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2014/10/04

北條九代記 卷第六 武藏守泰時廉直

     ○武藏守泰時廉直

同九月五日、故陸奥守義時の遺跡(ゆゐせき)莊園の事、武蔵守泰時は摠領職(そうりやうしき)なり。誰か兎角の沙汰に及ぶべき。男女に付きて、兄弟多くおはしけるに、讓補分(じやうぶわけ)の注文あり。二位禪尼是を泰時に渡され、「若この注文の表(おもて)付きて所存あらば、子細を申さるべし」とぞ觸れられける。兄弟の間(あひだ)注文に任せ奉る。更に異議なきよし返事あり。泰時、即ち、所領、莊園は肥腴(ひいう)の地をば舍弟妹達に渡され、自分は磽确(げうかく)の白田(はくでん)を取り、器財雑具(きざいざふぐ)も宜きを分與(わかちあた)へて、所用なき物ども少(すこし)を取りたまへば、摠領の所分(しよぶん)殊の外に少(すくな)く侍りしかば、二位禪尼の仰(おほせ)に、「嫡子摠領職の所分至(いたつ)て少(すくな)し。物の數にもあらず候。是は如何なる事ならん」と問ひ給ふ。泰時申されけるやう、「關東の執權を承る身は所領の事さのみに欲深く望み申すべき事ならず。只今舍弟共を不敏(ふびん)して痛(いたは)り存ずる計(ばかり)にて候」と申されしに、二位禪尼、其志を感じて涙に咽(むせ)び給ひけり。凡(およそ)禍(わざはひ)は足る事を知らざるより大なるはなく、恥は貪るより過ぎたるはなし。足る事を知らざる者は富めるも患(うれへ)あり、足る事を知る者は貧しけれど樂(たのし)むと云へり。欲少(すくな)うして足る事を知る者は心安くして、恥辱に遠(とほざか)る。此故に得難きを苦みて、營々として求め、既に得て又末だ飽かざるときんば、危辱(きじよく)必ず其中にあり。たゞ易きを取りて難きを捨て、危きを避けて安きに就く者は、辱(はぢ)既に遠くして樂みに餘あり。泰時この理(ことわり)を思得(おもひえ)て、廉直を行はれしかば、兄弟一族自(おのづから)和睦し、權威高く輝きて、諸國悉く歸伏(きふく)し、太平の德を逞しくし給ひけん、志の程こそ有難けれ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応三・元仁元(一二二四)年九月五日の条に基づく。貞応三年は十一月二十日元仁に改元された。

「讓補分の注文」相続する領地・遺産の分配に関わる文書。

「男女に付きて、兄弟多くおはしける」この時の泰時(彼は義時嫡男乍ら、生没年未詳の阿波局(知られた時政の娘とは別人)の腹で、同母弟や同母妹はいなかったと考えられる)には、北条朝時・重時・有時・政村・実泰・時尚ら弟六人の他(朝時・重時は比企の変で父義時によって亡ぼされた比企一族の娘姫の前の腹、有時の母は伊佐朝政の娘、政村以下の三人は伊賀の変に関与した伊賀の方の実子であったが泰時の計らいによって連座していない)、竹殿(姫の前の腹。以前に大江親広妻であったがこの時は離別して土御門定通に再嫁していた)の他四人以上の妹がいた(一人は伊賀の方腹で伊賀の乱で流刑に処せられて変死した一条実雅妻であったが事件で離縁し唐橋通時に再嫁)。

「泰時、即ち……」以下の部分は、後掲するように「吾妻鏡」から一部が省略されてしまっていて、却って泰時の「廉直」(心が清らかで私欲がなく正直なこと)が分かり難くなっているように思われる。実は泰時は義時死去の報を受けて鎌倉に帰参した直後、直ぐに政子に原案の作成に自らが携わることを提案、その後に彼の意向に基づいて作成された遺産分配書を政子に対して内密に見せたところ、泰時が取分とした領地の貧しさや相続した遺品類の質の低さに正直驚いた。ところがそれを泰時に質すと、という形の真相を敢えて明かすという記載構造になっているのである。即ち、改めてここで泰時に政子がその文書を下知したというのは泰時の真正の「廉直」を駄目押しする効果を狙っているのである(但し、私はそれを厭味とは全く思っていないので、念のため)。

