フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 84 義仲の寢覺の山か月悲し | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 85 中山や越路も月はまた命 »

2014/09/27

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅰ)

   ●鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は鎌倉の中央部に位(くらゐ)し、昔松ケ岡の地なり、北は大臣山を負ひ、西は源氏山、白旗山を望み、東は屛風山、絹張山に連り、南、由井濱を距る行程十八町、一帶の松原、第三の鳥居は遠く海濱にあり。

[やぶちゃん注:長いので、分割注する。読み易さを考え、各段落で分け、注がなくても一行空けを施す。年号の西暦換算は面倒なので文中で当該年の直下に《 》四桁で示した。また、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」(一巻総てが鶴岡八幡宮の記載に費やされてある)及び同「卷之三」(こちらも一巻総てが鶴岡八幡宮関連資料とその周辺施設旧跡の詳説)の本文及び私の注を参照されたい。本文はそれらに依拠している記載が多い。]

 

本社は康平六《一〇六三》年秋八月、伊預守源賴義勅を奉(ほう)して安部貞任征伐の時、丹祈の旨有て潛(ひそか)に石淸水八幡宮を勸請(くわんぜう)し、瑞籬を當國由比郷に建つ、永保元《一〇八二》年二月陸奧守源義家修復を加ふ、其後治承四《一一八〇》年十月十二日、源賴朝祖宗(そゝう)を崇めんために、小林郷松ケ岡今の地に遷し、舊地の名に仍(より)て鶴岡八幡宮と稱す、明治十六《一八八三》年勅して國幣中社に列せらる。

[やぶちゃん注:「鶴岡八幡宮年表」(鶴岡八幡宮編)によれば、「國幣中社に列せら」れたのは明治一五(一八八二)年九月十三日である。]

 

蔚(うつ)たる社壇、古松老杉(こしようらうさん)深く鎖して神々(かうかう)しく、端なく想起(おもひおこ)す七百年來治亂興亡の夢、仰(おふ)げば朱殿碧瓦(しゆでんへきぐわ)の莊麗、瑞籬嚴めしく築ける、源氏山の烏の啼かぬ日はあるべきも、鶴岡に八幡宮のましまさぬ日ぞなき、まことに靈(くしび)の神なりけり。

[やぶちゃん注:「靈(くしび)」は「奇び」とも書き、バ行上二段活用の動詞「くしぶ」(霊ぶ/奇ぶ:霊妙に見える・不思議な状態になるの意)の連用形が名詞化したもので、不思議なこと・霊妙なこと、また、そのさまをいう上代語。]

 

鳥居  治承四《一一八〇》年十二月、神前に始て鳥居を建てらる、今三基あり第三の鳥居は、由比の濱にあり、大鳥居と云ふ、建保三《一二一五》年八月、暴風により顚倒し、十月新造せらる、寛元三《一三〇五》年十月鳥居再造あり、延元元《一三三六》年七月、雷(らい)の爲に損(そん)す、延文三《一三五八》年四月、造營あり、嘉慶二《一三八八》年六月、上杉安房守憲方入道道合造建す、應永二十一《一四一四》年三月、管領持氏、上杉右衛門佐氏憲入道禪秀を奉行として建立あり、足利成氏の頃は、毎年二月、神殿に參籠の時、大鳥居を廻(めぐ)りて、七度詣をなせるを例とす、文明十八《一四八六》年、聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌(わか)を詠す、僧萬里が記に、兩楹の大さ三圍と載せ、又詠せし句あり、十九年、僧堯惠參詣の時、鳥居邊の風景を賞す、名所方角抄には、磯邊十八町に、大鳥居ありと記せり、天文四《一五三六》年正月名越安養院の僧玉連、瑞夢により、本願主(ほんぐわんしゆ)となり、再建(さいこん)の事を企つ、四月玉運北條氏綱の許(ゆるし)を得て、十方を募緣(ぼゑん)す、十月より六年七月に至り、材木運致(うんち)せし事見えたり、九年正月、釿始あり、其後匠作の事姑(しばら)く廢し、十二年を歷(へ)、二十一年十一月に至り、北條氏康再ひ匠功(せうこう)を興(おこ)し、翌二十二年四月落成す、按ずるに關東兵亂記、小田原記等には、氏康建立の年を謬(あやま)れり、古は三基共木にて造立せしを、寛文八《一六六八》年再建(さいこん)せられし時すべて石の鳥居とせらる、(新編鎌倉志云大鳥居兩柱の間下にて六間半、高さ三丈一尺五寸、石柱のめぐり一丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり、一二の鳥居は兩柱(りやうちう)の間下にて四間、柱のめぐり七尺なり、又云赤橋の前の鳥居より間た四町十五間半にして又鳥居あり、二の鳥居と云ふ、二鳥居より間六町四十五間にして鳥居あり、三の鳥居なり是を大鳥居と云ふ、中畧大鳥居より波打際まで五町あり云云)東鑑に寶治元《一二四七》年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌(もくはい)に記して、鳥居前に立しと見えしは、第一の鳥居を指(させ)るせなるべし、此餘横大門の東西に、木鳥居各一基、〔四足あり〕上宮社地の西門内に、石鳥居一基あり、天正の修理圖(しゆりづ)を閲(けみ)するに、赤橋の内に又一基あり〔内の鳥居と記す、〕鎌倉年中行事にも、此鳥居の事見えたり、廢せし年代を知らず。

