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2014/10/16

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 蜷川式胤との出逢い 附 目利きの達人モースの語(こと)

 最近私は有名な好古者、蜷川式胤(ニナガワノリタニ)と知合いになり、彼を自宅に訪問した。彼は日本に於る各種の陶器に関する書物を著している。この本には、石版刷の説明図が入っている。それ等は、どちらかというと粗末で、手で彩色したものだが、而も同じ問題に関するフランスや英国の刊行物に入っている、最も完全な着色石版画よりも、はるかによく陶器の特質をあらわしている。同書の初めの五部に描出してある品は、私が日本へ来る前、たのであるが、私はすでに描出された物に似た、代表的な品を手に入れんとしつつあり、蟻蜷川はそれ等を私のために鑑定することになっている。若し私が、彼が記述し且つ描出したのと同じ種類の陶器を手に入れ得れば、蜷川の本に出て来る画の本体である、もとの蒐集に、殆ど劣らぬものが出来る。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、腕足類及び貝類の専門家であったモースは、散歩の途中、ある店先に売られていたホタテガイを模した刺身皿を見て面白く思い、それを買い求めてからというもの、貝を模したその手の陶器を盛んに集め出し、ある時、日本人の友人にそれを得意気に見せたところ、そういうものは安物だ、本物を見せて上げましょう、と陶器の鑑定会に彼を連れて行った、そこで初めて素晴らしい陶器を見たモースはすっかり日本の陶器に魅せられてしまったという。彼の後半生の日本陶器を主体とする膨大な民俗学的コレクションの蒐集は、まさにこの出逢いから始まったのであった。

「蜷川式胤(ニナガワノリタニ)」原文“Ninagawa Noritani”。「にながわのりたね」が正しい。既注であるが、改めて注する。モースの陶器収集の師であった蜷川式胤(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は京都東寺の公人(くにん:社寺に属して雑事に従った職員。)蜷川子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛などを歴任したが、明治十年に病により辞任、この間、明治四年に開催された九段坂上の物産会、翌五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年には近畿地方の社寺宝物検査に従事してもいる。その際、正倉院宝物調査の記録を残したことでもよく知られる。また、文化財の調査保存や博物館の開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠る追加)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)などで、おいおい語られてゆくこととなる。因みに、モースは『漢字が読めなかったが、貝類を分類し同定(種類の識別)するのとまったく同じ流儀で、陶工の銘を子細に識別できた。このような熱心さを知って、師匠の蜷川も本腰を入れて指導したから、モースの鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった。「めんないちどり」といって、両眼を手拭で覆い、手と指の感触だけで焼物がどの系統の何焼か、誰の作かを当てる競技があるそうだが、蜷川式胤の孫の蜷川親正氏が父から聞いたところでは、モースはこの競技での正解率随一の人だったという』とある。モース、恐るべし!

「日本に於る各種の陶器に関する書物」後に「初めの五部」とあることから、これは明治九(一八七六)年からこの明治一一(一八七八)年にかけて刊行された蜷川式胤著述「観古図説」と考えて間違いない。ウィキの「蜷川式胤によれば、退職前の明治(一八七六)年一月、『屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を刊行したとある(後に第六冊・第七冊も刊行している)。これはモースの言うように、『石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った』もので、『仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった』とある。この五冊、モノクロームではあるが、国立国会図書館近代デジタルライブラリでその総て見ることが出来る!]

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