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2014/11/30

北條九代記 卷第六 勝木七郎子息則定本領安堵

      ○勝木七郎子息則定本領安堵

同二年正月二十三日に、將軍家、由比浦に出で給ふ。小笠懸、遠笠懸、次に流鏑馬、犬追物を御覧ぜらる。小山〔の〕五郎、三浦四郎、武田五郎、小笠原六郎に別の仰(おほせ)ましまして作物(つくりもの)を射させられ、御入興は限なし。去年十月末つ方この浦に出で給ひ、流鏑馬のありける次(ついで)に相摸〔の〕四郎、足利五郎、小山五郎、武田六郎、小笠原六郎、三浦又太郎以下の輩(ともがら)に仰せて、三的(みまと)の後に、三々九・四六三等の作物を射させらる。「この藝は朝夕に御覽ぜらるべき事にあらず」と相摸守時房内々諫め申さるゝといへども、深く御入興の餘連々(れんれん)御覽ましまして、今にその事を賞せらる。同二月六日鶴ヶ岡の別當法印は僧綱(そうがう)の衆五六人相倶して、御所に參り、盃酒(はいしゆ)を獻ぜらる。相州參られしかば、駿河〔の〕前司以下數輩(すはい)召れて伺候す。此所に上綱(じやうがう)の召俱せし兒(ちご)、年の程十二、三計(ばかり)なりけるが、同輩の兒童(じどう)には杳(はるか)に勝(まさ)りて容儀偉(ようぎうるはし)く、しかる藝能、至りて勝(すぐ)れ、聲、美しく歌ひければ、梁塵(りやうぢん)宛然(さながら)飛揚して、庭の梢に風戰ぎ、聞く人、耳を涼(すずし)めたり。今樣、朗詠し、廻雪(くわいせつ)の袖を翻せば、天津少女(あまつをとめ)の舞の姿もさこそと思準(おもひなぞら)へ、雲の通路(かよひぢ)吹閉(ふきと)ぢよと、滿座、その興を催され、將軍家御感の餘(あまり)、「如何なる者の子にて有りげるぞ」と問はせ給ふ。法印、申されけるは、「去ぬる承久の兵亂に圖(はか)らざるに官軍に召されし勝木(かつきの)七郎則宗(のりむね)が子にて候。所領悉く沒收(もつしゆ)せられ、一族、家人(けにん)、離散して、忽に孤(みなしご)となり、山林に吟(さまよ)ひけるを、この法師が養ひ置きて候。又、この外には誰(たれ)をかも賴むべき人とては更になき者にて候」と申されしかば、武藏守、「其は誠に不便(ふびん)の事」と仰せらる。彼(か)の則宗は、正治の比には梶原景時に同意せしかば、召禁(めしいまし)められけるを、適(たまたま)、免許を蒙(かうぶ)り、本領を安堵して筑前國に下向せしに、院の西面(せいめん)に召されて、官軍に加へられ、身の滅亡に及びたり。然れ共、家門久しき者の末なり。御取立、之あらば忠義を存じ奉るべし、と各(おのおの)申し上げらるゝ。同じき八日、評定を遂げられ、勝木七郎則宗が本領、筑前國勝木莊(かつきのしやう)元の如く、返し下さる。此所は中野〔の〕太郎助能(すけよし)が承久の勲功に依て勸賞(けんじやう)行はれし領地なれども、子息の童(わらは)に返し賜(たまは)り、助能には筑後國高津、包行(かねゆき)の兩莊を其替(かはり)に賜りけり。一藝一能に感應すれば、自然にその德、備(そなは)る事、古今、是、爾(しか)なりと、有難かりける御惠(おんめぐみ)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜元(一二二九)年十月二十二日、寛喜二年閏正月二十三日、二月六日・七日・八日などの記事に基づく。

「將軍家」頼経。当時、十一~十二歳。後に掲げる「吾妻鏡」で見るように、関東武士の射芸に歓喜する少年であった。

「勝木七郎」は後に出る勝木則宗。梶原景時の家人。相撲の達人で第二代将軍頼家の側近でもあったが、梶原殿の乱の時、梶原殿についていたとして罰せられた。後に赦免されて出身地であった筑前国御牧(みまき)郡(現在の遠賀郡)に帰国、後に鳥羽院の西面の侍となったが、承久の乱で京方に加わったために所領を没収、一族は離散した。「北條九代記 卷第二」の「勝木七郎生捕らる付畠山重忠廉讓」を参照されたい。

「同二年正月二十三日」後で掲げるように寛喜二(一二三〇)年正月二十三日の誤り。

「小笠懸」「笠懸」(笠掛)とは疾走する馬上から的に鏑矢を放ち、的を射る騎射の総称で、小笠懸は遠笠懸(後注)を射た後に馬場を逆走して射る騎射。的は一辺が四寸から八寸程度(約十二センチメートルから二十四センチメートル)四方の木製板を竹棹に挟み、埒(走路左右の柵)から一杖前後(約二・三メートル)離れた所に立てる。地上から低くして置かれるため、遠笠懸と違って騎手からは足下に的が見える。矢は小さめの蟇目鏑を付けた矢を用いる。小さな的を射る所から「小笠懸」という。元久年間(一二〇四年~一二〇五年)以降は次第に行われなくなったという。

「遠笠懸」遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これを疏(さぐり:馬の走路。)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(後掲する流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目(おおひきめ)と呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」という(以上の笠懸の記述はウィキの「笠懸」に拠る)

「流鏑馬」は「やぶさめ」、「競馬」は「きそひうま」と読む。騎射の一つで、方形の板を串に挟んで立てた三つの的を、馬に乗って走りながら順々に鏑矢で射るもの。平安末から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、しばしば神社で奉納された。「矢馳せ馬(やばせうま)」の転とされる。馬場は直線で、通常は二町(約二百十八メートル)。進行方向左手に間を置いて三つの的を立てる。馬場から的までの距離は五メートル前後、的の高さは二メートル前後。射手(いて)は狩装束を纏って馬を疾走させ、連続して矢を射る。主に参照したウィキの「流鏑馬」より「歴史」の前半部を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略、改行部を連続させた)。『流鏑馬を含む弓馬礼法は、八九六年(寛平八年)に宇多天皇が源能有に命じて制定され、また『中右記』の永長元年(一〇九六年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延二年(一一三六年)三月四日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永一〇・二・二六条)し、九月十七日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記)『吾妻鏡』には源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮では四十七回の流鏑馬が納められたとされる。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法や兵器が進化して足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた』とある。因みに、私の妻の教え子はこの伝統を今に伝える小笠原家の御曹司で、流鏑馬を引く。

「犬追物」牛追物(うしおうもの:鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたという)などの矢で射る武芸。)から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次(よびつぎ:呼び出し役。)に、百五十匹の犬を投入、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。

「小山五郎」小山長村。下野国の豪族小山氏第四代当主。父は小山朝長で小山朝政の孫。弓矢に優れており、鶴岡馬場の儀式での射手も務めている。

「三浦四郎」三浦家村。三浦義村四男。弓術に優れており、少年の頃に狼藉者に襲われたが、その頭目の股間に狙いを定めて強弓を放って命中させ即死させたという。流鏑馬では家村の弓は百発百中の精度を誇り、執権北条泰時からも藤原秀郷の再来と礼賛された。三浦氏が亡んだ宝治合戦の際には行方を晦まして、その後、執権北条時頼・時宗父子を脅かし続けた「三浦の亡霊」としても知られる。(以上は反アカデミズムでアブナいが故に強烈に私好みのアンサイクロペディアの「三浦家村」に拠る)。

「武田五郎」武田信長。馬術・弓術に優れた鎌倉初期の弓馬四天王(他に小笠原長清・海野幸氏・望月重隆)の一人武田信光の縁者かとも思われる。

「小笠原六郎」小笠原時長。弓馬術礼法小笠原流の祖である小笠原長清の嫡男。小笠原氏の嫡家伴野氏の祖。承久四(一二二二)年の正月に弓始の儀で射手を務め、同年七月にも小笠懸の射手を務めている。

「去年十月末つ方」寛喜元(一二二九)年十月二十日。

「相摸四郎」北条朝直。初代連署北条時房四男で評定衆の一人となった。大仏(おさらぎ)流北条氏祖。ウィキの「北条朝直」によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したが、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄二(一二二六)年には当時の執権『北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められ』たものの、二十一で無位無官の朝直は『愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月には、『朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られ』、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。寛喜元年当時、満二十二歳。

「足利五郎」足利(吉良)長氏(おさうじ)。足利氏の有力一門であった三河吉良氏祖。足利義氏庶長子。ウィキの「吉良長氏」によれば、『母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる』とあり、「吾妻鏡」には安貞二(一二二八)年)七月に『将軍藤原頼経の随兵として登場するのが最初で』、以後、この寛喜元年の『流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い』などに出た後、仁治二(一二四一)年一月の椀飯の記事を最後に「吾妻鏡」からは、『長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる』とある。弘安八(一二八五)年、『霜月騒動で息子満氏を失ったため、嫡孫吉良貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる』とある。寛喜元年当時、未だ満十八歳。

「三浦又太郎」三浦氏村。三浦朝村嫡子として父死後の幕政に参加、「吾妻鏡」には射手としてもしばしば名が出る。

「三的」先に示した流鏑馬の定式の三つの的の謂いであろう。

「三々九」教育社の増淵勝一氏の訳注によれば、有意に低い三尺(凡そ九十一センチメートル)の高さに設定した(恐らくは遠笠懸)の的をいうとある。

「四六三」同前の増淵注に、『遠笠懸の一種。十二・十八・九センチ四方の板をくしにはさんだ三つの的を射るもの』とある。

「作物」定型外の、射難い、有意に低い位置に配した独自に作らせた特製の的。

「この藝は朝夕に御覽ぜらるべき事にあらず」この時房の諫めは、恐らくこれが弓術の定式から外れたもので、変型であるために設置に手間がかかり、しかも射手も実際には嫌がる変格物であったからではあるまいか?

「別當法印」鶴岡八幡宮筆頭法印であった定規。

「僧綱」僧尼の統轄・諸大寺の管理や運営に当たった僧の役職。律令制下では僧正・僧都・律師の三綱が定められており、それとは別に法務・威儀師・従儀師を置いて補佐させたが、平安後期には形式化した。ここでは単に高位の僧の称として用いられている。

「相州」北条時房。

「駿河前司」三浦義村。

「上綱」その時に同伴していた重役の僧の内でも、また取り分け身分の高い僧を指す。待ってましたとばかりの後の定規の台詞からは、実は定規自身の稚児であったのではないかとも疑われる(増淵氏は恐らく確信犯で定規の台詞をそのように訳しておられる)。

「梁塵宛然飛揚して」「梁塵秘抄」の書名としても知られる、「梁塵を動かす」の故事に基づく。漢の魯の虞公は声が清らかで歌うと梁の上の塵までも心ときめいて動いたという「劉向(りゅうきょう)別録」の故事による、歌や音楽に優れていることの譬え。

「今樣」今様歌(いまよううた)。平安中期に発生して鎌倉時代にかけて流行した当時の新しい歌謡。短歌形式のもの、七・五の十二音句四句からなるものなどがあって特に後者が代表的な型となった。白拍子・傀儡女(くぐつめ)・遊女などによってしきりに歌われ、貴族社会にも流行、これを好んだ後白河法皇は手ずから「梁塵秘抄」にこれらを集成した。

「廻雪」回雪。雪が舞うようにひらひらと袖を翻す舞い。

「天津少女」天女。

「思準へ」想像されて。

「雲の通路吹閉ぢよ」僧正遍昭の百人一首第十二番歌「天津風(あまつかぜ)雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」。

「吟(さまよ)ひける」「吟」には「さまよふ」という訓も意味もない。泣き叫びい嘯(うそぶ)くという意から派生させた一種の文学的当字であるが、気持ちは分かる。なかなかよいルビだ。

「院の西面」西面の武士(さいめんのぶし)。後鳥羽上皇が院の西面に伺候させた武士。北面の武士とともに院の警備・御幸の護衛・盗賊の追捕などの任に当たらせ、承久の乱では近衛兵となったが、乱後に廃止されている。

「筑前國勝木莊」現在の福岡県八幡西区大字香月(かつき)。

「中野太郎助能」幕府御家人。信濃生まれ。建保七(一二一九)年に実朝を暗殺した公暁の後見人であった勝円阿闍梨を捕縛して北条義時邸へ連行している人物として知られる。「吾妻鏡」の記載からは、泰時の采配によって、恐らくは勝木よりも肥沃で管理されていたと想像される筑後高津・包行の両名田(みょうでん:平安時代以降に口分田の私有化や荒地の開発などを契機として特定個人の私有として集積された田地のこと。所有者の名を冠して譲渡・買得などによって伝領された。荘園・国衙(こくが)領の基本部分を形成し、荘園制崩壊に至るまで年貢の賦課単位として機能し続けた。)を与えられたと解せる。

「勸賞」功労を賞して官位を進めたり、土地や金品物などを与えること。

「子息の童」勝木則定。

「筑後國高津」現在の福岡県北九州市小倉南区高津尾。

「包行」高津に近接する現在の福岡県内の地名と思われるが、不詳。

 

 以下、「吾妻鏡」を順次引いておく(文中の一部に《 》で注を配した)。まず、途中に出る、時系列上で古い寛喜元(一二二九)年十月二十二日の条。

 

〇原文

廿二日丙辰。晴。將軍家令出由比浦給。有流鏑馬。相摸四郎。足利五郎。小山五郎。駿河四郎。武田六郎。小笠原六郎。三浦又太郎。城太郎。佐々木三郎。佐々木加地八郎等爲射手。三的之後。三々九四六三以下作物等各射之。此藝朝夕非可被御覽事之由。如相州。内々雖被諌申。凡依有御入興。不及被止之。連々可被御覽云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日丙辰。晴る。將軍家、由比の浦に出でしめ給ふ。流鏑馬有り。相摸四郎・足利五郎・小山五郎・駿河四郎《家村》・武田六郎・小笠原六郎・三浦又太郎・城太郎《安達義景》・佐々木三郎《泰綱》・佐々木加地(かぢ)《新潟県の旧北蒲原郡加治川村。現在の新発田市下今泉加治地区の地名》八郎《信朝》等、射手たり。三的(みつまと)の後、三々九・四六三以下の作物等、各々、之を射る。此の藝、朝夕に御覽せらるべき事に非ざるの由、相州のごときが、内々に諫(いさ)め申らると雖も、凡そ御入興(ごじゆきよう)有るに依つて、之を止めらるるに及ばず。連々(れんれん)御覽ぜらるべしと云々。

 

 続いて冒頭に出る寛喜二(一二三〇)年閏正月二十三日の条。

 

