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2014/09/20

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫

  ●金澤文庫

金澤文庫は。傳へいふ。北條越後守顯時の營建(えいけん)せる所に和漢の軍書を藏め。儒書には黑印。佛書には朱印を押捺せり。印文、階字(かいじ)にして。竪に金澤文庫の四字を注す。其の後衰廢せしを。上杉安房守憲實執事たりし時再興せしが。又遂に廢絶して群書散失せり。下野の足利學校は。現存せるに。此金澤文庫のみは。寸壁尺障(すんぺきしやくしよう)を剰さずして。稱名寺に遊ひて尋ぬれは。蔓草寒煙の空しく其の舊地を鎖(とざ)せるあるのみ。文士は皆徘徊顧望(こばう)して嘆息したり。然るに頃者伊藤侯爵の斡旋にて。平沼專藏氏負擔(ふたん)し。新に文庫を築造せり。其の地舊址にあらす。又古書の蒐集はいかになりしか、未だ之を聞かさるも。先つ其の跡を表せるは。實に喜ぶべきことにこそ。

[やぶちゃん注:分割して注する。金沢文庫の元は、鎌倉時代中後期に、北条氏一族で当時の文化人として知られた金沢北条氏北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢の邸宅内に造った、武家の私設図書館であった。創設時期は不確か乍ら、実時晩年の建治元(一二七五)年頃と推定されている。蔵書は政治・文学・歴史等、多岐に渡り、収集方針は後の子孫顕時・貞顕(金沢文庫古文書には六百通になんなんとする彼の書状が残され、その中に文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書も残り、中には貞顕を文庫創建者とした文書も見られることから貞顕が文庫の再建を行っている可能性が指摘されている)・貞将の三代に受け継がれたが、金沢氏は元弘三(一三三三)年に鎌倉幕府滅亡とともに絶え、文庫は隣接した金沢氏菩提寺称名寺によって管理された。本文にもあるように室町期には関東管領上杉憲実が再興したが、当時の文庫建物はその後、失われてしまった。現在の同名の金沢文庫は、それらの残存資料を元に昭和五(一九三〇)年に県施設として復興された全く新しい中世歴史博物館である。

「寸壁尺障を剰さずして」「剰さず」は「あまさず」で余さずに。「寸壁尺障」は薄い壁や障子に至るまで残る隈なく失われたという謂いであろう。

「伊藤侯爵」伊藤博文。

「平沼專藏」(天保七(一八三六)年~大正二(一九一三)年)は実業家。武州入間郡飯能村(飯能市)に生まれ、開港後に横浜に出、海産物売込商明石屋で働き、慶応元(一八六五)年に独立、横浜本町四丁目に羅紗・唐桟(とうざん:江戸以降にヨーロッパ船によってもたらされた綿織物及びそれを模倣して作った綿織物)などの引取商を開業、明治一一(一八七八)年、生糸売込商芝屋清五郎の業務を継承し、土地売買・株式投機にも手を染めて発展、実業界にその地位を確立した。明治二十三年には金叶貯蓄銀行を設立、同四十四年一月に平沼銀行を創立して生糸売込商の機関銀行として発展させた。政治家としても県会議員・市会議員・同参事会員、明治三十三年に貴族院議員,同三十五年には衆議院議員(政友会)、同四十四年、横浜市水道局長などをも歴任した。極端な勤倹蓄財で壮士らの迫害を受けたが伊藤博文に助けられた。これが縁で伊藤の勧めで明治三十年に金沢文庫復興に二千円の建設資金を寄付、私立平沼小学校を設立するなど晩節を飾ったとある立志伝中の人物である(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

 

近藤守重の金澤文庫考は。右文故事に載せて。人の皆知る所なり。佐藤忠藏氏の金澤名勝題詠集の冊末に。金澤文庫略考を附せり。是亦近藤氏の考案と稱名寺所藏の古記等に據つて略記したるものにして。甚た簡明なれは。左に抄出して氏の名を傳ふといふ。

