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2014/10/07

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  大江廣元墓

   ●大江廣元墓

同所にあり。廣元は中納言匡房の曾孫式部大輔維光か子なり。始中原氏にて安藝介に任し。賴朝に仕へて功臣たり。其後本氏に復し。累遷(るいせん)して陸奧守に任す。嘉祿元年六月十日卒す。七十八歳。風土記に云。廣元の墳墓と云へと。土人の口碑に傳ふるのみ。其證考ふる所なし。或は北條義時か古墳と云へり。元仁元年六月。此地に義時か墳墓を營(いとなみ)し事は東鑑に見えたり。然して其墓蹟(ぼせき)此邊他に遺蹤(ゐしよう)なけれは。其説近しと云へとも今是非を決し難し。

[やぶちゃん注:言わずもがな、大江広元(久安四(一一四八)年~嘉禄元(一二二五)年)は数少ない公家出の頼朝のブレーンとして、政所初代別当を務めるなど、幕府創生とその安定にすこぶる貢献した人物であるが、私は頼朝亡き後、政子と秘かな恋愛関係にあったと確信に近い印象を持っている(拙作「など御笑覧あれば幸い)。ここに出る知られた彼の墓は実際には江戸時代に長州藩によって建てられたもので比定地としては全く信憑性がない。寧ろ、今一つの墓、明王院の裏山の胡桃山(十二所)の中腹に大江広元の墓と伝わる石造の五層塔(鎌倉期の作と推定されているものの、かつて実見した折りには私には一基の笠が使用されているようには、則ち、現在の崩れた積みのそれは原型をとどめているようには私には思えなかった)の方が、古い彼の供養塔としての確度は遙かに高いと思う(広元の邸宅は胡桃山の山麓にあった)。

「中納言匡房」(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は平安後期の公卿・儒学者・歌人。大学頭大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。藤原伊房(これふさ)・藤原為房とともに白河朝の有能な実務官僚連として「三房」と称された。小倉百人一首七三番歌に前中納言匡房で「高砂の尾の上の櫻咲きにけりとやまの霞立たずもあらなむ」と出る。以下、ウィキ大江匡房によれば、『大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる』。神童と称され、天喜四(一〇五六)年に十五で省試に合格して文章得業生となり、康平三(一〇六〇)年には『治部少丞・続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた』。東宮であった尊仁親王の学士を勤め、同親王が即位して後三条天皇となると蔵人に任ぜられ、その翌年の延久元(一〇六九)年には『左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした』。次代『白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のち堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務め』応徳三(一〇八六)年)に公卿に列した。『堀河朝に入』ってからは参議・権中納言と順調に昇進、その後は大宰権帥、鳥羽天皇の代となって大蔵卿に遷任されたが、その年のうちに逝去した。『大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた』『公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった』とある。『兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた』と「古今著聞集」「奥州後三年記」に見える。また、「続拾遺和歌集」には『匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている』。『学才を恃まれ多くの願文の代作をし、それらをまとめた江都督納言願文集が残』されており、和歌にも優れ、「後拾遺和歌集」以下勅撰和歌集に百十四首が収められている。「本朝神仙伝」の作者としても知られる。

「式部大輔維光」大江維光(天仁三(一一一〇)年~承安五(一一七五)年)は肥後守大江維順(これのぶ:初名は匡時。)の子。従四位上・式部大輔。参照したウィキの「大江維光」によれば、『文章生から方略試に及第し、式部少輔、式部大輔等を歴任。紀伝道の大家として評判が高かった』とある。

「北條義時か古墳」厳密に言うと、この現在の知られた偽大江広元墓の下方にある荒れた平地が義時を葬ったとされる「右京兆法華堂」の跡である。かなり以前に探索した折りには全く管理されていない崩れかけたやぐら様のものがあって地元ではそれを義時墓と称していたが、今はどうなっているのであろう?(「鎌倉そぞろ神」のサイト内北条義時の墓に最近の映像と思われる写真が出る)。]

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