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2014/09/08

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす

本日二〇一四年九月  八日(陰暦では二〇一四年八月十五日)

   元禄二年七月二十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  八日

である。【その一】この前日、芭蕉は金沢(ここでもう一人、立花北枝が随行者として加わった)を発って小松に到着、翌日の今日、三人が旅立とうとしたところを、小松の俳人連が北枝を介して頻りに慰留した。そこで更に一泊することとし、芭蕉の偏愛する木曽義仲の命の恩人齋藤別当実盛所縁の多太(ただ)八幡(現在の石川県小松市上本折町にある多太神社)を訪れてかの名吟をものした。

 

  加賀の小松と云(いふ)處、多田の神社の

  寶物として、實盛が菊から草のかぶと、

  同じく錦のきれ有(あり)。遠き事ながら

  まのあたり憐(あはれ)におぼえて

むざんやな甲の下のきりぎりす

 

  多田の神社にまふでゝ、木曽義仲の願書

  幷實盛がよろひかぶとを拜ス

あなむざんや甲の下のきりぎりす

 

あなむざんやな甲の下のきりぎりす

 

[やぶちゃん注:第一句目は「猿蓑」。「奥の細道」も同句形。「陸奥鵆」(むつちどり・桃隣編・元禄十年跋)には、

 

  太田神社寶物實盛鎧

 

と記す。

 第二句目は「卯辰集」の句形。

 第三句目は「花実集」(かじつしゅう・秋色(しゅうしき)編。安永二(一七七三)年序)の句形で、「去来抄」に、

 

魯町曰、先師も基より不ㇾ出(いでざる)風侍るにや。去來曰、奥羽行脚の前はまゝ有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと 云ふ句あり。後にあなの二字を捨られたり。是のみにあらず、異體の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給へり。

 

とある。『出でざる風』とは俳諧連歌の古形を元としない新しい自由な破調句を指すが、私は芭蕉自身が改作しようがなにしようが、何と言っても直覚的に「狂句木枯しの身は竹齋に似たるかな」と同様に、破格の第三句目「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」を断然、支持するものである(私は中学時代に自由律俳句の『層雲』から出発した人間である)。

 なお、「曾良随行日記」を見ると、

 

一 廿五日 快晴。欲小松立。所衆聞テ以北枝留。立松寺ヘ移ル。多田八幡ヘ詣テ、眞盛が甲胃・木曾願書ヲ拜。終テ山王神主藤井伊豆宅ヘ行。有ㇾ會。終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折ゝ降ル。

[やぶちゃん字注:「立松寺」は「建聖寺」の誤記と考えられる。「眞盛」は「實盛」の誤記(「廿七日」も同じ誤りであるが、「奥の細道」本文でも「眞盛」とあり、通行する決定稿でも二箇所の内の後者が「眞盛」のままである。ということは実は当時は「實盛」は「眞盛」とかく書いて通用したのかとも思わせる。無論、「實」と「眞」の崩し字は近似するが、これだけ改稿されたものがそこだけ最後の最後までたまたま誤字が残ってしまったと言うのは私には考えにくいのである)。「藤井」は「藤村」の誤り。]

一 廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歡生方ヘ被ㇾ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終テ歸ル。庚申也。

一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧ト・志格等來テ留トイヘドモ、立。伊豆畫甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。眞盛が句也。予・北枝隨ㇾ之。

 

とあって、実はこの句が実際に齋藤別当実盛の供養のために、多太八幡神社に奉納されたのは小松を発つ、二十七日であった。しかし、御覧の通り、実際の多太神社参詣は二十五日であり、感懐のシンクロニティとしては二十五日以外にはない。

 因みに『予・北枝之に隨ふ』とあるのは「卯辰集」に、

 

  多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書、

  並に實盛がよろひかぶとを拜す

   三句

 

あなむざん甲の下のきりぎりす   芭蕉

 

幾秋か甲にきへぬ鬢の霜      曽良

 

