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2014/09/20

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 旅館 ~ 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」附やぶちゃん注 完

   ●旅館

    ◎千代本

千代本は瀨戸明神の傍にあり、海に面して層樓欄干長く、影は水に蘸(ひた)して、一酌に適す。

むかしは諸侯方歷々の御遊覧もありて、有名なる料理店なりしも一たび火を失ひ、爲に自燒(じせう)す、後ち廢業せしかど、今より二十一二年前再び新築して、更に輪奐の美を盡くし、金澤の景致をそへたり。

三階造りの、淸く拭はれたる客室廣く、離れて新坐敷あり、軒近き岸の姫松、圓窓(まるまど)に墨繪の影を描くも雅、美酒呼ぶべく、鮮鱗溌溂膳に盛るベし、醉餘欄に凭れて簾(れん)を捲(ま)け、磨きいでたる月光白く波に映じ、野島の山は近く浮びて、烏帽子岩、沖の白帆の影見ゆる、瀨戸の月、秋はことさら眺めよし。

樓の後背、三島明神の傍なる丘上(きうじやう)に、四阿(あづまや)を設け、石段を疊むなど、目下(もつか)頻りに普請中なり、眺望打ち開けて、金澤の全景畫圖の如く浮び、風景又一段の美を加へむ、無名の丘(をか)なれば、ゆくゆくは秋月山と命名(なづ)くる由、丘に沿ふて下るに、巖(いわほ)を切拔(きりぬ)き山塞(さんさい)めきたる樓門あり、舊千葉氏の宅地趾(たくちあと)なりと云ふ。

[やぶちゃん注:現在は料亭としてあり、恐らくは横浜一の老舗の一つである。文化文政期(一八〇四年~一八四〇年)には既にあった旅宿。JapanTravel.com の Tomoko Kamishima 氏の「金沢八景 異人たちの足跡7 料亭千代本」に、三百年前に『創業した千代本は、江戸後期にはすでに老舗の名声を得て』おり、百八十年前の『広重八景図の中の『瀬戸秋月』に描かれている。画面中央の松の右手が千代本、松の向こうに平潟湾と野島が見える。仲秋の名月に照らされた、瀬戸橋からの幻想的な光景である。一方』、百五十年前に写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato 一八三二年~一九〇九年:イタリア生まれのイギリス人。後に英語風にフェリックス・ベアト(Felix Beato)と名乗った。一八六三年から二十一年に亙って横浜で暮らし、一時期は幕末から明治初期に本邦で活躍した挿絵画家チャールズ・ワーグマンと「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を経営している)が『撮った千代本と平潟湾の写真『平潟湾の風景』は、反対側に視点を置いている。こんもりとした山を背に、千代本ともう一軒の茶屋が並んでおり、手前の小島(半島のように見えるが)には琵琶島神社の社殿が見える。現在も千代本と琵琶島神社は変わらぬ位置にあるが、周囲に建物が林立しているため、満々と水をたたえた平潟湾の雄大さは失われてしまった』と述べておられ、『江戸時代の千代本は、宿屋を兼ねた茶屋で、船遊びを楽しむ客や、寺社仏閣巡りを終えて羽を伸ばす旅人などで賑わった。江戸市民の人気コース、大山江ノ島鎌倉詣での巡礼の旅の最後を締めくくるのが、金沢での羽目を外した大宴会だったという。明治時代になると、遠来の客よりも、伊藤博文や山本五十六を始め、政治家や海軍関係者が多く訪れるようになる。千代本の女将の話によると、お偉い方々は、平潟湾から(軍艦?や)自家用船を乗り付けて座敷に上がり、歓談(や密談?)の後、また静かに船で帰って行くのが常だったとか』と記されておられる。その内、当該記事にある「銀河鉄道」の風景を見に行きたいものである。なお、以下の「野島館」の私の注も参照のこと。

「今より二十一二年前」本誌の発行(明治三十一(一八九八)年八月二十日)からだから明治二十、二十一年に相当する。

「輪奐」は「りんくわん(りんかん)」と読み、「輪」は高大、「奐」は大きく盛んなの意で、建築物が広大で立派なことをいう語。

「姫松」既出。既注済み。

「千葉氏」不詳。識者の御教授を乞う。

 それにしても、この書きっぷりは本誌の後半では、また以下の「東屋」と「野島館」に比して、かなりオリジナルに凝って書かれてある。当時の千代本さん、昭陽堂(『風俗画報』の発行元)に相当に祝儀を振る舞いましたね。]

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

Ekzk_kanazawatiyomoto_2

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景旅館千代本の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。画中上部に「金澤千代本の圖」というキャプションが手書き文字で入る。]【2016年1月13日追加はここまで】
 
 

    ◎東屋

洲崎にあり、瀨戸の斷橋の袂、橋を隔てゝ千代本と相對峙(あひたいじ)す、當時金澤にある旅館は、この東屋のほか、千代本と野島館(のじまくわん)あるに過ぎず、野島館は近年の開業にて、未だ幾日も經ず、千代本とても、一時(じ)火災に遇ふて廢業せしゆへ、他に旅館と稱すべきものなければ、此地(このち)に遊ぶの客は、必ず東屋に投宿するを例とせり、さなきだに、土地に名高き料理店なれば、活魚鮮肉(かつぎよせんにく)美味、低唱淺酌の興亦把るに可なり、況んや風景の如きも、洲崎の晴嵐を占め、金澤に行かば東屋に宿せよと渡し守さへすゝむるも、名うての旅館なればなるべし。

