フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014/10/31

杉田久女句集 297 杉田久女句集未収録作品 Ⅲ



間引菜洗うて水切る笊や破れゐし

 

庭の菜を笊にうづたかし小春緣

 

箒すてて根深の肥に去りにけり

 

小包の繩切る柿の庖丁かな

 

箒目こまやかに葉雞頭のまはり掃きにけり

 

[やぶちゃん注:特異点の確信犯の字余りの句である。底本でも文字の詰めが最も著しい。ここまで見てくると、久女の非凡さが既に現われている。久女は句作のスタートに於いて既に意識的に音数律を壊して意識的に新たな久女の世界観を開こうとしていると私には読める。]

 

ひやゝかの竈に子猫は死にゝけり

 

[やぶちゃん注:私が久女の初期秀句として一番に選んだ句である。当時の女流の句に盛んに言われた『台所俳句』(この呼称は実に厭らしい。誰とは言わないが、あいつの名づけそうな実に悍ましい分類である)としても、これは他の追随を許さぬ美事な句であると私は断言する。]

 

夜寒さや棚の隅なる皿小鉢

 

魚に酢の利く間や菜を間引きけり

 

[やぶちゃん注:「菜」は「サイ」と音で読んでいるか。]

 

柿むいて澁に染む手の幾日かな

 

冬の朝道々こぼす手桶(をけ)の水

 

[やぶちゃん注:「をけ」は「手桶」のルビ。大正六(一九一七)年一月発行の『ホトトギス』(「台所雑詠」欄)への久女初掲載句の一句。]

 

凩や流しの下の石乾く

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年一月発行の『ホトトギス』(「台所雑詠」欄)への久女初掲載句の一句。]

 

妻若く前掛に冬菜抱きにけり

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年一月発行の『ホトトギス』(「台所雑詠」欄)への久女初掲載句の一句。既にして芸術的なスカルプティング・イン・タイムの句である。]

 

蠣飯に灯して夫を待ちにけり

 

[やぶちゃん注:「夫」は「とま」と訓じていよう。]

 

霜に映りて竈火震ふや霜の朝

 

霜に出して燃す七輪の屑炭(ガラ)赤し

 

[やぶちゃん注:「屑炭」の「ガラ」とルビ。]

 

枯菊の根の泥石を掘りて來し

 

氷豆腐の笊つる枝や北斗冴ゆ

 

[やぶちゃん注:パースの利いた、しかも凄絶なシャープさを持った秀句と私は思う。]

 

外厠に婢の行く音や夜半の冬

 

[やぶちゃん注:「外厠」は「とがはや」と訓じているか。]

 

魚見せて呼べど猫來ぬ寒さ哉

 

こはばりて死にし子猫や冬の雨


1978年8月22日(21歳)の夢

以下は僕の1978年8月22日の日記にある夢記述である。当時、21歳、大学4年の夏の帰省(富山)中である。
僕の夢記述の中でも非常に詳細なものの一つで、彫像を乗せた墓の印象が強烈であった。以前にも申し上げた通り、まさにこの前後に最も夢記述にハマり、夢現の境がなくなるという意識変調を起こした頃の一つである。
夢の中の配置図や、見た彫像の墓のスケッチも含まれ、この程度まで「記述出来るまでになってしまう」例として示すこととした(実際にはもっと長いものもかなりある。そうした古い印象的な夢については、幾つかを既にこのブログ・カテゴリ「夢」で書いている。例えば『「プロビデンス」夢」』である)
当初、電子テキスト化しようと考えたが、面倒なのと、電子化作業で夢を整序していると疑われるのも不本意であるので(これは日記帖であって誰かに読まれることを意識していない点でも創作性は極めて低いと言ってよい)、汚い文字で誤字も多く(「蜂蜜」「捜」等)、スケッチも拙いので正直、お恥ずかしいのであるが(これが半年後に国語教師になる人間の書いたものとは思えない)、特に彫像墓の図をそのままに示したいという欲求を抑えられないので、恥を忍んで日記そのままを画像で示すこととした(計七ページ)。
文中のプライベートな人名が出る箇所は匿名化若しくは文字削除し、概ね個人を特定出来ないようにしてある(男性は「君」、女性は「さん」とした)。石原裕次郎が特別出演しているのはご愛嬌(何だろう? 当時、昼間に再放送していた「太陽にほえろ!」か?)。最後に注を附した。

Img114
Img115_2

Img116
Img117
Img118
Img119
Img120_2
・「伏高」富山県立伏木高等学校。僕の出身校である。僕は父の転勤で、大船から小学校終えた後、富山県高岡市伏木に引っ越し、中学高校をそこで過ごした。
・「A君」この人物についてだけはどうしても注しておきたい。僕の小学校時代の忘れ難い数少ない親友の一人であった。彼については「忘れ得ぬ人々 8 A君」に書いた。そこをお読み戴くと、彼とこの後の「修学旅行」の関係性が分かって頂けるのではないかと思われる(僕には少なくとも腑に落ちるのである)。
・「修学旅行」事実とは異なる。僕は高校の修学旅行は体験していない。信じ難いかも知れないが、当時の富山県の公立高校の普通科は全県で修学旅行がなかった。因みにだから僕は高校教師時代、修学旅行でハメを外した生徒たちを実は本気で叱ったことがないのである。僕が高校生だったら、そうしたかったことを、彼らはやっていたから、である。
・「よしのや依緑園」金沢の山中温泉の宿。この直前の8月14日から16日まで父母と金沢白山を廻って山中温泉に15日(終戦記念日で二年前に亡くなった母方の祖父の祥月命日でもあった)に泊まっている。日記によれば、永平寺の俗悪さに嫌悪し、平泉寺の幽邃さに爽快感を感じたことが記されている。山中温泉では夏祭りの太鼓が鳴っていた。三人で夜、旅館のバー・コーナーに行き、ヘネシーのブランデーを飲んで美味かったと記してもいる。
・「もどった顔」ここでこの男の顔が正面から見えたという意味である。
・「二つの九品寺」世田谷奥沢の九品仏浄真寺と鎌倉材木座にある九品寺のこと。
・「C先生」僕の実際の伏木高校一・二年時の担任だった英語の先生で、殆んど生徒を叱ったことのないとてもリベラルな尊敬出来る先生であった。因みに、僕はこの二ヶ月前に伏木高校で教育実習を終えており、C先生を始めとして多くの先生方によくして頂いた。とても楽しい実習で、ここに出てくる女生徒というのも、恐らくはその時に担任として芥川龍之介の「羅生門」(!)を授業した商業科の女子生徒のイメージであろうと思われる(因みに商業科は45名定員で男子生徒は2人だけであった)。
・「(27文字削除)」ここは原文では具体的な人名を挙げて、三体の彫像を特定人物として夢解釈している(3体に対して4名の名を挙げておいて、二人目は執拗に黒く塗り潰しており、判読が出来ない)。

因みに、どうも今回再読するに、この夢のキーは「脱ぎ散らかした履き物というモチーフ」にあるように感じられた。

詩夢 その他

今朝方、夢の中の書斎で、僕は詩を詠もうとしているのだ――

しかし乍ら、それは「当然と言えば当然の如く」

兩岸猿聲啼不盡中 歸去来兮(兩岸の猿聲啼住まざるうち 歸らなん いざ)

という、李白の「早發白帝城」(つとに白帝城を發す)と陶淵明の「歸去來辭」の変てこりんのカップリングだったり、

僕のちんたいした玄室に 毎夜僕のゆうれいが出る

朝になると 僕の寢室に 首のない戀人の幽靈がゐる

といった尾形龜之助の詩の噴飯の物真似なのだ――

それを「まことしやかに大真面目に詠んでいる」――そうして――

それを「冷ややかに外部から軽蔑の眼(まなこ)で眺めている自分の意識が感ぜられる」――という夢なのである…………

実につまらぬ夢乍ら、詩の文句を覚えていたので記す。しかしこの夢の意味はその部分部分がなんとなく覚醒時の今の自分にも腑に落ちるのである。

その後に見た夢。……

僕はどこかの学校で生物の授業を受けている。
教科書に載るのは不思議な生物(「ゴキブリ」と若い生物教師は呼称しているのだが、解剖しようとするシーンがフラッシュ・バックするシーンがあって、その1mもあろうかという巨大な幼体は――茸のエリンギに蟹の脚が生えているような白々とした奇体な生き物なのであった)を発生させるという実験の説明である――

その方法は、真っ赤な林檎を、二種の薬物を混合した真っ赤な赤色の特殊な液体に一晩漬けるとその幼体が発生生育するというのである――

しかし僕は、たいした罪悪感もなく、二人の教え子カップルとともに教師の指示したのとは別の、やはり二種の薬物[やぶちゃん注:一つは定番のカーミン、もう一つはホウ酸の化合物であった。]を実験台の下で秘かに混合し、それに林檎を浸して学校の更衣室の冷蔵庫の中に秘かに隠す――

ところが翌日、寝坊をして学校に行ってみると、僕らのやった行為が露見し、PTAも総べて呼ばれた一大査問糾弾会が開かれているのであった――

ところが僕はその査問の対象にさえなっていないのである――

そこで僕は物証である実験物を取り出して、それを手に査問会に出るのだが、証人として出ている生物教師がその林檎を割ってみると、中はうっすらとしたピンク色にしか染まっておらず、薬物は何を使ったと質され、その薬品名を答えると、
「そんなものじゃ染まらないし、〈あれ〉[やぶちゃん注:例の奇体な生物。]は発生しないよ。これじゃ、このバイオハザードに匹敵する違法な行為を君が主導したという証拠にはならないね。まるで素人のやることだからね。」
と軽蔑したように笑って林檎を僕に投げ返した……

この如何にも奇体な夢も実は今、こうして記述しているとやはり、何か頗る腑に落ちるものがあるのである。これは先般、僕がリニューアルした「栗氏千虫譜」の仕儀に対する、僕の中にあるところの、あるアンビバレントな意識の表象であると感じられるからである。エリンギに似たしらじらとした甲殻類というところなんざ、フロイト系の分析医が小躍りしそうじゃないか……♪ふふふ♪

2014/10/30

杉田久女句集 296 杉田久女句集未収録作品 Ⅱ

 

皿の絵に赤くしみつく苺かな

 

幟ひたと默して暑き街道埃

 

[やぶちゃん注:「街道埃」は「みちぼこり」と訓じていよう。]

 

松原に虹美しき幟かな

 

明日の麥を井にかすや月出でにけり

 

椀のふたに花柚の香や朝うれし

 

干瓢干て日盛や連山せまる家

 

日盛土人葉かげのバナナ切りに入る

 

夏草を退きためし朝の潮かな

 

山畑の茄子なり盛る秋涼し

 

今朝秋や酢の香うせたる櫃の飯

 

パセリ添へて皿繪美し萩の夕

 

かけす馴れて婢の名を呼ぶや今朝の秋

 

[やぶちゃん注:ウィキの「カケス」によれば、スズメ目カラス科カケス Garrulus glandarius は「ジェー、ジェー」としわがれた声で鳴くき、英名“Eurasian jay”の“Jay”はこの鳴き声に由来するとし、また、『他の鳥の鳴き声や物音を真似するのが巧く、林業のチェーンソーや枝打ち、木を倒す時の作業音を「ジェージェー」の間奏を入れつつ再現することもある。飼い鳥として人に慣れたものは人語の真似までする』とある。私は鳥には疎いので吃驚り(私は実はかつて「日本野鳥の会」に属していたが、これは妻の家族会員というのが真相であった)。]

 

霧の中にボーと鳴る汽笛や默す夫婦

 

  五月振りに家に歸る 一句

 

妻留守の汚(よごれ)衣ためて秋暑し

 

秋空の如く瞳のすむ子かな

 

皿愛でて菊膾する旗日かな

 

コスモスやとまと切る皿の繪の模樣

 

婢をまぜて女三人やいもの秋

 

[やぶちゃん注:「三人」は「みたり」と訓じているか。]

 

間引菜を浸して寒し桶の水

ツイッターで発見、感謝

ツイッターの東京の某大型図書館勤務の方のツイートに以下を発見――感謝――
 
 
保護期間満了NDLデジタルコレクション画像の見事な使い方。 / “栗氏千蟲譜 巻十(全)   栗本丹洲http://homepage2.nifty.com/onibi/1000-10.html
 
【2018年4月追記】現在は http://yab.o.oo7.jp/1000-10.html に変更。

初めての都都逸 二首

ツイッターのフォロワー女子高生春輔師匠に感化されて――生まれて初めて都都逸二首――
 
 
驕るイカルス怒り心頭
 
翅に蟲喰ふ
 
秋月夜
  
  
 
紡ぐアラクネ頸くくらんと
 
乙女ミサンガ
 
擲てり

2014/10/29

栗氏千蟲譜 巻十(全) 栗本丹洲  強力リニューアル!

栗氏千蟲譜 巻十(全)   栗本丹洲 を強力リニューアルした。翻刻部と訓読部両方に贅沢に原画画像を挿入、全面的に改稿した。参考画像には海外サイトからダウンロードした中世ルネサンス期の博物誌の画像もある。

僕のような貧しい市井の男が、こんな鎌倉の田舎で、居ながらにして高価な稀覯書の博物図譜の画像を気軽に見、検証が出来る――まことに素晴らしい時代になったものだと感慨すること頻り。

今回は偏愛する別写本の服部雪斎の図もかなり多く参考で掲げた。絵だけを見てもお楽しみ戴けるはず。どうぞ、御来駕あれ!

杉田久女句集 295 杉田久女句集未収録作品 Ⅰ / 始動

杉田久女句集未収録作品

 

[やぶちゃん注:以下、句集「杉田久女句集」(角川書店昭和二七(一九五二)年十月二十日刊・文庫判)に所収されなかった句を電子化する。底本は引き続き、一九八九年立風書房刊の「杉田久女全集」を用いるが(当該部は第一巻の『補遺(杉田久女句集未収録作品)』パート)、その冒頭でも述べた通り、確信犯で恣意的に多くの漢字を正字化して示すこととする。総句五百七十六句で、後の昭和四四(一九六九)年角川書店版四六判全集(編年体)は前句集に補遺句数二百四十四句を加えたものと底本書誌解題にあるので、これより電子化する半分を有に超える三百三十二句が、この安くない(二巻セットで本体一万四千円)底本全集を買った人以外には現在まで殆んど知られていない杉田久女の句、ということになる。

 以下、冒頭の六十九句にはクレジット標題がない(この次の句群が『大正七年』の柱となっている)。句群の後半部に大正六(一九一七)年一月発行の『ホトトギス』(「台所雑詠」欄)への久女初掲載の句が六句確認出来る(石昌子さんは年譜で五句とされが、坂本宮尾氏の「杉田久女」(二六頁)によれば掲載数は『六句』とあり、そこに引かれた三句の内の一句は年譜引用に載らない句であるので坂本氏の句数を採る)。年譜によれば、小倉にいた久女はこの前年の大正五年の秋に、両親の依頼で当時同居させていた次兄(俳号赤堀月蟾(げっせん)。渡辺水巴門。商社マンであったが俳句への傾倒著しくそれを心配しての措置であったかと思われると年譜にはある)の手解きを受けて句作を始めている(さすればミイラ取りがミイラということにもなる)とあるから、この前半の句群は大正五年秋から年末への数ヶ月の作かと一応考えてよいであろう。久女の杉田宇内との結婚は先立つ八年七年前の明治四二(一九〇九)年八月で、この大正五年八月には次女光子も生まれ(長女昌子は既に五歳)ていた。この時、久女二十六歳。]

 

初凪や内海川の如く酒庫の壁

 

初凪や船に寢て今日も陸地なし

 

小唄やめて臼只ひけり土間の冬

 

炭の粉を寒菊に掃く箒かな

 

先つんで捨てたる葱の寒の雨

 

蜜柑送るに蒲鉾板をけづり書きし

 

韮炊くや夜寒灯に居りし兒はいねぬ

 

知らで踏む小草の花や春淺き

 

新しき柄杓の木香や水温む

 

薪濡れて燃えぬ竈や春の雨

 

宴はてゝ膳あらふ灯や若葉雨

 

拭巾白く干しつらねたり若葉かげ

 

もぎたての茄子色濃さや桶に浮く

 

茄子苗を買うて伏せ置くめざるかな

 

庖丁とぐや無花果の葉に夕立うつ

 

修理して厨明るき若葉かな

 

井側替へて靑桐に木の香新しき

 

[やぶちゃん注:「井側」老婆心乍ら、「いがは(いがわ)」と読む。井戸側のこと。日常的に使う漢字であるが、あまり理解されているとは思われないので注しておくと、「側」には単なる対象の傍ら・そば・横脇の謂い以外に、曲面を成す対象物のその周囲又はその周囲を包んでいるものの意味がある。]

 

色白く肥えて婢美し茄子畑

 

[やぶちゃん注:「婢美し」は「ひはし」と訓じているか。「婢」は「はし」の訓もあり音数律も合うが、どうも私には「はしはし」ではしっくりこない。私の読みでは中七字足らずとなるが詠んだ際、少なくとも私には抵抗感がなく、「婢」の後のブレイクが映像的にも鮮烈である。私はこの句が好きである。]

 

桑の海にふりそゝぐ日や暑し

 

[やぶちゃん注:破調で面白い。]

 

手づくりの初なりの茄子や夕の膳

2014/10/28

栗本丹州「栗氏千蟲譜 巻十(全)」テクスト及び注部分の全面改稿終了

栗本丹州「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の本文の再校訂と訓読の全面改稿及び詳細な注の追補を終了した。画像の挿入はまだ一部であるが、取り敢えず御報告まで。

少年の見たあの日の夢は

少年の見たあの日の夢は
深い空へと身投げして
少女が焦がれたあの日の恋は
大気にぶつかり燃え尽きた

僕のツイッターのフォロワー酒井春輔の都都逸――
因みに彼女は現役の女子高生である――

杉田久女句集 294 菊ヶ丘 Ⅹ 角川書店昭和二七(一九五二)年十月二十日刊「杉田久女句集」 了

  別府 三句

 

佇ちよれば湯けむりなびく紅葉かな

 

  海地獄

 

湧き上る湯玉の瑠璃や葛の雨

 

這ひかゝる温泉けむり濃さや葛の花

 

  横濱にて 三句

 

寸陰を惜み毛糸を編む子かな

 

クリスマス近づく寮の歌稽古

 

毛糸卷く子と睦じく夜の卓に

 

 

  税關にて 二句

 

屋上の冬凪にあり富士まとも

 

北風吹くや月あきらかに港の灯

 

[やぶちゃん注:この「横濱にて 三句」と「税關にて 二句」の六句は、横浜税関長官官房の秘書役をしていた長女昌子さんの恐らくは独身時代の句(「寮」が出る)と推察する。昌子さんの結婚は昭和一二(一九三七)年十一月であるから、時制的にはそれより前(結婚直近の可能性も高い)の句作である。本句集の極めて特異な点であるが、大きな標題句群は時系列上の一応の纏まりを持っているように見え乍ら、その中の並び(概ね季別)では編年性がほぼないと考えてよい点である。これは本句集を読む上で最も気をつけねばならぬ点である。]

 

  昭和十七年光子結婚式に上京 三句

 

歌舞伎座は雨に灯流し春ゆく夜

 

蒸し壽司のたのしきまどゐ始まれり

 

鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな

 

[やぶちゃん注:「昭和十七年」は久女の誤りと思われる。次女光子さんの結婚は昭和一六(一九五一)年十月である。底本の長女昌子さんの編に成る年譜に、『十月、次女・光子、竹村猛に嫁す。結婚式に上京、鎌倉在住の昌子宅に泊ったが』(この叙述からも直前の句群とはスパンがあることに気づかれたい)、『精神的な精彩なく、悲痛で胸が痛んだ。若夫婦は台北の任地(台北高商)へ赴く。神戸より乗船、文字に寄港碇泊、戦時中とて上陸禁止。普通は面会できないところ、宇内の教え子が門司税関にいたため、税関のランチで船に赴き別れを告げてきた。これは次女・光子との最後となった。このときは小倉中学のおかげだったと非常に喜んでいた』とある。久女、五十一。

 因みに、この光子さんの夫竹村猛という人物は、橋本恭子氏の論文「島田謹二『華麗島文学志』におけるエグゾティスムの役割」(「日本台湾学会報」第八号・二〇〇六年五月発行)の中で、占領下の『台湾文壇での1940年代に入って日本人と台湾人が共に文学活動を行うようになると、台湾文壇では約2年にわたり「エグゾティスム」と「レアリスム」をめぐる議論が展開され、「外地文学」の本質は「レアリスム」にあるとの共通認識が確立していく』。『日台双方の論者は一連の議論を通じ、台湾の文学が内地から「エグゾティック」と見られるのは仕方ないにしても、作家たちはそれを意図すべきではなく、あくまで台湾という土地に根ざした「レアリスム」の文学を目指し、台湾文化の向上をはかるべき、との結論に達した。もっとも、台湾人作家の龍瑛宗(1911―1999)と黄得時(1909-1999)は「エキゾチシズム文学はあつてもいゝ」と文学の多様性を認め、台北高商講師の竹村猛も、「エグゾティスム」の真偽は素材に対する作家の態度に係わるものであり、「真のエグゾテイスム」は今なお「取り出されるべき価値」がある、と一連の議論を締めくくった』と出る「竹村猛」なる明らかに文学者(同論文註には彼が『台湾公論』1942年9月刊に「作家の態度」という評論を書いていることが分かる)と思われる人物と同一人物と考えてよかろう。彼の載る人名リストをネット上で得たが、そこには台北高商講師の彼の生没年と思われるデータが載り、『1914-1987』とある。これが正しいとすれば大正三年生まれ(光子さんより一つ年上)で昭和六十五年に逝去されておられる。これはフランス文学者中央大学名誉教授であった竹村猛と同一人物である。昭和一五(一九四〇)年東京帝国大学仏文科卒。中央大学教授、一九八五年に定年退任して名誉教授。十九世紀フランス文学を専攻、多くの作品を翻訳した、とウィキ竹村猛に載る。その著作リストを見て驚いた。私はこの竹村氏の訳書を胸躍らせて読んでいたことに気づいたからである。……アレクサンドル・デュマ「三銃士」(一九六一年~一九六二年・角川文庫/後に偕成社文庫・角川文庫。私は偕成社版を読んだ)……「モンテ・クリスト伯爵」(一九六八年・旺文社文庫)……。

 角川書店・昭和二七(一九五二)年十月二十日刊の「杉田久女句集」の句本文は本句をもって終わっている。最後に長女石昌子さんの「母久女の思ひ出」が載る(著作権継続につき、省略する)。

 杉田久女、本名杉田(旧姓赤堀)久(ひさ)は昭和二一(一九四六)年一月二十一日、大宰府県立筑紫保養院にて腎臓病悪化のために満五十五と八ヶ月(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生)で亡くなった。――]

橋本多佳子句集「海彦」  鵜川

 鵜川

 

  岐阜「流域」の人々と

 

鵜の餓ゑどき西日徹(とほ)して荒鵜籠

 

家に西日鵜匠もろとも田楽刺(でんがくざし)

 

鵜川暮れず何に生(あ)れつぐ白水泡(しろみなわ)

 

老い鵜「彦丸」内輪歩きに暮れざる川

 

篝火に眼窪頰窪鵜の匠(たくみ)

 

のどふくらむ鵜にて引かるる繩つよし

[やぶちゃん注:私は「縄」という漢字だけは許せない。この「縄」では直ぐに解けてぼろぼろになる。旧字とした。]

 

疲れ甘ゆ鵜の鳥鵜じまひはかどらず

 

かをかをと疲れ鵜鵜綱(うづな)ひきずつて

 

べたべたと篝おとろへ鵜のつかれ

 

つかれ鵜のこゑごゑ鵜匠きゝわけて

 

鵜じまひや鵜匠折れ身に鵜を抱きて

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三〇(一九五五)年七月の条に、『岐阜の松井利彦の招きで、長良川の鵜飼を見る』とある。「流域」は岐阜の流域俳句会の俳誌で編集発行人(昭和三十三年版を確認)は松井利彦名義である。翌三十一年の七月にも彼に招かれて誓子と同地を再訪、鵜飼を楽しんでいるが(後掲)、その年譜記載には『岐阜「流域」主宰、松井利彦』とある。

 本句群、全十一句の内、冒頭連続四句と一句挟んで再び二句連続する計六句にも及ぶ異様な上五字余り、五句もの句にルビを配し、二句連続でオノマトペイアの使用、老いた鵜の名「彦丸」という固有名詞を鉤括弧で挿入するなど、明らかに非常な特異点を呈する句群である。当時多佳子満五十六歳。]

2014/10/27

芥川龍之介 私の創作の實際 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

私の創作の實際   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年十一月発行の『文章倶楽部』に標記の見出しで、芥川龍之介の後に野村愛正(小説家・脚本家)、小川未明の一文が続く。即ち、標記のものは雑誌編集部が附けたものであり、芥川の文章全体には標題はない。アンケートのへの回答といった形式の原稿であったものと推測される。他の二作家の文にも以下に見るのと似たような小見出しがあるのを見ると、これらも編集部で勝手に附したものである可能性が高いと思われることから、本テクスト本文では「私の創作の實際」の標題を敢えて除外した。

 龍之介満二十六歳、二月に塚本文と結婚、年譜上の事蹟を見ると、いやでいやで仕方がなかった横須賀海軍機関学校の英語教官を辞める意志がこの九月頃には現実を帯びていた模様である。発行月のこの十一月の上旬には重いスペイン風邪に罹患して著しく衰弱、半ばは冗談交じりながら、

 

 胸中の凩咳となりにけり

 

   病中髣髴として夢あり

 凩や大葬ひの町を練る

 

といった辞世の句のようなものを詠んだりしていたことが書簡から分かる。

 因みに、直近の発表作は十月に「枯野抄」「邪宗門」(連載中)、同十一月に「るしへる」、直後では翌大正八年正月号の各雑誌に「毛利先生」「犬と笛」「あの頃の自分の事」が発表されており、同八年一月十五日には第三創作集で芥川文学のピークを飾る「傀儡師」が新潮社より刊行された。

 底本は旧全集を用いたが、総ルビを読みの振れると判断したものだけのパラルビに変えた。太字の部分は底本では傍点「△」である。踊り字「〱」は正字に直した。

 文中に出る『松屋の半枚の原稿紙』は芥川龍之介最期の遺書でも同じものが用いられている(よろしければ、私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 ぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫を参照されたい)。]

 

       よく書ける時

 

 小説のよく書けるのは、時候でいふと、秋から冬にかけて。時刻でいふと、午前と夜――夜も十二時まで、それから先は、急がないやうでも急いでゐる――場所でいふと、明るくて靜かな處に限る。但し、その室(へや)の戸や障子の締め切つてある事が必須の條件で、若し戸や障子が開いてゐると、そこから書かうとする物が逃げて行く樣な氣がしていけない。又人が傍(そば)に居ては書けない。殊に書けないのは風の吹く日だ。

 

       書けなくなつた時

 

 若し書いてゐるうちに、ちよつと筆のつかへる事があると、私は、心持を寛げるといふか、緩めるといふか、よくそこらにある本を開けて見る。或は家の者か、近所に住む友達かに合つて、一時間ばかりも話をする。すると又直ぐに書き出せる。

 

       題のつけ方

 

 標題その物を切り離して見ると、極く人目を聳動(しようどう)しない、そして、その題を小説と照應して見る場合に、初めてそれが十分な意味を持つて來る。これまでの私の小説の中では、「忠義」「手巾」などが、殊に自分の急に適つた標題で、「首の落ちた話」などは、寧ろ例外のものである。

 

       書く速さ

 

 私の原稿を書く速さは、全く分らぬ。一日に十枚以上も書いたのを、翌日になつて皆捨てゝしまふ。かと思ふと一日に書き上げた三枚が、その儘(まま)遺(のこ)る事もある。

 書いてしまふと草臥(くたび)れる。しかし好(い)い心持で、何時(いつ)までもぶらぶら遊んでゐたいと思ふ。けれども、それが二三日經つと、矢張り又書き度くなる。

 

       ペン、原稿紙その他

 

 ペンは、萬年筆が嫌ひで金G(きんジイ)を使ひ、インキは、普通のブリュウ・ブラックで、松屋の半枚の原稿紙に香書いてゐる。

 創作の筆を執らない時間は、一週五時間づつの英語の授業と、本を讀む事と、芝居や活動――大抵西洋の寫眞――を見に行つたり、散歩をしたり、友人の訪問をしたり受けたり、旅行をしたり、又下手な俳句を作つたり、更に下手な繪を書いたりする事に過ごす。運動と云つては別にしないが、唯夏の間丈けは盛んに海に入る。

2014/10/26

尾形龜之助「四月の原に私は來てゐる」  心朽窩主人・矢口七十七中文訳



0
 
 

  四月の原に私は來てゐる

 尾形龜之助


過去は首のない立像だ


或る年
ていねいに

戀は 靑草ののびた土手に埋められた

それからは
毎年そこへ萌へ出づる毒草があるのです

靑い四月の空の下に
南風がそこの土手を通るときはゆらゆらゆれながら
人を喰ふやうな形をして咲いてゐる花がそれなのです

 
 
 
22_2

 

  我到四月的草原了

 

去是部的立像

 

有一年

心地

一个恋 被掩埋在青草的河堤地下

 

以来

每年在那地上萌芽一个毒草

 

在四月天下

去那边时摇摇晃晃

 

以好像吃人似的形状而开的那花正是



 
33




        写真撮影 : 矢口七十七

        写真加工 : 心朽窩主人


尾形龜之助「白い手」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

  白い手   尾形龜之助

うとうと と
眠りに落ちそうな
晝 ――

私のネクタイピンを
そつとぬかうとするのはどなたの手です

どうしたことかすつかり疲れてしまつて
首があがらないほどです


レモンの汁を少し部屋にはじいて下さい


1546254_655404231244071_63156340635

 

   白色的手

 

迷迷糊糊 地

差点儿入睡 那

白昼 ――

 

的手

要把我领带别针悄悄地拔掉

 

不知什么于疲倦

无力得抬不起

 

在房里用手指一下……一点檬汁



        照片摄影 : 矢口七十七

甲子夜話卷之一 19 遊女七越が事

19 遊女七越が事

予年若き時、吉原町に住て三線彈を業とせし荻江源藏と云ものありしが、某生涯かく迄羞入たることはなしとて語りし。其比七越と云て名高き倡妓の、いまだ禿童にて居たるとき、殊の外にさがなく有たれば、源藏之に言しは、汝いまだ年幼けれども、後迄かくは有まじ。年長ぜば大夫傾城とも云はるべし。左なくば何の里何の巷の末にか零落せん。若幸に名ある大夫とならば、其時は我に仕着を贈るべし。今より屹と約し置と戒たるに、是より源藏も等閑に打過て、二三年も立ぬ。或時この婦を養置し扇屋と云るより、源藏に來るべしと云。源藏、三絃のことならんと出往たるに、さには非ずして、彼の兩三年前さがなりし禿童の、其日は突出とて新たに大夫女郎になり、七越と名乘りて、其開筵の日なり。其席に入るに、燭を列ね、氈を敷き、長倡雛妓並居たり。七越、上坐より源藏を呼ければ、源藏其坐鋪の樣を見て、覺ず平伏したるに、其時七越兩手をつき、謹て申たるは、兩三年前御戒を乘り、深く忝く覺て年月忘ざりしに、今日此ごとき身とは成りぬ。かねて約し置たる仕着は、今日ぞ上るなり。着してこの筵を賀し給はるべしと云て、蒔繪の廣蓋につみたる物を持出たれば、源藏見るに、上衣より下衣、襦袢、帶、袴、扇迄も、殘なく具して、其うへに七越が紋をさへ染出したるなり。源藏思はずもあつと平伏し、前言を慙悔し、そのとき地を堀ても入たく有しが、その席去べくも非れば、是非なく其夜は周旋して居たりとなり。かゝる徒にも、信を違はざるものは有き。況や婦女の身にしては、ますます珍らしきことなり。又その慙愧せしものも、其業の輩には采るべきの心なり。世の士君子、これを聞て恥に堪ざるもの多かるべきにや。

■やぶちゃんの呟き

 この話、とても好きだ……私はこの源蔵の生まれ変わりなのかも知れない……緋毛氈が敷かれた座敷……その向こうの七越の姿……仕着(しきせ)の紋まで……見たような気になってくるのである……

「荻江源藏」江戸中期以来の荻江節の家元である初代荻江露友(おぎえろゆう ?~天明七(一七八七)年)か二代目か。初代の本姓は千葉、名は新七。元、陸奥弘前藩家中千葉源左衛門の子であった。長唄唄方の初代松島庄五郎の門人となった。明和三(一七六六)年から明和五(一七六八)年には江戸市村座で長唄の立(たて)を勤め、引退後は御座敷風長唄の荻江節を創始、吉原廓内でこれを流行らせて一躍、荻江節の祖となった。露友の名を弟子に譲り、自ら長谷川泰琳と名乗って引退した。長唄のメリヤス(長唄の一種で通常は歌舞伎下座音楽として物思いや愁嘆場などの無言の演技の際に叙情的効果を上げるために独吟又は両吟で演奏されるもの。もの静かな沈んだ曲調が多い)の作曲として「びんずる」が伝承されている(以上はウィキの「荻江露友」に拠る)。二代目荻江露友(?~寛政七(一七九五)年)は初代の門弟で姓は有田、通称は栄橘。安永年間(一七七二年~一七八〇年)に襲名したが、芸の上では初代より劣ったとある。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで天保一二(一八四一)年に八十二で亡くなっている。初代荻江が亡くなった天明七(一七八七)年だと静山は二十七歳で、二代目が襲名した安永の頃だと静山は十二~二十歳になり、静山の若き日には初代は既に「荻江」ではなく「長谷川」姓を名乗っていたわけで、本話のモデルは二代目の方であろう。

「禿童」「かぶろ/かむろ」と読む。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が側に置いて遣った六、七歳から十三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。

「さがなく」「さがなし」は人に不快な感じを与えるような性質・態度を表わす形容詞で、①性質がよくない。意地悪だ。②思慮がない。思いやりがない。③いたずらで手におえない。④口が悪い。下品だ。といった悪い意味しか持たない。ここでは③のお転婆の悪戯っ子という意味でとっておく。無論、「殊の外」綺麗な顔立ちでもあり、荻江にとってはどこか憎めない可愛いところがあったに違いない。いや、確かに……あった……

「戒」いましめ。ここは表面上は誓い約束ということだが、元来の「戒め」にはそのような意味はなく、寧ろ、原義である諭しの意、「しっかり気張れや!」という気持ちを含んだ表現と言えよう。因みに落語の「七草」には、まさに「七越」という名の吉原花魁が登場する。彼女は美人で芸も達者であるが、何故か客がつかない。御内所(ごないしょ:遊郭で主人の居間や帳場、また店の主人を指す。)が調べてみると、客の前で料理をぱくついてしまうという悪い癖があったことが発覚、彼女はつまみ食いしないという堅い誓いを守って名立たる人気の名妓となったという食いしん坊の花魁の話で、本話との強い通性が窺われる。

「仕着」しきせ。本来は、主人が使用人に季節に応じた衣服を与えること、また、その衣服を指す。おしきせ。ここも一回の三味線弾きが、将来、お前が大夫傾城の御身分になられた暁には儂(あっし)に仕着せを賜わっておくんない、と冗談で励ましつつ、洒落のめしたのである。

「三絃」さんげん。三味線のこと。

「出往」いでゆき。

「さがなりし」底本では右にママ注記があるが、全く問題ない。あの吉原中でもお転婆で手におえなかったはずの小娘だった彼女が、である。

「突出」つきだし。遊女の初店(初めて客をとる)。ここは最高位の大夫源氏名七越となっての、その突き出しの意。

「開筵」かいえん。元は仏家に於いて筵(むしろ)を敷いて座って釈迦の話を聴聞したことから法座を開くことをいうのを色町に諧謔したもの。

「長倡雛妓」ちゃうしやうすうぎ(ちょうしょうすうぎ)。「雛妓」は未だ一人前でない若い芸妓、半玉(はんぎょく)を指し、「長倡」はその「雛妓」の対語で相対的に年上の姐さん女郎をいう。

「上るなり」仕上がって参りました。

「廣蓋」ひろぶた。衣装箱の蓋。人に衣服などを与える際にこれにのせて差し出した。

「上衣」うはぎ。

「下衣」したごろも。上衣の下に着す下着。

「慙悔」ざんくわい。あやまちなどを恥じ悔いること。

「堀」ママ。掘る。誤字というより、当時は普通に通用された。

「周旋」ここはある件に就き、それを執り行うために働くこと、面倒をみることを指す。ここでは絢爛たる大夫七越突出の宴の一夜の一座の主客となったことをいう。

「慙愧」ざんき/ざんぎ。元は仏語で「慚」は自己に対して恥じる、「愧」は外に対してその気持ちを示すことを指す。自分の言動を反省し、恥ずかしく思うこと。

 

2014/10/25

今朝方見た不思議な夢

鎌倉の海岸近くの丘の上の小さな廃寺[やぶちゃん注:架空の寺であった。]。
そこはストリート・チルドレンを預かっているらしい。
僕はそこを取材しに行くのである。

庵主はミイラのようになった老婆で、奥座敷に横たわったまま無言である。

彼女を見舞った後、元本堂であった場所に赴くと、そこに少年少女が三々五々寄り沿って寝ている。

その中に一人の少女がいる。

僕はその子を知っているような気がした。

僕は黙って彼女の傍らに寄り添って、添い寝した。

薄い布団の下で僕はそっと少女の手を握った。

――その瞬間
――彼女は僕の子を宿した
――そういう直感が走った……

……僕は僕の部屋にいた。[やぶちゃん注:僕はその時には小学生になっている。]
窓辺にプラスチックの飼育ケースが置いてある。カブトムシを飼うような例の入れ物である。
その中に掌ぐらいのイシガメが一匹いるのである。
そのカメが頸を延ばして僕を見ているのだが……

……僕には分かっていたのだ……

……そのカメは……

……さっきの……

――僕の子を宿した少女――なのだ、と…………




サイト「鬼火」の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に図像捏造疑惑注を追補

栗本丹州「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の図像捏造疑惑注を、画像を含めて当該箇所にアップした。パソコンの方は、こちらの方が遙かに見易いはずである。お遊びあれかし。

「栗氏千蟲譜」巻十の「蟹甲」の十二点の円紋を持つ図は捏造である(詳説)

 「栗氏千蟲譜」の巻十の「蟹甲」の画像を示す。画像は国立国会図書館蔵の「国立国会図書館デジタルコレクション」のものである。トリミングしたが、画像の補正処理は一切行っていない(これが原色である)。

[曲直瀬愛旧蔵「栗氏千蟲譜」巻十より「蟹甲」]

Jpegoutput_10

 

 まず本文を翻刻する(この本文が本考証では非常に重要な意味を持つ)。 

蟹甲 蛮産

 晴川蟹録引北戸録曰十二點儋州出紅蟹大小殻上作十二點

 深臙脂色亦如鯉之三十六鱗耳其殻與虎蟳堪作※子格物

 總論紫蟹殻似蝤蛑足亦有發棹子但殻上有烟〔臙〕脂斑點不

 比蝤蛑之純青色耳云々

 
蛮産作酒杯而

為珎奇

 文化丁丑仲夏近藤正斎秘弆

 醫學舘藥品會所排列也

[やぶちゃん字注:「※」=「疂」の(わかんむり)の下を「正」に代える。「疊」の正字「疉」であろう。] 

 一部に自信のない箇所があるが、力技で訓読してみると、 

蟹の甲 蛮産。 

 「晴川蟹録(せいせんかいろく)」の引く、「北戸録」に曰はく、『「十二點」。儋州(たんしふ)の出。「紅蟹」。殻上に大小ありて、十二の點を作す。深き臙脂色をなし、亦、鯉の三十六鱗のごときのみ。其の殻、「虎蟳(コジン)」に與(くみ)するに堪へたり。「疉子(でふし)」にも作る。「格物總論」に、『紫蟹。殻は「蝤蛑(ガザミ)」に似る。足、亦、發棹子(ハツタウシ)、有り。但だ、殻上に臙脂の斑點有り。「蝤蛑」の純青色のみとは比(ひと)しからず云々』と。』と。
 
蛮産。酒杯に作りて珎奇(ちんき)と為す。

 文化丁丑仲夏、近藤正斎が秘弆(ひきよ)、醫學舘藥品會所の排列なり。
 
 鮮やかな赤色円紋を驚くほど多数有する蟹の、右の下部に鮮やかな赤色円紋の連続する背甲の前部からの図(尾部が見えていないか若しくは元々欠損している品と思われる)、背甲の内側(甲羅裏面)の図(前帖にもかかっている)及び背部(甲羅表面)全面(尾部も見えている)の図。この二つは前頁の固体の異なる大型個体の、背甲の二様を描いたようにも見受けられる。そうしてこれらは「蛮産」とあって、しかも「醫學舘藥品會所排列也」とあるから、これら三図は総て外国からもたらされた原物(図であったら「排列」とは言うまい)を模写したものと考えてよい。しかも、その描写の著しい円紋の差異とその大きさ及び形から「排列」されたものは大小二品であったと推測される(三品でなかったとは言いきれないが、後者の甲羅の表裏は同一個体であろう)。

 当初、私が底本のモノクロームの画像を見た際には(三十年も昔のことであるが)、まず短尾下目ガザミ科ガザミ属ジャノメガザミ Portunus pelagicus を思い出したが、しかし、あれは黒点を三つしか有さないし、そもそもが大型の図の二枚の甲羅の形状がワタリガニ類とは全く異なるからあり得ない、これは確かに「蛮産」とあるから南洋の変わった種なんだろうと考えた(最後の部分は誤り)。後に原本画像を見ると「本文通り」、目玉のような「點」は「12」もあって、しかもその色は目も醒めるような鮮やかな「臙脂」ではないか! 見開きとなっているこの部分は総て数えると実に二十八箇所に及ぶ(中央位置の甲羅裏面からの描画の四方の端に出る円紋の一部を含む)鮮やかな臙脂の強烈な印象によって、この「栗氏千蟲譜」の原画像を一見した者の脳裏からは、容易に消えない映像であると言ってよい(事実、私がそうであった)。謂わば、この見開き二帖は本「栗氏千蟲譜」に於ける文字通りの「目玉」であると断言してよいと私は考えている。但し、この発色については取り敢えず、ジャノメガザミを料理すると目玉が鮮やかな臙脂になるように煮沸標本処理による発色の可能性や、本文に「作酒杯」とあるように実は人為的な加工附加がなされている可能性をも考慮する必要がある

 ともかくも結論から言うと、これら三図は総て、取り敢えずは短尾下目オウギガニ上科アカモンガニ科アカモンガニ Carpilius maculatus であると言ってよい(極めて近縁の同属の異種である可能性は無論、ある)。アカモンガニ Carpilius maculatus は本邦では紀伊半島以南・伊豆諸島に棲息し、ハワイなど亜熱帯及び熱帯域に広く分布している。甲幅は十五センチメートルほどまで成長し、沿岸域のサンゴ礁や岩場を棲家としている。鋏脚は孰れか一方が相対的に大きくなる。夜行性で日中は珊瑚・岩の隙間や穴の中に隠れており、夜になると活発に活動する。本種は南方では食用とされるが、個体によって毒化(シガテラ毒)したものがあるので注意を要する。但し、左右に配された甲羅表面の大小の二図にはすこぶる問題がある。しかもその問題の根は単純ではなく、オキノテヅルモヅルの腕の如く、とんでもなく絡み合っている。

