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2014/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅲ) 谷

 扇ケ谷、龜ケ谷、梅ケ谷、泉ケ谷(以上扇ケ谷)。大御堂ケ谷、蛇ケ谷(以上西御門前)。佐々目ケ谷、佐助ケ谷、松葉ケ谷、比企ケ谷、名越ケ谷、花ケ谷、經師ケ谷(以上大町)。葛西ケ谷(小町)。尾藤ケ谷、瓜ケ谷、蛇居ケ谷(以上山之内)。桑ケ谷(長谷)。馬塲ケ谷、月影ケ谷(以上極樂寺)。辨ケ谷(亂橋)。桐谷(材木屋)。釋迦堂ケ谷、宅間ケ谷、犬懸谷、胡桃谷、十二郷谷、泉水谷(以上淨明寺)。泉ケ谷、明石ケ谷、七曲リ谷、牛蒡ケ谷、多々羅ケ谷、積善ケ谷、番塲ケ谷(以上十二所)。

[やぶちゃん注:鎌倉は谷戸(やと)の町である。そして通常は概ね「〇〇ヶ谷」と呼称し、しかも「〇〇がやつ」と読む。鎌倉時代から、ごく小さな谷戸に至るまで、名がついており、この同定だけでも鎌倉地誌研究の大きなテーマ足り得るものである。私はここに出る谷戸名は、終わりの方の十二所の二つを除いて、ほぼ総てについて認識しているものではあるが、なるべく初心者にも比定地が分かるように総てに注しておくことにする。同定には先に示した「鎌倉實測圖」の他、所蔵する複数の鎌倉地誌関連本、特に東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊の白井永二編「鎌倉事典」を多く用いた。なお、山名と同じく読みは煩瑣なだけなので、ここでは現代仮名遣のみ示した。主な谷戸名と位置はこちら及びその作成サイト「いざ鎌倉」の「鎌倉の谷」が分かり易い。

「扇ケ谷」現在の扇ガ谷一丁目から扇ガ谷四丁目であるが、往時のそれはもっとその周縁へと及んでおり、しかもその中に以下に出る「梅ケ谷」「泉ケ谷」などの谷戸を含む。「鎌倉歩け歩け協会」の「鎌倉の谷戸」によれば、『時計回りに「無量寺ヶ谷」「智岸寺谷」「御前ヶ谷」「山王堂ヶ谷」「梅ヶ谷」「会下ヶ谷」「清涼寺ヶ谷」「法泉寺ヶ谷」「勝縁寺谷」「藤ヶ谷」「泉ヶ谷」とそれぞれに名前がついた』十一の谷戸を数えることが出来るとある。因みに名は、前記「鎌倉事典」によれば、先の「山嶽」で注した扇ヶ谷にある飯盛山の麓にある『扇の井にちなむと言うのが俗説』とあるものの、『鎌倉時代には『吾妻鏡』に「義朝の亀谷旧跡」』(次注参照)『とあるように、亀谷(かめがやつ)が総称で、扇ケ谷の名はみえない。後世、管領上杉定正がこの地に住み、家名をあげて扇ケ谷殿と称せられてから亀ケ谷の名がすたれ、扇ケ谷とよぶようになったといわれて』いる。尤も、最も古い部類では「太平記」巻十の新田義貞鎌倉攻めの「鎌倉兵火の事 付けたり 長崎父子武勇の事」の記事中に、『かかるところに、天狗堂(てんぐだう)と扇谷(あふぎがやつ)に軍(いくさ)有りと覺えて』とあり、鎌倉後期には既に定着していた地名であることが窺える。

「龜ケ谷」前注に示したように、元来は「扇ケ谷」の古称と考えてよい。名は位置からも恐らくは鶴岡八幡宮寺の対としてついたものと思われる。初出は「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月七日の頼朝鎌倉初入城の条で、『七日丙戌。先奉遙拜鶴岡八幡宮給。次監臨故左典厩〔義朝。〕之龜谷御舊跡給。即點當所。可被建御亭之由。雖有其沙汰。地形非廣。又岡崎平四郎義實爲奉訪彼没後。建一梵宇。仍被停其儀云々』(七日丙戌。先づ鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。次いで故左典厩〔義朝。〕の龜谷(かめがやつ)の御舊跡を監臨し給ふ。即ち當所を點じて、御亭を建てらるべきの由、其の沙汰有りと雖も、地形、廣きに非ず、又、岡崎平四郎義實、彼の没後を訪(とぶら)ひ奉らんが爲に、一梵宇を建つ、仍つて其の儀を停めらると云々)と出る。

