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2014/09/22

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その一】山中温泉で芭蕉と別れた曾良は、当然のことながら、芭蕉のメインの行路をほぼ先行する形で大垣まで旅している(恐らくは大垣(推定ではほぼ同時に曾良は大垣に着いた可能性もある)芭蕉の到着を迎えた後、路通・木因(ぼくいん)らともに芭蕉従って伊勢長島に向かい(この事実は曾良の単独行の当初の理由と齟齬していてやはり怪しい)、更に伊勢神宮参宮へと向かった)。後掲するように「奥の細道」では『曾良も前の夜此寺に泊(とまり)て』とあって、本句を詠んだのは曾良がここ全昌寺(加賀市大聖寺神明町に現存。曹洞宗、山号は熊谷山(「ようこくざん」と読むか)。前に注した通り、山中和泉屋若主人久米之助桃妖の心遣いによる二人への紹介によったもの。和泉屋の菩提寺であり、当時の住持月印が和泉屋若主人久米之助の伯父であった)に泊まった翌日と記している。曾良の日記は曾良の独り旅となった後も記されており、山中を発った八月五日は全昌寺に午後四時頃に着、翌六日は雨のため同寺に滞留、翌七日の午前八時頃に発っているから、芭蕉の言葉が正しいとすれば、芭蕉が全昌寺に着いたのは八日、発つに際しての挨拶吟として本句を詠んだのはこの九日朝のことということになるのである。

 

庭掃(はい)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳

 

庭はきて出ばや寺に散柳

 

庭掃て出(いづ)るや寺に散柳

 

[やぶちゃん注:第一句目は通行本の「奥の細道」の句形。第二句目は「島之道」(玄梅編・元禄十年序)及び「東西夜話」(支考編・元禄十四年成立)の句形で、後者には、

 

  なにがし前昌寺といふ寺は先師一夜の秌(あき)をわびて

 

という支考の前書を記す。第三句目は井筒屋本「奥の細道」の句形。他に、「宇陀法師」(許六ら編・元禄十五年刊)に、

 

庭拂て出ばや寺に散柳

 

と載るが、私はこの「拂」は「掃」の誤字と断じて採らない。

 禅寺に一夜の宿を求めて翌朝行脚に発つ折りには、境内を払掃するのが礼式。

 「奥の細道」の全昌寺の段。

   *

大聖持の城外全昌寺と云寺に

泊る猶かゝの地也曽良も前の

夜此寺に泊て

  終夜秋風聞やうらの山

と殘ス一夜の隔千里におなし

我も秋風を聽て衆寮に臥

明ほのゝ空ちかふ讀經聞ユルニ板鐘

鳴て食堂に入けふは越前の

國へと心早卒にして堂下に下

若き僧共紙硯をかゝへて階の

もとまて追來ル折節庭中の

柳散れは

   庭掃て出はや寺に散柳

とりあへぬ一句草鞋なから書捨

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇終夜    → ●終宵

(但し、読みは孰れも「よもすがら」。)

○板鐘    → ●鐘板

〇堂下に下る → ●堂下に下るを

■やぶちゃんの呟き

「大聖持」現在の加賀市大聖寺町。当時は加賀藩前田利明七万石の支城であったが、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道 曾良との別れ」の語注によれば、『幕府ににらまれることを嫌って、金沢とは一体的に経営しなかったという』とある。山中温泉の北西約八キロメートルに位置する。町名はかつてあった大聖寺という寺名によるか(現存しない)。「持」は誤字ではなく、寺名を憚って地名の字を変えたものであろう(鎌倉の浄妙寺と地名浄明寺などよく見られる)。

「全昌寺」冒頭の私の注を参照。

「終夜秋風聞やうらの山」「よもすがらあきかぜきくやうらのやま」と読む曾良の句。秋夜孤客の常套の奥に、私は山中で芭蕉と別れたことへの曾良の自責の念が強く響く。芭蕉が敢えてここに曾良の句を挿入したのには、そうした曾良の心境を芭蕉が既にして汲み取っていた――その上で、しかも敢えて曾良と決別したのだったという事実を私には伝えるものでもある。芭蕉の孤愁も、実は深かったことが次の「一夜の隔だて千里に同じ」の語彙選びからも窺える。

「一夜の隔だて千里に同じ」――ただ一夜(ひとよ)だけの違いだのに、まるで千里も彼と隔たったいるような断腸の思いが我が身を引き裂く――というのである。以下の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の蘇東坡の五言古詩を、曾良との離別(更には私に言わせれば哀しい意識の齟齬をさえ)インスパイアしていることは最早、明白である。

 

  頴州初別子由二首 其二

 

近別不改容

遠別涕霑胸

咫尺不相見

實與千里同

人生無離別

誰知恩愛重

始我來宛邱

牽衣舞兒童

便知有此恨

留我過秋風

秋風亦已過

別恨終無窮

問我何年歸

我言歳在東

離合既循環

憂喜迭相攻

悟此長太息

我生如飛蓬

多憂髪早白

不見六一翁

 

  頴州(えいしふ)にて初めて子由(しゆう)に別る 其の二

 

