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2014/10/02

北條九代記 卷第六 義時の後室 同兄弟 竝 實難中將流罪 〈伊賀氏の変Ⅲ 終息と断罪――光宗・伊賀の方・実雅、配流〉

      ○義時の後室 同兄弟 竝 實難中將流罪

閏七月八日二位禪尼の御前に、相摸守時房、前大膳大夫入道覺阿、關左近〔の〕將監實忠參られて、世上の事ども御沙汰に及ぶ。禪尼仰せけるは、「光宗等が奸謀(かんぼう)隱(かくれ)なし。宰相中將實雅卿に於ては、卿相(けいしやう)を左右なく罪科に處難(しよしがた)し、京都において罪名(ざいみやう)を伺奏(うかゞひそう)すべし。陸奥守の後室竝に光宗等は流刑たるべし。その外の與黨(よたう)は罪科までもあるべからず」とこそ定められけれ。同二十九日伊賀〔の〕式部〔の〕丞光宗は政所の執事職を改め、所領五十二ヶ所を召放(めしはな)ち、叔父(しゆくふ)隱岐(おきの)入道行西(ぎやうさい)に預けらる。二位禪尼の仰(おほせ)として、藤(とうの)民部大夫行盛を政所の執事に補(ふ)し、尾藤左近〔の〕將監景綱を武藏守泰時の後見にぞ成されける。同八月二十九日泰時政所の吉書始(はじめ)あり、家務(かむ)の條々、其式(しき)を定めらる。左近將監景綱、平三郎兵衞尉盛綱奉行たり。義時の後室をば、伊豆の北條に追遣(おひやり)て押籠(おしこめ)らる。伊賀式部丞光宗は、信濃國に流され、舍弟四郎左衞門尉朝行(ともゆき)。同六郎右衞門尉光重は、相摸掃部助武蔵太郎に仰せて、京都より直(すぐ)に鎭西(ちんぜい)に流されたり。宰相中將實雅卿は、京都にして罪名を注(ちう)せられ、越前國に流されけり。婦人の愚性(ぐしやう)に威(ゐ)ある時は、奢(おごり)を生じて後を辨(わきま)へず必ず遠き慮(おもんぱかり)なき故に、近き患(うれへ)を招くとかや。彼(か)の後室の叛逆に依て、家亡び身迫りて、兄弟外戚皆遠域(ゑんいき)に苦(くるし)めり。後世の善(よ)き誡(いましめ)なるべし。

[やぶちゃん注:〈伊賀氏の変Ⅲ 終息と断罪――光宗・伊賀の方・実雅、配流〉「吾妻鏡」巻二十六の貞応三・元仁元(一二二四)年(十一月二十日に天変炎旱により改元)閏七月三日、八月二十八日・二十九日、十月十日等の記事に拠る。私は思うのだが浅井了意と目される筆者にはかなり激しい女性嫌悪が見受けられるように思われ(既に政子への批判が巻五に出る)、ここでもそれが最後に如実に現われてくる。

「前大膳大夫入道覺阿」大江広元。

「關左近將監實忠」「關左近大夫將監實忠」の誤り。関実忠は初期の御内人(北条氏直属の家人。得宗被官と同じ)で伊勢国鈴鹿郡関谷を領有して関氏を名乗った伊勢関氏の始祖。承久の乱で泰時に従って出陣している。

「卿相」参議以上の地位を指す。一条実雅は従三位で参議であったから、朝廷の許可なく処罰することが憚られたのである。

「執事職」幕府に於ける政所の要職で、この伊賀光宗を除いて二階堂氏が世襲、しばしば政所の次官級である「令」をも兼ねた。

「召放ち」没収となされ。

「叔父隱岐入道行西」実雅の母方の叔父に当たった幕府の実務官僚二階堂行村(久寿二(一一五五)年~嘉禎四(一二三八)年)。父は二階堂(工藤)行政。

「藤民部大夫行盛」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)。二階堂行政の孫で鎌倉幕府の政所執事・評定衆。父は行村の兄で政所執事であった二階堂行光。この翌年の嘉禄元(一二二五)年に出家して法名を行然と名乗ったが、政務は継続し、七十二歳で没するまで政所執事の要職を全うした。参照したウィキの「二階堂行盛」によれば、『以降この家系がほぼ政所執事を世襲し、最初は二階堂行泰が継ぐが、その子の早死になどで行盛の他の子、行泰の弟の二階堂行綱、二階堂行忠の家に移り』、弘安九(一二八六)年に『行忠からその孫の二階堂行貞に受け継がれた』とある。