[やぶちゃん注:「近藤守重」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の幕臣で探検家。守重は諱。間宮林蔵や平山行蔵と共に〈文政の三蔵〉と呼ばれる。明和八(一七七一)年に御先手組与力近藤右膳守知三男として江戸駒込に生まれ、山本北山に儒学を師事した。幼児かより神童と賞され、八歳で四書五経を諳んじて十七歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残した。父の隠居後の寛政二(一七九〇)年に御先手組与力として出仕、火付盗賊改方をも勤めた。寛政六(一七九四)年には、松平定信の行った湯島聖堂での学問吟味に於いて最優秀の成績で合格、寛政七(一七九五)年に長崎奉行手付出役、寛政九(一七九七)年)に江戸へ帰参して支払勘定方・関東郡代付出役と栄進した。寛政一〇(一七九八)年に幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、四度、及ぶ蝦夷地へ赴き、最上徳内・千島列島・択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させてもいる。享和三(一八〇三)年に譴責により小普請方となったが、文化四(一八〇七)年にはロシア人の北方侵入(文化露寇(ぶんかろこう):文化三(一八〇六)年と文化四(一八〇七)年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件と呼ばれる。)に伴い、再び松前奉行出役となって五度目の蝦夷入りを果たした。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索、江戸に帰着後には将軍家斉に謁見を許され、その際には札幌地域の重要性を説いて、その後の札幌発展の先鞭を開いた。文化五(一八〇八)年、江戸城紅葉山文庫(後注で詳述する)の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が咎められて、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷させられた。因みにこの時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたという。文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居した。重蔵は本宅の他に三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)に広大な遊地を所有しており、文政二(一八一九)年に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園、目黒新富士・近藤富士・東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れたという。しかし文政九(一八二六)年に上記の三田の屋敷管理を任せていた長男近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民七名を殺害、八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられた。文政十二年六月十六日(一八二九年七月十六日)に逝去、享年五十九。死後の万延元(一八六〇)年になって赦免された。実に数奇な才人である(以上はウィキの「近藤重蔵」に拠った)。

「金澤文庫考」書物奉行として近藤重蔵が記した考証書。ネット上の書誌情報を見る限りでは、それ自体が和刻本として出るのは明治末頃のようだが、以下の「右文故事」に転載されているものらしい。

「右文故事」「いうぶんこじ(ゆうぶんこじ)」と読む。近藤重蔵が「御本日記附注」(家康没後に江戸城に移された書籍について林羅山が記した「御本日記」の解説)・「御代々文事表」(家康から吉宗までの歴代将軍の学芸関連年表)など、紅葉山文庫の沿革と貴重書に関する考証を纏めた書。文化一四(一八一七)年に幕府に献上された(国立公文書館公式サイト内のこちらの書誌データに拠る)。

「佐藤忠藏」瀬戸神社公式サイト内の「瀬戸神社と郷土金沢の歴史あれこれ」「金澤名勝題詠集」の頁があり、そこに「金澤名勝題詠集」は明治二〇(一八八七)年に『刊行された和装本で』、『著者・出版人は三分村』(久良岐郡内で明治初年に社家分村・寺分村・平分村が合併して成立した村で、明治二二(一八八九)年に釜利谷村や飛地の泥亀新田と合併して六浦荘村となった。現在は全域が金沢区)、『に住所をもつ士族佐藤忠蔵』とある。

「金澤名勝題詠集」前に掲げた瀬戸神社公式サイト内の「瀬戸神社と郷土金沢の歴史あれこれ」「金澤名勝題詠集」の頁には、「金澤名勝題詠集」は明治二〇(一八八七)年に『刊行された和装本で』、『著者・出版人は三分村』(久良岐郡内で明治初年に社家分村・寺分村・平分村が合併して成立した村で、明治二二(一八八九)年に釜利谷村や飛地の泥亀新田と合併して六浦荘村となった。現在は全域が金沢区)、『に住所をもつ士族佐藤忠蔵』とある。『発兌人として東京日本橋の北畠茂兵衛、横濱弁天通りの吉川伊兵衛とならび、金澤の東屋安右衛門、千代本茂左衛門の名前が列記されてゐ』るとあり(東屋と千代本は後掲される金沢の老舗旅館である)、その『東屋、千代本に遊ぶ行楽客に金澤の風景とそれを詠んだ詩歌を紹介した書物で』あるとある。『内容は金澤八景の絵図に続き、心越禅師の八景の漢詩に続き、丁野丹山、巖谷古梅、の八景の詩、また矢土錦山、岡本黄石、大島怡齋、細川十洲、大給亀崖、神波即山、日下部鳴鶴、横田竹泉による八景分詠の詩それに続き和歌は、先ず無性居士京極兵庫の八首に続けて、間宮八十子、細川潤、中村秋秀、小中村清矩、黒川真頼、佐々木弘綱、鈴木重嶺、山澤與平、久米幹文らの和歌を掲載する。さらに付録として、「金沢文庫略考」を巻末に載せてゐる』そして――そこで何と!――「金澤名勝題詠集」全文のPDF画像――が入手出来る!! 必見必ダウンロード!(因みに同書は早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のここでもHTML及びPDFでダウンロード出来る)。]

