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2014/09/28

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅱ) ~ 了

丸山稲荷社(まるやまいなりしや) 本社の西山上〔丸山と號す〕にあり、古上宮の地に、稻荷の社あり、松ケ岡明神と號せしを、建久中賴朝卿、本社造營の時、此地に遷され、丸山明神と唱ふ、後(のち)星霜を經て、頽廢せしかば寛文《》中、二王門前にありし、稻荷社を爰に移す、則(すなはち)今の社是なり、其頃は十一面觀音と、醉臥人の木像(大工遠江里と云へる者、甚酒を好(このみ)て、此像を寄進すと云ふ)を安し、酒(さけ)の宮(みや)と號せしが、醉臥(すゐぐわ)の像は非禮なりとて、是を廢し、觀音を以て、本地佛とす云々風土記及鎌倉志に見えたり。

[やぶちゃん注:この稲荷は現在の鶴岡八幡宮上宮西側にある丸山と呼ぶ小高い丘の上にある鶴岡八幡宮末社丸山稲荷社本殿で、社殿によれば建久二(一一九一)年の本宮造営に先だって、現在地に移築された古来からの地主神と伝える。本殿は鶴岡八幡宮境内にある建造物の中では最も古く、国重要文化財に指定されている。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」中に、

松が岡に鎌を埋み給ふ事、松は木公と書く。是れ司東(東を司る)義也。彼此(かれこれ)金を兼る人君符合する者乎。鎌倉山に詠松(松を詠める)事、上古の作者末代を鑒(かんが)みるに非ずやと有。今按ずるに、大織冠、鎌を埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故に後(うしろ)の山を大臣(たいしん)山と云なり。此地に本は稻荷の社(やしろ)ありしを、賴朝卿、建久二年に、地主稻荷を西の方(かた)丸山に移して、八幡宮を此の所に勸請し給ふ。是の故に上宮(かみのみや)を松が岡の八幡宮と云ふ。【鶴岡社務次第】にも、松が岡八幡宮別當職とあるは、上の宮の事也。社務の云傳るにも、上の宮を松が岡と云、下(しも)の宮を鶴が岡と云ふ。又松が岡の明神と云て、鶴が岡にて御供具(そな)ふる神あり。丸山の稻荷明神なり。是れ舊に依て松が岡の明神と云なり。俗に傳ふる淨妙寺中の稻荷明神を、鎌を埋(うづ)みたる舊地と云ひ、又東慶總持寺を、松が岡の舊地と云は皆誤りなり。

とある。引用文中の「東慶總持寺」は東慶寺のこと。山号は松岡山で正しい寺号は東慶総持禅寺と称する。総持とは陀羅尼の訳語でもあるが、禅の初祖達磨大師の弟子尼総持に因んで禅の尼寺の意を含むものと推測される。植田は地名古称を誤りとするが、「相模風土記稿」には『里俗呼んで松岡と稱す』とあり、東慶寺は現地では古くから「松ヶ岡」と呼ばれ、歴史的な公文書にもそう書かれていることが多い。これがこの「東慶寺」の地名であった可能性は極めて高いと言ってよく、鎌倉には二つの「松ヶ岡」が存在したと考える方が自然である。

 本社は「新編鎌倉志卷之一」には「稻荷社」の項で出る。

稻荷社(いなりのやしろ) 本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣(いがき)三間四方也。此山を丸山と云なり。本社の地に、初は稻荷の社ありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷の社を此山に移して、今の本社を剏建(さうけん)せらる。爾後頽破す。今の稻荷の社ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥(すいぐは)の人の木像とを安じ、酒(さけ)の宮と號す。近き頃大工遠江(とをとをみ)と云者有。甚だ酒を好(このん)で此を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體(てい)神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊(ふる)きに依て松岡(まつがをか)の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。

この「酒の宮」については、恐らく本書以外に別ソースのデータはないように思われるが、まことに面白く興味深い話だけに惜しい。もし、御存知の方があれば、是非、御教授願いたい。]

 