くさずりのうら珍しや秋の風    北枝

 

と載るものを指す。

 

 斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二年六月一日(グレゴリオ暦一一八三年六月二十二日)は藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠としたことから長井別当と呼ばれた。以下、参照したウィキの「斉藤実盛」より引用する(アラビア数字は漢数字に代えた)。『武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿二年(一一五五年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)』。『実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である』。『保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承四年(一一八〇年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという』。『寿永二年(一一八三年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成』す(以下で私が原文を掲げてある)。以下、「史跡・伝承について」の項の「『前賢故実』による斎藤実盛」、『室町時代前期の応永二一年(一四一四年)三月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した四日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行十四世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという』。『これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている』。『実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがあ』り、そこから稲の害虫として知られる『稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれ』て怖れられた。享年七十三。

 最後の伝承は鎌倉権五郎景政と同様に剛腕の荒武者は死してもそのパワーが残り、祭祀を疎かにすると禍いを起こすというタイプの御霊(ごりょう)信仰であるが、私は実盛の事蹟を考える時、彼を短絡的にかのおぞましいウンカ(御存じない方が多いが植物吸汁性ながら人を刺す)如きに喩えたこの習俗としての虫送りが今一つ好きになれないのであるが、逆に言えば、そうした伝承の中で実盛への民草の畏敬の念は続いていたのでもあった。

 私の偏愛する「平家物語」の当該のシークエンスを引く。底本は昭和四七(一九七二)年講談社刊高橋貞一校注「平家物語」を一応の底本にしたが、句読点や改行などを適宜追加した。まずは「「巻第七 篠原合戰」の冒頭(実盛が登場、味方を試して一味同心を確かめる最後に「むざん」が既にして出る。最初にこの多田八幡神社も義仲の神領寄進に登場している。下線はやぶちゃん)。

   ※

 木曾殿やがて其處にて諸社へ神領を寄せらる。多田八幡(ただのやはた)へは蝶屋(てふや)の庄(しやう)、菅生社(すがふのやしろ)へは能美(のみ)の庄、氣比社(けひのやしろ)へは飯原(はんばら)の庄、白山社(はくさんのやしろ)へは横江(よこえ)、宮丸二箇所を寄進す。平泉寺(へいせんじ)へは藤島七郷(ふぢしましちがう)をぞ寄せられける。

 去んぬる治承四年八月石橋山の合戰の時、兵衞佐殿、射奉りし武士ども、皆、逃げ上つて、平家の御方にぞ候ひける。

 宗徒(むねと)の者には長井(ながゐの)齋藤別當實盛、浮巣三郎重親、俣野五郎景久、伊藤九郎助氏、眞下(ましもの)四郎重直なり。これらは皆、軍(いくさ)のあらん程、暫く休まんとて、日毎に寄り合ひ寄り合ひ、巡酒(じゆんしゆ)をしてぞ慰みける。先(ま)づ長井齋藤別當が許に寄り合ひたりける日、實盛申しけるは、

「つらつら當世の體(てい)を見候に、源氏の方はいよいよ強く、平家の御方(おんかた)は負色(まけいろ)に見えさせ給ひて候。いざ、各(おのおの)木曾殿へ參らう。」

と云ひければ、皆、

「さんなう。」

とぞ同(どう)じける。

 次の日、また浮巣三郎が許に寄り合ひたりける時、齋藤別當、

「さても昨日、實盛が申しし事は如何に、各(おのおの)。」

と云ひければ、その中に俣野五郎景久、進み出でて申しけるは、

「さすがわれらは、東國では人に知られて、名ある者でこそあれ。吉について彼方(あなた)へ參り、此方(こなた)へ參らん事は、見苦しかるべし。人々の御心(おんこころ)をば知り參らせぬ候(ざふらふ)。景久に於ては、今度平家の御方(おんかた)で討死せんと思ひ切つて候ふぞ。」