   *

 以下、本文の語注を記す。

「晴川蟹録」清の孫之騄(そんしろく)の撰した蟹類の博物誌と思われる。

「北戸録」中文サイトで原典を管見したが、唐の段公路の撰したもので、多分に幻想的な博物誌と思われる。

「儋州」現在の海南島北西部に位置する海南省儋州(だんしゅう)市。三方を海に囲まれ、三十一平方キロメートルに及ぶ海岸線を持つ(現在は洋浦経済開発区が設置されており、想像するに相当な環境破壊が予想される)。参照したウィキの「ダン州市」によれば、『海南島は古くは流刑地であった。儋州の東坡書院は蘇軾(蘇東坡)がここに流されたことを記念したものである』とある。

「鯉の三十六鱗」コイには体側に三六枚の鱗が並んでいるとされる。事実、コイの側線鱗(側線を覆う鱗。この側線鱗の孔によって種を区別することが可能)は平均で三十六枚ある。そこから「三十六鱗」はコイの異名となった。

「虎蟳」中文サイトの本草書記載を見ると、後に出る「蝤蛑」(ガザミ)と同義とする。「海族志」に『文有虎斑、色如瑪瑙』(文、虎斑有り、色、瑪瑙のごとし)とあるのでガザミ類とみてよかろう。

「格物總論」宋の類書(百科事典)である「古今合璧事類備要(ここんがっぺきじるびよう)」別集九十四巻中の各項目の初めに置かれた論で南宋十三世紀末頃の石榴の撰。

「蝤蛑」は「シウボウ(シュウボウ)」であるが、現在も本邦でもガザミ(ワタリガニ)をこう書くので、ここは例外的に「ガザミ」とルビした。原義は「蝤」が木食い虫(カミキリムシの幼虫)、「蛑」が根切り虫やカマキリの意で如何にも腑に落ちる。

「發棹子」ワタリガニ類の第五脚は脚の先が平たく変形した遊泳脚となっている。これを棹(櫂)を発する(動かす)子(小さな物に添える接尾語)と称したものであろう。

「文化丁丑」文化一四(一八一七)年。

「近藤正斎」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の幕臣で探検家。守重は諱。間宮林蔵や平山行蔵と共に〈文政の三蔵〉と呼ばれる。明和八(一七七一)年に御先手組与力近藤右膳守知三男として江戸駒込に生まれ、山本北山に儒学を師事した。幼児かより神童と賞され、八歳で四書五経を諳んじて十七歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残した。父の隠居後の寛政二(一七九〇)年に御先手組与力として出仕、火付盗賊改方をも勤めた。寛政六(一七九四)年には、松平定信の行った湯島聖堂での学問吟味に於いて最優秀の成績で合格、寛政七(一七九五)年に長崎奉行手付出役、寛政九(一七九七)年)に江戸へ帰参して支払勘定方・関東郡代付出役と栄進した。寛政一〇(一七九八)年に幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、四度、及ぶ蝦夷地へ赴き、最上徳内・千島列島・択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させてもいる。享和三(一八〇三)年に譴責により小普請方となったが、文化四(一八〇七)年にはロシア人の北方侵入(文化露寇ぶんかろこう:文化三(一八〇六)年と文化四(一八〇七)年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件と呼ばれる)に伴い、再び松前奉行出役となって五度目の蝦夷入りを果たした。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索、江戸に帰着後には将軍家斉に謁見を許され、その際には札幌地域の重要性を説いて、その後の札幌発展の先鞭を開いた。文化五(一八〇八)年、江戸城紅葉山文庫(後注で詳述する)の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が咎められて、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷させられた。因みにこの時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたという。文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居した。重蔵は本宅の他に三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)に広大な遊地を所有しており、文政二(一八一九)年に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園、目黒新富士・近藤富士・東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れたという。しかし文政九(一八二六)年に上記の三田の屋敷管理を任せていた長男近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民七名を殺害、八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられた。文政十二年六月十六日(一八二九年七月十六日)に逝去、享年五十九。死後の万延元(一八六〇)年になって赦免された。実に数奇な才人である(以上はウィキの「近藤重蔵」に拠った)。

「秘弆」「弆」は蔵する・しまっておくの意。秘蔵。

「醫學舘藥品會所」「醫學舘」は江戸幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校。文化三(一八〇六)年に大火で焼失、浅草向柳原に移転再建された。「藥品會所」はそこが主催した漢方薬に限らず、万国の物産や動物を公開したもので多くの見物人が集まった。

   *

 以下、本図(右下の十一点円紋の甲羅図)についての考証に入る。

 アカモンガニ Carpilius maculatus は英名を“Seven-Eleven crab”というように円状紋の数は11である(特に目立つ大型の円紋が7個に目立たないものが4個加わって総計11という意味らしい。どこかのコンビニの回し者ではない)。画像は小さいものの、英文サイト“National Institute of Oceanography”のCarpilius maculatusが最適と考えるのでリンクしておく。ネットのアカモンガニの画像写真を縦覧すると、そもそも前頭部辺縁(底本右下画像の手前部分。図では円紋が九個もある)にはこんなに円紋は集中しておらず、多くのアカモンガニ Carpilius maculatus は、大中一つずつが左右に一対あるものが殆んどで、甲の中央に大紋が三つ(真ん中のものが左右よりも大きい)と、実は右下部の本図には描かれていない甲背部の方に大きな円紋二つとそのやや側面の脇の方に中位のものが一対あって計11である。

 しかも、そうすると今度は、右下のトンデモ「十二點」甲羅とは別に、次帖に出る大きな甲羅のそれが12点もあるのが、これまた問題となってくるのである(これは最後に考証する)。

 さて、栗本丹州の「千蟲譜」の原本は栗本家に伝えられてきたが、関東大震災の折りに惜しくも失われたらしく(底本の小西正泰氏の解説に拠る)、現在、我々が見るものは見ることが出来るものはその総てが写本で、小西氏によれば国立国会図書館にはそのうちの五種が蔵書されている。小西氏はそのうち、幕末昆虫学者として知られた曲直瀬愛(嘉永三(一八五一)年~明治二一(一八八八)年)が原本と校合して補写した、この「栗氏千蟲譜」(全十冊)が、原本の複製に忠実で字が丁寧に書かれてあって読み易い点から底本に選んだと述べておられる。確かに色彩や対象の形状を描写するに際してのポリシーには、特に曲直瀬の専門であった昆虫類の描画に於いてはそうした科学的正確さが発揮されているようには思われる。

 しかし、ここで同図書館が所蔵するところの別写本である服部雪斎写になる旧伊藤圭介所蔵本「千蟲譜」(全三冊)の当該図を見てみよう。当該図はこちらでは見開きではないので、トリミングして示す(同じく「国立国会図書館デジタルコレクション」のもので画像の補正処理は一切行っていない。これが原色である)。

[長谷川雪斎写・伊藤圭介旧蔵本「千蟲譜」第二巻より「蟹甲」]

Kainokousetu1

 

Kainokousetu2

 

他の図も縦覧するとはっきりと分かるが、服部雪斎は画師として非常に優れた才能を持っていたと思われ、細部描写がすこぶる上手い(昆虫類は私の守備範囲ではないので分からないが、少なくとも「巻九」のアメフラシなどの海産生物の皮膚質感では科学的にもリアルな描写力を持っている。ということは、失われた原画の丹州自身の描写力はもっと凄かったことを物語る)ただ、絵的な良さを狙って原本の絵に過度の彩色を施した嫌いがないわけではないようにも窺われるのであるが、しかし、この一枚目の画像をよく見て頂きたい。

 曲直瀬の図で円紋が九つも描かれていたのが、この雪斎のそれでは、中央の三つと前頭部の左右の二つの計七つのはっきりとした円紋しか描いておらず、口吻周辺には白抜きの小さな円紋と蛇行した溝のようなものが描いていて、全く異なるのである。

 私は、もし、雪斎が「絵的な良さを狙う」ならば、原本に曲直瀬の描いたような鮮やかな臙脂の円紋がこれでもかと並んだ絵があったとすれば、絶対にそれを忠実に(或いはもっと派手に)描いたに違いなく、それをこのような何だか分からないような、ふにゃふにゃのボカシでもって手抜きをする、お茶を濁すはずがないと思うのである。また、この一見はっきりしない白抜きの箇所は、実はアカモンガニの眼柄部に至る波線のような甲辺縁部及び眼柄の収まる溝部分の忠実な再現だったのである。

 ということは――実は丹州の描いた原本には、この曲直瀬版で12の円紋を有する蟹の甲には――実は臙脂の円紋は雪斎が描いた通り――正しく7つしかなかったのではあるまいか?

 では、何故、曲直瀬は円紋を12も描いて捏造してしまったのか?

 そこで本文である。本文には「北戸録」から『「十二點」。儋州の出。「紅蟹」。殻上に大小ありて、十二の點を作す。深き臙脂色をなし、亦、鯉の三十六鱗のごときのみ』とある。非常に考え難いことではあるが、曲直瀬は、この図のキャプションと判断した叙述と、実は七つしか臙脂の円紋がない本図の齟齬を解消するために、原画の甲前面の眼柄部に至る「ふにゃふにゃ」した溝や一見丸く見える部分が円紋であったと早合点し、勝手に5つを付け加えて描いてしまったのではあるまいか?

 しかし乍ら、普通に考えると、今度は次の大きな甲羅の図との齟齬が生ずることに曲直瀬は容易に気づいたはずである。そこでは甲の後部も描出されそこに円紋があって、それらを総て足すと何と、「十二點」あることに、である(因みに通常のアカモンガニと比べると甲羅の後ろの真ん中にある有意に小さな円紋が余計である。これは後でまた考証する)。

 しかしそこが実はミソなのではあるまいか? 曲直瀬は実はここで、

「……こちらは後ろの方にも円紋が配されてあって計十二の点がある。しかも大きさも全然違う。……ということはだ……これは……前の記述の右下の『十二點』のそれとは多分、別な種類の蟹の甲羅の絵なのだ。」

と、半ば都合よく納得してしまったのではなかったろうか?

 但し、実際の絵がこの「トンデモ12」でなかったとは断言は出来ない。

 実はこのアカモンガニは見た目が美しいことから古くから飾り物にされてきた経緯がある(荒俣宏「世界大博物図鑑1 蟲類」(一九九一年平凡社刊)のアカモンガニの図のキャプション(一三二頁)にある。因みに、ここで荒俣氏の引いているアカモンガニの図は以下に記すキュビエのものである)。そして、中国の本草書にかくも奇品として『十二點』が記されてある以上、11しか「點」を持たぬアカモンガニの甲羅に、強引に、曲直瀬図のように古書にある通りの臙脂の円紋を捏造して付け加え、縁起物の装飾品や酒盃(ちょっと呑み難そう)などに加工して『十二點』として売っていた可能性は十分あり得るからである。

 しかし、だとすると雪斎の絵の説明がつかなくなると私は思う。私は、雪斎は実に正しく(本文の「十二點」という記載に惑わされることなく)描いている可能性が高い。

 さすればこそ、この図に限っては、やはり曲直瀬(彼は昆虫学者ではあったが、他の海産生物の写図を見るとその方面には疎かったように思われる)が図を捏造したとしか思われないのである。科学者としてはあり得ないのであるが、今だってないものをあるように捏造してしかも平然としている科学者は、これ、ごろごろいるではないか。

   *

 最後に12の円紋を有する左の甲羅の図について考えてみたい。

 これはやはりアカモンガニ Carpilius maculatus の図としては正しくない。

 もし、実際の医学館薬品会に出品されたものが実際にこうであったとすると、それ自体が自然のままの標本ではなく、それこそ前に述べたような人為的に12点に捏造されたものであった可能性がやはり出てくる。特に間違えようのない場所(甲羅後部の中央位置)に余計に誤って描き加えるというのは、普通は如何にも考え難いからである。 

 ところが、である。 

 ここにかの有名なフランスの生物学者キュヴィエ( Georges Cuvier )の刊行した“Le règne animal distribué d'après son organisation”(「動物界」)の“Carpilius maculatus”の図がある(英文サイト“Biodiversity Heritage Library同書当該よりダウンロードしたものを示す)。

 

Crustacs21837cuvi_0057_2

 

この一番下のアカモンガニ Carpilius maculatus の画像をよく見て頂きたい。 

 円紋が何と――13――あるのである。 

 こうなると流石の私も実は、今まで問題としてきたものがアカモンガニ Carpilius maculatus なのかどうか、確信がやや揺らいでくるぐらいである。……これは前額部左右に三点一対、背部中央に三点、後部に四点の、13の臙脂の円紋を持つCarpilius の別種がいるのではないか、とすれば、「千蟲譜」の12点がいたっておかしくはないか……などとである……

 ところが、である。

 このキュヴィエの図、よく見てみると、前額部の左右三個の一対の円紋のそれぞれの真ん中の円紋の中に眼柄があるのである。無論、こういう種がいないと断言は出来ないが、現在、普遍的に棲息し、よく知られているアカモンガニ Carpilius maculatus の眼は前額辺縁二個一対の円紋のさらに先、頭頂部近くの窪みの部分にある。キュヴィエが描いたようなアカモンガニはネットを探っても捕獲出来ないのである。

 則ち、この偉大な博物学者キュビエの描いた、アカモンガニ Carpilius maculatus と比定してよい(荒俣前掲書もそう比定している)美しい図も、実は何と、「トンデモ13」であったということになるである。

 曲直瀬版も雪斎版も12であるから、丹州の原本も恐らく、「トンデモ12」であったに違いない。しかしそれに先立つ御大キュビエでさえも「トンデモ13」だったことがここに判明するのである。

 正確なボタニカル・アートの難しさが思い知らされた気分ではある。しかし、試みにネットのグーグル画像検索「Carpilius maculatusをご覧になられるがよい。写真では眼柄の収まる凹みの部分が光の具合によって、暗く小さな半環のように見えているものがあるのである。まだしもキュヴィエの絵は許される誤り(眼柄が後退しているのは問題であるが)であるという感じが私にはしてくるのである。

 以上は専門家でない私の勝手な推理に過ぎない。是非とも大方の御批判を俟つものである。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 -2 たふとさにみなおしあひぬ御遷宮

本日二〇一四年十月二十五日(当年の陰暦では閏九月二日)

   元禄二年九月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月二十五日

この日、芭蕉は伊勢神宮遷宮式を拝んだ。

 

  内宮はことおさまりて、下宮のせんぐうおがみ侍り

たふとさにみなおしあひぬ御遷宮

 

[やぶちゃん注:「泊船集」。前書の「おさまりて」「おがみ」はママ。元禄二年は二十一年目毎に木曽の檜で新殿を建てて神座(かみくら)を遷す式年遷宮の年に当たっており、この九月十日に内宮の、この十三日に外宮の遷宮式が行われた。芭蕉は内宮のそれには間に合わず、この十三日に内宮を参拝した後、午後二時頃に外宮の遷宮式を参拝している。この何事も語らぬ句は実は西行が伊勢神宮を参拝した折りの、

 

 何ごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

 

という神聖感を遠くインスパイアしたものであることは言を俟たない。]

2014/10/24

「千虫譜」巻十のアカモンガニは画師によって捏造されたものである

「千虫譜」巻十を校訂中に画像が画師によって捏造された確かな証拠をつかんだ! ドキドキ!!(画像は未だ追加していないが注は更新した)

甲子夜話卷之一 17 石川兵庫の生母三也子の事

17 石川兵庫の生母三也子の事

三也(ミヤ)子と云しは、寄合衆石川兵庫〔四千石〕の生母なり。予久しく相知たるが、貞操温順なる質にして又和哥を好めり。年七十餘にして身うせぬ。其後久くして石川氏を訪て語、此人の事に及ぶ。石川曰、三也、常に櫻花を愛せり。年老て後、身のよしある寺院の中に、沒して葬るべきの地を卜し、櫻樹を植てあらかじめ墓標とし、且花時には毎に其下に在て、之を賞觀す。又其詠あり。

 春毎に咲べき花をたのみつゝ

      とはれむ種をけふぞうへける

予其志の優なるを聞て、益々追悼に堪ず。因しるして後に傳ふ。

■やぶちゃんの呟き

 私はこの小話が何故か好きだ……みやこさんが確かに瞼の裏に浮かんでくるのである……私はぜんたい「みやこ」という名が好きなのである……「京都買います」以来ね……

「寄合衆」は三千石以上の上級の旗本の内で無役の者及び布衣以上の退職者(役寄合)の家格を「旗本寄合席」と呼称したが、その地位家格集団全体を指す語。参照したウィキ旗本寄合席」によれば若年寄支配とある。但し、交代寄合(江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合)は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うものの老中支配であるとし、幕末には交代寄合を含めて百八十家があったとある。また、『旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある』と記す。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 日本の蒐集家

 蜷川を通じて、私は蒐集家及び蒐集に関する、面白い話を沢山聞いた。日本人が数百年間にわたって、蒐集と蒐集熱とを持っていたのは興味がある。彼は、日本人は外国人ほど専門的の蒐集をしないといったが、私の見聞から判断しても、日本人は外国人に比して系統的、科学的でなく、一般に事物の時代と場所とに就て、好奇心も持たず、また正確を重んじない。蟻川の友人達には、陶器、磁界、貨幣、刀剣、カケモノ(絵)、錦襴(きんらん)の切、石器、屋根瓦等を、それぞれ蒐集している者がある。錦襴の蒐集は、三インチか四インチ位の四角い切を、郵便切手みたいに帳面にはりつけるのである。彼は四、五百年になるのを見たことがある。有名な人々の衣から取った小片は、非常に尊ばれる。瓦は極めて興味のある品だとされ、彼は千年前の屋根瓦を見た。彼は、甲冑を集めている人は知らなかった。見殻、珊瑚(さんご)、及びそれに類した物を集める人も僅かある。上述した色々な物すべてに関する本は、沢山ある。有名な植物学者伊藤博士に於いてはこの日記の最初の方に書いたが、彼は植物の大きな蒐集を持っている。

[やぶちゃん注:「カケモノ(絵)」原文は“kakemono (pictures)”。

「三インチか四インチ位」七・六二~一〇・一六センチメートル。

「有名な植物学者伊藤博士」理学博士男爵伊藤圭介(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)ではないかと思われる。「第四章 再び東京へ」の掉尾、私のテクストの「16 本草学者伊藤圭介との邂逅/お堀の蓮/日本人の動態物への反応の鈍さ」の本文及び私の注を参照。]

2014/10/23

甲子夜話卷之一 16 黄昏少將、五月雨侍從の事

16 黄昏少將、五月雨侍從の事

白川少將〔越中守定信〕は、文武兼濟の資なり。又敷嶋の道にも達せしこと、人の知ところなり。若きときの歌に、

 心あてに見し夕顏の花ちりて

      たづねぞまよふたそがれのやど

時に以て秀逸とす。後、定信老職となり、事に因て京師に抵る。月卿雲客指さして、黄昏(タソガレ)の侍從來りしと云ひしとぞ〔定信、時に四位の侍從なり〕。高家の横瀨駿河守〔貞臣〕、冷泉家の門人にて、是も頗る名高き歌仙なり。ある時五月雨の詠、

 やまの瑞は重る雲に明かねて

      夏の夜長き五月雨の頃

とありしを、師家にても殊に感ありしとなり。其後京兆にて五月雨の侍從と呼しとぞ。

■やぶちゃんの呟き

 本条は既に前半の同話を引いている耳嚢 巻之八 黄昏少將の事で参考引用し、注も附してある。そちらを参照されたい。

北條九代記 卷第六 泰時仁政 付 大江廣元入道卒去

       ○泰時仁政  大江廣元入道卒去

嘉祿元年十一月に賴經八歳になり給ふ。既に御元服ましまし、同二年正月に正五位下に叙し、右近衞〔の〕少將に任じ、征東大將軍に補(ふ)せらる。武威四海に輝き、門葉(もんよう)六合(りくがふ)に昌(さか)えて、京都、鎌倉共に静謐の聲豐(ゆたか)なり。武蔵守泰時、愈(いよいよ)廉讓(れんじやう)の道を行ひ、倹約を以て世を惠(めぐ)まれける。故に上下賑ひ、悦合(よろこびあ)へり。大名小名、在鎌倉の輩、身躰不足(しんだいふそく)の事あれば、金銀、米穀を借賄(かしまかな)ひ、是を辨(べん)ずる事も叶はず、疲勞に及ぶ事あれば、所領、家居の好惡(かうあく)を聞屆(きゝとど)け、借狀(しやくじやう)を破りて與へられ、自(みづから)謙(へりくだ)つて、禮義(れいぎ)を守られける程に、人皆、懷(なつ)き奉り、拜趨(はいすう)の志、上部(うはべ)ならずに隨付(したがひつ)きて、この人の御事ならば身命を捨てても惜(をし)からすとぞ思はれける。同六月に大江康元入道覺阿、卒去せらる。行年(かうねん)八十三。右大將賴朝卿より以來(このかた)、何事に付けても武家御政務の談合人(だんがふにん)なり。心、直(すなほ)にして欲をはぶき、智、深くして慮(おもんぱかり)、遠く、慈悲ありて、心志(しんし)猛(たけ)からず、末世の賢者と云はれし人なり。臨終に至るまで、心、更に正しく、老耄(らうもう)の氣(け)もなし。常にはさもなく見えたりしが、臨終には念佛高(たからか)に唱へ、西に向ひて手を合せつゝ、坐(ざ)しながら往生せらる。貴(たつと)かりける御事なり。相摸守時房、武蔵守泰時、二位禪尼を初め參(まゐら)せて、力を落し給ひ、貴賤、皆、惜まぬ人はなかりけり。法華堂に葬送して、故右大將賴朝卿の御墓(おんはか)の傍(かたはら)に埋(うづ)まれたり。數代多年の舊好(きうかう)、忠義廉讓の德用にや、大名小名、送(おくり)の人々、幾何(いくら)とも數知らず。諷經(ふぎん)の俗衆、巷(ちまた)に盈ちて、墓所の邊(あたり)に餘(あまれ)り、中陰の弔(とぶらひ)、武蔵守より營まる。愁傷の色を顯されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡脱漏」の嘉禄元(一二二五)年十二月二十九日及び嘉禄二年一月十日、同「吾妻鏡脱漏」の嘉禄元年六月十日に基づく。記載が前後しているので注意(広元の逝去の方が先)。引用は特に必要と認めない。

「嘉祿元年十一月」藤原頼経は建保六(一二一八)年一月十六日生まれであり、そもそもが当時は数えであるから一月とするべきところである。以下、彼は記載通り、嘉禄二(一二二六)年一月二十七日に正五位下に叙され、右近衛権少将に任官、征夷大将軍の宣下(「吾妻鏡脱漏」の嘉禄二年一月十日の条には『御任官幷征夷大將軍宣下事等。以信綱依可被申於京都。今日被調御書。』(御任官幷びに征夷大將軍宣下の事等、信綱を以つて京都に於いて申さるべきに依つて、今日、御書を調へらる。)とある)を受けた。次注も参照のこと。

「元服」「吾妻鏡脱漏」によれば頼経の元服の儀は嘉祿元(一二二五)年十二月二十九日である。

「六合」天下。天と地の上下と東西南北の六つの方角。六極(りっきょく)。

「廉讓」清廉で、よく人に譲って謙虚であること。

「身躰不足」生活費や資産の不足。

「是を辨ずる事も叶はず、疲勞に及ぶ」借りた金銀・米穀を返納することが出来ず、さらにひどい困窮に陥るに至る。

「所領、家居の好惡を聞屆け」所領及び自邸周辺での評判や噂の良し悪しを調べさせて(それが悪くない場合には)。

「拜趨」謙譲語。高貴な相手の所へ出向くことを遜っていう。参上。

「同六月」大江広元の逝去は嘉禄元(一二二五)年六月十日。「吾妻鏡脱漏」の記事は簡略で、死因として『日來煩痢病』(日來(ひごろ)、痢病(りびやう)を煩ふ)とあり、消化器系疾患であったことが窺われる。

「行年八十三」これは「尊卑分脈」によるもので、そこでは生年を康治二(一一四三)年とする。但し、現在は「吾妻鏡」「鎌倉年代記」「関東評定伝」などが皆、享年七十八歳とすることから一般には生年は逆算によって久安四(一一四八)年とされる。

「二位禪尼を初め參せて、力を落し給ひ」私は拙作「炎」(PDF縦書版は)でも描出したが、頼朝亡き後、政子と広元との間には恋愛関係があったと考えている(ブログ記事太宰治 右大臣實朝(やぶちゃん恣意的原稿推定版)」などを参照されたい)。

「諷經」「ギン」は唐音。経文を声を出して読むこと(対義語は「看経(かんきん)」)で、狭義には禅宗で仏前で勤行することを指す。

「中陰の弔」四十九日。中有(ちゅうう)。死者があの世へ旅立つまでのプレ期間で、死者が生と死(陰と陽)の狭間にあることから中陰と称する。]

栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」全面改稿プレ修正

栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」を、原図画像挿入と全面改稿に向けて、フォントやスクリプトの不具合を全面改訂、発見した誤読部分も訂し、一部の注にも手を加えた。注釈は部分更新しながらアップすることにした(そうしないとハマって他の作業が滞るからである)。

2014/10/22

ブログ・アクセス630000突破記念第二弾 栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻九(全)――原色原画画像完備・やぶちゃん翻刻・訓読・詳細補注附――強力リニューアル!

ブログ・アクセス630000突破記念第二弾として栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻九(全)――原色原画画像完備・やぶちゃん翻刻・訓読・詳細補注附――を強力リニューアルした。翻刻部と訓読部両方に贅沢に原画画像を挿入、参考画像を含め、80枚を越える。図譜の電子化としては注も含めて決して他に劣らぬものが出来たと秘かに自負している。――めくるめく自由な博物学の時代の香気を是非、堪能されたい――

ブログ・アクセス630000突破記念第一弾 芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる(「笈の小文」より 藪野唯至附注) PDF版

ブログ・アクセス630000突破記念第一弾として「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる(「笈の小文」より 藪野唯至附注)PDF版」を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。しょぼいPDFソフトで一部の字が横転しているのはまさに諧謔と心得られたし。

ブログ・アクセス630000突破

先ほど、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセスが630000を突破した。これより記念テクスト公開作業に入る。

甲子夜話卷之一 15 平戸の社人、雨乞の事

15 平戸の社人、雨乞の事

予が封内のことなりき。一年旱して苗を育せず。因て社人に命じて雨乞を爲るに驗なし。憎も亦同じ。此時下(シタ)社家の中に、坂本但馬〔名忘〕と云るあり。かく雩祭あれど驗なきは本意なきこと也。冀ば某に命ぜられよと云。乃その請所に任す。坂本乃舟に乘て、廣瀨と云所に抵り、己一人留り、乘たる舟も伴へる人も還し畢て、某所に神案を構へ、其前の石上に安坐し〔此廣瀨と云るは、平戸の城下近き海中なれど、朝鮮に向へる海にて、其處は小き瀨なり。潮滿るときは其瀨隱れ、干れば顯る。洋海に臨たればいつも浪高く寄せ來り、風あれば雪を積み霧の蔽ふが如し〕、もとより覺悟せしと見えて、安坐せる膝の上に大なる石を重積て、浮上らざる設をして祓詞を連詞す。諸人陸より望居るに、やゝありて潮盈來り、次第に坂本が坐に打寄せ、漸々に膝より腹に及び胸に至る。人々いかにと見る間にはや其頷に至れり。今にも頭を沒しなんやと見る。人堅唾を嚥む。其とき天俄にかき曇り、大雨盆を傾く。誠心の感格は不可思議なるものなり。

■やぶちゃんの呟き

「廣瀨」平戸瀬戸の北口にある北東から南東に伸びる細長い岩礁性の小島である広瀬島であろう。釣サイトによればこの島の周辺は潮流も速い。

「雩祭」底本は「うさい」と音で読んでいる。「雩」は雨乞い・雨乞いの祭祀・虹の意を持つ。「説文解字」巻十一には「夏の祭りなり。赤帝に樂し、以つて甘雨を祈るなり。」とある。

「抵り」「いたり」と読む。

「神案」の「案」は物を乗せる机・台であるから、神棚。

「祓詞」「はらへのことば」と読む。

杉田久女句集 293 菊ヶ丘 Ⅸ 温室 六句

  温室 六句

 

温室訪ふやゴムの日向をたのしみに

 

温室訪へばゴムは芽ほどき嫩葉照り

 

[やぶちゃん注:「嫩葉」は「わかば」と読む(音は「どんえふ(どんよう)」)。新芽の葉。若葉。]

 

パパイアの雄花いづれぞ温室の中

 

温室ぬくし女王の如きアマリヽス

 

百合の香に愛する子らとあるこゝろ

 

むろ咲の花の息吹きに曇る玻璃

尾形龜之助「題のない詩」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳



Dainonaisi1


  題のない詩   尾形龜之助

 

話はありませんか

――やせた女の‥…………‥

 

やせた女は慰めもなく

肌も寂しく襟をつくろひます

 

ありませんか――

ありませんか――

 

靜かに

夕方ににじむやせた女の

――話は

 

 Dainonaisi2

 

   无题诗

 

有没有消息

――瘦削女人的‥…………‥

 

瘦削女人,没有任何安慰

曝露其凄凉皮肤,缝补和服

 

没有――

没有――

 

静静地

洇出黄昏里的瘦削女人,她的

――消息

 

        照片摄影 : 矢口七十七

        照片加工 : 心朽窝主人

千虫譜巻九本文全面改稿終了 明日 画像挿入

遂に千虫譜巻九(全)の本文全面改稿を終了、明日、画像挿入に取り掛かる。ドキドキ!

2014/10/21

からすうり

スミレ目ウリ科カラスウリ Trichosanthes cucumeroides

小学生の頃、韋駄天の友だちがいた。

運動会の時には、いつも山で採ってきたカラスウリを彼は持ってきた。
彼は走る前にそれを割って、あの納豆のような生臭い臭いのする中身を両太腿に念入りになすりつけるのであった。

だから、彼はいつも一番だった。

アリスの散歩で毎日、カラスウリを見ている。
採りたいけれど、あまりに高いところにぶらさがっていて、今年は手が届きそうにない。

僕はいったいカラスウリのあの実の赭(あか)が好きだ。
何故、好きなのか、よく分からない。
しかしそれは確かに、偏愛と呼ぶべき何ものかである――

孤高の画家高島野十郎の「カラスウリ」が好きだ(ネット上から採取)――


Takasimayajyuurou

「……でも……なんで、それを塗ると速く走れるんだろう?……」

運動会の徒競走では何時もビリから二番目であり続けた僕は今も思うのです……

そうして

僕は僕の今の人生に、カラスウリを念入りに塗って見たくも、なるのです…………



■附記1
カラスウリの黒い種は「打ち出の小槌」に似ることから、財布に入れておくと、お金が増えると信じられたそうである。 Aquiya 氏の「草木図譜」の「カラスウリ」によれば、『昔の人はこの種子を「結び文」(細く折って結んだ手紙)に見立て、「玉梓(たまずさ)」と呼びました。なぜ結び文を玉梓と呼ぶのかというと、古代においては、手紙を梓(あずさ)という木の枝に結び付けて運ぶ習慣があったからです。梓は玉梓の美名で呼ばれ、転じて結び文、手紙がこの名前で呼ばれるようになりました』とある。……カラスウリは僕の「遂に逢はざる人」への恋文のなれの果てなのかも知れぬ……

■附記2
僕は幼児に結核性カリエスを患ったために文弱でおしなべて運動が嫌いであった。それでも運動会の徒競走や高校時代の体育祭の部対抗ロードレース(演劇部には男子は私しかいなかったから必然的に出ざるを得なかった。二上山往復凡そ8キロを体育祭の後半で走るトンデモ競技で、この時は流石にビリになりそうになったが、一緒に走っていた理科部の先輩――私は理科部生物班にも所属していた――が喫煙習慣からモク切れで息が切れて遅れ、「俺が栄光のどっぺになる」と言ってくれて、やはりケツから二番目を守ったのであった)でも遂に「ビリから二番目」であり続けた。即ち、僕は常に弱者に於いても次席を辛うじて保守していた/に甘んじていた/でしかなかったのである。――これは何かすこぶる象徴的な事実として永く僕の魂を支配してきた。

因みに僕が生涯の運動会の中で一等になったのは――後にも先にも――横浜翠嵐高校在職中の「狂師像」の唯一度きり――である。
――その日、父は51歳の僕に、わざわざ赤飯を買って呉れたのであった。

■附記3
フローラに昏い僕は、調べるうち、ウリ科がスミレ目であることを知って少し驚いた。そうして僕が何故、カラスウリが好きなのかも分かったような気になったものだ(私はスミレを偏愛する)。また、やはり Aquiya 氏の「草木図譜」の「カラスウリ」によれば、『学名のTrichosanthes(トリコサンテス)は、「毛」を表す trichos と「花」を表す anthos というギリシア語に由来します。この anthos という言葉(およびその変化形)は、たとえばアンスリウム(Anthurium=花+尾の意味)やダイアンサス(Dianthus=神聖な花の意味)など、多くの植物の学名に用いられています』とある。種小名 cucumeroides の方は字面からも推測出来るが、「キュウリに似た」という意であった。

……最後に。
“John Coltrane - Violets for yours furs”(コートにスミレを)

2014/10/20

抑鬱にあらず

先週より栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻九の全図版挿入と全面改稿に突入している。7年前よりは少し僕も進歩しているようで、誤読箇所や考証の誤りも見つけ、なかなかに面白い。まだ暫くかかるが、リニューアル版はご期待を裏切らない(特にヴィジュアル面で)と思う。今暫くお待ちあれ――   

尾形龜之助「或る少女に」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

  或る少女に

 

あなたは

暗い夜の庭に立ちすくんでゐる

何か愉快ではなささうです

 

もしも そんなときに

私があなたを呼びかけて

あなたが私の方へ歩いてくる足どりが

私は好きでたまらないにちがひない

 

10730872_652410101543484_9193779773

 

 一个少女

 

你……

在昏暗院子里呆立不

我感你好像不愉快

 

我能招呼你

你就会向我走来,正是你那脚步

相信我喜得不得了



        照片摄影 : 矢口七十七

2014/10/19

杉田久女句集 292 菊ヶ丘 Ⅷ 寶塚武庫川にて 昭和十四年 十句

  寶塚武庫川にて 昭和十四年 十句

 

熟れそめし葉蔭の苺玉のごと

 

露の葉をかきわけかきわけ苺つみ

 

[やぶちゃん注:「かきわけかきわけ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

朝なつむ苺の露に指染めむ

 

綠葉にかくさうべしや紅苺

 

朝日濃し苺は籠に摘みみちて

 

手づくりの苺食べよと宣す母

 

病む母に苺摘み來ぬ傘もさゝず

 

初苺喰ませたく思ふ子は遠く

 

村孃に夕燒あせぬ苺摘

 

刈りかけて去る村童や蓼の雨

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和一四(一九三九)年の条に、『上阪して、実母を訪ね、一か月滞在。六月、「プラタナスと苺」四二句(俳句研究8)。せめて一冊の句集を持ちたいという念願は、戦時下の悪条件のため実らず、また編者(昌子)はそのことに寄せて思いとどまるよう説得した。作品をかき油絵を描いて日日を過ごしたが、生きる張合いを失った心境を吐露した手紙を受け取るたび心が痛んだ』とある。この時、母さよは八十五歳であった(母の東京からの移転は定かでないが、彼女は元来が兵庫県出石市宮淵出身であった)。言わずもがなであるが、久女はこの三年前の昭和十一年十月に虚子によって突如、『ホトトギス』を除籍されている。理由の公開も通達もない全く突然の同人削除であった。]

尾形龜之助「隣の死にそうな老人」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 隣の死にそうな老人

 

隣りに死にそうな老人がゐる

 

どうにも私は

その老人が氣になつてたまらない

力のない足音をさせたり

こそこそ戸をあけて這入つていつて

そのまま音が消えてしまつたりする

 

逢ふまいと思つてゐるのに不思議によく出あふ

そして

うつかりすると私の家に這入つてきそうになる

 

Tonarino_2

 

 家的眼看就要死掉的老人

 

家有一个眼看就要死掉的老人

 

我的注意

怎么也不得不被那老人吸引去

他有放没力气的脚步声

也有时偷偷摸摸地把打开他屋子里去

然后所有他声音都消失

 

然我不愿意看到他,却屡次碰到,真不可思

加上

我一不注意,他就会差点儿走我家里裏来



        照片摄影 : 矢口七十七

        照片加工 : 心朽窝主人

2014/10/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 -1 うきわれをさびしがらせよ秋の寺

本日二〇一四年十月十八日(当年の陰暦では九月二十五日)

   元禄二年九月 六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十八日

 以下、「奥の細道」の旅のおまけである。この日、芭蕉は曾良らとともに伊勢神宮遷宮参拝の旅に登ったのであるが、この日から三泊、曾良の伯父深泉良成が第四世住持をしていた、三重県長島(現在の桑名市長島町西外面)にある真言宗大智院(時の長島藩主松平良尚の祈願寺)に投宿している。

 

  伊勢の國長島大智院に信宿ス

うきわれをさびしがらせよ秋の寺

 

[やぶちゃん注:真蹟色紙。この句、後に推敲されて詠み変えられて、元禄三年、あたかも幻住庵で詠じられたかのように伝えて、

 

憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥

 

と元禄四年四月の「嵯峨日記」に載って人口に膾炙するが、実は原句はあくまで「奥の細道」の余韻の中で詠まれた本句であったことを知る人はあまり多いとは思われない。ただ、芭蕉自身、そこに『ある寺に獨り居て云ひし句』と由来を記しており、また「幻住庵記」の初稿と推定されるものの中にも『かつこどりわれをさびしがらせよなどそゞろに興じて』とあって(この二箇所の引用は山本健吉氏の「芭蕉全句」の「うきわれを淋しがらせよかんこどり(猿蓑)」の評釈からの孫引き)、芭蕉が初期形のあくまで静寂な「秋の寺」に「うきわれをさびしがらせよ」という事大主義的な命令形をぶつけた失敗を気にして改案を重ねた様子がつぶさに見てとれると言えよう。山本氏によれば「うきわれをさびしがらせよ」とは、『芭蕉がしばしば、孤独の境涯を嚙みしめるたびに口頭に乗せた愛誦句で』、これは西行の、

 

 とふ人も思ひたえたる山里の淋しさなくば住み憂からまし

 

に拠ったものであるとし、改作の下の句「かんこどり」(閑古鳥)の方は、やはり西行の、

 

 山里にたれをまたこは呼子鳥(よぶこどり)ひとりのみこそ住まんと思ふに

 

に導かれたものであるとある。そうして『世を憂しと観ずることが、芭蕉を孤独の境涯に住せしめているのだが、独りでありながらなお憂しと観ずる自分に、その憂さを脱却するきっかけとして、本当の淋しさを与えてくれというのである』と評されておられる。至言と言えよう。]

尾形龜之助「商に就いての答」  心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 
 Akinain0
 
 商に就いての答

 

もしも私が商(あきなひ)をするとすれば

午前中は下駄屋をやります

そして

美しい娘に卵形の下駄に赤い緒をたててやります

 

午後の甘まつたるい退屈な時間を

夕方まで化粧店を開きます

そして

ねんいりに美しい顏に化粧をしてやります

うまいところにほくろを入れて 紅もさします

それでも夕方までにはしあげをして

あとは腕をくんで一時間か二時間を一緒に散歩に出かけます

 

夜は

花や星で飾つた戀文の夜店を出して

戀をする美しい女に高く賣りつけます

 

Akinainituitenokotae

 

 关于生意划的答案

 

假如我做生意

上午会木履店

于是

姑娘挑一双蛋形木履,它穿

 

使人感到倦怠且无聊的下午

品店到黄昏

于是

客美上帮她精心地化

会在适当的地方点上美人痣,也会擦胭脂

尽管如此傍晚前肯定会做完些加工

剩下一两个小里我和她手挽手去散步

 

到了晚上

一个装着花和星星的

 

我偏要向着恋的美姑娘高价推
 
 Akinain2
  

        照片摄影 : 矢口七十七

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 掉尾 蛤のふたみへわかれ行く秋ぞ

本日二〇一四年十月十八日(当年の陰暦では九月二十五日)

   元禄二年九月 六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十八日

この日、芭蕉は伊勢参宮へと大垣を発った(午前八時頃のことであった)――それと同時に凡そ百五十日になんなんとする「奥の細道」の旅が――終わった――

 

蛤のふたみへわかれ行(ゆく)秋ぞ

 

 露通も此(この)みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒(こま)にたすけられて大垣の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より來り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、

 

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 

[やぶちゃん注:第一句目は九月二十二日附杉山杉風宛書簡の句形で、これが初案と思われる(これは安東次男「古典を読む おくの細道」に基づく)。第二句目は「奥の細道」(本文とも)。

 このルートは揖斐川を下って河口の、蛤を名産とする桑名に出る。蛤はまずそこでしっくりとくる。

 しかも、これは遠く旅立ちの、かの、

 

行春や鳥啼魚の目は泪

 

と響き合っていることにも容易に気づく。――行く春の日に、『千住と云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ』という幕開きに対して、行く秋の大垣の湊から『又舟にのりて』漂泊の新たな旅路を辿る――という連続性を演出するとともに、「奥の細道」という壮大華麗な絵巻の美しい額縁をも成しているのである。

 本句の下敷きは、西行の「夫木和歌抄」(藤原長清撰になる私撰和歌集)の続国歌大観番号八三八二番歌で、「山家集」にも所収する(底本は岩波日本古典文学大系を用いた)、

 

  伊勢の二見の浦に、さる樣(やう)なる

  女(め)の童(わらは)どもの集まりて、

  わざとのこととおぼしく、蛤をとり集め

  けるを、いふ甲斐なき蜑(あま)人こそ

  あらめ、うたてきことなりと申しければ、

  貝合(かひあはせ)に京より人の申させ

  給ひたれば、選(え)りつつ採るなりと

  申しけるに

 

今ぞ知る二見の浦のはまぐりを貝合せとて覆(おほ)ふなりけり

 

である。通釈する。

 

――今こそ私は知った……侘しい二見の浦のがんぜない卑賤の少女たちが懸命に拾い集めているはまぐりを……我らは貝合わせしょと言ふて覆っては遊び暮らしていたのであったのだなあ……

 

この歌に現われたものは、単純な女児の貝合わせとしての遊び道具ではなく、中に彩色画を描いた本格的な婚姻儀礼用に作製された貝覆いと考えてよい。

 さればこそ、この一句は大垣連衆への留別吟であると同時に、彼らへの愛惜の恋句でもあるという仕掛けに気づく。

 一時の別れは何時か必ず貝合わせの貝のように、いやさ、蓋と身のように本来あるべき自然として堅く結ばれるのだ――という謂わば――離別即邂逅――という禅問答のようなものなのだと私は思うのである…………

 以下、自筆本を示す。

   *

露通もこのみなと迄出むかひてみのゝ

国へと伴ふ駒をはやめて大垣の

庄に入は曽良も伊勢よりかけ合

越人も馬をとはせて如行か家に

入集る前川子荊口父子其外

したしき人々日夜とふらひてふた

たひ蘇生のものにあふかことく且

          の

よろこひ且なけきて旅ものうさ

              も

いまたやまさるに長月六日になれは

伊勢の遷宮おかまんと又ふねに

乘て

  蛤のふたみに別行 秋 そ

   *

■やぶちゃんの呟き

 私とともにこの「奥の細道」を今年、一緒に辿って呉れた奇特なあなた――あなたは永遠に――私の人生の道連れである――――]

2014/10/17

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 100 かくれ家や月と菊とに田三反

本日二〇一四年十月十七日(当年の陰暦では九月二十四日)