下の宮 若宮と稱す、上宮石階の下、東方にあり、若宮大權現の額を掲ぐ、祭神四坐、中央は 仁德天皇、右は久禮、宇禮、左は若殿、本社(ほんしや)、幣殿、拜殿、向拜等(とう)あり、三十六歌仙の額を扁す、是(これ)元文御修理(ごしゆうり)の時、造らるゝ所なり、治承四《一一八〇》年十月、源賴朝由比郷より移して、建立ありし社なり、當國(たうごく)桑原郡を以て、供料所(くれうしよ)となす、十二月、鳥居を建(たつ)、養和元《一一八一》年正月、賴朝參宮して神馬を奉り、法華經を聽聞せらる、閏二月、立願に倚て、七ケ日參詣す、神託あり、此後參宮屢(しばしば)あらし事、東鑑其外記錄等に見えたり、五月、社頭營作の沙汰あり、六月材木由比濱に着岸す、七月、武州淺草の工匠(かうしやう)を召(めし)て、造營の事始あり、此月、上棟の儀を行ひ、八月正遷宮あら、壽永元《一一八二》年六月、社頭に怪異あり、八月賴家誕生によりて、龍蹄(りうてい)を奉納せらる、九月賴朝參宮の時、拜殿にて、僧圓曉に、別當職を命す、二年二月、當國高田、田島の二郷、及武州瓺尻郷を、社領に寄附あり[やぶちゃん注:「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。]、元曆元《一一八四》年四月、左馬頭能保參詣す、是(これ)新任拜賀の爲なり、文治二《一一八六》年五月、黄蝶(くわうえふ)の怪(くわい)あるをもて、臨時に神樂を行はれ、託宣の事に依て、神馬(しんめ)を奉納あり、八月賴朝參宮の時、西行(さいぎやう)鳥居の邊に徘徊す、依て其名を問(とは)しめられ、奉幣の後、謁見す可き由を命せらる、四年三月、梶原平三景時本願として、新寫の大般若經を供養す、八月、岡崎四郎義實をして、一百日の間、當社に宿直響衛(しゆくちよくけいゑい)せしめらる、十月、大庭平太景義、社頭警衛の爲、社地に小屋を搆へ、寓宿の所とす、賴朝來臨ありて、庭上(ていじやう)の霜葉を賞す十一月、馬塲の樹木倒るゝに依て、賴朝參宮、神馬を奉納あり、五年八月、奧州秀衡追討の祈禱として、夫人女房等をして、百度詣をなさしむ、十二月、奧州凱陣(がいじん)の報賽として、夫人參宮す、建久二《一一九一》年三月、神殿巳下回祿に罹る、賴朝參詣ありて、礎石を拜し、涕泣(ていきう)を催さる、十三日へ假殿に遷宮あり、八月、本殿上棟、十一月、落成して正遷宮の式を行ふ、三年正月、修正會を行はる、建仁三《一二〇三》年六月、鳩一羽、寶殿の棟上より落て死す、嘉祿二《一二二六》年、十月、神殿修理により、神體を竈殿に遷す、十二月、正遷宮の儀あり、嘉禎二《一二三六》年四月、社頭に羽蟻集る、寛元二《一二四四》年正月、天變(てんへん)に依り、祈(いのり)を命せらる、五月、世子乙若、病惱(びやうのう)の祈禱として、大般若經を轉讀す、寶治二《一二四八》年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す、建仁三《一二〇三》年七月、怪異の事に依て、八講を行ふ、建長四《一二五二》年正月、神殿に怪異あり、文永二《一二六五》年三月管絃講(きわんげんかう)を行ふ、弘安四《一二八一》年七月蒙古退治の祈(いのり)あり、正和四《一三一五》年三月、炎に罹り、六月再建の事始あり、五年四月、正遷宮あり、元弘三《一三三三》年五月、北條高時滅亡の時、新田義貞拜殿にて首級を實檢し、神殿に入て重賓を披見あり、延元元《一三三六》年八月、惡徒等(ら)社頭に濫入し、神寶を奪(うばは)んとす、時に宿直に在し、小栗十郎防戰するに依て、惡徒等退散す、十郎創を被りて終(つひ)に死す、曆應元《一三三八》年五月、神殿鳴動す、二年八月、社頭にて、世上無爲(せじやうむい)の祈禱を修す、應永廿二《一四一五》年五月、社頭にて、最勝王經の講讀を始む、永正《一五〇四~一五二一》の頃は、宮殿大(おほい)に破壞せり、天文元《一五三二》年十月、中門を修理す、三年十一月、社邊に光り物あり、四年二月、奈良大工藤朝、寶前に常燈を寄附す、九年北條氏綱、神殿を再興す、天正二《一五七四》年閏十一月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡及雲板を寄附す、例祭四月三日、東鑑には此(この)例祭を、臨時祭(りんじさい)とも記せり、當日流鏑馬、馬長、競馬、相撲等(とう)あり、今皆廢す、正月四日修正會(しうせいゑ)を行ふ、按ずるに天正十九《一五九一》年の修理圖に、當宮の前に樓門あり、其左右に續きて、廻廊を圖せり、東鑑にも、當社廻廊の事、往々見ゆ、元曆元《一一八四》年正月、廊中にて法華八講を行ふ、四月、三善康信入道善信、賴朝に謁す。文治二《一一八六》年四月、賴朝及夫人參宮の次、靜女の舞曲を見物す、四年二月、廻廊にて、流鏑馬を覽る、五年四月、廊内にして、神事の相撲あり、建久元《一二一九》年二月、大般若經を輪讀す、二年三月、囘祿に罹り、八月、上棟あり、建仁二《一二〇二》年八月西の廊に鳩來(きたり)て、數刻去らず、依て、問答講を修す、賴家來て是を聽聞す、三年七月、鴿鳥の怪あり、建長六《一二五四》年五月、神事(じんじ)の時鬪亂(たうらん)ありて、殺害(せつがい)に及ふ、是に依て造替(つくりかへ)あるべき由、評議あり、此餘、賴朝及泰幣の使等、廻廊に着座の事見えたれど、爰に略せり、社前に銅燈二基を置西方末社の傍に、槐樹あり、社傳に、應神天天皇、槐樹の下にして降誕ありし故、此社地にも植(うゑ)しなり、故に安産守護の樹と稱せりと云ふ。

