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2014/10/06

北條九代記 卷第六 疫癘流行 付 鎌倉四境鎭祭

      ○疫癘流行  鎌倉四境鎭祭

同十二月、關東の諸國、疫癘行はれ、諸人、是を患(うれふ)る者は薬石漿水(しやうすゐ)喉(のんど)に入らず、大熱狂亂して不日(ふじつ)に死す。村里の際(あひだ)、家々に歎悲(なげきかなし)む聲、相連(あひつらな)り、尸(かばね)を葬るに所狹(せ)く計(ばかり)なり。武藏守泰時、大に驚き歎き給ひて、陰陽頭(おんやうのかみ)國道朝臣を召して、「此事如何して鎭めらるべき」と仰出さる。國道申しけるは、「古(いにしへ)より以來(このかた)例(ためし)なき事に候はず。疫鬼(えきき)流行(るぎやう)すれば、人必ずこの毒氣(どくき)に中(あた)り、病を受けて惱み候。是、偏(ひとへ)に上の政事(まつり)穩(おだやか)ならず。下の行ひ邪(よこしま)なれば、天地、是に感じて、癘鬼(れいき)出でて、禍災(くわさい)あり、疫(えやみ)計(ばかり)に限るべからず。火難、水災(さい)までも、惡鬼(あくき)の所爲にあらずと云ふ事候はず。只願くは、上に廉直の道を開き、仁慈の德政を行はせ給はば、下、必ずその惠(めぐみ)に浴し、上下比和(ひくわ)の安泰に歸(き)せば、天地交感し、神明、威(ゐ)を增し、擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐら)し給はゞ、惡鬼は遠く他方に逃去(にげさ)りて、世は淳朴(じゆんぼく)の風に歸り、人は豐樂(ぶらく)の德に住(ぢう)せん。昔、一條院の御宇、長保三年に疫癘(えきれい)大に流行(るぎやう)せしかば、五月九日に紫野(むらさきの)に疫神(やくじん)を祭りて、社を立てて鎭めらる。藤原長能が歌に、

  今よりはあらぶる心ましますな花の都に社(やしろ)定めつ

と詠みたるは今宮の神社の事にて候。今以て存ずるに鬼氣(きけ)の祭(まつり)を四境(きやう)に行ひ給はゞ然るべく候か」とぞ申しける。泰時「さらば祭をいたせ」と仰(おほせ)あり。國道軈(やが)て宿所に致り、幣帛(へいはく)、供物、作法の如く調へて、東は六浦(むつら)、南は小壺(こつぼ)、西は稻村(いなむら)、北は山〔の〕内、鎌倉の四境(きやう)に於いて神祭(じんさい)をいたしければ、癘氣、是にや依りけん、程なく疫(えやみ)は終りけり。

[やぶちゃん注:標題「疫癘流行 付 鎌倉四境鎭祭」は「えきれいるぎやう つけたりかまくらしきやうちんさい」と読んでいる。「吾妻鏡」巻二十六の元仁元(一二二四)年十二月二十六日の記事に基づくが、湯浅佳子氏はしばしばお世話になっている「『鎌倉北条九代記』の背景 『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり」(東京学芸大学紀要・二〇一〇年一月刊)で『陰陽師国道の、廉直・仁慈の政治を行えば天地交感し神明擁護あって疫病退散するという進言を泰時が受けたという話を書き加え、『吾妻鏡』の疫病流行による神祭の記事を、これから始まる泰時の仁政への』記載への『契機として位置づけている』と、「北條九代記」筆者による泰時を殊更に称揚する傾向をよく分析しておられる。

「同十二月」元仁元(一二二四)年十二月。この直前の貞応三(一二二四)年十一月二十日に元仁に改元しており、改元自体も天変炎旱によるものとされている。

「不日に」幾日も経ずして。

「陰陽頭」「陰陽權助」の誤り。權助(ごんのすけ)は、陰陽寮長官である陰陽頭(おんようのかみ:従五位下。)の補佐役として次官級の陰陽助(おんようのすけ:従六位上。)がおり、その副官(権官:同じく従六位上。)。

「上下比和」ここは単に貴賤の者がともに親しんで心和らぐぐらいの意で採ってよいが、国道が陰陽師であることを考えると、この「比和」は元来は陰陽五行説の「比和」(同じ気が重なることによってその気は盛んとなり、その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなるという五行間の属性の一つ)を指して言っていることが分かる。