[やぶちゃん注:鳥居の名称が現在のものとは全く異なる点に注意されたい。本誌は「新編鎌倉志」と同様、古い呼称を用いている。現在、我々が一の鳥居と称している一番由比ヶ浜に近い鳥居は「大鳥居」「三の鳥居」であり、鶴ヶ岡八幡宮社頭の、現在、三の鳥居と呼んでいるものが、当時の「一の鳥居」である。なお、「一間」は約一・八メートル、「一丈」は三・〇三メートル、「一尺」は三〇・三センチメートル、「一寸」は三・〇三センチメートルである(この換算注は以下省略する)。

「聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌を詠す」「廻国雑記」のこと。「鎌倉攬勝考卷之二」の私の注に当該箇所全部を引用してある。

「萬里が記」「梅花無尽蔵」。「鎌倉攬勝考卷之二」に出、私が注で訓読してある。「句」とあるのは漢詩を指す。

「兩楹」「りやうはしら(りようはしら)」と読んでいよう。

「三圍」「みめぐり」と訓じていよう。大人が両手を一杯に広げた長さとしての「一尋」(一・八一八メートル)で換算すると五・四五メートルとなる。現在の石造の一の鳥居(最も海に近い鳥居)の左右の石柱円周は約三・八メートルしかないから、当時の木造のそれはとてつもなく大きなものであったことになる。

「僧堯惠參詣の時」堯恵「北国紀行」を指す。以下に「鎌倉攬勝考卷之二」に出る本文と私の校訂した和歌を示す。

   *

あくれば鶴が岡へ參りぬ。靈木長松つらなり森々たるに、玉をみがける社頭のたゝずまゐ、由比の濵の鳥居はるかにかすみわたりて誠に妙なり。

 

 吹殘す春の霞も奥おきつ洲に立てるや鶴が岡の松風

   *

「名所方角抄」宗祇作(後世の偽作であろう)と伝えられる成立年未詳(寛文六(一六六六)年版本刊)の国別に分類された歌枕の解説書。

「募緣」修復などのために浄財を募ること。

「運致」運搬搬入。

「釿始」「てうなはぢめ(ちょうなはじめ)」と読み、吉日を撰んで、大工が礼服を着用、天神地祇と職業神たる聖徳太子を祀り、神酒・鏡餅・肴などを供えて行なう起工祈願の儀式。

「匠功」建築作業。

「關東兵亂記」「相州兵乱記」とも言う。中世関東戦乱の戦記物。四巻。序によれば、後北条氏の家人が先祖の記録を編したものとする。鎌倉公方の歴史に始まって、永禄七(一五六四)年の国府台(こうのだい)合戦、武田氏の箕輪城攻めまでの関東の諸兵乱を記す。後北条氏勃興史が中心であるが、史料としての利用には厳密な史料批判が必要。次の「小田原記」の前半の内容と類似する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「小田原記」「北条記」とも言う。小田原後北条氏の台頭から滅亡に至る五代、鎌倉幕府滅亡の元弘三(一三三三)年頃から天正八(一五九〇)年までを東国の隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物。六巻(類似書名に「小田原北条記」があるが、これは江戸期に江西逸志子が著した別書)。

