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2014/09/28

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 88 雨の仲秋無月の敦賀にて四句

本日二〇一四年九月二十八日(当年の陰暦では九月五日)

   元禄二年八月 十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十八日

【その一】この日は仲秋の名月であったが、雨で月見は出来なかった。以下、「奥の細道」通行本より、句前の前書風の章句を前書として一部読み易く直して示す。

 

  十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨、降る

名月や北國日和(ほつこくびより)定(さだめ)なき

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」では、

 

  うミ

名月や北國日和定なき

 

と不思議な前書がある。「荊口句帳」ではこの句の前にある二句(私は時系列に従って後に掲げる)を見ると、

 

  はま

月のミか雨に相撲もなかりけり

 

  ミなと

ふるき名の角鹿や戀し秋の月

 

とあることに気づく。これは芭蕉が敦賀の景を「浜」「湊」「海」の三景に分けて詠んだものであることがここから分かる。とすれば、本句を詠じている芭蕉は雨の降って、荒れて(だから浜での相撲も中止となった)波のほの白く立つ夜の敦賀の湾の全景を前にこの句を詠んでいるのだ。……そうして……そのような景として読む時、初めて、この句が「奥の細道」に採られた意味が、私には腑に落ちるのである。……これは恐らく、裏日本の海浜に住んだことがない方々には分からぬ――私の青春の記憶に基づく――感懐ではある。……

 自筆本は以下の通りで異同はない。

   *

十五日亭主の詞にたがはす雨降

  名月や北國日和定なき

   *

■やぶちゃんの呟き

 この日、曾良は大垣を午前八時に長島に向けて船出しているが、日記(最早、随行日記ではない)には(大垣の天候ではあるが)、

未ノ刻、雨降出

とある。

……そら、やっぱり雨でしたでしょう、芭蕉さま。だから言ったんです、殊更に芋名月の月見月見と拘っちゃだめですって。……「雨」と言挙げしてはだめですよってね。……芭蕉さま、いやさ、光殿……これは、もしや……曾良、いやさ、かの六条御息所の……その生霊の、成せる業(わざ)にては……これ、御座いますまいか?……]

  

*   *   *


【その二】仲秋の名月の見えぬ雨夜の今一つの句。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句解説頁及びネット上の情報によれば、この晩方、廻船問屋天屋五郎右衛門(俳号は玄流子)の案内で金ヶ崎城(後注参照)の麓にある誓法山金前寺(こんぜんじ:真言宗。福井県敦賀市金ヶ崎町にある。宝暦一一(一七六一)年十月に建立された福井県最古の芭蕉句碑である芭蕉翁鐘塚(後注参照)が建つ。)に参詣して詠んだ句とされる。「奥の細道」には採られていない。

 

  中秋の夜は敦賀にとまりぬ。雨降(ふり)ければ

月いづく鐘はしづめる海の底

 

  おなじ夜あるじの物語に、此海に釣鐘の

  しづみて侍るを、國守(ノカミ)の

  海士(アマ)を入(いれ)てたづねさせ

  給へど、龍頭(りやうづ)のさかさまに

  落入(おちいり)て、引きあぐべき

  便(たより)もなしと聞(きき)て

月いづく鐘はしづみて海の底

 

[やぶちゃん注:第一句目は「俳諧草庵集」(句空編・元禄十三年自序)の、第二句目は「俳諧四幅対」の句形。

 「俳諧草庵集」には、

 

  敦賀の驛の屛風に侍り、北國行脚の時の吟なるべし

 

という注記があるとする。この句を認めた(真蹟でなくてはこうは書くまい)屏風が敦賀宿にあるのを句空は実見したということであろう。「荊口句帳」には、

 

   金が崎雨

月いつく鐘ハ沈める海の底

 

という前書が附されてある。「金が崎」は「かながさき」とも「かねがさき」とも読み、古跡金ヶ崎城で知られる、敦賀市北東部の金ヶ崎町。この城は別名、敦賀城とも呼ばれ、敦賀湾に突き出した海抜八十六メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山塞であった。源平合戦の折り、平通盛が南下する木曾義仲を防戦するため、ここに城を築いたのが最初と伝えられる。また同城跡の麓には足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。その後も戦国史上有名な織田信長の撤退戦である金ヶ崎の戦い(元亀元(一五七〇)年に起きた織田信長と朝倉義景との戦闘の一つ)でも知られる戦跡である(ここはウィキの「金ヶ崎城」とそのリンク先に拠った)。