「梅ケ谷」化粧坂下の北の谷を指すとされるが、比定地としては定まっていない。但し、現在は亀谷切通しを下った、薬王寺附近をこう呼称しているので本誌の記者の指すのはそこと考えてよい。

「泉ケ谷」英勝寺の東北、浄光明寺のある谷。「吾妻鏡」の建長四(一二五二)年五月二十六日の条に『廿六日己酉。晴。今日。被壞右兵衞督泉谷亭。爲御方違本所。依可有新造儀也』(廿六日己酉。晴る。今日、右兵衛督が泉谷(いづみがやつ)の亭を壞(こぼ)たる。御方違への本所として、新造の儀有るべきに依つてなり)と出、鎌倉中期にはあった谷戸名であることが分かる。

「大御堂ケ谷」大倉幕府の南方、長勝寿院(これが名の由来であろう)があった谷戸。尾根を隔てて西に「葛西ケ谷」、東に「釋迦堂ケ谷」がある。

「蛇ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄(やつなよせ)」(これは谷戸考証に貴重な史料である。是非、披見されたい)に、

   *

蛇ケ谷 鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者の女が兒(ちご)を戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。

   *

とある(以上の説話についてはリンク先及びそこにリンクさせたやはり私の「新編鎌倉志巻之七」の「〇蛇谷」の注に全文を掲示してあるのでご覧になられたい。私のすこぶる好きな説話群である。なお、前記「鎌倉事典」によれば、「相模国風土記稿」には衣張山(報告路の背後の山)には『「蛇屋敷」の地名があったことを伝え』、『鎌倉は湿地帯で山谷が入りくんでいるので、蛇が多く住んでいたことに因む地名であろう』と記す。私の住んでいるところ(鎌倉市植木)もかつての山深い場所でその山腹にあるのであるが、辺りはかつては蝮と百足の名所と言われていた。いや、三日ほど前にもアリスと散歩していたら、一メートル近い青大将が小道を過ぎっていった……。

「佐々目ケ谷」「佐助ケ谷」と尾根を隔てた西と長谷の間に位置する深く貫入した谷戸。「吾妻鏡」に出る鎌倉時代からの古い名である。

「佐助ケ谷」現在の鎌倉駅の西側にあって、南北に横たわって東西に口を開いた大きな谷戸である。内側東西にさらに細かな支谷が多数あり、かつてはそれらにもいちいち名がある。由来説としてはこの谷戸内に上総・千葉・常陸の三介(すけ)の屋敷があったその転訛という里伝の他、ここの隠れ里(現在の銭洗弁天)の神が翁の姿で夢に現われ、佐殿(すけどの)源頼朝に旗挙げを薦め助けたことによる、という如何にもな伝承もある。孰れにせよ、「吾妻鏡」のも出る古名である。

「松葉ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

松葉ケ谷 名越の内なり。安國寺、長勝寺の境内を松葉ケ谷と唱ふ。日蓮安房小湊より當所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を踰て此邊に庵室を給ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊蹟の條を合せ見るべし。

   *

とあり、「立正安国論」絡みの、知られた日蓮の松葉ヶ谷法難で人口に膾炙する谷戸名である。因みに、ここに出る「本國寺」は鎌倉には現存しない。これは、現在の大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にあるものである(かつては六条堀川であったが、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転した)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖であった日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であった)。

「比企ケ谷」妙本寺附近の谷戸名。諸本は、頼朝の乳母であった比企禅尼(比企の乱で亡ぼされた比企能員の養母)が住んだことを由来とするとする。これも古い谷戸名である。

「名越ケ谷」「松葉ケ谷」の東、現在の横須賀線名越トンネル手前とその北側一帯を指すものと考えられる。

「花ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

花ケ谷 名越の佐竹第跡の東の方の谷をいふ。昔此所に慈恩寺といふ寺ありて、其寺の歌壇に數百種の草花を集て、春秋は色をまじえて咲けるゆへ、人々遊觀して賞しければ、花ケ谷と地名せしといふ。其寺もいつの昔にか廢跡となれりといふ。

