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2014/09/16

耳嚢 巻之八 相馬家の家風非常の事

 相馬家の家風非常の事

 

 四ツ谷大木戸に、相馬小太郎とて食祿七百石程の御旗本あり。相馬將門(まさかど)の嫡孫にて、諸侯なる相馬因幡守よりは却(かへつ)て本家の由。依之(これによつて)因幡の守(かみ)家とは不和にて今は通路(つうろ)もせざる由。神田明神にては神緣とて社家社人(しやけしやじん)も甚(はなはだ)尊崇して、年々に祭禮の節は代々罷越(まかりこし)、ことなる饗應をなしけるとなり。先代左衞門は異人にてありしが、當主は左(さ)もなきよし。彼(かの)家に奇成(なる)家風有(あり)。毎年正月十一日には、主人麻上下(あさかみしも)を着し、嫡子は其脇に並び、酒の役人、墨附(すみつけ)役人といふあり。其日門前を通る者男女となく屋敷内へ呼入(よびいれ)、豆腐里いも牛蒡人參などいへる正月樣の煮物を拵(こしらへ)、右を肴(さかな)に酒を爲呑(のませ)、さて跡にて額(ひたひ)又は手抔、惣身(そうみ)の内へ墨を付(つく)る事家法なり。近郊の者も今は其事知りて、如何(いかん)と思ふ者はその屋敷前を不通(とほらず)、當時其節爭論の事もなく濟(すみ)來(きた)る由。予が一族成(なる)者、相(あひ)支配の世話取扱(とりあつかひ)をなして正月十一日に彼家へ至りて、まのあたり其式を見たりしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話が内藤新宿の奇譚であったが、四谷大木戸は直近である。奇体家訓譚という変格武辺物。私はただの直感であるが、この饗応墨塗り儀式は厄除けを含んだ、生前の将門の事蹟若しくはその御霊信仰と関係するのではないかと思われる。そもそもが本話に於いて相馬氏のルーツとする将門の話が平行して編まれている点がそれを感じさせるし、単なる奇態な習俗の都市伝説であるなら、その風習のみを記せば足りるからである。この奇習はかなり知られたものであったらしく、後でも引くサイト「千葉一族」の「下総相馬氏」の本話の主人公是胤(これたね)の二代後の第三十四代相馬家当主繋胤(つぐたね)の事蹟に、『江戸時代には「四谷大木戸片町北側相馬左近屋敷」で行われている「相馬家嘉例の黒塗り」が知られていた(『遊歴雑記』:十方庵大浄敬順著)』(「遊歴雑記」は文化・文政の頃に隠居僧十方庵大浄敬順が江戸内外の名所旧跡を訪ね歩いて記した随筆)とあって、川崎健著「常総戦国誌」(二〇〇二年崙(ろん)書房出版刊)から次の部分が引用されている(恣意的に正字化し、仮名遣を一部訂した)。『例年正月十五日は家例として、門前を通る往來の人を呼び入れ、酒を振舞ひ、飽きるまで無理強いして、その者がもはや飮みがたしといふを合圖に、かねて用意し置きたる蘿蔔(=大根)の切り口を油墨に浸し、酒を飮みたる男女の額に押して、門前へ突き出し歸しむ。この戲れによつて、門内わあわあ笑ひ聲がしければ、往來の者が立ち止まり、何事かと門の潛りより顏差し出し覗くと、そのまま徒者を引き捕らへて玄關前にて、また、酒を強いてのち又額に墨を押す也。その者は額の墨を拂はんと手で撫でるがゆへ、墨が顏一面に廣がり、各々顏異人に似たり。また、一興と言ふべし。いつごろより始まつたか、これを相馬左近の家の吉例として、今も違はざる事、昔の如し』とあり、その後にサイト筆者によって、この奇習は『相馬家内での何らか嘉例または、平将門関係の何らかの神儀がもととなっていると思われ、それが家の行事として定着したと思われる』と私の印象と同様の感想を述べておられる。他に是胤の父相馬矩胤の事蹟の中にも、下総国守谷にあった下総相馬家の菩提寺であった大雄山海禅寺(現在の茨城県守谷市高野に現存)の将門堂供養などを見出せる。サイト「千葉一族」の「海禅寺」の記載を見ると、この寺は寺紋も相馬氏と同じ九曜紋を用いており、承平元(九三一)年に将門が父良持(知られる「良将」は誤りとする強い意見があるのでこちらを採る)の菩提を弔うために創建したという伝承があり、相馬氏は将門を祖神として崇め、海禅寺にも将門とその影武者七人の墓とされる八基の石塔が残るとあって(但し、その殆んどは江戸期の作成とされるとある)、相馬家が将門の血を引くと強く信じられていたことが分かる。私は特にこの墨塗り(それによって面が割れ難くなる)部分は、この影武者七人の伝承と何らかの関係があるように思われるのだが。これにつき、是非、識者の御教授を乞うものである。