「長保三年」西暦一〇〇一年。因みに、この前年の長保二年二月二十五日に藤原定子と藤原彰子がそれぞれ一条天皇の皇后と中宮となって、始めて一帝二后が始まっている。

「五月九日に紫野に疫神を祭りて、社を立てて鎭めらる」一九九四年刊岩波新日本古典文学大系「後拾遺和歌集」(久保田淳・平田喜信校注)の本歌の注に、同年同日に『天下疾疫により紫野に疫神を祭り御霊会と号し、社を今宮』(現在の京都市北区にある今宮神社)『と号した(日本紀略)。ただし、長能集には「五条にて厄神の祭つかまつる」という。これによれば五条天神のことか』とある。「紫野」は京の北方(現在の京都市北区附近)の原野の古称。

「藤原長能」(ながとう/ながよし 天暦三(九四九)年?~?)平安時代の歌人。「蜻蛉日記」の藤原道綱母の弟で、姪は「更級日記」の作者菅原孝標女。蔵人などを経て従五位上・伊賀守に至った。歌人として多くの歌合に出詠、特に花山天皇にはその出家後も側近として仕え、「拾遺和歌集」編纂にも関与したと考えられている。能因の和歌の師となったが、これが後に歌道に於ける師資相承の濫觴ともされる。藤原公任に自作を非難されて病を発して死去したという説話も伝えられる(「袋草紙」「古本説話集」に所収。死に至ったとされる病的な執心の委細はウィキの「藤原長能」を参照されたい)。その歌風には技巧にとらわれない清新なものがあり、次代の新風への道を開いたとされる。「拾遺集」以下の勅撰集に五十二首が入集する(以上の主節は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「今よりはあらぶる心ましますな花の都に社定めつ」「後拾遺和歌集」の「巻第二十 雑六」(一一六五番歌)であるが、実はこの前に同人の、極めて同様の内容を持った神への祈願歌が併載されており、本歌にも後書があるので、以下に両首ともに示す(底本は前出の岩波新日本古典文学大系を用いたが、恣意的に正字化した)。

 

  世の中騷がしく侍りける時、里の刀禰(とね)

  宣旨にて祭(まつり)つかうまつるべきを、

  歌二つなんいるべきといひ侍(はべり)けれ

  ばよみ侍りける

しろたへの豐(とよ)みてぐらを取り持ちていはひぞそむる紫の野に

 

いまよりは荒ぶる心ましますな花の都にやしろ定めつ

  この歌はある人云、世中騷がしう侍りければ、

  船岡(ふなおか)の北に今宮といふ神をいは

  ひて、おほやけも神馬たてまつりたまふとな

  んいひ伝へたる

 

簡単に底本を参考に注を附すと、第一首目は、

・「里の刀禰」はその土地の神職の者。

・「豐てぐら」御幣(「豐」は褒める意を持つ接頭語)。

・「いはいぞそむる」は表面上は「祝いぞ初むる」(祭祀初めて始める)であるが、同時に「しろ(たへ)」「紫」の縁語として「染むる」が掛けられている。本文引用の第二首目は、

・「いまよりは」祭祀した今宮の社名に掛ける。

・「舟岡」紫野西方にある歌枕。

である。因みに「長能集」では、最初の神を祭りますと告げる歌を「はたり歌」、後の神を和める歌を「はや歌」と呼んでいる、とある。孰れも訳は不要であろう。

 

 以下、「吾妻鏡」の元仁元 (一二二四) 年十二月二十六日の条を引く。

 

○原文

廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壺。西稻村。北山内云々。〔私云。此次嘉祿元年乙酉。同二年。安貞元年丁亥。三ケ年之間事無之。令漏脱歟。如何。此間若君御元服。又二位家薨逝等之事可有之。〕

○やぶちゃんの書き下し文

廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はる。治對(ぢたい)すべきの由、陰陽權助國道、之れを申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦、南は小壺、西は稻村、北は山内と云々。

〔私(わたくし)に云はく、此の次の嘉祿元年乙酉、同二年、安貞元年丁亥、三ケ年の間の事、之れ、無し。漏脱せしむか、如何。此の間、若君御元服、又、二位家薨逝(こうせい)等の事、之れ、有るべし。〕

なお、最後の附記の漏脱かとされる部分については、後に島津本「吾妻鏡」とされるものの中から「吾妻鏡脱漏」として見つかった(とされて)と現在に伝わる。]

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