[やぶちゃん注:以下、前注に示した「金澤名勝題詠集」原本画像と照合(原典は漢字カタカナ書き)、「稱名寺第三世湛睿」(底本は「二世」)や訓点等の明らかな誤りを予め訂してあることを言い添えておく。各段ごとに注を入れ、その後を一行空けた。]

 

金澤文庫略考

金澤文庫の遺址(ゐし)は。武藏久良岐郡金澤稱名寺の傍にあり。今稱して文庫ヶ谷と曰ふ。古は稱名寺中より洞門ありて。文庫へ通行すと云ふ。〔洞門今尚存す〕

[やぶちゃん注:以下「……修圖とあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

今寺中所藏の古圖にも。亦洞門あり。鎌倉志にも阿彌陀院〔稱名寺中〕後の切通(きりとほ)し前の畑を以て。金澤文庫の遣址なりとす。此古圖に據りたるなるべし。圖は元享三年二月二十四日稱名寺第三世湛睿結界修法圖とあり。

[やぶちゃん注:「鎌倉志にも阿彌陀院後の切通し前の畑を以て。金澤文庫の遣址なりとす」「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺」の「金澤文庫の舊跡」の項には、

   *

金澤文庫の舊跡 阿彌陀院の後(うしろ)の切通(きりとをし)、其の前の畠(はたけ)、文庫の跡なり。昔北條越後の守平顯時、此所に文庫を建てて、和漢の羣書を納め、儒書には墨印、佛書には朱印を押す。印文は楷字(かいじ)にて、金澤文庫の四字を竪(たて)に書す。後に上杉安房の守憲實執事の時、再興す。【鎌倉大草子】に、武州金澤の學校は、北條九代の繁昌の昔、學問ありし舊跡也。上州足利の學校は、承和六年に、小野篁(をのゝたかむら)上野(かうづけ)の國司たりし時の建立なり。今度安房の守憲實、足利は、公方御名字(をんみやうじ)の地なれば、學領を附し、諸書を納め、學徒を憐愍す。されば此の比諸國大に亂れて、學道も絶たりしかば、此の金澤の文庫を再興し、日本一所の學校となる。西國北國よりも、學徒多く集るとあり。管領源の成氏の時なり。其後は頽破して書籍皆散失す。一切經の切れ殘りたる彌勒堂にあり。

   *

とある。

「元享三年」西暦一三二三年。

「湛睿」(たんえい 文永八(一二七一)年~貞和二(一三四七)年)は鎌倉末から南北朝にかけての学僧。以下、ウィキの「湛睿」によれば、本如房と号し、律僧で華厳学の大家であった。幼くして東大寺凝然に戒律・華厳を学び、永仁元(一二九三)年、般若寺の真円について戒律の研究に励んだ。その後東下、徳治元(一三〇六)年には鎌倉の極楽寺で、延慶三(一三一〇)年には称名寺で三宝院流真言を学んだ。正和二(一三一三)年に上洛、東大寺の華厳教学の名僧凝然(ぎょうねん)の高弟であった和泉国の久米田(くめだ)寺の禅爾(ぜんに)に学んで、華厳・戒律の教学を確立した。文保二(一三一八)年に鎌倉に戻って、嘉暦元(一三二六)年から鎌倉幕府滅亡の混乱の最中、下総国東禅寺の住持を勤め、さらに暦応二(一三三九)年には金沢北条氏という大檀越を失って危機に直面した称名寺の住持となるなど、『激動のなかを生き抜いた学僧であった』。『関東での律や華厳経学の普及につとめ、称名寺と東禅寺をしばしば往復して講筵を開き多くの学僧を養成した。「華厳五教章纂釈」、「大乗起信論義記教理抄」、「四分律行事鈔見聞集」など多くの著作があり、金沢文庫保管の聖教に大量の稿本を残し』ているとある。]

 