・「四ツ谷大木戸」大木戸は街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所である。人間や物品の出入りの管理を目的とした(木戸は江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製扉で、その大規模なものを大木戸と呼んだ)。主な大木戸は高輪大木戸(現在の港区高輪二丁目にあった東海道の大木戸)・四谷大木戸(新宿区四谷四丁目交差点にあった甲州街道のそれ)・板橋大木戸(板橋区本町にあった中山道のそれ)である(ここまではウィキの「大木戸」に拠り、以下は「四谷大木戸」の記載)。四谷大木戸は元和二(一六一六)年に幕府により甲州街道に於ける江戸出入口として設けられた。『地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが』、寛政四(一七九二)年以降は木戸が撤去された。但し、『木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった』(従って本話のそれはその地名で、「卷之八」の執筆推定下限の文化五(一八〇八)年には大木戸はなかったので注意されたい)。文政一二(一八二九)年成立の『「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている』。大木戸附近には承応二(一六五三)年に完成した『玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた』。また、元禄一二(一六九九)年には『大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている』。『明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため』

、明治九(一八七六)年に『撤去されてしまい、現在では何も残っていない。ただし、現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。なお、新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである』。『新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立っている』とある。

・「相馬小太郎」底本の鈴木氏注に、相馬是胤(元文四(一七三九)年~(一八〇四)年)とあり、『天明六年(四十八歳家督。廩米』(りんまい:原義は倉庫に蓄えてある米、倉米で、特に幕府や諸侯の蔵に蓄えた米を指すが、ここは扶持米の異称。)『八百俵』とある。サイト「千葉一族」の「下総相馬氏」によれば、彼は相馬家第三十二代当主・旗本相馬家十一代である(屋敷が四谷大木戸とあるから間違いない)。一橋徳川家と親交があったとある。

・「相馬將門」平将門。

・「相馬因幡守」底本の鈴木氏注に、『祥胤(ヨシタネ)。相馬中村城主、六万石。同家は義胤の長男胤綱の系』統とある。先の「下総相馬氏」からリンクされた「相馬氏」の「相馬中村藩主」の頁の事蹟を読むと、この相馬祥胤(明和二(一七六五)年~文化一三(一八一六)年)なる人物は第九代中村藩主として、民政に尽力した名君であったことが窺われる。

・「因幡の守家とは不和にて今は通路もせざる由」本家傍流の主張によるものらしい。先の「下総相馬氏」の相馬矩胤の事蹟に『相馬家が十三世紀末に一族同士の争いによって分流してから五百年余、江戸時代初期に一度は顔を合わせた両家も再度対立して絶縁したが』、この主人公信胤の父矩胤によって関係修復が始まったと推定されてある。

・「神田明神」神田明神は「一ノ宮」に大己貴命(おおなむちのみこと:大黒。)を、「二ノ宮」に少彦名命(すくなひこなのみこと:恵比須。)を、そして「三ノ宮」に平将門の三柱を祀っている。参照したウィキの「神田明神」によると、社伝によれば天平二(七三〇)年に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が大己貴命を祖神として祀ったのに始まるとされ、神田は元は『伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した』とある。また、承平五(九三五)年、『乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた』。嘉元年間(十四世紀初頭)には疫病が流行、『これが将門の祟りであるとして供養が行われ』、延慶二(一三〇九)年になって新たに『当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる』。因みに、明治七(一八七四)年に『明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが』、戦後の昭和五九(一九八四)年になって『本社祭神に復帰した』とある。

・「神緣」底本の鈴木氏注に、『神田明神杜(いま神田神社)の祭神は大己貴命と平親王将門の霊とされていた。もと神田橋御門外に当る柴崎村にあった。遊行上人第二世真教坊[やぶちゃん注:他阿(他阿弥陀仏)とも呼ぶ。]が、荒廃した社に将門の霊を合祀して、その傍らに草庵を結んで芝崎道場と呼んだのが、後の浅草日輪寺のもとであるという』とある。ここに書かれた内容は「神田明神」公式サイトの「神田明神の歴史」にも、『出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建され』たとあり、『その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊を』慰めた上、延慶二(一三〇九)年に祀ったとある。