と云ひければ、齋藤別當、あざ笑つて、

「誠には各(おのおの)の御心どもを、かな引かんとてこそ申したれ。實盛も今度(こんど)、北國(ほくこく)にて、討死せんと思ひ切つて候へば、二度(ふたたび)命(いのち)生きて、都へ歸るまじき由、大臣殿(おほいとの)へも申し上げ、人々にもその樣(やう)を申し置き候。」

と云ひければ、皆、又、この儀にぞ同(どう)じける。その約束を違(たが)へじとや、當座(たうざ)にありける二十餘人の侍どもも、今度、北國にて皆、死ににけるこそ無慙(むざん)なれ

   ※

 因みに、ただの思いつきなのだが、この一同が声を合わせる「さんなう」というのは「そうだなあ」という意の感動詞である。小松で芭蕉を迎えて人々が参集して開かれた「山王會」(さんわうくわい)という名称には、もしかするとこの「平家物語」の「さんなう」が掛けられているのではあるまいか? 「大臣殿」は平宗盛。

 次に「巻第七 實盛最後」全段。

   *

 落ち行く勢の中に、武藏國の住人、長井齋藤別當實盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に萌黄縅(もよぎをどし)の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を帶き、二十四差(さ)いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓持つて、連錢葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乘つたりけるが、御方の勢は落ち行けど、唯一騎返し合はせ、返し合はせ、防ぎ戰ふ。

 木曾殿の方より、手塚太郎、進み出でて、

「あな、やさし、いかなる人にてわたらせ給へば、御方の御勢は、皆、落ち行き候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそ優(いう)に覺え候へ。名乘らせ給へ。名乘らせ給へ。」

と、詞をかければ、

「先(ま)づかういふわ殿は誰(た)そ。」

「信濃國の住人、手塚太郎金刺(かなざしの)光盛。」

とこそ名乘つたれ。

 齋藤別當、

「さては互(たがひ)によき敵(かたき)、但し、わ殿を下(さ)ぐるにはあらず。存ずる旨があれば、名乘る事はあるまじいぞ。寄れ、組まう、手塚。」

とて馳せ竝(なら)ぶる處に、手塚が郎等(らうどう)、主(しゆ)を討たせじと中に隔たり、齋藤別當に押(おし)竝べて、むずと組む。實盛別當、

「あつぱれ、おのれは、日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者と組んでうずなうれ。」

とて、わが乘つたりける鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつとも動(はたら)かさず、首搔き切つて捨ててけげる。

 手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手(ゆんで)に廻り合ひ、鎧の草摺(くさずり)引上げて、二刀(ふたかたな)刺し、弱る處を組んで伏す。齋藤別當、心は猛(たけ)う思へども、軍(いくさ)にはしつかれぬ、手は負うつ、その上、老武者(おいむしや)ではあり、手塚が下にぞなりにける。

 手塚太郎、馳せ來(きた)る郎等に首取らせ、木曾殿の御前に參り、畏(かしこま)つて、

「光盛こそ奇異の曲者(くせもの)と組んで、討つて參つて候へ。侍(さぶらひ)かと見候へば、錦の直垂を着て候。又大將軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘れ、名乘れと責め候ひつれども、遂に名乘り候はず。聲は坂東聲(ばんどうごゑ)にて候ひつる。」

と申しければ、木曾殿、

「あつぱれ。これは、齋藤別當にてあるごさんなれ。それならんには、義仲が上野(かうづけ)へ越えたりし時、をさな目に見しかば、白髮(しらが)のの糟尾(かすお)なつしぞかし。今は早(はや)七十にも餘り、定めて白髮にこそなりぬらんに、鬢鬚(びんひげ)の黑いこそ怪しけれ。樋口次郎兼光は、年來(としごろ)馴れ遊んで、見知りたるらん。樋口召せ。」