[やぶちゃん注:「武州瓺尻郷を、社領に寄附あり」「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。これは「たけじり」と読むようで、現在の埼玉県熊谷市三ケ尻(みかじり)周辺に相当する。

「寶治二年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す」の「家時」は「義氏」の誤り。しかも時系列に変調をきたしている。このデータは「吾妻鏡」ではなく鶴岡八幡宮文書に拠るデータであるから、筆者が複数の資料を元に本項を書き、その結果として錯入してしまったものと思われる。

「管絃講」仏前で読経とともに管絃を演奏して仏徳を讃える法会。「かげんこう」とも読む。]

 

白旗明神社  其以前は上宮の西にありて周圍に玉垣を築き、三間に二間の祠(し)なりしこと、鎌倉志に見えたり。新編相撲風土記稿云、賴朝を祀る、木像あり、左右に住吉、聖天を合祀す、賴家の造建(ざうけん)なりと云ふ、元旦に尊供あり、正月十三日、神事(じんじ)を行ふ、鎌倉管領年首の拜賀に、先當社を拜して、後(のち)本社に詣(まい)るを例とす、天文九年北條氏綱再建(さいえん)す、天正十八《一五九〇》年、小田原凱陣の時、豐臣秀吉當社に詣し賴朝影像を見る、當社も文政の災(さい)に烏有し、十一年御再建あり、御殿司職(ごでんしゝよく)司(つかさ)とれり、と今若宮の東に遷す武衛殿と號せり。

[やぶちゃん注:「文政の災」先に出た文政四(一八二一)年一月十七日の夜に襲った火災。上宮とともに全焼したものと思われる。]

 

馬場  東鑑、文治二《一一八六》年十一月條に、馬場本假屋(ばゞほんかりや)とあれは、其項既に開かれしなり、三年八月放生會の時、始て流鏑馬あり、此後(このゝち)鎌倉將軍、及夫人等、馬塲の棧舖にして、流鏑馬見物の事往々所見あれと、爰に省けり、四年十一月、馬塲の木、風なきに倒る、正治二《一二〇〇》年五月、神事(しんじ)の時、馬塲にて長江四郎明義か僕從(ぼくじゆう)、刄傷(にんじやう)に及ふ、承元四《一二一一》年八月、始て神事以前に、流鏑馬射手の堪否を試(こゝろみ)らる、建保六《一二一八》年六月、實朝左大臣の拜賀として參宮の時、北條義時の内室(ないしつ)以下、此邊に棧敷を搆へて、其行列を見物す、寶治元《一二四七》年六月、兵火の爲に、流鏑馬舍回祿す、十一月再建あり云々風土記に見えたる、今武衞殿の社前に馬塲あり、柵を繞(めぐ)らせり、池月(いけつき)の駒留石(こまとめいし)あり、(池月は武衛公(ぶゑいこう)の愛馬、後佐々木高綱に賜ふ)。

[やぶちゃん注:ここは境内を東西に貫通する流鏑馬馬場辺を指す。「鎌倉攬勝考卷之二」では「馬場迹」として異様に長い考証が載る。

「堪否」「かんぷ/かんぴ」と読み、堪能(かんのう:上手下手。)か否かの意。

「池月」「生月」「生喰」とも書く。頼朝が梶原景季に与えた摺墨と並ぶ名馬で、二頭ともに富士川先陣争いで知られる。]

 

柳原  昔此邊を柳原とも稱せり、白旗神社の池畔、枯株(こしゆ)今尚ほ存せり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」には、

○柳原 柳原(やなぎはら)は、八幡宮舞殿(まひどの)の邊より東、藥師堂の前までを云。昔し柳の多かりけるに因て也。枯株今尚を存せり。里俗傳ヘて古歌あり作者不知(知れず)。「年へたる鶴岡邊(つるがをかべ)の柳原、靑みにけりな春のしるしにと」。此の歌を、【歌枕の名寄】には、平の泰時と有て、柳原を松の葉のとあり。何れ是(し)なることを知らず。久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗の傳へ語れるを本とすべき歟。

とある。「年へたる鶴岡邊の柳原、靑みにけりな春のしるしに」の和歌は、「夫木和歌抄」に「春歌中、柳」、作者「平泰時朝臣」として、

 年へたる鶴のをかべの柳原靑みにけりな春のしるしに

植田が言う「歌枕名寄」鶴岡には、

 としへたるつるがをかべの松の葉のあをみにけりな春のしるしに

更に、「六花集註」春部には、

 年へたる鶴が岡邊の柳原靑みにけりな春のしるしに

と出る。]

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