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2014/09/23

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 始動 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百四十七号「鎌倉江の島名所圖會」である。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。因みに先に電子化し注を附した、この一年後の明治三十一年八月二十日発刊になる同誌の「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」に先行する一年前のもので、「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」は謂わば本誌の補完号であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷(しょうこく 明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年山本昇雲(本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した(但し、冒頭の「鎌倉」(総説部)の傍点は「○」である)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部のルビの誤字は注記せずに訂した。原則、各項の最後に注を附し(長い条の場合は途中に入れた)、その後は一行空けとした(但し、短いものは行空けを施さずにおいた部分もある)。私には「新編鎌倉志」と「鎌倉攬勝考」及び沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」等のオリジナル注を附した全本文電子化テクストがあり、それを踏まえた上で、それでもカバー出来ない若しくはここでは再注が必要と思われた場合、私自身の智が読解するに不十分と思われる場合にのみ限定してあるので悪しからず。【ブログ始動:2014年9月23日】]

 

Img099_2

[やぶちゃん注:同誌表紙。せめても本電子テクスト化のためにも、ここに公開しておきたい。表紙絵「鎌倉停車場の圖 松谷」と右上方にある)ではなく、本を撮ったものとして、トリミングをせずにおく。]

 

Hgkamamokuji

 

[やぶちゃん注:表紙見開き。目次。この電子化は労多くして、益なきものなれば御勘弁願う。十分判読出来る大きさで撮ってある。]

 

[やぶちゃん注:ここに山本松谷の、掬すべき見開きの「七里ヶ濱より江の嶋を望むの圖」が入る(著作権存続のため省略)。大いなる雪を被った富士と、延びた砂洲とそこに一直線に続く細い弁天橋、その先の江の島の偉容(富士同様、かなり誇張されて大きめに描かれてある)を遠景に、可愛らしい裸の童子の一群が浜辺に遊び、多くの男女の観光客が描かれる。洋装は鞄にステッキの男性一人で他は皆、和装である。右手前には陸揚げされた漁師の舟が四艘並び(二艘は舳先のみ)、漁師たちは網を背負って仕舞ったり、舟内の垢を拭っており、周囲には蟹で遊んだりする地元漁師のそれと思しい半裸の子らが描かれてある。右手から左手前水際にかけて浅い極楽寺川と思しい川が海へ流れ込んでおり、そこを徒歩渡りする人々も描き込んである。左手手前にはかなり大きな岩場の端が覗いていることから、この絵が稲村ヶ崎からのロケーションであることを示しているように思われる(距離感覚は圧縮されてパースペクティヴにはデフォルメがある)。漁師の中央に菅笠を被って傘を刀のように挿した後姿の男がおり、右手には筆を持ち、画帳のようなものを開いて小動の鼻(先が弁天橋のたもと辺りまで延びており、少し実景とは異なる)と思しい右手陸の方を向いて頻りにスケッチしているように描かれているのは松谷自身であろうか。]

 

〔『風俗畫報』臨時増刊〕「鎌倉江島名所圖會」〔明治三十年八月廿五日〕

    ●總説

     鎌倉

鎌倉は相摸國鎌倉郡に屬し、当難は山嶺を以て武藏國久良岐郡相摸國三浦郡に隣り、北西又丘陵起伏して本郡の諸村と界(さかい)し、南は相摸灘に臨み、遙に伊豆の大島と相(あひ)對す。幅員(ふくゐん)東西二里、南北一里四丁、周圍六里餘、三方山を繞(めぐ)らし一面海に瀕(ひん)し、固(まこ)とに關東の一名區と爲す。

[やぶちゃん注:「久良岐郡」古代の郡衙(ぐんが)の名を継いだ旧郡名。ウィキの「久良岐郡」によれば明治一一(一八七八)年、『行政区画として発足した当時の郡域は、横浜市中区、南区、西区、磯子区、金沢区および南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)にあた』り、『行政区画として発足した当時に隣接していた郡は』橘樹郡(たちばなぐん:鶴見区・神奈川区全域と西区保土ケ谷区港北区の一部及び川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区全域と麻生区の一部を含む郡。)・鎌倉郡・三浦郡(古代の郡域はさらに北の鶴見川まで広がっていたと考えられている)。『現在は、中村川と堀割川の分岐点の久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめる』のみ。]

 