   元禄二年九月 五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十七日

【その二】翌日の伊勢参宮に出発に旅立つに当たって舟が用意されたが、これを世話したのは大垣の俳人谷木因(たにぼくいん)であった。木因は大垣杭瀬川畔で船問屋を生業(なりわい)とする裕福な商人で、北村季吟の門に入って芭蕉とは同門、岐阜蕉門の隆盛にも功あった古馴染みである。以下はその彼の邸宅での一句。出立前夜――「奥の細道」掉尾の前――として、ここに配しておくこととする。

 

  木因亭

かくれ家(が)や月と菊とに田三反(さんたん)

 

[やぶちゃん注:「笈日記」。

 無論、船問屋の木因が田を耕していた訳ではない。富裕乍らも質素倹約を旨とする商人として閑静なる屋敷域を保っている主人の風雅の生きざまを比喩し讃した挨拶句である。

 大島蓼太は「芭蕉句解」(宝暦九(一七五九)年刊)に本句を取り上げ、

 

「山居せハ上田三反味噌八斗小者ひとりに水の能所」と一休禪師詠し給へり。木因ハ美濃大垣の住なり。季吟師の門人にして、芭蕉と友としよし

 

と記している。山本健吉氏は「芭蕉全句」でこれを引いた後、『頴原退蔵は、昔は上田三反あれば簡素な暮しいは充分としたものだろうと言う』と引き、最後に『一休の歌ではないが水もよく隠棲には格好の住居だという含みがある』と評されてある。菊花にまさにかの陶淵明をも通わせて、木因も受くるに嬉しい句であったに違いない。]

天使を解剖する夢

今朝方、覚醒直前に見ていた夢は――天使を解剖する夢であった。

特に左の肩甲骨後ろの白く大きな翼の根元(上腕骨と翼膜部分)の解剖に苦労しているのであった。[やぶちゃん注:この記事を書くのに、鳥の骨格について調べたが、鳥の上肢の指は3本(下肢は4本)しかないのは知らんかった。]

天使は――残念――女姿ではなかった。ロジェ・ヴァディムの「バーバレラ」のパイガー(J・フィリップ・ロー演)であった。[やぶちゃん注:私はあの映画、言っとくが、好きじゃあ、ない。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 99 藤の實は俳諧にせん花の跡

本日二〇一四年十月十七日(当年の陰暦では九月二十四日)

   元禄二年九月 五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十七日

【その一】この日辺りに、芭蕉の旅宿に前年夏の「笈の小文」の旅で入門したばかりの美濃は関(現在の岐阜県関市)在の広瀬素牛(そぎゅう)が訪ねてきた。素牛は後の独歩奇人の維然坊(いねんぼう)である(広瀬源之丞。武田信玄家臣広瀬郷左衛門子孫で関の酒造家岩本屋の三男であった)。その彼に特に託した一句がこれである。

 

  關の住、素牛何がし、大垣の旅店を

  訪(と)はれ侍りしに、かの藤代御

  坂(ふじしろみさか)と言ひけん花

  は宗祇の昔に匂ひて

藤の實(み)は俳諧にせん花の跡

 

[やぶちゃん注:「藤の実」(素牛編・元禄七年跋)より。

「藤代御坂と言ひけん花は」とは宗祇の連歌の発句、

 

關越えて爰(ここ)も藤しろみさか哉

 

を指す。「藤代御坂」は「万葉集」の歌枕の紀州(現在の和歌山県海南市)の藤代御坂で、宗祇のこの句は芭蕉の「曠野」に『美濃國關といふ所の山寺に藤の咲(さき)たるを見て吟じ給ふとや』とある通り、素牛の故郷でもある。

 

……美しく高貴な藤の花は華麗に師宗祇さまが古えに連歌になされた――役立たずの私はそれに相応しく役立たずの無粋なる和歌から見捨てられたところの、藤の実をこそ、俳諧の花――老いの花――としよう……

 

というのである。

 無論、これは師芭蕉からの素牛への俳諧の核心を遠心的に示唆したところの、一種の教外別伝の句であった。]

2014/10/16

杉田久女句集 291 菊ヶ丘 Ⅶ 英彦山雜吟 百十二句(昭和十二年) (後編)

かの絶唱

蝶追うて春山深く迷ひけり

はここに出る――



雉子

 

愛しさよ雉子の玉子を手にとりて

 

奪られたる玉子かなしめ雉子の妻

 

雉子かなし生みし玉子を吾にとられ

 

雉子たちし草分け見ればこの玉子

 

雉子鳴くや都にある子思ふとき

 

雉子の妻驚ろかしたる蕨刈

 

今たちし雉子の卵子を奪り來たり

 

杉の月佛法僧と三聲づゝ

 

若葉濃し雨後の散歩の快く

 

つなぎ牛遠ざけ歩む蓮華かな

 

南へは降りず躑躅を眺めけり

 

杉くらし佛法僧を目のあたり

 

  奉幣殿にて 一句外

 

疑ふな神の眞榊風薫る

 

病快し雨後の散歩の若葉かげ

 

杖ついて誰を待つなる日永人

 

平凡の長壽願はずまむし酒

 

物言ふも逢ふもいやなり坂若葉

 

會釋して通る里人蕨摘む

 

先生に逢うて蕨を分け入れし

 

燒けあとの蕨は太し二三本

 

歩みよる人にもの言はず若葉蔭

 

若葉蔭佇む彼を疎み過ぐ

 

宮ほとり相逢ふ人も夏裝ひ

 

よぢ下りる岩にさし出て濃躑躅

 

里の女と別れてさみし芽獨活掘る

 

やうやうに掘れし芽獨活の薰るなり

 

[やぶちゃん注:「やうやう」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

芹摘むや淋しけれどもたゞ一人

 

竹の子を掘りて山路をあやまたず

 

百合を掘り竹の子を掘る山路かな

 

百合を掘り蕨を干して生活す

 

ふと醒めて初ほとゝぎす二三聲

 

かたくりにする山百合を掘るといふ

 

魚より百合根がうまし山なれば

 

一人靜か二人靜かも摘む氣なし

 

杉の根の暗きところに一人靜か

 

彦山の天は晴れたり鯉幟

 

滿開のさつき水面に照るごとし

 

早苗束投げしところに起直り

 

雨晴れて忘れな草に仲直り

 

逢ふもよし逢はぬもをかし若葉雨

 

花散るなようらく躑躅心あらば

 

[やぶちゃん注:太字「ようらく」は底本では傍点「ヽ」。「ようらく躑躅」はツツジ目ツツジ科ヨウラクツツジ属 Menziesia のツツジの仲間。本邦産はコヨウラクツツジ(小瓔珞躑躅)Menziesia pentandra やウラジロヨウラク(裏白瓔珞)Menziesia multiflora などは七~八種がある(ウィキの「ヨウラクツツジ属」及びそのリンク先に拠る)。グーグル画像検索「Menziesia。]

 

日が照れば登る坂道鯉幟

 

菖蒲ふく軒の高さよ彦山(ひこ)の宿

 

美しき胡蝶なれども氣味惡く

 

秋蝶とおぼしき蝶の翅うすく

 

枯色の品よき蝶は蛇の目蝶

 

蝶追うて春山深く迷ひけり

 

[やぶちゃん注:久女の名吟として一読、忘れ難い句であるが、坂本宮尾氏の「杉田久女」(三二頁)によれば、この句、かく本句集の終りの方(終わりから五十六句目)に配されており、しかも後の編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和十年以降のパートに置かれてあるが、実は本句は、驚くべきことに、何と、久女が句作を初めて一年足らずの、『ホトトギス』大正六(一九一七)年七月号の「春の山十句集」に載ったものものであるとある。私は一種、イメージとしての久女の辞世として本句を措定しているが(この事実を知ってもそれは変わらないのであるが)、本句をものした当時の彼女は未だ二十七歳であったのである。]


美しき胡蝶も追はずこの山路

 

道をしへ法のみ山をあやまたず

 

道をしへ一筋道の迷ひなく

 

何もなし筧の水に冷奴

 

花過ぎて尚彦山の春炬燵

 

なまぬるき春の炬燵に戀もなし

 

風呂に汲む筧の水もぬるみそむ

 

風呂汲みも晝寢も一人花の雨

 

咲き移る外山の花を愛で住めり

 

梨花の月浴みの窓をのぞくなよ

 

窓叩く鮮人去りぬ梨花の月

 

日が出れば消ゆる雲霧峰若葉

 

田樂の燒けてゐるなる爐のほとり

 

田樂に夕餉すませば寢るばかり

 

田樂の木の芽をもつと摺りまぜよ

 

田樂の木の芽摺るなり坊が妻

 

苔庭に散り敷く花を掃くなかれ

 

石楠花に全く晴れぬ山日和

 

花の戸にけふより男子禁制と掟て棲む

 

垣間見を許さぬこの扉山櫻

 

風に汲む筧も濁り花の雨

 

ひろげ干す傘にも落花乾きゐし

 

齒のいたみ衰へ風邪も快く

 

石楠の恥ろふ如く搖れ交す

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 蜷川式胤との出逢い 附 目利きの達人モースの語(こと)

 最近私は有名な好古者、蜷川式胤(ニナガワノリタニ)と知合いになり、彼を自宅に訪問した。彼は日本に於る各種の陶器に関する書物を著している。この本には、石版刷の説明図が入っている。それ等は、どちらかというと粗末で、手で彩色したものだが、而も同じ問題に関するフランスや英国の刊行物に入っている、最も完全な着色石版画よりも、はるかによく陶器の特質をあらわしている。同書の初めの五部に描出してある品は、私が日本へ来る前、たのであるが、私はすでに描出された物に似た、代表的な品を手に入れんとしつつあり、蟻蜷川はそれ等を私のために鑑定することになっている。若し私が、彼が記述し且つ描出したのと同じ種類の陶器を手に入れ得れば、蜷川の本に出て来る画の本体である、もとの蒐集に、殆ど劣らぬものが出来る。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、腕足類及び貝類の専門家であったモースは、散歩の途中、ある店先に売られていたホタテガイを模した刺身皿を見て面白く思い、それを買い求めてからというもの、貝を模したその手の陶器を盛んに集め出し、ある時、日本人の友人にそれを得意気に見せたところ、そういうものは安物だ、本物を見せて上げましょう、と陶器の鑑定会に彼を連れて行った、そこで初めて素晴らしい陶器を見たモースはすっかり日本の陶器に魅せられてしまったという。彼の後半生の日本陶器を主体とする膨大な民俗学的コレクションの蒐集は、まさにこの出逢いから始まったのであった。

「蜷川式胤(ニナガワノリタニ)」原文“Ninagawa Noritani”。「にながわのりたね」が正しい。既注であるが、改めて注する。モースの陶器収集の師であった蜷川式胤(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は京都東寺の公人(くにん:社寺に属して雑事に従った職員。)蜷川子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛などを歴任したが、明治十年に病により辞任、この間、明治四年に開催された九段坂上の物産会、翌五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年には近畿地方の社寺宝物検査に従事してもいる。その際、正倉院宝物調査の記録を残したことでもよく知られる。また、文化財の調査保存や博物館の開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠る追加)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)などで、おいおい語られてゆくこととなる。因みに、モースは『漢字が読めなかったが、貝類を分類し同定(種類の識別)するのとまったく同じ流儀で、陶工の銘を子細に識別できた。このような熱心さを知って、師匠の蜷川も本腰を入れて指導したから、モースの鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった。「めんないちどり」といって、両眼を手拭で覆い、手と指の感触だけで焼物がどの系統の何焼か、誰の作かを当てる競技があるそうだが、蜷川式胤の孫の蜷川親正氏が父から聞いたところでは、モースはこの競技での正解率随一の人だったという』とある。モース、恐るべし!

「日本に於る各種の陶器に関する書物」後に「初めの五部」とあることから、これは明治九(一八七六)年からこの明治一一(一八七八)年にかけて刊行された蜷川式胤著述「観古図説」と考えて間違いない。ウィキの「蜷川式胤によれば、退職前の明治(一八七六)年一月、『屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を刊行したとある(後に第六冊・第七冊も刊行している)。これはモースの言うように、『石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った』もので、『仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった』とある。この五冊、モノクロームではあるが、国立国会図書館近代デジタルライブラリでその総て見ることが出来る!]

甲子夜話卷之一 14 那須與一、後豫州に住せし事

14 那須與一、後豫州に住せし事

下野の黑羽根侯は〔大關土佐守〕、伊豫の大洲侯〔加藤遠江守〕より義子に住れしなり。此侯の話れしは、那須與一宗隆は、源平合戰のとき、扇の的を射たる褒賞として、豫州を賜り、かしこに住しける。今に宮寺に建立せし所、又は寄納せし武器佛具など、所々に存在す。又野州にて某社は〔神名忘る〕與一本國の氏神とて、豫州より材木を運め造りたる有り。今に至て其營作のまゝなり。予問。然ときは宗隆豫州に在らば、野州はいかにと言たれば、其時は父の太郎資隆住せりと。異聞と謂べし。

■やぶちゃんの呟き

 ウィキ那須与一」を読めば分かる通り、彼は実は実在さえ疑われる部分のある伝承上の英雄である。……静山はこれを一種のトンデモ話として皮肉に記しているわけだが、私はむしろリンク先からリンクされている、彼の末裔とされる那須隆さんを冤罪に巻き込んだ(この事件には再審請求された高校時代からずっと関心を持ってきた。本事件の裁判費用のために僅かに残っていた伝与一とされる那須家家宝もみな売却されてしまったと私は聴いている)弘前大学教授夫人殺人事件の、官憲がグルになった杜撰な裁判とその結末(那須さんの国家賠償訴訟の全面敗訴)の方が、およそあり得るはずのないトンデモ話に見えてくる……

「大關土佐守」大関増業(ますなり)。

「加藤遠江守」加藤泰衑(やすみち)。但し、調べた限りでは「遠江守」ではない。

「野州にて某社は〔神名忘る〕與一本國の氏神」現在の栃木県大田原市南金丸那須神社であろう。但し、ここは古く仁徳天皇(三一三~三九九年)時代の創建で、後の延暦年中(七八二~八〇六年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡社としたと伝える。

耳嚢 巻之九 人魂の起發を見し物語りの事

 人魂の起發を見し物語りの事

 

 日野豫州若輩の時、同人家來久敷(ひさしく)煩ひて全快すべき體(てい)にあらず。側向(そばむき)を勤(つとめ)、したしく遣ひけるゆゑ、長谷へも尋(たづね)たる事ありしが、或時馬場へ出て暮過(くれすぎ)に外(ほか)家來を召連れ、彼(かの)煩ふ家來の抔尋ねてかえりけるに、右煩ふ家來の長屋門口に、吹殼(すひがら)よりは少し大きくろうそくの眞を切りしといふべき火落(おち)てあるゆゑ、火の元の不宜(よろしからず)、ふみ消(けし)候へといゝしが、見るが内に右の火一貮尺程づつ登り下りして、無程(ほどなく)軒口(のきぐち)程に上りければ茶碗ほどに大きくなりしが、何となく身の毛よだつ樣なれば内へ立歸りしが、果して其夜彼(かの)家來身まかりしと、豫州かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐から人魂で久々に本格怪異譚の五連発である。

・「日野豫州」高家旗本日野資施(すけもち 明和四(一七六七)年~文政元(一八一八)年)。高家旗本畠山義紀次男で吉良義央の曾孫に当たる。ウィキ日野資施によれば、『官位は従五位下侍従、伊予守』で、高家旗本日野資直の養子となった。天明七(一七八七)年二月に将軍徳川家斉に御目見、寛政四(一七九二)年八月に家督相続、享和二(一八〇二)年十二月に高家就任、従五位下侍従伊予守に叙任されたが、文化四(一八〇七)年三月には高家を辞任しているとある。『なお、根岸鎮衛の著書『耳袋』には資施の体験談として、重病で臥していた家来の住居の前で火の玉(人魂)を見付けたところ、ほどなくその家来が死去したという話が収録されている』と記すから彼に間違いない。なお、底本の鈴木氏や岩波版長谷川氏注は孰れも『前出』とするが、私の記憶では前には出ていないように思われる(注した記憶がない)。お二人が述べておられることであるが、これは失礼乍ら、耳嚢 巻之八 駒井藏主幽魂奇談の事の同じ高家旗本で同じ「日野伊豫守」であった別人日野資栄を誤認したものではなかろうか? 因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏である。

・「側向(そばむき)」及び「吹殼(すひがら)」は底本の編者ルビ。

・「長谷」底本では右に『(長屋)』と補正注がある。

・「吹殼よりは少し大きくろうそくの眞を切りしといふべき」「眞」には底本では右に『(心)』と補正注がある。煙草の吸殻は大きくても一センチはないと思われ、蠟燭の芯の燃え残りも通常なら二センチよりも遙か前に切るであろうと想像されるので、この火の玉の直径は一センチから一・五センチメートル内外と思われる。しかも、かく描写しているということは、その火種の色が自然な赤いものであったことを意味していると考えてよい。

・「一貮尺」一尺は三〇・三センチメートル。当時の長屋の軒は二メートルもなかったか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人魂の出来(しゅったい)を目撃したる物語の事

 

 日野予州資施(すけもち)殿、若輩の頃、同人家来、久しく患(わずろ)うて、これ、最早、復すべき病態にもあらずなって御座ったと申す。

 この家士は、側向(そばむ)きの御用を勤め、昵近の家来として遣(つこ)うておられた者であったによって、かの者の長屋へも、予州殿御自ら、御見舞いに赴かれたことも御座った由。

 ある時のこと、予州殿、馬場へ出でて、暮れ過ぎに外の御家来衆を召し連れ、また、かの患う家来の元などを見舞(みも)うてお帰りになられんとしたが……ふと見ると……その患う家来の長屋の門口(かどぐち)に……これ――煙草の吹殼よりは少し大きく、蠟燭の芯を切ったほどかと思う、小さなる――火(ひぃ)が――落ちて御座った。

 されば、

「火の元の宜しからざることじゃ。――誰(たれ)ぞ、踏み消しておくがよい。」

と命ぜられた。

……と……そう言うたそばから……

……みるみるうちに

……この火玉

――ふぅわり

……と

……一尺――

……二尺――

……と

……昇ったり降りたりし

……ほどのぅ

……軒口(のきぐち)ほどにまで昇った

……しかも

……その頃には

……それは

……茶碗ほどに大きさにまでなって御座った…………

……さても……何とのぅ、身の毛のよだつようなものにて御座ったによって、早々に屋敷内へと、たち帰られた。

 

「……が……はたして、その夜(よ)のこと、かの家来……これ……身罷って御座った。……」

と、予州殿御自身、語っておられた。

尾形龜之助「不幸な夢」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 不幸な夢
        尾形龜之助
 

「空が海になる

私達の上の方に空がそのまま海になる

日 ―― 」

 

そんな日が來たら

 

そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて

仰向けに寢ころんで流してみたい

 

Hukounayume

 

 不幸梦

 

“天空成大海

在我上方天空直接成大海的

日子――”

 

如果那天来了

 

如果那天来了,我就用竹叶作很多小舟

想仰躺漂浮去





        照片摄影 : 矢口七十七

        照片加工 : 心朽窝主人

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 98 はやはやさけ九日もちかし菊の花

本日二〇一四年十月十六日(当年の陰暦では九月二十三日)

   元禄二年九月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十六日

【その三】同日、恕水亭を辞した後、大垣藩士浅井左柳(さりゅう)亭に十二名が会合、歌仙が巻かれた、その発句。前日の三日に伊勢長島から戻って久々に師弟再会を果たした曾良の日記の四日の条にも『源兵ヘ會ニテ行』とあり、この「源兵」は浅井左柳のことでああることからも日が確定する。

 

  左柳亭

はやはやさけ九日(くにち)もちかし菊の花

 

はやう咲(さけ)九日も近し宿の菊

 

  有人の方にて

はやくさけ九日も近し菊の花

 

[やぶちゃん注:第一句は「笈日記」の句形であるが、基準底本とする岩波版「芭蕉俳句集」では「九日」に「ここのか」のルビを振る。採らない。第二句目は「桃の白実」(車蓋編・天明八(一七八八)年刊)の、第三句目は「蕉翁句集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年成立)の句形。

 言わずもがなであるが、五日後の重陽の節句をいう。左柳は(山本健吉氏は二句目を初案とするのでそれを採る)、

 

はやう咲九日も近し宿の菊

   心うきたつ宵月の露

 

とあり、山本氏はこの脇の「宵月」がこの歌仙の巻かれたおよその時刻を示していると記しておられる。因みにこの日はまさに宵の始まりである午後六時過ぎに月が沈んでいるから、まさにその「露」余光ということになろうか。

 しかしこの菊花への命令形は、芭蕉自身への新たな旅立ちの指嗾(しそう)に他ならない。事実、芭蕉はこの二日後の九月六日、伊勢へ向けて旅立つのであった。

 私は第一句の「はやはやさけ」を断然、押す。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 97 こもり居て木の實草のみひろはゞや

97本日二〇一四年十月十六日(当年の陰暦では九月二十三日)

   元禄二年九月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十六日

【その二】同日の前句に示した大垣藩家老格戸田権大夫戸田恕水の大垣室町の別荘に招かれての句。「恕水(如水)日記」四日の条にも載る。

 

  恕水(じよすゐ)亭別墅(べつしよ)にて即興

こもり居て木の實草のみひろはゞや

 

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年刊)。そこではこれに恕水が、

 

こもり居て木の實草のみひろはゞや

   御影(みかげ)たづねん松の戸の月

 

と付けており、表六句まで続けているが、『家中士中に先約有ㇾ之故、暮時より歸申候』とあって、ここまでで止めたことが分かる(山本健吉「芭蕉全句」に拠る)。「家中士中に先約有ㇾ之」は次の句を参照。芭蕉の側の都合である。

 恕水の下屋敷の閑静なさまを言祝いだ一見、外連味のない句柄であるが、私はこの「木の實草のみ」を「ひろ」うて食い、「こもり居」たいという芭蕉は、やはり遁世の伯夷・叔斉への自身の憧憬を孕ませていると見る。どこかこの前後、芭蕉の漠然とした他者に対する――のみならず自己存在に対してすら――何か曰く言い難い幽かな忌避感覚が、彼の身体から匂い出ているように思われてならないのだが。……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 96 其のまゝよ月もたのまじ伊吹山

本日二〇一四年十月十六日(当年の陰暦では九月二十三日)

   元禄二年九月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月十六日

【その一】大垣蕉門の重鎮であった大垣藩家老格戸田権大夫戸田恕水の「恕水(如水)日記」(元禄二年九月四日と五日の日記)の四日の条に『頃日伊吹眺望といふ題にて』という前書で第二句目が載る。大垣藩士高岡三郎兵衛斜嶺(しゃれい)邸での句である。

 

  戸を開けば西の山有(あり)、いぶきと

  いふ。花にもよらず、雪にもよらず、

  只これ孤山の德あり

其(その)まゝよ月もたのまじ伊吹山

 

其のまゝに月もたのまじ伊吹山

 

[やぶちゃん注:第一句目は真蹟詠草の句形。第二句目は「笈日記」のもの(そこには斜嶺亭と前書の前に角書する。これが初案と思われる。

 土地と主人への挨拶句の中に孤高の芭蕉自身をも秘かに含ませている感じがする。]

2014/10/15

近々

近々――面白いことが起りそうな予感が――する……

耳嚢 巻之九 親友の狐祟を去りし工夫の事

 親友の狐祟を去りし工夫の事

 

 米澤の家士なる由、名も聞(きき)しが忘れたり。或日釣に出て餘念なく釣を垂れ居(ゐ)たりしが、後ろの稻村の陰に何かひそひそ咄すものあり。密(ひそか)に伺ふに狐二ツ居たりしが、近日何某の妻病死すべし、夫(それ)に付(つき)一慰(ひとなぐさみ)せんと思ふといふを聞て、甚だ不審に思ひ居(をり)しが、一兩日過(すぎ)て傍輩某が妻果して死しけるが、野邊送り抔いとなみて後、日柄(ひがら)も立(たち)ぬれどとり籠(こも)り有(あり)しかば、いと不思議におもひて見舞(みまひ)けるが、色惡敷(いろあしく)衰えも有けるゆゑ、いかなる事にてかくうつうつと暮し給ふ、最愛の妻なればとて、丈夫のなんぞかく屈しあるべきか、世の中には女も多し、吟味もあらば前にまさるも有べきと、あるは叱り或は恥しめければ、彼(かの)者答へけるは、申(まうす)まじきと思ひしが、誠に深切の事恥入(いり)候事ながら、語申(かたりまうす)なり、亡妻野邊送りし後、有(あり)し姿にて夜毎に罷越(まかりこし)、病ひを尋ね、茶抔自分(おのづ)と沸して我にあたふる樣昔に替る事なし、我も疑敷(うたがはしく)思ふ故、歸る跡を付(つけ)んと思ふに、其身木石の如く動く事ならず、無念心外と思へどもせんかたなく、夫(それ)故にこそ顏色も衰へつらんと答へけるゆゑ、さる事あるべきにはあらねど、今夜は我等も泊りて樣子見んと、宵より酒など呑(のみ)て其側(そのそば)にありしが、夜更(ふく)るにしたがひ頻りに眠く誠にたえがたきゆゑとろとろとするに、彼(かの)亡妻來りて茶なぞ拵へ候て例の通り、明日こそ罷越んとて立歸るとき、己れ妖怪ゆるさじと刀に手を掛しに、惣身木石のごとく動く事ならざれば、無念と齒がみなしゝ處せんなく、さて亭主申けるは、いかゞ見給ふや、我等しとめんと思ひしが、右の通りなれば御身こそ仕留(しとめ)給はんと思ひしに、如何(いかが)なし給ひしといふに、我等も同じく動く事ならず、是に付(つき)祕計の符護(ふご)する間、かの火所(ほど)に入置(いれおき)給へ、急度(きっと)右怪物此後來(きた)るまじとて、宿へ戻りて小さく封じたるものを拵へ、かの火所へ入置、其夜も夜伽(よとぎ)がてら來りて居(をり)しが、前夜の通り彼(かの)亡妻來りていろいろはなし抔いたし、例の通り茶をわかすべしと火を打(うち)、例の通(とほり)竈(かまど)へ焚付(たきつけ)しに彼(かの)祕符に火移ると大きにはねければ、亡者わつといひて驚きさわぎ、かきけして失(うせ)ぬ。夫(それ)といふて追駈(おひかけ)しが行衞しれず。彼祕符はいかなるものと尋ねしに、玉藥(たまぐすり)をよく包みて入置(いれおき)しとなり。狸狐(りこ)の恐るべき、尤(もつとも)の工夫と、人の咄しける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚二連発。

・「米沢」出羽国置賜(おきたま)郡(現在の山形県の東南部にある置賜地方)を治めた米沢藩。上杉氏十五万石。「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年夏当時なら、第十代藩主上杉治広。

・「茶」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『藥』。贅沢にカップリングしたが、これ、実際には狐の尿でも飲まされていたに違いない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 親友が狐の祟りを去ったる工夫の事

 

 米沢の家士なる由、その名も聞いたが、失念致いた。

 晩秋のある日のこと、釣に出でて、一日(いちじつ)凝っと釣糸を垂れて座って御座ったところが、後ろの稲叢(いなむら)の蔭にて、誰(たれ)か、ひそひそと話す者らがあった。

 耳を澄ましつつ、そうっと窺(うかご)うてみたところが、なんと、狐が二疋、そこにおった。それが、人語を操り、

「……コン! 近いうちに……某(ぼう)が妻……これ! コン!……病死するようじゃ……それにつき……一つ コン!……憂さ晴らしを……しようと思う……コン! コン!……」

と言うのが聴こえ、そのまま狐どもは消えて御座った。

 男は、

「……まっこと、奇体なことじゃ。空耳か?」

なんどと思うたが、それから二日ばかり過ぎて、傍輩の某(ぼう)が妻、これ、果して病死致いた。

 野辺送りなんども営みて後、それなりに日数(ひかず)も経ったれど、某は家に籠ったきり、御役目にも病いと称し、出仕なさざれば、普段のかの男の強健なればこそ、これ、たいそう不思議に思うたによって、ともかくも見舞(も)うてみた。

 すると某は、顔色も悪ぅ、何か、げっそりと痩せ衰えておったによって、

「……かくも……うつうつとお暮しになられるとは……これ、どう致いた!? 最愛の妻なればとて、偉丈夫としてならした貴殿が、どうして、かく尾羽うち枯らしたままに、屈託なさっておらるるなどと申すことの、これ、あってよきはずはなかろう!!……世の中には女も多御座ればの、探しようによっては、これ、前にも優(まさ)る後添えも、きっと見つかろうもの!」

と、或いは叱り、或いは自ずから恥ずかしく思うであろうところを突いたり致いたところ、かの者、徐ろに答えたには、

「……実は……申すまいとは思うたが……まことに、親身なる意見を頂戴すればこそ……我らも心底、恥じ入って御座る。……そうは申せ……いや、やはり……お話申すことと致そう。……実は……亡妻の野辺の送りを致いたその後(のち)も……その……夜毎に……ありし姿そのままに……亡妻……我が家(や)へ罷り越し……我が身の患いを尋ねては、これ、心を悩ませ……茶や薬なんどまで、手ずから、沸したり煎じたり致いては……我に飲ませて呉るるそのさま……これ、昔に変わるところのぅ……されど……我らも流石に疑わしゅうは思うたによって……暁方、帰えってゆく跡をつけ、正体を見届けんとも思うては御座ったれど……いざ、その時となると……この身……木石(ぼくせき)の如、動くことも出来ずなって……無念心外なること……とは思えど……さて……優しくさるままに、詮方のぅ。……冥界の者と交われば……それゆえにこそ……顔色(がんしょく)も衰えたに相違御座らぬ…………」

なんどと、これ、驚くべきことを答えたによって、朋輩なる男は、先般の川岸での狐の怪の記憶も蘇って参ったによって、

「……そのようなること……これ、あろうはずもあるまいぞ!……まあ、しかし……よい! 今宵は我らも泊って、とくと様子を見んと致そうぞ!」

と、宵より酒なんど呑み、某が側(そば)に寄りそって御座った。

 ところが……

……夜の更くるに従い……何か、こう……異様に眠うなって……まっこと、耐え難き睡魔の襲うたによって、つい、とろとろとしたところが、

……確かに!

……かの亡妻

……生前そのままに

……そろそろと部屋内へと入って来た……

……そうして

……茶や薬なんどを

……拵える仕儀をも致いた……

 暫くすると亡妻は、

「……明日も……きっと……また……罷り越しましょうぞ……」

と呟いて、立ち帰らんと致いた。

……そうしたさまを、ここまでは朋輩、夢うつつに見るともなしに見て御座ったが、

『ここが正念場じゃ!』

と下っ腹に力を込め、

「……お、おのれッツ! 妖怪ィ! ゆ、ゆるさじッツ!」

とやっと絞り出すように小さく叫んで、脇に置いて御座った刀に手をかけた……

……かけた……そこまでは何とか手(てぇ)も辛うじて動いたが……後がいけない。……その朋輩もまた……総身、これ、木石の如くなって動くに動けずなってしもうたと申す。

「……む、無念(むぅねん)…………」

と声になるかならぬか、ただただ、きしきしと己れの歯嚙みせし音ばかりが骨を伝って聴こえるばかり……結局、二人固まったままに……何も出来ず御座ったと申す。

 曙の空の少し明りし頃おい、やっと二人は正気に返り、身も自由となった。

 さても亭主の男、青ざめた亡霊のような顔を朋輩に向けると、言うともなくぼそりと、

「……さても……いかがご覧になられたか……申した通り……我ら、やはり同じごと、妖しのものを仕留めんと思うたれど……先に申した通りのことなれば……さて……御身なればこそ……きっと仕留めて呉るると存じたに……はて……いかがなされた……」

と亡魂の恨み言を述ぶるが如く、問うた。されば、無念至極の朋輩も、正直に、

「……いや! クソッ! 我らも、全く貴殿同様……動くこと、これ、ままならず御座ったわッ!……」

と応えつつも、何か、思いついたように、

――パン!

と膝を打つと、

「――さればじゃ! 実は、我ら、この妖異につき、思い当たること、これ、御座る!――それはまた後日(ごにち)に語らんと存ずるが――さればこそ、我らに秘計の御座る!……これより我ら、貴殿を守る――護符――を用意致そう! しかしてそれを、ほれ! あそこの湯(ゆう)を沸かすところの、竈の火所(ほと)の所に、灰を少し被せて、分からぬように仕込みおかるるがよい!……ふふふ♪ きっと、かの物の怪、向後は来たること、これあるまいぞ!……いいや! そうじゃ! 拙者が何もかも段取り致すによって、貴殿は何もせずともよろしい! しかしてまた、今宵も我ら、貴殿に付き添うよって御安心めされい!――」

と妙なる微笑みを浮かべたかと思うと、自分の宿所へと戻って、何やらん、小さく封じ固めたるものを拵え、またかの男の元へととって返し、かの火所(ほと)へ、その『護符』を入れ置いて、

「不便じゃが、くれぐれも今日は竈をお使いめさるな。宵にはまた参る。」

と述べて、また帰って行った。

 そうしてその夜(よ)も再び、宵の口より、かの男の夜伽(よとぎ)がてら、来たって傍らに居った。……

……またしても朋輩の男を睡魔が襲う……

……またぞろ前夜の通りにかの亡妻がそろそろとやって参る……

……また夢うつつにいろいろと亡妻が男に話しかけるのが目に映る……

……されどまた総身は木石……

……しかして例の通り、

「……湯(さゆ)を沸して……薬湯を差し上げ……ましょう……」

なんどと申す。

 亡妻は火を打って、いつもの通り、竈(かまど)を焚き付けた。

――と!

――かの秘計の『護符』に火の移った――その途端!

「バババァン!!!」

と、もの凄き音とともに、何かの弾け出でたれば、亡者は、

「わっツ!! わ、コンコン!!! ココッツ!」

と妙な叫び声をあげて驚き騒ぎ、四つん這いになって脱兎の如く駆け出したかと見えて、すっとかき消えて失せた。

 同時に朋輩、総身に力の戻ったによって、

「それッ!!」

と、男をも促し、亡妻の後を追い駈けてみたが、その姿は、これ、とんと、行方知れずで御座った。

 それ以後、かの亡妻は、とんと、訪ねて来ずなったと、申す。

 かの狐に魅入られた男が、

「あの秘密の護符とは……これ、如何なる霊所のもので御座った?」

と訊ねたところ、朋輩の男は、

「――あん? あれか? あれはな――鉄砲の火薬を、ぎゅうっと固めてしっかり包んで入れ置いたんじゃ! なははははっ!」

と言って、呵々大笑致いたと申す。

 

「……いや! これ、狐狸に対する――実に恐るべき尤もなる『護符』――という工夫で御座いますなぁ。……」

と、さる御仁の語って御座ったよ。

甲子夜話卷之一 13 備中佛祖十二天の版木に御朱印を下されし事

13 備中佛祖十二天の版木に御朱印を下されし事

神祖の御鴻勳偉蹟は申迄もなし。瑣議末事に至るまで御手の屆たること、不可思議とも申べきことども多し。又其中に毎事變化不測にして、人意の表に出ること多々なり。甚しきは御好事と申奉るべき程のこともあり。其一は、備中國佛祖寺と云に、弘法大師唐國將來の十二天の像あり。木版に彼像を彫たるものゝ由。佛祖寺の有さまを聞に、かの十二枚の版を長持に納め、それに葵の御紋あり。是を佛殿の正面に置き、別に本尊と云ものなく、其長持に莊嚴供養す。是は彼十二天の板木に御朱印を下され、後の取扱方まで、仰付られしとぞ聞へし。

■やぶちゃんの呟き

「備中國佛祖寺」現在の徳島県鳴門市大麻町板東にある真言宗竺和山(じくわさん)一乗院霊山寺(りょうぜんじ)。現在は釈迦如来を本尊とし、四国八十八箇所霊場の第一番札所として知られる。参照したウィキの「霊山寺(鳴門市)によれば、『寺伝によれば奈良時代、天平年間』(七二九年~七四九年)に聖武天皇の勅願によって行基によって開創されたとする。弘仁六(八一五)年には弘法大師空海がここを訪れて二十一日間留まって修行したとされ、『その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像である』。『室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間』(一六七三年~一六九三年)に『長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失っ』ており、『本堂と多宝塔以外は近年の再建』とある。ウィキにはこの十二天(後注参照)像の版木の記載がないが、ネット上には別に「高野山真言宗備中寺院めぐり」からの引用とする情報があり、その中には、『本尊は釈迦如来像。乾漆座像で身丈七十五センチ。弘法大師の作と伝えられている。また、毘沙門天像も安置されている。弘法大師は、布教のため諸国を巡歴している時、大原村の柏(かやん)堂(霊山寺の麓辺り)より、東北を眺めたところ草樹うっそうとして遥かに紫雲たなびき、秀一麗の気を感じ、そこにあった萩の大木で釈迦如来を彫ったと伝えられている。また、その時、余った木で作ったといわれる十二天像版木も同寺の寺宝として伝わっている』と、やや異なる記載がある。

「十二天」仏教を守護する十二の天尊。四方・四維の八天、上・下の二天、日・月の二天のこと。八方を護る諸尊に天地日月を護る諸尊を加えたもの。帝釈天(東)・火天(南東)・閻魔天(南)・羅刹天(らせつてん・南西)・水天(西)・風天(北西)・毘沙門天(北)・伊舎那天(いしゃなてん・北東)、及び梵天(上)・地天(下)と日天・月天。

今朝見た不思議な夢

今朝、見た夢。……

インドである。
[やぶちゃん注:私はインドに行ったことはない。恐らくこの映像はかつて行ったタイのスコータイ辺りのロケと思われる。]

――しゃん!
――しゃん!

と私は錫杖を突いて歩いている。

私はさる老師を出迎えに行った帰りである。
老師は抱えておられた薦を私に預けると一足先に行かれたので私は独りである。
私は何かを口に含んでいるのが実感される。

ハレーションしたような陽光の射す埃りっぽい田舎道を行くと、寺があって、その赤茶けた築地の向こうには菩提樹が鬱蒼と茂り、乾いた私の前の道の半分に森閑と影を落としている。

向こうから修行僧がやってくる。

陽に焼けた上に垢だらけで黒ずんだ赤銅色になっているが、身の丈、二メートルになんなんとする、そのがっしりとした二十過ぎの青年は、土埃に白くくすんでいるものの、確かに墨染の衣に身を包んでおり、明らかに日本人僧である。

頭はすべてが螺髪(らほつ)となって、見た目確かに、生き仏のようにさえ見える。

彼は突然、道の真ん中に座り込んで、鉄鉢(てっぱつ)を正面に置き、両手を拳にして左右に突くと、古武士のように私に向かって礼をし、托鉢を乞うた。

私は彼に近づいてゆきながら、口に含んでいたものを歯に銜え、

――かりっ!

と齧って二つに割った。

それは毒々しい真っ赤な棗の実であった。

そうして私はその半分を、その鉄鉢の中へ投げ入れた。

青年僧は何か不服不審げに私を煽った。

すると――

私は持っていた錫杖を振り揚げ、

――しゃん!