「新編鎌倉志云……」「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「大鳥居」の条を見られたい。詳細既注済み。

「東鑑に寶治元年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌に記して、鳥居前に立し」「吾妻鏡」宝治元(一二四七)年五月二十一日の条を引いておく。

〇原文

廿一日癸酉。若狹前司泰村獨歩之餘。依背嚴命。近日可被加誅罰之由。有其沙汰。能々可有謹愼之旨。注簡面。立置鶴岡宮鳥居前。諸人見之云云。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日癸酉(みずのえとり)。若狹前司泰村、獨歩の餘りに、嚴命に背くに依つて、近日誅罰(ちうばつ)を加へらるべきの由、其の沙汰有り、能々(よくよく)謹愼有るべきの旨、簡(ふだ)の面(をもて)に注し、鶴岡の宮の鳥居前に立て置く。諸人之を見ると云云。

「一の鳥居」社頭(太鼓橋前)の鳥居(現在の三の鳥居)。

「横大門の東西」流鏑馬馬場の東西の神域結界を示す位置のことであろう。

「天正の修理圖」天正十九(一五九一)年秀吉が家康に命じた鶴岡の修理に関わる「紙本墨書 鶴岡八幡宮修営目論見絵図」のこと。鶴岡八幡宮公式サイト内の「宝物」のこちらを参照されたい。但し、この修理は文禄の役などの影響により、下の宮の工事のみで中断してしまい、上の宮も含めた全体の修理が終わるのは、江戸幕府成立後、家康・秀忠の二代に亙った造営による寛永元(一六二四)年のことであった(後半部は個人サイト「鎌倉史跡・寺社データベース」の「鶴岡八幡宮」に拠った)。]

 

池  一の鳥居を過ぎて、左右に蓮池(はすいけ)あり、石梁(いしばし)を架し踈水相通ず。東鑑に、壽永元《一一八二》年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停(とめ)られて池に堀(ほ)るとあるは此池なるべし池中(ちちう)に七島あり、相傳賴朝卿平家追討の時、御臺所政子の願いにて、大庭平太景義を奉行として社前の東西池を掘(ほ)らしむ、池中の東に四島、西に四島、合て八島を東方よりこれを滅(ほろぼ)すと祝す東に三島を餘す、三は産なり、西に四島を置(をく)、四は死なり、と云心なりけるとぞ、又池の東に白蓮(しらはす)、西に紅蓮(あかはす)を植(うゑ)て源平の色を表す、是又厭勝の義なりと云ふ。元弘の亂に新田義貞首實檢の時、此池にて刄(やいば)の血を洗はしむ。天文二《一五三三》年北條氏鋼、社頭再建(しやとうさいけん)の時池中を踈鑿(そさく)す、十三年六月氏康か出せし社中の掟書に、二月八月の兩度、池中を掃除すべき由見ゆ。今は七島も全く埋もれて址を殘留(とゞめ)ねど、昨日今日曉靄(ぎやうあい)濛々(もうもう)せるの裡(うち)、忽ち聲ありて香の遠く心に沁みたらんいかに。

[やぶちゃん注:この源平池については、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「辨才天社(べんざいてんのやしろ)」の注に附した享保十七(一七三二)年版の彩色の鶴岡八幡宮寺境内図をご覧になられることをお薦めする。

「壽永元年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停られて池に堀る」は「吾妻鏡」の養和二(一一八二)年四月二十四日の条(養和二年は一ヶ月後の五月二十七日寿永に改元されている)。

○原文

廿四日甲子。鶴岳若宮邊水田〔號弦卷田。〕三町餘。被停耕作之儀。被改池。專光。景義等奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