〇原文

廿三日丙午。天晴。將軍家年首御濱出始也。渡御由比浦。先小笠懸。次遠笠懸。次流鏑馬。次犬追物〔廿疋〕。次小山五郎。三浦四郎。武田六郎。小笠原六郎。隨別仰。射作物等。御入興無他云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日丙午。天晴る。將軍家、年首の御濱出始(おんはまいではじめ)なり。由比の浦に渡御す。先ず小笠懸。次で遠笠懸。次に流鏑馬。次に犬追物〔廿疋〕。次に小山五郎、三浦四郎、武田六郎、小笠原六郎、別なる仰せに隨ひ、作物(つくりもの)等を射る。御入興の他無しと云々。

 

 以下、同寛喜二年二月六日から八日まで。

 

〇原文

六日戊午。鶴岡別當法印參御所。奉盃酒。相州。武州參給。駿河前司已下數輩候座。爰上綱具參兒童之中有藝能抜群之者。依仰數度飜廻雪袖。滿座催其興。將軍家又御感之餘。令問其父祖給。法印申云。承久兵乱之時。不圖被召加官軍之勝木七郎則宗子也。被收公所領之間。則宗妻息從類悉以離散。其身已交山林云々。武州尤不便之由申給。彼則宗者。正治之比。與同平景時之間。被召禁畢。適蒙免許。下向本所筑前國之後。候院西面云々。

七日己未。天晴。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

八日庚申。勝木七郎則宗返給本領筑前國勝木庄也。此所。中野太郎助能爲承久勳功賞。雖令拜領。依被賞子息兒童。給則宗畢。助能又賜替筑後國高津包行兩名。武州殊沙汰之給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日戊午。鶴岡別當法印、御所へ參り、盃酒を奉る。相州《時房》・武州《泰時》參り給ふ。駿河前司已下の數輩、座に候ず。爰に上綱具し參る兒童之中に藝能抜群の者有り。仰せに依つて數度、廻雪の袖を飜へす。滿座、其の興を催す。將軍家、又、御感の餘りに、其の父祖を問はしめ給ふ。法印、申して云はく、

「承久兵乱の時、圖らずも官軍に召し加へらるるの、勝木七郎則宗が子なり。所領を收公せらるるの間、則宗が妻息從類、悉く以つて離散し、其の身、已に山林に交はると云々。

武州、尤も不便の由を申し給ふ。彼の則宗は、正治の比、平《梶原》景時に與同(よだう)する間、召し禁ぜ(いまし)められ畢んぬ。適々(たまたま)免許を蒙りて、本所筑前國へ下向の後、院の西面に候ずと云々。

七日己未。天晴る。將軍家、杜戸へ渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔廿疋。〕等なり。例の射手、皆以つて參上し、各々射藝を施すと云々。

八日庚申。 勝木七郎則宗、本領筑前國勝木庄を返し給はるなり。此の所は、中野太郎助能、承久の勳功の賞として、拝領せしむと雖も、子息兒童が賞せらるるに依つて、則宗に給はり畢んぬ。助能は又、替りに筑後國高津・包行の兩名(みよう)を賜はる。武州、殊に之を沙汰し給ふと云々。]

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(4) 二 暴力(Ⅱ)

 

 獸類の雄も多くは強制的に雌を服從せしめるもので、あるいは追ひまはしたり追ひつめてこれを咬んだり突いたり蹴つたり、隨分甚だしい殘酷な目に遇はせ、終に雌をして抵抗を斷念するの止むなきに至らしめる。これは恐らく無意味なことではなく、その種族の維持繼續にとつて何か有益な點があるのであろう。詳しいことはわからぬが、受精のよく行はれるためにはまづ雌雄の生殖器も神經系も、それに都合の好い狀態にならねばならぬが、雄が追ひ雌が追はれなどして居る間にこれらの器官が受精を行ふに適する狀態に達するのではなからうか。もしさうであるとすれば、他から見て殘酷に見える所行は實は受精のための準備である。雌雄の蝶が出遇うても、決して直には交尾せず、長い間相戯れて居るが、これも受精を行ふに適するまでに身體を準備して居るのであらう。動物園で獅子や虎が交尾する前には、必ず吼えたり咬み合うたりして、夫婦で大喧嘩をするのもこれと同樣で、蝶が平和に相戯れるのも御子が殘酷に咬み合うのも目的は同じである。特に獸類で受精が暴力によつて行はれる場合には、代々最も強い雄の種が殘るわけとなつて、種族の發展の上にも幾分か好い結果を生ずるであらう。

 

 なほ動物の種類によつては、眞に暴力を用ゐるのでなく、たゞ形式だけ暴力を用ゐる眞似をするものがある。これはむろん一種の戲であるが、小鳥類などを見ると、往々雌が逃げ雄が追ひながら、こゝかしこと飛び廻つて居る。しかも遂げる者は決して眞に逃げる積りではなく、たゞ交尾までに若干の時間を愉快に費して、受精の準備をするだけである。かやうな場合には、雌は往々一時雄の見えぬところへ隱れることがあるが、雄が直に見付ければ更に他へ逃げ、もし雄が近處ばかりを搜して容易に見付け得ぬと、雌は一寸頭を出し、自分の居る處を雄に知らせて再び隱れて待つて居る。即ち子供らのする「隱れん坊」の遊戲と全く同じやうなことをして戲れて居るのであるが、形式だけは雄は追ひ雌は逃げ、終に追ひ詰められて相手の意に從ふやうな體裁になつて居る。これはたゞ一例にすぎぬが、鳥類や獸類には雌の竝んで居る前で、雄が戰爭の眞似をして見せるものの少くないことなどを考へると、眞に雄が暴力を用ゐるものから、さまざまの平和的の手段によつて雌をして喜んで雄の要求に應ずるに至らしめるものまでの間には無數の階段があり、しかもその目的はいづれの場合にも同一であつて、たゞ種族の維持のために受精を完全に行はしめるにあることが知られる。

耳嚢 巻之九 剛勇伏狐祟事

 剛勇伏狐祟事

 

 小笠原官次郎は、帶佩(たいはい)の家、弓術の家筋なり。或年伊勢へ代拜として家來兩人差立(さしたて)しに、右家來、東海道三遠(さんゑん)の内、宿場も聞(きき)しが忘れたり、旅籠屋に一宿して湯など遣ひ食事仕廻(しま)ひしに、亭主出(いで)て願(ねがひ)ある由申しけるゆゑ、いかなる願やと尋(たづね)しに、御先觸(おんさきぶれ)にて見候得(みさふらえ)ば小笠原家の御内(おみうち)の由、御家は弓術の御名も高ければ願ひ奉るにて候、私娘二三ケ年野狐に付(つか)れ相惱み候、醫藥祈禱手を盡し候得共しるしなし、何卒鳴弦蟇目(めいげんひきめ)の御術(おんわざ)にて落し給(たまは)り候得と深切に願ひければ、兩人存(ぞんじ)の外の願ひ、素より射術の家に仕ふれども、弓を射し事もなき程なれば大(おほい)に難澁せしが、右の内壹人申けるは、我等を見懸けての賴みいなむべきやうなし、二三年もつき居る野狐なれば卒尓(そつじ)の事にては退散覺束なし、得(とく)と考(かんがへ)て可答旨申(こたふべきむねまうし)、さて一間に入りしが、今一人の男、御身は何を以て請合(うけあ)ひ給ふや、御身我等とも弓術の家に仕ふとはいへども、我は弓を射し事もなしと申ければ、我に任せ、我(わが)申し付る通りいたさるべしと申付(まうしつけ)、さて其身は兩人とも水をあび麻上下(あさがみしも)を着して、彼(かの)壹人の者にいふやう、我等射術の家に仕へ弓射るすべしらずと答へば、我々のみにあらず主人の恥辱、天下の恥なり、誠に一生懸命の所なり、我等は生きて歸る心なしとはげまし、さて弓具を持出(もちいだ)しけるゆゑ、是を見るに、かけ釣の弓矢か、又は奉納の弓矢にや、獵師の弓矢なるや、亭主差出(さしいだ)しければ、さらば病床へ案内あれとて、右狐付を引据ゑ置(おき)、諸肌を拔(ぬき)て彼弓に大雁股(おほかりまた)の矢をつがひ、病人に向ひ大いに罵しりて云やう、畜類の身分、人間の體に宿をかり、殊に女の身分をなやます事不埒至極なり、最愛の娘なれども、是(これ)まで手を盡したるうへは死すとも不悔(くひず)と親々も申(まうし)なれば、我(われ)今此雁股を以て射殺すなり、覺悟せよと申ければ、病人大(おほい)に歎き、眞平(まつぴら)ゆるし給へ、最早立退(たちのく)なりと震ひわなゝき詫(わび)けるゆゑ、しからば只今立去(たちさ)るべしといふと、とらへ居(ゐ)し人を震(ふり)はなし、表の方へ駈出(かけい)で戸口に倒れけるゆゑ、介抱して水などそゝぎければ、息出(いで)て本性と成(なり)しとなり。今一人の男、だんだん樣子を尋ねければ、我等主人の恥、武備のおとろへと思へば、死を決し、彼を射殺す心なりと、語りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚二連発。

・「剛勇伏狐祟事」「剛勇(がうゆう)、狐祟(こすい)を伏する事」と読む。

・「小笠原官次郎」底本鈴木氏注に、『三村翁「小笠原館次郎神田橋外にて高七百八十五石なり』とあえい、岩波長谷川氏注に、同人として『小笠原持齢(もちとし)。射礼師範の家。天明六年(一七八六)小性組番士』とある。ネットを調べると、川勝隆安甥の小笠原館次郎とあって小学館「日本大百科全書」の「小笠原流」に、京都小笠原家の系統を記す中で、六郎播磨入道康広が『徳川家康に仕え、縫殿助(ぬいどののすけ)を号して長房、持真、持広、持賢、持易(もちかね)、持齢(もちとし)』と続き、歴代七百八十五石の旗本として『射礼師範、先手弓頭を勤め、幕末の鐘次郎の代に講武所弓術師範役を勤め明治維新に至った』とある。因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏である。

・「帶佩」本義は太刀甲冑などを身に帯びることをいうが、転じて能・舞楽・武術などの型や作法の意となった。ここでは小笠原流弓術特有の型や作法を指す。

・「三遠」三河国と遠江国。

・「先觸」公家や武家の公用旅行に於いて、前以って宿駅に立ち寄った際の手配を指示した命令書。

・「鳴弦」弦打(つるうち)ともいう。弓に矢を番えずに張った弦を手で強く引き鳴らす古式作法。その発する音によって妖魔を退散させ、邪気や穢れを祓うと考えられた。

・「蟇目」朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。

・「卒尓(そつじ)」の読みは底本のもの。卒爾・率爾。①予期せぬことが突然起こること。俄か。②注意や思慮を欠くこと。軽率。③失礼な行いをすること。無礼。ここは表面上は俄かのこと、軽率な仕儀の意である。しかし読む者にとっては実は、軽率に成すことによって特に小笠原流弓術を伝える主家に対する礼節を欠くこととなっては、の話者の本心にある虞れをも読み解くと厚みが出るように思われる。

・「得(とく)と」の読みは底本のもの。

・「かけ釣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「かけ的」とあり、これだと「賭け的」庶民の遊びで物を賭けて的を射ること賭博用のキッチュな弓というニュアンスになって、話柄を面白くするに相応しい。これで訳した。

・「大雁股」「雁股」は鏃(やじり)の一種で、先が二股に分かれていて内側に刃がついているもの。飛ぶ鳥や狐などの走る獣の足を射切るのに用いた。その大型の鏃である。

・「震はなし」底本では右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「震放し」で長谷川氏は「ふりはなし」と読んでいる。「振り放し」で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛勇が狐の祟りを調伏せし事

 

 小笠原官次郎(かんじろう)殿は、正統の小笠原流弓術を伝える家柄にて御座る。

 ある年のこと、主家の礼式とて、伊勢神宮への参詣の代参として御家来衆の内、二人を伊勢へお遣わしになられた。

 この家来衆が――東海道の三河であったか遠江(とおとうみ)であったか、その宿場の名も聴いて御座ったが失念致いた――とある旅籠(はたご)に一宿し、湯なんども浴び、食事も終わって寛いで御座ったところ、その宿の亭主が出て参って、

「……実は……一つ、お願い申し上げたき儀の、これ、御座いまする……」

と申したれば、

「……?……こんな我らに……何の願いの御座る?……」

と訊ねたところが、

「……御先触(おんさきぶれ)を拝見致いておりますれば……あなた方は、これ、かの小笠原家の御内(おみうち)との由……小笠原様は弓術の御名(おんな)も高(たこ)う御座いまする名家(めいか)なればこそ……たって、お願い申し上げ奉りたく存じまする。……私、娘、これ、二、三年このかた、野狐(やこ)に憑りつかれ、ひどぅ悩ませられて御座いまする。……医薬や祈禱、手を尽くして施して見ましたれど、一向に験(しるし)なく……ほとほと参って御座いまする。……されば何卒! 鳴弦(めいげん)・蟇目(ひきめ)の御術(おんわざ)を以って、この憑きたる妖狐を、どうか、落し給わりまするよう、お願い申し上ぐるので御座いまする!……」

切に願うのであった。

 両人にとっては寝耳に水、慮外の願い――もとより射術の家に仕えてはおるものの――彼らは二人とも――弓なんどを射し事、これ、一度たりとも――御座ない――。

 さればこそ、内心、大いに難渋致いて御座ったが、かのうちの一人が申すことには、

「……我らを――小笠原流正統の――弓達者の家の――家来――と見込んでの、その方の頼み、これ、断りようも御座ない。……二、三年にも亙って憑き居る野狐なれば、そう簡単には、退散、これ、覚束なきことじゃ。……とくと、策を考え、お答え申すことと致そう。あい、待たれよ。……」

と答え、二人して取り敢えず主人の導い客間へと入った。

 主人が席を外すと同時に、今一人の男は、

「……御身は何を以ってか、あんな申し入れを断らずに、請け合(お)うてしまわれた?!……御身も我らも、ともに弓術の家に仕える身とはいえど……少なくとも我らは……弓なんど、射しこと、これ、一度も御座らぬぞ!……どうさるるお積りじゃ?」

と焦って難じたところが、相手は、

「……我らにお任せあれ。……これより我らが申しつくる通りに、これ、なさるれば、よろしい。……」

と意を含める。

 さてもその後(のち)、主人に命じ、その身両人とも、井戸側(がわ)に於いて潔斎(けっさい)の水を浴び、伊勢参拝に予め持参致いて御座った麻上下(あさがみしも)を着した。

 そうして請けがった方の男は、連れに、

「……我ら射術の家に仕えて弓射る術(すべ)を知らぬなんどと答えたれば、これは我々のみならず、我らが主人の恥辱。いやさ、天下の恥じゃ! ここはまっこと、一生懸命の正念場で御座る!……我らは、これを成さずんば……生きて江戸へ帰参致す所存、これ、御座ない!――」

ときっぱりと述べた。

 連れの男はあまりの謂いに足が震えたが、ともかくも男の言に従うことと致いた。

 さて、主人が参って弓具を持ち出したを、見てみれば……これ……

……賭け的(まと)にでも遣おうものか……

……または……田舎の奉納の破魔矢(はまや)か……

……はたまた……賤しき猟師の用うる弓矢なるか……

……ともかくも……如何にもな、しょぼくれた弓矢を、亭主は差し出だいて御座ったのであった。

 しかし、

「――さらば――病床へ案内(あない)あれ――」

と告げ、家内の男衆とともに娘の部屋へと向かう。

 部屋の真ん中にその狐憑きの娘ごを引き据えおくと、やおら、諸肌脱いで、かの子供だましのようなる弓に、大雁股(おおかりまた)の矢を番え、病人に向って、

「畜類の分際にて! 人の体(からだ)に押し入ってその宿を借り――ことにか弱き女の身を、かくも無惨に悩ますこと――これ、不埒千万!――最愛の娘なれども――これほどまでに手を尽したるうえは死すとも悔いぬ!――と父母も申しておればこそ! 我ら! 今! この雁股を以って妖狐を射殺そうぞッ! 覺悟せよッツ!」

と、大きに罵しり喚(お)めいた!