 近き別れは  容(かほ)を改めざるも

 遠き別れは  涕(なんだ) 胸を霑(うるほ)す

 咫尺(しせき)にして相ひ見ざれば

 實は千里と同じ

 人生 離別が無くんば

 誰(たれ)か恩愛の重きを知らん

 始め我(われ)  宛邱(ゑんきう)に來たりしとき

 衣()を牽()きて  兒童舞ふ

 便(すなは)ち知(しん)ぬ 此の恨うらみ有るを

 我を留めて 秋風を過ごさしむ

 秋風 亦 已に過ぎ

 別れの恨みは 終に窮きわまり無し

 我に問ふ 「何(いづ)れの年に歸る」と

 我は言ふ  「歳(さい)の東(ひんがし)に在るとき」と

 離合 既に循環すれば

 憂喜 迭(たが)ひに相ひ攻む

 此れを悟りて 長太息(ちやうたいそく)す

 我が生は飛蓬(ひはう)のごとし

 憂ひ多ければ 髪 早く白からん

 見ずや 六一(りくいつ)の翁(おう)を

 

本詩は蘇軾三十六歳の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の作。王安石の新法党を批判していた彼が、弾圧が強まる中、この年、自ら地方官を望んで、通判杭州(現在の浙江省杭州市の副知事)となって赴任した、その途次の師との再会であった。詩の内容は弟蘇徹の頑是ない子らととの一時の対面と別れのシークエンスを語っているが、遂に最後となった師との別れをもさりげなく、最後の一句に暗示させる造りともなっている(かのように私は感じられる)。

●「頴州」現在の安徽省阜陽県。

●「子由」欧陽脩。科挙試を監督した際、蘇軾を見い出したのは彼であった。王安石の抜擢も彼であったが、彼の起こした新法には反対派の先頭に立ち、そのままこの前年に政界を引退して、ここ頴州に隠棲していた。当時六十五歳。この翌年同地にて没している。

●「咫尺不相見」「咫」は周尺の八寸(約十八センチメートル)、「尺」はその一尺、十寸で、二二・五センチメートル。転じて、距離の極めて近いことをいう。

●「宛邱」陳州(現在の河南省淮陽(わいよう)県)の異称。頴州の西北百キロメートルほどに位置する。蘇軾の弟蘇徹が陳州学官(教授職)の任にあったのを、赴任の途次、訪ねて同道して欧陽脩に謁したのであった。

●「兒童」蘇徹の子どもたち。「問我何年歸」はこの子どもの台詞である。

●「歳」注の参考にした岩文庫小川環樹・山本和義選訳「蘇東坡詩選」の語注によれば、『歳は太歳(たいさい)。太歳は十二年で天球を西から東へ一巡する歳星(さいせい)(木星)を十二支に位置づけ、その対角にある十二支で呼ぶもの。この詩が作られたのは辛亥(しんがい)の歳で、太歳は亥(がい)にある。それが東すなわち寅(いん)に位置するのは、杭州の任期が満了する三年後の甲寅(こういん)の歳(熙寧七年)である』とある。

「迭」代わる代(が)わる。

●「悟」「語」とするテクスト有り。

●「飛蓬」同じく「蘇東坡詩選」の語注によれば、『蓬はアカザ科の植物で、砂漠地帯に生え、根を吹きちぎられて、風のままに転びゆく』(これは本邦の「蓬」、キク科キク亜科ヨモギ Artemisia indica とは全く異なるので注意。この説明から想起出来るように、西部劇でしばしば見るところの、あのころころと転がる草、ナデシコ目ヒユ科オカヒジキ属 Salsola 、英名“Tumbleweed”の類であると思われる。アカザ科とあり、実際に多くの植物分類学者はアカザ科を独立の科として扱っているものの、二〇〇三年版の被子植物新分類体系APG“Angiosperm Phylogeny Group”(被子植物系統グループ)第二版の略称)では認められておらず、ヒユ科 Amaranthaceaeの中に含まれている。ここは主にウィキの「アカザ科」の記載に拠った)『古来、飛蓬・転蓬に比喩して人生の不安定さが嘆かれた』とある。なお、以上の私のタンブルウィード(ロシアアザミとも言う)の同定に疑義のある方は、例えば個人ブログ「書迷博客」の「李白/送友人(三)」の比定などを参照されたい。

●「六一翁」欧陽脩の号。「蘇東坡詩選」の語注によれば、彼は『蔵する書物一万巻・金石遺文一千巻・琴一張・碁一局・酒一壺に自らの一老翁を加えて六一居士(りくいつこじ)と号した』とある。

「衆寮」禅寺の雲水らの宿寮のこと。

「板鐘」「ばんしよう」と読んでいよう。鐘板(しょうばん)。雲板。禅寺で食事の合図に打ち鳴らす板。少なくとも私の目にした多くは木製で、口に珠を銜えた長身の魚形(主に鯉という)をしていて、食堂(じきどう)若しくはその近くの軒下に吊られてあった。

「心早卒にして」「こころさうそつにして」と読む。気がせくままに急いで。

「とりあへぬさまして」差し当たっての即応吟として。謝意の他に、禅の公案の答えを諧謔化したもののようにも私には読める。特に、直前の「若き僧共、紙・硯をかゝへて階(きざはし)のもとまて追ひ來たる」というドタバタとした滑稽で俗な〈動〉に対して、「庭掃いて出でばや寺に散る柳」のあくまで澄んだ〈静〉が、そのような対位法的コール・アンド・レスポンスを醸成しているように私は感ずるのである。]

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