とて、召されけり。

 樋口次郎、唯一目見て、

あな無慚(むざん)、齋藤別當にて候ひけり。」

とて涙を流す。

 木曾殿、

「それならんには、早七十にも餘り、白髮にもなりぬらんに、鬢鬚の黑いは如何に。」

と宣へば、ややあつて樋口次郎、涙を押へて申しけるは、

「さ候へば、その樣(やう)を申し上げんと仕り候ふが、餘りに哀れに覺え候うて、先づ不覺の涙、こぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取る身は、聊かの所にても、思出(おもひで)の言(ことば)をば、かねて遣ひ置くべき事にて候ひけるぞや。實盛別當、常は兼光に逢(あ)うて、物語りにし候ひしは、

『六十に餘つて、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黑う染めて、若(わか)やがうと思ふなり。その故は若殿ばらに爭うて、先を驅けんもおとなげなし。又、老武者とて人の侮られんも口惜しかるべし。』

と申しければ、木曾殿、さもあるらんとて、洗はせて御覧ずれば、白髮にこそなりにけれ。

 又、齋藤別當、錦の直垂を着ける事も、最後の暇(いとま)申しに大臣殿(おほいどの)の御前に參つて、

「かう申せば、實盛が身一つにては候はねども、先年、坂東へ罷り下り候ひし時、水鳥の羽音に驚き、矢一つだに射ずして、駿河の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老の後(のち)の恥辱、只この事候。今度(こんど)、北國へ罷り下り候はば、定めて討死仕り候ふべし。實盛元は越前國の者にて候ひしが、近年、御領につけられて、武藏國長井に居住仕り候ひき。事の譬(たとへ)の候ぞかし。『故郷へは錦を著(き)て歸る』と申す事の候へば、何か苦しう候べき。錦の直垂を御免候へかし。」

と申しければ、大臣殿、

「優しうも申したりけるものかな。」

とて、錦の直垂を御免ありける、とぞ聞えし。

 昔の朱買臣(しゆばいしん)は、錦の袂を會稽山(くわいけいざん)に飜し、今の齋藤別當は、その名を北國の巷(ちまた)に揚(あ)ぐとかや。朽ちもせぬ、空しき名のみ留め置いて、骸(かばね)は越路(こしぢ)の末の塵となるこそ哀れなれ。

 去(さ)んぬる四月十七日、平家十萬餘騎にて、都を出だでし事柄は、何面(なにおもて)を向かふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に都へ歸り上るには、その勢、僅(わづか)に二萬餘騎、

「流れを盡くして漁(すなど)る時は、多くの魚(うを)を得るといへども、明年(めいねん)に魚なし。林を燒いて獵(か)る時は、多くの獸(けだもの)を得るといへども、明年に獸なし。後(のち)を存じて、少々は殘さるべかりけるものを。」

と申す人々もありけるとかや。

   ※

 次にこの「平家」を下敷きとした芭蕉の第二の本歌で、直接の上五の引用である謡曲の伝世阿弥作「実盛」をダイジェストしておく。これは先の実盛の引用に出た室町前期の応永二一(一四一四)年三月、加賀国江沼郡の潮津道場にて時宗遊行十四世他阿太空が七日七夜に及ぶ別時念仏を催した際に白髪の老人(実盛の霊)が現れて十念を受けて群衆の中に消えて行ったという伝承をもとにした夢幻能である。

 加賀の篠原。遊行の他阿彌上人(ワキ)の説法の場に老翁(前シテ)が近づき、聴聞の法悦を詠嘆するが、この老翁が周囲の人々には見えていない(その怪異は冒頭の聴聞を聴きに来た狂言方の里の男(アイ)の口開けよって初めから示されている。これは現在能の手法で夢幻能では異例)ことから、その素性を問うと、古えここで討たれた実盛の執心の霊と名乗って池畔に消える。