「尾藤左近將監景綱」尾藤景綱(?~天福二(一二三四)年)は御内人。ウィキの「尾藤景綱」によれば、北条泰時に若い頃から近侍して栄達、『妻が泰時の次男時実の乳母を務めた事も追い風となり、幕府内において地位を確立』、この貞応三・元仁元年に、『内管領の前身ともいえる役職、家令が新設されると、その初代として抜擢され』た。『「吾妻鏡」の記述によれば、この時既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていたとされ』、『また泰時の後見人を務めていたようである』。『同じく泰時の側近として台頭した平盛綱や諏訪盛重などと共に、朝廷との折衝、御家人の統制に貢献』、『条例の制定』や『義時追福の伽藍建立』『など、様々な行事の奉行を務める他、多くの取次ぎをこなし、泰時の懐刀として縦横に活躍』、この『伊賀氏の乱の鎮圧にも関与した』とある。『妻が乳母であった泰時次男時実が』嘉禄三(一二二七)年に『近習に弑逆されて横死すると、景綱はこの椿事に衝撃を受けて出家したが、なおも幕政に参画して重きをなし』、現在残存する日本最古の築港跡とされる和賀江島完成した際には『諏訪盛重と共に巡検を行っ』ている。『病を得て病没する前日である』天福二年八月二十一日まで現役として『家令を務め、平盛綱に家令職を譲った。景綱の功績により、尾藤氏は代々鎌倉幕府内で御内人を輩出する家系として繁栄した』とある。

「同八月二十九日泰時政所の吉書始あり」二十八日の誤り。「吉書始」は(執権として)始めて公的政務文書を発行する儀式のこと。

「平三郎兵衞尉盛綱」平盛綱(生没年不詳)は得宗家家司で後の内管領長崎氏の祖。ウィキの「平盛綱」によれば、『執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久の乱や伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え』て、三代の執権を助けた。『承久の乱の後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の承久の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである』。元仁元(一二二四)年には『泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与し』ている。文暦元(一二三四)年には『家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた』。仁治三(一二四二)年に出家隠退、「吾妻鏡」によれば建長二(一二五〇)年の三月には既に逝去していることが知られているものの、詳細は不明。後、第九代執権北条貞時によって正応六(一二九三)年四月に滅ぼされた平頼綱(平禅門の乱)は彼の孫である(頼綱の滅亡後は同一族の長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となった。鎌倉幕末期に権勢を誇った長崎円喜はその光綱の子に当たる)。

「四郎左衞門尉朝行。同六郎右衞門尉光重」ともに伊賀光宗の弟で、以下に見るように変の露見後、同年閏七月二十三日に実雅の上洛に付き添ったまま(とはいえ結局は実雅以下に三人は明らかに罪人護送である)、鎌倉には帰参していない。

「相摸掃部助」北条時盛。時房長男。佐介流北条氏の祖。当時は連署となった父と入れ替わりに六波羅探題南方に任ぜられてこの閏七月二十七日に急遽、京に赴任している。

「武蔵太郎」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。泰時長男で嫡子であったが早世した。当時は執権となった父と入れ替わりに六波羅探題北方に任ぜられて北条時盛とともにやはりこの閏七月二十七日に急遽、京に赴任している。

 以下、「吾妻鏡」を示す。まず、貞應三 (一二二四) 年閏七月三日の条。

 

〇原文

三日戊辰。晴。於二品御前。世上事及御沙汰。相州被參。又前大膳大夫入道覺阿(廣元)扶老病應召。關左近大夫將監實忠注記録云々。光宗等令宰相中將實雅卿。欲立關東將軍。其奸謀已顯露訖。但以卿相以上。無左右難處罪科。進其身於京都可伺奏罪名事。至奥州後室。幷光宗等者。可爲流刑。其外事。縱雖有與同之疑。不能罪科由云々。

○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挟んだ)