   *

とある。この谷戸名の由来とされる慈恩寺については、「新編鎌倉志巻之七」の「〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕」に詳しく注した。そこには足利直冬の菩提寺であり、開山は桂堂聞公、京五山の名僧たちが、この風光明媚な寺を詩題として詠んだ詩群を掲載しており、それを読むと、この慈恩寺なる寺が由比ヶ浜(飯島)に近く、境内には多様な種類の草花樹木が植えられ、池塘や岩窟、何より七層の荘厳な塔を持った相応な規模の禅寺であったことが知られる。因みに、この慈恩寺、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」によれば成立は鎌倉時代で、万里集九の「梅花無尽蔵」に『「脚倦不登慈恩塔婆之旧礎」とあって、文明末(一四八五)にはすでに廃絶していたこと』が知れる、とある。

「經師ケ谷」材木座の東北、「辨ケ谷」の北で「桐谷」の西北の、現在の長勝寺の東、名越にある谷。写経を行う経師たちがここに住していたか。「吾妻鏡」元久二(一二〇五)年六月二十三日の条に榛谷(はんがや)四郎重朝が、子の重季・秀重ともども三浦義村に討たれた(重朝が畠山重忠の乱で従兄弟であった重忠謀殺に荷担したことを主罪とし、また、三浦氏にとっては三浦義明討死の最後の恨みを晴らす格好となった)記事で、「於經師谷口」で謀殺とあり、鎌倉初期から存在した古い谷戸名であることが分かる。

「葛西ケ谷」宝戒寺の裏手東南方一帯の谷を指す。全体が東勝寺の寺域で幕府滅亡の地である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。右大將家鎌倉へ移給ひし後は、淸重が事は【東鑑】に見へたる處稀なり』とあるのを由来とする(但し、清重は特に失脚した感じはしない。ウィキの「葛西清重」を参照されたい)。

「尾藤ケ谷」一説に山内(やまのうち)管領屋敷の向かいで、浄智寺の東の谷を指すとし、「尾頭谷」とも書くとするが比定地としては確かではない。一説に北条得宗家令であった尾藤左衛門将監景綱(北条泰時に若い頃から近侍して栄達、貞応三・元仁元(一二二四)年に内管領の前身ともいえる家令が新設されると、その初代として抜擢された。「吾妻鏡」の記述によれば、この時既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていたとされる。また泰時の後見人も務めていたと思われ、朝廷との折衝・御家人の統制に貢献、条例制定、義時追福の伽藍建立など、様々な行事の奉行を務めて、泰時の懐刀として活躍、病いを得て病没する前日である天福二(一二三四)年八月二十一日まで家令を務め、没後も尾藤氏は代々鎌倉幕府内で御内人を輩出する家系として繁栄した(ここはウィキの「尾藤景綱」に拠る)の邸跡と伝えるもかなり怪しい。私は北条得宗家令となった彼が「既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていた」点や、死の前日まで現職に就いていたことなどを考えると、彼がこんなところに自邸を構えていたとは少し信じ難いのである。事実、「吾妻鏡」の彼の関連叙述を見ると、彼の屋敷は大倉幕府のすぐ近くにあったとしか読めないからである。

「瓜ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」の「比企ケ谷」の条の中には、比企『禪尼の瓜薗を作りけるゆへにや、此邊を瓜ケ谷と地名せしか、中古以來其唱へはなけれども、文明の頃迄は稱したるゆへ、道興准后【廻國雜記】にまづ谷とを人に尋ね侍りてよめる、うりが谷にて、   ひと夏はとまりかくなり暮過て、冬にかゝれる瓜かやつ哉』と記すのであるが、現在、この地名で比企ヶ谷が呼ばれることはなく、それに対して、秘かに私の愛しているやぐらの中に「瓜ヶ谷やぐら群」があり、鎌倉好きならば即座にここを思い浮かべるはずである。葛原ヶ岡から大仏へ抜けるハイキング・コースの葛原岡神社を過ぎて浄智寺へと向かう途中の踏み分け道を北側に下りた辺りにこのやぐら群はあり、ここが現在、知られているところの瓜ヶ谷である。筆者もここを比定しているものと考えてよい。このやぐら群は現認では五穴から成り、鎌倉期のやぐらとして認定されている(地蔵菩薩像が安置されている一穴を特に「地蔵やぐら」と呼称する)私は二十の頃、初めて八重葎をかき分けてここに行ったのだが、やぐらの内陣の壁面に鳥居や五輪塔などがはっきりと彫られてあって(当時は非常に明確に見てとれた)、その荒れ果て忘れられたような周囲との落差に(一応当時から市指定史跡ではあったが)、何んとも言えぬ激しいショックを受けたことを忘れない。