 ここに示された沈鐘伝説とここの句碑が「芭蕉翁鐘塚」と呼ばれる所以は、先に示した通り、南北朝の延元元(一三三六)年に新田義貞らの南朝軍が後醍醐天皇皇子恒良親王・尊良親王を奉じて北陸路を下って金ヶ崎城に入ったものの、ここで足利軍との戦いに破れたため、義貞は義顕にその場を任せて脱出、杣山城から彼らの救出を試みたが失敗、遂に兵糧尽き、弱冠二十歳の若大将義顕は城に火を放って、尊良親王及び三百余人の兵とともに自害した(恒良親王は捕縛されて足利直義によって幽閉され、翌年に没した(毒殺されたとも言われる。この辺りはウィキの「新田顕」に拠る)。この最期に際し、義顕は陣鐘を海に沈めたとされ、「俳諧四幅対」の前書にあるように、後に当国の国守が海に海士を入れて探らせてみたが、陣鐘は逆さまになって沈んでおり、龍頭が海底にすっかり埋まって、しまっていて引き上げることが出来なかったという伝承に基づくもの。

 見えない沈鐘の海の底からの妖しい響きの夢幻音と、中秋雨夜の隠れて見えない月の光りの眩暈景とが無限遠で共鳴する。

 鬼趣好きの私としては、これ、もう少し、きゅっと来る慄然の締りがあったなら、佳句となると感ずる句である。]

 

*   *   *


【その三】同じく同夜、雨の敦賀の気比の浜での吟。時間的には前の二句よりも前、昼間の景であろうが、つまらぬ句なので後に回した。

 

  濱

月のみか雨に相撲もなかりけり

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種」。「奥の細道菅菰抄附録」には『近江國長濱にて、此時觀進相撲有けるよし』と編者前書があるが、これでは琵琶湖畔の景となるので採らない(長浜には敦賀の次辺りに泊まってはいるが、この句、「芭蕉翁月一夜十五句」の中にあってのみ辛うじて生存し得る句である)。

 「相撲」現代の歳時記では相撲は初秋の季語とされる。奈良・平安時代には毎年七月に宮中で相撲節会(すまいのせちえ)が行われたことによる。江戸時代は奉納相撲や地方巡業の相撲興行が盛んに行われたが、地方各地の素人衆のそれは秋祭りの頃に開催されることが多く、草相撲・宮相撲(神社の「宮」の意)などと呼ばれた。相撲のルーツである力競べは、記紀の遙か昔から、豊作祈願の祭祀や、政(まつりごと)に於ける重要な裁定に際して神前で行われた吉凶占の場などで、盛んに催された、祝祭としての神事であった。

■やぶちゃんの呟き

……芭蕉さま……我儘なあなたへの罰は……月を隠した雨だけではありませんでしたね……神々の祝祭も……なくなったのですよ。……あなたは結局、自ら、精神の孤独を選んでしまったのです……]


*   *   *



【その四】同じく雨の敦賀の湊での仲秋無月の一句。

 

  みなと

ふるき名の角鹿(つぬが)や戀し秋の月

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。

 「角鹿」は敦賀の古名(和銅年間(七〇八年~七一五年)に敦賀と改名された)。敦賀の湊は北陸の海路の、主に海産物の陸揚げ港としてはもとより、大陸交通の要港としても古代より栄え、北陸路陸路最初の拠点となる古い宿駅でもあった。

■やぶちゃんの呟き

 正直、この「芭蕉翁月一夜十五句」の痙攣的連作をこの句まで読んでくると、芭蕉のマニアックな未練がましさが、流石に鼻について厭になってくる。これら、少なくとも敦賀に至るまでの月見待望と無月の句は研究者以外の一般の芭蕉好きの方は、知らない方がましな部類に属する、という気が強くしてくる。]

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