 と!

 病人はこれ、大きに泣きじゃくりだし、

「……マッピラ!……ドウカ!……オユルシ下サリマセェ!……早速ニ……立チ退キ致シマスヨッテェ!……」

と全身、ぶるぶると、ふるわせつつ、頻りに詫びを入るればこそ、

「――然らば! 本日只今! この場にて立ち去れいッツ!!」

と呼ばわったところが、娘は、据え押しとどめておったる家人らの手を振りほどき、表の方へと駈け出でたかと思うと、

――パッタリ!

旅籠屋の戸口のところで、失神致いて倒れてしもうた。

 されば、介抱して水なんどを注ぎかけたところ、息を吹き返し、すっかり正気を取り戻して御座った。

 

 それより、旅籠屋主人(あるじ)の指し出だいたる手厚き謝礼をも断り、二人は早々に伊勢へと向かった。
 しばらく行って後のこと、連れの一人が、

「……いや……そろそろ話しても、よかろうが。……我ら、どうなるかと……気を揉んで御座ったぁ……」

と水を向けると、妖狐退治の英雄は、

「……いや……我らが主人の恥……加えて我ら武士なれども、武備の衰えなんどと、かの者らに思われては、これ、面目が立たんと、ちょいと思うたに過ぎん。……まあ、お前さんにとっては迷惑……また、信じもせまいが……実は……いざとなったら――死ぬ覚悟を以って――ほんに――かの娘を射殺さんずる決心にて――弓を――引き絞って御座った……」

と語ったと申す。

明恵上人夢記 46

これ、超難解な夢で、しばらく手をつけなかったのだが、今回、モスクワ大学日本語学科の教師で、明恵の「夢記」をロシア語訳しておられるウラジミール氏とのフェイス・ブックでの出逢いを記念し、昨夜来より挑戦してみたものである。



46

一、同十二月廿八日の夜、夢に云はく、覺雄闍梨(かくをうじやり)を僧正に、成辨之沙汰として成さしむ。さて、彼(か)の人の爲に水を湛へ了んぬ。誠に澄徹(ちようてつ)せるに、其の水の面に畫文(ゑもん)を書く。其の形

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の如くなる文を書く。地をわりて廣益(くわうやく)一段許りに書けり。其の中に小さき魚等入りて、快く水上に遊戲し、際畔(さいはん)に候ふ。さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也と云々。

[やぶちゃん注:この夢は非常に難解である。私はシュールレアリスム的なロケーションの想定なしには、解釈はおろか、単に現代語訳することも不可能と考えている。

「同十二月廿八日」建永元(一二〇六)年十二月八日。栂尾に参って住するようになった十一月二十七日(当月は小)から数えて三十一日後(当該日を数えなければ丁度、一ヶ月後)のことである。当月は大の月であったから、小晦日の前日である。明恵の夢記述は白昼夢を除けば、その日の日記記載の後に記しており、これも通常考えれば、二十八日の夜から翌二十九日未明にかけての夢と読むべきであるから、寧ろ、明恵には年が改まる直前、一年の最後の日の前日という小晦日が強く意識されていたと考えるべきである。

「覺雄闍梨」不詳。底本に注なし(本夢には一切注がない)。「闍梨」は阿闍梨と同義(狭義の限定的なものもあるがここでは同義ととる)で、サンスクリット原義の「師」の謂いととってよかろう。但し、「覺」と「雄」の字をともに共有する人物で、「師」であり、「僧正」として密教の修法を主宰し得る人物が明恵の近くには一人いる。明恵の師である叔父上覚の師で、既に本夢記にも親しく登場している文覚である(彼はこの前年元久二(一二〇五)年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられて対馬国へ流罪となり、その途次の鎮西で客死している)。彼は「高雄の聖」とも呼ばれた。これは文覚と考えてよいと私は思う。

「成辨之沙汰として成さしむ」とあるから、法式全体の主催者は覚雄阿闍梨(文覚)であるが、その実際の修法は《文覚が明恵にその総てを執行させた》ということ、即ち、私は以下の「彼の人の爲に水を湛へ了んぬ」とあるものの、それはあくまで「彼の人」=法式主宰である文覚の、「爲に」=その命を受けて、「水を湛へ了んぬ」(水を眼前の修法を行う空間に湛え漲らせた)であり、その後の「畫文を書」いたのも不思議な文字(画像)「の如くなる文を書」いたのも、「地をわ」ったのも、「廣益一段許りに書」いたのも、そこに逍遙遊する魚らを見て「わざと池をほれるに似たる物哉」と「云」ったのも、「大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也」と言ったか心内に思ったのも、総て明恵であると解釈する。それは、これらの動作総てに渡って敬語が用いられていないからである。もしこれらの仕儀の一つでも主宰者の文覚自身が行った行為、言った言葉であったならば孫弟子である明恵が敬語なしにそれを表記することはあり得ないからである。但し、ここが大事な点なのであるが、それは同時に最初に前提条件として附されてあるように、以下総ての仕儀が「彼の人の爲に」行われた、僧正たる文覚の完全なる意志に従って執り行われたものであることをも意味している、ということである。これらは明恵の能動的な意志による行為と感懐及び観察でありなから、同時に師文覚のそれらとも完全に一体のものであるという点である。即ち、この夢の中で明恵がする行為の象徴する何らかの意味は、文覚によって既にして承認されていると、夢の中で修法を執行している明恵が確信している、ということを明示していると私は読むのである。

「水を湛へ了んぬ」前注で示したように、ここの映像化が難しい。「其の水の面」「地をわりて」「際畔」「池をほれる」「大きなる河」といった文字列を見てしまうと、具体的な地面や池のような具象的なものにイメージが引っ張られてしまうのであるが、どうもこれらの語彙は明恵によって厳密に選び出されて組み合わされた表現として私には映るのである。即ち、これは現実の修法が執り行われる護摩壇や祭壇の映像ではない。また、ヴァーチャルなリアリティを持った――黒々とした地面、そこを掘り割って造られた日本庭園、禅の心字池のようなもの、或いは何か水を湛える巨大な鉢なんどのような具象物――でも、ない。言うなら、これは寧ろ、前の「45」夢で私が想定したような、現実を超越した思惟世界の空間に明恵(及びその背後に在る一体化した文覚の意識)は浮遊しており、そこに水が湛えられ、水面(みなも)には漣が立っている(これは私の解。「誠に澄徹」(徹底的に澄んで透き通っている)とあるから、満々と湛えられ、微動だにしない完全に透明な純水とも読めるが、そうするとそれが「溜まった水」であると認知し難い――ここは専ら、この夢のイメージ化に対する私自身の要請である――からであり、そうした質感がないと、そもそもがその後の《その水面に文字を書く》ということもさらにイメージし難くなってしまうからである)。それが湛えてある「池」の底の部分に当たる「地」面はしかし、これも透明で見えないのである。見えないが、しかし「地」はあるのである。だからそれを「わり」、そこにかく、池のような溜まった「物」を創ることも出来るのである。説明がくだくだしくなったが、以上が、私がまず本夢を自分の脳の中に再構成するために必要とした最低条件であったのだと御理解戴きたい。

「畫文を書く」絵のような文字のような紋のようなものを、その水面に書く、のである(プライベート・フィルムではその不思議な文字の外縁から周りに向かって細かな漣を立たせたい)。

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この文字、私は初めて目にした二十代の頃からずっと今に至るまで、

『「門」の略字を二つ横にくっつけたような感じだな』

と思い続けてきた。昨夜、寝る前に凝視してみたが、やっぱり、

『これって「門」か門のような絵を二つ並べたようにしか見えないよな』

と思いつつ、寝に就いた。今朝目覚めた瞬間、

『これって二つの「門」――聖道門と――浄土門、易道門――の二つじゃないか?』
という思いつきが閃いた。明恵はこの六年後の建暦二(一二一二)年、専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」を痛烈に批判する「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、発菩提心(ほつぼだいしん)の欠落を指弾しているものの――ここが私が最も引かれる明恵の「心直き」ところなのであるが――、法然に対して明恵は実はその修道心と学才に非常に強い尊敬の念を持っていたのであった。それゆえにこそ、「選択集」に示された「誤り」を正さずにはおれなくなって「摧邪輪」を書いたのであったし、明恵自身は終生、自己加虐的とも言える過酷な難行苦行を自身に課した、脱俗志向の強い人であったが、例えばウィキの「明恵」にあるように、彼の『打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』もあって、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』のである。即ち、明恵は、聖道門と易道門が両輪となってこそ、旧態然とした目の粗い笊でしかなかった国家鎮護の平安旧仏教から、真に衆生を残らず済度する鎌倉新仏教へと脱皮出来る/脱皮せねばならないと考えていたのではなかろうか? そう解釈するなら、この二つに見える「門」のようなものが実は――聖道門と易道門が合体して有機的な一体に融合したところの〈まことの仏性の中へと人々を導き入れるための「門」〉として示されてある――と読み説くことは出来ないであろうか?

「文」「文字」或いは「文章」。

「地をわりて廣益一段許りに書けり」前段との対称性から、これは「(その水を湛えている見えない「地」面部分を裁ち割って、(今度は、「水」の上の「門」のところではない)そこ、底(核心? 腑?)に「廣益」(広くこの仏国土と衆生たちに利益をもたらすこと。「益」は「法益」と同義と考えるなら、これは師が上堂や講義によって大衆に対して説法して教化する、それを広範に行うことを意味する語とも採れる)を象徴する章句を「一段」(ひと文章・一塊)書き込んだと解釈する。

「小さき魚」衆生の象徴というよりも、寧ろ、「荘子(そうじ)」の「秋水篇」に載る、「知魚楽」という呼称で知られる話柄を私は直ちに連想した。この原話は、私の偏愛するもので、教員時代には漢文で必ずと言ってよいほど採り上げた。以下の注に、原文と語注と私の現代語訳があるので参照されたい。――この魚らは心から楽しんでいるのであり、それをその見えない池の池畔に佇んで見ている明恵(同時に文覚)には全く同時にその魚らの心の楽しみが分かっている――という謂いであろう。

『さて云ふ樣、「わざと池をほれるに似たる物哉」といふ。大きなる河の中に地をわりて此の如く成れる也』これは、

――それを見ながら私明恵は、口を開いて、

①「わざと池をほれるに似たる物哉」(人がわざと池を掘って造ったものによく似ているなあ!」

――とはっきりと独り言を言った。

――さて、この夢の中の私が口を突いて述べた時、夢の中の私は心内に於いて、その自分の吐いた言葉を、

②「大きな、水が流れている河の中、その底を、わざわざまた、浚渫掘削し、こんな風になったという謂いである」

――と再度、感じたのである。

という一見、迂遠重複としか思われない叙述をしている点に着目すべきである。私自身の夢記述の体験から言うと、こういうまどろっこしいダブった記載法を採るのは、その台詞や言葉が非常に重要な意味を持つと、夢の中の私と覚醒時の私双方が、全く等価同様に感じた際に限られると思う。即ち、実はこのかったるい最後のだらだらして見える二文こそが、この夢の謂いたいところなのではなかろうか? 即ち、これは、

――普通、大河の底を掘って池を掘るなんてことは無用の用だ。

――しかし事実は、その無用の用にこそ、私の行為の真理は隠されているのだ。

――だからこそ、この魚ら(私明恵を含めた衆生)は心から楽しんでいるのである。

という安心立命の表現と私は採りたいのである(無駄で意味がないという謂いでネガティヴに解釈することも無論、可能であるが、私は明恵の場合、そう感じた激しく後退的で悲観的な夢については(見ていたとは思う)、明恵はあまり書き残そうとは思わなかったのではないかと感じている。]

 

■やぶちゃん現代語訳

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一、同十二月廿八日の夜、見た夢。

『覚雄阿闍梨(かくゆうあじゃり)様を僧正として、私に一切を執り行なわさせる修法を修させておられる。

 まず、私は広大無辺な光に満ちた空間の中に漂っている。

 私は、徐ろにかの覚雄阿闍梨様のために、その空間に水を十二分に湛え終えた。

 そこに満たされた水は実に美しく透き通っていたのであるが、私はその透明な絹のような水の面(おもて)に一つの絵のような紋を書くのである。

 その字紋の形、

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のような不思議な感じのものであったが、しかし、それを私は確かに意味を持った、そうしてその意味を理解して確かな「文」として書いたのである。

 次いで、今度は、その見えない水底の地面を裂き割って、その裂け目の部分に、広く民草を心から教化(きょうげ)するところの章句を、一くさり、書き込んだ。

 するとその私は裂き設けたその淵の中に小さな魚たちはすぅーっと入ってきて、如何にも気持ちよさそうに、その淵の水の中に遊戯し、時によってはその水際に佇んでいる私のところへまたすぅーっと寄り集ってきては如何にも楽しそうにそこに暫くいるのである。

 さて、そうした総てを見て私が口に出して言った言葉は、

「……何とも……人がわざわざ池を掘ったのに似てることだなあ!……」

という台詞であった。

 これは言い換えると、

――大きな川の中に、わざわざその川底を裂き割ってかくの如くに、「川の中に池を創った」ようなものだ――

という意味なのであった。…………』

2014/11/29

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  覺園寺

    ●覺園寺

鷲峰山眞言院と號す。禪律にて京都泉涌寺の末寺なり。本尊藥師〔長八尺運慶作〕及日光月光十二神〔各長五尺宅間作〕を安す。古昔大倉藥師堂或は大倉新御堂或と稱せり。故に今も此地の小名を藥師堂谷と稱す。當寺は永仁四年。平貞時の建立にて。開山は心慧(しんゑ)和尚。諱は智海願行の法嗣(はふし)なり。文和二年十月。足利尊氏當寺門前敷地に造築の沙汰あり。三年佛殿修造成て。十二月。尊氏梁牌銘を書す。其文左の如し。

[やぶちゃん注:以下の梁牌銘は、底本では全体が一字下げ。]

  梁牌銘

今上皇帝聖壽無疆。天下元黎。淳風有道。異國降伏。昌懇祈之法場。伽藍常住。轉不窮之法輪。人々歸敬三寶。國々歌樂太平。敬白、征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹書。