彼の鉄鉢の前に垂直に突き刺すや、錫杖の頭を握ったまま、坐った彼の周囲をそのままに一廻りさせるのであった。

地面はまるで温めたバターのように錫杖を動かすなりに数センチの空隙を造りながら真円に斬れてゆくのである。[やぶちゃん注:この時、私は唯だ真っ直ぐ立ったまま苦もなくそうしていたから、その瞬間だけ私は青年僧よりも遙かに大きい体になっていたことになるということを夢の中のどこかで「私」は体に感じていたことを告白する。]

青年僧は何か已に感じているのだろうか、凝っと面を伏せて観念したように微動だにしない。

そうして私は彼に、

「――今少し――そこに――おるがよい……」

と告げるのであった。

――と――

私が刳り抜いた青年僧を乗せた円柱は――

一瞬にして地の昏い底へと吸い込まれていった…………

この夢には前後に世俗的な話柄が連続しているのだが、それはこの印象的な話柄の青年僧とは話柄上は無関係に見える上に、簡明に言うと

――実は私はインドの大学の附属高校の入学試験に採点のアルバイトでいやいや雇われており、そこの受験生は試験の答案を見る限り、ほぼ全員が重い発達障害を抱えた女生徒ばかりである――

というトンデモ設定で

――示した話の「老師」というのは、その試験問題を作るという如何にも困難な仕事のために特別に招聘された私の知っている山中の「聖人」で(しかし試験問題の製作をそっちのけで遊びまくり、私が呆れるという場面さえある程度のトンデモ「聖人」なんである)――

――その彼を私がこれまた延々道に迷いながら迎えに行くというプロット――

――その中に突如現われるシークエンスが上記の夢

なのである。

これ、説明しだすと如何にも面倒なので、割愛することにした。

追記:
……よく「本当に見た夢なんですか?」と疑われるので言っておくが、十八の時から私は夢記述をして既に四十年になろうとしており、少なくとも夢の記憶と記述の再現力には強い自信を実は持っている。私が夢を再現しようとすると簡単に短編小説程度の分量になるのである(言っておくが夢で小説が書けると自慢しているのではない。あくまで、それぐらいの分量の叙述には軽くなってしまうという謂いである)。……実際、二十頃の夢記述などは、今の私が読んでも吃驚するほど詳細を極めるのである。……夢の中の地図や配置図、見た対象物の下手なスケッチまで記されてある。……最近、電子化を目論みながらも、プライベートな人名が多数出る上に、夢分析も記述の中に大幅に侵入しているものなので聊か躊躇している。……
因みに夢記述の絶対鉄則がある。それは目覚めたら直ぐに書くことである。時間が経ってから思い出して書くとたちまち覚醒時の検閲によって変質されてしまうからである。夢の記憶は恐ろしいスピードで速やかに変形し消去される。但し、以前にも述べたが、この夢記述、あまりやると精神に変調をきたす(実際、私自身、大学生の時に体験した。簡単なことである。「荘子」ではないが――今私は自分の夢を記述している/大学の友人に昨日見た夢を語っている――のだが……それ自体が私の見ている夢……なのではないかという錯覚が生じ始めるのである……ほどほどにするのが、やはり、よい…………

2014/10/14

明恵上人夢記 43

43

一、さて、同十一月廿九日、大明神之御殿の御前に於いて、論義講一坐、之を修す。幷に心經七卷の佛事、之を始む。

一、十二月七日の夜、夢に云はく、同行六七人と共にして、有る處に行きて、既に到り已りて將に家へ入らむとする道に、二段許り、糞穢(ふんゑ)充滿せり。同行等又箸を以て之に浸す。

[やぶちゃん注:「同十一月廿九日」建永元(一二〇六)年十一月二十九日。栂尾に参って住するようになった十一月二十七日から二日目。次の夢はそれらの修法を開始してから凡そ一週間の後に見た夢であることを示唆している。注意されたいが、この前段は明恵の夢日記によく挿入されてある事実の日録である。しかもそれを夢とともに記している明恵には確信犯でその記載事実と前後の夢が強い因果関係にあることを信じて疑わないまさに確信があるのである(しかも明恵は常に夢を予知夢として認識していたと思われることも大切である)。この夢も、栂尾という自身の結界で初めて始めたところの修法が――それは明恵の存在が、と言い直してよい――齎すこれからの出来事を意味するものとして明恵が認識していたと考えるのが妥当なのである。

「大明神」底本注に、『春日明神をさす』とある。高山寺公式サイトを見ると、現在、明恵の時代の唯一の遺構とする石水院(五所堂とも呼ぶが、現在ある位置とは旧地と異なる。以下、詳述する)は、創建当時、東の経蔵として金堂の東にあったとある。それは安貞二(一二二八)年の洪水によって現在の東経蔵の谷向いにあった原石水院は亡んだとある。その後、現在の東経蔵が春日明神と住吉明神を祀って、石水院の名を継ぎ、現在の高山寺の中心的な堂宇となったとある。しかも後世のこと乍ら、寛永一四(一六三七)年の古図にあっては、その石水院が、春日と住吉を祀る内陣と五重棚を持つ、顕経蔵・密経蔵とによって構成された経蔵兼社殿となっているとある(明治二二(一八八九)年に現在地へ移築されて住宅様式に改変されたとある。恐らく廃仏毀釈の影響を受けたために表立って祀ることが出来なくなっていたからと推測される)。さらに石水院の西正面にある「廂の間」の解説には『かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る』ともある。この解説に記された事実を見る限りに於いて、この明恵が「論義講一坐」を修した「大明神之御殿」というのは実にこの、現在の金堂の東の谷に下った位置にあった、原石水院たる東経蔵そのもの(若しくはその原型)であったと考えるのが自然であるように思われる。

「同行六七人と共にして、有る處に行きて、既に到り已りて將に家へ入らむとする道」とは、今まさに春日明神を祀るための論義講の一座を修し、一週日を過ぎた般若心経七巻転読の仏事の完遂を指していると読むべきである。即ち、栂尾という場所に一人の名実ともに定立したところの自身の現存在を意味している。

「二段許り、糞穢(ふんゑ)充滿せり」階梯にして二段にも及ぶ汚物が、これ見よがしに帰り道に積まれて、一見、彼らを阻んでいるように見える。

「同行等又箸を以て之に浸す」ところが、明恵の同行の者たち――ここは平等で独立した他の対立する宗派の僧侶であるとは私は考えていない。確かに明恵が信じ、また、明恵を信じ、明恵も彼もとともに「同行」する数少ない「六七人」の心の友たる人々である。それは私は僧とは限らないと考えているのである。何故ならそれ故にこそ、彼らの目的地が社寺ではなくて或「る處」なのであり、それは参詣や修行ではないものだからこそ、「既に到り已りて將に家へ入らむとする道」という表現になっているのだと私は思うのである――は、その汚物の山の中に、自身が生を繋ぐに用いるはずのところの、箸を恭しく「浸す」のである。この二段に盛られた累々たる糞尿の山は実は天女菩薩如来のそれであり、それは実はネクターと明恵と同行衆は認知しているのではあるまいか? だからこそ、同業者は勿論、明恵自身、この一見、おぞましく見える夢の光景を淡々と記すことが出来たのだと私は読むのである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

43

一、さて、同十一月二十九日、大明神の御殿の御前に於いて、論義講一座を修した。并びに般若心経七巻の転読、これをも始めた。

一、そうこうして一週日の過ぎた、十二月七日の夜、見た夢。

「私は同行の者六、七人とともに、とあるところに行って、そこで、その同行の者らも皆、そこへ無事に辿り着いて、そこで同行の者らとともに、なしく思っていたことをも、しっかりと成し終え、さてもまさに皆して家へ帰って、寺内(いえうち)へと入ろうとした――その眼の前に――二段ばかりに積み上げられた、糞尿の山が充満していた。

 すると、同行の者らは、また実に穏やかな表情のまま、懐(ふところ)より食膳の箸を取り出だすと、それを以て、その糞尿の山の中に、恭しくこれを浸して供えるのであった。……

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 戀愛(2) 一 細胞の戀

     一 細胞の戀

 

 「うに」・「ひとで」・「なまこ」の類は生殖するに當つて雌雄相觸れることなく、各々勝手に生殖細胞を吹き出すだけであるが、かやうな動物では雌雄相近寄る必要がないから、その間にすこし戀愛はない。互に相近づかうと欲するのは、戀愛の第一歩であるから、近づくことを欲せぬようでは戀愛はまるで問題にならぬ。しかも戀愛がなくても、一部の卵と精蟲とがどこかで必ず相出遇つて受精するのは何の力によるかといふに、これはやはり一種の戀愛である。但し個體間の戀愛ではなくて細胞間の戀愛であるから、親からいふと無意識の戀愛で、親の意志とは全く無關係である。即ち海水中で、卵細胞と精蟲とが偶然相近づけば、精蟲は急いで卵細胞に游ぎ著き、卵細胞からは歡迎の突起を出して直に相合してしまふ。已に親の體を離れた後のこと故、親はその合同を助けることも出來ねば止めることも出來ぬ。

 

 このやうな異性の生殖細胞間の戀愛は決して「うに」・「なまこ」のやうな個體間に戀愛のない種類に限るわけではなく、如何なる動物・植物でも苟しくも有性生殖を營む以上は、その卵細胞と精蟲との間には必ず強い戀愛がある。受精によつて新な一個體の生ずるには、卵細胞と精蟲とが、體と體と合し核と核と合して、眞に一個の細胞となることが必要であるから、如何に卵と精蟲とを出遇はしめる仕組が完全に出來て居ても、肝心の兩細胞が相合しなかつたなら何の役にも立たぬ。恰も如何に他人が骨を折つて男女を出遇はせても、當人らにその心がなければ到底子が出來ぬのと同じ理屈である。それ故如何なる生物でも、生殖細胞間の戀愛は必要であるが、これはいつも個體の意志とは別で、その當人と雖も如何ともすることは出來ぬ。例へば如何に道德堅固の聖僧でもその精蟲を卵細胞の傍へ持ち行けば、必ず直にこれに突き入るであらう。また如何に貞操の譽れ高い婦人でも、その卵細胞の周圍へ精蟲が集まつて來れば、忽ち表面から突起を出して先着者を迎へるであらう。これは當人からいへば無意識の範圍に屬することで、如何なる念力を以つても止めることは恐らく不可能であらう。生殖細胞は互に相近づいた以上は、細胞間の戀愛によつて必ず受精するが、そこまで確實に相近寄らしめるためには、種々の手段を取らねばならぬ。個體間の戀愛は、この目的のために生じたものである。

 

 戀愛する動物を有情と見做せば、戀愛を知らぬものは當然これを非情と名づけねばならぬが、水中に産する動物には非情の種類が決して少なくない。「うに」・「ひとで」・「なまこ」・類のほかに「はまぐり」・「あさり」・「しゞみ」の如き二枚貝類、「くらげ」の類、珊瑚の類、その他海の底には生涯固著して動かぬ動物が數多くあるが、これらは殘らず非情の部に屬する。同じ貝類の中でも「さざえ」・「たにし」・「ほらがひ」などの如き卷貝類は、雌雄相求めて體内受精を行ひ、「たにし」や「にな」は形の具はつた大きな子を胎生するが、「はまぐり」や「しゞみ」の類は全く「うに」・「なまこ」などと同じく、雌と雄とが各々勝手に生殖細胞を吹き出すだけで、親と親との間に少しも戀愛はない。戀愛には二個が相近づくを要し、相近づくには運動が必要であるから、動かぬ動物は到底戀愛をする資格がない。「くらげ」類は動くことは動くが、ただ傘を開閉して水を煽ぎ、その反動によつて方角を定めず漂ふに過ぎぬから、目的を覗うてこれに近づくことは出來ぬ。また珊瑚や「いそぎんちやく」の類では、雄の吹き出した精蟲は水に流されて雌の體に近づき、その口から體内に入つて卵と合する。「いそぎんちやく」には胎生する種類もあるが、卵が受精し發育するのも食物が消化せられるのも同じ場處であるから、かやうな類では胃と子宮との區別がないことに當る。子は成熟して親と同じ形になると、口から産み出される。すべて非情の動物では、親は單に生殖細胞を吹き出すだけで、その後は運を天にまかせておくのであるから、松や銀杏などが花粉を風に吹き飛ばさせるのと全く同樣である。

 

 蟲媒植物の花には美しい色や好い香がものが多いが、これは昆蟲を誘うて花粉を運搬させるためのものゆえ、やはり廣い意味の戀愛現象の範圍内に屬する。しかし動物界に於ける色や香が常に同種類の異性の注意を引くためのものなるに反し、植物の花はたゞこれによつて甘い蜜のある場處を昆蟲に示し、美しい色、好い香の花にさへ行けば、自分の食慾を滿足せしめることが出來ると覺え込ませ、相手の本能を利用して、當方の花粉を知らず識らず運ばせるのであるから、有情の戀愛とは全く趣が違ふ。自身の精蟲を他の生物に託して、先方まで屆けしめるものは、動物の方には一種もない。

 

 さて細胞間の戀は如何にして起こつたものか、その眞の原因は一向わからぬが、單細胞の原始動物にも、既にその存することは明である。系統を異にする「ざうりむし」が、各々相手を求めて二疋づつ接合するのは、即ち細胞間の戀愛の實現で、夜光蟲でも「つりがねむし」でも接合をする以上は、必ずこの本能を具へて居る。そして相接合する二細胞の間に分業が起り、一は大きく重く一は小さく輕くなると、重い方は動かずに待ち、輕い方はが進んで近づくが、この相違がその極に達すると、一方は明に卵細胞、一方は明に精蟲と名づくべきものとなる。單細胞動物では各個體の全身がたゞ一個の細胞から成る故、接合する二疋は全身が或は卵或は精蟲の形を有せざるを得ぬが、通常の動物では身體は無數の細胞から成り、生殖の役を務めるのは僅にその一部なる生殖細胞のみに限るから、細胞間の戀愛もたゞこれらの細胞のみに傳はり、他の細胞は單に分裂によつて、無性的に數を增し得るのとなつたのであらう。

甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事

12 大阪天川屋儀兵衞の事

吾師皆川子の話たるは、天川屋儀兵衞と淨瑠理本にある者は、其實は尼崎屋儀兵衞と云て、大阪の商估にして淺野内匠頭の用達なり。大石内藏助復讎の前、着込の鎖惟子を數多く造たることに預りしが、町人の武具用意と云風聞ありて、官の疑かゝり、呼出て吟味あれども陳じて言はず。後は拷問すれども言はず。終に其背をさきて鉛を流し入るに至れども白狀せず。あまりにきびしき拷問により、死せんとせしこと幾度も有しとぞ。然れども白狀せざれば、久しく囹圄に下り居しが、江戸にて復讎のことありと牢中にて聞及び、儀兵衞改めて申には、追追御吟味のこと白狀仕度となり。乃呼出て申口を聞に、その身、淺野家數代の出入にて、厚恩蒙し者なり。彼家斷絶の後、大石格別に目をかけ、一大事を某に申含、江戸にては人目有とて、此地にて密に鎖惟子を造りたり。全く公儀への野心に非ず。はや復讎成就の上は、何樣にも御仕置奉ㇾ願と云ける。之を聞て、奉行を始め其場に有あふ人々、皆涙を流さゞるは無かりしとなり。因て赦されて獄を出て、家に歸り、殊に長壽にて、年九十許にて沒せしとぞ。時人往事を語る序には、是見られよ迚、肌を脱ぐに、背に鉛の殘りたるもの、一星二星づゝ肉を出て有り。觀るもの身毛だつやうにありとなり。

[やぶちゃん注:「皆川子」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。参照したウィキの「皆川淇園によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。京極の阿弥陀寺に葬られたが、その墓誌は静山が文を製している。因みに赤穂浪士の討ち入りは元禄一五(一七〇三)年(十二月十四日)、静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)。

「尼崎屋儀兵衞」個人ブログ「遊心六中記」の探訪 京の都(下京)の史跡めぐり  京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡によれば、モデルは呉服商から備前岡山藩蔵元へと身を起こした天野屋利兵衛(理兵衛とも)という人物らしいが、相当に潤色されいるらしい。

「商估」は「しやうこ(しょうこ)」と読み、商人・商売屋の意。]

蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤  栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より) 全面改稿 国立国会図書館蔵原色原画画像添付

昨日に続いて本日も博物学テクスト『蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤  栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)』を全面改稿、国立国会図書館蔵の原色原画画像を添付した。

2014/10/13

耳嚢 巻之九 氏康狐を征する歌の事

 氏康狐を征する歌の事

 

 狐出て樹木草園を荒し、又は女兒など誑(たぶらか)しなどするを、氏康聞(きき)て、

  なつは來つ音に啼蟬のから衣おのれおのれが身の上に着よ

かく詠じければ、翌日の朝園中に狐ふたつになりて死せしと、或書にて見しと、石川翁かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狸(しかも歌が呪言となる点で酷似の話柄)に蟒蛇を挟んで妖狐譚と確信犯的連鎖である。鈴木氏の注とそれを受けた岩波版長谷川氏注によれば、本話柄と歌は他にも「醒睡笑」(八)・「北条五代記」(五)・「曽呂利狂歌咄」(三)などに載るとある。最後に所持する「醒睡笑」のそれを参考に掲げておく。

・「氏康」戦国武将として伊豆・相模・武蔵・上野を支配した小田原城城主で小田原北条氏第三代の北条氏康(元亀二(一五七一)年~永正一二(一五一五)年)。天文六(一五三七)年七月の武蔵河越城攻略の頃より家督継承者として政務に関与し始め、同十年七月に父氏綱死没前後には家督を継いでいる。翌十一年から十二年にかけて相模・南武蔵・伊豆等で検地を実施、同十四年には駿河の富士川以東の支配を巡って今川義元との紛争が再燃、不利な形勢下での講和によってこれを失った。しかし、翌十五年四月の河越城の戦いでは大勝、扇谷上杉氏を滅ぼして関東管領上杉憲政を上野平井城に敗走させた。以後、大石・藤田氏など、北武蔵の武将らが服属するようになり、内政面でも税制改革等を行って領国経営の基礎を固めた。天文二十年に憲政を平井城から白井城へと追い詰め、翌二十一年一月に遂に越後に敗走させている。また同年十二月には古河公方足利晴氏に対し、家督をその子義氏(母は氏綱の娘)に譲らせた。その後、富士川以東の地を奪回するため、駿河に侵攻する一方、武田・今川両氏と相甲駿(相模・甲斐・駿河)三国同盟を結んでいる。二十三年十一月には晴氏・藤氏父子を捕らえて相模波多野(現在の秦野市)に幽閉、義氏の家督を安堵させた。永禄二(一五五九)年二月には、主として家臣らへの普請役賦課の状況を調査させて基本台帳「小田原衆所領役帳」を作成、同年十二月に家督を子氏政に譲って隠居したとみられる。この代替わりと前後して北条氏の支城制はほぼ固まった。隠居後は氏政の後見として第一線を退いたものの、十二年閏五月に成立した相越(相模・越後)同盟は氏康が主導している。中風発病後一年余りで死去した。戦国時代にあって税制改革を初めとした諸経済制度の整備を成し遂げ、領国の支配体制を堅実に確立した武将の一人といえる(以上、私は戦国史に疎いため、「朝日日本歴史人物事典」の佐脇栄智氏の記載に全面的に拠った)。

・「なつは來つ音に啼蟬のから衣おのれおのれが身の上に着よ」総て平仮名で表記すると、

 なつはきつ ねになくせみの からころも おのれおのれが みのうへにきよ

で、謂わずもがな、「なつは來つ音」に「夏は來つ」という季の到来を言祝ぐ意を掛ける。後に掲げる「醒睡笑」の、昼間に狐が啼くのを聴いて一座の者の一人が「これは不吉なることにて。忌むべき凶兆なれば」と口にしたところが、それを受けて即座に氏康が詠んだというコンセプトの方が遙かに分かり易い。則ち、そうしたお前が啼くことによる不吉なことの出来(しゅったい)――ここではお前がしでかしている幾多の凶事(まがごと)――は、お前自身こそが身に負うてしかるべきものだ、という一種の呪的な言挙げ(封じの呪(まじな)いをしているのである。

・「狐ふたつになりて死せし」この死に様にこそ、何か民俗学的な深層が隠されているように私には思われるのだが。識者の御教授を乞う。

・「石川翁」不詳。情報屋の一人らしい。「耳嚢 巻之八 狸人を欺に迷ひて死をしらざる事」に出る「石川」という人物と同一人物か。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 北条氏康、狐を征せる歌の事

 

……狐が出没しては、城中の樹木や庭園を荒したり、また、家内にある女児などを誑(おびや)かしさえするなどということを、北条氏康が耳にし、

 

  なつは來つ音に啼蟬のから衣おのれおのれが身の上に着よ

 

と詠じたと申す。

 すると、その翌日の朝のこと、お城の庭園の中(うち)に、狐が一匹、身を二つに裂かれて死んでおったと、とある書物にて見申した……と、石川翁が語って御座った。

 

■やぶちゃん補記

 安楽庵策伝著「醒睡笑」巻の八の「祝ひすました」の中の一話「昼狐の祝い直し」(本標題は校注者鈴木氏によるもの)に以下のようにある。底本は岩波文庫版鈴木棠三校注版(一九八六年刊)を用いたが、恣意的に正字化した。

 

氏康公(うぢやすこう)の城中にて、晝狐(きつね)の鳴きたる事ありき。「これはよからず。忌む事なるに」といふを聞きて、

  夏はきつ音(ね)に蟬(せみ)のから衣(ごろも)おのれおのれが身の上にきよ

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 高松寺 / 來迎寺

    ●高松寺

報恩寺舊蹟の向ひ東北の谷にありて。西御門の内なり。壽延山(じゆえんざん)と號す。法華宗なり。寛永十九年八月。水野淡路守重良太平廢寺跡に就(つい)て起立す。追福(ついふく)の爲に創建せしなり。住職第一世は重良か幼女にて日隆尼と號あり。二世は隆か俗妹にて日祐尼と云ふ。三世日宗か時より世々(よゝ)男僧住職す。

[やぶちゃん注:本誌発刊当時は現存した。「鎌倉廃寺事典」によれば、関東大震災で全壊し、昭和六(一九三一)年に宮城県栗原市若柳字川北原畑に移転、同所に現存する(ネット上の日蓮宗公式サイトで確認)。この移転の際、日祐尼の墓は現在、笛田の博物館常盤山文庫に移築されている模様である。]

 

    ●來迎寺

來迎寺は高松寺の南隣にあり。時宗一遍上人が開基にて藤澤の淸淨光寺の末寺なり。

[やぶちゃん注:ここの本尊如意輪観音は私が鎌倉で最もエクスタシーを感ずる仏像の一つである(今一つは浄光明寺の上品中生印を結ぶ阿弥陀像である)。今は豪華な仏殿でおごそかにましましてしまっているがグーグル画像検索「鎌倉 来迎寺 如意輪観音をご覧あれ)……

……私が十九の冬に訪れた時……

……小さな、本当に小さなそのお堂は、普通の町家の家のようで、その中で近隣のお婆さんたちが五、六人集まって、楽しそうに世間話をしていた……

……そのお婆さんたちのすぐ背後に、普通の家の仏壇のような凹んだ棚があり、そこに如意輪観音は座っておられた……

……まさに目の前に……

……その半跏思惟の、滑らかな腕や、ふくよかな脚……

……今にも私の胸の中にしだれかかってきそうな、その顔を拝した時……

……お婆さんの一人が、笑いながら言った……

「……お兄さん、よーぅ、見てって下さいねぇ……」

……私は何故か……

……不思議に……

……顔が赤くなるのを覚えた……

……お婆さんたちから蜜柑と和菓子をたくさん貰った……

「私は夕暮れの坂を――下りました」……]

海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)――全面改稿 国立国会図書館蔵原色原画画像添付

博物学テクスト『海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)』を全面改稿(今朝未明から延べ10時間を費やした本格的改稿である)、国立国会図書館蔵の原色原画画像を添付した。原画原色画像をこれだけの大きさで挿入するのは僕の夢だった。絵を見ているだけでも楽しいよ、是非、いらっしゃい!

2014/10/12

耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事

 猛蟲滅却の時ある事

 

 廿年程以前の事なる、相州大山(おほやま)より谷を餘程隔(へだて)たる所に、□□村有。彼(かの)村方の山に年をふる古木ありて朽(くち)たる穴ありしが、右の内に數年住(すみ)けるうはばみ、折節は形をあらはし眼精鏡の如く、里人驚き怖れ、或は煙(けむり)を吹き又は鳥獸を取(とり)て食ひ、人はおそれて用心なせ共、時にふれて害をなしけるが、或夏の夜ひとつの火の玉、大山の方より飛來(とびきた)ると見しが、右の大木の榎へ落(おち)、炎々と燃上(もえあが)りしが、夜中すさまじき音して震動する事ありしが、翌日見れば右榎は片(かた)の如く燒けて、うはばみもともに燒(やけ)ぬ。右の骨をば所の者恐れて近邊の川原へ埋(うづ)め捨(すて)しを、醫官山崎氏壯年の頃、彼(かの)地へ至りし時、骨をひとくるは貯置(たくはへおき)し民の元に泊り、したしく見たりし由。右の委細あるじ、山崎氏へ物語りせしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狸から怪蛇の異類調伏譚で連関。

・「廿年程以前」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、その二十年前だと、寛政元・天明九(一七八九)年頃となる。現在の大山阿夫利(あふり)神社のある大山は別名を雨降山(あふりやま)と呼ぶ。江戸時代は石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られ、江戸庶民の大山詣で知られていた。他にも大天狗や小天狗が祀られていたし、何より山名から分かるようにここは雨乞いの霊験で知られていたから、火の玉(雷神)との相性もあると言える。

・「大山より谷を餘程隔たる所に、□□村有」単なる直感であるが、現在の神奈川県愛甲郡清川村は同定候補地にはなろう。

・「醫官山崎氏」本巻の頭に出た龍譚の山崎宗篤なる人物と同一人物であろう。「壯年の頃」とあるから、この人物は談話時には既に五十を越えていると考えてよいか(因みに執筆当時の根岸は満七十二歳)。

・「ひとくるは」一包(くる)みか。「くるは(くるわ)」には一つのものを纏めた一帯の意があるから、そこから数詞として誤って使ったものかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猛けき異類も滅却の時の必ずある事

 

 二十年程以前のこととか。

 相模国の大山(おおやま)よりよほど谷を隔てたる所に、□□という村がある。

 かの村方の山に、年を経たる大きな古木の榎(えのき)のあって、そこに朽ちたる洞(うろ)の空(あ)いて御座ったが、この内に、数年に亙ってここを棲家となしおる蟒蛇(うわばみ)がおったと申す。

 しばしばその姿を洞(うろ)より出だすことのあったが、その眼玉は爛々と耀(かがや)き、あたかも鏡の如くにして、あまりのおぞましさに里人は皆、驚き怖れておったと申す。

 時によっては、その大きなる口より、真っ赤な刺又(さすまた)の如き舌をぺろぺろと出だしつつ、怪しげなる毒煙をば吹きつけ、または近くの鳥や獣を手当たり次第に捕っては食うて御座った。

 人は恐れて用心致いては御座ったものの、時には、その毒気(どくき)がために害を受けて御座ったとも申す。

 ところが、とある夏の夜(よ)のこと、一つの大いなる火の玉が、これ、大山の方(かた)より飛び来ったかと思うと、かの大木の榎へと落ち、夜空を焦がすが如く、炎々と燃え上がった。

 暫くすると、紅蓮の炎の立ち昇るその真ん中より、天地をひっくり返すような、凄まじき音のして、大地が鳴動致いた。

 翌朝、村人らが恐る恐る近づいてみると――かの榎は想像した通り、完膚無きまでに焼け落ち――蟒蛇もまた、ともに、その長々しき形のまま、黒焦げとなって焼け死んでおった。

 それでもその蟒蛇の骨を所の者どもは恐れて、皆してかき集めると、近くの河原(かわら)へ持って行き、埋め捨てたと申す。

 私のところへ参る幕府医官の山崎氏は壮年の砌り、かの地をたまたま訪れた折り、その蟒蛇の焼けたる骨を一包み、秘かに貯えおいておった村人の元に泊り、親しくそれを見せて貰ったとの由にて、その折り、以上の委細を、宿の主人(あるじ)が山崎氏に直接物語ったと、山崎氏本人より聴いて御座る。

耳嚢 巻之九 歌にて狸を伏する事

 歌にて狸を伏する事

 

 駿河臺深屋氏、和歌を好みて折節歌の會などありしが、厩(うまや)へ度々狸出て馬を煩しふせし。其外時々近邊にていろいろの事あるといひしを、呪(まじなひ)の守りを人の與へけるゆゑ厩にはりければ、厩へはたえて不出(いでず)、其續(つづき)の中間長屋に中間計(ばかり)うまく寢たりしを狸來りて苦しめけるを、傍輩中間眼覺(さめ)て是を見出し、例の狸來れりと傍輩を起し捕えんとせしが、棒やうの物も不持(もたざれ)ば、喰付(くひつき)などして終に取逃(とりにが)しぬ。其あくる夜、彼(かの)いちはやに起て傍輩を起し捕えんとせし中間、殊外(ことのほか)うなされくるしみければ又候(またぞろ)來りしと、いろいろなせど捕得(とらへう)る事なし。横田袋翁、歌よみて此歌もて呪にし給へとて、

  心せよ瀨々のやはらたぬき川の水馴れてこそは身も沈なれ

かく詠じ與へしが、其後は狸出ざりしとや。

  但し瀨々のやはら田、またぬき川の事、

  催馬樂(さいばら)の唄にて、源氏のう

  ちにも、書記(かきしる)しあると、人

  のいゝき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。妖狸の和歌による呪(まじな)い封じ譚。

・「深屋氏」底本の鈴木氏注に、『深谷であろう。寛政譜に同姓四家ある。(深屋はない)』とある。

・「心せよ瀨々のやはらたぬき川の水馴れてこそは身も沈なれ」総て平仮名で読むと、

 

こころせよ せせのやはらた ぬきかはの みなれてこそは みもしづむなれ

 

である。「催馬樂」(平安初期頃に成立した歌謡の一つで、上代の民謡などを外来の唐楽の曲調にのせたもの。笏拍子(しゃくびょうし)・笙・篳篥・竜笛・琵琶・箏を伴奏とすし歌詞は律二十五首、呂(りょ)三十六首が残るものの、曲は室町時代に廃絶、現在は十曲ほどが復元されているの留まる)の内の「貫河」の詞章に、

 

貫河(ぬきかは)の 瀨々の 柔(やは)ら手枕(たまくら)

    柔らかに 寢る夜はなくて 親放(さ)くる夫(つま)

親放くる 夫は まして麗(るは)し

    しかさらば やはぎの市に 沓(くつ)買ひに行(か)む

沓買はゞ 線鞋(せんがい)の 細敷(ほそしき)を買へ

    さし履きて 上裳(うはも)とり着て 宮路(みやぢ)通はむ

 

の一段目に基づく。「夫」は妻。「線鞋」は平安時代の沓の一種で、麻などを素材にした紐で結ぶもの。中国伝来で子供や婦人が用いた(グーグル画像検索「線鞋」)。「細敷」は靴の底の幅の狭いものをいう。「やはぎの市」は三河国の矢作川流域か。「宮路」は「催馬楽wiki」の「全催馬楽曲解説/ぬきかは」には『古注釈は宮路を三河国にある宮路山を想定する』とある。リンク先には以下のような訳が載る(一部表記を変更させて貰った)。最初の二段が恋い焦がれる男、最後の三段目のみがそれに応えた女の歌である。

 

貫河の 逢瀬のたびの 柔らかな腕枕で

    穏やかに 寝る夜もなくて 親が遠ざけてしまう彼女

親が遠ざける 彼女は 一層美しい

    それならば やはぎの市に 一緒に沓を買いに行きましょう

 もし沓を買うなら 線鞋の 細敷を買って

    私はそれを履いて 上裳を着て 宮路を貴方の元へと通いましょう

 

本話の狂歌は、この第一段の「せせのやはらた(まくら)」の部分(この引用は以下に示したように「源氏物語」の引用をインスパイアしている)を題名の「貫河」に掛けて「ぬきかは」と読み、しかもそこに「たぬき(川)河」を諧謔したもので(底本の鈴木氏注は『誤解したもの』と述べるが、これ、ちょっと誤解しようがないと私には思える)、岩波版長谷川氏注では、『水に馴れて油断をしていると溺れる、狸も調子に乗っていると失敗するぞと』いう警句になっているとある。「ぬき川」(貫河)は岩波版長谷川氏注には『所在不詳』とし、底本の鈴木氏注にでは『貫河は美濃国の伊豆貫川かというが、明らかでない』とする。この「伊豆貫川」は現在の岐阜県本巣市と本巣郡北方町及び瑞穂市を流れる木曽川水系の河川糸貫(いとぬき)川のこと。長良川に合流する一級河川で、参照したウィキ糸貫によれば、『平安時代には鶴の名所として知られた川であり、催馬楽(題:席田)をはじめとして数々の和歌に歌枕として詠まれた。(なおこの時代には席田の「伊津貫川」、「いつぬき川」、「いつ貫川」などの表記となっている。)』とある。

 

 因みに私はこの狸が当初は厩に出現していたこと(河童駒引き)、呪いの狂歌が川に馴れている者が沈んで溺死すると言っていること(河童の川流れ)などから、本話柄の原型の物の怪は元は狸ではなくて河童という設定だったのではないかと深く疑っている。大方の御批判を俟つ。

 

・「やはら田」この筆者(有意な字下げから見て根岸ではなく、書写をした後世の人物であろう)はこれを地名(若しくは汁田のような水気の多い田圃か畑地か)のようなものと捉えているようにも見える。

・「源氏のうちにも、書記しある」「源氏物語」の「常夏」の帖で、光が玉鬘に和琴を教えるシーンに出る以下の詞章の冒頭を指す。

 

「貫河の瀨々のやはらた」と、いとなつかしく謠ひたまふ。「親避くるつま」は、すこしうち笑ひつつ、わざともなく搔きなしたまひたる菅搔(すがが)きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。

(光の君が「貫河の瀬々の柔ら手(た)……」と、たいそう優雅にお謡いになられる。「親が逢わせぬように遠ざける妻」というところは、少し微笑まれながら、わざとらしくなく、軽々と掻き鳴らしておられる、その菅掻きの音(ね)は、何とも言いようのないほど、美しく聞こえるのであった)。

 

・「横田袋翁」頻出の根岸昵懇の情報屋。既注

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狂歌によって狸を降伏させたる事

 

 駿河台の深屋氏は、和歌を好まれ、折ふし、歌会などを催しておられたが、厩(うまや)へたびたび妖狸(ようり)が出でて馬を患わせたと申す。

 その外にもしばしば、御当家近辺にては、これ、いろいろと妖しきことの出来(しゅったい)致すことがあると噂致いて御座ったところへ、それを伝え聴いた深屋氏の知れる御仁が、妖狸除けの呪(まじな)いの御守りを齎したによって、それを厩に貼りおいたところ、厩へは絶えて出でずなった。

 ところが、これ、その厩続きに御座った中間長屋の方に移って参り、ある夜のこと、一人の中間が熟睡しておったところに、かの妖狸の来たって、夢見心地のその中間を苦しめて御座った。と、その場にやはり雑魚寝しておったる今一人の朋輩の中間が、その苦悶の声を聴きつけ、目を醒まして、そこ妖狸の影あるを見出し、

「――ヤッ?!――例の狸がまた出でおったぞッ!」

と、かの悶えておった傍輩を起こすと同時に、妖狸を捕えんと致いたところが、たまたまその場には棒のような得物も持って御座らなんだによって、素手で取り押さえんとしたところが、二の腕をしたたかに喰いつかれ、結局、とり逃がしてしもうたと申す。

 その明くる夜(よ)のこと、今度は――昨夜いち早く飛び起きて傍輩を起こし、妖狸を捕えんとした、かの中間が――殊の外、魘(うな)され、苦しんで御座ったによって、中間ども、

「……こ、これは……またぞろ来たって復讐をなしておるに違いない!……」

と噂致いたと申す。

 そんなことが、何日も続いたによって、いろいろなことをやって妖狸を捕えんとはしてみたものの、これ、一向に捕えること、出来なんだと申す。

 それを私も知れるかの横田袋翁(よこたたいおう)殿が小耳に挟み、一首の歌を詠まれて、

「――この歌を以って呪(まじな)いになさるがよろしいでしょう。」

と、深屋氏へ差し上げた。その歌は、

 

  心せよ瀨々のやはらたぬき川の水馴れてこそは身も沈なれ

 

かく詠じたものが中間どもに下されたが、なんと、それを中間部屋の入り口の柱に、ぺたりと貼ってからというもの、一切、その後は、かの妖狸、出ずなったとか申す。

 

〔書写者附記〕

但し、「瀨々のやはら田」、また、「ぬき川」のことは、「催馬樂(さいばら)」の唄に出ずるものであって、古くは「源氏物語」の中にも書き記されてあると、とある人の言って御座った。

橋本多佳子句集「海彦」  老いも緑

 老いも緑

 

老いも緑(みどり)袋のものを出して喰べ

 

道よぎる蜥蜴や和するに難き行

 

毛虫焼く焰このとき孤独でなし

 

考ふる瞼の裡(うち)も緑さし

 

赤毛大瞳(おほめ)誰に似しかもよ麦負ふ子

 

麦刈の薬罐が日のぬくさまでさめ

 

麦を負ふ母金色の夕の餓ゑ

 

       (二十九年)

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  わめき十王窟

    ●※十王窟[やぶちゃん注:「※」=「口」+「盡」。]

※(わめき)十王窟は村北山上の巖窟(がんくつ)を云ふ。中央に血盆地藏左右に如意輪觀音と閻王(ゑんわう)の像を彫れり。※十王の事傳へなければ詳(つまびらか)にし難し。

[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之九」の「岩窟」に、

※(わめき)十王窟(やぐら) 西御門村の山のうへ岩窟の内に、佛像三軀を掘たり。古き物に見へ、中尊は血盆地藏、左の方は如意輪觀音、右の方は閻魔なり。何ゆへに十王の窟といふにや。其像定かに分ちがたし。王冠をいたゞきたるを見て閻魔といふ歟。又※十王と名附し由來しれず。此窟、今は崩れ落て、窟中の佛像かすかに見ゆるのみ。土人の方言に、是等の窟をさして、何々のやぐらと唱ふること、下皆同じ。

とあるのをベースとして書いたものと思われる。この「※」の字は、憤る・怒るの意で、「わめく」とは訓じない。現在、本やぐら(というよりも破損したやぐら奥のレリーフ)は「わめき十王岩」と呼称されており、私は植田の「嘯」(わめく)の字の誤りではないかと疑っている。勿論、十王(事実彫られたものがそうであるかどうかは疑義があるが)であるならば、忿怒相で声を立てるなら、「※」とはなろうが、あくまで字訓に拘るなら、「※十王岩」なら「いかり十王岩」である。「血盆地藏」とは聞きなれない地蔵である。「血盆」は目連尊者が見たという血の池地獄に関わって、特に出血に関わる女性について書かれた偽経である「血盆経」のことを指すから、その経に基づいて形象された地蔵像であることを指すか。但し、インターネットの検索では「血盆地蔵」は本「鎌倉攬勝考」のここの引用以外に全く見当たらない。識者の御教授を乞う。因みに現在では、夜になると苦しみ喚く人の声がこの岩辺りから発せられたから、こう呼称すると伝承される。私はその昔、この尾根上の十王岩の前に、晩秋の夜六時、真っ暗闇の中に、ある女性といたことがある。しかし、わめき声は残念ながら聞こえなかった。一般には崖を何層にも亙って穿った間隙の多い百八やぐら群を抜ける風の音がそう聞こえたものではなかったろうか。リンク先には図も載るので参照されたい。]

杉田久女句集 291 菊ヶ丘 Ⅶ 英彦山雜吟 百十二句(昭和十二年) (前編)

  英彦山雜吟 百十二句(昭和十二年)

 

神前の雨洩りかしこ秋の宮

 

上宮は時じく霧ぞむら紅葉

 

上宮は雨もよひなり柿の花

 

谿水を擔ひ登ればほとゝぎす

 

橡の實や彦山(ひこ)も奥なる天狗茶屋

 

絶壁に擬寶珠(ぎぼし)咲きむれ岩襖

 

色づきし梢の柚より山の秋

 

よぢ登る上宮道のほとゝぎす

 

わが攀づる高嶺の花を家づとに

 

霧淡し彌宜が掃きよる崖紅葉

 

坊毎に懸けし高樋よ葛の花

 

花葛の谿より走る筧かな

 

幣(ぬさ)たてゝ彦山踊月の出に

 

[やぶちゃん注:「彦山踊」英彦山山開き前夜祭に行われる彦山踊りか。monogusa3 動画をリンクしておく。]

 

初雪の久住と相見て高嶺茶屋

 

蕎麥蒔くと英彦の外(と)山を燒く火見ゆ

 

  北岳にて 三句

 

はりつける岩萵苣(ちしや)採の命綱

 

岩萵苣の花を仰げば巖雫

 

岩萵苣の花紫に可憐なる

 

[やぶちゃん注:標高一一九二メートル。個人サイト「九州・大分附近の楽しい山ある記」の英彦山 北岳が素晴らしいので参照されたいが、結構、ハードである。ここを和装の久女が登るさまは、想像しただけで私は惹かれる。リンク先では岩萵苣(イワタバコ。後注参照)の写真も見られる。

「岩萵苣」キク亜綱ゴマノハグサ目イワタバコ科イワタバコ Conandron ramondioides の別名。湿った岩壁に着生し、花が美しく、山草として栽培もされる。和名は葉がタバコに似ることに由来。若葉は食用にもなる。グーグル画像検索「Conandron ramondioides。]

 

  彦山辨天岩

 

美しき神蛇見えたり草の花

 

[やぶちゃん注:個人サイト「kiyoのきまぐれ山歩き」の「檜原山」(英彦山六峰の一つ)の一番下の左に写真がある。]

 

ごそごそと逃げゆく蛇や蕨刈

 

[やぶちゃん注:「ごそごそ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

手習の肩も凝らざる日永かな

 

彦山の早蕨太し萱まじり

 

筆とりて肩いたみなし著莪(しやが)の花

 

汚れゐる手にふれさせずセルの膝

 

春服の子にさはらせず歩み去る

 

  豐原氏より墨を戴く

 

石楠花によき墨とゞき機嫌よし

 

[やぶちゃん注:「豐原氏」不詳。]

 

全山の木の芽かんばし萌え競ひ

 

  豐前坊

 

仰ぎ見る樹齡いくばくぞ栃の花

 

[やぶちゃん注:「豐前坊」既注。]

 

奉納のしやもじ新らし杉の花

 

  英彦山九大研究所 八句

 

捕蟲器に伏せたる蝶は蛇の目蝶

 

捕蟲器に伏せ薊の蝶白し

 

蝶の名をきゝつゝ午後の研究所

 

芋蟲ときゝて厭はし黑揚羽

 

芋蟲ときいて戀さむ蝶もあり

 

捉へたる蜻蛉を放ちやりにけり

 

捕らまへて扶けやる蝶の命あり

 

葵つむ法親王の屋敷趾

 

[やぶちゃん注:「英彦山九大研究所」九州大学附属彦山生物学研究所。久女が訪れたこの前年の昭和一一(一九三六)年十月二十日に設置されている(現在名は九州大学農学部附属彦山生物学実験所)。

「法親王の屋敷趾」(PDFファイル)に、元弘三(一三三三)年、後伏見天皇第六皇子助有法親王が座主として迎えられて彦山山伏を統轄するようになった(この時から輪番制座主から世襲制座主となったとある)。城壁を思わせる石垣と黒門跡が残り、池泉鑑賞式庭園は桃山期の作とある。現在は旧座主院庭園として生物学実験所が管理しており、拝観には予約が必要。ほあぐら氏の「ほあぐらの美の世界紀行」の九州地方の庭園に写真と簡単な解説が載る。]

 

天碧し靑葉若葉の高嶺づたひ

 

六助の碑に戀もなし笹粽

 

[やぶちゃん注:「六助の碑」「六助」は加藤清正に従った武将毛谷村六助。既注。本句はリンク先の最後に注したおいた六助と論介の伝承に基づく感懐である。]

 

北岳を攀ぢ降りるなり岩躑躅

杉田久女句集 291 菊ヶ丘 Ⅵ 松本にて 二句

  松本にて 二句

 

健やかな吾子と相見る登山驛

 

高嶺星出てうれし明日登山

甲子夜話卷之一 11 盗日本左衞門の事

11 盗日本左衞門の事

濱島庄兵衞と云しは、享保の頃世に日本左衞門と呼し大盜なり。此人盜せし初念は、不義にして富る者の財物は、盜取ども咎なき理なれば、苦からずと心掟して、その人その家を量りて盜人しとぞ。次第に場數を歷るまゝ、盜の仕方十分手に入、いかなる所へも入れぬことはなきほどになりたり。夫より慾心深くなり、後は義不義の見分をする暇もなく、都合さへよければ、何れの所と定めず、盜に入りけるが、一人も人をあやめたること無りしとなり。年月を經て、官より嚴なる御尋者となりける。一日、庄兵衞京都の町奉行所に、麻上下を着し兩刀を帶して、御尋者の日本左衞門にて候と、玄關まで出ければ、有合ふ同心與力の筆立騷て、門を鎖よ人を集よと、ひしめきければ、庄兵衞云ようは、みづから名のり訴出候者、逃も隱れもいたさず候。御心靜にめし囚らるべしと云。夫より繩かけ吟味に及ぶに、其次第を逐一白狀して聊かも包み匿すことなく、これまで忍入る所凡幾十軒、金銀にて得る所幾千、雜物にて得る所若干と云まで、詳に訴けり。その後如何なる心より自訴せしやと問に、答て云、某は天の網に罹りたれば、迚も遁れられぬ身なりと存、訴出候と申す。さらば其天の網とは如何なることやと問に、御尋者も品々候へども、親殺し主殺しの外、人相書にて御尋のことは候はず。しかるに近頃は某こそ大盜よとて、處々に我が人相書を出て御索あるを、辻々にて見侯。これを天の網と心得申候。もはや逃れがたきこと思ひ定め候へば、人に見出されんよりは、自訴せんと思定めて此如くに候と、申せしとぞ。盜といへども日本左衞門と呼ばれしほどの志はありき。

■やぶちゃんの呟き

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。耳嚢 巻之七 鱣魚は眼氣の良藥なる事には異様に目が良かったことが本人の談話とともに載り、また耳嚢 巻之一 武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。ご笑覧あれ。

「御索あるを」「おさがしあるを」と読む。

2014/10/11

甲子夜話卷之一 10 赤穗の義士大高源吾が小木刀の事

10 赤穗の義士大高源吾が小木刀の事
赤穗の義士大高源吾、復讎の前は身を忍て、按摩醫者となり、米澤町の裏家に住ける。其時常に木作にて、身の無き小脇指をさし、所々に療治に往たり。其小木刀に、自詠の一首を彫つくる。
 
 人きればをれもしなねばなりませぬ
 
      それで御無事な木脇指さす
 
此哥を味ても、始終思はかりたる志は知るべし。但當年見し人の感慨深からざりしにや。
 
■やぶちゃんの呟き
 
「大高源吾」大高忠雄(おおたかただお 寛文一二(一六七二)年~元禄十六年二月四日(一七〇三年三月二十日)。俳人としても知られた。ウィキの「大高忠雄」によれば、赤穂城開城後は大津や京都に住み、『忠雄は大石の信任がかなり厚い人物の一人で重要な局面でよく使者に立てられ』たとある。元禄一五(一七〇二)年秋に江戸に下向するが、この時、『豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より』二十六両を借用、遺作として自ら編した俳諧集「二ツの竹」を下向直前に出版しているが、そこには親交のあった俳諧の師水間沾徳(みずませんとく:其角なきあとの享保俳壇の第一人者。)や宝井其角などの錚々たる俳人が句を寄せている。『江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門』、十二月十四日に『吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決め』ている。『吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では』彼を知る僧侶から一句を求められ、