文庫は。北條越後守平實時〔金澤侍所を稱す法名稱名寺〕其釆邑に就て創立する所なり。今考(かんがふ)るに蓋し其邸第の近傍にありしなるべし。

[やぶちゃん注:「釆邑」は「さいいふ(さいゆう)」と読み、領地・知行所の意。采地。]

[やぶちゃん注:以下「……五十六とあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

關東評定傳に。實時建治元年五月六浦に籠居す。依所勞也。〔金澤は六浦の莊と云ふ〕同二年十月廿三日於六浦別業卒年五十六とあり。

[やぶちゃん注:「關東評定傳」著者・成立年代ともに不詳。二巻。「関東評定衆伝」「関東評定家伝」とも称す。鎌倉時代の嘉禄元年から弘安七年(一二二五年から一二八四年)につき(但し、途中の一二二六年から一二三一年相当の部分は記載がない)、一年毎にその年の主な事件を冒頭に載せ、執権・評定衆・引付衆の現任者を列記して併せて彼らの公武の官職の異動や略歴を記した歴史書。鎌倉幕府執権政治の中核であった幕府意思決定機関としての評定衆の人員構成の変遷などを知る上で貴重な史料である。「群書類従」に所収(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「建治元年」西暦一二七五年。]

 

其別業の地は未詳と雖も。稱名寺の境内(けいない)なるべし。境内に實時及其子顯時其孫貞時の墳墓あり。稱名寺現(げん)に實時顯時貞顯貞時四人の肖像を藏す。黝然として古色凡ならず。當時名家の手に成る知るベし。其年月款識を缺(か)く眞(しん)に惜むベし。

[やぶちゃん注:「黝然」は「いうぜん(ゆうぜん)」と読み、薄蒼黒く、幽静なこと。

「款識」は「くわんし(かんし)」又は「くわんしき(かんしき)」と読み、「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘が原義で、本来は鐘や鼎(かなえ)などの鋳造物に刻した文字や銘文を指すが、転じて広く書画に筆者が署名捺印すること及びその署名捺印を指す。落款(らっかん)と同じい。]

 

文庫創建の歳月未詳と雖も。庫中の書實時貞顯等の題署(だいしよ)は。皆建長五年以後に係る。即ち建長の初年たる疑なし。而して鎌倉兵燹の時も。其(その)此地(このち)に僻在(へきざい)せるを以て。幸に烏有(ういう)を免かれ。儒佛典籍朱墨の印色(いんしよく)を以て之を分ち。殆んど二酉の富に駕(か)せり。

[やぶちゃん注:「建長五年」西暦一二五三年。

「文庫創建の歳月未詳と雖も。庫中の書實時貞顯等の題署は。皆建長五年以後に係る。即ち建長の初年たる疑なし」とあるが近藤の判断は乱暴に過ぎる。これは恐らく文書の収集の開始時期に相当するものであって、文庫自体の実質的創設はやはり実時の六浦隠居の建治元(一二七五)年頃(次の「法然語燈錄」以下の私の注も参照されたい)のとすべきであろう。

「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意で、戦争による火災・兵火の意。無論、元弘三(一三三三)年の鎌倉幕府滅亡を指す。

「僻在」都市から遠く離れた所にあること。僻遠の地にあること。

「二酉の富に駕せり」「二酉」は「にいう(にゆう)」と読み、中国にある大酉(だいゆう)山・小酉山という二つの山の石窟から千巻の古書が出てきたという故事に基づき、蔵書の多いこと或いはそれを収める書庫をいう語で、汗牛充棟の豊かな書籍をよく蔵した、の謂いである。]

[やぶちゃん注:以下和歌までは底本では全体が一字下げ。]

 

法然語燈錄の跋に。建武(けんぶ)四年更寫一本武藏金澤稱名寺文庫者也とあり。

又僧義堂空華集に。觀金澤藏書而作ると云ふ題にて。玉帳修ㇾ文講ㇾ武餘。遣ㇾ人來覓舊藏書。牙籤映ㇾ日窺蝌斗一。縹帙乘ㇾ晴走蠹魚。圯上一篇看不ㇾ足。鄴侯三萬欲何如。照ㇾ心古教君家有。收在胸中五車の詩あり。