征夷將軍冠蓋一天。武威統於萬邦。榮運及於億載。梵宇固基。至慈尊之出世。法燈無盡。照徧界之重昬。衆僧和合。諸天擁護。敬白。文和三年十二月八日。住持沙門思淳謹誌。

[やぶちゃん注:古義真言宗。明治初年に兼学が禁じられる以前は真言・律・禅・浄土教の四宗兼学の道場であった。北条義時が建保六(一二一九)年に異様な拘り(財政難で周囲から反対されている)の中で半ば私的に私財を擲って建立した大倉薬師堂を前身とする(この薬師堂と実朝暗殺に纏わる変事については「北條九代記」の実朝暗殺前後の回などの注釈でも述べ、愚作小説にも書いた)。第九代執権北条貞時が永仁四(一二九六)年にこれを寺に改めた目的は元寇の難を逃れんことを祈禱せんがためで、鎌倉時代を通じて北条氏の手厚い庇護を受け、幕府滅亡後も後醍醐天皇勅願所、建武中興後は足利氏祈願所となり、修学寺院として大きな勢力を持った。大火によって初期の伽藍が失われたが、文和三(一三五四)年には尊氏の支援によって仏殿が再建された(以下の梁牌名はその時の自署になるものである)。現在の本寺の薬師堂は、元禄期の震災で破損したものを、規模を小さくしつつも、古材を用いて再建したもので、梁に尊氏の自署を天井に現認出来る。しばしば最後の鎌倉らしい寺などとも喧伝される。

「八尺」約二・四二メートル。

「五尺」約一・五二メートル。

 「梁牌銘」を訓読しておく。「昬」は「昏」に同じい。

   *

  梁牌の銘

今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏懇祈の法場を昌にし、伽藍常住、不窮の法輪を轉ず。人々三寶に歸敬し、國々太平を歌樂す。敬して白す 征夷大將軍正二位源朝臣尊氏 謹書

征夷將軍、蓋として一天を冠すること、武威萬邦を統べ、榮運億載に及ぶ。梵宇、基を固くして、慈尊の出世に至る。法燈、盡ること無し。徧界の重昬を照す。衆僧和合し、諸天擁護せん。敬して白す 文和三年十二月八日 住持沙門思淳 謹誌

   *

 当時の覚園寺住職から私が二十代の頃、伺った話では、敗戦まで、この外しようのない逆賊「尊氏」の梁牌サインのお蔭で、しばしば若き日のその和尚は石を投げられた、とのことであった。]

[やぶちゃん注:以下の各項は、底本では二行目以降は一字下げとなっている。]

地藏堂 大地殿の額を掛く。八分字なり。傍に永祿十二歳己巳十月二十四日。芳春(ほうしゆん)院李龍周興新造之とあり。舊くより黑地藏と稱呼し、又里俗は火燒地藏と唱ふ。毎年七月十三日の夜。男女群參(ぐんさん)す。此の堂舊くは鎌倉海濱に在しを。後理智光開山僧願行此に移せしなり。時に此像靈佛にして奇瑞多かりし事、沙石集に見えたり。

[やぶちゃん注:「八分字」とは、「大地殿」の文字が八のパートに分かれていることをいうか? 識者の御教授を乞う。

「永祿十二歳己巳」「己巳」(つちのとみ)。西暦一五六九年。

「奇瑞」「新編鎌倉志卷之二」の「覺園寺」の「地藏堂」の項の中に、

   *

相伴ふ、此の地藏、地獄を廻り、罪人の苦(くるし)みを見てたへかね、自ら獄卒(ごくそつ)にかはり火を燒(た)き、罪人の焰(ほのを)をやめらるゝとなり。是故に、毎年七月十三日の夜、男女參詣す。數度彩色(さいしき)を加へけれども、又一夜の内に本(もと)の如く黑くなるとなん。

   *

とある。ここまで記さないと案内記としてはダメであると私は思う。

「沙石集に見えたり」以下は私が「鎌倉攬勝考卷之五」の注で示したものであるが、再掲しておく。この「沙石集」の話は同書「卷第二 六 地藏菩薩種々利益事」の冒頭に現れるものである(底本は一九六六年刊岩波古典文学大系版を用いたが、本文ルビ仮名カタカナ表記が読み難いため、ひらがな化して示し、繰り返し記号「〱」「〲」は正字化、一部のルビや編集記号を省略した)。

   *

 鎌倉の濱に、古き地藏堂あり。丈六の地藏を安置(あんぢ)す。其邊の浦人常に詣(まうで)けり。或時、日比詣ける浦人共、面々に夢に見けるは、若僧の美目形(みめかたちち)うつくしきが、「日來常に見參(げんざん)しつるに、人に賣(うられ)て外へこそまかれ。さて名殘惜くて、詣で來る」と、の給ふと見て、怪み思ふ程に、此堂の主(ぬし)貧(まづしき)儘に、先祖の堂を賣(うる)間(あひだ)、東寺の大勸進の願行坊上人、是れを買て、二階堂の邊に遷造(うつしつくら)んとて、佛像を渡し奉るに、人夫不足にて思煩(おもひわづら)ふ處に、いづくよりともなく、下種(げす)法師の勢(せい)大きなるが來りて、「十人が振舞は仕(つかまつる)べし」とて、持ち奉る夫(ふ)、今十人ばかり不足なるに、此法師甲斐甲斐しくもちて、やすやすと運(はこび)渡しつ。さて食(じき)せさんとする程に、かきけつ樣に失(うせ)ぬ。權化のわざにやと人怪む。同法の僧、慥(たしか)に見て語(かたり)侍りき。さて彼の佛のうなじの貧相(ひんさう)におわしますを、上人、佛師を呼(よび)て、なをさしめんとするに、「靈像にておわしませば、輙(たやす)く破(やぶり)がたし」と云ひければ、別の佛師を呼(よば)んとする處に、件(くだん)の佛師來て、「夢に、若(わかき)僧來(きたり)て、「只我身をばなをせ。苦見(くるしみ)亡きぞ」と、仰らるゝと見て候へば」とて、直し奉りぬ。又其後檀那出來て、供料など寄進してけり。佛の相も人の相に違ずといへり。當代の不思議也。彼の上人の弟子の説也。世間又かくれなし。さて彼の夢に見奉りし浦人、信を致し、歩(あゆみ)を運(はこび)て詣で、よその人も聞及(ききおよび)、貴び崇(あがめ)奉るとなん。[やぶちゃん注:以下、一般論としての仏像補修の理を解くが省略する。]

   *]

弘法護摩壇蹟 寺後の山上に平石あり。其石上(せいじやう)に護摩(ごま)を燒し蹟と云ふ穴あり〔方四尺深二尺許〕其傍に又穴あり〔各徑八寸許〕加持水(かちすゐ)と名つけて自然水を貯ふ。如何なる旱天にも涸るゝ事なしと云ふ。又此邊山腹に巖穴あり〔方九尺深二間〕法王窟と唱ふ。其由來を傳へす。

[やぶちゃん注:この覚園寺境内の北の尾根の張り出しの部分、やや東の杉ヶ谷やぐら群を中心に、辺り一帯の多数のやぐら群を通称、「百八やぐら」と呼称している。「法王窟(やぐら)」や「団子窟」など、その幾つかは「鎌倉攬勝考卷之九」の最後に絵入りで紹介されているので参照されたいが(これは「新編鎌倉志」にはない、鎌倉特有のやぐらを不完全ながらも初めて纏めて紹介した非常に優れた記載であると私は思っている)。これらの大部分は古くからこの覚園寺の管理にあった、これについて私の知人と思われる(と言うより私の妻の知人と思われる)もちださんのHPの「百八やぐら群」に、ここが覚園寺の持ちとなったのはいつごろかはよくわからないとした上で、以下のような面白い記事を載せておられる。引用させて戴く。覚園寺文書の内の『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえるが、これを「いはくら=やぐら」とよみ、その祭祀権・所有権などを公方府などから承認されたさいの文書群の存在をしめすもの、とのみかたがある。空想をめぐらせば、北条氏関係の古いやぐらをひきつづき供養することを覚園寺に許した(もとめた?)ということになるのだろう』。幕府滅亡後、『同寺はまず後醍醐天皇の勅願寺として、ついで足利氏が独自に復興した。思淳和尚は尊氏・直義から信任され、いまも住職等が懐中電灯で解説してくれる薬師堂』にある梁牌に『に尊氏とともにサインした長老である。こうした状況から見て、後醍醐や尊氏の意図は滅亡した幕府の亡霊を鎮魂供養することにあったとみてまちがいないし、梁牌にかかれているように天皇(後光厳天皇)や「征夷将軍」の息災長寿、異国降伏など、国家の重大事にかかわる怨霊ののろいを慎重に取り除くためだった。これを裏付けるのは命日供養のなかに直義(兄・尊氏によって殺害)の名もみいだせることである』。この梁牌のクレジット、正平九・文和三(一三五四)年『といえば尊氏によって元弘以来戦没者供養の一切経が書かれたのと同じ年にあたる』。『覚園寺文書で興味深いのは、薬師三尊の胎内銘札だ。江戸後期、天保のころに寺が荒廃したので、院代儀英、寺の目代源兵衛という者が仏像をねこそぎ江戸・回向院にはこんでいって出開帳(展覧会)をおこなった。これが失敗におわり、莫大な借金を負ったばかりか仏像も破損。追い詰められたふたりは逐電、のたれ死んでしまった。たまたま二階堂村の豪農が修繕費を負担して再興にこぎつけたが、のちの誡めにとこのてんまつを銘札に書き付けてのこすことにした、とある』。沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」寛永十(一六三三)年の頃は、『荒廃した鎌倉の寺々のなかでも覚園寺はまだましなほうだった。それでも江戸後期にはこのていたらくにおちいっていた。やぐらももはや、だれのお墓でもなくなり、正体不明ななぞの遺跡になっていたらしい』とある。ここでもちださんが『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえる』とするのは、「鎌倉市史 資料編第一」の覚園寺文書に載る応永一四(一四〇七)年六月十九日のクレジットを持つ五二二番資料「覺園寺文書目錄」中の一条、

一 石藏安堵等一結在之、

を指す。但し、同書には頭書して『石藏山淨業寺カ』とあって、「鎌倉市史」の編者はこれを足利将軍家の直轄領(御料所)にあった浄業(じょうごう)寺かと推定しており、百八やぐらのことを指すとは考えていない。

 孰れにせよ、ここに限らず、鎌倉及び旧鎌倉御府内地域と遠隔地でも鎌倉の寺の旧寺領内にのみ存在が限定されるとされるやぐら群の管理は全くの放置と言ってよい酷さである。今の内に徹底的に精査し、ちゃんとした保存措置をとらないと、私はこの鎌倉独特の謎のやぐら群の秘密(私は鎌倉のやぐらは圧倒的な埋葬者の不明性は勿論、その装飾や鎌倉市内での分布の局地性なども謎だらけと言ってよいと考えている)永久に解き明かされることはなくなってしまうと真剣に危惧している。

棟立井 覺園寺後の山上にあり。古傳に弘法此井を穿て閼伽の料(れう)とせしと云ふ。鎌倉十井の一なり。

[やぶちゃん注:上部(井戸自体は横井戸形式)にある石が家屋の屋根の棟立(むねたて)、即ち、破風(はふ)の形をしているところからかく呼ばれ、「破風の井」とも呼称する。私は現認したことがない。白井永二編「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊)によれば、昭和三六(一九六一)年の山崩れによって土中に埋まってしまい、棟形の一部しか確認が出来ないとある。]

甲子夜話卷之一 25 木下淡路守公定、槍術の事

25 木下淡路守公定、槍術の事

足守侯の先代、木下淡路守公定と云しは、槍の達人なり。其槍穗、殊に小にして柄長し。即今の足守侯出行に持す所の槍是なり。予が先、加藤氏〔大洲侯〕の先も、皆その門人なり。世稱して淡路流と云しと。予此人の事蹟を聞に、槍を以て技を抗するとき、まづ槍刄を掌中に握て露さず。人因て戰べき物を知らず、突進てかゝるに輙其刄を發し遠く刺す。人因て當ること能はず。これを無形の構と謂ふとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「足守」足守(あしもり)藩。備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。藩庁を足守陣屋、現在の岡山県岡山市北区足守に置いていた。

「木下淡路守公定」足守藩第五代藩主木下(きんさだ、承応二(一六五三)年~享保一五(一七三一)年)を指しているが、彼は肥後守である。定はこれが正式な名であるが、「公定」で代用されることが多いと、参照したウィキ木下にある(以下もその記載に拠る)。定は、一般には元禄一四(一七〇一)年三月の赤穂事件で浅野長矩改易の際に龍野藩主脇坂安照とともに赤穂城の受取役を務めたことで知られ、宝永五(一七〇八)年には仙洞御所と中宮御所の普請で功を挙げている。『藩政においては「桑華蒙求」を著して家臣教育に務めるとともに、果樹栽培を奨励し、領民を豊かにしたと言われている。また、祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった』とある。調べてみると、淡路守であったのはこの槍術の開祖である第三代利当(としまさ)、続く第四代利貞、下って静山の頃の文字通り、先代であった第八代利彪(としとら)がそうであるから、開祖と直近のそれとで間違えたものか。

「加藤氏〔大洲侯〕」底本では「加藤氏の〔大洲侯〕」となっているが、読み難いので、かく位置を動かした。これは「おほず(おおず)」と読む、大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩主は静山が本書を書き始めた当時なら第十代加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年~文政九(一八二六)年)であった。その「先」で木下定の門弟となり得るとすれば、第三代の泰恒か第四代泰統(やすむね)、以下泰済までの代々藩主が同門流であったということであろう。

「輙」「すなはち」。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 茶入れについて

M524

図―524

M525   

図―525

M526

図―526

 

 非常に数の多い骨董品店で、人は屢々漆器、象嵌(ぞうがん)、籠細工、その他にまざって、色あせた錦の袋に入った、陶器の壺(図524)があるのに気がつく(図525)。壺には象牙の蓋があり、そして形も外観も、極めて平凡であることが多い。これ等が陶器中最も古いものの一種であることを知らぬ人は、その値段の高さに呆れる。これはチャイレと呼ばれ、喫茶のある形式に使用する粉茶を入れるべくつくられたものである。それを納めた箱(図526)の蓋には、品名と陶工の名とが書いてある。比較的新しく、安価なものも多い。普通な種類に親みを感じ始めるのにさえも、多少の時間を要するが、研究すればする程、茶入の外観は魅力を増して行く。

[やぶちゃん注:「チャイレ」原文“chaire”。なお、これをフェイス・ブックに公開したところ、図535の紐の結び方は茶入れの中が空の時の結び方であるというコメントを頂戴出来た。私は門外漢なだけに目から鱗であった!]