 
山をさく刀もおれて松の雪
 

の一句を残したという。『江戸幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられ』、忠雄は松平家預かりの浪士十人の最後に切腹の座について、
 

梅で呑む茶屋もあるべし死出の山
 
の辞世を残し、松平家家臣宮原頼安の介錯で切腹した。享年三十二であった。『戒名は、刃無一劔信士。宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている』とある。「逸話」の項にも、其角との交友が記されており、『討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は』餞別と称して、
 
年の瀨や水の流れと人の身は
 
と詠んだところ、忠雄は
 
あした待たるるその寶船
 
と返して、『仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残る。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられ』ているとある。
 
「身の無き小脇指」木製の小脇差し。小木刀。
 
「但當年見し人の感慨深からざりしにや」これは先に示した宮原頼安の感懐を代弁すると言ってもよいのではあるまいか。「人を斬れば俺も死なねばなりませぬそれで御無事な木脇指差す」と狂歌で諧謔したことを知っていた江戸の彼の昵懇と思っていた人々が、そんな彼が実に美事討ち入りを果したことを知った時、その源吾の真意を知った、その感慨たるや、如何ばかりのものがあったであろうか、と静山は感懐しているのである。大事なことは――そこ――である。

甲子夜話卷之一 9 神祖、田舍寺に干菜山十連寺の號を賜はる事

 神祖、田舍寺に干菜山十連寺の號を賜はる事

神祖、武州川越邊御放鷹の時、小庵に立寄せ給ふ。住僧出で迎へ奉る。野僧の質朴や御意に叶けん、御話の御相手となりて、頗御喜色なり。稍ありて僧申上るは、庵貧くして、もとより名もなし。冀は寺號山號を賜りたし、と言上しければ、神祖其邊を見渡し玉ふに、簷に干葉を繩に貫て、その數十掛匿たるを熟視し玉ひ、干菜(ホシナ)山十連寺と稱すべし、との仰にて、寺領の御朱印をさへ賜しとぞ。因て今に此寺相續して、其號を崇稱す。眞にかしこくもその御氣象の快活なること欽仰し奉るべし。

■やぶちゃんの呟き

「放鷹」は「はうよう(ほうよう)」と読み、鷹狩に同じい。

「干菜山十連寺」現在の埼玉県上尾(あげお)市本町にある浄土宗干菜山光明院十連寺(ほしなさんこうみょういんじゅうれんじ)。上尾市公式サイト内の「上尾の寺社 6 十連寺(今泉)」によれば、これは慶長一八(一六一三)年十月のこととする。『将軍職はすでに秀忠に譲っているとはいえ、大御所(おおごしょ)として時の最高権力者の地位にある家康の命名であり、大変珍しいということになる。それにしても、仏教言葉からの寺名でなく、「干菜山」とは軽妙で微笑ましく、すこぶる機知に富んだ大御所であったということになろうか』と記す(「新編武蔵風土記稿」に基づく)。また、同寺には『家康の書簡が残されており、内容はミカンを贈られたことに対する礼状である。あて先が不明で、内容も把握しにくい点もあるが、ここでも食べ物の名が出てくるとは、不思議な縁ということになろうか』と記す。本尊は阿弥陀如来像でk両脇侍像とともに『江戸時代前期の作で、寄せ木造』とあり、造立には本由縁との関連もありそうである。さらに、『本堂の左手奥の墓所には、市指定の文化財になっている柴田氏父子の墓がある。父の名は柴田七九郎(しちくろう)康忠』で、彼は家康の関東入国後に埼玉(さきたま)郡で五千石を給された家康の有力家臣であった。康忠は文禄三(一五九四)年に没して樋ノ口村(現久喜市)に葬られたが、後に子の康長によってここへ移されたとあり、その後、曲折の後に康長が家を継ぎ、寛永元(一六二四)年には武蔵国足立郡(現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区にかけて存在)の大谷領三千石の地を与えられ、向山(むこうやま:現在の上尾市向山。向山神明社境内付近。)に陣屋を構えたとある。康長は寛永一三(一六三六)年に没するが、『十連寺の幕府朱印状はその子康久(やすひさ)の時代に与えられたものである。康久も同寺に土地を寄進している』(「上尾市史第三巻)とある。

耳嚢 巻之九 忿心其身を登揚せる事

 忿心其身を登揚せる事

 

 馬場嘉平次と云(いへ)る者あり。親は紀州の御庶流松平攝津守家の者成(なり)しが、いかなる譯かありけん浪人して、親は一生浪々してあり、永々(ながなが)のたつきなきゆゑ研屋(とぎや)をなして、嘉平次も引續(ひきつづき)研屋はなしけるが、諸武家よりのあつらへもの注文書、又は手紙にも、嘉平次どのと、輕きかたまでしるし越しけるを殘念に思ひ、何卒以前の武士に立歸り度(たし)とて、町人の身分ながら劔術は天心流、柔術はきとう流を稽古し、專ら是に心をゆだねけるゆゑ、甚(はなはだ)困窮なして表店(おもてだな)を仕まひ裏店に入りて母に仕へ、尚かはらず武藝を勵(はげみ)、外(ほか)流儀をも立寄(たちより)て論じ、又は立合(たちあひ)の稽古等致(いたし)けれど、我(わが)稽古せる天心流きとう流は不及申(まうすにおよばず)、いづれの流儀も不面白(おもしろからず)と思ひければ、兼て心安く立入(たちいり)、深切に世話もなしける尾州の御家來四の宮(しのみや)與野右衞門(よのゑもん)へ相談しけるは、流儀を替(かへ)て精を出さんと存(ぞんじ)、いづれの流儀然(しかる)べき哉(や)と申(まうし)ければ、四野宮大(おほき)にあざ笑ひて、其方(そのはう)は志しある者と思ひて是まで心安くなしたり、其身の志(こころざし)たちなば、なんぞ流儀の能惡(よしあし)しに寄(よら)んや、右(みぎ)體(てい)心(こころ)定(さだま)らざる者は以來(いらい)知人をかえし候、必(かならづ)以來は來るまじと申ければ、詮方なく立別(たちわか)れしが、四野宮が言葉に奮怒して、夫(それ)より一途に精心をこらし修行しければ、果して其妙を得て後(のち)は門弟も多く、兩三人の諸侯よりも是を師と尊崇なしける。其時一通りならば、他の地面へも引移(ひきうつ)りむかしを可隱(かくすべき)なるに、四ツ谷にて最初三百店(さんびやくだな)をかり請(うけ)くらしける近所にて、三百兩の屋鋪(やしき)を求め武藝の師範をなしけるが、其節に至り四野宮方へ至り、御身の一言、誠に我身の藥なり、今は斯(かく)の身分にはなりぬ、是迄は忝しと思へども、禮にも不至(いたらず)、今日禮に來りしと、厚く謝しければ、四野宮も殊外(ことのほか)悦びて、古へに倍して厚く交りけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、こちらは痛打の一喝への忿怒が奮起を促して立身出世するという本格武辺物ではあるが、なんとなく畸人譚ぽく繋がって読める。

・「忿怒」「ふんぬ」で憤怒に同じい。

・「馬場嘉平次」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「馬場嘉平次治」とする。不詳。

・「研屋(とぎや)」のルビは底本の鈴木氏によるもの。

・「紀州の御庶流松平攝津守」松平義居(よしすえ 天明五(一七八五)年~文化元(一八〇四)年)。但し、「紀州の御庶流」は誤り(後述する)。美濃高須藩第八代藩主。ウィキの「松平義居」によれば、一橋徳川家当主徳川治済(はるさだ/はるなり)七男で第十一代将軍徳川家斉弟であった。寛政七(一七九五)年七月の徳川重好の死去により、『治済は義居を清水家の後継者に送り込むことを考え』たが、『松平信明ら幕閣の反対により、実現できなかった。なお、治済は義居をなるべく江戸に近い大名の養子にすることを希望していた』という。寛政八(一七九六)年三月一日に美濃高須藩第七代藩主松平義当(よしとう:彼は尾張藩主徳川宗勝五男でそこからの分家であるから本文の「紀州の御庶流」というのは「尾州の御庶流」でなくてはならない。誤り。訳では訂した。)の養子となり、寛政一一(一七九九)年九月に将軍家斉に御目見、同年十二月十八日に従四位下侍従・摂津守に叙任される(満十四歳)。享和元(一八〇一)年九月二十七日、養父義当の死去により家督を相続したものの、三年後の文化元(一八〇四)年)十月十六日に享年二十で死去したとある。ところが「親は紀州の御庶流松平攝津守家の者成)しが」とあることから、この馬場嘉平次の父親というのはこの義居が義当の養子となった寛政八(一七九六)年以降の家士であったと考えるのが自然なのであるが、そうだとすると「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるからそこから逆算してもたった十三年前のことで、しかも文化元(一八〇四)年に義居は亡くなっているのだから、実はその間のたった五年の閉区間で馬場嘉平次の父は浪人したことになる(寧ろ、義居の逝去がその理由だったと考えると分からぬではないが、それだと――根岸がこの話を聴いた時までに、無収入の浪人が有意に永く続き、生活に困窮、仕方なく刀剣の研ぎ師となり、その父が死に、嘉平次も父の後を継いで研ぎ師となり、母の世話しつつ、有意に時間が経過して、あまりに蔑まされた扱いにやってられなくなって武士に戻ることを決意し、いろいろあったが遂には本懐を遂げた――という経緯が文化元年から文化六年の四年ほどの短期間に起らねばならなくなり、これは明らかに無理がある)。妻子があってそう簡単に脱藩浪人するというのはこれも考え難いから、家士となって三年ぐらいは経ってからの、何らかの不始末からと一応仮定してみると、父は十年程前に浪人となり(当時嘉平次は十五歳ぐらいと仮定する)、それから一、二年で生活が困窮、研ぎ師となったが、浪人から五年後ぐらいで父は亡くなってしまい(その前から父の手解きを受けて研ぎ師を父とともにやっていたとする。当時二十歳ぐらい)、その後の五~八年で本話の経緯があったとするなら、嘉平次は当年二十五~二十八歳ほどで無理がないように思われる。後に出てくる四野宮与野右衛門なる人物が比定出来ればもう少し、この嘉平次の年齢も限定出来そうなのだが。

・「諸武家よりのあつらへもの注文書、又は手紙にも、嘉年次どのと、輕きかたまでしるし越しける」武士階級にあって「殿」は「様」の下の二人称(通常は大名・旗本に対するものであったが、それ以下でも広く武士間で対等な敬称として使用されている)であり、しかも男が出すものでひらがな書きの「どの」というのは、最低の形ばかりの敬称或いは小ばかにした添え書きでさえある。

・「天心流」寛永年間(一六二四年~一六四五年)に柳生宗矩門人時沢弥兵衛が新陰流から学んで創流した抜刀術・剣術の流派(他にも薙刀術・素槍術・十文字槍術・鎖鎌術・柔術などを含む)。

・「きとう流」江戸初期に開かれた柔術の流派である起倒流。ウィキの「起倒流」によると、『天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった流派として知られる。現在、起倒流竹中派の形が講道館柔道において古式の形として残っており、起倒流備中派(野田派)も岡山県で伝承されている』。『愛知県で伝承されている棒の手の流派に同名の起倒流がある。この流派は、天正年間に尾張国那古野(現・名古屋市西区)に住んでいた起倒治郎左衛門が祖と伝えられ、棒の手以外に槍、長刀、鎌、十手、組討がある(以前は取手もあった)が、当流との関連は不明である』。『流派成立時の歴史については諸説があり、定かではないが、福野正勝(福野七郎右衛門、諱は友善とも)と茨木俊房(茨木専斎)が興した武術、武芸が端緒となる。二人とも新陰流(柳生新陰流)および柳生氏と関わりがある』。『また、福野正勝は江戸の国昌寺にて明国人の陳元贇より中国の拳法について教わったとも伝えられ、石碑が東京の愛宕神社にある』。『福野正勝は良移心当和を興し、茨木専斎は自身の兵法を「乱」と名付けて沢庵和尚に書して話したところ起倒流とされた』といった説、『福野正勝の門下に寺田頼重(寺田八左衛門)(福野流)がおり、その甥の寺田満英(寺田勘右衛門 諱は正重とも)はこの叔父から福野流を学び起倒流組討を称した。同時に、寺田満英(寺田勘右衛門、前の諱は正重)は父の寺田安定(寺田平左衛門)から貞心流を伝えられ、直信流の流祖ともなっている』とある。以下、「技術的特徴」の項。『組討、柔術のほか、早縄なども含まれた。以下は吉村扶寿の系統の特徴であり、起倒流乱(古起倒流、上記)はまた違った技術を伝えていた』。『技術的特徴として、技は鎧組討で用いるための投げ技が中心である』。『伝承の中心は『人巻』の中の表十四本裏七本の鎧組討を想定した形であり、そのほとんどが最後に捨て身技(分れ)か自分の片膝を地面に着けて(片膝を折敷いて)相手を後ろに倒すかで表される』。『『人巻』の中の目録に掲げてあるように、表十四本裏七本の形の後は柄取り、小尻返し、諸手取り、二人取り、四人詰め、居合(居取りのこと)といった柔術にあたる業(わざ)や要訣も伝えていた。柄取、小尻返の二つについては「此二カ条ヲ以テ先師三代ノ勝口ヲ可勘」との口伝がある。当身については「中」、「中り(あたり)」と称して陰陽中や五行中など各種の教えがあった。また、水野忠通『柔道秘録』によれば、甲冑を実際に身に着けて行なう組討の形が五つあり、相手を組み敷き短刀で首を取る形や組み敷かれた時に短刀で反撃する方法の伝承もあったことがわかる。当て身についても実際は目鼻の間などをあてるが稽古の上では当てずに額を押すようにするなどとしていた、とある』。『起倒流の十四形(表)と七形(裏、無段)の稽古はある段階からは形の残り合いなどと言い、技の掛かりが甘ければ投げられる側が反撃するような、形と乱取の中間のような稽古方法をとった』とある。

・「四の宮與野右衞門」底本注で鈴木氏は、『尾張藩の中遠流砲術家四宮氏は代々元衛門と称した。この一族か』とされ、岩波版で長谷川氏は、この四宮『元衛門兼豊・幸右衛門兼正の次代の者であろう』とされる。人物が特定され、生没年が明らかになるのはもう一歩と思うのだが。

・「三百店」店賃(たなちん)がたった三百文程度(当時の米一升の小売価格は百二十文)のごく安い粗末な借家をいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 憤怒がその身を立身させた事

 

 馬場嘉平次(かへいじ)と申す者がおる。

 親は尾張徳川家の御分家であらせらるる松平摂津守義居(よしすえ)殿の家士であったが――いかなる訳かは知らねど――浪人して、父親は結局、その後ずっと永く生業(たつき)なきままに浪々、遂には困窮の極みに至って、苦し紛れに始めたが刀剣の研(と)ぎ屋、それを若き嘉平次も手解きを受け、その後に父が急死致いてからも、引き続いて研ぎ屋を営んではおったものの、いろいろな武家衆よりの刀剣研ぎの注文書や依頼の文(ふみ)にも、

――嘉平次どの

なんどとあり……いや、それどころか、本来ならば彼よりも遙かに身分の低い者からのそれらに至るまで、

――嘉平次どの

と書き記して送って参ったればこそ、これ、武士として、

『……まっこと……残念至極!……』

と常々思うておったれば、遂に、

『……何卒! 父以前の、武士に戻らんとぞ思う……』

と、町人の身分ながら、剣術は天心流、柔術は起倒(きとう)流を稽古致いて、その道にのみ心を砕き、無心一心にその稽古にのみ専心したところが、あっという間に、はなはだ困窮なし、辛うじて研ぎ屋として表通りに構えて御座ったお店(たな)をも仕舞わざるを得なくなって、裏長屋の軒に「とぎや かへいじ」と書いた板切れをぶら下げた、狭き屋に移って、そこで母の世話をなしつつ、それでもなお、変わることのぅ、日々、武芸に励んでおったと申す。

 他(ほか)の流儀の道場を見つけては、立ち寄って術や手技に就いて論じ合い、時よっては立ち合いの稽古なんども致いて御座ったれど、

『……どうも……最近……我らが稽古致いておる天心流やら起倒流やらは、これ、いい加減知り尽くしたよって、言うまでもなく……この辺りの知れる孰れの流儀の道場にても手合わせ願ってはみたが……これ……どれもこれも……面白うないわ……』

と思うたによって、かねてより心安く立ち入っては、親切にも世話なんどまで成し呉れて御座った朋輩の尾張藩御家来四野宮与野右衛門(しのみやよのえもん)殿へ相談に訪れたと申す。そこで、

「……という訳にて……ともかくも何か、こう――ぴんとくる――流儀へと鞍替え致いて、心機一転、精を出ださんと存じたによって……貴殿のことなれば、江戸表に御座る我らが知らざるところの孰れの流儀、これ、拙者に相応しきものと思わるるかのぅ? 一つ、御意見を伺いたく参上致いた。」

と申し述べた。

 すると、四野宮、これ、大いに嘲り笑うと、

「――その方(ほう)は――真っ直ぐなる志しのある者――と思うておったによって――今日まで心安く致いておったが――そもそもが――身の志しさえ立派に成し遂ぐることが出来たとなれば――なんぞ――武術流儀の良し悪しなんど――これ、問題になろうかっ?!――最早、そのようなことは些細にして下らぬ分別となるは、これ、言を俟たぬ!――さればそのように――心のふらつき――定まらざるような輩は以後、絶交の言いを返さんとする!……必ずや、向後一切、我らが元へは遠慮なされいっ!」

と、言い放った。

 されば嘉平次、詮方のぅ、立ち別かれ、四野宮が屋敷を辞しはしたものの、帰り道から四野宮のあまりの物言いに、むらむらと憤りが増して参り、長屋にたち戻った頃には怒髪天を衝き、一夜明けても、その怒りは冷めやらずあったと申す。

 さればまさにその日より、さらに一途に猪突猛進の精心(せいしん)を凝らし、鬼の如き修行をば、し続けて御座ったと申す。

 するとはたして、その修行の凄さ神妙なりと申す噂を得、瞬く間に門弟も多く出できて、併せて三人にも及ぶ近隣諸侯からも、直接に指南の招請を受けて、孰れの殿様方からも、この馬場嘉平次を師と尊崇するに至って御座ったと申す。

 さて、これが普通ならば、住まう所も、かつて住んで御座った場所から引き移し、過ぎし日の賤しき生業(ありわい)やおぞましき暮らしについては、これ、隠すが常套ならんに、嘉平次は、もともと居ったる四ッ谷の――かの最初、蚤虱蠅に蛆湧く三百店(さんびゃくだな)を借り受けておったるその――近所にて、三百文ならぬ、三百両にて屋敷を求め、類い稀なる剣士として、武芸師範の道場を構える仕儀と相い成って御座った。

 その頃になってやっと、嘉平次、四野宮が方へと参り、

「……御身(おんみ)の一言(ひとこと)……まことに我が身の薬にて御座った。……今はかくなる身分には相いなること出来申した。……これまでも実はずっと……『忝きことであった』……と思うて参ったれど……まずは……我らの志しの確かに腑に落ちんまではと……敢えて参上仕らず……今日に至って……やっと御礼を致すに相応しき心身(しんしん)の定まりましたによって……かくも御礼を致さんものと参上致して御座いまする。」

と、心を尽くして謝した。

 すると、四野宮も、これ殊の外に悦び、それより今に至るまで、かつての倍して親しゅう交わっておるとのことで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モース陶器に魅了さるる語(こと)

M502

図―502

M503

図―503

 人が如何に徐々に、そして無意識に、日本の芸術手芸品に見出される古怪な点、変畸な点を鑑賞するようになるかは、不思議である。勿論芸術家は即座にその美を見わけるし、また誰でも刀剣の鍔(つば)その他の美しい細工には、感心せずにはいられない。然し、一例として、日本人の陶器をあげると、それには写生風の模様がついていて、形は不規則で態々(わざわざ)へこませたりし、西洋人が見慣れている陶器とはまるで違うので、一体そのどこに感心してよいのやら、人には見当もつかない。だが彼をして、蒐集を開始せしめよ。若し彼が生れつきの蒐集家ならば、彼は必ず茶入その他の陶器の形態に、夢中になるであろう。私は小さな蒐集を始め、最近二つの品をそれに加えた(図502・503)。一つは醬油入れである。これは織部の赤津で、もう一つのは薩摩の土瓶である。二つともすくなくとも百五十年前のもの、或はもっと古いかも知れない。これ等を取扱っていると、実に気持がよく、そしてこのような宝物を、最も簡単な小骨董店で見出す面白さは、蒐集家の精神を持つ者のみが真に味い得るところである。骨董蒐集家にとって、日本は本当の天国である。彼はどこへ行っても、フルイ ドーグヤと呼ばれる古物商の店に、陶器、金属及漆塗の細工、籠、刀剣、刀剣具その他あらゆる種類の古物が並べてあるのを見る。人力車で過ぎる、最も小さな村にさえ、古い物を僅か集めた、この種の店は見受けられる。我国の古物商が、古い家具、古い本、古い衣類等に限って売り、骨董品を含む店は、大都市中の若干にしか無いという事実を、思い浮べぬ訳に行かない。加之(のみならず)、日本の店にある品は、僅かな例外――支那及び朝鮮から来たもの――を除いては、国産品であるが、米国にある品は、必ず欧洲かアジアから来たもので、例えばオランダのデルフト〔十四世紀の当初オランダのデルフトで創製された陶器〕、イタリーのマジョリカ〔十六世紀頃イタリー人がスペイン領マヨリカ島から持ち帰った陶器〕、ドイツの鉄細工といった具合である。我々自身の国で出来たものに、保存しておく価値を持つ品が見当らぬというのは、意味の深い事実である【*】。

 

* もっとも最近三十年間に於て、国内の芸術、工芸運動、並に多数の窯が、芸術的の陶器を産出しつつあるから、将来の骨董店は、「米国製」の芸術品を持つようになるであろう。

[やぶちゃん注:「織部の赤津」原文“Akatsu, Oribe;”。現在は赤津焼(あかづやき)と濁るのが正しい。瀬戸焼の内で瀬戸市街の東方にある赤津地区で焼かれる焼物をいう。参照したウィキ赤津焼」によれば、『瀬戸窯とともに発展した窯で平安時代の開窯とされ、当地には室町時代の窯跡である小長曽陶器窯跡が残る。戦国時代、瀬戸では「瀬戸山離散」と呼称される窯屋の急激な減少が発生し、多くの窯が美濃地方に移った』。慶長一五(一六一〇)年)になって『尾張藩初代藩主・徳川義直が当時の赤津村に陶工を集めて瀬戸窯の復興を図った(窯屋呼び戻し)と言われていたが、近年では現存する資料から徳川家康が名古屋開府に合わせて窯屋を呼び戻したものとされている』。また、元和二(一六一六)年には名古屋城に赤津から陶工を呼び、御深井丸に窯を築いた。これは明治四(一八七一)年の廃藩置県に伴い、廃止されたが「尾州御庭焼」として知られており、『この御庭焼への出仕を通じてそれまでの赤津焼には無かった安南風の呉須絵の技術が陳元贇より伝えられ、現在では「御深井釉」と呼ばれている』。文化四(一八〇七)年、『加藤民吉によって瀬戸に磁器の製法が導入されたが赤津では定着せず、現在に至るまで陶器を主体としている』。七種の『釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)と』十二種類の『装飾技法が今に伝わ』るとある。

「薩摩」ウィキ薩摩焼より引く。『鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系がある。主な窯場は姶良市の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。初期の薩摩焼においては豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、捕虜として連行されてきた朝鮮人が島津義弘の保護の下に発展させた』。以下の種類がある。

   《引用開始》

白薩摩(白もん)

日置市の旧東市来町の美山にある苗代川窯で焼かれていた陶器。藩主向けの御用窯で、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が主である。元々は苗代川焼と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた。

黒薩摩(黒もん)

白薩摩に対して、大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器で、鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなる。特に、黒ヂョカ(茶家)と呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに用いられる。

   《引用終了》

これ以外に、「京薩摩」「横浜薩摩」といって、『幕末から明治初期に掛けての京都で、欧米への輸出用に、より伝統的な日本のデザインを意識し、絵付けされた京薩摩が作られた。横浜や東京で絵付けされ、横浜港から輸出されたものは横浜薩摩と呼ばれた』とある。

「フルイ ドーグヤ」原文は“furui doguya”。底本では直下に石川氏の『〔古道具屋〕』と云う割注が入る。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モース盆栽枯木に花の咲くを見て驚愕せる語(こと)

M500

図―500

M501

図―501

 

 この季節(一月)に見受ける、矮生の梅の木には驚かされる。招待されて庭園へ行くと、いろいろな大きさの植木鉢の中に、枯死した株と思われる、蕾も芽も、けはいだに見せぬ、異色の木塊がある。数週間後、再びその庭を訪れると、これ等の黒い珠から、最も美しい花をつけ、緑の葉はまるで無い、長くてすんなりした枝が出ている。かかる、何ともいえず美しい色をした花と、それを生じる、黒くて見受ける所枯れた株との対照を見る人には、このような奇観をつくり出し得る庭園師の技巧に、吃驚(びっくり)せざるを得ない。図500に示すものは、樹齢四十年である。これは、このように生長するべく、訓練されている。あたたかい場所にかこっておくので、戸外に於る木よりも、余程早く花が咲く。松の木もまた図501のように、太い松の木から葉を出すように仕立てられるが、普通の矮生樹は、高さ三フィートの、百年にもなる本当の松で、枝でも何でもある。

[やぶちゃん注:「かかる、何ともいえず美しい色をした花と、それを生じる、黒くて見受ける所枯れた株との対照を見る人には、このような奇観をつくり出し得る庭園師の技巧に、吃驚(びっくり)せざるを得ない。」やや日本語としておかしい。

「かかる、何ともいえず、美しい色をした花と、それを生じるところの――黒くて、見受けるところ、枯れた――株との、その対照を見る人は、このような奇観をつくり出し得る庭園師の技巧に、吃驚せざるを得ない。」

とすべきところであろう。

「三フィート」九十一センチメートル。]

 
 二月二十八日。梅の真盛りである。この花は普通濃い桃色か薔薇(ばら)色で、いい香をはなつ。行商人は売物の梅の小枝や枝を持って、家から家を歩き廻る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 純和風の昼食

499
図―499

 ここ数週間私は、昼飯を研究室で日本風に食っている。一度ためして見た所が、この昼飯は中々上等で、私はそれを蛇や虫や頭蓋骨が積み上げてある、大きな机の一隅で食わねばならぬのだが、私の食慾は一向周囲の状況に影響されない。木製のバケツには煮た米が入り(図499)、木製のシャベルは、それをしゃくい出すのに使う。またやわらかくて美味な、焙った魚――真鯵(まあじ)――の大きな切身と、塩漬にした薑(しょうが)と大根との薄片、及び何かの青い葉の束とを入れた、別の皿がついている。箸の使用法を覚え込んだ私は、それを、およそ人間が思いついた最も簡単で且つ経済的な仕掛けとして、全世界に吹聴する。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 うひゃあ!

 私の学生の一人が私に、以前には若し人がお城の堀に落ちて瀞死すると、その死体を引き上げることは禁じてあった。それは、秘密にしてある水の深さが判る懼(おそれ)があるからだと話して聞かせた。このことは、確めはしなかったが、本当かも知れない。もっとも私は疑を持っている。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の成人の扁平脛骨について

 先日大森の貝墟へ行った時、私は人間の脛骨の大きな破片を発見した。これはブロカの板状脛骨に於て指示された如く、六〇の指数を以て側面に平べったくなっていた。現在の日本人の脛骨の指数は、我我のと同じく七六である。これによって、堆積物が、かなり古いことが知られる。

[やぶちゃん注:「ブロカ」フランスの医師・解剖学者で人類学者ピエール・ポール・ブローカ(Pierre Paul Broca 一八二四年~一八八〇年)。彼に因んで名づけられた前頭葉の言語野ブローカ中枢の、あのブローカである。彼は頭骨人体測定学(形質人類学)を発展させたが、そこで彼が示した骨の形質・突起に関わる指数の一つが「ブロカ」を指数単位として用いられている。ダウンロード可能な考古学の専門論文を管見すると、発掘された古代人の頭骨の細部比較に、このタイプ(外後頭隆起ブロカⅡやⅣ等)がかなり盛んに用いられているのが分かる。

   *

 以下、少々長い注になるので改行を施す。

「板状脛骨」原文は“platycnemic tibia”。現在は「扁平脛骨」と和訳されるようである。これはヒトの脛骨の一形状を表現するもので、骨体が前後に長く扁平なものを指す。脛骨切断面の骨体中央部左右 (横) 径と,前後(矢状)径との百分率(脛骨扁平示数)をとったもので、扁平の度合いを表わす。この特徴は末期のネアンデルタール人類に現われ始め、後期旧石器時代から新石器時代の新人類に最もよくみられ、逆に現代人になると殆ど見られないという特徴を持つ(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

 東京大学大学院公式サイト内の近藤修生物科学専攻准教授の「モースの大森貝塚発掘原図」に、大森貝塚のモースの発掘に関わる記載があり、そこで近藤氏は、『この発掘調査が日本の人類学・考古学に大きく貢献したことは間違いない。本邦初の貝塚調査であるという学史的な意味でも重要であるが,それよりも,当時の日本人がほとんど考えてもみなかったような有史以前の石器時代人の生活の痕跡が,東京の郊外に残されていたという事実を内外に明らかにしたという点で,大きな意義をもっていた』とされ、『モースが大森貝塚で発見した人骨はすべて断片的な散乱人骨であったが、彼はそのなかの一片の脛骨の破片の形に注目した。それは横断面の形が現代人のように三角形ではなく、前後方向に長く幅がやや狭いという特徴をもっていた(図[やぶちゃん注:リンク先参照。])。これは「扁平脛骨」とよばれる特徴で、当時、北米の貝塚人骨やヨーロッパの先史時代の人骨によく見られる特徴として知られていた。いまでは縄文人の骨格の特徴のひとつとして定着している。彼はまた、貝塚の中での人骨の出土状態がまったく不規則であり、シカやイノシシの骨と一緒に、しかも割れた状態で見つかること、中には傷のついたものもあることに注意し、アメリカインディアンの場合などを例証として、食人の風習があったのではないかと考えた。ただ、こういう風習が日本人についてもアイヌについても知られていなかったため、大森貝塚を残した種族は,日本人でもアイヌでもない、未知の種族であった可能性がある、と述べている。これは、今日までつながる、「日本人の起源」に関する議論へと展開していった』と述べておられる(コンマを読点に変更)。この脛骨断面の比較は東京大学創立百二十周年記念東京大学展「学問の過去・現在・未来 第二部 精神のエクスペディシオン」内の論文、同大学院理学系研究科木村アムッド人とその人類進化上の意義の中にある[挿図9]の『脛骨栄養孔位断面図』(Endo and Kimura 1970, Trinkaus 1983 改写)が非常に分かり易い(但し、解説では、ネアンデルタールなどの旧人が『前後径と比べて横幅の広い断面をも』ち、クロマニヨンら新人は『前後に長く横方向から見て扁平な断面をもつ』と、「扁平」という表現が異方向から成されているので注意を要する)。

 岩波文庫版近藤義郎・佐原真編訳「大森貝塚」(一九八三年刊)によれば、大森貝塚で発見された脛骨は一本だけで、発掘した人骨リスト(全標本数十九。ちなみに他の内訳は上腕骨破片三・尺骨破片二・橈骨破片一・大腿骨破片八(内、女か子供のものと推定されもの三)・右腓骨破片一・右第五中足骨破片一・左下顎骨一・左頭頂骨一)によれば、

 成人右脛骨 破片長百三十五ミリメートル 骨幹上部部分

である。そうして、この脛骨が特に調査され、「大森貝塚」で「扁平な脛骨」として一章を成している。非常に長いが、モース本人の記述本文の内容を学術的(当時のレベルでの)に本人の記載で補完するものであるので、以下にどうしても引用したい。著作権(翻訳権)に抵触するということであれば取り下げる用意があるが、私は、それは英語のろくに出来ない私のような人間に対する――アカデミズムの猥雑なる智の差別である――と思う人種であると述べておく。また、ネット上には同訳書を私と同程度に引用されているアカデミストがいる。私が著作権侵害ならば、またその方も同様ということになるであろう(勘違いして貰っては困るが、私はその方のサイトを贔屓にしている)。なお、図については文化庁が保護期間満了の絵画的平板物をそのまま平板に写したものに対しては著作権は生じないと断じている。まず、附図を掲げておく。[ ]で示したキャプションも訳文のものである。

   《引用開始》

[扁平脛骨の横断面]

Hennpeikeikotu

[挿図1武蔵大森] [挿図2肥後大野村]

 

    扁平な脛骨

 

 人の脛骨の破片を特に調べた。大昔の人の脛骨が現代人のそれと比較して著しい偏差を示すからである。

 この偏差とは、脛骨骨幹の横方向の扁平をいう。原始人ではこの変形が広く認められるため、新しい学術上の名称が作られることとなった。横方向に扁平なこの脛骨は扁平脛骨という名で知られている。

 これは、ヨーロッパの大昔の塚や洞穴でしばしば認められるものであるが、ワイマン教授はケンタッキー・テネシー・カリフォルニア・フロリダ・ラブラドルその他の土地の大昔の塚でそれを観察している。また、ヘンリー・ギルマン氏はミシガンの貝塚で著しく扁平な脛骨を発見した。

 ワイマン教授の観察によると、脛骨の扁平さは種族的な特徴でなく、先史時代の全種族に共通する現象らしい。

 大森における発掘では、幸い他の人骨とともに脛骨の骨幹部分をひとつ得ることができた。

 脛骨には人によって違いがあるから、単一の例をここでしめしてもほとんど意味がない。しかし、その比率の計測値をかかげてワイマンがフロリダの貝塚の報告でしめした数値とくらべると興味深いだろう。前後の径を一・〇〇とすると、横の径は白人(現代人)一二例では〇・七〇、フロリダの貝塚出土の一二例では〇・六四、ケンタッキーの貝塚出土の七例では○・六三、大森貝塚の一例では〇・六二となる。

 フロリダの貝塚では〇・五九という低い値をしめすものも別にあったし、ギルマン氏はミシガン州ルージュ川畔の一月壕で〇・四八という極端な扁平度をもつ脛骨を発見している。この後者の脛骨はブロカによる有名なクロマニヨンの脛骨の値をはるかにしのいでいる。大森例は〇・六二の値をしめし、扁平脛骨の好例とみてよい。任意に選んで計測した現代日本人九人の脛骨の平均値は〇・七四、その最小値は〇・六八四で、これと較べると、大森例はいちじるしく扁平である。

 脛骨扁平は、高等猿類にも特徴的である。しかし、ワイマン教授が正しく述べているように、絶滅した猿に似た性格をしめすものは、脛骨の横方向の扁平というよりむしろ角の丸味と骨幹の前方への屈曲とである。大森の脛骨はこの性質を著しくもっている。

 この特徴は横断面扁平とともに大森の骨にいっそう大きな重要性を与えており、それとともにみいだされた遺物がかなり古いことの一証拠と見なしてよい。

 このようなことを書いてのち、私は肥後の国の広大な一貝塚を調査した。

 哺乳類の骨は多くはなかったが、四〇片ほどみいだし、うち半数以上は人骨だった。人骨はすべて割れており、堆積層のあちこちに無秩序に散乱していた。幸いにも脛骨の破片も若干みつかった。これらはいずれも扁平である。その一例は〇・五二という数値をしめす極度の扁平さでこれまで記録されたもののうち、最低の一例である。

 同貝塚の人骨は、筋肉付着面を形成する骨性隆線の荒さと突出の状態が著しい。

 この貝塚とその土器その他についての記述は、将来紀要の一冊に発表する予定である。

   《引用終了》

 なお、最後から三つ前の段落中の、「その一例は〇・五二という数値をしめす極度の扁平さでこれまで記熟されたもののうち、最低の一例である。」の「〇・五二」については、底本編者が『原文では五〇・二とあるがミスプリントだろう』と注を附され、以上のように訂正されているので注意されたい。なお、形式主義的に一章分全部の引用は不可とされぬように、本脛骨記載とは無関係の最後の一文(本貝塚について将来紀要として発表予定とする内容)を省略してある

 因みに、モースの主張したプレ・アイヌであったとする大森貝塚人の食人風習(「大森貝塚」に一章を設けて詳述。これは明治一二(一八七九)年一月十五日に東京での帝国大学生物学会で発表され、剃年一月十八地附『トウキョウ・タイムズ』に原稿が掲載されたもの)についてもう少し細かく述べると、発掘した人骨には人為的に筋肉を引き剥がそうとする場合に相応の傷が生ずると推定される筋肉の附着箇所に著しい削痕や切創痕(一部には有意に深い切り込みがある)があること、割れ方の中には明確に人為的と観察されるものがあることを挙げ、これらがフロリダの貝塚で北米インディアンの食人風習を証明したジェフリー・ワイマン(ハーヴァード大学解剖学教授で考古学者でもあり、アメリカに於ける最初の貝塚発掘をした研究者としても知られ、モースは彼弟子として発掘に同行してもいた。ここは磯野直秀「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」三〇~三一頁に拠る)としてモースのの推断と一致するとある。またモースは最後に日本の南部の貝塚(熊本の当尾(とうのお)貝塚を指す)でも食人風習の顕著な証拠頗る多く発見したとも述べている(前掲「扁平な脛骨」引用の「肥後国の広大な一貝塚」と同じ。ここまでは岩波文庫版「大森貝塚」の訳を参考に概括した)。現在、この貝塚人の食人が一般的であったという説は否定されている。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『しかし食人の形跡がまったく無いわけでもなく、まれには儀礼的な食人もあったと』する(西岡秀雄・『史誌』十三号・一九八〇年)。但し、『モースたちが大森貝塚で発掘した人骨を検討した人類学者鈴木尚氏によると、切創や削痕と断定できるものはな』く(鈴木尚『人類学雑誌』五十三巻・一九三五年)、『最近の現地再発掘で出土した人骨にも食人の跡は認められていない。百年前は古代人の埋葬習慣などの詳細がわかっていなかったし、加えてモースには貝塚研究での恩師ワイマンの食人説が強い先入観になっていたから、それに従ったというところだろう』と述べておられる。

 私は個人的に儀礼的乃至呪術的食人(死者の霊力や性格などを吸収したり、愛情表現から死者と同一化したり、邪悪な霊の骸への進入を許さないために、死んだ近親や敵などを食べるケース)を野蛮とは考えない。本邦の我々の祖先が食人をしていたとしても私は何ら、違和感を感じない。寧ろ私は近現代に於ける戦争による大量殺戮の方が遙かに換喩的にカニバリックで救いようがないほどに野蛮な行為であると考える人種なのであるが、ともかく、この本文ではモースは食人の問題に触れていないので、この問題はここでは、これまでとしておく。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 95 鳩の聲身に入みわたる岩戸哉

本日二〇一四年十月 十一日(当年の陰暦では九月十八日)

   元禄二年八月二十八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年十月 十一日

この日、芭蕉は中山道の宿駅とし知られた美濃國不破郡赤坂町(現在の大垣市赤坂町)にある金生山(きんしょうざん)山頂の真言宗金生山明星輪寺宝光院を訪ねている。同寺は明暦三(一六五七)年に大垣藩藩主戸田氏信によって戸田氏祈禱所とされて大いに賑わっていた。境内には奇岩怪石多く、本堂である奥ノ院は洞窟を内陣に取り込んだ造りとなっていて、そこに役行者作と伝える虚空蔵菩薩を本尊として祀っている。

 

  赤坂の虛空藏にて

   八月廿八日 奥の院

鳩の聲身に入(しみ)わたる岩戸哉

 

[やぶちゃん注:「漆嶋」(白川編・宝永三(一七〇六)年自序)に載る。幽邃寂寞の山寺の鳩の「しみわたる/岩戸」に芭蕉が山寺の蟬の静寂をフラッシュ・バックさせていることは間違いない。山本健吉氏は本句を藤原俊成の名歌「夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」のインスパイアとされ、『身に沁む鶉の声は、俊成の名歌で一般化した。芭蕉がここで鶉を鳩に変えたところが新しみといえば新しみであろう』と評しておられるが、果たしてそんなもんか? じゃあ、何故、「閑かさや」の評釈で鶉を蟬に変えたと評されないのであろうか? 凡愚な私には訳がわからないね。]

2014/10/10

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 梯子

M498

図―498

 梯子の構造は興味がある。両側は丈夫な竹で、この竹は中央から両端へかけて外側へ開き、かくて立つ場合、土台になる部分はより広く、上には張開(はりひらき)がある(図498)。この方法で梯子は非常に力強くされている。桟(さん)は支柱に、しつかり縛りつけてある。我々の梯子は両側の部分に穴をあけるから、自然弱いものになる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 雪

M497
図―497

[やぶちゃん注:底本の図と原本のそれとでは表示角度が異なる(底本では繩の頂点が真中心の頂上にあり、これだとどうもこれでどう雪を掻くんだろうと怪訝に思わせてしまう)。今までのものにもあったが、ここではその違いが大きくイメージを変えているので、原本の角度に補正したものを掲げることにした。]

 今年の冬、時々雪嵐があったが、人力車夫は一向雪を気にしないらしく、素足でその中をかけ廻り、立っている時には湯気が彼等のむき出しの足から立ち昇って見える。不思議なことだが、家屋も、夏に於ると同様、あけっぱなしであるらしい。子供達も夏と同様に脚をむき出し、寒さを気にかけず、雪の中で遊んでいる。雪嵐の後では人々が、鋤や板や奇妙な形の木製の鋤を持って現れ、それぞれの店や家の前の道路全面の雪をかき、その雪は道路の横を流れ、通常板で蓋のしてある溝の中へ入れる。図497は一枚の板の末端に繩の輪をつけて取手とした一時的の雪鋤である。雪は湿気を含んでいるので、子供は米国の子供がするのと同じ様に、それをまるめて大きな玉をつくり、また次のようにして大きな玉をつくる競争をする。小さな棒二本を、糸の末端で十文字に結び合わせ、これを湿った雪の中で前後に振り、雪がそれ自身の重さで落ちる迄に、どれ程沢山集め得るかをやって見るのである。

[やぶちゃん注:雪鋤や子供の雪玉製造機は今は見掛けぬものだが、何となくなるほどと思わせる。今度、雪が降ったら、やってみよう。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 石ワリ貝(イシマテ)

【和品】[やぶちゃん注:原本は「同」。]

