原義への回帰を主張した。寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾古義堂を開いて古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層にわたる門弟三千人をあつめた。著作に「論語古義」「孟子古義」等(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

●「壹丁」約百九メートル。

●『新豐後湖觀音寺西岸に得たるといふ「龍石」』「新豐」は現在の広東省韶関市新豊(しんほう)県か。「後湖觀音寺」は不明。但し、中文の「大紀元文化網」の「古籍中關於龍的記載:五色石」によれば、「梁四公記」に出るとして(一部の記号と字体を変更した。下線やぶちゃん)、

天目山人全文猛、在新豐後湖觀音寺的西岸、得到一塊如鬥大的五色石頭。石頭的紋彩盤旋緊蹙、好像有夜光。全文猛認爲它是神異之物、就把它獻給了梁武帝。

樑武帝很高興、把五色石放在大極殿旁邊。將近一年多一點的時間、這塊石頭忽然光芒四射、發出雷一樣的響聲。樑武帝以爲這是不祥之物、就召來傑公、把這石頭給他看。傑公説、「這是上界的活龍變成的石頭、不是人間的東西。如果用洛水的赤礪石和上酒、合成一種藥、用這藥把這石頭煮沸一百次、這石頭就變得柔軟可食了。把它雕琢成飲食器皿、能使人延長壽命。只有有福有德的人才享用得了的。如果有聲、龍就要下來取它了。」

梁武帝派人去取來赤色礪石、就像傑公的那樣,命工匠把石頭雕琢成五斗大的盆、用來盛御膳。用這種盆盛的飯菜、格外香美、與眾不同。把雕琢剩下的石頭、又放到原來的地方。

忽然有一天、一條紅色的龍、張牙舞爪地掉進大極殿、抱著那些石頭就騰躍而去。梁武帝派人推求驗此事、原來這塊五色之石是普通二年、始平郡石鼓村、鬥龍競賽用的石頭。雕成的那個盆、侯景之亂以後、也不知道去哪兒了。

とあるのを指すのであろう(言っておくが私はこの漢文が読めている訳ではない)。

・「石中蟄龍」「せきちうちつりやう(せきちゅうちつりょう)」と読んでおく。老婆心乍ら、「蟄龍」とは普通は地面の下に凝っと潜んでいる龍の謂いで用いるのであって「蟄龍」という種を指すものではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。これも言わずもがな乍ら、一般には活躍する機会を得ずに世に隠れている英雄を喩える語として用いる。

・「石亭」木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年四月六日)。奇石収集家で本草学者。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。彼の亡くなった日付を見て戴きたい。私はこの話柄、石亭が亡くなったことを聴き知った誰彼が、最早、本人もおらずなったればこそとて、作り出したまさに出来立てのホットな都市伝説であった可能性を感ずるのである。

・「打鋪」仏前の仏具などを置く卓上に敷く敷物。

・「さへ」底本は右に『(冴)』と傍注する。

・「やきうしのふ」底本は右に『(燒失)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 石の中に潜みし龍の事

 

 近江国の富農に木内石亭(きのうちせきてい)と申すは、これ、名石を集めては好むところの、奇体なる性癖の持ち主で御座った。既にして「雲根志」と申す、己れの愛石やそれに就いての薀蓄を、こと細かに記したるところの奇書を綴ったることは、これ、誰(たれ)一人知らぬ者とてない。

 

 さて、とある年のことで御座った。

 行脚の僧の、この石亭が元に泊ったるが、石亭のその異様なる愛石の思い入れに、よう、耳傾け、その集めたるところの品々をも、これ、如何にも興味深(ぶこ)う見て御座ったったによって、石亭、すかさず、

「……御身も、これ、珍石を蔵しなさるるか?――なさるる、ナ?!」

と尋ねたところが、

「……いや……我ら、行脚の身の上なれば……さらに何かに惹かれて貯うると申すことは御座らねど……ただ……実は……一つの石を拾い得て……これ、常に荷の内に蔵しては……御座ってのぅ。……これと申して、格別なる不思議も御座らねど……その石、これ、いつ何時も……水気(すいき)を生ずるがゆえに……いや、お恥ずかしいことに……秘かに偏愛致いては、御座る……」

と語ったるを聴くや、これはもう、もとより、石に執心尽くしたる、執心が石のように堅固なる石亭のことなれば、殊更に切に一見せんことを請いては、半ば強引に引き出させて、しげしげ、見たところが……

――その色、黒うして、まずは大人の一拳(ひとこぶし)分ほどの大きさと形を成せるものにして、表面に窪んだるところあって、そこには、これ、はっきりと、水気(すいき)のあるが見てとれた。