 日本人は非常に多くの種類に紐を結ぶことに依って、彼等の芸術的技能を示す。その結びようの各々に、名がついている。これ等は贈物、袋、巻物、衣服を結んだり、その他の目的に使用される。粉茶を入れる小さな陶器の壺ほは、錦の袋に入っている。私はその袋の口を結ぶ結び方を覚え込み、茶入を袋に返してから、注意深く適当に紐を結んでは、いつでも商人の興味と同情とを呼び起した。私はかかる簡単な礼儀を守ることによって、陶器商間に於る私の好機を、大いに高めた。

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 天地凍む

  天地凍む

 

花温室の新月昏らみ年うつる

 

雲通る冬ほそ瀧のこだまかな

 

大熊座地は丑滿の寒さかな

 

強霜に峽川(かひかは)ほろく湛へけり

 

灯をかゝげ寒機月になほ織りぬ

 

八つ手凍て寢起きの魔風幽らかりき

 

[やぶちゃん注:「幽らかりき」は「かそらかりき」と訓じているか。]

 

冬の蟇川にはなてば泳ぎけり

 

山の童の木菟とらへたる鬨あげぬ

 

石蕗の凍て巖の鳴禽屎をとゞむ

 

[やぶちゃん注:「屎」は「くそ」。糞。]

 

去年今年闇にかなづる深山川

 

枯山に奥嶺は藍(あを)く鳶浮けり

 

冬薔薇の咲きかはむるゝ一と枝かな

 

日たかくて鷺とぶ蓮田氷りけり

 

土凍てて日を經る牛蒡朽葉かな

 

空寒く土音のして牛蒡掘る

 

寒風呂を出てなりはひの襤褸を着ぬ

 

子地獄の吹きさらさるゝ冬至風呂

 

櫛ひろふ手を水寒くこぼれけり

 

汲み溢る寒水の杓よるべなし

 

雪に鳴く雌の老雞を見かけけり

 

冬一時黝き蘇鐡に日すわりぬ

 

   甲斐絹の産地郡内

 

雪解富士戸々の賤機こだませり

 

[やぶちゃん注:「甲斐絹」は「かいき」と読む。海黄・海気・改機・海機などとも書き、経糸と緯糸を一対二の割合にして製織した本練りの絹織物をいう。特有の布面と光沢、絹鳴りを持ち、羽織の裏地・夜具地・座布団地・風呂敷などに用いられる。「郡内」(ぐんない)は山梨県都留郡一帯を指す地域呼称。ウィキの「郡内地方によれば、御坂山地と大菩薩嶺を境とした県東部地域で北都留郡及び南都留郡に相当し、県西部地域を指す国中地方と対比される。気象庁による山梨県内の気象区分では東部・富士五湖と呼ばれている。『人口は総じて相模川(桂川)流域沿いなど山間の平坦部に集まっている。近世に確立した郡内織が現在でも重要な地場産業であり、近年は交通が整備され、冷涼な気候や京浜・中京圏から近いことを活かした観光に力を入れている』とある。ここに出る「郡内織」は「甲斐絹」と同義的に用いられているものと思われるが、狭義には甲斐絹の一種が郡内織或いは郡内太織(ふとおり)と呼ばれていたらしい。詳しくは山梨県富士工業技術センターの企画・製作になる非常に優れたサイト甲斐絹ミュージアムを参照されたい。]

橋本多佳子句集「海彦」  霧に鳩

 霧に鳩

 

  「青燕」の人々に招かれて戦後初めて

  信州へ旅立つ。津田清子さん同伴

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和二七(一九五二)年の条に、『十月二日の夜行で、清子同伴、信州長野市の「七曜」支部発表式に、戦後初めて信州へ旅立つ。三日長野着。その午後木口奈良堂の案内で林檎園を見に行く清子を詠って』として後掲される「林檎の樹のぼりやすくて処女のぼる」が掲げられてある(「木口奈良堂」という人物は同支部の俳人と思われるが不詳。因みに清子は当時三十二歳である)。続けて、『六日、北軽井沢から鬼押出しに吟行。一冊の句帳を満たす』とある。

「青燕」は小諸の青燕俳句会の俳誌であるが、恐らくこの『「七曜」支部』とあるのと同一組織であろうと思われる。

「七曜」は昭和二五(一九五〇)年一月より多佳子が本格的に主宰した俳誌(創刊は昭和二十三年一月一日で多佳子の名で冬一郎指導と年譜にある)。

 因みに、この昭和二十七年の年譜末尾には、『この年より、青森の寺山修司、京武久美ら「七曜集」へ投句。修司より依頼され、その俳誌の誌名「牧羊神」を揮毫』とある。』京武久美(きょうぶひさよし:昭和一一(一九三六)年~)は青森県生。青森市立野脇中学校二年の折りに同級の寺山修司と友人となり、県立青森高等学校時代には文芸部でともに活動、俳句・短歌に熱中した。高校一年の時、京武の俳句が地方新聞の俳壇に掲載されたことへの競争意識が寺山の句作の原点となったという。昭和二九(一九五四)年の第一回全国高校生俳句コンクールで一位(二位は寺山)を獲得、若者のための全国的俳誌『牧羊神』を寺山とともに始めたことで知られている。後、金子兜太の『海程』で活躍、二〇〇九年に初めて処女句集「二月四日」を発表している(以上はウィキ京武久美に拠った)。寺山と多佳子が師弟関係にあることは必ずしもよく知られているとは思われないので、ここに記しおくこととする。

 なお、プライベートでは、この昭和二十七年の四月に多佳子は心臓の変調を訴え、心臓ノイローゼの診断を下されている(同年譜より)。]

 

汽車を乗り継ぐ月光の地に降りて

 

霧に鳩歩む信濃の着きしなり

 

霧寒きとき信濃川わたりゐたり

 

畑の樹(き)林檎幾百顆にて曇る

 

林檎にかけし梯子が空へぬける

 

林檎の樹のぼりやすくて処女のぼる

 

青胡桃ひろへり墓地の土つきしを

 

秋野の汽笛波立つ千曲渡り来て

 

「嬬恋」の字(あざ)に住み秋草のみじかさ

 

[やぶちゃん注:底本では「字」は「宇」である。「宇」には辺土や野原の意はあるから敢えて特異なルビ俳句とも採れぬことはないが、「あざ」とは決して読めない。私は敢然、誤植と断じて訂した。大方の御批判を俟つ。]

 

夕焼熔岩(らば)何処にてをとめのこゑ消ゆる

 

秋風や地底よりなる熔岩の隙

 

こほろぎやもとより深き熔岩の隙

 

こほろぎが生きをるこゑをよびかはす

 

胸先にくろき富士立つ秋の暮

 

天暮るる綿虫か地に着くまでに

        (二十七年)

 

[やぶちゃん注:「綿虫」雪虫。以下、ウィキを参照・引用して述べる。カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアブラムシのうちで、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称。体全体が綿で包まれたようになる。「雪虫」という呼び方は主に北国での呼称で、他に「綿虫」「オオワタ」「シーラッコ」「シロコババ」「オナツコジョロ」「オユキコジョロ」「ユキンコ」「しろばんば」といった俗称を持つ。体長は五ミリメートル前後。『具体的な種としては、トドノネオオワタムシやリンゴワタムシなどが代表的な存在である』。『アブラムシは普通、羽のない姿で単為生殖によって多数が集まったコロニーを作る。しかし、秋になって越冬する前などに羽を持つ成虫が生まれ、交尾をして越冬の為の卵を産む。この時の羽を持つ成虫が、蝋物質を身にまとって飛ぶ姿が雪を思わせるのである。アブラムシの飛ぶ力は弱く、風になびいて流れるので、なおさらに雪を思わせる』。『北海道では初雪の降る少し前に出現したりする(と感じられることが多い)ことから、冬の訪れを告げる風物詩ともなっている』。『雄には口が無く、寿命は一週間ほど。雌も卵を産むと死んでしまう。熱に弱く、人間の体温でも弱る』。最後に『俳句ではセッケイカワゲラのことを指し春の季語となっている』とある。セッケイカワゲラは襀翅(せきし)目クロカワゲラ科セッケイカワゲラ属セッケイカワゲラ Eocapnia nivalis のこおであるが、時期的にも表現からも多佳子の詠んだものは前者「しろばんば」の方であることは言うまでもない。]

 

  誓子先生、大和郡山に柳沢保承氏を訪ね

  らる。御案内しての帰途

 

椎どんぐり海龍王寺ぬけとほる

        (二十九年)

 

[やぶちゃん注:底本年譜にはそれらしい記載は見当たらない。「柳沢保承」というのは、名前からして、畿内の雄藩として知られた旧大和郡山藩の藩主であった柳澤家の第八代当主と思われる。柳沢保承(やすつぐ 明治二一(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年)は郡山藩最後の第六代藩主柳澤保申(やすのぶ)の子として生まれた。父死亡当時は幼少であったため、新潟県黒川の柳澤支藩の保恵(やすとし)が家を継ぎ、昭和一一(一九三六)年の保恵死後、柳澤家の家督を継いだ。伯爵・貴族院議員で昭和二二(一九四七)年に公選により初代郡山町長に就任、同二十四年に退職、その間、教育制度変更による新制中学校・新制高等学校の改編に努力した(以上は記載を参照した)。彼と誓子との関係については不詳。識者の御教授を乞うものである。]

杉田久女句集 307 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅢ 大正八年(1)

  大正八(一九一九)年

 

髷重きうなじ伏せ縫ふ春着かな

 

  新年

 

注連かけて屋根なき井戸やお降す

 

[やぶちゃん注:「お降」は「おさがり」で、元日に雨や雪が降ること又はその樋をいう新年の季語。]

 

あみの餠番する子等や初烏

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]

 

雪搔いて雜煮菜掘りしところかな

 

晴衣かけて松の内なる衣桁かな

 

[やぶちゃん注:着物を掛けておく衣紋掛けを指す「衣桁」は「いかう(いこう)」「えかう(えこう)」と二様に読める。「晴衣」(Haregi)「かけて」(kakete)「かな」(kana)のカ行音及び母音「e」音の有機的連続の心地よさから私は「えこう」と読みたい。]

 

水仙に至りし雪の齒あと哉

 

かきまぜてまだぬるき湯や寒の入り

 

短日の雀に閉めて夕餉かな

 

壁によせて布團寒げに寢る婢かな

 

あたへたる足袋を婢がつぐ爐べりかな

 

大河豚の腹横たへし俎上かな

 

竈たくや石の如落つ凍て雀

 

料理人來て冬木根に竈すゑにけり

 

鴨料る庖丁鋭く血を戀へり

 

[やぶちゃん注:久女真骨頂の鬼趣句。こういうのは他の女流が真似ても、彼女の句ほどの鬼気は生じぬと私は感ずる。それほどに久女の「鬼」には熱い「血」が感ぜられる。]

 

活け殘りし水仙つけて甕久し

 

石鹼玉小さく破れたる疊かな

 

[やぶちゃん注:タルコフスキイに撮らせたい。]

 

靑天衝て春めく枝の光りかな

2014/11/28

――芭蕉最期の枕邊にて―― 見る影やまだ片なりも宵月夜 / 芭蕉逝去

 

見る影やまだ片なりも宵月夜

 

(みるかげやまだかたなりもよひづきよ)

 

――寛文年間(一六六一年~一六七三年)――芭蕉二十代の句と推定――

 

……そうして……そうして……やっぱり……つぼみの……少女……かさね……芭蕉さま……芭蕉さま?……芭蕉さま!…………

 

[やぶちゃん注:「源氏物語」の「玉蔓」の帖にある、

……姫君はきよらにおはしませど、まだ、片(かた)なりにて、生ひ先ぞ推し量られたまふ。

に基づく。「片なり」とは身体の未成熟性をいう。私には、どこか大人になることを拒否する気配――プエル・エテルヌスに通ずるような――少女性を匂わせる語である。「宵月夜」で新月に近い月の擬人化という点でも、「片なり」は相性のよい俳言である。

   *

 以上、私のブログの「――芭蕉夜伽――」「――芭蕉枕邊――」等々に採った計四十八句は、現存する芭蕉の満二十九歳までの句と推定される総てである(諸家によって異同があるが、誰かが一人でもこれより後の三十以降の句としているものは原則、採用していない)。以上が確かな芭蕉二十若き日の句群の総てと考えて戴いてよろしいと存ずる。なお、芭蕉の宗匠立机は江戸に下った寛文一二(一六七二)年二十八歳の頃と考えられている。]

 

――芭蕉は――この夕刻、午後四時頃――

…………息を引きとったのであった…………

 

――芭蕉最期の枕邊にて―― 見るに我も折れるばかりぞ女郎花

 

見るに我も折れるばかりぞ女郎花

 

(みるにがもをれるばかりぞをみなへし)

 

――寛文年間(一六六一年~一六七三年)――芭蕉二十代の句と推定――

 

……もう、芭蕉さま……今度はお女郎の美形で御座いますか……芭蕉さま…………

 

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の僧正遍昭の「名にめでて折れるばかりぞ女郎花我落ちにきと人に語るな」を捩ったもの。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― たかうなや雫もよゝの篠の露

 

たかうなや雫もよゝの篠の露

 

(たかうなやしづくもよよのさきのつゆ)

 

――寛文年間(一六六一年~一六七三年)――芭蕉二十代の句と推定――

 

……これも何とも仄かに……私には、お稚児の匂いが漂うて参ります……芭蕉さま…………

 

[やぶちゃん注:この句は「源氏物語」の「横笛」の帖で数え二歳の薫が無心に筍を囓るシーン(話主は光)、

……御齒の生ひ出づるに食ひ當てむとて、筍をつと握り持ちて、雫(しづく)もよよと食ひ濡らしたまへば、「いとねぢけたる色好みかな」とて、

 憂き節も忘れずながら呉竹の

    子は捨て難きものにぞありける

と、率て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひ下り騷ぎたまふ。

に基づく。副詞「よよ」(滴り落ちる)には竹であるから、「節々(よよ)」も掛けられてある。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 植うる事子のごとくせよ兒櫻

 

植うる事子のごとくせよ兒櫻

 

(ううることこのごとくせよちござくら)

 

――寛文年間(一六六一年~一六七三年)――芭蕉二十代の句と推定――

 

……これはこれは……またしても……お好きな美少年の面影で御座います……少し妬けまする…………

 

[やぶちゃん注:「兒櫻」は曲亭馬琴著・藍亭青藍増補「俳諧歳時記栞草」に、

兒櫻 山櫻の一種なり。又小櫻のるゐにて別種也と云。按(あんず)るに、山櫻のうちに、紅色を含(ふくみ)て美(うつ)くしく愛(あい)らしき花あり。故に兒櫻の稱(な)ある歟。

とある(以上は岩波文庫版・堀切実校注「増補 俳諧歳時記栞草(上)」に拠ったが、恣意的に正字化した)。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 花にいやよ世間口より風の口

 

花にいやよ世間口より風の口

 

(はなにいやよせけんぐちよりかぜのくち)

 

――寛文年間(一六六一年~一六七三年)――芭蕉二十代の句と推定――

 

……「いやよ」とは、流石にお若くなければ、これ、使えませぬね…………

 