・「社家社人」「社人」は「しゃにん」とも読む。神主及び神人(じにん)を指す。神人とは社家に仕えて神事・社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人(よりゅうど)のこと。

・「先代左衞門」鈴木氏の注によれば、是胤の父矩胤(のりたね)で、『大番、新番を勤め天明六年没、七十七。同家の知行はもと千二百石であったが、信胤のとき非違』(ひい:不法行為。)『あって四百石を削られ、残り八百石を廩米に改められたもの。家祖胤継は将門から十二代義胤(北条義時ころの人)の次男』とある。先の「下総相馬氏」によれば、この相馬信胤というの是胤の曽祖父で二十八代当主・旗本相馬家七代で鉄砲玉薬奉行であったが、宝永六(一七〇九)年に所領の山崎村民衆が幕府に領主悪政の訴えがあり、相馬家代官谷上勘兵衛の悪事が露見、翌宝永七に当主として罰せられて改易・謹慎となり、五ヶ月後に許されたものの、『相馬家の知行地は戻らないまま幕末に至った。小普請では松平主計頭組に属した』とある。

・「異人」奇矯な人物。但し、「下総相馬氏」の相馬矩胤の事蹟を読む限りでは、そうした印象は全くない。直接過去の「き」が用いられているところは、根岸の感想ともとれないことはない。彼は根岸より二十七歳年上で天明六(一七八六)年に死去しているのであるが、一つ、リンク先の同事蹟の中に、安永四(一七七五)年に六十六歳で大番を辞して隠居したが、その直後の十一月十四日に「相馬左近殿御次男不慮之儀」があって父矩胤が「町奉行所へ御渡仰付候」ことがあった(「相馬御実記」)という記載に目が止まった。これは『矩胤は次男が何か事件を起こして町奉行所へ出頭する羽目になった』ということである。この時、根岸は三十八歳で、勘定所の勘定組頭であった。審理に関わった可能性はないが、情報は耳に入っていたとして不自然ではない。

・「爲呑(のませ)」は底本の編者によるルビ。

・「相支配の世話取扱」何の職務かは不明であるが、同じ上司の支配する組の同僚であったことを言うものか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 相馬家の家風の一つがひどく変わった儀式なる事

 

 四ッ谷大木戸に、相馬小太郎是胤(これたね)と申さるる食禄七百石ほどの御旗本が御座る。

 相馬小次郎平将門嫡流の子孫にして、諸侯であられる中村藩主相馬因幡守(いなばのかみ)祥胤(よしたね)殿よりも、かえって正統なる将門本流本家であらるる由にて、これによって因幡守家とは不和にして、今では両家の間、これ、一切の関係が断たれ、行き来することも相いなき由。

 神田明神にては、将門公神霊の神縁として、神主から下々の社人(しゃじん)に至るまで、皆々はなはだこの相馬家を尊崇致いて、年々(としどし)の祭礼の節にあっては、代々の当主が詣で、格別なる饗應がなさるると聞く。

 先代の相馬左衛門矩胤(のりたね)殿は変人であったが、当主は左程でもないと聴く。が、かの相馬家には、これ、まっこと、奇体なる家風が、ある。

 毎年、正月十一日になると、当家主人は麻裃(あさかみしも)を着し、当家嫡子はその脇に並び、別に「酒の役人」・「墨附(すみつけ)の役人」と申す者が設けらるる。

 そうして、屋敷門には見張りが複数立たされ、その日、門前を通る者――男女を問わず――強引に屋敷内へと呼び入れ、豆腐・里芋・牛蒡・人參などと申す、正月の御節様(よう)の煮物に拵えたものを饗し、これを肴(さかな)にして酒を呑ませ、さて、その後(のち)、額または手(てぇ)なんど、総身の肌の出でたるところならば、これ――委細構わず――そこたら中(じゅう)に墨を塗りつくることを、これ、厳格なる家法として、おる。

 近在の者も、今はこの奇風をよく存じておって、『かの仕儀は御免蒙る』と思う者は、その日は、かの相馬屋敷の門前を決して通らず、永年この節、この仕儀を受けて争論となったと申すこと、これ一切なく、ずっと無事にこの奇習は続き来たっておる由。

 私の一族であるある者が、小太郎殿と同僚であったによって、正月十一日、かの相馬家へうっかり参ってしまったところが、目の当たりにその儀式を見、

「……いやあ、美事、全身に墨を塗られました。……」

と、語って御座ったよ。

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