 石亭、深く感心致すこと、これ、尋常ならず、

「何卒! そうさ! 御僧に相応しきところの、これ、如何なる代物(しろもの)にてもよい! これ、必ず、差し上ぐるによって! 一つ、この石! これ、給はることは出来ませぬかッ?!」

と、半ば目を血走らせつつ、その石を請うた。

 すると、僧は、

「……我が愛石とは申せ、そもそも我ら、僧なればこそ、敢えて妄執存念因縁によって六道(ろくどう)を輪廻せんという心は、これ毛頭、御座らねばこそ……それでは……そうさ、ただの打敷(うちしき)なんどを、これ、拵えて下さったを頂戴致いたならば、これ、仏の道にも外るること、御座いますまい。……今直ぐにても、この石、貴殿に進ぜんと思うて御座る。」

ときっぱりと請けがったによって、石亭、大きに歓び、即座に金襴(きんらん)の打敷を拵えさすると、それを僧に与え、かの石と交換致いたと申す。

 

 さてその翌日のこと、石亭、この石を文机(ふみづくえ)の上に置き、また、それを取って、横に置いた硯の上に、徐ろに移し置いたところが……これ……

――如何にも清浄なる水の

――硯の池の中(うち)に満ち満ち

――そのさま

――全く以って曰く言い難き

――一種の奇瑞……

……とてものこと、あれこれ評すべきことも憚らるるほどの奇跡の石にて御座ったと申す。

 

 石亭はそれ以後、この石を格別なものと見做し、懇ろに扱っては、殊の外、偏愛致いて御座ったと申す。

 

 ところが、近隣に住もうて御座った、とある老人が石亭を訪ねた折り、件(くだん)の水気を出だす愛石をつくづくと見るや、

「……かくも水気を生ずるところの石には、これ、果して龍の封じ込められておるに相違ない!……昇天なんど成したならば、これ、貴殿にとって大いなる憂いともならんかと存ずる!……されば、言い難きことなれど、これ、何処か遠くへ捨てらるるに、若くは御座らぬ!」

と、語気強く言うたと申す。

 されど、流石に、寵愛一方ならぬ石にてあったればこそ、石亭、遂にその忠言には随わずに過ぎたと申す。

 

 ところが、その後の、とある日のことで御座った。

 黒雲俄かに湧き起こって、空の隅々に至るまで、遮り覆って御座った折柄……

――かの石

――その中(うち)より

――尋常ならざる気を

――大きに吐き始めた……

……されば、石亭を始め、屋敷内の下々の者に至るまで、これ一人残らず、その異様なる噴気のさまに大いに驚いた。

 石亭は、過ぎし日の、かの老人の忠告を思ひ出だいて、取り敢えず、村の老人やら近際の者やらを屋敷に集めて、

「……ともかくも、これ、遠き人家のなき所へ、うち遣らずばなるまい……」

と申したところが、その席にあった、さる老人、

「――かくも妖しき石ならば、これは、如何なる恐ろしき害を齎すか、分かったものではない! 即座に燒き捨つるに若くはなし!」

と乱暴に言い捨てた。

 されど、ここに至っても石亭、未練のあったものか、 

「……いいや……それはいくらなんでも……出来ぬ相談じゃてのぅ……」

と押し止め、「ともかくも」と、同地より暫く行ったところの、人離れたる所に、一宇(いちう)の小さき無人なるお社(やしろ)のあったによって、「とりあえずは」とて、その御堂(おどう)へ納めおいて、皆して帰ったと申す。

 

 然るに、その夜のこと、激しき風雨の中に、尋常ならざる雷鳴の致いたかと思うと、かの堂中より、もくもくと雲の起こって、天海の海底(うなぞこ)に大穴の空いたかと思わるるほどの、土砂降りの雨、これ、激しく降る!……と……

……何やらん

……天へと昇って行く……

……うねりつつ……

……長々としたるものの……

……影の……

……見えた……

 

 翌日は晴れた。

 されば石亭と村人の何人かが、かの堂へと参って見てみたところが……

――かの石は……

――二つに砕け散っており……

――堂前の扉(とぼそ)はばらばらに吹き飛び……

――堂の天井の真ん中には……

――これ、大きなる穴の……

――内側から、何ものかが突き破ったように開いて……

――真っ青な空が……のぞいておった……

 

「……いや! かの石の、かの御堂のさまから見て、これは全く以って、龍の昇天致いたに相違なき体(てい)じゃった!」

と誰彼の噂にて、村中の者は皆、奇異の思いをなしたと申す。……

……因みに……かの折りに「焼き捨つべし」と発意(ほつい)致いたる老人の屋敷は……これ……何ものかが上より押し潰したかのように……粉微塵となって……御座ったそうな……