廿四日甲子(きのえね)。鶴岳若宮邊の水田〔絃卷田(つるまきだ)と號す。〕三町餘りの耕作の儀を停め、池に改めらる。專光(せんこう)・景能、之を奉行す。

「絃卷田」については、私が「吾妻鏡」の検索で参考にさせて頂くことの多い、サイト「鎌倉歴史散策加藤塾」の中の「源平池について調べてみよう」に、「三町」(約三万平方メートル弱に相当)という数値を現在の源平池と比較した際、約『三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう』と記されており、加藤氏は飛騨高山の民家園でこれを実見されており、その際の田植えの方法について、田圃を丸く作って、中央に棒を立てて縄を結び、伸ばしたきったその縄の一方の端に三〇センチ間隔で苗を植えながら柱の周りをぐるぐると回っていく、すると『自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に縄の巻きついた柱を抜く』と述べられておられる。他にも、この辺りが古くから広大な湿地であり、そこに吉祥のシンボルである鶴がやってきては、稲籾を播いたからとか、神域として武将がここで弓弦を外したことによるといった由来説があるようだが、加藤氏のこの見解が最も腑に落ちるものである。リンク先は豊富な画像と、加藤氏の膨大な資料の渉猟によって成された、素晴らしいページである。一読をお奨めする。

「厭勝」は「えんしよう(えんしょう)」と読み、呪(まじな)い。また、呪いによって他者を屈服させることをいう。

「踈鑿」「そさく」(「踈」は「疎」の異体字)とは土地を切り開いて水や川を通すことをいう。

「忽ち聲ありて」この「聲」は何の声であろう? 風雅なる感懐のコーダながら、ちょっと気になる。「曉靄」とあるから鶏鳴かしらん?

 

辨天社 東蓮池の中嶼に安置したりき其以前は琵琶橋の邊にありしを、養和元《一一八一》年爰に移せりと云ふ、神躰(しんたい)は運慶作、長三尺餘〔膝に琵琶を横たへたり俗に云小松大臣の持たる琵琶なりと〕背に、文永三《一二六六》年九月の銘あり、天文九《一五四〇》年、北條氏綱再建す、伶人八員の預る所とぞ、新編鎌倉志に二間に一間の社なり云々今七島とともに基礎を絶ちぬ。

[やぶちゃん注:「小松大臣」平重盛。六波羅小松第に居を構えていたことに由来する呼称。

「今七島とともに基礎を絶ちぬ」実は当時は、おぞましい廃仏毀釈によって破壊されてしまっており、全く原型をとどめていなかった。後、戦後の昭和三一(一九五六)年になってやっと再興されたもので、現在の社殿に至っては鶴岡八幡宮創建八百年に当たる昭和五五(一九八〇)年になって、文政年間の古図を本に復元された極めて新しいものである。

「伶人」「れいじん」と読み雅楽を奏する楽人(がくにん/がくじん)のこと。]

 

赤橋 社前、兩個蓮池の間に架す、穹窿(きうりう)虹の如し、石の反橋(そりはし)なり、〔長五間幅三間〕昔時(せきじ)板橋にして、朱を以て塗抹す、故に名く、壽永元《一一八二》年五月、新に架する所なり、建保元《一二一三》年五月、和田の亂に、土屋大學助義淸、橋邊(きやうへん)にて流矢に中り、命(めい)を殞(おと)す、鎌倉將軍社參の時は、此橋邊にて下乘(げじよう)あり、寶治元《一二四七》年六月、三浦泰村を誅する時、安達泰盛軍兵を率て、此橋を渡る、文永三《一二六六》年七月宗尊親王歸洛の時橋邊に輿を駐(とゞめ)て遙拜あり、且倭歌を詠せらる文和元《一三五二》年閏二月、橋邊にて三浦新田の輩(はい)、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり、永正十七《一五二〇》年七月、橋本宮内丞某再造す、天文八《一五三九》年より十一年に至て、修理(しゆり)の事あり。

[やぶちゃん注:「三浦新田の輩、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり」とは、新田義貞次男義興や三浦介高通(たかみち)らが後醍醐天皇皇子実良親王を奉じた南朝軍として、この年の閏二月十八日に鎌倉の一時攻略に成功したものの、敗走した足利尊氏が反撃に転じ、三月には鎌倉を奪還、三浦・新田勢が逆に鎌倉を追われたことを指す。「高掃部助、石堂左衛門助」は尊氏方の高師義(こうのもろよし)らか。]

 

新橋  赤橋の側に架す、板橋なり、鎌倉年中行事に、此橋の事見ゆ。

 