 里の男によって実盛の最期が語られ、池畔で上人による別時念仏の弔いが修されると、実盛の霊(後ジテ)が現われて、弥陀を讃仰、白き鬢鬚の華やかな出立ちの老武者の霊は、修羅道の苦患(くげん)の救済を乞い、弥陀の大慈悲心による往生を信じて安堵、以下、生前の慚愧(ざんき)を懺悔(さんげ)するという形で、かの「平家」の最期の場面が実盛の霊自身によって語られるのである。

 引用は新潮日本古典集成「謡曲集 中」(伊藤正義校注新潮社昭和六一(一九八六)年刊)を参考にしながら、正字で示した。下線はやぶちゃん。

   *

シテ「時いたつて今宵逢ひ難き御法(みのり)を受け」

地 「慚愧懺悔の物語。なほも昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。草の蔭野(かげの)の露と消えし。有樣語り申すべし」

シテ「さても。篠原の合戰(かせん)破れしかば。源氏の方に手塚の太郎光盛。木曽殿の御前に參りて申すやう。光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ。大將かと見れば續く勢もなし。又侍かと思へば錦の直垂を着たり。名のれ名のれと責むれども終に名のらず。声は坂東声にて候ふと申す。木曾殿あつぱれ長井の齋藤別當實盛にてやあるらん。しからば鬢鬚の白髮たるべきが。黑きこそ不審なれ。樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば。樋口參り唯一目見て。涙をはらはらと流いて。あな無慚やな。齋藤別當にて候ひけるぞや。實盛常に申ししは。六十に餘つて戰をせば。若殿ばらと爭ひて。先をかけんも大人氣なし。又老武者とて人々に侮(あなづ)られんも口惜しかるべし。鬢鬚を墨に染め。若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。申しもあへず首を待ち」

地「おん前を立つてあたりなる。この池波の岸に臨みて。水の綠も影映る。柳の糸の枝たれて」

地 〽気(き)霽(は)れては 風(かぜ)新柳(しんりう)の髮を梳(けづ)り 氷消えては 波(なみ)舊苔(きうたい)の 鬚を洗ひて見れば 墨は流れ落ちてもとの 白髪となりにけり げに名を惜しむ弓取りは 誰(たれ)もかくこそあるべけれや あらやさしやとて 皆(みな)感涙をぞ流しける

地 〽また実盛が 錦の直垂を着る事 私(わたくし)ならぬ望なり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すやう 故郷へは錦を着て 歸るといへる本文(ほんもん)あり 実盛生國は 越前の者にて候ひしが 近年御領に附けられて 武藏の長井に居住つかまつり候ひき 此度北國に 罷り下だりて候はば 定めて討死つかまつるべし 老後の思出これに過ぎじ 御免あれと望みしかば 赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ

シテ〽然れば古歌にももみぢ葉を

地 〽分けつゝ行けば錦着て 家に歸ると 人や見るらんと詠みしもこの本文の心なり さればいにしへの 朱買臣は 錦の袂を會稽山に翻へし 今の實盛は名を北國の巷に揚げ かくれなかりし弓取りの 名は末代に有明の 月の夜すがら 懺悔物語申さん

地 〽げにや懺悔の物語 心の水の底淸く 濁りを殘し給ふなよ

シテ〽その執心の修羅の道 巡り巡りてまたここに 木曾と組まんとたくみしを 手塚めに隔てられし 無念は今にあり

地 〽続く兵(つはもの)たれたれと 名のる中にもまづ進む

シテ〽手塚の太郎光盛

地 〽郎等は主を討たせじと

シテ〽驅け隔たりて實盛と

地 〽押し並べてくむところを

シテ〽あつぱれ おのれは日本一(につぽんいち)の 剛の者と組んでうずよとて 鞍の 前輪に押しつけて。首 搔き切つて捨ててんげり。

地 〽其後手塚の太郎 實盛が弓手に囘(まは)りて 草摺りを疊み上げて 二刀刺すところを むずと組んで二匹が間(あひ)に どうと落ちけるが

シテ〽老武者の悲しさは

地 〽戰には爲疲(しつか)れたり 風にちゞめる 枯木(こぼく)の力も折れて 手塚が下に なるところを 郎等は落ちあひて 終に首をば搔き落とされて 篠原の 土となつて 影も形もなき跡の 影も形もなむあみだぶ 弔ひて賜(た)び給へ 跡弔ひて賜び給へ