石ワリ貝 筑紫ノ海濵石中ニアリワリテトル色淡白ナ

リ大サ魁蛤ノ如シ殻厚シ殻ノ文理横ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

石わり貝 筑紫の海濵石中にあり。わりて、とる。色、淡白なり。大いさ、魁蛤のごとし。殻、厚し。殻の文理〔(きめ)〕、横にあり。

[やぶちゃん注:大きさや形状に若干の不審はあるが、斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イシマテLithophaga curta と考えてよいであろう。現在でも「イシワリ」の地方名を持つ。他に「ヒミズ」とも(岩石穿孔性から「陽見ず」)。ウィキイシマテ」によれば、殻高六〇~七〇ミリメートルで、ほぼ円筒形をしており、後縁はやや丸みを帯びる。殻は薄いものの、薄茶や黒の厚い殻皮を被っている上、更にその上から白っぽい石灰質が沈着するために汚れた印象になる。本州以南の日本全域及び台湾に産し、潮間帯から水深二〇メートルの泥質や石灰質の岩・珊瑚などに酸を用いて穿孔してその中に終生棲息するが、イワガキなど他種の大型貝類個体の殻に穿孔することもある。『外洋とはそれらに穿った孔を介して繋がっているが、貝の成長につれて入口を広げることはなく、自分で入り口から出ることはない。フナクイムシなど他の穿孔性二枚貝同様、孔の内側には貝の分泌物により薄い石灰質の壁が貼られ、これが棲管となる』。属名“Lithophaga”は『「石を食べるもの」という意味だが、食性は他の多くの二枚貝同様濾過摂食である。孔から水管を伸ばし、海水とともに海中のデトリタスやプランクトンを吸い込んで食べる』。種小名“curta” は「短い」という意。貝塚からも出土し、古くから食用に漁獲されており、『特に出汁は食用二枚貝中最高とされる』。『しかし採集には磯や海中の岩石をノミ、タガネ、鶴嘴などで破壊せねばならず、多大な手間と労苦がかかる。日本では市場に流通することはほぼなく、漁師の間で自家消費される程度である』(かくいう私も食したことがない)。

「魁蛤」前出の翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Scapharca broughtonii 。]

芥川龍之介 私と創作 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

私と創作   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年七月発行の雑誌『文章世界』に「私と創作」の標題、「芥川龍之助」の署名で掲載された。後、作品集「煙草と悪魔」に「序に代ふ――私と創作」の題で所収されている。底本は旧全集を用いたが、初出を尊重し、『――「煙草と惡魔」の序に代ふ――』という副題は除去した。踊り字「〱」は正字化した。「目つかる」「愛憎」はママ。

 「閊へれば」は「つかえれば」と訓ずる。

 「デイクソンの熟語辭書」これは origa-56 氏のブログ「猫々坂のひとびと」の記事に、『漱石は明治二十三年九月帝国大学文科大学英文科にただ一人入学した。英文科は二十年にできたばかりで先輩も一人しかいなかった。学生は文科大学全体でも三十人内外』。『その漱石を教えたのが英文学科主任教授J・ディクソン(James Dixon)だった』。『ディクソンは熟語で英語を教えた。そして日本人のために『熟語表現集』を刊行した。漱石もこの本で学んだ』とあるものかと思われる。]

 

 私と創作

 

 材料は、從來よく古いものからとつた。そのために、僕を、としよりの骨董いぢりのやうに、いかものばかり探して歩く人間だと思つてゐる人がある。が、さうではない。僕は、子供の時にうけた舊弊な教育のおかげで、昔からあまり、現代に關係のない本をよんでゐた。今でも、讀んでゐる。材料はその中から目つかるので何も材料をさがす爲にばかりよむのではない。(勿論さがす爲によんでも、惡いとは思はないが。)

 が、材料はあつても、自分がその材料の中へはいれなければ、――材料と自分の心もちとが、ぴつたり一つにならなければ、小説は書けない。無理に書けば、支離滅裂なものが出來上る、僕はあせつて何度もさう云ふ莫迦な目に過つた。唯、弱るのは、その一つになる時が、何時來るかわからない事である。材料を手に入れて、すぐさうなる事もあるし、材料を持つてゐる事を殆ど忘れた時分になつて、やつとさうなる事もある。飯を食つてゐる時でも、本を讀んでゐる時でも、後架にゐる時でもかまはない。その時は、眼の先が明くなつたやうな心もちがする。

 そこで、書くものが出來ると、早速書きはじめる。時間は午前中と夜の六時頃から十二時頃までが、一番働き易い。夜の十二時すぎになると、その時は夢中になつて書いてゐても、あくる日見て、いや氣のさす事がよくある。日で云ふと風の吹く日がいけない。季節は、十月から四月頃が、いゝやうだ。場所は、靜で、或程度まで明くさへあれば、何處でも差支へない。

 書き出すとよく、癇癪が起る。尤もこれは、起るやうな周圍の中に置かれてあるから、起るので、さもなかつたら、起らないのにちがひない。少くとも餘程穩な心もちでゐられさうに思はれる。が、從來どうもさう行かなかつたから、ものを書く時は、よく家のものをどなりつけた。

 癇癪を起さない限り、書く事はずんずん書ける。時によると、字を書いてゐる暇が面倒臭い事もある。もし閊へれば、手あたり次第、机の上の本をあけて見る。さうすると、大抵二頁か三頁よむ中に、書けるやうになつてくる。本は何でも差支へない。子供の時から字引きをよむ癖があるから、デイクソンの熟語辭書なんどをよむ事もある。尤も、書くと云つても、消す事も、書く中へ入れて云ふのだから書き上げた枚數と時間との割合から云へば、寧ろ遲筆の方にはいるらしい、治す方は別して未練なく治す。それでもまだ消し足りなささうな氣がするが。

 書いてゐる時の心もちを云ふと、拵へてゐると云ふ氣より、育ててゐると云ふ氣がする。人間でも事件でも、その本來の動き方はたつた一つしかない。その一つしかないものをそれからそれへと見つけながら書いて行くと云ふ氣がする。一つそれを見つけ損ふと、もうそれより先へはすゝまれない。すゝめば、必ず無理が出來る。だから、始終注意を張り詰めてゐなければならない。はりつめてゐても、僕などは、まだ見のがしてしまふ。それが兎に角苦しい。

 それから文章にも、可成(かなり)くだらなく神經をなやませる。これは僕には時と場合でとても使へない語があつたり、句の調子が妙に氣になつたりするのだから、仕方がない。たとへば柳原と云ふ町の名前でも、一面にそこいらが綠になるやうな氣がして、その綠に折合ふやうな外の色の語がない以上、どうしても使ふ氣にはなれない。これだけは、實際祟られたと云ふ氣がしてゐる。

 書いてしまふと、何時でもへとへとになる。書くだけはもう當分御免を蒙らうと云ふ氣になる。が、一週間と何も書かずにゐると、やつぱりさびしくつて、いけない。何かしら書いて見たくなる。さうして又、前の順序をくり返す。この調子では、これにも死ぬ迄祟られさうである。

 書いたものは、活字でよむと、多くの場合いやになる。今までは何時でも、書き方より、こんな物の見方では救はれないと云ふ氣が、痛切にして、云はゞ書いてゐ時より、ふだんの生活そのものに、愛憎がつかしたくなるのである。それから先は、二度目に見て、見直す場合と、愈惡くなる場合とあるが、これはその時々によつてわからない。

橋本多佳子句集「海彦」  母燕

 母燕

 

母燕細し炎天へ翔けいづるとき

 

汗の荷を胸に背に分け歩き出す

 

柘榴の粒幾百食はゞ寂しさ消ゆ

 

手をおけば胸あたゝかし露微塵

 

をどりの衆眉目(まゆめ)わかたず影揃ふ

 

男をんな夜の砂擦つてをどりの足

 

夜の崖に水打つ胸をぬらす如

 

麻衾暁(あけ)ごうごうの雨被る

 

[やぶちゃん注:五月上旬であるが本句群の中の祭は不詳。識者の御教授を乞う。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  保壽院廢蹟/報恩寺廢蹟

   ●保壽院廢蹟

報恩寺舊蹟の西南にあり。應安元年。基氏の母淸公夫人の遺命により。西御門の別殿を保壽院と名け。菩提所となし。僧義堂を請(しやう)して開山とすと云ふ。

[やぶちゃん注:「保壽院」は「ほうじゅいん」と読む。上杉禅秀が最初の謀反の旗揚げをした寺である。後に瑞泉寺塔頭となっていたようであるが、廃寺の時期は未詳(「鎌倉廃寺事典」に拠る)。

「基氏の母淸公夫人」基氏の生母清江夫人は赤橋守時の娘で幕府最後の執権北条宗時の妹。応安元(一三六八)年九月二十九日没。

「義堂」夢窓疎石の門弟義堂周信。延文四・正平一四(一三五九)年に関東公方足利基氏の招請に応ずる形で下向し、以後約二十年に亙って鎌倉で活動、基氏・氏満父子の信任を得、上杉朝房・能憲の帰依を受ける一方、瑞泉寺住持などを経て鎌倉叢林における指導的立場を確立していた。この間、大覚・仏光両門徒の抗争が円覚寺の大火として噴出するなどの事件に遭遇、その対応に苦悩する姿が同人の日記「空華日用工夫略集」から読みとれる(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。本寺と次の報恩寺の一次資料記載はこの日記に基づく。]

 

    ●報恩寺廢蹟

西御門の西の谷にあり。南陽山報恩護國寺と號せし禪刹にて。應安四年十月。上杉兵部大輔能憲(よしのり)の起立なり。僧義堂を請して開山始祖となせり。永和四年四月十七日。上杉能憲卒す〔法名報恩寺道敬堂〕遺骸を當寺に送て荼毘し其骨を收む。五月遺言により舊第を域内に移して塔庵(たうあん)とす。八月塔庵成て。又安房守憲方其傍(かたはら)に己か壽塔を經營す。其後何れの頃廢寺となししや詳ならす。

[やぶちゃん注:前出の義堂周信が開山で、彼は応安五(一三七二)年六月十五日にここに雲臥庵を結んで住んだ。参照した「鎌倉廃寺事典」によれば、永享一一(一四三九)年頃までの存立が認められるが、その後『罹災数回に及びついに廃亡』したとある。『現在の西御門の來仰寺にある地蔵菩薩像はもと』この『報恩寺のものであった』とある。

「上杉兵部大輔能憲」関東管領。

「永和四年」西暦一三七八年。

「道敬堂」は「どういんけいどう」と読む。

「安房守憲方」上杉憲方(のりまさ/のりかた)。能憲の弟で臨終の兄から家督を譲られていた。長兄逝去の一年後の天授五・康暦元(一三七九)年三月七日、次兄で関東管領を継いでいた憲春が、康暦の政変に乗じて攻め上がろうとする鎌倉公方足利氏満に対し、諌死した後、関東管領に任ぜられている。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院で、法号は明月院天樹道合(以上はウィキ上杉憲方に拠る)。

「壽塔」(じゅとう)生前に建ておく塔婆類をいう。

甲子夜話卷之一 8  御老中松平豆州と戸田氏優劣の事

 御老中松平豆州と戸田氏優劣の事

故松平豆州〔老職〕、故大垣侯〔戸田采女正、是亦老職〕、上野御廟を拜して退くとき、二天門の間にて、雁間衆の嫡子某に行逢れしに、其人地に伏して禮す。大垣侯は膝まで手を下して禮せらる。豆州は一向見もせずして行過たり。觀者、二侯の優劣此一事にてもしるべしと云き〔老中に行逢ときは、歩を留て立ながら禮する通禮なり。雁衆の人、己の分を失ひて禮に過ぐ。大垣これを受るは非禮なり〕。

■やぶちゃんの呟き

「松平豆州」三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。かなりの権勢家であったことがよく分かる。

「大垣侯」大垣藩第七代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた戸田氏教(宝暦五(一七五六)年~文化三(一八〇六)年)。老中在任は寛政二(一七九〇)年~文化三(一八〇六)年であるから、本話は寛政二(一七九〇)年から享和三(一八〇三)年の間の出来事ということになる。ウィキの「戸田氏教」によれば、享和三年十二月に老中首座であった松平信明の辞職後に次座であった氏教が後任の老中首座になったとある。また、『幕閣の一人として主に幕府の財政を改革するなど、多大な功績を残した。幕府財政は対外問題や将軍・家斉の浪費から文化年間に入ると経常収支は赤字に転じたため』文化二(一八〇五)年には『経費削減のために代官を減員し、減員した代官に割り当てていた幕府直轄領を大名に預けたりした』。『また、大垣藩でも教育や治水について勤倹し自ら模範となり、自藩の財政や武辺の増強を図った。大垣中興の名主と称され』たとあって、ここでは貶められているものの、なかなかの名君であったことが窺われる。

「上野御廟」寛永寺徳川家霊廟。徳川将軍十五人の内の六人(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)が祭祀されている(家康は日光東照宮、家光は輪王寺、他の六人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)は増上寺。唯一の水戸徳川家出の慶喜は神葬で谷中霊園に眠る)。

「二天門」寛永寺の巌有院(徳川家綱)霊廟にあったものを指すか。増長天(向かって左)と持国天(右)を配していた。現在、この二像は浅草寺の二天門にある。

「雁間衆」雁間(かりのま)は江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つ伺候席(しこうせき:控の間。)の一つで、『幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席。老中や所司代の世子もこの席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ、他の席の大名とは異なり毎日登城するため、幕閣の目に留まり役職に就く機会が多かった』とある(ウィキの「伺候席」に拠る)。「老中や所司代の世子」というところで本文の「嫡子」という謂いの意味が判明する。

杉田久女句集 290 菊ヶ丘 Ⅴ 墓參 六句

  墓參 六句

 

信濃なる父のみ墓に草むしり

 

城山の桑の道照る墓參かな

 

母屋から運ぶ夕餉や栗の花

 

厨裡ひろし四眠ごろなる蠶飼ふ

 

[やぶちゃん注:「四眠」通常の蚕の最後の四回目の脱皮から繭を作る時期を指す。]

 

繭を煮る工女美しやぶにらみ

 

ゆるやかにさそふ水あり茄子の馬

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和一〇(一九三五)年以後のパートにある(父廉蔵は大正七(一九一八)年十二月七日に脳溢血で逝去している。彼は長野県松本市宮淵の出身であった)。]

萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅳ)

江を下る身をきる鳥の聲もして利根の夕靄悲哀はせまる

 

[やぶちゃん注:明治三七(一九〇三)年二月二十五日消印萩原栄次宛葉書より。投函地は前橋。朔太郎、満十七歳。書簡全体との連関性が窺われる歌であるので、全文を引いておく。

 

 二十二日東屋に聲あり、一女生る、

 名は未だ知らず幸に面白き御命名も玉はり度候、

 先日は美しき葉書難有拜見仕り候 過日小生より差上げたる手紙受取りのことゝ存じ候へ共念の爲申し上げ候、

      ★

 友やなせ洗禮を受け候、小生も日曜毎には教會に足をはこび候、疑がはしき節甚だ多く後日御教を仰ぎ申すべく候、

 招魂河畔梅の花今を盛りに人の杖ひくもの日々數おほく候 たゞ悔しきは朝夕の逍遙に心行く下河原を畑と化して人の歩むをとゞめたることに候

  江を下る身をきる鳥の聲もして利根の夕靄悲哀はせまる

  二月廿四日、       前橋にて 美棹生、

 

「東屋」開業医であった密造の医院の、自宅が東にあったものをかく呼んでいるか。「一女生る」は同年二月二十二日に誕生した妹(密蔵・ケイの五女)アイ(愛子。結局、彼の命名案が示されたらしいが、それ以前にかく命名されていたことが次の書簡(補巻・書簡番号七七三)の冒頭で記されてある)のこと。「先日は美しき葉書」底本注記によれば、利根河原の写真葉書らしい。「友やなせ」同じく底本注記によれば、『日本赤十字社及び東京大學附屬看護業務を學んだ』『簗瀨看護婦會長』『簗瀨まつ』の娘で朔太郎と親交のあったと思しい『簗瀬芙美(當時十五、六歳)のことと思われる』とある。書簡七七三を読むと、家族ぐるみで親しくしていたらしい。なおこの二月に日露戦争が勃発、全集年譜によれば、父密蔵は軍資献納二百円(群馬県最高額)を寄附、計一万二千五百円に及ぶ国庫債券も購入している。また、四月には日本赤十字社篤志看護婦人会群馬支部が結成されいるが、母ケイはその幹事の一人となっているが、これも日露戦争を背景としつつ、『簗瀨看護婦會長』なる『簗瀨まつ』という人物との親密な関係によるものを窺わせるように思われる。

「招魂河畔」前橋の利根川河畔のどこかの川原の通称であろうが、不詳。後の「純情小曲集」の、

 

 利根川のほとり

 

きのふまた身を投げんと思ひて

利根川のほとりをさまよひしが

水の流れはやくして

わがなげきせきとむるすべもなければ

おめおめと生きながらへて

今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。

きのふけふ

ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ

たれかは殺すとするものぞ

抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

 

や同詩集の「郷土望郷詩」の「監獄裏の林」などの原風景と考えてよいであろうか。]

2014/10/09

甲子夜話卷之一 7  佐野善左衞門於殿中少老田沼山城守を切りし事

 佐野善左衞門於殿中少老田沼山城守を切りし事

予若年の頃、若年寄の田沼氏を、新番衆佐野善左衞門と云人、殿中にて切しとき、大目付松平對馬守、佐野を組留たり。其頃の人話に、佐野が刀を振揚て切る迄は、對州其後に附き居たりしが、佐野切おほせたるとき、乃組留たりと云。時人評するは、百年前、淺野氏が吉良氏を打しとき、梶川某の組留たるは、武道を知とは云がたし。此人の心得は尤なることなりと、心あるものは感賞せりと云。予も此對州はよく見知たり。老體にて頭髮うすく、常は勇氣ありとも覺えざりし。又叔父の同姓越前が語しは、佐野、田沼を切しとき、彼御番所の前を田沼通らるゝとき、後より佐野申上ます〻〻〻と云ながら、刀を拔き、八さうに構へ追かけ、田沼ふり返る所を、肩より袈裟に切下げ、返す刀にて下段を拂たりしを、越前目の當り見たりしと云。或曰、此刀は脇指にして二尺一寸、粟田口一竿子忠綱なりき。是よりして俄に忠綱の刀價沸騰せりとぞ。當時の人氣思知べし。又言ふ、此時田沼氏の持たる脇指は貞宗なりしが、鞘に切込付しと。定て佐野が下段の拂當りたるべし。彼家の申分んには、佐野が打つ太刀を、鞘ながら拔て受たるときの切込なりと。いかゞ有けんかし。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏」田沼意知(おきとも 寛延二(一七四九)年~天明四(一七八四)年四月二日)。田沼意次嫡男。異例の出世を果したが、この事件の傷が元で亡くなった。享年三十五。

「佐野善左衞門」佐野政言(まさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年五月二十一日)。旗本。佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし代々番士を務めた家であり、政言は六代目(父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務めた)。安永二(一七七三)年に致仕した父に代わって政言が十七歳で家督を相続、安永六(一七七七)年に大番士、翌安永六(一七七八)年に新番士となった。天明四(一七八四)年三月二十四日、江戸城中で、若年寄・田沼意知を「覚えがあろう」と三度叫んでから、大脇差で襲撃、その八日後に意知が絶命したため、切腹を命じられた(政言には子がなかったため、長く佐野家は絶家であったが幕末になって再興されている)。犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りたまま返さなかったこと、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領して田沼大明神にしたこと、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかったことなど諸説あったが、幕府は「乱心」とした。しかし、世間から人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められ、血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた(以上はウィキの「佐野政言」に拠る)。

「松平對馬守」松平忠郷。但し、知られた同名の人物(かつて赤穂藩に仕えながら討入りに加わらなかった弟岡林直之を切腹させた松平忠郷(リンク先はウィキ。以下も同じ)陸奥会津藩第二代藩主蒲生(松平)氏郷など)とは異人。

「梶川某」梶川頼照(よりてる)。ウィキの「梶川頼照」には彼の日記の現代語訳と解説が載り、そこに『頼照はその後の赤穂浪士の討ち入りで高まっていく浅野贔屓の空気の中で辛い思いもしたようである。日記の最後には「この事件のことを色々知ることになった今となれば、内匠頭殿の心中は察するにあまりある。吉良上野介殿を討てなかったことはさぞかしご無念であったろう。本当に不意のことだったので自分も前後の思慮にまで及ばなかったのである。取り押さえたことは仕方なかった」と言い訳が添えられている』とある。

「叔父の同姓越前」松平忠郷の叔父か。松浦静山の叔父に相当する人物は探し得なかった。

「八双」八相の構え。ウィキの「五行の構え」から引用する。『刀を立てて右手側に寄せ、左足を前に出して構える、野球のバッティングフォームに似た構え方。この構えを正面から見ると前腕が漢数字の「八」の字に配置されていることから名付けられており、刀をただ手に持つ上で必要以上の余計な力をなるべく消耗しないように工夫されている。相手との単純な剣による攻防では実用性が多少犠牲になっており、例外的に相手の左肩口から右脇腹へと斜めに振り下ろす『袈裟懸け』や相手の鞘を差している側の胴体を狙った『逆胴』は仕掛けやすいものの、これらの技は現代の競技剣道において有効打突とはならない(あるいは非常に判定が厳しい)ことが多い。長時間に渡って真剣(場合によっては野戦用の大型な刀槍)を手に持ち続けなければならない状況のために、自然発生したと思わしき構えである。八双の構えとも書き、陰の構え、木の構えともいう。上段が変形した構えと考えられており、立て物(飾り)がある兜を着用している際に刀を大きく振りかぶるのが難しい場合の上段構えである』。『真剣を用いた多対一あるいは多対多の乱戦や、野外や市街地など障害物の多い場所での戦闘において、武具を装備した状態で真剣を抜刀したまま全力で戦場を動き回る必要がある状況では役立つであろう構えである。いつ終わるとも知れぬ戦闘では余計な体力を使えないし、そもそも単純に重い武器を何時間も構え続けるのは難しい。また、乱戦においては仲間の位置との兼ね合いで、他の構えを取るスペースが無い場合も大いにあり得る』。『また、具足を着用している時にこそ有効な構えとも言える。写真の様に刀を構えることで左肩の装甲が正面にくるため、致命傷となりうる箇所(心臓と喉元)が隠れるためである』。『現代の剣道における試合競技は一対一で時間制限があり、あらかじめ決められた規格に従った道具を両者が用い、障害物がなく範囲が定められたフィールド上で戦う事を要求される。さらに有効打とされる箇所が限られているため、八相が実際に主力の構えとして使われることは稀であり、基本的には日本剣道形でしか見ることが出来ない』。

「粟田口一竿子忠綱」粟田口近江守忠綱(あわたぐちおうみのかみただつな)。初代近江守忠綱の息子で、のちに二代目を継いで一竿子(いっかんし)と号した大坂新刀の代表刀工。その美事な刃紋は「足長丁子(あしながちょうじ)」と呼ばれてもて囃された(足長丁子刃は刃文の名称。特に足(刃中の働きの一つで刃縁から刃先に向かって細く入るもの)の長いものをいう)。新刀、新々刀期に多く、大阪の一竿子忠綱に代表される刃文でもある。。刀剣販売サイトに、本事件のことが載り、それに意知の死によって『高騰していた米価が急落した為に佐野氏とこの粟田口近江守忠綱の脇差が「世直大明神」として讃えられ、それまで以上に一竿子忠綱の脇差はいやがおおにも人気が高まり高騰し』たとあり、『津田越前守助廣や井上真改とともに江戸時代より高価な物で、高級武士でなければ持てなかった』とある(リンク先で彼の作物の写真が見られる)。他の刀剣販売サイトの解説には、彼は刀身その物を損ねることなく良く調和した彫り物を入れるのを得意としたともある。

「二尺一寸」約六三・六四センチメートル。

甲子夜話卷之一 6 松平定信、土浦侯死去のとき判元見屆之挨拶の事

 松平定信、土浦侯死去のとき判元見屆之挨拶の事

松平定信〔越中守〕在職の時、土浦侯卒す〔土屋但馬守。奏者番〕。世を擧て病死に非と風聞す。侯、跡目願のとき、判元見屆として大目付大屋遠江守往べき旨を定信申渡す。この大屋はもと田安殿の家老を勤て、定信少時より親く思はれければ、その時に臨て、定信に私語して曰、土屋氏專ら變死の聞あり。若其こと實ならば、奈何取計べき、と云しかば、定信色を厲して曰、御役にて判元見屆けらるべしと申達するに、卒忽の口上なり。實否は參りて見屆らるべし、とありけれは、大屋大に失言を悔悟し、判元見屆別事なく返り申上しとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「土浦侯卒す」定信が老中時代で土屋土浦家の当主で奏者番で亡くなった人物とすると、寛政二(一七九〇)年五月十二日に享年二十三歳で病没した第六代藩主土屋泰直のことと考えられるが、彼は能登守で但馬守ではない(彼以前の藩主には但馬守がいるが、それらの没年では定信が老中になっていない)。次の第七代(第四代藩主土屋篤直三男)は但馬守であるが、彼の死んだ享和三(一八〇三)年八月十二日(享年三十五)では定信はもう老中を辞めている。

「大屋遠江守」大屋正薫(読み不詳。まさしげ・まさただ・まさのぶ・まさひで・まさふさ・まさゆき等が考えられる)なる人物かと思われる。「泰平年表」の「天明七年」の条に定信と並んで「大目付遠江守」とあり、竹内秀雄氏の注(続群書類従完成会一九七九年刊)に『(正薫)』と名が出ている。

「判元見屆」「はんもとみとどけ」と読む。ウィキ判元見届から引く。『江戸時代に武家から末期養子の申請が出された際に、江戸幕府から役人が派遣されて行われる確認作業のこと。申請者である危篤の当主(判元)の生存を見届けるとともに、願書に不審な点がないかを確認するために行われる。元来は、末期養子の届出に押判しなければならない当主が既に死亡していて、押印が偽造されている事態を防止するために行われるものである』。『大名家の場合には大目付が、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(不在の場合には目付が代行)が、当主および養子予定者の親族縁戚、また当主の同役などが立ち会った上で確認が行われ、旗本・御家人の場合には所属する頭・支配(目付)によって改めて末期養子届が作成され、併せて老中・若年寄に提出された』。『実際には時代が進むにつれて形骸化しており、明らかに当主が死亡している場合でも、遺体を屏風の奥に寝かせて危篤・昏睡状態という体にし、確認役は形式的に声をかけるだけの生存確認が行われたり、相当に融通の利いた運用がなされるようになっていた』。

「厲して」「なして」と訓ずる。

「卒忽」「そつこつ」と読む。粗忽に同じ。]

萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅲ)

     ○

〇倦んじてはわびては讚ふ大佛も眠りておわす京の東大寺

     〇

○歌あまさず、ひきゝに忌まぬ名なし草もとより京をさむう行く水(二首京にて)

    ★ ★

○はかな小草つむに小さき戀も得つ浪江行く水情あらしめよ(大坂にて)

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇二)年六月一日消印萩原栄次宛葉書より。投函地は前橋。朔太郎、満十六歳。圏点や記号類は書簡にあるもの。一首目の「讚」は原書簡では「言」の部分が「口」(くちへん)であるが、読めないので校訂本文の表記を採った。「おわす」はママ。二首目の読点はママ。三首目の「浪江」は校訂本文では「浪花」と訂している。採らない。]

異議あり! しらすフグ混入問題!

どうしても一言言わずにはおれない。
フグの幼魚に毒性はほとんどない(断定してよい。何故なら、フグ毒のテトロドトキシンは知られるように摂餌する植物プランクトン由来で、この時期の幼魚は当該プランクトンをそんなに摂餌していないと考えられているからである)。仮に毒化していたとしても(以上述べたようにこの仮定自体が非科学的ともいえるのだが)本文にある通り、「しらす」に混入する程度の個体自体が非常に小さいので全く(強調)問題ない(私が言っているのは「しらす」であって「小魚パック」の混入ではない点に注意されたい。後者(記事中に10センチメートルとあるのは特に)は明らかに問題であり、有意に危険である)そもそもフグの混入した「しらす」を食ってフグ毒の中毒で死んだというケースはない(あれば御教授願いたい!)。私は「しらす」の中に混入しているいろいろな海産生物を調べるのがとても好きな人間である(これはホントに楽しいのだ! やってみられることを強くお勧めする。貝類(幼体と微小貝類)・ワレカラやタツノオトシゴの幼生・エビやカニ類のゾエア幼生や微小種・タコやイカ(幼体以外にも超小型種を含む)・ヒラメ(未だ左右に目がある)やヨウジウオやハダカイワシやホウネンエソ(この二つは成体は深海種。幼体でも発光器が現認出来る!)などの魚類の幼体……などなど!)こんなことでそれらが排除される世の中は非科学的非文化的な、恐ろしく不合理な世界なのであって、完全に間違っていると断言する!

1982 神奈川県立柏陽高等学校修学旅行栞 僕の文章【手前味噌に附、閲覧注意】

旅行の栞の最初にあるが、これ、なんか、異様に重いなぁ……それに確信犯だったんだけど、この写真は実は私の持っている山端庸介氏の撮った初版の「原爆の長崎」からのものであって広島ではないんだな。……でも正直、昨日三十数年振りに読んでみて……実は僕は二十六歳の僕に「よくぞ書いた!」と褒めてやりたくなった気がしたのも事実であった……

Syuugakuryokou5

Syuugakuryokou6

因みに僕のフェイスブックとミクシィには行程表などもアップしてあるので、よろしければどうぞご覧あれ。

1982 神奈川県立柏陽高等学校修学旅行栞 表紙 又は 本間珠実への恋文

昨日逢った教え子に見せたら、是非、アップしてほしいと懇願されたによって――


Syuugakuryokou1

あなた方にはよく理解出來ないかもしれませんが、私が高校時代を過ごした当時(1973年)の富山県では縣立の普通科高校では修學旅行がなかったのです――

私は教師になつて初めて「修學旅行」に行つたのです――だから僕は實は修學旅行で生徒を指導するのが厭だつたことを自白します――私は私が高校生だつたらさうしたいだらうと思ふことを誰もがしてゐたからなのです……

この絵……今は亡き私の愛した教え子本間珠実の絵だ――

……たまちゃんは愛らしい純真な子だった――そうして素晴らしい工芸家になったのだった――卒業してからも本郷台の駅でキャリー・バックを転がしながら「せんせ~!」と力いっぱい手を振ってくれた貴女の面影を――僕は生涯、忘れないよ…………

友達だった画家の相野谷さんから貰った遺品の写真――


070217_14010003

Ca250004

2014/10/08

本日早仕舞い

中国から一時帰国している秘っ子の教え子と久々に逢うによってこれにて閉店 心朽窩主人敬白

杉田久女句集 289 菊ヶ丘 Ⅳ

  山中湖 七句

 

漕ぎ出でゝ倒富士見えず水馬

 

[やぶちゃん注:「倒富士」は「さかさふじ」、「水馬」「あめんぼう」と訓じていよう。]

 

栗の花紙縒(こより)の如し雨雫

 

おくれゆく湖畔はたのし常山木(くさぎ)折る

 

[やぶちゃん注:「常山木」シソ目シソ科クサギ Clerodendrum trichotomum 。臭木(葉に悪臭があることに由来)。常山木という表記については、栗田子郎氏のサイト「草と木と花の博物誌」の「野の花便り-夏」の「クサギ」に、平安時代に中国産の常山(じょうざん)=ジョウサンアジサイ(ユキノシタ目ユキノシタ科或いはバラ目アジサイ科の Dichroa febrifuga 。正式和名はジョウザン)をクサギと混同して以来の誤用である旨の解説が出る。]

 

柿吊す湖畔の茶店淵に映え

 

湖ぞひの道ながながと小春凪

 

[やぶちゃん注:「ながなが」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

うねりふす伏屋の菊も明治節

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「伏屋」は「ふせや」で低い小さな家。粗末なみすぼらしい家の謂いで、「明治節」は明治天皇の誕生日。現在の十月三日の「文化の日」。]

 

雨つよし辨慶草も土に伏し

 

[やぶちゃん注:「辨慶草」ユキノシタ目ベンケイソウ科ムラサキベンケイソウ属ベンケイソウ Hylotelephium erythrostictum 。山地の日当たりの良い草地に生え、高さは三〇~八〇センチメートル、葉は卵形から楕円形で対生又は互生し、縁には疎らに鋸歯がある。九月~十月頃に茎頂に複散房花序を出し、淡い紅色の花を咲かせる(以上は「Weblio 辞書」の「植物図鑑」のべんけいそう (弁慶草)に拠った。リンク先には花の写真もある)]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  西御門

     ●西御門

西御門は法華堂の西の廣き谷なり。賴朝屋敷を搆へたる時西門のありし跡な乞り。南北の門も東鑑に見へたり。今其跡知れず。南門は畠山屋敷を以て考ふれば。大倉村の邊ならむ。北門は和田合戰の時。尼御臺所並に實朝の御臺所等營中を去り。北門より鶴岡の別當坊へ渡御し給ふとあり。

[やぶちゃん注:本文は新編鎌倉二」の「西御門」本文の丸写し。

「畠山屋敷」畠山重忠邸跡。彼の屋敷は南御門(現在の鶴岡八幡宮源氏池の東隣り)にあったらしい。

「北門は和田合戰の時……」「吾妻鏡」建暦三(一二一三)年五月二日(和田合戦初日。三日に決着)の条に、大江広元と北条義時から意想外の和田の急襲の報を受け、『尼御臺所幷御臺所等去營中出北御門。渡御鶴岳別當坊』(尼御臺所幷びに御臺所等、營中を去り、北御門を出でて、鶴岳別當坊へ渡御す)とあるのを指す。「實朝の御臺所」は坊門信子(のぶこ)。]

萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅱ) + 一首

朝行くに人目涼しき濱や濱小ぐつ玉靴玉漣のあと

 

えにし細う小き砂にたゞ泣きぬ歌は名になき濱のおぼろ月

 

夏さむう歌もたぬ子の罪とはぬ君に上總の興は語られぬ。

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年八月十三日消印萩原栄次宛葉書より。投函地は同じく一ノ宮青松館。書簡末尾には『八月十二日夜』とクレジットされている。底本の短歌補遺パートの『書簡より』では第一首目を採っていない。これは、『坂東太郎』第三十四号(明治三五(一九〇二)年十二月発行)に掲載された、

 

朝ゆくに人目凉しき濱や濱小靴玉靴漣のあと

 

と相同歌と考えたからであろう(底本の書簡ではこの「玉漣」の「玉」の右に、前の「玉靴」の「玉」の衍字と判断する意味の傍点が附されてある)。但し、「ゆくに」「小靴」の表記が異なり、何よりもこの書簡の方が『坂東太郎』より先行するので初出としてこれは採るべきであると私は判断した。そもそも「玉漣」も確かに衍字が深く疑われるとはいえ、これをこう書いて「玉漣(さざなみ)」と読ませようとした可能性を誰も排除は出来ないというのも私が採用した今一つの理由でもある。

 二首目は、「ソライロノハナ」(推定で大正二(一九一三)年四月頃、朔太郎満二十七歳の時の製作)の「若きウエルテルの煩ひ」歌群の三首目に出る、

 

ゑにし細う冷たき砂にたゞ泣きぬ

戀としもなき濱のおぼろ月

 

の類型歌であるが、かなり異なる(「ゑにし」はママ)。三首目末尾の句点はママ。この短歌が本文の最後であることによるものと思われるが、暫くそのままとしておく。

「甲子夜話」電子化始動 甲子夜話卷之一 1~5

昨日の京の妙満寺に残存する例の能「道成寺」の実際の鐘に纏わる、鐘がそこへ移された経緯を分かり易く記した「道成寺鐘今在妙満寺和解略縁起」(宝暦九(一七五九)年妙満寺前住持老蚕冬映筆)なるものが、松浦静山の「甲子夜話」にあるということ、今朝も「甲子夜話」の目次を全冊管見したのだが第一が標題も不明なために未だに見つからない。……いや、これは啓示である!【2018年8月11日追記:これは「甲子夜話卷之五十二」の巻頭にある「日蓮村曼荼羅 淸正帆の曼荼羅 幷 京妙滿寺靈寶 又 道成寺の鐘の事」であることが判ったので記しておく。】【2018年8月14日追記:前記「甲子夜話卷之五十二」「日蓮村曼荼羅 淸正帆の曼荼羅 幷 京妙滿寺靈寶 又 道成寺の鐘の事」の内の「道成寺の鐘の事」のパートをこちらで電子化注したので見られたい。

……僕は実は「耳嚢」の全電子化注釈を終えたら、「甲子夜話」のそれに取り掛かる予定であった。しかし芭蕉の「奥の細道」シンクロニティに入れ込んだ結果、本来、本年中に終わらせるはずであった「耳嚢」のそれは来年にずれ込む仕儀となった。

……静山が怒っているのだ!

さればこそ、ともかくも本文のみの電子化をブログ・カテゴリ「甲子夜話」でおっぱじめることと決意した。

……正篇百巻、続篇百巻、第三篇七十八巻――底本とする東洋文庫で全二十冊……

気が遠くなる、わけには、ゆかない……

 

一気に本文から入る。底本は中村幸彦・中野三敏校訂になる一九七七年刊(「甲子夜話1」の奥付)の平凡社東洋文庫版を用いるが、私のポリシーにより、漢字は恣意的に正字化する。踊り字「〱」「〲」は正字化し、底本に従い、二行割注は〔 〕《卷之二以降、勘違いして【 】としてしまっているので御容赦あれ。2016年11月追記》、欄外注記は( )とする。各巻の通し番号は編者によるものであるが、何かと便利なのでアラビア数字で頭に打ち、目録にある標題を記した後に改行して本文を始めることにする。多く振られてある編者のルビも編集権侵害をしないために振らない。但し、カタカナで振られた静山のそれはカタカナで( )で本文同ポイントで組み込んだ(そもそも原本は漢字カタカナ書きでひらがなに直している時点で編集権は発生しているとも言えるが、僕のは漢字を正字化することでそれと差別化可能であると思う。しかもそれで原本により近づくものでもあると私は考えているのである)。ともかくも進捗速度を高めるため、当分は本文電子化のみとする(将来的には「耳嚢」に準じつつ、せめて注は完備したいと思っているが、しかし、そこまで命が持つかどうかは保証の限りでない)。但し、どうしても一言言いたくなるものもあるには違いない。なるべく立ち止まらぬ程度には呟くやも知れぬ……

なお、肥前国平戸藩第九代藩主であった松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。 

では……参ろうか……静山殿…… 

甲子夜話卷之一 所載五十二條

 

1 弓削田新右衞門切腹の後、御目附へ松平豆州〔御老中〕挨拶の事

故松平豆州〔信明〕老職勤られ候中、何年の事にか、兩番衆の中弓削田新右衞門と云る人、事に因て番頭石河壱岐守宅に於て切腹仰付らる。其節檢使として往たる御目付某の語たると聞しは、彼御目付、檢使畢りし屆とて、先づ若年寄某の宅に往たるに、時及夜陰たれば、もとより門も鎖たるに、此事申達ぬれば、門内狼狽せし體にて、門外に待こと良久して開門す。玄關の體も、俄に燭をつけ抔せし有樣にて有しが、入て其狀を用人に申て出。是より豆州の宅へ往途中にて、若年寄さへ如ㇾ斯、定て待こと久かるべしと思て彼門に至れば、直に開門す。玄關の中燭臺を陳ね取次侍並居たり。夫より謁を通れは、即用人出、豆州對面せらる。其體かねて待居たると覺しく、乃檢死の狀を申述たれば、是非もなきことにとの、豆州挨拶なり。因て御目付も感入て退出せしとぞ。この事諸御旗本中聞傳て、普第の御家人、一家斷絶することは、罪あるものさへ、かくまで心留らるゝことよとて、實に忝き心得と申さぬ者はなかりき。

■やぶちゃんの呟き

老中松平信明については後掲する「8 老中に行き逢ひし折りの禮の事」の私の注を参照されたい。

 

 有德廟郊外へ御成のとき、農家にて種ものに就上意の事

德廟、郊外御成のとき、農家に入せ給ひ暫く御憩の時、其家の佛だんの下の戸棚を開き見玉ふに、菜疏の種を紙袋に納て貯置たるを、彼是と出して御覽あり。頓て出させ玉時、家の主、戸外に跪伏して居たるに、上意ありしは、戸棚の中の種物を見しが、雜はせぬぞとの仰なり。農あつと平伏したり。扈從の人、上旨を知もの無りしとぞ。種子を混合することは、農の最忌ところ、德廟の下情に通じ玉ふことかくの如し。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」徳川吉宗。有徳院殿贈正一位大相国の戒名から。以降本作では略して「德廟」とも出るが、家康も「德廟」と呼ぶので注意が必要。
「雜はせぬぞ」「まぜはせぬぞ」と読む。

 

 同御成のとき、御用御取次へ上意御答の事

德廟の御時、有馬備後守か加納遠江守か、始て御用御取次に命ぜられての翌日、何方へか御成ありしとき、御玄關の前に其人先ちて御駕に傍(ソヒ)て在けるに、高らかなる御聲にて、其名を呼玉ひ、上意には、其方昨日用取次を申付たり。勤方いかゞ心得居るやとなり。某答奉るは、御用の旨は、其通り人へ申達し、下より言上仕る旨は、其通言上仕ると心得居候と、高音に申せしかば、夫にてよいと、又大音に仰給ふ。扈從の輩ら群居たるに、普く其御問答を聞奉りたり。時に人々竊に言しは、上の御心は、彼勤役の旨を、人に普く知ら便め給はんとの御心にや。又上下の言を通ずるまでにて、私に君側の威を振ふことなきを示し玉ふか、其英邁なる御樣子、感ぜぬものはなかりしとぞ。

 

 松平定信〔越中守〕老職のとき、大奥老女衆より種姫樣へお目見のこと申出たるに答の趣

松平樂翁老職のとき〔松平越中守定信、田安黄門宗武卿の三子〕大奧の女官、諛へる心より拵けるにや、種姫君へ〔種姫君は宗武卿の御養女、明廟の御養女とならる〕御目見有んとの由を達す。越中守答るには、此事御續がらを以てならば、兄隱岐守も〔松山候、松平定國、宗武卿の二男〕同く御目見仰付らるべし。又當役の故を以てならば、同列一同なるべし、と言れければ、其沙汰止しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「諛へる」は「へつらへる」、「明廟」は徳川家治。「又當役の故を以てならば、同列一同なるべし」とは、しかしまた、私が老中故にそのようなる縁者絡みの私利私欲のための企略を謀ったとならば、大奥に跋扈する妖怪連中と私とは同列同一の物の怪ということになってしまうであろう、といった謂いであろう。

 

 神祖の御坐所は牀卑く作らせらるゝ事

何の時か武田勝賴、神祖を密に害し奉らんとて、忍者を遣て御坐所の牀下に入て刺通し來れと命ず。そのもの頓て還來る。勝賴いかに仕遂たりやと問に、忍者曰、牀下まで忍び入りしが、ゆかひくゝして刀をつかふことならず。因て空く還れりと答しとぞ。一日、述齋林氏に語たれば、林氏の曰、神祖駿城へ移り玉はんとて、造作命ぜられしとき、ゆかの高さは、女子の上り下り自由になる程にすべし。さあれば間者ゆか下にて、はたらくこと出來ぬものよと、上意ありしと云。

■やぶちゃんの呟き

「神祖」家康。
「頓て」は「やがて」と読む。
「述齋林氏」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキ林述斎によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。

鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」(サイト版)

『鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」』(サイト版)をサイト・トップの「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chronicl 」に公開した。ルビ化の処理も施し、例によってポイントも大きくして行間もたっぷりとっているので昨日のブログ版より遙かに見易いはずである。ご笑覧あれ。

2014/10/07

鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺の鐘」

「道成寺クロニクル」用に今日テクスト化したが、ブログでフライングする。



[やぶちゃん注:以下に電子化したのは安永一〇(一七八〇)年に刊行された鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」の「道成寺鐘(どうぜうじのかね)」である。底本は国立国会図書館蔵の「百鬼夜行拾遺」(文化二(一八〇五)年に勢州洞津の長野屋勘吉が板行した版)三巻所収のものを用い、同図書館デジタルコレクションのそれ(同10コマ)で視認、画像もそれをトリミングして補正したものを掲げた。底本はほぼ総ルビ(「今」と鐘のクレジットにはない)であるが、まずルビを排除した原図の字配通りのものを掲げ、次に読み易く繫げて一部の読みを送り仮名で出して句読点と空隙を配した私の校訂版を示し、最後にルビを附して繫げた原典示した。字体は当該版のものを用いたが、判断に迷ったものは正字を用いてある。最後に簡単な注を附した。]
 