[やぶちゃん注:「法然語燈錄」浄土宗の宗祖法然房源空の遺文・消息・法語などを集成した道光(望西楼了慧)編「黒谷上人語灯録」のこと。文永一一(一二七四)年十一月から翌年一月の間に成立。全十八巻。漢文体と和文体のものに分かれており、第一~十巻までが漢語、第十一巻~十五巻までが和語で、別に拾遺三巻がある。法然滅後六十余年の時期に於いて法然の遺文などの定本を策定し、教義信仰上の準拠たらしめんとしたもの(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「建武四年」西暦一三三七年。成立から鎌倉幕府滅亡を経て、六十三年後のことである。

「更寫一本武藏金澤稱名寺文庫者也」書き下すと、「更に一本を寫して武藏は金澤稱名寺が文庫に藏する者なり。」である。

「僧義堂」「空華集」瑞泉寺住持でもあった鎌倉禅林の指導者義堂周信(正中二(一三二五)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)の漢詩集。以下の金沢文庫を詠んだ漢詩は「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺」の「金澤文庫の舊跡」の項に載る。以下に私の書き下しを含めて示す。

   *

  觀金澤藏書而作    義堂

玉帳修文講武餘

遣人來覓舊藏書

牙籤映日窺蝌斗

縹帙乘晴走蠧魚

圯上一編看不足

鄴侯三萬欲何如

照心古教君家有

收在胸中壓五車

 

  金澤の藏書を觀て作る 義堂

玉帳 文を修す 講武の餘

人をして來たり覓めしむ 舊藏書

牙籤 日に映じて 蝌斗を窺ひ

縹帙 晴に乘じて 蠧魚を走らしむ

圯上の一編 看るに足らず

鄴侯の三萬 何如とか欲す

心を照らす 古教 君が家に有り

收めて 胸中に在りて 五車を壓す

 

 以下、漢詩の語注を示す。

・「牙籤」は「げせん」又は「がせん」と読み、和書の部品名。象牙で出来た小さな札で、書名を記して書物の帙の外に下げて目印とする。

・「蝌斗」は「蝌蚪」でオタマジャクシ。称名寺堂前の浄土庭園蓮池の景であろう。

・「縹帙」は「へうちつ(ひょうちつ)」と読み、和書のこと。

・「蠧魚」は「とぎよ(とぎょ)」と読み、昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類のこと。

・「圯上」は「いじやう(いじょう)」と読み、本来は土橋の上のことであるが、ここは漢の高祖の名臣張良が若き日に圯上老人黄石公から授かった兵法書を指すと思われる。禅宗の彼が何故、兵書をここに口にしたか。義堂が求めた仏典がなかったことを暗に指すか。いや、――私には義堂が心を痛めた円覚寺と建長寺の門徒抗争などが皮肉に浮かんでくるのである――。

・「鄴侯」は「げふこう(ぎょうこう)」と読み、「鄴」は春秋時代斉の地名で、漢代の県名、三国時代は魏の都の一つとなり、三曹(曹操・曹丕・曹植)父子によって文学が栄えた。現在の河北省臨漳(りんしょう)県。ここでは唐代の鄴県侯であった李泌りひつの蔵書が多かった故事(蔵書の多いことを「鄴架」と言う)に基づく謂いであろう。ここは既に文庫の蔵書が多く散失してしまっていたことを指すか。

・「心を照らす 古教」「照心古教」とは禅で言う「妙法の曼荼羅」(生そのものの様態の全体性)で、只管打坐、即ち禅の要諦を言う。

 なお、義堂の金沢文庫の訪問は上杉憲実の再興以前であるから、この詩によって鎌倉幕府滅亡後の文庫の衰微の様が知られると言える。]

 

又太田道灌慕京集に。二月釋典を金澤文庫にて行ふよし。三好日向守勝之のもとより申越(まをしこし)けれは。隣家梅花と云ふ題を。聖供に添(そへ)て遣し侍るとて。

 春なれや夜に友かきの近き庭遠きも通ふ梅の下風

[やぶちゃん注:「慕京集」「ぼけいしふ(ぼけいしゅう)」は太田道灌の歌集。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで原本画像が手に入る。当該の歌はここ(HTML画像)。

「釋典」仏典講読のことであろう。

「三好日向守勝之」不詳。阿波細川家の被官であった三好氏所縁の人物か。]

 

右等の書に據れは。鎌倉兵燹の後も。年久しく尚廢せざりしに。兩上杉の亂より。漸く頽廢に屬せしなるべし。北條氏政の金澤文庫本を。足利學校へ寄附せしも。葢し其散亂を惜むの意に出てしなるべし。