「肥腴」読みは正しくは「ひゆ」。肥沃に同じい。「腴」は魚の腹部の太ったところで、水底の土を磨る意から「つちすり」「すなずり」と訓ずる。非常に地味の肥えた豊饒の土地を指す。

「磽确」「かうかく(こうかく)」が正しいが、慣用読みで「ぎょうかく」とも読んだ。小石などが多くて地味の痩せ衰えた土地。

「白田」「白」は乾いているの意で畑地を指す。主収入となるはずの年貢米を得る水田を泰時が選んでいないことを指す。

「所用なき物」使い物にならないような古道具や金銭価値のない遺品。

「凡禍は足る事を知らざるより大なるはなく……」以下、最後まで異例の筆者による泰時の称揚。ここで泰時の誠実さを強調することで、それに当初、疑問を投げ掛ける尼将軍政子の「姑息な女」としての浅薄さを照射し、政務に口を挟まんとして直前に自滅した「邪悪な女」としての伊賀の方に思いを致すように仕向けるという遣り口には、やはりかなり異常な女性嫌悪の感情が潜んでいるように私は思うのである。

 

 以下、「吾妻鏡」の貞應三(一二二四)年九月五日の条を引く。最後の部分は無関係な亡き義時の諱についての記事と三浦義村邸の焼亡記事であるが、併せて示す。

 

○原文

大五日戊辰。霽。故奥州禪室御遺跡庄園。御配分于男女賢息之注文。武州自二品賜之。廻覽方々。各々有所存者。可被申子細。不然者。可申成御下文之旨被相觸。皆歡喜之上。曾無異儀歟。此事。武州下向最前。内々支配之。潛披覽二品之處。御覽畢之後。仰曰。大概神妙歟。但嫡子分頗不足。何樣事哉者。武州被申云。奉執權之身。於領所等事。爭強有競望哉。只可省舎弟等之由存之者。二品頻降御感涙云々。仍今日爲彼御計之由。及披露云々。又故前奥州禪室者。存日京官外國共被避任之間。就常儀。偏雖稱前奥州。於没後今者。可奉号右京權大夫之旨。被定下云々。」子刻。三浦駿河前司義村西御門家燒亡。不及他所。此間下方聊物忩云々。

○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挟んだ)

五日戊辰。霽る。故奥州禪室が御遺跡(ごゆゐせき)の庄園、男女賢息に御配分の注文、武州《泰時》、二品《政子》より之を賜はり、方々に廻覽して、

「各々、所存有らば、子細を申さるべし。然ずんば、御下文(おんくだしぶみ)を成し申すべき。」

の旨、相ひ觸れらる。皆、歡喜の上、曾つて異儀無きか。此の事、武州下向の最前に、内々之れを支配し、潛かに二品披覽(ひらん)するの處、御覽じ畢んぬるの後、仰せて曰はく、

「大概は神妙か。但し、嫡子が分、頗る不足たり。何樣(いかさま)たる事ぞや。」

てへれば、武州、申されて云はく、

「執權を奉(うけたてまつ)る身には、領所等の事に於いて、爭(いか)でか強(あなが)ちに競ひ望むこと有らんや。只だ、舎弟等に省(はぶ)かるべきの由、之を存ず。」

てへれば、二品、頻りに御感涙を降(くだ)さると云々。

仍つて今日、彼の御計ひたるの由、披露に及ぶと云々。

又、故前奥州禪室は、存りし日は、京官・外國共に任を避らるるの間、常の儀に就きて、偏へに前奥州と稱すと雖も、没後の今に於いては、右京權大夫と号し奉るべきの旨、定め下さると云々。

子の刻《午後零時頃》、三浦駿河前司義村が西御門の家燒亡す。他所に及ばず。此の間、下の方《町方》、聊か物忩(ぶつそう)と云々。

・「御下文」普通は上位者から下位者への下達(かたつ)文書を指すが、ここは、公的な不服申し立て文書の提出ということであろう。

・「此の間、下の方、聊か物忩」ここは個人的には面白く感じるところである。三浦義村は直前の伊賀の変で謀略側に組したことを疑われていた(事実、加担していたと考えてよい)だけに、これは下吏や巷間の者にとっては、何となく何か「ほんとにただの火事?」という物騒ぎなこととして感じられたに違いないからである。しかも当時の義村邸は鶴岡の東の山際で、大倉幕府にごく近かった。それが何故か、夜半でありながら単独の焼亡で終わったというのは、これ、「物騒」にならぬ方がおかしいというものであろう。]

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