三日戊辰。晴る。二品の御前に於いて、世上の事、御沙汰に及ぶ。相州《時房》參らる。又、前大膳大夫入道覺阿、老病を扶(たす)けて召(しやう)に應ず。關左近大夫將監實忠、記録を注すと云々。

光宗等、宰相中將實雅卿をして、關東將軍に立てんと欲す。其の奸謀、已に顯露(けんろ)し訖んぬ。但し、卿相以上を以つて、左右(さう)無く罪科に處し難し。其の身を京都へ進じ、罪名を伺ひ奏すべき事、奥州後室、幷びに光宗等に至りては、流刑たるべし。其の外の事は、縱(たと)ひ與同(よどう)《同調》の疑ひ有ると雖も、罪科に能はざるの由と云々。

 

 その次に続いて「吾妻鏡」に記される同閏七月二十三日の条。

 

〇原文

廿三日戊子。寅尅。武州御邊騷動。日者敢無此事。人成恠之處。及卯尅。宰相中將〔實雅卿。〕爲上洛進發之後。勇士退散。伊賀四郎左衛門尉朝行。同六郎右衛門尉光重。式部太郎宗義。伊賀左衛門太郎光盛等扈從。又式部大夫親行《源親行》。伊具馬太郎盛重等。雖非指仰。私以扈從云々。今日反※日也。兼日々次沙汰之時。爲向後不可然之由。雖有傾申之人。無御許容。被急彼進發之故也。

[やぶちゃん字注:「※」=「舌」+(「邪」-「牙」)。]

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日戊子。寅の尅《午前四時頃》、武州の御邊、騷動す。日者(ひごろ)敢へて此の事無し。人、恠(あや)しみを成すの處、卯の尅《午前六時頃》に及び、宰相中將〔實雅卿。〕上洛の爲、進發の後、勇士、退散す。伊賀四郎左衛門尉朝行・同六郎右衛門尉光重、式部太郎宗義・伊賀左衞門太郎光盛等、扈從(こしよう)す。又、式部大夫親行・伊具馬太郎盛重等、指せる仰せに非ずと雖も、私(わたくし)に以つて扈從すと云々。

今日、反※日なり。兼日、日次の沙汰の時、向後の爲に然るべからざるの由、傾(かたぶ)け申すの人有りと雖も、御許容無し。彼の進發を急がるるが故也なり。

・「式部大夫親行」「伊具馬太郎盛重」の二人は私は寧ろ、北条方の罪人護送見張りとして随行した者達と読む。陰陽道からもよろしくない急な出立が強行されたのは、これが彼らの京での裁許を急がせるためとしか読めないからである。

・「※」音不詳。「反※日」は旅立ちを凶とする日であろう。

 

 次に同閏七月二十九日の条。

 

○原文

廿九日甲午。伊賀式部丞光宗坐事。改政所執事職。被召放所領五十二ケ所。外叔隱岐入道行西預守護之。重科者也。爲親戚預置之條。聊雖憚之。於行西。諸事依無疑貽。被預置之由。請二品芳名。武州下知給云々。藤民部大夫行盛補政所執事。又尾藤左近將監景綱爲武州後見。以前二代無家令。今度被始置之。是武藏守秀郷朝臣後胤。玄番頭知忠四代孫也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿九日甲午。 伊賀式部丞光宗、事に坐して、政所執事職を改め、所領五十二ケ所を召し放たる。外叔隱岐入道行西、預りて之を守護す。重科の者なり。親戚として預り置くの條、聊か之れを憚ると雖も、行西に於いては、諸事疑貽(ぎたい)無きに依つて、預り置かるるの由、二品の芳名を請(う)け、武州、下知し給ふと云々。

藤民部大夫行盛、政所執事に補す。又、尾藤左近將監景綱、武州の後見と爲(な)る。以前二代、家令無し。今度、之れを始めて置かる。是れ、武藏守秀郷《藤原秀郷》朝臣の後胤、玄番頭知忠《藤原知忠》が四代の孫なりと云々。

・「疑貽」疑い危ぶむこと。

 

 最後に同貞應三 (一二二四) 年十月十日の条。

 

○原文

壬子。宰相中將實雅卿可被配流越前國之由被定之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十日壬子。宰相中將實雅卿は、 越前國へ配流せらるべきの由、之を定めらると云々。]

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