[やぶちゃん注:「兩上杉の亂」一般には第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺に端を発して山内と扇谷の両上杉方及び幕府方と鎌倉公方(古河公方)方が争った享徳の乱(享徳三(一四五五)年~文明一四(一四八三)年)とそれに続く、山内上杉家の関東管領上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥朝良に引き継がれた)の間で行われた長享の乱(長享元(一四八七)年~永正二(一五〇五)年)を指すが、私はそのプレとしての山内上杉家と犬懸上杉家の対立を根とする前関東管領上杉氏憲(犬懸上杉家で禅秀は法名)が山内上杉家の上杉憲基を関東管領に置いた鎌倉公方足利持氏に対して起した上杉禅秀の乱(応永二三(一四一六)年)をも含むべきと考えている。

「北條氏政」(天文七(一五三八)年~天正一八(一五九〇)年)戦国から安土桃山初期の武将。小田原城主。氏康と今川氏親の娘(瑞渓院)の子。左京大夫。相甲駿(相模・甲斐・駿河)三国同盟成立後の天文二三(一五五四)年十二月に武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を妻として永禄二(一五五九)年十二月には家督を継いだとみられている。翌三年の二月から三月にかけては飢饉と疫病の流行に対処するための徳政を実施、また同年六月には貨幣法ともいうべき代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定混合比率を七対三と定めるなどの優れた経済政策を実施成立させている。同四年三月には長尾景虎(上杉輝虎・謙信)の小田原攻城を退けてこれを契機に一向宗容認に転じた。同七年、第二次国府台合戦で里見義弘を破り、七月には太田氏資の内応を得、岩槻城を手中に収めて武蔵国全域をほぼ征服した。永禄十一年十二月に晴信が今川領国の駿河へ侵攻すると今川氏真支援のために出陣して遠江懸川にも援軍を派遣している。この事件によって北条氏と上杉氏との講和交渉が促進されて翌十二年の閏五月には相越(相模・越後)同盟が成立した。同年十月、武田晴信が小田原を来襲、三増峠で合戦したが、元亀二(一五七一)年十月に父氏康が死んで名実ともに当主の座に着くと、晴信との講和交渉を開始、同年十二月には相甲(相模・甲斐)同盟が成立、対して相越同盟は破れた。ところが天正六(一五七八)年になって輝虎没後の上杉家に継嗣紛争が起きるや、上杉景虎(氏政の弟で輝虎の養子)支持を巡って武田氏との間に不和が生じ、相甲同盟も破綻した。翌七年九月に徳川家康と結んで武田勝頼挟撃を約して駿河黄瀬川に出陣、同八年八月に再び勝頼と黄瀬川に対峙するが、その陣中にあって子氏直に家督を譲って引退した。これは従来の武田氏との関わりを捨てて改めて親織田と武田撃滅の姿勢を示すためのものと見られる。引退後は「御隠居様」などと敬称されて氏直の政務を助けた。その後は天下統一を進める豊臣秀吉の上洛要求を受けるも、遂に応じず、天正十八年の秀吉による小田原攻めに際しては最終的に彼が籠城を決断したといわれている。降伏後、切腹を命じられて自刃した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。私は戦国史に疎いので自身の勉強のために長々と事蹟を記した。悪しからず)。

「足利學校」以下、足利市公式サイトの「足利学校の歴史」に拠って記す。「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などと称せられる足利学校の創建説については、いくつかの説がある。古くは、

・奈良時代の国学の遺制であるという説

・平安時代初期の天長九(八三二)年に小野篁が創建したという説

・鎌倉時代の初期に鑁阿寺(ばんなじ:現在の栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山)を開いた足利義兼(足利尊氏六代の祖)が建てたという説