   *

「きりぎりす」現在のコオロギ。山本健吉氏は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科コオロギ亜科ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado に種同定されている(といってもこれは特別な種ではなく、実が我々が「コオロギ」と呼んでいる種の正式和名である)。和名は「綴れ刺せ蟋蟀」で、古くはコオロギ全般の鳴き声が「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来すると参照したウィキの「ツヅレサセコオロギ」にある。

 本句は首実検をする見立てである。さればこそ「あなむざんやな」と歎く主体は実際の証人たる義仲四天王の一人で乳兄弟ではなく、それを認めたところの木曽義仲自身である。即ち、本句は実は芭蕉が義仲であり、句背にある芭蕉の愛した義仲へのオマージュこそが「あなむざんやな」の感懐の真実の対象である。「奥の細道」はどうしても旅程の関係上、芭蕉が好きだった今一人の悲劇の武将義経に絡みがちであり、芭蕉も判官贔屓は文字通り義経でそれを前面に押し出す方が読者の共感も遙かに得られるものと胸算用したものとは思われる。そうした偏向の不満を謂わば自身の心内で補正する働きが、この句には潜んでいるように思われる。

 孰れにせよ、私は実盛が好きで、さればこそ、この句も芭蕉の好きな句を想起せよと言われると、五番以内に挙がってくる句なのである。

 しかし、私は俳諧的諧謔性を伝家の宝刀とする安東次男氏のように、私と同様、首実検の思付としながらもそこに、『見得が生じ、滑稽も現れる』という風にはとれないし、『こういう句をいたずらに感傷的に読むと解釈を誤る』(以上は「古典を読む おくのほそ道」)という言説にはやはり承服し得ない。

 寧ろ、山本健吉氏が「芭蕉全句」の評釈で述べるように、実盛の『亡霊の化身かのように冑のほとりにはきりぎりすが』鳴き、『実盛が虫に化したという伝承』が連動して、『不気味で無慙な感じを深め』、『前に平泉の光堂で』「螢火の晝は消つゝ柱かな」(以前に述べた通り、この句は結局は捨てられたが)『と、柱にとまる昼の蛍を詠んだのも、歴史を蘇らせた白日夢であった』という覚悟の武者(もののふ)らをイメージした「直き」解釈(少なくとも私はこの句に諧謔を感じないからである)に強く惹かれるのである。

 「奥の細道」の小松の段を示しておく。

   *

   小松と云處にて

  しほらしき名や小松吹萩薄

此所太田の神社に詣齋藤別

當眞盛が甲錦の切あり往昔

源氏に

属せし時義朝公より給はらせ給ふとかや

けにも平士のものにあらす目庇より

吹返しまて菊から艸のほりもの金

をちりはめ龍頭に鍬形打たり

眞盛討射死の後木曾義仲願

狀にそへて此社にこめられ侍る

よし樋口の次郎か使せし事共

まのあたり緣起にみえたり

  むさむやな甲の下のきりぎりす

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇齋藤別當眞盛が甲錦の切 → ●實盛が甲錦の切

[やぶちゃん字注:「齋藤別當」の除去と、「眞」が「實」となっている二箇所。]

○往昔源氏に屬せし時   → ●其(その)昔源氏に屬せし時

[やぶちゃん字注:「往昔」は「そのかみ」と訓じている可能性が強く、ここは実際には異同とは言えぬ。]

