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2014/10/04

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  法華堂

   ●法華堂

東御門の東にある丘陵なり。相傳ふ賴朝の持佛堂の名なりと。東鑑に文治四年四月廿三日。御持佛堂に於て法華經購讀始行(おこなは)せらるとあり此處歟。鎌倉志に云。按するに昔は法華堂と云者是のみに非す。東鑑に右大將家右大臣家二位家蔚の右京兆等の法華堂とあり。佐竹系圖にも佐竹上總入道比企ケ谷の法華堂にて自害すとあり。然れば此法華堂には不ㇾ限なり。其比法華を信する人多き故。持佛堂を皆法華堂と名る歟。此法華堂を右大將の法華堂と云ふなりと。

[やぶちゃん注:現在の頼朝墓と称する位置から、登る左手にある小さな公園辺りが比定地である(私はその公園地にこそ原法華堂はあったとする立場をとる)。これは同時に頼朝墳墓堂となったことに注意されたい。次に出る頼朝墓と今に呼ばれるものは、薩摩藩第八代藩主島津重豪(しげひで)が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた疑墓である。諸本はそれ以前からの墳墓を「整備」したなどと称しているが、私はこれは一種のでっち上げに近い部類の仕儀と考えているのである。

 「新編鎌倉志卷之二」の「○法華堂〔附賴朝並義時墓〕」の冒頭に、

   *

 法華堂は、西御門(にしみかと)の東の岡なり。相傳ふ、賴朝の持佛堂の名也。【東鑑】に、文治四年四月廿三日、御持佛堂に於て、法華經講讀始行せらるとあり。此の所歟。同年七月十八日、賴朝、專光坊に仰て曰く、奧州征伐の爲に濳(ひそか)に立願あり。汝留守に候(こう)じ、此の亭の後(うしろ)の山に梵宇を草創すべし。年來の本尊の正觀音像を安置し奉らん爲なり。同年八月八日、御亭の後の山に攀(よ)ぢ登り、梵宇營作を始む。先づ白地(あからさま)に假柱(かりはしら)四本を立て、觀音堂の號を授くとあり。今雪の下の相承院領するなり。賴朝の守(まもり)本尊正觀音の銀像も、相承院にあり。今此には彌陀、幷如意輪觀音・地藏の像あり。地藏は、本(もと)報恩寺の本尊〔事、報恩寺の條下に在り。〕なりしを、何れの時か此に移す。如意輪は、良辨僧正の父太郎大夫時忠と云し人、由比の長(ちやう)にて在りし時に、息女の遺骨(ゆいこつ)を、此の如意輪の腹中に納むと云ひ傳ふ。又石山寺より佛舍利五粒を納むる由の書き付も入てあり。今は分身して三合ばかりも有と云ふ。又異相(いそう)なる僧の木像あり。何人の像と云事を知る人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是れ歟。【佐竹系圖】に、明德二年六月朔日、源の基氏故右大將家の法華堂に、常陸の國那珂郡(なかごをり)の莊の内太田郷(おおたがう)を寺領に付けらるゝとあり。【東鑑】に、建暦元年十月十三月、鴨長明入道蓮胤(れんいん)、法華堂に參り、念誦讀經(ねんじゆどくきやう)の間(あいだ)、懷舊の涙頻りに催す。一首の和歌を堂の柱に題して云く、「草も木もなびきし秋の霜消ヘて、空き苔を拂ふ山風」今按ずるに、昔は法華堂と云者、是のみに非ず。【東鑑】に、右大將家・右大臣家・二位家・前の右京兆等の法華堂とあり。【佐竹系圖】にも、佐竹上總の入道、比企谷(ひきがやつ)の法華堂にて自害すとあり。然れば、此の法華堂には限らざるなり。其の比(ころ)法華を信ずる人多き故、持佛堂を皆法華堂と名る歟。此法華堂を、右大將家の法華堂と云なり。

   *

とあるのに基づく。文治四(一一八八)年四月二十三日の条を引いておく。

   *

○原文

廿三日己丑。於御持佛堂。被始行法華經講讚。唱導師阿闍梨義慶也。是可爲毎月廿三日式云々。此日。御臺所御祖母之忌日也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日己丑(つちのとうし)。御持佛堂に於いて、法華經講讚(こうさん)を始行せらる。唱導師は阿闍梨義慶なり。

「是れ、毎月廿三日の式たるべし。」

と云々。

此の日は、御臺所の御祖母の忌日なり。

「講讚」は仏典の経や論を讃えてその内容を講義し、そのことによって功徳を期する法要の一種。顕教立(けんぎようだて:顕立(けんだて)。顕教による法会の意で密教立(密立(みつだて:一定の式法に則って印を結んで真言を唱える法式で諸尊供養などの秘儀即ち導師の修法(しゅほう)を行うものを言う。)に対する。導師の修法は行わずに専ら教義・教史を言葉で説くことを主とするもので、講式・読経・論義などが法式の眼目作法となる。)の法要の代表的なもの。講讃には論義(質疑問答)が付随することが多く、その場合は「講問」とも称する。講ずる内容が多いために数座に渡る講讃は特別に「法華八講」「最勝十講」などと呼称する。例えば「法華八講」は法華経全八巻を八座に分けた講讃で、毎日の朝座(あさざ)・夕座(ゆうざ)の二座を四日間続けて完了するのを本儀とするが、日数を短縮したり座数を減じたりすることもある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「御臺所」政子。

   *

「右大將家・右大臣家・二位家・前の右京兆」頼朝・実朝・政子・義時。

「佐竹系圖」清和源氏新羅三郎義光流で、源義家の末弟義光源家分流の中でも名門(その兄義綱から別れたのが新田氏(義貞)や足利氏(尊氏))。佐竹昌義を祖とし、後代には秀吉によって天下の六大名の一人と公認された佐竹義宣がいる。

「佐竹上總入道」佐竹与義(ともよし ?~応永二九(一四二二)年)は室町前期の武将で常陸国久米城(現在の茨城県久慈郡)城主で佐竹山入家三代目当主。父は佐竹貞義七男師義(佐竹宗家義篤の弟)の子。官位は刑部少輔・上総介。兄の早世により家督を継ぎ、父師義の代以来の蓄積した実力と京都将軍との繋がりを背景にして、鎌倉府と結び付いた佐竹宗家と競合を開始、とりわけ、上杉憲定二男上杉義人の佐竹宗家への入嗣を機に対立を激化させた。応永二三(一四一六)年に上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反旗を翻すと、大掾満幹(だいじょうみつとも)らと共に禅秀方に荷担、持氏を助ける佐竹義人らを攻撃した。乱後も執拗に抵抗を続けたが、持氏の激しい討伐に遇って鎌倉の比企谷(ひきがやつ)の法華堂にて、子や家臣十三人と共に自害して佐竹一族の主導権獲得を狙った野心的一生を終えた(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。佐竹宗家はこの養子義人(第十三代当主)によって継がれた。]

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