二王門址  赤橋を渡り二百歩、皇族下乘(くわうぞくげじやう)の掲示札(けいじふだ)あり、壇を築きて左に手洗鉢(てうづばち)あり、左右梅林(ばいりん)にして正面は拜殿なり、昔此地に二王門あり、額に鶴岡山と題す、曼殊院良恕法親王の筆(ふで)にして、兩傍に金剛力士の像を置く、今取拂はれぬ。其他輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂も此近邊(あたり)にありしものか。樹蔭鬱せして啼鳥(ていちよう)聲(こゑ)幽(かす)かなり。

[やぶちゃん注:流鏑馬馬場の先にあって、当時の境内がここに更に結界を造っていたことが判る。ここにあった仁王像は廃仏毀釈後、寿福寺に移されたとされ、寿福寺本堂内には旧鶴岡八幡宮寺仁王門仁王像と伝える二体が現存する。「新編鎌倉志卷之一」に画像を配してある。以下の廃仏毀釈によって完膚なきまでに破壊された「輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂」も「新編鎌倉志卷之一」に詳述されており、往時の写真も含めて注記してあるので是非とも参考にされたい。

「歩武」は「ほぶ」と読み、厳密には距離単位で「歩」は六尺(一八一センチメートル)又は六尺四寸(一九三センチメートル)、「武」はその「歩」の半分の意であるが、転じて僅かの距離、咫尺(しせき)の意となる。ここも僅か二百歩あまりという用法であろう。

「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]

 

拜殿  正面上の地へ登る石階(せきかい)の下にあり。

 

石階 六十二級、此石階を登り、北に向(むかひ)て本社へ行(ゆく)なり、是より上を上の地と云ふ、本社あり、是よら下を下の地と云ふ、若宮あり。

[やぶちゃん注:「級」言わずもがなであるが、階段を数える際の数詞である。

「若宮」とは下の宮のことである。源頼義が勧請した本社濫觴の地である由比若宮(元八幡。現在の材木座一丁目に現存)とは違うので注意が必要。]

 

銀杏樹 石階の四方に大なる銀杏樹(いてうのき)あり、東鑑に承久元《一二一九》年正月二十七日、今日將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲め鶴岡八幡宮に御參刻也夜陰に及て神拜(じんはい)の事終て漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉石階の際(きは)に窺來り、劔(けん)を取り丞相を奉ㇾ侵とあり。相傳ふ公曉、此銀杏樹の下に女服(ぢよふく)を著(つけ)て隱れ居て、實朝を弑すとなり、隱れ銀杏(いてう)の名あり。

[やぶちゃん注:先に述べた隠れ公孫樹は勿論、この女装なども私は後世の偽説と思っている。

「酉刻」午後六時頃。]

 

樓門 石階盡くる所樓門あり、額に八幡宮と題し、左右に隨身を置き以て廻廊に通す、正面は本殿にして上の宮と稱す。

 