 

 これ、さる知人の語って御座った話である。

2014/09/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 注連飾りいろいろ

M480

図―480

M481484

図―481[やぶちゃん注:右端の図。]

図―482[やぶちゃん注:右から二番目の図。]

図―483[やぶちゃん注:左上方の図。]

図―484[やぶちゃん注:左下方の図。]

M485_2

図―485

M486

図―486

 

 新年用の装飾品は稲の藁で出来ていて、いろいろな方法にひねったり、編んだりしてある。それ等を家の入口の上と、家庭内の両の上とにかける慣(ならわし)がある。意匠の多くは美しく、そのある物は構造上に多分の手並を示している。最も意匠が美しくまた最も普通なものの一つは、図480に示したものである。現物は長さ二フィート以上、下に下った部分は三フィートもあった。捲いた場所は舟を現しているらしいが、若し然りとすれば、この舟の墳荷は、稲の藁でつくった球三箇、松の小枝、及び鮮紅色の漿果(み)若干である。下には稲の束がすこし下り、球の極には小さな金被せの葉がつき立ててあり、全体として華美で人の目を引く。別の物(図481)は藁の花輪で、稲の束と藁とが下っている。図482は戸の上にかける物で、藁をより合せて、最後に一つの点にまで細くしたものである。これ等のある物は、長さ六フィートに達し、この形式は神道の社でよく見受ける。図483は戸口の上にかける流蘇(ふさ)、図484は五インチの距離をおいて繩の股(こ)が一つ下るように撚った、藁繩である。これは、巨大な玉総(たまふさ)のように捲いておくが、捲きを戻して部屋の側壁にかけ、象徴的な形に切った白い紙を、垂下する股の間々で、縄に結びつける。ある場合、この種の装飾は、非常に手が込んでいる。図485は門の上にかける、複雑な構造物を現す。中央には乾燥した海藻を下につけた海老、その両側には乾した柿があり、羊歯(しだ)の葉を懸垂させ、神道の様式に切った紙をつけ、そして全部が松の木によって支持される。色を使わないで、その花々しい外見を示すことは困難である。図486は、門の前にある装飾を示している。濃緑色の切り竹は高さ十二フィートで、巨大な風琴管(オルガン・パイプ)のように見えた。これ等は松の小枝の群叢から聳え立ち、底部は藁繩でしっかりとくくられ、下には奇麗に盛土がしてあって、その土の散逸を防ぐ為に、藁の環があった。

[やぶちゃん注:注連繩(しめなわ)・注連飾りのいろいろである。ネット上の諸データ(グーグル画像検索「注連縄 種類で出るもの)を参考に解説しておく。

●図480は一般には神棚に附けるさいに附される前垂れ附きの「鼓胴注連(つづみどうじめ)」と呼ばれるものに蓬莱が載ったもので、この太いタイプで一方が細くなっているもの(私のいる神奈川では「一文字」と呼ばれる。通常は向かって左が細くなるが、伊勢神宮のある三重県伊勢地方では逆向きになる)は「大根注連(だいこんじめ)」と呼ばれる。

●図481は「輪注連(わじめ」「輪飾り」と呼ばれるもので、東日本でよく玄関先に見られる。

●図482は図480に類するものを立てに描いたものであるが、これは有意に細いので「牛蒡注連(ごぼうじめ)」と呼ばれるものである。

●図483は注連縄の種類というよりも豊穣を齎す雨を模した注連縄の下に下げる藁の「〆(しめ)の子」と呼ばれるものであるが、これにやはり雨を齎す雷を模した例の紙垂(かみだれ。モースが言う「象徴的な形に切った白い紙」のこと)を間に垂らした簡素なタイプも一般的によく見られる。

●図484は一見奇体だが、これはどうも、先の「大根注連」とそれに付随させて垂らす〆の子を附けた本体に横に並行して配すべきそれを、製造した際の置かれたままに描いたもののように私には見える。そうでなく特殊なものであるのであれば、是非とも御教授を乞うものである。

●図485かなり豪勢だが、これが一番我々にとって馴染みのある注連飾りである「玉飾り」あろう。

 注連繩は無論、正月飾りだけではない。ウィキ注連縄」によれば、『現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を持つ。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる』。『御旅所や、山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られる』。『また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である。現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る』。日本神話では『天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされ』、稲作信仰にあって『神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる』。古神道にあっては、『神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた』とある。同ウィキの「巻き方・注連方(しめかた)」の項には『縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの二通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作』り、『左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある』とし、『大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながらしめ、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく』と記す。また注連飾りの『本来の意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするものである。現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版