沿革 郡名の國史に見えしは、三代實錄を始めとす、古事記景行天皇の條に、足鏡別王は、鎌倉の別か祖と見えたれは、鎌倉の地名も、最舊き唱(せう)なり、倭名鈔にも郡名を載せ、加末久良(かまくら)と唱を附す、萬葉集中にも、しか記せり。古風土記殘本(ざんぽん)には、鎌倉は屍藏なりと見え、詞林釆葉抄には、大職冠鎌足、大藏(おほくら)の松岡に、鎌を埋めしよみ、鎌倉の唱(となへ)ありと云ふ、其(その)後裔、染屋太郎太夫時忠、此地に居住し、其後平將軍貞盛の孫上總介直方、此に居住し、伊豫守賴義、相摸守に任(にん)して、下向せし時、直方が婿となり、義家を設け鎌倉を讓りしより、源家相傳の地たり。斯(かく)て治承四年、賴朝兵を起すに當り、安達藤九部盛長、賴朝に申して、居を此地に移さん事を述(の)ふ、是年十月六日、賴朝遂ひに鎌倉に遷る、遂に平家を亡(ほろぼ)し、覇府(はふ)を開きしより繁榮の地となれり、貞應二年光行が紀行に、其頃の風景繁華を記す、古昔を想像するに足る。賴朝より相承(あひつい)て三世、威令(いれい)四方に行はれしかとも、老臣北條時政、執權の職(しよく)に任せしより、他に與奪せず、子孫其職を襲(つ)きしかは、遂に廢立(はいりつ)の事を恣にして、威權(ゐけん)自ら其一門に歸(き)し、九世高時に至り、奢侈殊に甚しく、元弘三年五月、新田義貞が爲に、敗亡しに及びて、一旦朝廷に歸し、建武二年足利尊氏叛(はん)して鎌倉に據り、再幕府を開き、其子左兵衞督基氏を、開東の管領(くわんれう)にして、此地に置かる、夫より左馬頭氏滿、左兵衞佐滿兼、左兵衞持氏、相繼(あひつい)て管領たり、其後左頭成氏、關東の主となるに至り、執事上杉右京亮憲忠と、矛盾に及ひしかば、寶德四年六月、京師(けいし)よる討手(うつて)として、今川上總介範忠、下向あり、成氏是か爲に沒落し、遂に武藏國菖蒲に遁れ、又下總國古河に移る、是よりして扇谷の上杉定正、山内の上杉顯定と數年戰爭の地となれり、斯て後星霜(せいさう)を經て、荒凉たる村落とはなりにけり、上杉氏衰微して三浦義同の所領となる、永正十五年義同北條早雲の滅す所となり、爾後同氏五世の間之を領す、小田原北條氏割據(かつきよ)の頃は、郡中の地を割(さい)て、諸士に附與せり、天正十八年北條氏亡びて德川氏之れに代り、御料及び松平大和守、大久保佐渡守か封邑(ほういう)、麾下(きか)の士の釆地と爲す、明治元年太政(たいせい)維新の際韮山縣所管に屬し、同年十二月神奈川縣管轄となりぬ。

[やぶちゃん注:「三代實錄」「日本三代実録」。六国史の第六番目。五〇巻。藤原時平・大蔵善行らが宇多天皇の勅をによって撰修した。昌泰四年・延喜元(九〇一)年完成。清和・陽成・光孝の三代(天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年)の凡そ三十年間を編年体で記述したもの。

「景行天皇」伝承年代では西暦二七一~三一〇年相当。

「足鏡別王は、鎌倉の別か祖」「古事記」(和銅七(七一二)年成立)の「中つ巻」の景行天皇の倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜を綴った条に、彼と山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)との間に生まれた足鏡別王(あしかがみわけのみこ)について、

足鏡別王者、〔鎌倉之別、小津石代之別、漁田之別之祖也。〕

 足鏡別王は、鎌倉の別(わけ)、小津(をつ)の石代(いはしろ)の別、漁田(すなきだ)の別の祖(おや)なり。〕

と記す。この「別」とは古代の姓(かばね)の一つで、皇族の子孫で地方に封ぜられたと指す氏族の姓であるから、これは「鎌倉」氏というヤマトタケルの苗裔がいたことを意味しているのみであって、果たしてそれが事実、同地名として後に現われる相模の鎌倉と関わるかどうかは不明である。これを除けば、以下の記載は「新編鎌倉志卷之一」の冒頭の「鎌倉大意」や「鎌倉攬勝考卷之一」の「鎌倉總説」に記されてある。不明の箇所があれば、それぞれの本文及びそれぞれの私の注を参照されたい。十分にカバーしてあるつもりである。