・室町中期の永享一一(一四三九)年に関東管領上杉憲実によって開かれたという説

などがあるが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後で、最後に示した上杉憲実が学校を整備し、学校領とともに五経の内の四経を寄進、鎌倉から禅僧快元を招いて初代庠主(しょうしゅ:校長)とし、学問の道を興して学生の養成に力を注いだ事実ははっきりしている(その後は代々、禅僧が庠主となっている)。また憲実の子憲忠は五経の内の残りの易経「周易注疏(しゅうえきちゅうそ)」を、子孫の憲房も貴重な書籍を寄進するなど、戦乱の世にも拘わらず学問に意を注いで学校の基礎を固めた。室町期には儒学特に易についてここに学んだ僧が非常に多く、永正年間(一五〇四年~一五二〇年)から天文年間(一五三二年~一五五四年)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり、第七世玉崗瑞璵九華(ぎょっこうずいよきゅうか 明応九(一五〇〇)年~天正六(一五七八)年:臨済僧。大隅生まれ。儒学にも通じ、特に詩文に優れた。天文(てんぶん)一九(一五五〇)年に足利学校の学頭となり北条氏政の帰依を受けて戦乱で荒廃した同校の復興につとめた。玉崗は字(あざな)。号を九華老人と称した。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠る)の三十年間に亙る在任中も大いに発展した(天文十八年のフランシスコ・ザビエルの母国の教会宛の書簡中には「日本国中にあって最も大にして最も有名なる坂東の大学」とあると記されてある)。室町時代最後の庠主は第九世閑室元佶(げんきつ)三要で徳川家康の信任厚く、『徳川家康が京都伏見に建立した瑞巖山圓光寺の開山となり、徳川家康の下で「詩経」の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍』、『このようなことから閑室元佶と家康との結び付きが強く、足利学校は幕府より百石の朱印地を賜』っている。江戸時代の庠主は将軍の一年の運勢を占って将軍に献上し、江戸時代の最初の庠主で優れた学僧であった第十世龍派禅珠寒松は名が分かっているだけでも、百名の弟子があった、とある。]

[やぶちゃん注:以下「……書物なりとあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

慶長年錄に。慶長六年六月。江戸富士見の亭へ金澤の文庫を御移しなされ、御文庫御建立(おんこんりう)なり云々。又古筆の書物は。多分北條九代の時分。金澤へ納申候書物なりとあり。