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年に廃業して現存しない。既注の通り、瀬戸橋を渡って野島方向に百七十メートルほど行った洲崎町三叉路附近にあった。創業年は不詳乍ら、「江戸名所図会」にはその繁盛ぶりが活写されている(最後に同書から図を引いておく)。明治二〇(一八八七)年に伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎四名がこの東屋で明治憲法草案を作成したことで知られる旅館。瀬戸神社の琵琶島弁天社近くに「金沢総宜楼に題す」という詩碑が建つが、これはもと東屋の庭内にあったもので、「小市民の散歩に行こうぜ」『ようこそ「金沢・時代の小波  金沢地区2」へ!』によれば、作詩者は桐生の織物商佐羽淡斎(さばたんさい)で、文化三(一八〇六)年頃、『漢学者で詩人である大窪詩仏や書家の市川米庵ら』とともにこの東屋に来遊した際に詠まれたもので、その『平淡で情緒豊かなことに感激した詩仏』が文化五年十月に、『詩文を石に刻んで東屋の邸内に建て』たものとある。「総宜(そうぎ)」『とは、東屋の料理、酒、酌などの接客接遇のほかに、八景の景色、土地の人情も総(すべ)て宜(よろ)しいという意味で』、詩は『鱸(すずき)の活けづくりや真っ赤な蟹が目の前に盛られている それにもまして地酒の清らかな香りがただよってなんとも言えず楽しい 同席の友人諸君と大いに飲んだ 酔って倒れそうになるのをようやく助け起こされる人もある 自分も前後不覚となり眠ってしまったが 酔いが覚めたときはすっきりとして自然にこの詩が出来た 眠っていて知らぬ間に一雨降ったらしく瀬戸橋もすっかり濡れている 夢の中でこの詩が出来たのははげしい瀬戸の引き潮の音が自分を呼んでいたからだろうか』といった内容である由(但し、『当初のものは、半分ほど落剥してしまったので、復元し、彫り直したもの』とある。なお、以下の「野島館」の私の注も参照のこと。

「低唱淺酌」浅酌低唱。ほどよく酒を味わい飲みながら、小声で詩歌を口ずさんで楽しむことをいう。

「把る」「とる」で、感興に筆を執って詩歌にするの謂いか。

「金澤に行かば東屋に宿せよと渡し守さへすゝむる」野島の渡し(野島の南、室木(むろのき)村へ入る江戸時代の渡しで江戸から浦賀に入る近道であった)の渡し守か、八景遊覧の舟の水主か。何とも風情のある謂いで、失われた八景の美観が髣髴としてくるではないか。

 最後に「江戸名所図会」から瀬戸橋の図二枚を引く。

Setobasi1
Setobasi2

一枚目の左上方から「其二」にかけて描かれているのが旅亭東屋である。]

 

    ◎野島館

野島にあり、近年開業せる新旅館なり、其日未だ淺かるも樓は宏壯にして、遠く大海を望み、白帆の沖に浮べるさま、波浪來つて岸を洗ひ、烏帽子岩近く、夏島は傍らにあり、避暑には適當の地なるべく、冬は暖かなれば、避寒にと出かくる氣樂な御客樣もあるべし。

[やぶちゃん注:以下の引用記載から明治三五(一九〇二)年に火災により廃業している。本誌の発行が明治三十一年で、以下に出る内閣総理大臣伊藤博文による夏島での日本帝国憲法の草案作業は明治二十(一八八七)年六月からであるから、野島館は恐らく二十五年ほどと短命であったことが窺われる。「野島」公式サイトの「野島公園 伊藤博文公金沢別邸」の解説中に、

   《引用開始》

 この東屋には伊東己代治と金子堅太郎が泊まっていた。そして井上毅は野島館に逗留してそこから歩いて、伊藤博文は夏島から船でこの東屋に集まって四人で明治憲法の審議を始めた。当時この東屋は金沢では最も名高い料理店で、活魚料理が美味しく、部屋から眺める洲崎の清嵐は素晴らしく、金沢に行けば必ず東屋に投宿せよといわれるほど人気があった。伊藤博文はこのような雰囲気の場所が大好きであったのである。この東屋の創業年は詳らかではない。千代本と同じ江戸時代からあったが、この由緒ある旅館は昭和30年に廃業した。また、井上毅が逗留していた野島館は野島山の東側にあった。今の青少年研修センターと稲荷神社の中間あたりにあって、かなり広い敷地を持ち、多くの女中さんを抱えた料亭で、泥亀の牡丹見や潮干狩りの客で賑わっていたという。この料亭も明治35年ころ火災に合い、その営業を閉じたと伝えられる。

  《引用終了》

とある(下線やぶちゃん。太い下線部分が野島館の関連記載)。文中の伊東己代治(みよじ)・金子堅太郎は孰れも当時の伊藤博文の秘書官、井上毅(こわし)は伊藤のブレーンで当時は臨時官制審査委員長であった。リンク先には日本帝国憲法草案のエピソードが満載で楽しめる。是非、読まれたい。]

         ~~~~~~~~~~~

 ●本誌江の島案内の中佐羽淡齋七律結末

  不須幽倩仙童は不須幽討倩仙童の誤謬

  に付爰に正誤す

[やぶちゃん注:以上を以って『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」は終わっている。以下、最終頁(「四十」頁)の残りと次の頁(新たに「一」と起こし、裏側の「二」、その次が裏表紙の裏及び裏表紙まで総てが広告となっている。以下、続くブログで画像でそれを配することとする。]

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