上宮 祭神三座、中央は崇神天皇、右は神功皇后、左は比咩大神、本社、幣殿、拜殿、建續(たてつゞ)けり、建久二《一一九一》年、新に勸請ありし社是なり、四月上棟(じやうとう)の儀あり、十一月、遷宮の式を行はる、六年二月、賴朝參宮の時、幣殿に著座、法華經供養を聽聞あり建曆二《一二一二》年十月、神前に羽蟻(はあり)羣飛し、建保元《一二一三》年八月、黄喋(くわうてふ)集る、嘉祿二《一二二六》年二月、神樂(かぐら)の時、神扉(しんひ)數刻開かず、十月、神殿修理により、神體を下宮に遷座す、程なく落成、正遷宮あり、建長二《一二五〇》年五月、修造の事始あり、四年五月、神戸開かず、正和五《一三一六》年十一月、再建成て正遷宮あり、延元元《一三三六》年、世上祈禱して、別當頼仲、六月より百日の間、神殿に參籠す、永德《一三八一~一三八四》の頃に至り、社地の舊名を以て、當社を松岡八幡宮と稱し、社務職も別に補任あり、應永、永享中《一三九四~一四四一》の物、尚松岡の號(がう)見えたり、其後は絶て所見なし、應永二十四《一四一七》年閏五月、管領持氏、常州北條郡宿郷を、社領に寄進し、三十二年六月、武州河越の地を、供料に寄す、永享四《一四三二》年十月、小田原關隘の征錢(せいせん)を以て、當社修理の料に宛つ天文元《一五三二》年六月、神輿(しんよ)を拜殿に安し、諸人群參す、三年十月、北條氏鋼の命に依て、諸士募緣して寶前(ほうぜん)に燈明(とうめう)を置けり、八年十一月、轉經舞樂(てんきやうぶがく)等(とう)あり、北條氏綱父子聽聞す、天正二《一五七四》年閏十月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡(しんきやう)及ひ雲板(くもいた)を寄附す、文政四《一八二一》年正月十七日の夜、囘祿(くわいろく)に罹り、十一年御再建あり例祭八十五日相撲(すまゐ)等(とう)あり、東鑑に據に、文治三《一一八七》年八月十五日、始て放生會(ほうぜうゑ)、及流鏑馬を行なはれ、弓馬堪能の輩(はい)を填て、射手(しやしゆ)に充(あて)らる、此時諏訪太夫盛澄に命して、流鏑馬其外射藝を施さしむ、四年八月よら舞樂(ぶがく)を興行す、五年の祭期(さいき)には、賴朝奧州の役に在へきを以て、七月放生會、舞樂、馬長、競馬、相撲等を行はれ、祭期に及て、亦例の如く放生會、舞樂、馬長、流鏑馬等あり、建久元《一一九〇》年に至り、祭事繁劇(はんげき)なるを以て、兩日に分たれ、十五日、放生會、舞樂、十六日、流鏑馬、競馬、相撲、田樂(でんがく)等(とう)行はる、此日流鏑馬の射手、一兩輩闕如(けつぢよ)するを以て、大庭平太景能吹擧(すゐいよ)して、囚人河村三郎義秀に射せしめられ、且三流の作物を射て失禮なきを以て、其罪を免さる而來兩日の神事、年毎に歷々として記載す、又增鏡にも、當社放生會の事見えたり、按ずるに式月(しきげつ)障(さは)りある時は、九月或は十一月、十二月等に、行はれしなり、又法會のみにして、流鏑馬等を廢せし事あり、延文三《一三五八》年八月、放生會の用途として、社領武州鶴見郷より、十二貫文を送進す、永和三《一三七七》年八月亦然り、應永二《一三九五》十一年八月、管領持氏、常州那珂東、國井郷を寄進す、是放生會料所、武州津田郷の不足分を補ひしなり、享德《一四五二~一四五五》の頃は、十六日に猿樂(さるがく)を催し、管領の見物ありし由、成氏年中行事に見ゆ、天文中《一五三二~一五五五》、放生會の時、北條氏綱、神馬(しんめ)太刀等(とう)を獻(けん)す、其後放生會は廢して、流鏑馬相撲のみ、僅(わづか)に古例(これい)の萬一を存す、又年中の祈禱法會、是建久三《一一九二》年正月元日、始て行はれしなり、二月、十一月、初卯(はつう)の日、七月七日、八月十六日、此四度法華經供養あり、按ずるに東鑑正治二《一二〇〇》年二月、當宮にして經供養(きやうくやう)の事、始て見えしより往々記載す。

[やぶちゃん注:「關隘の征錢」「せきあいのせいせん」と読む。「隘」は道や土地などが塞がって細い意であるから、関所の通行税のことであろう。

「北條左衛門大夫氏繁」北条康成(氏繁)(やすしげ/うじやす 天文五(一五三六)年~天正六(一五七八)年)のこと。以下、ウィキ北条氏繁によれば、福島正成の子とされる北条綱成の嫡男で玉縄城主。後に岩槻城城代・鎌倉代官なども務めた。天文五(一五三六)年に後北条氏の家臣北条綱成の嫡男として誕生、『母方のおじにあたる北条氏康に仕え、偏諱を賜って康成と名乗る(生涯の大半はこの諱を名乗っている)。また、のちに氏康の娘で康成の従姉妹にあたる七曲殿を妻としている』。父同様、武勇に優れ、天文二三(一五五四)年の加島の戦い(駿河での北条氏康と武田晴信との激戦)では先鋒の一人を務め、功を立てた。『駿河国の今川氏を甲斐国の武田氏の侵攻から救援すべく氏康が出兵した際にも、陣頭に立って活躍』永禄四(一五六一)年に上杉謙信や永禄一二(一五六九)年に武田信玄が侵攻してきた際には、『玉縄城に籠城して守り抜いている。里見氏との第二次国府台合戦では父綱成や松田憲秀と共に奇襲をかけて里見軍を打ち破った。また、白河結城氏や蘆名氏との外交交渉にも携わっている。このように軍事・外交に長けた氏繁は氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された』。元亀二(一五七一)年頃に父綱成が隠居したのを受けて、氏繁に改名、家督を継いだが、天正六(一五七八)年に父に先立って対佐竹氏の最前線であった下総飯沼城中に於いて病死している。『氏繁は自分の印判に『易経』からとった「顚趾利出否」という文を刻んだ。政治秩序が顚倒しており、旧弊を一掃するのに好都合だという時勢観を表したもので』、『武人画家としても知られ、『鷹図』(個人蔵)などの作品を残している。また、『北条記』の「北条常陸守氏重事」によれば、鷹を飼育する事にかけても名人だったという』とある。今、私の書斎から見えるのは玉縄城の城跡である。さすれば、特に彼については詳述するのが礼儀であろう。