[やぶちゃん注:桜の花の散るを惜しむ諧謔句(「世間口」は咲くの散るのと喧しいことに番茶も出花の小娘への噂を掛ける。「風の口」は花を散らす風神の風袋の口)。「いやよ」は当時の流行り小唄の口調らしいが、まさに若い娘の口舌そのままである。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 夏木立佩くや深山の腰ふさげ

 

夏木立佩くや深山の腰ふさげ

 

(なつこだちはくやみやまのこしふさげ)

 

――寛文一二(一六七二)年――芭蕉二十八歳――

 

……何か小唄の如……軽やかななる響きが御座ます……私、好きで御座いまする…………

 

[やぶちゃん注:深山のその中「腹」に一叢の「木立」があるのを、「小太刀」に掛けて、その景色を「腰ふさげ」(形ばかりに粗末な小刀を腰に佩くこと)と称した。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 美しきその姫瓜や后ざね

 

美しきその姫瓜や后ざね

 

(うつくしきそのひめうりやきさきざね)

 

――寛文一二(一六七二)年――芭蕉二十八歳――

 

……芭蕉さまは……小いさな瓜さえも……可憐なお姫さま――末の美人になさってしまわれる……

 

[やぶちゃん注:「姫瓜」山本健吉氏「芭蕉全句」に、甜瓜(マクワウリ)の一種である『梨瓜の栽培品種で、今は作られていない』とある。]

 

――芭蕉最期の枕邊にて―― 雲とへだつ友かや雁の生き別れ

 

  かくて蟬吟早世の後、寛文十二子(ね)の

  春〔二十九才。〕仕官を辭して甚七ト改メ、

  東武に赴く時、友だちの許(もと)へ留別

雲とへだつ友かや雁の生き別れ

 

(くもとへだつともかやかりのいきわかれ)

 

――寛文一二(一六七二)年――芭蕉二十八歳――

 

……芭蕉さまの孤愁の真骨頂……出郷の二十八にして、最早、よう、現われておられますなぁ……

 

[やぶちゃん注:前書は岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」を参考にした。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 女夫鹿や毛に毛が揃うて毛むつかし

 

女夫鹿や毛に毛が揃うて毛むつかし

 

(めをとじかやけにけがそろうてけむつかし)

 

――寛文一二(一六七二)年――芭蕉二十八歳――

 

……芭蕉さま……やらかしちゃいましたね…………

 

[やぶちゃん注:「さても毛に毛が揃うたえ」は今栄蔵氏は上記で小唄「新版祇園踊口説(おどりくどき)」を原典とし、山本健吉氏は「落葉集」の「扨(さて)も毛に毛が揃たえ」で祇園町踊りの歌詞によったとある。かなりなバレ句である。]

尾形龜之助「二人の詩」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

二人の詩
 
 
薄氷のはつてゐるやうな
二人
 
二人は淋みしい
二人の手は冷めたい
 
二人は月を見ている
 
 
[注:「淋みしい」「冷めたい」「見ている」はママ。]
 
 
1959270_672870582830769_47976335298
 

 两个人的

 

了一薄冰那

两个人 ——

 

两个人 凄凉

两个人的手 冰凉

 

两个人 望着 月亮 ——

 
            矢口七十七/摄

芭蕉忌 + ブログ・アクセス640000突破記念 芥川龍之介「枯野抄」やぶちゃんの授業ノート(新版)

芭蕉忌及びブログ・アクセス640000突破記念として
 
芥川龍之介「枯野抄」(2005年12月10日公開済)
 
の僕の高校国語教師時代のオリジナル授業ノートをブラッシュ・アップ、新版として大改稿、
 
その他、芥川龍之介の「枯野抄」本文とその授業案を合体させた
 
PDF縦書版 ――強くお薦めする!――
 
も作成した。

なお、従来あった不完全な「語句説明」HTML版及び、IE限定の授業案縦書版はこのPDF版によって発展的に吸収されたと判断し、公開を停止した。
 
このオリジナル授業案は元国語教師の僕の作る最後の授業案となる。
 
僕の「枯野抄」の授業を受けなかった諸君は勿論のこと、受けた諸君も欺されたと思って御一読されたい。
 
授業の板書は勿論、会話もある程度再現出来るように作ってある。
 
内心では あの僕の――アブナい――授業 を、ここでちょっとだけ再現し得たとさえ思っているのだ。
 
お楽しみあれ!
 
なお、この授業案の著作権はこれを放棄することとした。
 
是非、若い高校の国語教師の方に活用して戴きたいと願っている。

――芭蕉翁終焉から320年後のその日に――

――芭蕉最期の枕邊にて―― きてもみよ甚平が羽織花衣

 

きてもみよ甚平が羽織花衣

 

(きてもみよじんべがはをりはなごろも)

 

――寛文一二(一六七二)年――芭蕉二十八歳――

 

……♪いやさ 甚兵衛♪ 甚兵衛羽織が自慢とや♪ ♪それ着て花見へ来ても見よ♪ ♪羽織自慢の鼻の先 美事な花に折れようぞ♪……

――芭蕉最期の枕邊にて―― 春立つとわらはも知るや飾り繩

 

春立つとわらはも知るや飾り繩

 

(はるたつとわらはもしるやかざりなは)

 

――寛文一一(一六七一)年――芭蕉二十七歳――

 

……ああ……そんな風に無心にうきうきした昔を……私も思い出して御座いまする……

 

[やぶちゃん注:「わらは」は「童」に注連縄の「藁」を掛けてまさに「かざり」込んである祝祭句である。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 五月雨も瀨踏み尋ねぬ見馴河

 

五月雨も瀨踏み尋ねぬ見馴河

 

(さみだれもせぶみたづねぬみなれがは)

 

――寛文十(一六七〇)年――芭蕉二十六歳――

 

……この「ぬ」は完了で御座いますか? それとも打消し?……後の世の者どもがやかましゅう言わねばよろしいのですが……

 

[やぶちゃん注:「見馴河」は大和国宇内郡五条村(現在の五条市)を流れる水沢(みなれ)川で歌枕。ここはそれを「見慣れた川」という一般名詞に掛詞で転じてある。問題は「ぬ」で、山本健吉氏は「芭蕉全句」で打消で採って、『見馴れたという名のついた見馴川では、五月雨に水かさが増しても、べつだん瀬踏には及ばない』と訳しておられるのに対し、今栄蔵氏は新潮日本古典集成「芭蕉句集」で完了で採り、『五月雨が、川の増水で分からなくなった瀬を探ろうと、脚を踏み入れて瀬踏みをしておるわい。ふだん見馴れて知っているはずの見馴河なのに』と訳しておられる。係助詞「も」が微妙であるが、完成映像として鮮やかで面白いのは断然、今氏の完了での解釈と思われるが、如何?]

――芭蕉最期の枕邊にて―― うち山や外樣しらずの花盛り

 

  宇知山 山邊郡

うち山や外樣しらずの花盛り

 

(うちやまやとざましらずのはなざかり)

 

――寛文十(一六七〇)年――芭蕉二十六歳――

 

……旅らしい旅をしたことの御座いませぬ私めですが……二十七の時……恋人ではない女人と天理の、あの山の辺の道を歩いたことを……今、何故か……懐かしく思い出しまして御座いました……

 

[やぶちゃん注:「うち山」現在の奈良県天理市杣之内(そまのうち)にあった真言宗修験道系の内山金剛乗院永久寺。かのおぞましい明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。「外樣」は三方を山に囲まれた「内」山永久寺に對する「外」という縁語で、真言秘法の修法の山伏の寺なればこそ「外樣」(外部の者)には「知らず」(うかがい知ることが出来ない)、神妙の花盛りとした名所吟である。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 桂男すまずなりけり雨の月

 

桂男すまずなりけり雨の月

 

(かつらおとこすまずなりけりあめのつき)

 

――寛文九(一六六九)年――芭蕉二十五歳――

 

……筒井筒を掛けなさったものと存じますが……お畏れ乍ら少し絵面が平板に見えまする…………

 

[やぶちゃん注:「桂男」は月に生えるとされた桂の木、月読(つくよみ)命、月の男、月という謂いで、中秋の雨の無月に、知られた「伊勢物語」第二十三段「筒井筒」のエンディング、「男住まずなりにけり」を裁ち入れて「澄まず」と掛けた。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 波の花と雪もや水の返り花

 

波の花と雪もや水の返り花

 

(なみのはなとゆきもやみづにかへりばな)

 

――寛文八(一六六九)年――芭蕉二十四歳――

 

……私めは北陸の冬の荒海を前にして……若き日……この景色を確かに見たので御座います…………

――芭蕉最期の枕邊にて― 霜枯に咲くは辛氣の花野哉

 

霜枯に咲くは辛氣の花野哉

 

(しもがれにさくはしんきのかなのかな)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……秋の野に咲く花は……確かに心を裂くように……淋しゅう御座います……

 

[やぶちゃん注:「辛氣」本来は単に「心」「気持ち」の謂いであるが、江戸の口語で形容動詞化し、気持ちがいらいらするさま、じれったいさまをいう。俗語で伝統の愁秋を諧謔しつつ、これは芭蕉二十三にして――「夢は」その花の散った後の「枯野をかけ廻」っている――とは言えまいか。]

――芭蕉最期の枕邊にて―― 霰まじる帷子雪は小紋かな

 

霰まじる帷子雪は小紋かな

 

(あられまじるかたびらゆきはこもんかな)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……黒澤明の「赤ひげ」の……車大工の佐八とおなかの悲しい恋の物語の……あのワン・シーンを思い出しまして御座います……

芭蕉忌 + 640000アクセス突破

本日2014年11月28日(本年の陰暦では10月7日)

   元禄7年10月12日

はグレゴリオ暦では

   1694年11月28日

である。320年前の今日の午後四時頃、松尾芭蕉は亡くなった――

これより記念テクスト公開作業に入る。

なお、たまたま本日未明に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、凡そ8年半で本ブログ「鬼火~日々の迷走」へのアクセス数が640000アクセスを突破していた。

従って、芭蕉忌及びブログ・アクセス640000突破記念テクストとして公開することとする。少々作業に時間がかかるのでお待ちあれかし。

2014/11/27

――芭蕉夜伽―― しをれ伏すや世はさかさまの雪の竹

 

  子におくれたる人の本(もと)にて

しをれ伏すや世はさかさまの雪の竹

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……哀悼の詞や詞の上手を私は好みませぬ……この句は確かによう出来ておるように思います……思いますが……これは「死」の確かなそれを知っておらるるお方の句では「まだ」ないと私は思うのです…………

 

――芭蕉夜伽―― 月の鏡小春に見るや目正月

 

月の鏡小春に見るや目正月

 

(つきのかがみこはるにみるやめしやうぐわつ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……何か少し……あなたはお淋しいようです……明鏡の月の中には……どなたが見えたのでしょうか…………

――芭蕉夜伽―― 寢たる萩や容顏無禮花の顏

 

寢たる萩や容顏無禮花の顏

 

(ねたるはぎやようがんぶれいはなのかほ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……そうでしょうか?……臥した萩を優しく起こしてあげればよいものを……それをしとう思われつつ、しかし終に出来ぬ……それが師匠であらせられましたか…………

 

――芭蕉夜伽―― 荻の聲こや秋風の口うつし

 

荻の聲こや秋風の口うつし

 

(をぎのこゑこやあきかぜのくちうつし)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……芭蕉さま……あなたの耳に秋の到来をこっそり囁いたお方は……どなただったのでしょう?……聴きますまい……それは確かに「あの方」であり……そうして誰でもない……「月光の女」で御座いました――ね…………

 

――芭蕉夜伽―― 影は天の下照る姫か月の顏

 

影は天の下照る姫か月の顏

 

(かげはあめのしたてるひめかつきのかほ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

……私(わたくし)は神道の神の名に信心は致しておりませぬ……でも……この名指しは……確かに美しゅう御座いますね…………

――芭蕉夜伽―― たんだすめ住めば都ぞ今日の月

 

たんだすめ住めば都ぞ今日の月

 

(たんだすめすめばみやこぞけふのつき)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……私はこの「たんだすめ」というあなたさまの生(なま)の肉声が……殊の外……好きなので御座います…………

――芭蕉枕邊―― 七夕の逢はぬこゝろや雨中天

 

七夕の逢はぬこゝろや雨中天

 

(たなばたのあはぬこころやうちうてん)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……私は確かに……この人生で……ずっと……有頂天など感じることも御座いませなんだ…………

――芭蕉夜伽―― 秋風の鑓戸の口やとがり聲

 

秋風の鑓戸の口やとがり聲

 

(あきかぜのやりどのくちやとがりごゑ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……その秋風の声に……でも……あなたは呼ばれたのだ……だからこそ……たった独り……あの「道」を行かれたのでしょう?…………

――芭蕉夜伽―― しばし間も待つやほとゝぎす千年

 

しばし間も待つやほとゝぎす千年

 

(しばしまもまつやほととぎすせんねん)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……ああ、何か心地よい響きで御座います……「數千年」……すせんねん……何という、響きへの洒落た……これを掛詞とは申したく御座いませぬ……オーバー・ラップというハイカラな謂いがよろしゅう御座いましょう…………

――芭蕉夜伽―― 岩躑躅染むる涙やほととぎ朱

 

岩躑躅染むる涙やほととぎ朱

 

(いはつつじそむるはなみだやほととぎしゆ)

 

……芭蕉さま……口幅ったいので御座いますが……私はこの句……最初に心うたれた句で御座いました…………

――芭蕉枕邊―― 夕㒵に見とるゝや身もうかりひよん

 

夕㒵に見とるゝや身もうかりひよん

 

(ゆふがほにみとるるやみもうかりひよん)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……私も……そんな風に夕顔の花に……その花蔭に住まう女性(にょしょう)に……見とれてしもうたこと……これ、御座いました…………

 

[やぶちゃん注:「うかりひよん」(うかりひょん)は副詞で、物事に気をとられてしまって恍惚とする、うっかりとするさまをいう語。新潮日本古典集成の今栄蔵校注の「芭蕉句集」には、『夕顔が秋に結実させる瓢簞(ひょうたん)あ水に浮きやすいので「浮かれ」に、また「瓢」を「ひよん」に通うわせた。縁語と掛詞』とあり、山本健吉氏の「芭蕉全句」では『夕顔の巻も連想され、たおやかな美人の夕化粧した顔のイメージがあろう』と記される(今氏も同じことを注している)。但し、この句、「続山井」(湖春編・寛文七(一六六七)年刊)に『いが上野松尾 宗房』(中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)で出るのであるが、山本氏も前掲書で指摘されているように、実はこれに先立つ八年も前の万治元(一六五九)年の「鉋屑集」(かんなくずしゅう・胤及編・万治二年刊)に、「俊之」という別人の句として、

 

 夕顔の花にこゝろやうかれひよん

 

という酷似した作品が既にある。尚且つ、まずいことに、中村俊定校注「芭蕉俳句集」にも注で示されてある通り、「詞林金玉集」(宗臣編・延宝七(一六七九)年序)には、散逸してしまったと思われる不詳の俳書「耳無草」からの引用として、

 

 夕顔の花に心やうかりひよん

 