 

Tes

 

 
■ルビ排除字配復元版

 

 道成寺鐘

真那古の庄司が娘

道成寺にいたり安珍が

つり鐘の中にかくれ居たるを

しりて蛇となりその鐘をまとふ

この鐘とけて湯となるといふ

或曰道成寺のかねは今京都

妙満寺にありその銘左の

          ごとし

 

 紀州日高郡矢田庄

 文武天皇勅願所道成寺冶鐘

 勸進比丘別當法眼定秀檀那

 源万壽丸幷吉田源頼秀合山

 諸檀越男女大工山願道願小

 工大夫守長延暦十四年乙亥

 三月十一日

 

 

■ルビ排除やぶちゃん校訂版

 

 道成寺の鐘

真那古の庄司が娘、道成寺にいたり、安珍がつり鐘の中にかくれ居たるをしりて、蛇となり、その鐘をまとふ。この鐘、とけて湯となるといふ。或いは曰はく、道成寺のかねは、今、京都妙満寺にあり。その銘、左のごとし。

 

紀州日高郡矢田庄

文武天皇勅願所道成寺冶鐘 勸進比丘別當法眼定秀 檀那源万壽丸 幷 吉田源頼秀 合山諸檀越男女 大工 山願道願 小工 大夫守長 延暦十四年乙亥

三月十一日

 

 

■総ルビ原典版

 

 道成寺鐘(どうぜうじのかね)

真那古(まなご)の庄司(しやうじ)が娘(むすめ)道成寺(どうじやうじ)にいたり安珍(あんちん)がつり鐘の中にかくれ居(ゐ)たるをしりて蛇(じや)となりその鐘(かね)をまとふこの鐘(かね)とけて湯(ゆ)となるといふ或(あるいは)曰(いはく)道成寺(どうじやうじ)のかねは今京都(けうと)妙満寺(みやうまんじ)にありその銘(めい)左(さ)のごとし

 

紀州(きしう)日高郡(ひだかごほり)矢田庄(やたのしよう)

文武天皇(もんむてんのう)勅願所(ちよくぐはんしよ)道成寺(どうじやうじの)冶鐘(やしよう)勸進比丘(くはんじんびく)別當法眼(べつとうほうげん)定秀(でうしう)檀那(だんな)源万壽丸(みなもとのまんじゆまる)幷(ならびに)吉田源頼秀(よしだみなもとのよりひで)合山(がつさんの)諸檀越男女(しよだんおつなんによ)大工(だいく)山願道願(さんぐはんだうぐはん)小工(せうく)大夫守長(たいふもりなが)延暦十四年乙亥

三月十一日

 

□やぶちゃん注

・「真那古の庄司」「真砂の庄司」が正しい。物部連(もののべのむらじ)や穂積臣(ほづみのおみ)と同祖とされる熊野国(後の紀伊国牟婁郡、現在の和歌山県南部と三重県南部)を支配した氏族熊野国造(くまののくにのみやつこ)の分家であったらしい。参照したウィキの「熊野国造」には、『平安時代には、分家の真砂庄司も「真砂の長者」と呼ばれて栄えた。清姫伝説では、主人公の女は真砂の庄司清次の娘(古い伝えでは清次の妻あるいは未亡人)とされる。真砂氏(滝尻王子社領)を『太平記』などに登場する「熊野八庄司」の一つとする説もある』とある。「庄司」は荘官(しょうかん)と同義。ウィキの「荘官」によれば、『日本の荘園制に於いて荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいほつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった』。平安中期の十世紀後半から十一世紀にかけて、『田堵(たと、有力農民層のこと)が国司に認められた免田(租税免除された田地)を中心に田地の開発を進め、私有地化していった(このような田堵を開発領主という)。しかし、そうした土地の所有権に係る法的根拠は極めて薄弱であり、国衙によって収公されるおそれが強かった。そのため田堵は所有地を中央の有力貴族や有力寺社へ寄進することで、租税免除と土地支配権の確保を図っていった。寄進を受けた荘園領主を領家(りょうけ)というが、寄進の際、開発領主は領家から下司(げし/げす)や公文(くもん)、出納(すいとう)などに任命されることにより、現地管理者としての地位を保全された。これらの下司や公文などを総称して荘官という。一般的に荘官には、荘園の一部から給田(きゅうでん)が与えられた。給田は免田とされ、収穫は全て荘官の得分となった。なお、下司とは、上位の荘園領主を上司と見たときの対比から生まれた呼称であり、また公文は、荘園管理のための帳簿や文書を扱うことから来た呼称である』。『領家からさらに皇族や摂関家へ荘園寄進されることもあり、この最上位の荘園領主を本家(ほんけ)という。本家・領家のうち、荘園の実効支配権を持つ者は本所といったが、本所が自らの荘園支配を強化するために、家臣を現地へ派遣し、下司や公文などを指揮監督することがあった。この現地へ派遣された者を預所(あずかりどころ/あずかっそ)という。預所も荘官の一つである。そのうち、開発領主(下司や公文に任命された者を含む)の中から預所に任じられる者も出てきた』。『荘園の支配・管理は、現代のように明確な法規定があった訳ではなく、荘園領主の権威に依存する不安定なものだった。そのため、他の荘園の荘官や国衙との間に、荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が発生することも多く、荘官がその対処に当たっていた。当時、中央の官職にあぶれた武士身分の下級貴族(軍事貴族)が多数、地方へ下向してきており、荘官たちは荘園を巡る紛争解決のために、それらの武士貴族と主従関係を築いていき、中には武士となる荘官も現れた(全ての荘官が武士化した訳ではないことに注意)』『鎌倉時代になると、鎌倉幕府によって御家人や地頭として認められる荘官も出てきた。このことは、荘園領主による地位保全では十分とは言えなくなり、新たな権威として台頭した幕府を頼り始めたことを意味する。荘官は次第に荘園領主(本所)を軽視していき、本所の権益を奪うようになっていった。室町時代に入った頃から、荘官は在地領主としての国人へ変質した。それでも荘官は荘園制とともに戦国時代まで存続したが、荘園が解体した太閤検地により荘官も消滅した。ただし、江戸時代も荘官の名残として「庄屋」や「名主」などの呼称は残った』とある。一般的に人口に膾炙する安珍清姫伝説では、醍醐天皇の御代、延長六(九二八)年夏という時代設定で、そこに「真砂の庄司清次」という清姫の父の設定が登場するが、これらの複数の伝承自体が高度な文芸化を示し始めるのは室町以後であり、「真砂の庄司清次」という場合の伝承の中の「まなごの庄司」という性格設定も、実際にはこの「荘官」の後期の説明に出るところの、平安末期の有力武士集団の長(おさ)となった者、本所たる荘園領主を無視した在地領主としての国人のイメージを持った者として私は捉えるべきであると考えている。

・「妙満寺」現在、京都府京都市左京区岩倉幡枝町にある顕本法華宗の総本山妙塔山妙満寺。但し、ウィキの「妙満寺によれば、何度もの移転を繰り返しているので注意が必要。永徳三(一三八三)年に六条坊門室町(現在の京都市下京区内。以下の堀川までの移転先は同区内)に法華堂が建立されたのを草創とするが、応永二(一三九五)年に火災により伽藍が焼失、綾小路東洞院に移転・再建、応仁元(一四六七)年には応仁の乱によって再焼失、四条堀川に移った。天文五(一五三六)年の天文法華の乱(比叡山僧兵集団による都の法華宗を追撃した宗教セクト内の一揆)によってまたしても伽藍が焼失、妙満寺は堺に避難した。天文一一(一五四二)年の後奈良天皇による法華宗帰洛綸旨により、四条堀川の旧地に再建されたが、同年、豊臣秀吉の命によって寺町二条(現在の京都市上京区榎木町)に再移転させられたが、実はこの後に道成寺の鐘はここへ運ばれている。同ウィキには現存するその鐘に就いて『和歌山県道成寺にあったとされる梵鐘で、安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘とされ、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣の仙石秀久が京都に持ち帰ろうとしたが、鐘が重かったために途中で破却し近くの住民の手によって妙満寺に奉納されたもの』とあるが、秀吉の紀州征伐は天正一三(一五八五)年のことだからである。妙満寺の公式サイトの『「安珍・清姫」の鐘由来』も参照されたい。

 但し、ここに銘も記されてある鐘というのは、安珍清姫の一件の元の鐘ではなくて二代目のそれ、則ち、まさに能「道成寺」で落下する、あの鐘なのである。

 ななかまど氏のサイト内の「神社ふりーく」の『「安珍・清姫の鐘」妙満寺什宝 紀州道成寺』によれば、この鐘のサイズは、高さ約一〇五センチメートル・直径約六三センチメートル・厚さ五・三センチメートルで重さは約二五〇キログラムとあり、道成寺では最初の鐘が延長六(九二八)年の安珍清姫の一件で焼失した後、何度も再鑄を試みるも成功せず、凡そ四百年も経った正平十四(一三五九)年『三月十一日に源万寿丸が施主となり、ようやく二代目の鐘が完成した』。ところが、『その祝儀の席に一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘楼に近づき、蛇身に変わって、鐘を引きずり下ろし、その中に姿を消した。道成寺の僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と必死に祈念して、鐘は上がったのだが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか、鳴る音がおかしく、近隣に悪病災厄が相次いで起こったため、山林に捨てられてしま』い、『その後、二百年あまりを経た天正年間・戦国の世』、『豊臣秀吉の紀州攻めのおり、この戦に参加した侍大将仙石権兵衛秀久の軍勢が、この鐘を戦利品とばかりに拾って持ち去り、陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)にしようと京都まで運ぼうとしたが、行軍の途中、京洛の手前で重い鐘を乗せた台車が坂を登りきれず、やむなく土中に埋められてしまった』(別な情報によれば、この時の紀州攻めでは道成寺も戦災を受けているので、この辺の経緯には何かもっと違った事実があるようにも思える)。『その後、近隣にただならぬことが相次いだため、不審に思った村人たちによって掘り出され』、天正一六(一五八八)年に『経力第一の法華経を頼り、時の妙満寺貫首・日殷大僧正の供養によって、鐘にまつわる怨念は解け、鳴音美しい鐘となって今日に至るまで伝わっている』とあるのである(リンク先には現存する鐘の画像もある)。

 

・「鐘銘」ゆーちゃん氏のサイト「百姓生活と素人の郷土史」で作者不詳の「熊野獨參記」という元禄二(一六八九)年頃の著作とされる紀行文が載るが(但し、本作の別名と思われる「紀南郷導紀」には作者を児玉荘左衛門とするとある)、そこには本鐘銘も含めて記されてある。この鐘の銘が電子化されてある上に、妙満寺に移される経緯やその後の興味深いエピソードなど、すこぶる貴重なものなれば、「道成寺」の条を全文引用させて戴くことにする。但しその際、改行部を繋げて漢字の一部を恣意的に正字化した。原典への訂正注らしき割注(「芝口」という書写された現代の方によるもの)の位置なども不審な箇所があるので勝手乍ら分かり易い位置に割注または私の注として〔 〕などで組み入れ直し、また、返り点の一部には訓読不能な箇所がある(特に鐘銘の部分)ので総てを省略させて戴いた。相当な改変を入れて申し訳ないが、あくまで全体の統一性と読み易さを目指したものであるのでお許し願いたい。

   《引用開始》

道成寺 天曜山道成寺「俗呼之鐘卷寺」ハ文武天皇ノ敕願寺也ト云 本堂造立ノ時橘道成奉行シタルニ依テ寺号トスルトカヤ 寺領五石被寄附 本尊木像ニシテ丈六ノ観音也 是ハ龍宮ヨリ九人ノ蜑出取來ルト云慣ナリ 左右ノ脇立日光・月光也 厨子ノ前ニハ横目〔廣目ノ誤〕・増長・持國・多聞ノ四天王ノ木像之 此堂ムカシヨリ退轉セス ウハフキノ瓦ハ硯ニヨシト云 イツノ比ニカ有ケン 他國ノ者此寺ニ來テ上葺ノ瓦ヲ置替寄進セント云テ 咸取代テ德付タリト聞由 寺内ノ右手ニ鐘樓堂並樓門ノ跡有 共ニ礎計殘レリ 當時ノ鐘ハ今武州ノ妙國寺ニト來由ヲ聞ヌルニ 人皇百八世後陽成帝ノ御宇 天正十六年五月中旬 或人來テ時鐘ヲ寄附セント云ヘリ 僧徒悦テ右處ヲ問 被者云 一年紀州一亂ノ砌寺社民屋咸滅亡ス 故此鐘爰彼ノ手ニワタリ 今ハ新宮ノオク我屋敷ノ藪蔭ニ置タリ 家内ニ惡事有ムトキハ必鳴ウメク 故ニ妻子常ニヲソレ忌嫌テ 之ヲ寺ヘ可送ト云 我是ヲ聞□テ ワサト上京シテ鐘ノナキ寺ヲ尋ヌ 然ニ幸ニ當寺ニ未見シニ故ニ寄進シ候ト 語テ遂ニ紀州ヨリ上シ鐘樓ヲ營 然共此鐘響瑾有テ聲不及遠 爰ヲ以テ後又新ニ別鐘ヲ鑄 彼鐘ヲオロス時衆徒評議シテ何故ニ鳴ウメカム イサ鑄加ヘテ大鐘ニセン シカルヘシト同心シテ既ニ碎カントス時ニ 大霰降鐘ニ煙立ケレバ 皆是ニヲトロキ其マヽニテ捨 其此ハヒビワレテ物ノトヲルバカリアキタリシカ 今ハ癒合鑄鐘ニ同シト云々

[やぶちゃん注:底本では「武州ノ妙國寺」に『〔武州妙國寺ト云フハ京都妙滿寺ノコト(芝)』と訂正注がある。]

     彼鐘銘ニ曰

   聞鐘聲 智惠長 菩薩生

   煩惱輕 難地獄 出火坑

   願成佛 度衆生

   天長地久 御願國滿

   聖明齋日月 叡算等乾抻[やぶちゃん注:「坤」の誤字であろう。]

   八方歌有道 君四海樂無爲之化

     紀州日髙郡矢田庄

   文武天皇敕願 道成寺治鑄鐘

        觀進比丘端光 別堂法眼定秀

        檀那源萬壽丸並吉田源賴秀

        合力諸檀男女

        大工山田道願 小工大夫守長

        正平十四己亥三月十三日

[やぶちゃん注:「觀進比丘端光 別堂法眼定秀」の部分に「勸進ノ誤(芝)」 及び「別當ノ誤(芝)」という注がある。]

門外ノ石段六十二段有之 四座ノ猿樂亂拍子トテ大事ニスルモ 彼石段ノ數ヲ蹈ムトカヤ 亦左ノ田ノ中ニ蛇塚トテ少シ芝ヲ取殘ス 是レ蛇ノ入タル所也ト云傳タリ 當寺ノ緣起「開帳金 子一歩」「千異院 小松院」ハ画師土佐將監 詞書ハ徹書記カ筆ナリト云ヘリ 奥書ハ將軍靈陽院義昭公 由良興國寺來臨ノ時 照覽有テ加ヘ判形シ玉フト云ヘリ

近年新筆ヲ以テ是ヲ写シ 往還ノ旅人ニ開帳「青銅百文」スル由 亦安珍カ所持トテ小扇一本有之 由緒ハ元亨釋書「十九」ニ詳也 故ニ爰ニ略ク

   《引用終了》

「咸」は「ことごとく」又は「すべて」と訓じていよう。

 なお、この妙満寺にこの鐘が移された経緯を分かり易く記した「道成寺鐘今在妙満寺和解略縁起」(宝暦九(一七五九)年妙満寺前住持老蚕冬映筆)なるものがあり、これを松浦静山が「甲子夜話」に引用しているらしい。「甲子夜話」は所持しているが、膨大なため、今すぐには当該箇所を発見出来ない。発見出来次第、ここに追加する。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之五十二」の巻頭にある「日蓮村曼荼羅 淸正帆の曼荼羅 幷 京妙滿寺靈寶 又 道成寺の鐘の事」であることが判ったので記しておく。】

 

・「法眼定秀」不詳。

 

・「源万壽丸」逸見万寿丸源清重(元応三年・元亨元(一三二一)年~天授四/永和四(一三七八)年)南北朝期、後村上天皇に仕えて武勲を挙げ日高郡矢田庄を賜わった領主(「百姓生活と素人の郷土史」の『講座「道成寺のすべて」(道成寺小野俊成院代)』の『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』①に拠る)。

 

・「吉田源頼秀」吉田金比羅丸源頼秀。源清重の娘婿で矢田庄吉田村の領主(八幡山城ヶ峰に城を構えていた)。道成寺本堂を完成させた人物とされる(『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』③に拠る)。

 

・「合山」妙満寺の総ての、の謂いか。

 

・「延暦十四年乙亥」西暦七九五年。これは既に見た通り、「正平十四年己亥」(西暦一三五九年)の誤りである。「乙」と「己」は烏焉馬の誤りと言えようが、延暦はひどい。「乙亥」が延暦十四年の正しい干支であるという事実からは、烏山石燕自身か、若しくは、この伝聞過程の中で時代を遡らせようとした誰かの、確信犯的捏造の可能性を感じさせないでもない。

萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅰ)

[やぶちゃん注:以下は一九八九年二月刊の筑摩書房版萩原朔太郎全集補巻の「短歌」パートにある『書簡より』から。これらの電子化を以って現在知られる萩原朔太郎の短歌の内、殆んど総ての電子化を終了することとなる。]

 

いめに見しおほつ鯨の背にのりて九十九里はま今行くらんか

 

その松原都に何んのえにしありてふとのまどひの我たゆたしむ

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年八月二日消印萩原栄次宛写真葉書より。萩原栄次は従兄(医師であった父密蔵の兄で萩原家医家十一代目萩原玄碩の長男。後に萩原主家十二代目となった。短歌をよくし、クリスチャンでもあったことから、若き日の朔太郎をそちらへよく導いた。朔太郎より八つ年上)。二首の前に『只今靑松館へ到着仕り候』、末尾に『八月朔日』とある。投函地は底本所収の当該書簡によれば『千葉縣下一ノ宮在靑松館』。この避暑行は既刊全集の当該年には記載がない(『夏 一家で水戸海岸平磯へ避暑』とはある。なお、この直前の七月三十日消印の同人宛書簡に『明日九十九里が濱へ出發すべく候』とある)。古絵葉書販売サイト内にあった絵葉書をリンクしておく(宛名画像も)。当時、朔太郎満十五歳。因みにここは後の大正五(一九一六)年に大学卒業直後の芥川龍之介(「芋粥」脱稿直後で二十四歳)が久米正雄と避暑に訪れた「一宮館」の近くである。

「いめ」は「夢」の上代語で「寝目(いめ)」。「ゆめ」は平安以降に用いられた。
校訂本文は「おほつ」を「おほき」とする。採らない。]

この寢ぬる都の空に夜遠くすり鐘きこゆ火事かあるらし   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:以下は昭和五三(一九七八)年二月刊の筑摩書房版萩原朔太郎全集第十四巻の「補遺」にある『短歌――岸とめ子送別會』と標題する一首。初出は昭和九(一九三四)年五月号『ごぎやう』(歌人中河幹子(中河与一妻)が創刊した女性文芸誌。後に歌誌「をだまき」となる)。岸とめ子なる人物は女流歌人(国立国会図書館の書誌データ内の『短歌研究』などの目次に名を見出せる)である以外は詳細を知らない。これ以外に、同巻には既刊全集分に追加された短歌はない。]

 

この寢ぬる都の空に夜遠くすり鐘(がね)きこゆ火事かあるらし

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  大江廣元墓

   ●大江廣元墓

同所にあり。廣元は中納言匡房の曾孫式部大輔維光か子なり。始中原氏にて安藝介に任し。賴朝に仕へて功臣たり。其後本氏に復し。累遷(るいせん)して陸奧守に任す。嘉祿元年六月十日卒す。七十八歳。風土記に云。廣元の墳墓と云へと。土人の口碑に傳ふるのみ。其證考ふる所なし。或は北條義時か古墳と云へり。元仁元年六月。此地に義時か墳墓を營(いとなみ)し事は東鑑に見えたり。然して其墓蹟(ぼせき)此邊他に遺蹤(ゐしよう)なけれは。其説近しと云へとも今是非を決し難し。

[やぶちゃん注:言わずもがな、大江広元(久安四(一一四八)年~嘉禄元(一二二五)年)は数少ない公家出の頼朝のブレーンとして、政所初代別当を務めるなど、幕府創生とその安定にすこぶる貢献した人物であるが、私は頼朝亡き後、政子と秘かな恋愛関係にあったと確信に近い印象を持っている(拙作「など御笑覧あれば幸い)。ここに出る知られた彼の墓は実際には江戸時代に長州藩によって建てられたもので比定地としては全く信憑性がない。寧ろ、今一つの墓、明王院の裏山の胡桃山(十二所)の中腹に大江広元の墓と伝わる石造の五層塔(鎌倉期の作と推定されているものの、かつて実見した折りには私には一基の笠が使用されているようには、則ち、現在の崩れた積みのそれは原型をとどめているようには私には思えなかった)の方が、古い彼の供養塔としての確度は遙かに高いと思う(広元の邸宅は胡桃山の山麓にあった)。

「中納言匡房」(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は平安後期の公卿・儒学者・歌人。大学頭大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。藤原伊房(これふさ)・藤原為房とともに白河朝の有能な実務官僚連として「三房」と称された。小倉百人一首七三番歌に前中納言匡房で「高砂の尾の上の櫻咲きにけりとやまの霞立たずもあらなむ」と出る。以下、ウィキ大江匡房によれば、『大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる』。神童と称され、天喜四(一〇五六)年に十五で省試に合格して文章得業生となり、康平三(一〇六〇)年には『治部少丞・続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた』。東宮であった尊仁親王の学士を勤め、同親王が即位して後三条天皇となると蔵人に任ぜられ、その翌年の延久元(一〇六九)年には『左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした』。次代『白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のち堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務め』応徳三(一〇八六)年)に公卿に列した。『堀河朝に入』ってからは参議・権中納言と順調に昇進、その後は大宰権帥、鳥羽天皇の代となって大蔵卿に遷任されたが、その年のうちに逝去した。『大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた』『公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった』とある。『兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた』と「古今著聞集」「奥州後三年記」に見える。また、「続拾遺和歌集」には『匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている』。『学才を恃まれ多くの願文の代作をし、それらをまとめた江都督納言願文集が残』されており、和歌にも優れ、「後拾遺和歌集」以下勅撰和歌集に百十四首が収められている。「本朝神仙伝」の作者としても知られる。

「式部大輔維光」大江維光(天仁三(一一一〇)年~承安五(一一七五)年)は肥後守大江維順(これのぶ:初名は匡時。)の子。従四位上・式部大輔。参照したウィキの「大江維光」によれば、『文章生から方略試に及第し、式部少輔、式部大輔等を歴任。紀伝道の大家として評判が高かった』とある。

「北條義時か古墳」厳密に言うと、この現在の知られた偽大江広元墓の下方にある荒れた平地が義時を葬ったとされる「右京兆法華堂」の跡である。かなり以前に探索した折りには全く管理されていない崩れかけたやぐら様のものがあって地元ではそれを義時墓と称していたが、今はどうなっているのであろう?(「鎌倉そぞろ神」のサイト内北条義時の墓に最近の映像と思われる写真が出る)。]

自動作用(芥川龍之介「藝術その他」第六章)

 樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣温、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。藝術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。(芥川龍之介「藝術その他」第六章)

文字通り胸糞悪くなる夢で目が醒めた

文字通り……胸糞惡くなる夢で……さつき、目が醒めた――

私は大學生である。

醉うた翌日である。

大学の構内を、便意を催しながらも、それを屁(ひ)るに相應しき淸淨なる厠を見出せずにゐるのである。

大便所の先客の始末の惡さを口汚く罵りながら、ただ只管に彷徨(さまよ)ひ歩いてゐるのである。
しかも氣づけば靴さへ履いてゐないのである。

どうやら昨日したたかに醉ふた折に身包み合財盗まれたらしい。

慌ててシヨルダー・バツグ(といふところが大学時分の私らしい)を開けて見れば、中はすつかり空つぽなのであつた。
定期入も財布の中も、カード(この中身は今のそれである)も何もかも空つぽなのである。

……何より痛烈だつたのは……財布の中に入れてゐた母の形見の……なくなつてゐことであつた…………

最近、飛ぶ夢どころか、しみじみとする夢を暫く見ない。
大学時分から独身をやめるまで記述してきた夢日記を、少し、読み返したくなった…………

2014/10/06

耳嚢 巻之九 書家雪山が事

 書家雪山が事

 

 雪山といへるは、何れの出生にや、孤獨のものにて、書は羲之(ぎし)・子昂(すがう)に元づきける也。廉澤(かうたく)なども師となせし由。しかるに隱逸を好みけるとなり。小網町にて名も聞へし米問屋のめし焚(たき)をなせるおやぢありしが、月に五七度づゝ、主人へ兼て願ひ置て、見苦敷(みぐるしき)衣類のうへえ羽織着て、晝頃より出、暮て歸る事あれど、用を缺く事もなく勤(つとめ)しゆゑ、主人幷(ならびに)手代(てだい)とも其心に任せけるが、あるとき風(ふ)と主人心附(こころづき)て、彼者暇(いと)ま日にいづれへ行(ゆく)やらんと、鄽(みせ)の者共へ尋(たづね)けれど誰(たれ)知る者なし。心ひそかに行(ゆく)かたを付見(つけみ)よと手代に申付置(まうしつけおき)しに、附出(つけいだ)し見れば、或る諸侯の屋舖(やしき)へ至るに裏門の番人ことごとく蹲踞(そんきよ)し、内玄關に至れば取次も念頃(ねんごろ)に禮をなして奧へ案内をなしけるを見屆(みとどけ)、彼(かの)手代立歸りしかじかの事語りけるに、大きに驚き猶(なほ)又右手代をして屋敷にて樣子承りければ、彼かの)人は雪山と云(いひ)て書學の達人にて、則(すなはち)主人も彼(かの)手跡(しゆせき)門弟なりと答へし由、あからさまに主人へ語りければ大きに驚き、彼(かの)飯焚(めしたき)を呼(よん)で、何故かゝる身分にて、鄙(いや)しき奉公なし給ふやと慇懇(ねんごろ)に尋(たづね)ければ、成程我等は雪山なり、年老(おい)て筆道(ひつだう)指南も面倒なり、世に立交(たちまぢはら)んも氏族(しぞく)親類もなければ無益なり、心安く世を過(すぎ)んは、市中かゝる所にあれば人の知る事もなければと思ひて、食焚(めしたき)をなしぬ、然れども、二三軒密(ひそか)に通ふ所は我(わが)心を能(よく)知れる御方にて、我(わが)意にまかせ交(まじは)り給ふゆゑまかるなりと申ければ、尤(もつとも)なる事ながら、かくし給ふを捨置(すてお)くは我(わが)名理(みやうり)よからじと、彼(かの)米や世話なして別室をしつらひ生涯を見屆けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。伴蒿蹊の名著「近世畸人伝」巻五(最後に参考として掲げた)にも取り上げられている反権力の綺人のエピソードである。

・「雪山」北島雪山(きたじませつざん/せっさん 寛永一三(一六三六)年~元禄一〇(一六九七)年)は江戸前期の書家で陽明学者。黄檗僧などから文徴明の書法を学び、唐様の書風の基礎を築いた。名は三立、雪山は幾つかあった号の一つ。肥後国生まれ。以下、ウィキの「北島雪山」によれば、寛永一三(一六三六)年、『肥後熊本藩の儒医北島宗宅の次男として生まれる。北島家は、豊後久住の大友一族志賀能郷を祖に持ち代々三立と名乗った。宗宅はその』十八代目に当たり、『やがて加藤家の侍医を務めたが加藤家が改易されてしまい、その後は細川家の藩医となった』。『幼い頃に日蓮宗妙永寺住持の日収上人より書と朱子学を学んだ。藩主の許可を得て父と共にたびたび長崎に遊学。黄檗僧の雪機定然・独立性易・即非如一や儒者愈立徳に影響を受け、文徴明や趙孟頫の書法を習得した。のちに張瑞図の書風を加える。また愈立徳に師事して陽明学を修めた』。寛文四(一六六四)年には熊本藩の儒医として仕官、寛文七年には『藩主細川綱利に命ぜられて『肥後国郡一統志』編纂に従事。これは江戸時代の最も早い地誌で、中世の肥後を研究する上で貴重な資料となっている』とある。ところが寛文一〇(一六七〇)年の江戸幕府による突然の陽明学禁止令(寛政の改革で主従関係の絶対性を説く朱子学が正学とされ、知行合一を理想とする陽明学は公的には禁ぜられた)によって『熊本藩を追放されてしまい、京都・江戸を流浪』、延宝五(一六七七)年には、『江戸に出て書家・陽明学者として知られるようになる。とりわけ唐様の書風は評判となり、雪山流を興した。のちに唐様を江戸に広めた細井広沢などが門人となっている。また林鵞峰・木下順庵・人見卜幽ら諸儒と交わた』。『雪山は豪放磊落で大酒豪、奇行が多く、権勢を嫌った』。先に示した「近世畸人伝」によると、『貧窮で雨漏りがする家の天井にタライを吊し、その下で書を行っていたという。またあるとき太守より中国で額字を作るための草案として大字の揮毫依頼されたが、大筆を所有せず簾の萱をもって筆としたという』。長崎丸山で没したとある。書に「草書唐詩五言屏風」「唐詩六曲屏風」「陶淵明詩巻」など。但し、底本の鈴木氏注で引く三村翁の注では、三村氏は、雪山に纏わる奇行奇談は大半は信じ難く、雪山真筆とされるものも多くは卑俗な書に過ぎぬとし、彼の実在自体を疑っている。グーグル画像検索「北島雪山」をリンクしておく。そこで出る盥を逆さまに天井からぶら下げた画像は後に掲げる「近世畸人伝」の挿絵(日文研データベース内にリンク)。

・「義之・子昂」東晋の書聖王羲之と初唐の傑出した詩人陳子昂。

・「廣澤」学者にして書家・篆刻家であった細井広沢。「耳嚢 巻之三 鈴森八幡烏石の事」で既注。

・「小網町」現在の中央区日本橋小網町。

・「風(ふ)と」は底本の編者ルビ。

・「慇懇」底本には右に『(慇懃)』という訂正注があるが、私はこれで「ねんごろ」と訓じておいた。

・「名理」底本には右に『(冥利)』と訂正注を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 書家雪山の事

 

 雪山(せつざん)と申すは、何処(いずこ)の出生かはよくは存ぜぬが、天涯孤独の者にして、書は王羲之(おうぎし)・陳子昂(ちんすがう)に私淑せるものと聴き及んで御座る。細井広沢(こうたく)なども彼を師となすとの由。

 かくなる能筆家なれども、隠逸を好んだとのこと。

 

 さても、日本橋小網町にて、名も知られた米問屋に雇われたる飯炊きを致す親爺があったと申す。

 この老人、月に五、七遍も、主人へあらかじめ願いおいて、見苦しき粗末なる衣類の上に羽織なんどを着して、昼頃より出でては、日も暮れになって帰る、ということが続いて御座った。

 されど、頼んだる用を忘るるということものぅ、まっこと、まめに勤めておったがゆえ、主人並びに手代(てだい)ともに、その望むがまま、任せて御座ったが、ある時、ふと、主人、かの親爺の仕儀、これ、不審なり、と気になり始め、

「……あの飯炊き爺(じじ)は、これ、暇(いとま)をとる毎に、一体、何処(いずこ)へ行参るものか?」

と、お店(たな)の者どもへ試みに訊ねてみたところが、これ、誰(たれ)一人として知る者がない。

「……何か……これ……悪しき癖にてもあるものか……一つ、今度、こっそりと後をつけて見届けて参れ。」

と、手代の者に申しつけおいた。

 すると暫く致いて、例の如く、出かけるさまなればこそ、手代が秘かにこの後をつけた。

 と……

 とある諸侯のお屋敷へと参ったかと見るに、裏門へと廻って御座った。

 すると、その番人どもが、これ、悉く、座って深々と頭を下げて挨拶致いたかと思うと、内玄関に至ったを覗き見れば、取り次ぎの武士もこれまた、懇ろに礼を成して、奧へと案内(あない)をなして御座った。

 これを見届けた上、その手代、立ち帰っては、今見たるところの奇体なる様をつぶさに主人に語った。

 さればこそ、主人も大きに驚き、その日は知らぬ振りを致いて、翌日になってより、また、かの手代をこっそりと遣わすと、屋敷の者にそれとのぅ、その親爺がことを聴いてみた。

 すると……

「……かの御仁は――雪山――と申されての、書道の達人にして、いやさ、当家主人(あるじ)も、かの御仁の、これ、書の門弟であらるる。」

と答えたによって、それを聴いたがまま、米問屋が主人(あるじ)へと語ったによって、米問屋の主人も、これ、またしても、大きに大きに驚き、直ちに、かの飯炊き爺(じじ)を呼び、

「……な、何ゆえ……か、かかる御身分にて……かくも賤しきご奉公なんど……これ、なされておらるるので御座るか?……」

と、いつもとはうって変って、ごくごく丁寧なる言葉遣いにて尋ねてみたところが、

「……そうで御座ったか。……なるほど……確かに。我らは――北山雪山――と申す者にして……さても……年老いて、書の道の指南も、これ、面倒。……世の人々のしがらみに、これ、今さら、たち交らわんことは……のぅ――我らには血の繋がったる一族も親類も最早一人として御座らねば、の。……いやさ――無益なることじゃ――と。……心静かに世を過ごさんには、市中のかくなる所にてあれば……これ、人に知らるることも、なし。……と、まあ、思うたによってのぅ。……かく、飯炊きの業(わざ)を、これ、成して御座るのじゃ。……然れども、二、三の所、これ、こっそりと通うておるところと申すは……我が心をよく知れる御方のところにして……我が意にまかせてうまく交じ合(おう)うて下さるるがゆえ……かくも、参上致いておりました……」

と申されたによって、米問屋主人(あるじ)、

「……そ、それは……確かに……もっともなることにては御座いますれど……さても……かく、なさっておらるることを、これ、存じ上げましたる上は……いや! それを捨おくくと申すこと、これ、我らが知れるところの凡夫の理(ことわ)りとしても……やはり! とてものこと、捨ておきますることは、これ、出来申しませぬ!……」

と申した、と聴く。

 この米問屋、それより、成し得る限りの世話をこの雪山になし、別室を設え、雪山が生涯を見届くる最期まで、確かに労わって御座った、とのことで御座る。

 

[やぶちゃん補説: 以下、伴蒿蹊「近世畸人伝」巻五から彼の条を引く。底本は森銑三校注岩波文庫版(一九四〇年刊)を用いた。〔 〕は割注。

 

    雪  山

 

雪山は北村三立といひしかども、世に號をもてしらる。肥後の人にして諸國に遊ぶ。文筆ありしかども、獨り書名高し。書法は漢僧雪機に學たり。初赤貧にして、屋破れ雨漏に、沐浴盤(たらひ)を高く釣り、其下に座して書を學べり。あるとき肥前長崎の橋下に一夜寐て、あくるあした、あたりの酒家に入て酒をのむ。あるじ其價を乞に、なしといふ。其家をとふにも、亦なしといへば、さらば何する人ぞととへば、もの書ものなり、とこたふるに、主もすねたるものにて、いで此ごろの閙(いそが)しきに、酒賣る日記書付給れ。今の酒の代(しろ)に充(あて)ん、といひしかば、もとよりさして志す所もなければ、日を重ねて止(とゞま)り、日毎に書つ。さるに漢法の草書なれば、いかにもよめざりしを、さすがに能書也とはしりけん、其人柄も無我なるを見て、深く信じ、遂に長崎に住しめけり。其後、隣國の大守、額字をもろこしへ書にやり給ふとて、其草案をかゝしめらるゝに、道人大なる筆を持たざれば、軒にかけし簾の萱をとりて、打ひしぎて書り。さて彼國に渡したるに、彼方(かしこ)にもかばかりの手筆なし、とてかへしければ、直に其大守の額となりぬ。さつまの國に到りし時、金五片賜らん、とこひつゝ、これをもて蜆(しゞみ)つみたる舟五六艘を買て、ことごとく海に離ち、吾はけふ仁を行へり、と悦びしとぞ。〔蜆を放つは、風狂の一事と人はいふべけれど、此翁佛乘を學びておもふ所あるか。蜀の法聚寺の僧、一夕門人にいへらく、門外に數萬人、鳥帽を著て貧道に向ひて命を救んことを乞。はやく出て見よ、と。門人急に門を開て見るに、十餘人蠡(さゞえ)を擔(になひ)て市にゆくをみる。盡く是を買て放つと、蜀記に見えたるよし。また微細なるものは命多し、殺べからずと、龍舒居士も説るよし、六如僧都の放生功德集に出し給へるにかなへり。私におもふに、官なきものは廣く仁を行ふことはかなふべからねば、大小をいはず、物の憂を救ふは、身に應じたる仁なるべし。〕此人生涯印章を持ず、書たるものに印を施したるなしとなむ。廣澤はこれが門人也。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  島津忠久墓

   ●島津忠久墓

法華堂の後阜岩窟の内にあり。忠久は賴朝の庶子なり。民部大輔惟宗廣言が婿となりて。惟宗氏を冐(をか)す。始左兵衛尉となり。左衛門尉に遷り。後豐後守に轉し。薩摩大隅日向の三國を領す。安貞元年六月十八日卒す。六十歳。法名を淨光明寺得佛と云ふ。相撲風土記に云。按するに忠久の墓此地に在る事疑ふべし。鎌倉の事蹟舊く記せしものにも所見なし。今(いま)碑に安永八年己亥二月。薩摩中將重豪建ㇾ之。承薩州侯之命。東都龍湖親和八十歳謹書と彫(てう)す。古墳を修飾せしにも非す。此に賴朝の墳墓あるにより新(あらた)に遠祖の碑を造立せしものと覺ゆ。

[やぶちゃん注:「島津忠久」(?~安貞元(一二二七)年)は正しくは惟宗(これむね)忠久。島津氏の祖とはされる。以下、ウィキ島津忠久によれば、内大臣中山忠親の日記「山槐記」に治承三(一一七九)年二月八日に春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とする。『忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子』(頼朝乳母比企尼の長女)『だった縁で頼朝に重用されるようにな』った。文治元(一一八五)年三月には、『比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとみられ、恩賞として』『伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている』。同年八月に『摂関家領日向国島津荘下司に任命され』、『これが忠久と南九州との関係の始まりとな』り、島津荘地頭となった忠久は文治二(一一八六)年に『薩摩国山門院(現・鹿児島県出水市)の木牟礼城に入り』(二年後に一旦戻るが、十年後の建久七(一一九六)年には『再び山門院に入り、まもなくして日向国島津院の祝吉に館(祝吉御所)を造って移り住んだと伝えられている。この他に、現・宮崎県都城市安久町の堀之内御所に居住し、後に祝吉御所に移ったという伝承もある』という。文治元(一一八五)年には信濃国塩田荘地頭職にも任命され、文治五(一一八九)年の奥州合戦では頼朝配下の御家人として参陣、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際にも行列に供奉している。建久八(一一九七)年、『大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任され』、建久九(一一九八)年、『左衛門尉に任官される。これ以降、忠久は島津荘を名字の地として島津(嶋津)左衛門尉と称する』。ところが、頼朝死後の建仁三(一二〇三)年九月に起った比企能員の変では能員縁者として大隅・薩摩・日向の守護職を没収されてしまう。この時、忠久はたまたま紛争解決のため、『守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった』。『比企の乱後は在京していたとみられ』、建暦三(一二一三)年二月には第三代将軍源実朝の学問所番として名が挙がっており、既に御家人としての復帰が認められる。同年六月に起った『和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年』七月には没収されていた『薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま』で、この二国の『復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている』。『承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は藤原氏の系統)』。安貞元(一二二七)年六月十八日の『辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)。墓は現在鎌倉市西御門の源頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている』(とあるが、これは本文にもあるように後世のものであるので注意)。この本文に「忠久は賴朝の庶子なり」とあるように、『島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。ただし、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいない』。『また、以前は「惟宗広言の実子説」が定説であったが、惟宗氏は文官で「言」を通字としているにも関わらず、広言の子として(「忠」を通字とする)忠久や弟・忠季がいるのは不自然と思われるとの理由から、現在では同じ惟宗氏でも「惟宗忠康の子」とする説が有力である。母に関しては忠久は』『比企能員の変に連座して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されている通り比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる』。『忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護をする武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた』。『出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという』。『惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白・藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた』。『こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられ』、『以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった』とある。

「後阜」「こうふ」は後ろの丘の意。

「惟宗廣言」(これむねひろこと 天承二(一一三二)年~文治五(一一八九)年)は平安時代の歌人・官人。文章生を経て、大宰少監・式部丞を歴任、文治二(一一八六)年に筑後守となっている。今様の名人として後白河法皇に親しく仕えた。参照したウィキ惟宗広言には、『島津氏に伝わる公式書類ではその祖とされている。妻は比企能員妹(丹後内侍)とされるが、島津氏の史料にしか出てこない話であり疑問もある。子に島津氏の祖である惟宗忠久がいる。実子説と養子説があるが、通字の問題などから実子説については近年疑問視する説が有力である』とあって、別に、同族で平安後期に摂関家(藤原北家)に仕えた京侍であった「惟宗忠康」(?~治承三(一一七九)年?)のウィキ記載には、『島津氏の祖である忠久の父とする説があり、忠久の母の丹後局が忠康の一族の惟宗広言の妻になった縁により、忠久・忠季も広言の養子となったものとする説がある』ともある。

「冐す」は「他家の姓を名乗る」の意。

「安永八年」西暦一七七九年。

「薩摩中將重豪」薩摩重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は第九代薩摩藩主・島津家第二十五代当主。鹿児島生まれ。宝暦五(一七五五)年に父重年の死去により十一歳で襲封、祖父継豊の後見を受けた。同八年に元服して同十二年に一橋宗尹(むねただ)の女子保姫と結婚、安永五(一七七六)年には三女茂姫も一橋治済(はるさだ)の子豊千代との縁組が成立、豊千代は後に家斉と名を改めて将軍徳川家治の養嗣子に迎えられ、天明六(一七八六)年に第十一代将軍に就いた。これによって重豪は将軍の岳父となり、幕府内でも御三家に準じる待遇を受けて江戸城の殿席も大廊下の間に移された。この優遇の背後には彼と親交のあった田沼意次の意向が働いていたと言われる。重豪は学問を好んで中国語・オランダ語を操り、自ら「南山俗語考」を著したり、百二十巻に及ぶ博物書「成形図説」の編纂を命ずるなど学術を振興、殖産興業を勧めて、文武諸般に亙る文化施設の充実にも努めた。長崎オランダ商館のティチング・ドゥーフ・シーボルトらとも交流があって、江戸屋敷にオランダ文物を収集した独楽園を設けたりもしている。隠居後も実権を持ち続け、このような豪華な文化政策を推し進めたところから藩財政が破綻、家老樺山主税らが重豪の政治を否定すべく改革に乗り出したが、文化五(一八〇八)年になって重豪はこれを弾圧、首謀者たちに切腹を命ずるなど百人を超える大量の処罰者を出した上、翌年には藩主斉宣をも廃位した。この「近思録崩れ」或いは「文化朋党事件」と呼ばれた事件によって藩主は孫の斉興(なりおき)に代わったが、重豪は引き続いて藩政の実権を握った(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「龍湖親和」「りゅうこしんな」と読む。江戸中期の能書家で武術家であった三井龍湖(元禄一三(一七〇〇)年~天明二(一七八二)年)。書家,武術家。信濃生まれで江戸深川に住んだ。書では細井広沢門下四天王の一人。広沢没後は関思恭と人気を二分、額や幟(のぼり)を書いて流行書家となり、特に得意とした篆書は各種の染物や織物に用いられて「親和(しんな)染め」と呼ばれた。武術家としても弓馬の門弟も多かった。この碑文はそんな彼の晩年の作品である(講談社「日本人名大辞典」の他、書画骨董商のサイトの記載も参照した)。]

