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2014/10/06

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  島津忠久墓

   ●島津忠久墓

法華堂の後阜岩窟の内にあり。忠久は賴朝の庶子なり。民部大輔惟宗廣言が婿となりて。惟宗氏を冐(をか)す。始左兵衛尉となり。左衛門尉に遷り。後豐後守に轉し。薩摩大隅日向の三國を領す。安貞元年六月十八日卒す。六十歳。法名を淨光明寺得佛と云ふ。相撲風土記に云。按するに忠久の墓此地に在る事疑ふべし。鎌倉の事蹟舊く記せしものにも所見なし。今(いま)碑に安永八年己亥二月。薩摩中將重豪建ㇾ之。承薩州侯之命。東都龍湖親和八十歳謹書と彫(てう)す。古墳を修飾せしにも非す。此に賴朝の墳墓あるにより新(あらた)に遠祖の碑を造立せしものと覺ゆ。

[やぶちゃん注:「島津忠久」(?~安貞元(一二二七)年)は正しくは惟宗(これむね)忠久。島津氏の祖とはされる。以下、ウィキ島津忠久によれば、内大臣中山忠親の日記「山槐記」に治承三(一一七九)年二月八日に春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とする。『忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子』(頼朝乳母比企尼の長女)『だった縁で頼朝に重用されるようにな』った。文治元(一一八五)年三月には、『比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとみられ、恩賞として』『伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている』。同年八月に『摂関家領日向国島津荘下司に任命され』、『これが忠久と南九州との関係の始まりとな』り、島津荘地頭となった忠久は文治二(一一八六)年に『薩摩国山門院(現・鹿児島県出水市)の木牟礼城に入り』(二年後に一旦戻るが、十年後の建久七(一一九六)年には『再び山門院に入り、まもなくして日向国島津院の祝吉に館(祝吉御所)を造って移り住んだと伝えられている。この他に、現・宮崎県都城市安久町の堀之内御所に居住し、後に祝吉御所に移ったという伝承もある』という。文治元(一一八五)年には信濃国塩田荘地頭職にも任命され、文治五(一一八九)年の奥州合戦では頼朝配下の御家人として参陣、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛の際にも行列に供奉している。建久八(一一九七)年、『大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任され』、建久九(一一九八)年、『左衛門尉に任官される。これ以降、忠久は島津荘を名字の地として島津(嶋津)左衛門尉と称する』。ところが、頼朝死後の建仁三(一二〇三)年九月に起った比企能員の変では能員縁者として大隅・薩摩・日向の守護職を没収されてしまう。この時、忠久はたまたま紛争解決のため、『守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった』。『比企の乱後は在京していたとみられ』、建暦三(一二一三)年二月には第三代将軍源実朝の学問所番として名が挙がっており、既に御家人としての復帰が認められる。同年六月に起った『和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年』七月には没収されていた『薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま』で、この二国の『復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている』。『承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は藤原氏の系統)』。安貞元(一二二七)年六月十八日の『辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)。墓は現在鎌倉市西御門の源頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている』(とあるが、これは本文にもあるように後世のものであるので注意)。この本文に「忠久は賴朝の庶子なり」とあるように、『島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。ただし、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいない』。『また、以前は「惟宗広言の実子説」が定説であったが、惟宗氏は文官で「言」を通字としているにも関わらず、広言の子として(「忠」を通字とする)忠久や弟・忠季がいるのは不自然と思われるとの理由から、現在では同じ惟宗氏でも「惟宗忠康の子」とする説が有力である。母に関しては忠久は』『比企能員の変に連座して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されている通り比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる』。『忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護をする武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた』。『出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという』。『惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白・藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた』。『こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられ』、『以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった』とある。

「後阜」「こうふ」は後ろの丘の意。

「惟宗廣言」(これむねひろこと 天承二(一一三二)年~文治五(一一八九)年)は平安時代の歌人・官人。文章生を経て、大宰少監・式部丞を歴任、文治二(一一八六)年に筑後守となっている。今様の名人として後白河法皇に親しく仕えた。参照したウィキ惟宗広言には、『島津氏に伝わる公式書類ではその祖とされている。妻は比企能員妹(丹後内侍)とされるが、島津氏の史料にしか出てこない話であり疑問もある。子に島津氏の祖である惟宗忠久がいる。実子説と養子説があるが、通字の問題などから実子説については近年疑問視する説が有力である』とあって、別に、同族で平安後期に摂関家(藤原北家)に仕えた京侍であった「惟宗忠康」(?~治承三(一一七九)年?)のウィキ記載には、『島津氏の祖である忠久の父とする説があり、忠久の母の丹後局が忠康の一族の惟宗広言の妻になった縁により、忠久・忠季も広言の養子となったものとする説がある』ともある。

「冐す」は「他家の姓を名乗る」の意。

「安永八年」西暦一七七九年。

「薩摩中將重豪」薩摩重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は第九代薩摩藩主・島津家第二十五代当主。鹿児島生まれ。宝暦五(一七五五)年に父重年の死去により十一歳で襲封、祖父継豊の後見を受けた。同八年に元服して同十二年に一橋宗尹(むねただ)の女子保姫と結婚、安永五(一七七六)年には三女茂姫も一橋治済(はるさだ)の子豊千代との縁組が成立、豊千代は後に家斉と名を改めて将軍徳川家治の養嗣子に迎えられ、天明六(一七八六)年に第十一代将軍に就いた。これによって重豪は将軍の岳父となり、幕府内でも御三家に準じる待遇を受けて江戸城の殿席も大廊下の間に移された。この優遇の背後には彼と親交のあった田沼意次の意向が働いていたと言われる。重豪は学問を好んで中国語・オランダ語を操り、自ら「南山俗語考」を著したり、百二十巻に及ぶ博物書「成形図説」の編纂を命ずるなど学術を振興、殖産興業を勧めて、文武諸般に亙る文化施設の充実にも努めた。長崎オランダ商館のティチング・ドゥーフ・シーボルトらとも交流があって、江戸屋敷にオランダ文物を収集した独楽園を設けたりもしている。隠居後も実権を持ち続け、このような豪華な文化政策を推し進めたところから藩財政が破綻、家老樺山主税らが重豪の政治を否定すべく改革に乗り出したが、文化五(一八〇八)年になって重豪はこれを弾圧、首謀者たちに切腹を命ずるなど百人を超える大量の処罰者を出した上、翌年には藩主斉宣をも廃位した。この「近思録崩れ」或いは「文化朋党事件」と呼ばれた事件によって藩主は孫の斉興(なりおき)に代わったが、重豪は引き続いて藩政の実権を握った(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「龍湖親和」「りゅうこしんな」と読む。江戸中期の能書家で武術家であった三井龍湖(元禄一三(一七〇〇)年~天明二(一七八二)年)。書家,武術家。信濃生まれで江戸深川に住んだ。書では細井広沢門下四天王の一人。広沢没後は関思恭と人気を二分、額や幟(のぼり)を書いて流行書家となり、特に得意とした篆書は各種の染物や織物に用いられて「親和(しんな)染め」と呼ばれた。武術家としても弓馬の門弟も多かった。この碑文はそんな彼の晩年の作品である(講談社「日本人名大辞典」の他、書画骨董商のサイトの記載も参照した)。]

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