という、俊之という人物の句と全く相同の句形で、しかも作者を『桃靑 伊州上野松尾宗房』として掲載されてしまっているのである。現在、多くの書が「夕㒵に見とるゝや身もうかりひよん」という本句を芭蕉の真作として認定して載せており(今・中村・山本三氏とも)、山本氏などは前掲書の評でわざわざ、俊之の先行作品があると『知っていたら、もちろん発表しなかっただろう』と記しておられる。芭蕉にしてみれば、この句がまさか、現代の芭蕉俳句集に厳然と鎮座し、しかもこのような事実まで暴露されていようとは夢にも思わぬに違いあるまい。]

――芭蕉枕邊―― 杜若似たりや似たり水の影

 

杜若似たりや似たり水の影

 

(かきつばたにたりやにたりみづのかげ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……この杜若の葉影におられるのは……あなたの好きな――少年――で御座いましょう?…………

 

[やぶちゃん注:謡曲「杜若」――旅僧が三河の八橋に至ると女が現われ、「伊勢物語」の「唐衣」の折句を語って一夜の宿を貸す。女は被冠の唐衣姿で現われて、その衣の高子(たかいこ)ものであること、冠は業平のものと告げ、自身は杜若の精と明かし、業平は歌舞の菩薩の化現なれば、かのお方の和歌の功徳によって非情の草木までも仏果の縁を授かって悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)が約束されたとし、「伊勢物語」の恋の絵巻を夢幻に舞って夜明けとともに姿を消す――の中のラスト・シーン、

 

……昔(むかし)男の名を留(と)めて 花橘の 匂ひうつる 菖蒲(あやめ)の鬘(かづら)の 色はいづれ 似たりや似たり 杜若 花菖蒲 梢(こずゑ)に鳴くは 蟬の唐衣の 袖白妙の卯の花の雪の 夜(よ)も白々(しらしら)と 明くる東雲(しののめ)の 淺紫の 杜若の 花も悟りの 心開(ひら)けて すはや今こそ 草木國(さうもくこくど)土 すはや今こそ 草木國土 悉皆成佛の御法(みのり)を得てこそ 失せにけれ

 

のシテの台詞を裁ち入れた。私の謂いは、山本健吉氏の「芭蕉全句」(講談社学術文庫版)での評釈の、謡曲「杜若」の『原文は杜若と花あやめとを似ていると言ったのだが、これは杜若とその水に映る影とを似ていると言う。もちろん同じように美しく、眼移りがするのである。「いづれかあやめ、杜若」と世俗に言う通り、裏に美人を立たせていると取りたいが、「昔男」と五月の縁から言えば、むしろ若衆姿を立たせているのであろう』という評言を強く支持することに基づく。]

――芭蕉枕邊―― 降る音や耳も酸う成る梅の雨

 

降る音や耳も酸う成る梅の雨

 

(ふるおとやみみもすうなるうめのあめ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……梅雨時の、あの饐えたような気だるき気配を笑い飛ばすように……この病いも蠅をはらうようにお飛ばし下され…………

 

[やぶちゃん注:「耳も酸う成る」というのは、現在の「耳が酸っぱくなるほど」と同じ当時の俗語で、同じことを何度も聴いて飽きるの意である。それに文字通り、梅のなれば「酸」は道理と洒落たもので、まさにそうしたきゅと「酸」を「利」かせた貞門調の諧謔句である。]

――芭蕉枕邊―― 五月雨に御物遠や月の㒵

 

五月雨に御物遠や月の㒵

 

(さみだれにおんものどほやつきのかほ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……これも私にはなにやらん……恋の気配が私めには致しますが……愚かな俗物とお笑い下さいませ……

 

[やぶちゃん注:「御物遠」は御無沙汰と同義の、日常や書簡の常套句であるが、「ものどほし」自体は「源氏物語」にも普通に使われている古語である。五月雨の中、暫くお目見えご無沙汰の月を擬人化したものながら、私にはどうもその見えぬ雲の向こうに、色香の匂いが漂うてくるのである。芭蕉の句は我々が思うておる以上に、濃厚なエロスの香りが句背に潜んでいるものと私は承知しているのである。]

――芭蕉枕邊―― 風吹けば尾細うなるや犬櫻

 

風吹けば尾細うなるや犬櫻

 

(かぜふけばをぼそうなるやいぬざくら)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……私はあのたよりなげな可愛い犬桜が、好きで御座います…………

 

[やぶちゃん注:バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属イヌザクラ Prunus buergeriana 。ウィキの「イヌザクラ」によれば、シロザクラの別名をを持ち、幹の高さは十メートルにも達する落葉高木で、『樹皮は暗褐色で光沢があり、皮目が点在する。若い枝は緑色で、しばしば赤褐色を帯び、細毛があり、次年には灰白色になる』。葉は、長さ十~十五ミリメートルほどの『葉柄をもって枝に互生し、形は倒卵形から狭長楕円形または長楕円形になる。葉の先端は鋭尖形で、基部は円形またはくさび形』、『葉の両面はふつう無毛で、ときに両面の中脈に毛が生える場合がある。縁には細く鋭い鋸歯がある』。花期は五月で、『前年枝の下方に試験管ブラシ状の総状花序が数個互生し』、直径五ミリメートルほどの白色の五弁花を多数咲かせ、花序は長さ六~九センチメートルにもなる。『花序枝には葉がつかないのが特徴で、花序枝に葉がつく同属のウワミズザクラと区別することができる』とある。グーグル画像検索「イヌザクラ。]

――芭蕉枕邊―― 糸櫻こやかへるさの足もつれ

 

糸櫻こやかへるさの足もつれ


(いとざくらこやかへるさのあしもつれ)

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……前の「うかれける」の初瀬のお帰りの折りの句ででも御座いますか?……ほんに、楽しげなこと…………

――芭蕉枕邊―― うかれける人や初瀨の山櫻

 

  初瀨にて人々花みけるに

うかれける人や初瀨の山櫻

 

(うかれけるひとははつせのやまざくら)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

百人一首のあの重い源俊頼さまの――うかりける人を初瀨の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを――を「浮かれける」とやらかされた……ほんにお茶目な、若き日の芭蕉さま……連衆の賑やかな声々が、これ、聴こえて参りますなぁ…………

 

――芭蕉枕邊―― 夏近しその口たばへ花の風

 

夏近しその口たばへ花の風

 

(なつちかしそのくちたばへはなのかぜ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……芭蕉さま……そんな守るお花の……御座いましたか?…………

 

[やぶちゃん注:「たばへ」はかばう・保つの意の「庇(たば)ふ」の命令形で、ここは風袋(かざぶくろ)の口をしっかりと今は縛って塞いでおいておくれの謂い。]

――芭蕉枕邊―― 春風に吹き出し笑ふ花も哉

 

春風に吹き出し笑ふ花も哉

 

(はるかぜにふきだしわらふはなもがな)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……どうか、芭蕉さま……咲(わろ)うて下さりませ……どうか、咲うて…………

――芭蕉枕邊―― 花にあかぬ嘆やこちのうたぶくろ

 

  花の本にて發句望まれ侍りて

花にあかぬ嘆やこちのうたぶくろ

 

(はなにあかぬなげきやこちのうたぶくろ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……少し「あかぬ」の巧みの、これ、智に曲がり過ぎて響きまする……

 

[やぶちゃん注:「伊勢物語」十段の、「花にあかぬ歎きはいつもせしかどもけふの今宵に似るときはなし」をインスパイアし、原義の「花に飽かぬ」(芭蕉は「今宵も明かぬ」をも意識しているか)を表に利かせながら、背後に転じて「花に開かぬ」、無才にしてこの美しき花の下にても、望まれながら一向に私の歌袋の口は「開かぬ」、よき発句の一つも出来申さぬ、という亭主への挨拶吟となっている。しかも「こち」には自称の人称代名詞「此方」に「東風」が掛けてある。なお、「続山井」(ぞくやまのい・湖春編・寛文七(一六六七)年刊)には(前書はそこにあるものを採った)、

 

花に明ぬなげきや我が哥袋

 

の句形で載る。岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」によれば、そこでは作者名として「いが上野松尾 宗房」とあり、掲げた句の載る「如意宝珠」(にょいほうしゅ・安静編・延宝二(一六七四)年刊)には「伊賀住 宗房」と記すと注する。]

――芭蕉枕邊―― あち東風や面々さばき柳髮

 

あち東風や面々さばき柳髮

 

(あちこちやめんめんさばきやなぎがみ)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……これも、なんや、ちょいと……白粉の香りの……漂うて……あらしまへんか?……もぅ!……

 

――芭蕉枕邊―― 餠雪をしら糸となす柳哉

 

餠雪をしら糸となす柳哉

 

(もちゆきをしらいととなすやなぎかな)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……見立の面白う御座いますね……古今集は僧正遍昭さまの――淺綠糸よりかけて白露を玉にも拔ける春の柳か――柳にしら露なればこそ輝く珠と抜く……でもこれは餅雪――綿雪だから、あの、しんこ細工の白糸餅(しらいともち)となると興じられた……ああ、あの餅の、何か、懐かしゅう御座います……

――芭蕉枕邊―― 盛なる梅にす手引く風も哉

 

 盛なる梅にす手引く風も哉

 

(さかりなるうめにすでひくかぜもがな)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……芭蕉さま……ほんなら……散らさで……行き過ぎて……いかはる……おつもりやすか?……

 

[やぶちゃん注:「す手引く風」は素手(何もせずに)引く(吹き抜ける)風で、「も哉(がな)」は願望の終助詞である。]

――芭蕉枕邊―― 花の顏に晴うてしてや朧月

 

花の顏に晴うてしてや朧月

 

(はなのかほにはれうてしてやおぼろづき)

 

――寛文七(一六六七)年――芭蕉二十三歳――

 

……これ、なんか……わて……妬けまんなぁ……

 

[やぶちゃん注:「晴れうて」晴れの場所に出たものの、気後れがしてどぎまぎしてしまうことをいう名詞である。当時の流行りの俗語かと思われる。]

2014/11/26

――芭蕉夜伽―― 時雨をやもどかしがりて松の雪

 

時雨をやもどかしがりて松の雪

 
  
(しぐれをやもどかしがりてまつのゆき)

 

――寛文六(一六六六)年――芭蕉二十二歳――

 

……いいやおまへんか……積もった雪で……お幸せ…………

――芭蕉夜伽―― 花は賤の目にも見えけり鬼薊

 

花は賤の目にも見えけり鬼薊

 

(はなはしづのめにもみえけりおにあざみ)

 

――寛文六(一六六六)年――芭蕉二十二歳――

 

……「古今和歌集」仮名序に能の「山姥」やなんて……お若いお人なればこそ……わては厭味に感じます……

――芭蕉夜伽―― 京は九万九千くんじゆの花見哉

 

京は九万九千くんじゆの花見哉

 

(きやうはくまんくせんくんじゆのはなみかな)

 

――寛文六(一六六六)年――芭蕉二十二歳――

 

……群衆(ぐんしゅ)は……これ……一番にお嫌いであらっやいますのに……いけずやなぁ……

――芭蕉夜伽―― 年は人にとらせていつも若夷

 

年は人にとらせていつも若夷

 

(としはひとにとらせていつもわかゑびす)

 

――寛文六(一六六六)年――芭蕉二十二歳――

 

……さても……今……また……かく興じなさいまするか……♪ふふふ♪…………

――芭蕉夜伽―― 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿

 

月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿

 

(つきぞしるべこなたへいらせたびのやど)

 

――寛文四(一六六四)年――芭蕉二十歳――

 

……だめですよ……芭蕉さま……枯野のこんなところで……鞍馬の天狗どころか……明日の朝に目覚めれば屹度……そこは古塚に決まっておりますのに……いけない、お方…………

――芭蕉夜伽―― 姥櫻咲くや老後の思ひ出

 
 
姥櫻咲くや老後の思ひ出

 

(うばざくらさくやらうごのおもひいで)

 

――寛文四(一六六四)年――芭蕉二十歳――

……この期なら……謡曲の「実盛」……でも……きっとあなたの……あの「少女」で……御座いますね?…………

――芭蕉夜伽―― 春や來し年や行きけん小晦日

……芭蕉さま……余命二日……僕が彼の枕辺にいたら……何をするだろう……そんなことを考えた……僕が少年次郎兵衛だったら……だったら……ずっと……こんなことをしよう…………

 

  廿九日立春ナレバ

春や來し年や行きけん小晦日

 

(はるやこしとしやゆきけんこつごもり)

 

――寛文二(一六六二)年――芭蕉十八歳――現在確認されている芭蕉最古の句――

 

 

……芭蕉さま……行きかふ年も……また旅人なり……だったのですよ…………

芭蕉臨終前後関連書三篇PDF縦書版一挙公開

「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」に「芭蕉臨終前後関連書」として、

「前後日記」各務支考(「笈日記」より)

「芭蕉翁終焉記」宝井其角(「枯尾花集」より)

「芭蕉臨終記 花屋日記」文曉(偽書)

の三篇を総てPDF縦書版で一挙に公開した。――320年前に芭蕉が遺書を書いた、その日に――

……芭蕉の命は後、二日しか残っていない……

今日の芭蕉シンクロニティ 遺書四通(全) やぶちゃ附注――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

松尾芭蕉遺書四通(全) 附やぶちゃん注

 

松尾芭蕉遺書――実兄松尾半左衛門宛

 

[やぶちゃん注:元禄七年十月十日附(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十六日相当)。発信場所は花屋仁左衛門貸座敷。芭蕉の実兄(芭蕉は次男)で伊賀上野の当時の松尾家当主、松尾半左衛門宛の遺書である。

 松尾半左衛門は生年不詳で、芭蕉と幾つ離れていたのかもわからない。いつもお世話になっている伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「松尾半左衛門」によれば、芭蕉の父松尾与左衛門の二男四女の長男であった。『弟であった芭蕉のような文学的才能も無かったと見えて俳諧に志すことは遂に無かった。伊賀上野のように狭い社会で、しかも伊賀蕉門は芭蕉を尊敬してやまなかったから、そのことが兄の得意でなかったわけはないにもかかわらず、俳諧にいささかもタッチしていないところをみると余程その方面の才能はなかったのであろう』。『他方、生活力も優れたものを持ち合わせなかったと見えて、経済的には相当に困窮していたようである。芭蕉が、少しでも俗世間的栄達、経済的野望を持っていれば援助は十分に得られたのであろうが、それは全く望むべくもなく、近江蕉門や伊賀蕉門門人たちからの何がしかの救済があったかもしれないが、それとても見るほどのものではなかったようである』。『「総領の甚六」の、優しい性格の持ち主であったようで、そのことが芭蕉の度重なる帰郷につながったのであろう。先妻を失い、再婚して』おり、芭蕉には半左衛門に宛てた芭蕉の書簡が六通現存しているとある。

 底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化し、読点も追加したが、編者が附加した読みは遺書という性格上、除去した(原書簡は漢文体を呈し、異字も多く非常に読み難いので、これを底本とした旨、お断りしておく)。注は主に富山氏の注を参照した。]