「蛇居ケ谷」これはこれで「じゃくがやつ」と読む。ハイキングコースの浄智寺と葛原岡の間、丁度、海蔵寺裏手に当る箇所にある古い切通しがある辺りの谷戸名である。サイト「鎌倉探索」の「海蔵寺」(但し、この切通しへは海蔵寺境内からは直接は行けず、少し迂回をする必要がある)を参照されたい(現況画像有)。

「桑ケ谷」「鎌倉事典」に露座の長谷大仏に向かって、左側にある小さな谷戸で、『かつて極楽寺忍性が』ハンセン『病患者のために施療院を建てた所と伝える』とある。

「馬塲ケ谷」極楽寺から大仏坂方面に向かう谷戸。山塊が左右から迫っており、現在は狭い道に民家が密集している。それでも、いや、それだからこそ車の喧しきなき鎌倉散策をするに私の好きな谷戸ルートの一つである。

「月影ケ谷」恐らく鎌倉の谷戸名で最も美しいものと私は思っている。極楽寺の西奥の谷で冷泉為相の母阿仏尼の「十六夜日記」にある、

   *

あづまにて住む所は、月影の谷(やつ)とぞいふなる。浦ちかき山もとにて風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて、浪の音、松の風絶えず。

   *

とある棲家はここと伝えられているのも、この名の由来に相違あるまい。

「辨ケ谷」紅ヶ谷とか別ヶ谷などとも表記する。材木座の東方、補陀落寺の東北を入った谷戸である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、

   *

辨ケ谷 材木座の東なる谷をいふ。或記に別ケ谷ともいえりと。是は介の唐名を別駕といふ、千葉介の宅地の邊ゆへ、別駕を略し別ケ谷と稱すといえり。按ずるに千葉介は此邊には住せず、長谷小路より東の方に舊跡あり。爰よりは佐竹の舊跡へ近ければ、彼家にても常陸介又は上總介などを名乘りしかば、彼家は係りてのことにや覺束なし。千葉介にはあらず。又一説に言へば、紅ケ谷と唱えしゆへ、文明中道興准后の記に、べにが谷にてよめる。

 かおにぬるべにかやつより歸りきて早くも越るけはひ坂哉

   *

とある。この「廻国雑記」の歌は群書類従版では、

 

 顏にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな

 

で、遙かにいい。

「桐谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『經師ケ谷の東の谷をいふ』とのみある。これは「辨ケ谷」の南で、現在の材木座の光明寺から長勝寺の辺りに比定されるようだが、それらしい谷戸を現認出来ない。なお現在、「桐が谷」(きりがやつ/きりがや)と呼称する淡紅色で主に八重咲きの、最高級品種とされる桜があるのであるが、この花は実はここ桐ヶ谷にかつて植生していたことに由来するという(未確認であるが静岡県三島市にある遺伝学研究所発行の資料によるものらしく、確度は高い)。

「釋迦堂ケ谷」釈迦堂切通の北方の谷、「大御堂ケ谷」の東にあった小さな谷の、その東の谷とする(「鎌倉事典」)。ここには北条泰時が父義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったと伝えられるが、現在ではその遺構その他は見つかっていない。(ここの本尊であった清凉寺式釈迦像は後に杉本寺へ移った後、今は東京の目黒行人坂にある大円寺に現存している)。

「宅間ケ谷」浄明寺地区の東方、現在、報国寺の建つ谷戸。報国寺自体、古くは宅間寺と呼ばれていた。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『古え宅間左近將監爲行と稱し、將軍家の繪所なるものゝ住せし地なるゆへ地名に傳ふ。足利家の世となりて、宅間法眼淨宋と稱する佛師ありしも、爲行か子孫なるべし』と記す。「宅磨左近將監爲行」(生没年未詳)とは、文治元(一一八五)年、頼朝が勝長寿院本堂の壁画浄土瑞相及び二十五菩薩を描かせた、『無雙畫圖繪達者』と「吾妻鏡」が絶賛した宅間為久の子と考えられる人物で、将軍頼経に仕え、「吾妻鏡」寛喜三(一二三一)年十月六日の条に、頼経が五大堂建立予定地に於いて『宅磨左近將監爲行を召し、之を圖繪』させたという記載がある。人物。次の「宅間法眼淨宋」は不詳であるが、現在、杉本寺にある毘沙門天像は伝宅間法眼浄宏作とするが、この誤植であろうか。孰れにせよ、鎌倉中期以前からの古地名であったと考えてよい。