[やぶちゃん注:「慶長年錄」は大槻玄沢の大槻家旧蔵になる慶長一四(一六〇九)年から元和九(一六二三)年の記録で戦国末から江戸初期の重要史料とされる。

「慶長六年」西暦一六〇六年。前年の慶長五年に関ヶ原の戦いがあり、この二年後の慶長八年に徳川家康は江戸幕府を開幕している。

「江戸富士見の亭へ金澤の文庫を御移しなされ」主語は無論、家康。「江戸富士見の亭」とは後の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)の前身(但し、紅葉山文庫という名称は明治以降に用いられたものであって(現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)江戸時代には単に「御文庫」或いは「楓山(ふうざん)文庫」「楓山秘閣」などとも呼ばれた)。以下、参照したウィキの「紅葉山文庫」によると、『将軍のための政務・故実・教養の参考図書とすべく、江戸時代初期から設けられていたもので、その膨大な蔵書の蒐集・管理・補修・貸借および鑑定などは、若年寄配下の書物奉行が行った。将軍の利用を基本とするが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行、学者、旗本、および一部の藩へも貸し出しを許可された(ただし書物奉行に申請する必要があった)』。すでに幕府の成立以前の慶長七(一六〇二)年から、『徳川家康は江戸城本丸の南端にあった富士見の亭に文庫を建て、金沢文庫などの蔵書を収めさせた』。『好学な家康は、古今の漢籍・和書を蒐集して伏見版・駿河版などを出版させていたが、そのうちの三十部を』慶長一九(一六一四)年に『江戸城の将軍秀忠に贈』っている。元和二(一六一六)年の『家康の死去にともない、遺言により蔵書は将軍家・尾張家・駿府家(のち紀州家)の御三家に分配されたが、「日本の旧記及び希世の書冊は江戸へ献ずべし」との家康の遺志により、重要な書籍五十部が選ばれ、以前の書物と合わせ富士見亭御文庫に収められた。これらを特に「駿河御譲本(するがおゆずりぼん)」「駿河御文庫本」などと呼ぶ』。寛永一〇(一六三三)年には『富士見亭御文庫に書物奉行を設置し、蔵書の整理・保管、目録の編纂などを司らせることと』なり、同一六(一六三九)年七月、『具足蔵(武器庫)とともに歴代将軍の霊廟があった江戸城内の紅葉山廟の隣に移された。翌年には会所・書庫各一棟が完成』、その後の増改築で『東西の書物蔵が揃』い、第六代将軍『家宣が所蔵していた書籍が収められ(桜田御本)、さらに一棟追加されて「新御蔵」と呼ばれる』書物蔵が追加されて合計三棟となった。第八代将軍徳川吉宗は就任前後に『儒者林家に命じて書籍目録を提出させ、常に座右に置いて頻繁に文庫から書を借りたという。さらに、吉宗時代には寺社奉行配下青木昆陽による徳川家旧領の家蔵文書収集など、諸国に命じて集めさせた各地の古文書や、さらに長崎奉行に命じて輸入させた新刊の漢籍(地方志・医書・随筆・詩文集)や、明末から清初にかけて隆盛した戯曲・通俗小説なども広く求め、収蔵させた。これら初版本は中国文学史研究、とくに『水滸伝』『西遊記』等の小説成立史の基本史料として、保存状態の良さと相まって現在に至るまで珍重されている』。『上記のほかに、『本朝通鑑』『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』など、幕府官撰書の献上も行われ、また諸藩の大名や林家からの献上本なども収蔵され』、特に文政一一(一八二八)年には豊後佐伯藩主毛利高標が八万冊に及ぶ自身の蔵書の中から二万冊もの書籍を献上しており、幕末の元治年間に編纂された「元治増補御書籍目録」によれば、総蔵書数は十二万三千冊に及んだとある(内、六十五%が漢籍であった由)。以下、同ウィキの近藤守重も務めた「書物奉行による徹底管理」の項目(彼の名も出る)。『歴代の書物奉行には深見有隣、高橋景保、近藤重蔵、林復斎らの学者も名を連ね、文庫の貸借・管理のみならず、蔵書の鑑定・蒐集・目録の編纂などを行っている』。『蔵書の保守作業として、毎年晩夏から秋にかけて数ヶ月に及ぶ大規模な曝書(虫干し)が行われ、天候や湿度に注意しつつ、日光や風にさらされた。また蔵書は本箱に収められて保管され、破損した書籍の補修もしばしば行われた。このような徹底した管理が行われたため、蔵書の保存状態は極めて良好で、発刊当時の書物の雰囲気がそのまま保存された』。『これら書物奉行らの実務の記録は『御書物方日記』(一部『大日本近世史料 幕府書物方日記』として刊行)として残されており、また文庫内蔵書の変遷についてはその伝来・由緒とともに『御書籍来歴志』に記されている』。『明治維新後は幕府の崩壊、江戸城の接収にともない、紅葉山文庫は太政官の管轄に移され、宮城内の書庫に保存された。のちに内閣文庫に継承され』、昭和四六(一九七一)年に『総理府の附属機関として国立公文書館が設置された(現在は独立行政法人)のにともない、他の内閣文庫本とともに移管、一般公開された』とある。

「北條九代」北条時政から高時に至る、第一代将軍頼朝亡き後の鎌倉幕府を、実質支配したところの北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており、執権にはなっていない)を指す。]

 

此れに據れは。兵亂の久しき。文庫漸く頽廢に屬す。故に德川氏其殘を採收せしなるへし。然れは文庫の全く廢せしは。慶長年間たる明なり。今稱名寺に現存する五臣注文選十二卷の古寫本は。北條氏政の足利學校へ寄附せし金澤文庫本と全く相同し。

[やぶちゃん注:「慶長年間」西暦一五九六年から一六一五年。前注で述べたが、ウィキの「慶長」から引くと、文禄五(一五九六)年七月に伊予国・豊後国・畿内一円で一連の大地震や大津波が発生して『慶長に改元されたが、慶長年間ではその後も巨大地震が相次いで発生』、軌を一にするかのように慶長五年に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康による慶長八年の江戸幕府開幕、慶長十九年から翌二十年にかけての『大阪冬の陣・夏の陣を経て大坂城の落城(豊臣氏滅亡・元和偃武)などがあり、この年間で時代が大きく動くこととなった』。

「五臣注文選十二卷」知られる「文選」の李善注(唐。顕慶三(六五八)年成立)に送れること凡そ半世紀後の開元六(七一八)年に玄宗の家臣で学者である呂延済(りょえんせい)・劉良・張銑・呂向(りょきょう)・李周翰ら五人の「文選」注を集成したもの。全三十巻。

「相同し」「あひおなじ」と読んでいる。]

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 

右は近藤正齋の金澤文庫考、及稱名寺所藏の古記等に據り、金澤文庫の顛末を略記す。

                   佐 藤  忠 識

[やぶちゃん注:「近藤正齋」近藤守重(重蔵)の号。

「佐藤忠」「金澤名勝題詠集」の著者佐藤忠蔵。]

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