「武藏國菖蒲」現在の埼玉県久喜市菖蒲町(しょうぶまち)。ここの新堀(旧武蔵国埼玉郡新堀村)には古河公方足利成氏が康正二(一四五六)年に築城させた菖蒲城があった(五月五日の菖蒲の節句に竣工したことによる命名)。また、成氏が室町幕府及び管領上杉憲忠との抗争過程で、鎌倉から古河へ転戦する際、享徳四(一四五五)年六月に『武州少府(しょうふ)』という場所に一時逗留した旨の記述もあり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力であると、参照したウィキの「菖蒲城」にある。

「松平大和守」江戸中期の大名で武蔵川越藩藩主であった松平朝矩(とものり)及びその曾孫で幕命により相模警護役となった第五代藩主松平典則か(ここまでの松平家は代々が大和守)。「新編相模国風土記稿」には朝矩の所領として鎌倉郡十三ヶ村が含まれている。因みに、江戸時代の鎌倉は幕府の直轄領であった。

「大久保佐渡守」下野烏山藩(現在の栃木県那須烏山市城山)第六代藩主大久保忠保か。同藩は大久保家が藩主となった享保年間以降、相模国鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部をも支配し、愛甲郡厚木町(現在の神奈川県厚木市)に厚木陣屋(厚木役所)を置き、相模国内支配の拠点としていたとウィキ下野烏山藩にある。

「封邑」封ぜられた領地。封地。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来(狭義には旗本)を指す。

「釆地」采地(さいち)領地。知行所。采邑(さいゆう)。

「太政」「おおまつりごと」で、天皇の政治の意。大政に同じ。

「韮山縣」慶応四(一八六八)年に駿河国・相模国・武蔵国・甲斐国内にあった幕府領・旗本領及び伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の静岡県・神奈川県・埼玉県・山梨県・東京都多摩地域など、非常に広域に分布している。但し、同年十二月には相模国鎌倉郡・三浦郡の管轄地域を新設の神奈川県に移管している明治四(一八七一)年の廃藩置県後の第一次府県統合に伴って廃止された(以上はウィキ韮山県」に拠る)。

 

區分 鎌倉を區劃(くくわく)して雪之下、小町、大町村、扇ケ谷、西御門前村、山之内村、二階堂村、長谷村、阪之下村、極樂寺村、亂橋材木座村、淨明寺村、十二所村、峠村となす。

 以下、底本では「峠村」まで、全体が一字下げで、且つ、村落の解説の二行目以降は五字下げ。]

 

雪之下 古幕府の下にして、諸士の邸宅を搆(かま)へし地なり。

大町村 鎌府隆盛の頃は目抜きの街衢(かいく)にして、人煙稠密(じんえんちうみつ)、商賈(しようこ)繁榮を極む、今や空しく稻田麥圃、悵然として懷古の念を深からしむ。

小町 其昔群臣の邸宅を賜はり、其間市鄽(してん)駢羅(べんら)して、頗る饒富(きやうふ)の地なりしとぞ。茅屋四五、當時の面影だになし。

[やぶちゃん注:「商賈」「賈」は商品を売り買いする。また、商人の意。「商估」「商沽」(「估」「沽」ともに売るの意)とも書き、商人・あきんど・商店のこと。

「市鄽」市(いち)の店。

「駢羅」沢山の物が並び連なること。

「饒富(きやうふ)」「ぜうふ(じょうふ)」が正しい。豊かなこと。

西御門前村 賴朝舊館、西門の所在地に基て村名に唱ふ。

扇ケ谷 山間の地なるも昔は諸士の餓邸宅多く、遊廓假粧坂も此内にありき、足利氏の頃、管領上杉定正爰に住す、山川依稀(さんせんいき)たり寂寞(せきばく)の境。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」に、

◯扇谷〔附扇の井 飯盛山 大友屋敷〕 扇谷(あふぎがやつ)は龜谷坂(かめがやつざか)を越へて、南の方、西北は海藏寺、東南は華光院、上杉定政の舊宅、英勝寺の地を扇谷(あふぎがやつ)と云ふ。龜が谷の内なり。今里人扇が谷とばかり云ふ時は、藤谷(ふぢがやつ)の前、英勝寺の裏門前を、扇が谷と云。

