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2014/09/09

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 大寧寺

    ●大寧寺

大寧寺は。瀨崎村に在り。海藏山と號す。源範賴の菩提寺なり 開山は千光國師にして。建長寺に屬し。本尊は藥師十二神將とす。當寺の書院は北に向ひ瀨戸の入海を俯瞰して。風光殊に佳なり。

範麓の靈牌は。堂中に置けり。表面に大寧寺殿道悟大禪定門神儀。裏面に範賴公。建久四癸丑年八月と彫刻せり。墓は堂後の山麓にあり。高さ二尺六七寸。五輪の石塔なり。生害の事實は人のよく知る所なれは略す。

[やぶちゃん注:太寧寺の誤り。「新編鎌倉志」「鎌倉覽勝考」「江戸名所図会」孰れも『太寧寺』と標記し、現在も太寧寺である。臨済宗建長寺派。現存するが位置が異なる。本来あったのは平潟湾と野島に面した現在の関東学院大学人間環境学部校舎のある付近(旧地は丘陵部が完全に突き崩されて原型を全く留めていない)。源範頼が瀬ヶ崎に創建した真言宗寺院の薬師寺が元と伝えられ、この寺が後に移転して薬王寺(金沢区寺前に現存)となり、この薬師寺のあった場所に範頼の菩提を弔うために鎌倉時代に範頼の戒名に因んだ太寧寺が開かれたとされている。戦中の昭和十八(一九四三)年に横須賀海軍航空隊追浜飛行場拡張に関わる格納庫の建造目的で、現在ある金沢区片吹に強制移転させられている(以上は主に金沢区観光協会による)。楠山永雄氏の「うらり金沢散歩道」のNO.35 太寧寺の“へそ薬師”」(通称は後述)によれば、昭和一八(一九三三)年、戦局が激化する中、海軍は追浜飛行場の大規模な拡張を強行、当時、瀬ケ崎の山の手にあった太寧寺は、地元民とともに緊急強制疎開の命令を受け、現在地へ慌ただしく移転させられた。範頼の墓は移せたものの、建長寺管長菅原時保の書になる「範頼公七百五十年紀念碑」も、また「赤ひげ」のモデルとして知られる江戸小石川療養所の仁医小川笙船(しょうせん)の当寺にあった墓(遺言による分骨墓)も現在は所在不明のままで(現在ある墓は戦後に新たに建てられたものであるらしい)、『飛行場の埋め立ての際、海にでも沈められたのだろうか』とある。また、戦後も『太寧寺の旧地は、関東学院女子短大の南端の山腹にあったが山全体が丸ごと切崩されてしまい、もはや跡地さえ見ることはできない』というなんとも悲惨な事実が語られてある。楠山氏は『太寧寺にまつわる数々の伝承も、寺の移転とともに次第に忘れ去られてゆく。戦争被害の後遺症はこんなところにまで及んでいたのだ。金沢の伝承が、一つでもわれわれの世代で途切れるとすれば、何んとも残念なことである』と結んでおられる。本文の「當寺の書院は北に向ひ瀨戸の入海を俯瞰して。風光殊に佳なり」という言葉が哀しい。

「源範賴」(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年)の最後については、ウィキの「源範頼」によると、建久四(一一九三)年五月に、『曽我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。(ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある)』とあり、その後、八月二日になって『範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽』、十日の夜半には範頼家人の当麻太郎が頼朝の寝所の縁の下に潜入、『気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝』によって十七日、範頼は伊豆国修禅寺に幽閉される。「吾妻鏡」ではその後の範頼の消息は記されないが、「保暦間記」などによれば誅殺されたとし、その可能性は高い。しかし異説として、『修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられてい』たり、『武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』ともあり、実はこの墳墓についても、修善寺奇襲から逃れた範頼が何とか兄の疑いを解こうとして戻った範頼は浦郷(現在の横須賀市浦郷町)辺に潜伏したが、討手に発見されて太寧寺の前身で彼の創建になる薬師寺に入って自害したという伝承がある。なお、この墳墓に関わっては範頼の法名を「太寧寺殿道悟大禪定門」とするが、これは後につけられたものか。ウィキでは範頼の正式な戒名を「名巖大居士」としている。

 「新編鎌倉志には、

〇太寧寺 太寧寺(たいねいじ)は、瀨崎村(せがさきむら)の南にあり。海藏山と號す。蒲御曹司(かばのをんざうし)源の範賴の菩提寺(てら)也。開山は千光國師、今建長寺の末寺なり。本尊藥師・十二神、是をへそ薬師と云ふ。【勧進帳】の畧に云、昔し伏見帝、永仁年中に、此村に貧女あり。父母の忌日にあたれども貧しふして佛に供養すべき樣なし。絲をくり、へそとして、これを賣て、父母忌日の佛餉(ぶつしやう)に備へんと思ふ。然れどもたやすく買ふ人なし。或る時童子一人來てこれを買ふ。其の價(あたひ)を以て父母忌日の供養を勤む。不思議の思ひをなしゝ所に、此藥師佛の前に、其へそ多くあり。始て知ぬ如來童女純孝(ぢゆんかう)の志(こころざし)を感じてしかることを。自爾以來、へそ薬師と云ふとあり。鶴が岡の鳥居の前より、此寺まで關東路十里あり。

とある。この「へそ」は「綜麻・巻子」と書き(注:「臍」とは無関係)、「へ」は糸を揃えて合わせる意の動詞「綜(へ)る」の連用形に「麻(そ)」が附いたもので、紡いだ糸を中空の球状に幾重にも巻いたもの。苧環(おだまき)のことで、紡いだ麻糸を織機にかけ易いように巻きつけた糸玉のことを指す。孝心の少女、少年となって現われた薬師如来、貧窮の民を平等に療治した赤ひげ……彼らが、後にこの寺を襲った数奇な運命を知ったら、一体、どう思うであろうか…………

「千光國師」栄西の諡号。

「二尺六七寸」七十九~八十二センチメートル。

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