北條九代記 卷第六 疫癘流行 付 鎌倉四境鎭祭

      ○疫癘流行  鎌倉四境鎭祭

同十二月、關東の諸國、疫癘行はれ、諸人、是を患(うれふ)る者は薬石漿水(しやうすゐ)喉(のんど)に入らず、大熱狂亂して不日(ふじつ)に死す。村里の際(あひだ)、家々に歎悲(なげきかなし)む聲、相連(あひつらな)り、尸(かばね)を葬るに所狹(せ)く計(ばかり)なり。武藏守泰時、大に驚き歎き給ひて、陰陽頭(おんやうのかみ)國道朝臣を召して、「此事如何して鎭めらるべき」と仰出さる。國道申しけるは、「古(いにしへ)より以來(このかた)例(ためし)なき事に候はず。疫鬼(えきき)流行(るぎやう)すれば、人必ずこの毒氣(どくき)に中(あた)り、病を受けて惱み候。是、偏(ひとへ)に上の政事(まつり)穩(おだやか)ならず。下の行ひ邪(よこしま)なれば、天地、是に感じて、癘鬼(れいき)出でて、禍災(くわさい)あり、疫(えやみ)計(ばかり)に限るべからず。火難、水災(さい)までも、惡鬼(あくき)の所爲にあらずと云ふ事候はず。只願くは、上に廉直の道を開き、仁慈の德政を行はせ給はば、下、必ずその惠(めぐみ)に浴し、上下比和(ひくわ)の安泰に歸(き)せば、天地交感し、神明、威(ゐ)を增し、擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐら)し給はゞ、惡鬼は遠く他方に逃去(にげさ)りて、世は淳朴(じゆんぼく)の風に歸り、人は豐樂(ぶらく)の德に住(ぢう)せん。昔、一條院の御宇、長保三年に疫癘(えきれい)大に流行(るぎやう)せしかば、五月九日に紫野(むらさきの)に疫神(やくじん)を祭りて、社を立てて鎭めらる。藤原長能が歌に、

  今よりはあらぶる心ましますな花の都に社(やしろ)定めつ

と詠みたるは今宮の神社の事にて候。今以て存ずるに鬼氣(きけ)の祭(まつり)を四境(きやう)に行ひ給はゞ然るべく候か」とぞ申しける。泰時「さらば祭をいたせ」と仰(おほせ)あり。國道軈(やが)て宿所に致り、幣帛(へいはく)、供物、作法の如く調へて、東は六浦(むつら)、南は小壺(こつぼ)、西は稻村(いなむら)、北は山〔の〕内、鎌倉の四境(きやう)に於いて神祭(じんさい)をいたしければ、癘氣、是にや依りけん、程なく疫(えやみ)は終りけり。

[やぶちゃん注:標題「疫癘流行 付 鎌倉四境鎭祭」は「えきれいるぎやう つけたりかまくらしきやうちんさい」と読んでいる。「吾妻鏡」巻二十六の元仁元(一二二四)年十二月二十六日の記事に基づくが、湯浅佳子氏はしばしばお世話になっている「『鎌倉北条九代記』の背景 『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり」(東京学芸大学紀要・二〇一〇年一月刊)で『陰陽師国道の、廉直・仁慈の政治を行えば天地交感し神明擁護あって疫病退散するという進言を泰時が受けたという話を書き加え、『吾妻鏡』の疫病流行による神祭の記事を、これから始まる泰時の仁政への』記載への『契機として位置づけている』と、「北條九代記」筆者による泰時を殊更に称揚する傾向をよく分析しておられる。

「同十二月」元仁元(一二二四)年十二月。この直前の貞応三(一二二四)年十一月二十日に元仁に改元しており、改元自体も天変炎旱によるものとされている。

「不日に」幾日も経ずして。

「陰陽頭」「陰陽權助」の誤り。權助(ごんのすけ)は、陰陽寮長官である陰陽頭(おんようのかみ:従五位下。)の補佐役として次官級の陰陽助(おんようのすけ:従六位上。)がおり、その副官(権官:同じく従六位上。)。

「上下比和」ここは単に貴賤の者がともに親しんで心和らぐぐらいの意で採ってよいが、国道が陰陽師であることを考えると、この「比和」は元来は陰陽五行説の「比和」(同じ気が重なることによってその気は盛んとなり、その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなるという五行間の属性の一つ)を指して言っていることが分かる。

「長保三年」西暦一〇〇一年。因みに、この前年の長保二年二月二十五日に藤原定子と藤原彰子がそれぞれ一条天皇の皇后と中宮となって、始めて一帝二后が始まっている。

「五月九日に紫野に疫神を祭りて、社を立てて鎭めらる」一九九四年刊岩波新日本古典文学大系「後拾遺和歌集」(久保田淳・平田喜信校注)の本歌の注に、同年同日に『天下疾疫により紫野に疫神を祭り御霊会と号し、社を今宮』(現在の京都市北区にある今宮神社)『と号した(日本紀略)。ただし、長能集には「五条にて厄神の祭つかまつる」という。これによれば五条天神のことか』とある。「紫野」は京の北方(現在の京都市北区附近)の原野の古称。

「藤原長能」(ながとう/ながよし 天暦三(九四九)年?~?)平安時代の歌人。「蜻蛉日記」の藤原道綱母の弟で、姪は「更級日記」の作者菅原孝標女。蔵人などを経て従五位上・伊賀守に至った。歌人として多くの歌合に出詠、特に花山天皇にはその出家後も側近として仕え、「拾遺和歌集」編纂にも関与したと考えられている。能因の和歌の師となったが、これが後に歌道に於ける師資相承の濫觴ともされる。藤原公任に自作を非難されて病を発して死去したという説話も伝えられる(「袋草紙」「古本説話集」に所収。死に至ったとされる病的な執心の委細はウィキの「藤原長能」を参照されたい)。その歌風には技巧にとらわれない清新なものがあり、次代の新風への道を開いたとされる。「拾遺集」以下の勅撰集に五十二首が入集する(以上の主節は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「今よりはあらぶる心ましますな花の都に社定めつ」「後拾遺和歌集」の「巻第二十 雑六」(一一六五番歌)であるが、実はこの前に同人の、極めて同様の内容を持った神への祈願歌が併載されており、本歌にも後書があるので、以下に両首ともに示す(底本は前出の岩波新日本古典文学大系を用いたが、恣意的に正字化した)。

 

  世の中騷がしく侍りける時、里の刀禰(とね)

  宣旨にて祭(まつり)つかうまつるべきを、

  歌二つなんいるべきといひ侍(はべり)けれ

  ばよみ侍りける

しろたへの豐(とよ)みてぐらを取り持ちていはひぞそむる紫の野に

 

いまよりは荒ぶる心ましますな花の都にやしろ定めつ

  この歌はある人云、世中騷がしう侍りければ、

  船岡(ふなおか)の北に今宮といふ神をいは

  ひて、おほやけも神馬たてまつりたまふとな

  んいひ伝へたる

 

簡単に底本を参考に注を附すと、第一首目は、

・「里の刀禰」はその土地の神職の者。

・「豐てぐら」御幣(「豐」は褒める意を持つ接頭語)。

・「いはいぞそむる」は表面上は「祝いぞ初むる」(祭祀初めて始める)であるが、同時に「しろ(たへ)」「紫」の縁語として「染むる」が掛けられている。本文引用の第二首目は、

・「いまよりは」祭祀した今宮の社名に掛ける。

・「舟岡」紫野西方にある歌枕。

である。因みに「長能集」では、最初の神を祭りますと告げる歌を「はたり歌」、後の神を和める歌を「はや歌」と呼んでいる、とある。孰れも訳は不要であろう。

 

 以下、「吾妻鏡」の元仁元 (一二二四) 年十二月二十六日の条を引く。

 

○原文

廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壺。西稻村。北山内云々。〔私云。此次嘉祿元年乙酉。同二年。安貞元年丁亥。三ケ年之間事無之。令漏脱歟。如何。此間若君御元服。又二位家薨逝等之事可有之。〕

○やぶちゃんの書き下し文

廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はる。治對(ぢたい)すべきの由、陰陽權助國道、之れを申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦、南は小壺、西は稻村、北は山内と云々。

〔私(わたくし)に云はく、此の次の嘉祿元年乙酉、同二年、安貞元年丁亥、三ケ年の間の事、之れ、無し。漏脱せしむか、如何。此の間、若君御元服、又、二位家薨逝(こうせい)等の事、之れ、有るべし。〕

なお、最後の附記の漏脱かとされる部分については、後に島津本「吾妻鏡」とされるものの中から「吾妻鏡脱漏」として見つかった(とされて)と現在に伝わる。]

橋本多佳子句集「海彦」  阿蘇

 阿蘇

 

  長崎の帰途登る、十数年振りなり

 

寄りゆけば寄り来(く)夏野の牛と吾

 

牛達の夜床(よどこ)野の草まだ短かく

 

肉桂(につけい)の香がする夏野の仔牛ねむし

 
[やぶちゃん注:「肉桂」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii 。シナモン Cinnamomum zeylanicum と同属。] 

 
 
放馬と寝たし夏野はるかに発破音

 

[やぶちゃん注:「放馬」は「はうば(ほうば)」と音読みしているらしい。]

 

噴く火見えず青き低山牛遊びて

 

  砂千里をゆく

 

熔岩(らば)を積む道標熔岩の野の夕焼(ゆや)け

 

  ひとり遅れつゝ

 

熔岩に汗しおのれの歩みあゆみつゞる

 

夕焼くる嶺が聚(あつま)る火の山へ

 

夕焼(ゆやけ)鴉熔岩野の寂に降りられず

 

[やぶちゃん注:多佳子は夫豊次郎を亡くした翌昭和一三(一九三八)年八月に三女啓子と四女美代子を連れて阿蘇・雲仙・長崎を旅行しているので、十六年振りの阿蘇であった。]

杉田久女句集 288 菊ヶ丘 Ⅲ 大乘寺 十句

  大乘寺 十句

 

一椀の餉にあたゝまり梅雨の寺

 

實桑もぐ乙女の朱唇戀知らず

 

旅に出て病むこともなし栗の花

 

栗の花うごけば晴れぬ窓の富士

 

栗の花そよげば箱根天霧らし

 

かなかなに醒めて涼し午前四時

 

[やぶちゃん注:「かなかな」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

雲海の夕富士あかし帆の上に

 

ヨット見る白樺かげの椅子涼し

 

草の名もきかず佇み苑の夏

 

苔庭をはくこともあり梅みのる

 

[やぶちゃん注:「大乘寺」坂本宮尾氏の「杉田久女」の一六一頁に、「栗の花そよげば箱根天霧らし」と「かなかなに醒めて涼し午前四時」が掲げられて、『俳句研究』昭和一〇(一九三五)年九月号の「富士と旅人」十句の中の二句とあり、さらに『これは蘇峰の山中湖畔の別荘を訪れた折の吟であろう』と推測されておられる。大乗寺という寺は山梨県内に複数あるが、山中湖に近いそれとなると静岡県御殿場市仁杉(ひとすぎ)地区にある浄土宗のそれか。国道百三十八号沿いで、山中湖からは道なりで十四キロメートルほど離れている(由緒などは浄土宗公式サイトの廣智山大乗寺を参照されたい)。しかしこの寺からヨットが見えるというのは地図上からは位置的に無理がある。同定が正しいか、識者の御教授を乞う。]

杉田久女句集 287 菊ヶ丘 Ⅱ 一束の緋薔薇貧者の誠より

  上京、丸ビルにて

 

一束の緋薔薇貧者の誠より

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏は本句について「杉田久女」で以下のように記されておられる。少し長いが、久女の衝撃と非常に重要な転機の動機を明かす部分でもあるので敢えて引用させて戴く。

   《引用開始》

 「俳句研究」の昭和十四年七月号「プラタナスと苺」のなかの句である。丸ビルはもちろん「ホトトギス」の発行所である。虚子は箱根丸での渡仏の折が久女に会った最後と記しているから、蕎薇の花束を抱えて発行所を訪れた久女は虚子に会うことができなかった。この上京で久女は同人復帰の可能性も、虚子の序文も絶望的であるということをはっきりと悟ったと思われる。

 帰宅後すぐに久女は、「プラタナスと苺」四十二句をまとめた。宇佐神宮、大島星の宮、野鶴の句などと比べるまでもなく、これらの句にもはや全盛期の久女の力がなかったことはすでに見たとおりである。そのことを誰よりもよくわかっていたのは、久女自身であったはずだ。

 追い打ちをかけるように、長谷川かな女主宰の「水明」八月号(八月一日発行)に「水明十周年記念行事」の社告が載った。行事のひとつとして「先生の今日までに至る作品の内から代表的の佳品を選つて凡そ八百句を句集に致します。用紙も先年購入してありますので、純日本紙で相当立派なものを出すつもりであります。九月中に出版の予定です」とある。「水明」は長いつきあいの久女のもとにも送られていたはずだ。かつて「東のかな女、西の久女」と並び称されたかな女の豪華句集刊行の予告は、句集出版を熱望して叶わなかった久女にはつらいものであったに違いない。

 上京して虚子との関係修復が望めないことを確認し、自身の作句力が衰えて句が輝きを失ってしまったことを実感し、さらにかな女の句集出版予定の知らせが届いたことは、久女に筆を折らせるに充分な打撃であったと思う。

   《引用終了》

 久女の絶望が如何に深いものであったか、察するに余りあり、また坂本氏のこうした事実背景を知らずに本句に現われた真の久女の心の痛みを理解することは到底出来ない。]

萩原朔太郎 (短歌三首)

[やぶちゃん注:以下は一九八九年二月刊の筑摩書房版萩原朔太郎全集補巻の「短歌」パートにある既刊全集に洩れた短歌群の内、大正二(一九一三)年九月号『創造』に掲載された三首。]

 

うすあかりかへらぬ人の戀しさに明けそめて降る雪のはなかさ

 

はかなかり羽虫のはねの白ろ白ろと光るを見れば夏はすぎけり

 

[やぶちゃん注:「虫」はママ。「白ろ白ろ」の後半は底本では踊り字「〱」。この一首は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「羽蟲の羽」歌群(最後のクレジットによれば大正二(一九一三)年四月の作でペン・ネームは「街の葉ざくら」)の巻頭にある、

 

おしなべて羽蟲の羽(はね)のさも白く

ひかるをみれば夏は來にけり

 

の相似歌である。]

 

浮寢鳥うつらうつらと夢のごと靑き渚をたどる悲しさ

 

[やぶちゃん注:「うつらうつら」の後半は底本では踊り字「〱」。この一首は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「うまごやし」歌群(クレジットによれば大正二(一九一三)年四月作)の三首目、

 

浮寢鳥旅に來りてかくばかり

長き渚をたどる哀しさ

 

の相似歌である。]

晩秋   萩原朔太郎   (短歌十二首)

[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「晩秋」歌群十二首。クレジットはないが、直前にある文語自由詩二つ垣根成」が大正二(一九一三)年十月二十三日のクレジットを持ち、さらにその前のノン・クレジットの文語自由詩晩秋」も含めて、この三詩篇と同一の情景をここでは短歌として詠んでいることが分かる。従って同日か若しくは遠からぬ後日の作歌と考えてよい。取消線は抹消を示す。]

 

 晩秋

 

いつしかに秋もおはりて停車場の

便所の扉(とびら)が風にはためく

 

[やぶちゃん注:「おはりて」はママ。]

 

新町の停車場前の掛茶屋に

酒などのみて見たる晩秋

 

       水のほとりのあづまや

       悲しき別れの日に

けふすぎて水際に嘆けるべこにやも

いかでや人にそがひ泣くらむ

 

こころばへやさしきひととくれ方の

水のほとりをあゆむなりけり

 

ふとこゝろ悲しくなりて場末なる

女郎屋の秋を見に行きしかな

 

うきぐものゆきゝもしげき山の端に

ほのしらしらと咲ける露ぐさ

 

靴さきにすこしなぢめる薄氷(うすらひ)を

朝の役所にさびしみるひと

 

[やぶちゃん注:「なぢめる」はママ。]

 

 

         橋の上にも柳ちりかふ

ゑねちやのごんどらびともしづこゝろ

なくてややなぎ散りすぎにけり

 

[やぶちゃん注:「ゑねちや」は底本では傍点「ヽ」。編者注によれば、この詞書の上には小さな「○」が付されている、とある。]

 

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行きかへる

なにしか菊の節會なるらむ

 

めづらしき薄氷(うすらひ)をみて裝(そう)ぞける

宮城野部屋のけさのきぬぎぬ

 

[やぶちゃん注:「そう」のルビはママ。]

 

うぐゐすの池端(ちへん)に鳴けば夜をこめて

まくらべに散るべこにやの花白きべこにや

 

停車場の柵にもたれて日蔭者

しみじみ秋を侘ぶるなりけり

偶成   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」より。クレジットより、前に掲げた底本直前にある「からたちの垣根」と同じ大正二(一九一三)年十月二十日の作であることが分かる。「かいどう」のルビ及び「おしろひ」はママ。取消線は抹消字を示す。]

 

 偶成

 

俥にゆられつつ

夕ぐれどきの街道(かいどう)を

高崎新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山のうへ

おしろひの襟がさむしかろ

今宵

おん身の上に幸(さち)あれかし

               (一九一三、一〇、二〇)

 

[やぶちゃん注:「新町街道」「新町」は群馬県多野郡にあった町(現在は高崎市の一部。但し、飛地)。中山道の宿場新町宿が置かれ、宿場町として栄えた(ウィキ新町(群馬県)」に拠る)。]

からたちの垣根   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」より。クレジットより大正二(一九一三)年十月二十日の作。詩題の及び本文二箇所の「垣根」は「桓根」であるが、訂した]

 

 からたちの垣根

 

からたちの垣根の中に

女のはしやぐ聲のする

夕餉の膳の音のする

燈ともし頃

からたちの垣根をすぐる哀しさよ

           (一九一三、一〇、二〇)

晩秋   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:底本の筑摩版全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」より。クレジットはないが、六つ前の詩が「秋思」でその末尾に「九、一四」のクレジットがあり、その間の詩群(直前は「中秋雜詠」という短歌群)は概ね秋を詠む。また「秋思」よりさらに七つ前の「九月上旬の午後」の末尾には「一九一三、九、一〇」とある。翻って、続いて掲げる後の「からたちの垣根」と「偶成」は末尾に「一九一三、一〇、二〇」という同一クレジットを持つ。さらに実はその次に配されてある「晩秋」という短歌群十二首の内容が本詩篇を含み、「からたちの垣根」と「偶成」の三篇と酷似する光景であることが分かる。従って本詩篇も大正二(一九一三)年十月二十日の作と断言してよい。取消線は抹消字を示す。「(停車場の)」は実際には「麥畑よりつかれて歸り」と「前橋驛の裏手なる」の行間下にあり、「前橋驛の裏手なる」(全行)又は「前橋驛の」(部分)の別案を示したものと思われる。「たたづめり」はママ。]

 

 晩秋

 

ああ秋も暮れ行く

このままに

故郷にて朽つる我にてほよもあらじ

草の根をかみつゝ行くも

のどの渇きをこらへんためぞ

麥畑よりつかれて歸り (停車場の)

前橋驛の裏手なる

便所のほとりにたたづめり

日はシグナルにうす赤く

今日の晝餉に何をたうべむ、

               (故郷前橋にて)

2014/10/05

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓

   ●源賴朝墓

法華堂の後(うしろ)の山の上に在り。墓石の高さ五尺餘。圍むに石垣を以てす。東鑑脱漏に法華堂西の方岳上に右幕下の御廟を安すとあり。賴朝は正治元年正月十三日薨す。壽五十三歳。沒號は武皇嘯原大禪門と云ふ。

[やぶちゃん注:前に注した通り、これは薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで)が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた疑墓である。諸本はそれ以前からの墳墓を「整備」したなどと称しているが、私はこれは一種のでっち上げに近い部類の仕儀と考えている。

「五尺」一・一五メートル。

「東鑑脱漏に法華堂西の方岳上に右幕下の御廟を安すとあり」正規の「吾妻鏡」から抜けている部分を補うとされる伝島津本にある「吾妻鏡脱漏」の嘉禄元(一二二五)年十月二十日の条には以下のようにある。新御所(新幕府政庁)選定会議の記録で、なかなか面白い。

   *

〇原文

大廿日丁未。晴。相州。武州等令參會給。御所地事。重有御沙汰。可决卜筮之由云々。仍被召國道朝臣以下七人陰陽師。以法華堂下地爲初一。以若宮大路。爲第二。而兩所之間。可被用何地哉之由。可占申之旨。被仰含之處。國道朝臣申云。可被引移御所於他方之由。當道勘申畢。然於一二御占者。若可付第一之趣。有占文者。申狀既似有兩樣歟。難及一二之御占云々。珍譽法眼申云。法華堂前御地。不可然之處也。西方有岳。其上安右幕下御廟。其親墓高而居其下。子孫無之之由見本文。幕下御子孫不御坐。忽令符合歟。若宮大路者。可謂四神相應勝地也。西者大道南行。東有河。北有鶴岳。南湛海水。可准池沼云々。依之此地可被用之旨。治定畢。但東西之事者。被聞食御占。西方最可爲吉之由。面々申之。信賢一人不同申之。東西共不吉也云々。

○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挿入した)

廿日丁未(ひのとひつじ)。晴る。相州《時房》、武州《泰時》等、參會せしめ給ふ。御所の地の事、重ねて御沙汰有り。卜筮(ぼくぜい)で决すべきの由と云々。

仍つて國道朝臣以下七人の陰陽師を召され、法華堂の下の地を以つて初一(しよいつ)と爲(な)し、若宮大路を以つて、第二と爲し、而うして兩所の間、何れの地を用ゐらるべきやの由、占ひ申すべきの旨、仰せ含めらるるの處、國道朝臣、申して云はく、

「御所を他方に引き移さるるべきの由、當道が勘(かん)《陰陽道に則った勘案》申し畢んぬ。然ども、一、二の御占に於いては、若し第一に付くべきの趣き、占文有らば、申し狀、既に兩樣有るに似たるか。一、二の御占に及び難し。」

と云々。

珍譽法眼、申して云はく、

「法華堂の前の御地は、然るべからざるの處なり。西方に岳(をか)有り。其の上、右幕下の御廟(ごべう)を安んず。其の親の墓、高くして其の下に居るは、子孫、之れ無き由、本文(ほんもん)《易学の書》に見ゆ。幕下の御子孫は御坐(おはしまさ)ざるは、忽ち符合せしむるか。若宮大路は、四神相應の勝地と謂ひつべし。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛へ、池沼に准ずべし。」

と云々。

之に依つて此の地を用ゐらるべきの旨、治定(ぢじやう)し畢んぬ。但し、東西の事は、御占に聞こし食(め)さる。西方、最も吉たるべきの由、面々に之れを申す。信賢一人、之れに同(どう)じ申さず、

「東西共に不吉なり。」

と云々。

   *

・「御所を他方に引き移さるるべきの由、當道が勘(かん)申し畢んぬ。然ども、一、二の御占に於いては、若し第一に付くべきの趣き、占文有らば、申し狀、既に兩樣有るに似たるか。一、二の御占に及び難し。」――御所を他へ移すのがよいと陰陽道に則った占卜により勘案致いて申し上げております。然ところが、この一と二の御占卜の地に於いては、若し更に占って現在ある第一の地がよいという結果が出たとしたら、これは先の移転すべきと申し上げた占いと相い反することとなり、結果として二様の占卜が出ることになることになりはしませぬか? それでは逆に判断に迷うこととなりましょう。されば、この一、二の御占卜についてさらに占うということはし難きことで御座る。――と苦言を呈しているのである。移転を支持した最初の占いと相い矛盾する占いが出る可能性を含む占いというのは最早、占いではない、という謂いは何か非常に分かり易く、プラグマティクで私は好きだ。ここには占いを絶対普遍視しない、この陰陽師国道の鋭い現実主義的認識が表出していて私は好きなのである。

「正治元年」西暦一一九三年。ご存知とは思うが、「吾妻鏡」には肝心の頼朝死去の部分が怪しいことに脱落しているのである。

「武皇嘯原大禪門」は「ぶこうしょうげんだいぜんもん」と読む。「武(いく)さの皇(きみ)、原野にて嘯(うそぶ)けり」という意である。]

杉田久女句集 286 菊ヶ丘 Ⅰ

  菊ヶ丘(昭和十年より昭和二十一年まで)

 

[やぶちゃん注:「菊ヶ丘」久女は昭和六(一九三一)年四月に、大正七(一九一八)年八月より住んでいた当時の小倉市堺町から同市富野菊ケ丘(現在の福岡県北九州市小倉北区上富野)に転居していた。]

 

大いなる春の月あり山の肩

 

春曉の大火事ありしかの煙

 

春寒の樹影遠ざけ庭歩み

 

庭石にかゞめば木影春寒み

 

新らしき春の袷に襟かけん

 

新調の久留米は着よし春の襟

 

春の襟かへて着そめし久留米かな

 

花も實もありてうるはし春袷

 

春の風邪癒えて外出も快く

 

戀猫を一歩も入れぬ夜の襖

 

冬去りて春が来るてふ木肌の香

 

土濡れて久女の庭に芽ぐむもの

 

[やぶちゃん注:本名を詠み込んで格調を維持出来るのは久女以外にはおるまい。]

 

故里の小庭の菫子に見せむ

 

ほろ苦き戀の味なり蕗の薹

 

蕗の薹摘み來し汝と爭はず

 

移植して白たんぽぽはかく殖えぬ

 

空襲の灯を消しおくれ花の寺

 

近隣の花見て家事にいそしめる

 

掘りすてゝ沈丁花とも知らざりし

 

船客涼し朝潮の鳴る舳に立てば

 

蟬涼し汝の殼をぬぎしより

 

[やぶちゃん注:私の好きな一句。]

 

この頃は仇も守らず蟬涼し

 

羅の乙女は笑まし腋を剃る

 

[やぶちゃん注:私の好きな一句。]

 

壇浦見渡す日覆まかせけり

 

日覆かげまぶしき潮の流れをり

 

おびき出す砂糖の蟻の黑だかり

 

[やぶちゃん注:私の好きな一句。]

 

植ゑかへし薔薇の新芽のしほれたる

 

英彦より採り來し小百合莟むなり

 

冷水をしたたか浴びせ躑躅活け

 

實梅もぐ最も高き枝にのり

 

目につきし毛蟲援けずころしやる

 

鍬入れて豆蒔く土をほぐすなり

 

千萬の寶にたぐひ初トマト

 

處女の頰のにほふが如し熟れトマト

 

母美しトマトつくりに面瘦せず

 

朝に灌ぎ夕べに肥し花トマト

 

降り足りし雨に育ちぬ花トマト

 

新鮮なトマト喰ふなり慾もあり

 

この雨に豆種もみな擡頭す

 

[やぶちゃん注:「擡頭」老婆心乍ら、「たいとう」で台頭に同じい。頭を持ち上げて伸びること。]

 

朝な朝な摘む夏ぐみは鈴成に

 

[やぶちゃん注:底本では「朝な朝な」の後半は踊り字「〱」。]

 

靑芒こゝに歩みを返しつゝ

 

たてとほす男嫌ひの單帶

 

[やぶちゃん注:私の好きな一句。]

 

張りとほす女の意地や藍ゆかた

 

秋耕の老爺に子らは出で征ける

 

鳥渡る雲の笹べり金色に

 

菱實る遠賀にも行かずこの頃は

 

[やぶちゃん注:前にも注したが、「遠賀」は古称で「おが」と読んでいよう。]

 

菊の句も詠まずこの頃健かに

 

雲間より降り注ぐ日は菊畠に

 

龍胆も鯨も摑むわが双手

 

[やぶちゃん注:私の好きな一句。]

 

解けそめてますほは風にせ高けれ

 

[やぶちゃん注:「ますほ」真赭(まそお)。赤い色の意で、ここは「ますほの薄(すすき)」の意。]

 

蔓ひけばこぼるゝ珠や冬苺

橋本多佳子句集「海彦」  浦上天主堂

 浦上天主堂

 

  原爆の跡に仮御堂建つのみ

 

同じ黒髪梅雨じめる神父と子等

 

梅雨の床子等へ聖書を口うつしに

 

石塊として梅雨ぬるる天使と獣

 

梅雨の廃檀石塊の黙天使の黙

 

梅雨に広肩(ひろかた)石のヨハネの顔欠けて

 

[やぶちゃん注:多佳子の浦上天主堂来訪は昭和二九(一九五四)年五月である。底本年譜によれば、『浦上天主堂は被爆の跡に仮堂を建て、孤児たちを収容。孤児たちは神父より聖書を習っている』とある。以下、浦上天主堂公式サイト内の原爆被災」から引用する。昭和二〇(一九四五)年八月九日午前十一時二分、浦上の松山町上空五百メートルで炸裂した原子爆弾は浦上を焼土と化した。『この日、浦上天主堂では毎年のならわしによって、大祝日の前には地区ごとに日をきめて告解の秘跡が行われていた。聖母被昇天の大祝日の準備の告解のために主任司祭西田三郎師は聖堂に入ろうとし、助任司祭玉屋房吉師は告解場に入っておられた』。『この日は数十人の信者が天主堂内にいたと思われる。そして爆風で天主堂は倒壊し』、二人の神父も『信者たちも即死した。倒壊した天主堂には火がつき炎上した』。『長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊』した(同サイト内浦上天主堂の被爆後の写真及び原爆資料室)。『一部側壁を残すのみで全壊で』、『正面上部の右塔は真下に落下して破壊し、左塔は天主堂左下の川の中にほとんど壊れず落下している』。『正面入口のアーチ部分は亀裂甚だしく、間もなく引き倒』され、『その他の各側壁も亀裂甚だしく、正面右側入口部分を残して全部引き倒』された。『残った石像の内、天使像』十七体と『聖マリア、聖ヨハネの石像は、再建整備された現在の天主堂正面に装着されて』いる。それが鼻部分が欠けた多佳子の詠んだ聖ヨハネ像である。私が撮った写真があるはずだが、直ぐに出ない。うさ氏のブログ「たるるの部屋」に掲げられた写真をリンクしておく。]

芥川龍之介 手帳 1-8

《1-8》

 

witch の所へ二人の仲を separate する事をたのみにゆく witch は女の母

[やぶちゃん注:何となく後年の「アグニの神」や「妖婆」が浮かぶが、設定が孰れもここに出るものとは全く一致しない。もしかするとこれは予定していたとも言われる原「偸盗」の続編の中の一要素だったのかも知れない。]

 

○妻爭ひも入れるべし 刀とか玉とかをとつたものの妻になると云ふ所

[やぶちゃん注:王朝物の詩作であろうが、近侍するものはない。後の「藪の中」の多襄丸の証言に現われる主張にやや似ないことはない(というより、黒沢明の「羅生門」の杣売が明らかにする真相版の真砂の主張とよく一致するとは言える)が、直接の関係性は認められない(死と引き換えの要素がこのメモには感じられないから「袈裟と盛遠」なども除外される)。もしかするとこれも原「偸盗」の続編の中に投げ込むつもりだったのかも知れない。]

 

○女がにげてくる 男がおつてくる それをたすける それが緣になる さてあつて見ると女は前の男と一しよになつてゐる

[やぶちゃん注:「藪の中」の構造とやや似て見えるのは、シノプシスだからに過ぎまい。但し、ここには芥川龍之介が秀しげ子と南部修太郎との三角関係の中で後年持つに至り、「藪の中」で噴出したところの、ある種の女性に対する猜疑的な嫌悪感情の前駆的認識(厭人的症状と言ってもよい)が示されているようにも思われないことはない。]

 

○青砥左エ門尉藤綱 時賴(二階堂信濃入道)

[やぶちゃん注:多くのエピソードで知られる青砥藤綱を芥川龍之介も小説素材として見逃さずにいた。知られた話柄は私の「耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事」などを参照されたいが、芥川はこれら以外に「北条九代記」(後注参照)の「巻之八」に出る「相模守時賴入道政務 付(つけたり) 靑砥左衞門廉直」の話をカップリングしようと思っていたのではあるまいかと考えている。これは――時頼が三島神社を参詣してその帰り、片瀬川を渡渉するその川中で一行の荷を引いていた牛が放尿をする。それを見た藤綱が牛に向かって「お前は守殿(時頼)が催された御法要ようなことをして呉れたもんじゃ」(日照りで作物は不作なれば牛の尿(いばり)が無駄に海に流れたことを指しつつ、同時に時頼が直近に催した春の法会で奢れる僧を豪奢にもてなしたことを揶揄している)と述べて彼の才能を見抜き、重用したという部分である。この話柄が最も時頼を引き出す格好の一話だからである。しかし敢えて言わせてもらうなら、青砥藤綱の話はどれも如何にもな教訓臭が濃厚なもので、芥川龍之介好みとは必ずしも思われない。寧ろ、芥川は「黄梁夢」のように原話を反転させてしまうような話柄をそこに構築しようとしていたのではあるまいか? それなら、読んでみたかったという気がする。なお私の鎌倉史の知見からいうと、青砥藤綱の実在性は頗る疑わしく、私は仮想人物と一貫して考えている。特に老獪にしてどうも好きになれない時頼には、こういうぶっとんだ潔人忠臣譚がよりよき執政者の伝説を形成するために、どうしても必要であったのだと思う程度である。]

 

○紬布(サミ)の直垂   乾魚}

○布の大口        燒鹽}

[やぶちゃん注:「乾魚」と「燒鹽」の下の二つ「}」は底本では大きな一つで両方を括っている。本二行はそういう意味でも同時に併記された素材と考えてよいので行空けをしなかった。

「紬布(サミ)」読み不審。「紬」(つむぎ)の読みに「さみ」という読みは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

「大口」は「おほくち(おおくち)で、「大口袴(おおぐちばかま)」のこと。裾の口が大きく開いた下袴で、平安以降、公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いた。紅または白の生絹(すずし)や平絹(ひらぎぬ)・張り帛(はく)などで仕立ててある。鎌倉時代以後は武士が直垂・狩衣などの下に用いた。

 この括弧表記は面白い。これは恐らく彼が考えた王朝物のワン・シーンの、セットで用いようとした小道具と衣裳のリストなのである。次の一行もそうであろう。]

 

○弦袋のついた木太刀

[やぶちゃん注:「弦袋」弦巻(つるまき)。切れた際の掛替用の予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく籐(とう)製の輪のこと。それが木太刀の柄部分にセットされているもの、というより、木立の滑り止めということであろう。まさに時代劇の映画の小道具部屋を見るようではないか。]

 

○時政△ 義時△△ 泰時 經時 時賴 時宗△ 貞時 師時 高時

[やぶちゃん注:この「△」の意味はよく分からないが、私はこの北条執権の並びは間違いなく、「北条九代記」の九代、北条時政から高時に至る鎌倉幕府を実質支配した北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており執権になっていない)をメモしようとしたものと考えてよい。但し、「師時」は誤ったのである。師時は得宗家ではない。父は第八代執権北条時宗の同母弟北条宗政であった(但し、彼は父の死後に伯父時宗の猶子となっており、後に引付衆を経ずに評定衆となるという得宗家一門と赤橋家嫡男のみに許されていた特権的昇進をしており、一方で彼は『北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていた』(ウィキの「北条師時」より)ことからはとんでもない誤りとは言えない)。このことからも私は芥川龍之介のこの辺りの素材メモの発信源としても「北条九代記」を挙げたくなるのである。なお、同書は頼朝・頼家・実朝の源家三代将軍の事蹟(巻第一から巻第四)及び、以上の北条得宗家九代を中心に鎌倉幕府の興亡を物語風に語った記録で、全十二巻からなり、延宝三(一六七五)年に初版が刊行されている。著者は不詳とされるが、江戸前期の真宗僧で仮名草子作家として著名な浅井了意(慶長一七(一六一二)年~元禄四(一六九一)年)が有力な候補として挙げられている(私自身は彼が真の作者だと思っている。現在、私は同書の電子化注釈をで進行中である。よろしければ来訪されたい)。]

歌   萩原朔太郎   (短歌七首)

[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「歌」歌群。クレジットはないが、二つ前の文語自由詩「秋」の最後に大正二(一九一三)年八月二十三日のクレジットを持ち(前の「目無し魚」はクレジットなし)、次の文語自由詩「戀魚夜曲」が同年五月のクレジットである(本創作ノートのクレジット時系列は必ずしも順番になっていない)。]

 

 

 歌

 

あづさ弓かへらぬひとの戀ひしさに

くれ初めてふる雪のはかなさ

 

いく山川越え行く旅ぞ黄ばみたる

單衣の汗も泣かまほしけれ

 

夏山の麓より燕まひのぼり

大空かけりて行方知らずも

 

若きより悲しきものはまたとあらぢ

うす情さへ忘られなくに

 

まんどりん、ちゝろちゝろとわが彈けば

なにが哀しく魚の嘆くぞ

 

やつくちに手をさし入れて並びゆく

いつもの君のくせをこそ思へ

 

[やぶちゃん注:「やつくち」八つ口。他に「身八つ口」「脇明(わきあけ/わきあき)」などとも呼ぶ。女性用・子供用の和服の脇の開き部分のことをいう。由来は着物の口が八つ(身頃の脇の「身八つ口」・袖のふりの「振り八つ口」・「袖口」と襟・裾の八箇所の「あき」)があることからとも、袖付けの下を左右に分けて出来る口であることから、「八の字」の形に分かれることからとする説もある。男物にはない。これは江戸時代以降、女性の帯幅が広くなった上に胸高に帯をするようになると、上腕部の自由が奪われたことから、手の動作をより楽にするために施された工夫で、子供物のそれは、帯代わりの付紐を通すための穴であると言われる。その他にも、通気効果や体温調節、着付けの際に手を挿入して整えるためや授乳時の開口部としての機能も持っている(「きもの館 創美苑」の「きもの用語大全」の八つ口とはに拠った。和服を着ない私には大層、勉強になった。リンク先に感謝する)。]

 

やまざとは雨しげきのさはにあれば

矢車菊の色まさるなり

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 戀愛(1) 巻頭言

     第十二章 戀愛

Rennaidori_2

[戀愛鳥]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。底本の図版は特に元が写真画像である時、画素が粗くなって細部が観察出来ないためである(向後はこの最後の理由である場合はこの一文は略す)。]

 

 卵と精蟲とを出遇はせる方法は實にさまざまであつて、そのため親なる動物に種々の器官の具はつて居ることは、前の章に述べた通りであるが、たゞ設備が整うて居るだけでは何の効もない。必ずこれを使用せずには我慢が出來ぬといふ極めて強い本能がこれに伴はねばならぬ。世に戀愛と名づけるものの根柢は即ちこゝに存する。この本能を滿足せしめるためには、動物は如何なる危險をも冒し、如何なる妨害にも打ち勝ち、往々命をも捨てて顧みぬが、各種族の維持繼續は、たゞこの本能の滿足によつてのみ行はれ得べきことを思へば、これも決して無理ではない。各個體がこの本能を滿足せしめるか否かは、實はその個體のみに關する問題ではなく、種族の生命が續くか絶えるかが、それによつて決するのであるから、種族にとつては實に隨一の大問題である。素より各種族の内には個體が數多くあること故、必ずしも一個一個が悉く子を殘さねば種族が斷絶するといふわけではないが、もしも各個體にこの本能が強く發達せず、隨つてこの問題に對して冷淡であつたならば、種族が忽ち絶えることは極めて明である。雌雄の間の戀愛的擧動の特に目立つ例は鳥類に數多くあるが、その中でも「いんこ」の一種で「戀愛鳥」〔セキセイインコ〕と名づけるものは雌雄が瞬時も離れず、始終接吻ばかりして居る。鳩なども雄と雌とは嘴を互に相接して舐め合て居るのを常に見掛ける。されば動物界に於けるすべての動作の原動力は、一は個體の維持を目的とする食慾、一は種族の維持を目的とする色慾であつて、追ふのも逃げるのも鬪ふのも戯れるのも必ずこの二慾のいづれかが原因となつて居る。そしてこの慾を滿足せしめねば止まぬことは、各個體の持つて生まれた本能であつて、到底長くこれを抑へることは出來ぬ。動物の擧動を見ると、恰も卵と精蟲とに操られて居る如くであるとは前に一度述べたが、雌雄の間に行はれる種々動作を通覽すると、愈々その感じが深くなり、各個體はそれぞれ自分の意志によつて活動して居る如くに見えながら、實は何物かに動かされて居るのであらうと考へざるを得ない。即ち、卵と精蟲とが種族からの依賴を受け、その維持繼續を謀るために各個體を操縱して居るかの如くに思はれる。しかし個體を離れて別に種族なるものはないから、種族の依賴と見ゆるものは、やはり各個體の神經系または原形質の構造・成分等に基づく無意識の働と見做さねばならぬが、かく論ずると、戀愛なるものの根柢は無意識の範圍に屬し、その働の意識せられる部分を戀愛と名づけて居るのであらう。本章に於いてこれから説く所は、諸種の動物に見る戀愛の有樣であるが、その中には無意識の如くに見えるものもあり、意識ある如くに見えるものもあり、その中間にあるものもあつて、判然と分けることは出來ぬ。しかし種々の違つた場合を集めて比較して見ると、抑々戀愛の始る所から、その最も著しくなる所までの進歩の筋道が幾分か察せられるであらう。

[やぶちゃん注:『「戀愛鳥」〔セキセイインコ〕』お馴染みのオウム目インコ科インコ亜科セキセイインコ属Melopsittacus undulatus が「恋愛鳥」と呼ばれていた情報を確認出来なかったが、習性記載(但し、始終ではなく求愛期にである)と図版から「セキセイインコ」とした。もし、別種若しくは亜種である場合は御教授願いたい。

「卵と精蟲とが種族からの依賴を受け、その維持繼續を謀るために各個體を操縱して居るかの如くに思はれる。しかし個體を離れて別に種族なるものはないから、種族の依賴と見ゆるものは、やはり各個體の神經系または原形質の構造・成分等に基づく無意識の働と見做さねばならぬ」以前にも述べたが、私はイギリスの生物学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins 一九四一年~)が提唱する、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという考え方を支持するゆえに、厳密には生物の主体は個体ではなくDNAであり、生殖行為とは〈個体の持つところの基本的なDNAが自己を継承することを目的とするもの〉と言うべきであろうと考えている。ところがこの最も先鋭的ともいうべき理論と同じことを、丘先生は既に大正五(一九一六)年のここで「原形質の構造・成分等に基づく無意識の働」と述べているということに、私は驚くのである。因みにこれはワトソンとクリックによるDNAの二重螺旋構造発表(一九五三年)どころか、遺伝子の化学的本体がDNAであると認識された一九四〇年代からも、有意に前であるということに着目されたいのである。]

明恵上人夢記 42

42

 佛眼法(ぶつげんはふ)、自行の爲の上に、又女院(にようゐん)の爲に奉る御祈禱なりと云々。寶樓閣供〔宗光幷に親康等の爲に祈禱すと云々。〕

 都