とある(「定政」は誤記)。]

山之内村 往古首藤刑部丞義通莊園として此地に住す、其頃より山内と稱せり、後上杉顯定住す。草深く苔封ず。

[やぶちゃん注:「首藤刑部丞義通」山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち ?~平治元(一一六〇)年)は平安後期の武将。藤原秀郷の後裔首藤義通の子で山内首藤氏の祖。ここ相模国鎌倉郡山内荘に住んだ。保元・平治の乱では子俊綱とともに源義朝に従い、京都四条河原の戦いで討ち死にした(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

二階堂村 文治年中源賴朝奧羽凱旋の後、奧の大長壽院の二階堂に擬(ぎ)して、當所に二階堂を建立し、永福寺と號す、此地其寺域の内なるが故に名づく。

長谷村 觀音堂起立ありしより、寺號によりて村名となす。

極樂寺 當村極樂寺所在の地なるにより、即村名となれり。

坂之下村 村名の起りは傳へされど、山麓の村落にて、隣村(りんそん)極樂寺切通(きりどほし)の坂下は、當村の聚落なり、されば村名是に起れるなるべし。

亂橋材木座村 其昔一村たりしを元祿の頃分て二村とし、亂橋村、材木座村と別稱す、村人舊に因(より)て一村の如く村名も二名を合して唱呼す。

淨明寺村 五山の一淨明寺所在の地なる故、村の稱となれるなり、古刹雨に寠(やつ)れて萬骨(ばんこつ)枯(か)る。

[やぶちゃん注:「萬骨枯る」は故事成句「一将功なりて万骨枯る」(一人の成功が成就するためには、その背後に数多の犠牲がある)を寺域の衰亡のさまに用いたもの。]

十二所村 同所に熊野十二所の社(やしろ)あり、是を村鎭守とす、されば是より村名も起りしなるへし。

峠村 鎌倉の東北隅にあり、峯高く溪(たに)深し、武州久良岐郡に界(さかい)し金澤往還なり、村名考ふるまでもなし。

[やぶちゃん注:「峠村」朝比奈切通しから朝比奈峠を越えたさらに現在の金沢区朝比奈町一帯を含む。現在の六浦側の朝比奈一帯も古くはずっと鎌倉郡に含まれていた。新編鎌倉志卷之八の「朝夷名切通」には、
   *

《峠坂》此の坂道を峠の坂と云ふ、坂の下六浦(むつら)の方を峠村(とうげむら)と云ふ。

   *

とあり、しかも同書では六浦側の「鼻缺(はなかけ)地藏」の項で、

   *

鼻缺地藏は、海道の北の岩尾(いわを)に、大ひな地藏を切り付てあり。是より西は相州、束は武州なり。相・武の界にあるを以て、界(さかひ)の地藏と名く。

   *

とあることからも、この「峠村」が鎌倉郡内の独立した一村であったことが分かる。これについては、kanageohis1964 氏がブログ「地誌のはざまに」の【武相国境】峠村は何故鎌倉郡に属していたのか?で詳細な考察をなさておられる。優れた引用なので失礼してお借りすると(一部の新字を正字に直させて戴いた)、まず、以上の記載以降では、「新編相模國風土記稿 卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」に、

   *

峠村[多不牙牟良]

江戸より行程十二里小坂鄕に屬す、家數十八、東西七町半南北八町許[東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良伎郡の屬、西、郡内十二所村、]新田[高六石七斗九升二合、]……

◯鼻缺地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云[長一丈許]是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缺損せし如くなれば鼻缺地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缺とは唱へしなりと云、

   *

とあり、また、「皇國地誌 村誌 相模國鎌倉郡峠村」には、

   *

本村往古ヨリ本郡ニ屬シ鎌倉大倉郷ノ内ニアリ此地鎌倉ヨリ六浦ニ出ル坂路[即チ朝夷奈切通是ナリ]アリテ之ヲ峠坂ト呼ブ其下方ニアル部落ナルヲ以テ峠村ト名クト云鎌倉府ノ頃ハ大倉ノ内ノ小名ナリシヲ德川幕府ノ初ヨリ獨立ノ一村トハナレリト云……