「雲板」神棚などを設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材。

「囚人河村三郎義秀」(生没年不詳)相模国の住人で藤原秀郷の子孫波多野氏の一族。治承四(一一八〇)年の頼朝の石橋山挙兵の際に平家方に属して頼朝軍と戦い、後に捕らわれて大庭景能の許に預けられていた。斬罪になるところ、ここ記されるように鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言によって流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟(てばさみ)・八的(やつまと)(本文中に出る「三流の作物」)などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。同年九月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され、以後、御家人として活躍、頼朝の二度の上洛や曾我兄弟の仇討で有名な富士野巻狩りにも随行、後の承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍に属して、軍功を挙げている。現在のJR御殿場線山北駅の南に河村城址が残る(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

[やぶちゃん注:以下の「神寶」は底本では有意にポイント落ちで全体が一字下げとなっている。]

 

        神 寶

弓  壹張。

靫  壹口。

直羽矢 十五本。

衞府太刀  壹振、長二尺餘、無銘鞘は梨地なり。

兵庫鍍太刀  貮振、共に二尺餘、無銘。

太刀  貮振、銘行光とあり、目釘穴なし、二尺餘あり。

大刀  壹振、銘綱家とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘泰國とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘綱廣とあり、三尺餘あり。

硯箱  壹合、梨地蒔繪籬に菊を金具にす、内に水入筆管あり、共に銀にて作る。

十二手匣  壹合。

十二單   貮襲。

院宣  壹通、應永二十一年四月十三日とあり。

賴朝書  貮通。

華嚴輕  壹卷、第五十一卷如來出現品、大職冠鎌足筆也。

菩提心論  壹卷、細字なり、智證大師の筆。

大般若經  壹卷、弘法筆也。

功德品  壹卷、菅丞相の筆なり。

心經  貮卷、共に紺紙金泥、一卷は源基氏、一卷は源氏滿の筆也。

袈婆坐具 各々一具。

五鈷杵  壹個、是を雲加持の五鈷と云ふ。

小五鈷杵  壹個、禪林寺宗叡僧正の持金剛杵と云ふ。

如意賽珠  壹顆。

牛玉  壹顆。

鹿玉  壹顆。

五指量愛染明王像  壹軀弘法作、四五寸許の丸木を蓋と身に引分け、身の方に愛染を作付たり、臺座ともに一木にて作る。

辨才天 壹軀、蛇形の自然石なり

藥師像 壹軀弘法の作、厨子に入、前に十二神をも小さく刻み、扉に四天王を彫る。

回御影 祕物にて昔より終に見たる人なし。

二舞面 貮枚。

陵王面 壹枚。

拔頭面 壹枚。

磯良面 壹枚、皆妙作也。

歌仙 上下の社内に之を掛く、上宮に懸たるは尊純法親王の墨蹟なり、下宮に掛たるは良恕法親王の墨蹟、繪は共に狩野孝信なり。

[やぶちゃん注:以上は「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」・同「卷之三」に詳細を究めてある。そちらの私の注を参照されたい。ポイント落ち一字字下げはここまで。]

 

毎歳夏期に及べば、寶物展覽會と稱へ、神寶を縱覽に供す。

« 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 84 義仲の寢覺の山か月悲し | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 85 中山や越路も月はまた命 »