「犬懸谷」先の「山巓」に出た「衣張山」の東側に金沢街道方向から延びる谷。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

犬懸谷〔或ひは「駈」に作る。〕 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路の間道有て、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻し時、三浦小次郎義茂鎌倉へ立寄りしに、合戰の事を聞て、馬に乘て犬懸坂を馳越し、と有は爰の事なり。或説に、此所に衣掛(キヌカケ)山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまざ慥成説を聞ず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依て、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初て此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。

   *

とあり、私も「犬懸」と「衣掛」は同一の地名で、しかも「衣張山」の「衣張」も「衣掛」と同一と考えている。「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきで、「畠山が三浦を攻し時」というのは「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるものを指す(詳細はリンク先の私の当該注を参照のこと)。]

「胡桃谷」浄妙寺の東の谷戸。「山巓」で述べた、その北に位置する瑞泉寺南の胡桃山に由来。やはり述べた通り、宅地浸食によって自然景観は殆んど失われている。

「十二郷谷」「新編鎌倉志」のプロトタイプともいうべき「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」に、

   *

   十二郷谷〔十二所村トモ云〕

淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。

      *

とある。但し、この「十二所村トモ云」は誤認で、この位置は十二所のずっと下流の浄明寺川の上流部である。この「川越屋敷」の川越とは河越重頼(?~文治元(一一八五)年)のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官で、頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた結果、後の源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺されている。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものは全くない。

「泉水谷」浄妙寺の裏山の山腹にある熊野神社の東側の谷か。

「泉ケ谷」先に出たものと同名異谷。金沢街道が十二所神社を過ぎて、旧朝比奈切通しに分岐するところに泉橋があり、ここから北へ延びる細長い谷をこう呼称した。現在は……鎌倉霊園のど真ん中を流れる水路がその名残である。……

「明石ケ谷」光触寺に向かう右方の谷。現在、ここの胡桃川(滑川上流の呼称)に明石橋が架かり、この谷戸の尾根を越えた西方を抜け、東泉水を経て久木に抜ける道路が、完膚なきまでに宅地浸食とした景観とともにある。

「七曲リ谷」朝比奈旧切通しを鎌倉側から少し行ったところで、旧切通しルートから外れて直進した辺りの谷戸名。ここも知っている人は少ない。私も二度行ったきりである。現在は個人の果樹園がある。「鎌倉以降探索」の「十二所七曲」を参照されたい。私が行ったのは初春で私の心も屈託していたから、ここに見るような開けたしかも抜けるように明るい映像の記憶がない。必見。

「牛蒡ケ谷」十二所光触寺の北、十二所神社の社前まで広がる、かなり広域な谷戸名。以下に出る谷戸をも包含するものととった方がよいと思われる。「鎌倉事典」には、『牛蒡ケ谷はあて字で、一説には大慈寺の僧坊のあった所なので御坊ケ谷の転訛ともいう。谷入口には御坊の井がある』とある。

「多々羅ケ谷」不詳。次注参照。

「積善ケ谷」不詳。但し、この十二所に住んでおられる kawaiimuku 氏のブログ「一去一来 一日一歌」の「鎌倉ちょっと不思議な物語115回」に、

   《引用開始》

私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。

   《引用終了》

とあり、「多々羅ケ谷」も「積善ケ谷」も確かに十二所に存在した谷戸名であったことが分かる。感触的にはやはり鎌倉霊園によって消失した幻の谷ではなかろうか?(但し、kawaiimuku 氏の記載順から見ると、胡桃側の南側のようでもある)……それにしても「タタラ」「積善」……何かいわくあり気で、ソソルヶ谷(やつ)也……

「番塲ケ谷」「ばんばがやつ」と読む。私の偏愛する十二所の谷戸。……ここなら、何時でもご案内しよう。……まず、「鎌倉アルプス」の団塊世代の百足のような塊の集団跋渉とは無縁な、幽邃な自然境である。ここには「お塔が窪」と呼ばれ、「北條高時の首やぐら」と伝えるやぐらがあり、内部には鎌倉で最も古式の形態を伝える宝篋印塔(籾塔と呼称される)がある。……しかし……ここについてのみは……具体的なルートと位置を明かさない。……濫りに多くの人には立ち入って欲しくない、鎌倉の最後の(と同時に驚くほど簡単に行ける)秘境と呼ぶに相応しい谷戸の一つだからである……]

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