地味
灰色ノ腐壚多ク間々細砂ヲ混スル所アリ其質瘠薄諸植物ニ宜シカラズ水旱ノ兩災ハ甚稀ナリ……

戸數
本籍平民     十八戸
社         一戸
寺         一戸

人口
本籍平民男   五十七人
同   女   六十六人
總計    一百二十三人
寄留平民男     一人
同   女     四人
總計        五人……

   *

とあるとする(……はブログ筆者による省略を示すものと思われる)。以下、朝比奈町内会編になる「朝比奈の歴史」(二〇〇四年刊)からの引用で、その後、『戦乱に明け暮れた中世の時代背景の下で、この国境いの山地に人が住みついて、村落が形成されるまでにはいた』らなかったこと、『朝比奈の地に、小さいながらも農耕を主業とする村落が生まれたのは、関が原の役(慶長五年、一六◯◯年)を節目として戦乱の世が終わり、平安な江戸時代に入ってから』であったこと、先の天正一九(一五九一)年の秀吉による天正検地に基づいて、『一箇の行政村「峠村」が誕生』、『相模国鎌倉郡峠(とうげ)村として、幕藩体制下の独立した一村として認知された』ことが述べられある。しかしこの『峠村の誕生には、一般の村にくらべて異例ともみられるほどのきわだった』『特色が指摘される』とし、それは『検地によって線引きされた峠村の位置で』、『通例の境界線は自然地形の河川または山脈・丘陵の尾根』が指標とあるはずであり、『そのような線引きの通例原則からすれば、自然地形上は武蔵国久良伎郡に所属すべき位置の峠村が相模国鎌倉郡に編入線引きされたのは』それから外れた『異例の扱い』と言える点であるとする。『これについては、この土地の鎌倉時代いらいの鎌倉との密接な歴史的関連性が重視されたものとおもわれ』ると当該書にはある。そこからkanageohis1964 氏は、

   《引用開始》

つまり、天正検地によって初めて「峠村」が行政上の実体を持ったという解釈です。それまではどうやら一時的にはともかく、この辺での集落の形成はあまり進まなかったために、空白地の様になっていたということでしょう。そして、実体が持たされると同時に峠村がその時代には鎌倉との結び付きが強かったために、結果的に相模国鎌倉郡と認知されるに至った、という訳です。

   《引用終了》

お推定なさっておられる。最後に同書にある『鎌倉郡から久良岐郡へと転籍して当時の六浦荘村、現在の横浜市金沢区と合併した経緯について』の引用も転記させて戴くと、

『江戸時代初期から約二百七十年間、独立した一個の行政村として存続してきた峠村は、御一新の改革によって制度上は姿を消しました』。『江戸時代の峠村は、異例の特殊事情から村請制を最大限に活用した自主独立の村づくりと組織づくりを進め、小さいながらも安定した完全自給自足の平和な農村として存立していました。これにたいして御一新の地方制度の改革は、村請制といった村落共同体の自治を否定し、全国のすべての村を一串いっし整然とした強力な中央集権国家の下部組織に組み込むことを目指したのです』。『明治二十二年に創設された東鎌倉村の東のはずれに位置する旧峠村の村民にとっては、大区小区制いらいの新しい村役場も村行政も、旧時代にくらべてあまりにもよそよそしい間柄に様変わりしたと目に映ったことでしょう。そしてそのことが、明治三十年(一八九七年)にいたって東鎌倉村(当時は町)大字峠が、地理的に近く、また経済的なつながりを強めつつあった東京湾側の隣村久良伎郡六浦荘村に、さしたる抵抗感なく郡を超えてまで編入されていく背景をなしていたといえましょう』とある。kanageohis1964 氏は最後に、『江戸時代には六浦藩の重税振りを尻目に旗本領の一ヶ村として自立した生活を営むことができたため、鎌倉郡に属していたことは峠村に相応にメリットがあった様ですが』、『それが失われてしまった以上、地の利が優先される行政区に所属する様になったのは時間の問題だった、というとになるのでしょうか』と推理されておられる。リンク先では地図などもあって非常に分かり易い。必見である(何故、長々とこの「峠村」について述べたかというと、私のこの地誌テクストを楽しみにしている教え子が一人おり、その彼女は、ここ朝比奈の出身だからである。特に kanageohis1964 氏、お許しあれかし。

 なお、ここまでが一字下げ。]

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