○射死          → ●討死

■やぶちゃんの呟き

「錦の切」「平家物語」に出た、宗盛に願い出て賜わった鎧の下に着用する赤地錦の鎧直垂。

「目庇」「まびさし」と読む。眉庇。鉢から正面に庇のように張り出された額の防護部。

「吹返し」可動性を高めるための、兜の側面の錏(しころ:兜の鉢の左右・後方に垂らして首から襟の防御とするもの。一般には札(さね)又は鉄板を三段乃至五段下りとして縅し附ける。)の両端が上方へ折れ返っている部分。

「菊から草」菊唐草。菊の花に唐草模様をあしらった文様。

「龍頭」兜の前面に附ける飾り。立物(たてもの)。

「鍬形」元は鍬を象ったところから、兜の前部に附けて威厳を添える前立物の一つで、金属や練り革で作った二枚の板を眉庇つけた台に挿して角状に立てたお馴染みのもの。

 この実際の兜は修復されたものが神社公式サイトで見られ、そこには兜正面にある祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の神号が浮彫りにされているのが分かる。

「木曾義仲願狀にそへて、此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎か使せし事共、まのあたり緣起にみえたり」「木曾義仲願狀」義仲が実盛の兜や鎧直垂といった遺品とともに多太神社に供養の趣旨を認めて奉納した文書。「緣起にみえたり」とあるが、これは誤りで、実際にはその「木曽義仲願狀」の中に、

 

磋乎苦哉、某甲與公執父子之約僅七日、罔極悲其爲誰哉、乃爲公菩提及義仲祈禱、所被甲錦直垂幷某甲表指箭、納于能美郡多田神社

〇やぶちゃんの勝手自在書き下し文

磋呼(ああ)、苦なるかな、某甲(なにがし)、公と父子の約を執るも、僅か七日にして、罔極(まうきよく)の悲しび、其れ、誰か爲さんや、乃ち公の菩提及び義仲の祈禱を爲し、被れる所の錦・直垂並びに某甲(なにがし)の表指(うはざし)の箭(や)、能美郡(のみのこほり)多田神社に納む。

 

と載るものを指す。

・「罔極」は極まりがない、果てしないこと。ここは幼き日に命を救ってくれた義父たる実盛に対し、報いよにも報いきれぬ恩を言った。「詩経」の「小雅」の「蓼莪」(りくが)篇に基づく語で、通常は「罔極之恩」で父母への大恩を指す。

・「表指の箭」とは、二本の鏑矢を他の矢より少し高く箙や胡簶(やなぐい)に差して置くこと。

 以上の引用文は御橋悳言(みはしとくごん)氏の続群書類従完成会刊行と思われる「平家物語證注下 第四巻」の注に出るものをグーグル・ブックスで視認したもので、訓読は力技の我流で自信がない。私の持つ関連書では見つからず、同神社公式サイトにも載らないので不本意な箇所もあるがさらけ出しておくこととする。是非、識者の御教授を乞う。

 

 斉藤実盛は如何にも芭蕉好みの武者(もののふ)であった。

 現在の研究では、芭蕉の出自である松尾家は平氏の末流を名乗る一族で、当時は苗字・帯刀こそ許されていたものの身分は農民であったとされ、異説も多いものの、伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠(かずえよしさだ:俳号、蝉吟。)に仕えていた若き日の彼は、その厨房役か料理人であったとされる(ここはウィキの「松尾芭蕉」に拠る)。

 しかしそれでもなおかつ、芭蕉自身は一種の「直くたくましきもの」としての「たけきもの」を志向し、自らをそのような意味に於ける地位や身分としての「武士」ではなく、精神的な意味に於ける武者(もののふ)として自認していたものと考えている。

 実盛・義仲・義経という存在は謂わば、そうした芭蕉の理想像として鏡像関係にあった。「奥の細道」にあっては――まさにウィトゲンシュタインが言うように――鏡像である彼らこそが――実に〈孤独者としての芭蕉という孤高の人〉を――説明している――と言い得るのであると私は思うのである――]

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