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2014/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅳ)~了

川流  音無川、極樂寺川、稻瀨川、滑川、豆腐川、山内川、若水川。

   稻村ケ崎、靈山ケ崎、飯島ケ崎。

   由井ケ濱、七里ケ濱。

大社  鶴岡八幡宮、鎌倉宮。

五山  建長寺、圓覺寺、淨智寺、壽福寺、淨明寺。

七切通 朝比奈切通、名越切通、極樂寺切通、大佛切通、假粧阪通、龜ケ谷切通、巨福呂坂切通。

五名水 日蓮乞水、梶原太刀洗水、錢洗水、金龍水、甘露水。

十井  六角井、銚子の井、星の井、鐡の井、棟立の井、瓶の井、甘露の井、泉の井、扇の井、底脱の井。

十橋  亂橋、逆川橋、延命寺橋、琵琶橋、夷堂橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、十王堂橋、裁許橋。

[やぶちゃん注:名数は「鎌倉攬勝考卷之一」に載り、十全なる私の注を附してあるので、そちらを参照されたい。因みに、「鎌倉五山」は順列がおかしい。本誌の筆者は「山嶽」以降、地域区分的に個々の対象を並べる傾向があることから生じたものかも知れぬが、鎌倉に限らず五山には格があり、第一位建長寺・第二位円覚寺・第三位寿福寺・第四位浄智寺・第五位浄妙寺の順で示すのが正しい。

「豆腐川」古い地図を見ると、材木座の弁ヶ谷の東の谷戸を水源とする川で、材木座海岸の和賀江の島近くで由比ヶ浜に流れ込んでいる。個人サイト「鎌倉の川と橋」の「豆腐川」を参照されたい。そこでは最早、流域全長を百メートルとしている。また、近年、市によって完全な暗渠化が企図されており、既に暗渠となってしまっている可能性もある。

「山内川」北鎌倉(旧山内(やまのうち))円覚寺前を流れる山之内川のことであろう。前に示したサイト「鎌倉の川と橋」の「小袋谷川(こぶくろやがわ)」に「山之内川」と出るが、この名称は恐らく現地でしか認識されていない気がする。

「若水川」これは現在は神奈川県横浜市金沢区朝比奈町の川。朝比奈峠を水源とし、同水源の侍従川の支流である。本誌の折込の「「鎌倉實測圖」の「峠村」の端に辛うじて川名を見出せた。]

[やぶちゃん注:以下の鎌倉総説の附記は、底本では「江の島」の前まで、頭の「○」のみ二字目位置にあって全体が二字下げ。]

 

○東京を距(さ)る十三里、滊車(きしや)の便(べん)あり、新橋發横須賀行の列車に乘込(のりこ)み、鎌倉停車場迄は僅々(きんきん)二時間を要せず、停車場を辭して鶴岡へ六町、更に長谷へ十數町、材木山座へ二十餘町、其日歸りても難からじ。

鎌倉に遊はゞ、先づ莊嚴なる鶴岡八幡宮に詣てよ、鎌府衰廢せしより唯是(ただこれ)巋然(きぜん)たり、舞殿を見ては文治の昔、靜女(しづか)が舞曲の悲哀なるを追懷し、石階の下、隱れ銀香樹(いてう)に公曉がせ實朝を弑せし、過きし昔の夢を訊ね鎌倉宮に詣でてゝは、足利氏が無道を憤り、大塔宮が多年幽閉の苦を偲び、遂に毒刄(どくじん)に罹り、刄(さいば)を含むて永く瞑(めい)せず、其巖窟に臨んでは徐ろに懷舊の涙を催し兩袖爲めに露けかるべし、去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦(つた)封(ふう)し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざる、去て建長寺に行け、當時猶莊嚴(さうごん)の一斑(いつぱん)を觀るを得へし。

腕車(わんしや)を雇ふて長谷に赴け、觀音堂、大佛尊、孰れも一覽の値あるベし、見終れば材木座に走(は)せよ海水浴場の設あり、由井ケ濱邊の波は沙(いさご)を嚙み、曉凉(ばんれう)一番鮮鱗膳に上(のぼ)る、日の未だ落ちざるに、源氏山に鳴くかなかな蟬の聲を聞き夕滊(ゆふぎ)車にて歸京せよ。七百年來治亂興亡の夢眼前に髣髴として一日の行遊(こういう)足(た)る。

兩三日の暇(いとま)あらば、五山に歷詣(れきけい)し、五名水を掬(きく)し、七切通、古戰塲、古墳墓及び著名の諸舊蹟を訊ね、轉じて江の島に赴かは更に一層の興を添ふベし。

[やぶちゃん注:使用距離単位の一町は一〇九・〇九メートル。

「巋然」高く聳え立つさま。

「文治の昔」義経の愛人、静御前が母磯禅師とともに鎌倉に送られたのが文治二(一一八六)年の三月、頼朝の命により鶴岡八幡宮の回廊(当時は舞殿などはなかったので注意)で、

 

 しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな

 

 吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

と詠って舞ったのは同年四月八日のことであった。

「隱れ銀香樹」としばしば言われるが、その頃にはかの折れた公孫樹はあったとしても、ひょろひょろの苗木のような按配で、とても公暁を隠すべくもなかった。公暁が隠れていたとしても、それは公孫樹ではなく、周囲の植え込みか杉木立の木下闇であった。

「去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦封し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚んぞ起たざる」ここ、私が馬鹿なのか、どうも叙述がしっくりこない。「去つて、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざるの賴朝が墳墓を探れば、今は苔蒸して蔦封じ、見る影もなき五輪塔、山川依然たり」と直したいのだが。

「莊嚴(さうごん)」ここは「しやうごん」でないとおかしい。

「一斑」豹の毛皮にある沢山の斑(まだら)紋様の中の一つ、という意から、全体からみて僅かな一部分の意。

「腕車」人力車。

「七百年來」本誌の発行は明治三〇(一八九七)年八月二十五日であるから、その七百年前は建久八(一一九七)年で奇しくも頼朝による幕政が磐石となり、新都鎌倉が活況を呈した時期に一致する。]

 

      江の島

江島は鎌倉を距(さ)る二里、片瀨の南にあり、蜿々(ゑんゑん)たる棧橋を蹈みて到るベし、數十丈の翠巖(すゐがん)海上に突兀(とつこつ)し、常に巨浪(きよらう)山址(さんし)を洗へり。東望(とうばう)すれば近くは七里濱、遠くは房總の山嶽を見渡し、南に伊豆大島、西に箱根の諸岳を望み、遙かに富嶽に對せり、眞に佳境と謂ふベし。

嚴窟及巖石  龍窟、白龍窟、飛泉窟、十二窟、魚板石。

崎及淵    鵜ケ鼻、大黑の鼻、不動鼻、泣面ケ崎、兒ケ淵。

屬島     聖天島、鵜島。

社祠     江島神社。

[やぶちゃん注:「數十丈」「十丈」は三〇・三メートルで、現在の江の島の最高点の標高は標高約六十メートル、しかも関東大震災で隆起した結果であるから、この「數十丈」は誇張に過ぎる。

「山址」島の山塊とその麓の謂いであろう。]

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