 

お先に立ち候段、殘念思し召さるべく候。いかやうとも又右衞門たよりにになされ、御年寄られ、御心靜かに御臨終なさるべく候。ここに至りて、申し上ること、御座無く候。市兵衞・治右衞門殿・意專老を初め、殘らず、御心得、たのみ奉り候。中にも重左衞門殿・半左殿、右の通り。

ばばさま・およし、力落し申すべく候。以上

    十月         桃靑(書判)

  松尾半左衞門樣

新藏は殊に骨折られ、かたじけなく候。

 

□やぶちゃん注

・「又右衞門」兄半左衛門の息子。

・「御年寄られ」長生きなさって。

・「市兵衞」貝増(かいます)市兵衛。俳号、卓袋。通称、絈屋(かせや)市兵衛。「絈」は、元は紡いだ糸を巻き取るためのH又はX字型をした道具を指し、転じて、そこから外した糸や一定の長さの糸を一定の枠に巻いて束ねた「かせいと」の謂いで、「絈屋」は糸商人のこと。伊賀蕉門の一人で、伊賀蕉門の中でも特に活躍した商人(あきんど)俳人であった。芭蕉とは相当に親密であったと思われ、「猿蓑」「枯尾花」「渡鳥集」などに入集している。

・「治右衞門」伊賀藤堂藩藩士。俳号、苔蘇(たいそ)。

・「意專老」窪田猿雖(えんすい)。本名、窪田惣七郎。猿雖が俳号で、意専は法名。伊賀上野の門人で内神屋(うちのかみや)という屋号で手広く商いを行っていた富豪であり、芭蕉の信頼厚く、土芳に次ぐ伊賀蕉門の重鎮であった。

・「心得」別れの挨拶方。

・「重左衞門」山岸重左衛門。俳号、半残(はんざん)。伊賀上野の古くからの門人(父子ともに門弟で同号を名乗った)。あるデータでは、この父の方と思われる人物は芭蕉の姉の夫であったという記載もある。

・「半左」「はんざ」と読む。蕉門十哲に加えられることもある「三冊子」の作者服部土芳のこと。服部半左衛門保英。藤堂藩藩士であったが、三十歳前に致仕して芭蕉の門人となり、伊賀蕉門の重鎮となった。

・「ばば樣」兄半左衛門の当時の妻。先妻病没後の後妻である。

・「およし」芭蕉の妹(富山氏の注に『末妹』とあるから後妻の腹違いの妹か)。年齢や詳細不詳。

・「力落し」「力落しなどせそと」の謂いであろう。

・「新藏」片野新蔵。伊東洋氏の「芭蕉DB」の片野望翠」によれば、伊賀上野の商人で、『井筒屋の主人。名は良久。通称新蔵。芭蕉の妹の亭主とも言われているが不詳』とある。「有磯海」「枯尾花」などに入集しており、蕉門の門人であった。別情報では、この『妹』とは先の「およし」ではなく、芭蕉のすぐ下の妹としている。

 

 

 

松尾芭蕉遺書三通

 

[やぶちゃん注:元禄七年十月十日附(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十六日相当)。於花屋仁左衛門貸座敷。以下は先の実兄宛遺書に続いて筆録させた三通である。

 底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化、編者が附加した読みや書名を支持する括弧等は遺書という性格上、除去した(原書簡は漢文体を呈し、異字も多く非常に読み難いので、これを底本とした旨、お断りしておく)。なお、【その一】冒頭の目録を除き、「一」の後、文が続いて二行目以降に渡る場合は底本では一字下げとなっている。各注は富山氏の注を主に参照した。]

 

【その一】

 

一、三日月の記  伊賀にあり

一、發句の書付  同 斷

一、新式     これは杉風へ遣さるべく候。

         落字これ有り候あひだ、本

         冩を改め、校せられべく候。

一、百人一首・古今序註  拔書。これは支考

         へ遣さるべく候。

一、埋木     半殘かたにこれ有り候 。

 

    江戸

 

一、杉風かたに、前々よりの發句・文章の覺書、これあるべく候。支考、これを校し、文章ひきなほさるべく候。いづれも草稿にて御座候。

一、羽州岸本八郎兵衞發句二句、炭俵に拙者句になり、公羽と翁との紛れにてこれ有るべく、杉風よりきつと御ことわりたまはるべく候。

 

□やぶちゃん注

 冒頭、自身遺愛の目録とその所在とその一部の形見分けを明記、江戸に残る遺稿の校閲を、目の前にいる、この遺言代筆者本人である支考に厳として命じ、杉風には気になっている誤伝錯誤の釈明を当該人物に必ず伝えよと注する。芭蕉という句狂人の強烈な覚悟が見てとれる一通である。

・「三日月の記」「三日月(みかづき)日記」とも。元禄初年頃に江戸深川の芭蕉庵に来訪した門人たちの発句を編集した稿本「芭蕉三日月日記」を、この元禄七(一六九四)年の七月から九月、郷里伊賀上野滞在中に精選、完成させたもの(それ以前の元禄五年に芭蕉庵で稿本が完本化されており、これは芭蕉からその時に訪問した「奥の細道」の旅で世話になった山形羽黒山山麓の手向村の近藤呂丸(ろまる)に譲られている。呂丸はしかし先立つ元禄六年に京で客死してしまう)。結局、本作は支考の編に委ねられ、後に日の目を見ている(享保一五(一七三一)年序)。因みに、呂丸は死の直前に支考を訪ねている。何か、妙な因縁を感じるのは私だけだろうか?

・「新式」「連歌新式」。正式名称は「連歌新式追加並(ならびに)新式今案(こんあん)等」。南北朝時代の連歌式目で「応安新式」とも称する。二条良基の編になり、文中元・応安五 (一三七二)年の成立。それまで各連歌集団毎に行われていた様々な式目の修正・統一を図ったもので「建治の新式」を元にして救済(ぐさい)らの協力を得て成ったもの。富山氏の注によれば、土芳の「三冊子」にも『俳諧の作法の根幹は、この書に基づく旨を説いている。但し、芭蕉の筆写本』と附言されてある。

・「杉風」杉山杉風(すぎやまさんぷう 正保四(一六四七)年~享保一七(一七三二)年)は蕉門十哲の一人。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「杉山杉風」によれば、『江戸幕府出入りの魚問屋主人。生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである』。一時、第五代将軍綱吉による生類憐の令によって、『鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった』とある。芭蕉の江戸蕉門の代表格であると同時に彼の有力なパトロンでもあった。三通の遺書には総てに「杉風」の名が記されており、名実ともに芭蕉が最も信をおいていた門人であったことが分かる。

・「落字」脱字。

・「本冩」正式なものとして作っておいた写本。

・「校し」一応、「けふし(きょうし)」と読んでおく。校合(きょうごう)し。

・「百人一首」京での芭蕉の師で歌人・歌学者でもあった北村季吟の著わした「百人一首拾穂抄(しゅうすいしょう)」のこと。富山氏注に、『但し、芭蕉の抜書本』とある。

・「古今序註」同じく芭蕉が抜き書きした、了誉著の「古今集序註」。了誉は南北朝末から室町中期に生きた鎮西流浄土宗第七祖である聖冏(しょうげい 興国二・暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)。号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)。常陸国椎尾氏の出。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く教学を修め、宗徒養成のために伝法の儀式を整備、五重相伝の法式などを定めたりしている。神道・儒学・和歌に精通し、「古今集序註」はその代表作で、江戸小石川伝通院の創建者としても知られる(以上はウィキの「聖冏」に拠った)。

・「埋木」「うもれぎ」と読む。北村季吟の手になる俳諧奥義書「俳諧埋木」。芭蕉は延宝二(一六七四)年三月十七日に師季吟より直接これを伝授されたとする。延宝元年刊行されているが芭蕉が受けたのは直筆の書き本であったらしい。ここに出るのもそれであろう。これは現在、藤堂家本写本として残り、ネット上の情報によれば、その巻末の識語(しきご)には、『此書、雖爲家傳之深祕、宗房生依誹諧執心不淺、免書寫而、且加奧書者也、必不可有外見而巳。 延寶二年彌生中七  季吟(花押)』(本文のやぶちゃん書き下し:此の書、家傳の深祕と爲すと雖も、宗房生、誹諧の執心淺からざるに依つて、書寫を免して、且つ奧書を加ふる者なり、必ず外見有べからずとのみ。)という、芭蕉に俳諧秘伝伝授を許して書写させたことが季吟の自筆で記されてあるとする。

・「半殘」前の実兄宛遺書に既注の山岸重左衛門。

・「江戸」江戸蕉門宛。

・「羽州岸本八郎兵衞」出羽国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)酒井藩藩士の蕉門俳人(「奥の細道」の旅で出会って入門した)。俳号を公羽(こうう)と称した。

・「拙者句になり」私めの句として載ってしまっており。

・「公羽と翁との紛れにてこれ有るべく」「公羽」という縦二字の文字列と私を指す「翁」という一字とを混同してしてしまった結果の誤りと思われるによって。

・「きつと御ことわりたまはるべく候」必ず直ぐに、こうした事情で誤記してしまいましたと、釈明と侘びを伝えておくようお願い申し上げる。

 

 

 

【その二】

 

一、猪兵衞に申し候。當年は壽貞ことにつき、いろいろ御骨折り、面談にて御禮と存じ候ところ、是非なきことに候。殘り候二人の者ども、途方を失ひうろたへ申すべく候。好齋老など御相談なされ、しかるべく料簡あるべく候。

一、好齋老、よろづ御懇切。生前死後、忘れ難く候。

一、榮順尼・禪可坊、情ぶかき御人々、面上に御禮申さず、殘念のことに存じ候。

一、貴樣病氣、御養生隨分御つとめ有るべく候。

一、桃隣へ申し候。再會叶はず、力落さるべく候。いよいよ杉風・子珊・八草子よろづ御投かけ、ともかくも一日暮しと存ずべく候。

    元祿七年十月

支考、このたび前後の働き驚き、深切まことを盡され候。この段、賴み存じ候。庵の佛はすなはち出家のことに候へば遣し候。

                ばせを

                 (朱印)

 

□やぶちゃん注

・「猪兵衞」「ゐへゑ(いへえ)」と読む。松村猪兵衛。山城国加茂の出身で、江戸に移住後、芭蕉と身近な間柄になった人物であるが、詳細は不詳、と富山氏の別書簡注にある。

・「壽貞」寿貞尼(じゅていに ?~元禄七(一六九四)年六月二日)。既に各所で注しているが、芭蕉の生涯に立ち現われた非常に重要な謎めいた女性であるので、ここで伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「寿貞尼」の記載本文と注を例外的に全文引用させて戴く。

   《引用開始》

 判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男( 二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。

 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。

 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、「6月2日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。

 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

浅談:浅尾庵野坡のこと。

風律著『小ばなし』:風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない。

芭蕉の種:寿貞の子供達は猶子桃印(芭蕉甥)を父親とするという説もある。この説は、芭蕉妾説と同根である。すなわち、芭蕉の婚外の妻として同居していた寿貞と桃印が不倫をして駆け落ちをした。そうして彼ら二人の間に出来たのが二郎兵衛ら三人の子供だというのである。出奔した二人は、よほど後になって尾羽打ちはらして芭蕉の下に戻ってきた。そのときには桃印は結核の病を得ていたという。

 なお、この説では、芭蕉の深川隠棲のもとになったのも彼ら二人の駆け落ち事件が絡んでいたともいう。すなわち、駆け落ちをして行方不明になった桃印は、藤堂藩の人別帳のチェックが出来なくなったので、芭蕉は困り果てて、桃印を死亡したことにしてしまった。そこで、一家は日本橋に住むことは不都合となって、芭蕉は仕方なく深川へ転居したのだというのである。

   《引用終了》

個人的に私は、「數ならぬ身となおもひそ玉祭」の追悼吟、芭蕉の甥桃印という男の不明の生涯、彼や二郎兵衛(次郎兵衛)に対して芭蕉が異様な愛情等々から、彼女はやはりかつて若き日の芭蕉の内縁の妻であったが、後にはこの甥桃印と関係を持つこととなり、その間に生まれたのが芭蕉が最後に抱かれて亡くなったところの、少年次郎兵衛だったのではないか(だったのだと思いたいというべきか)と考えている。芭蕉という男の他者への特異な恋愛や愛情の在り方の地平には、この寿貞と桃印そして次郎兵衛の三人がいる――そう感じているのである。

・「いろいろ御骨折り」芭蕉の長い不在中、先の猪兵衛は深川芭蕉庵で病い(労咳か)を養う寿貞の世話から没後の処理を中心になって執り行ったものらしいことが富山氏の注に記されてある。

・「殘り候二人の者ども」前注に出た寿貞のの、「まさ」及び「おふう」という娘二人(父は不詳。物謂いからは凡そ芭蕉の子とは私には思われない)。

・「好齋老」「かうさいらう(こうさいろう)」と読む。芭蕉の知人で、深川芭蕉庵近くに庵を結んでいた芭蕉よりも年長と思しい隠者であったが、親身に寿貞らの世話をして呉れていたことが先行する書簡から分かる。

・「料簡」取り計らい方。

・「榮順尼」富山氏注に、『深川の芭蕉庵近くに住み、寿貞らの世話をした人。詳細は不明』とある。

・「禪可坊」『栄順尼と同様に、芭蕉庵の近くの住人で、寿貞らの世話をした人。詳細は不明』(富山氏注)。

・「面上」直接に逢うこと。

・「貴樣」先の猪兵衛を指す。先行する杉風宛書簡で、寿貞の面倒を見て貰っている彼の病気につき、その病気介護を門人桃隣(次注参照)に命じているらしいことが分かる。

・「桃隣」江戸蕉門の天野桃隣。本名は天野勘兵衛。芭蕉の縁者で、芭蕉に従って江戸に出、橘町の仮住まいでは芭蕉と同居していることが先行書簡から分かるが、詳細な事蹟は不詳。芭蕉没後の元禄九(一六九六)年には芭蕉の「奥の細道」の後を辿って「陸奥鵆(むつちどり)」(元禄十年跋)を編している。ここの叙述から、門弟としても芭蕉の愛情一方ならぬ人物であったことが分かる。

・「子珊」「しさん」と読む。江戸蕉門末期の門人。出自等詳細は未詳であるが、富山氏の別注によれば杉風と特に親しかったと記されてある。

・「八草子」「はつさうし(はっそうし)」と読む。『江戸蕉門の一人。杉風・子珊とらと親し』かったと富山氏注にある。

・「御投かけ」「おんなげかけ」の「なげかく」は、体を他人に凭れかかるようにするの意で、頼りにすることを指す。既に先行する猪兵衛宛書簡中にも彼にこの二人の指導を仰ぐように伝えてほしいという芭蕉の記述が現われている。

・「一日暮しと存ずべく」日々を篤実平穏に暮らすように。篤実と入れたのは、富山氏注にこの桃隣が営利的で賭博的要素を持った点取俳諧(てんとりはいかい:職業俳諧師である点者に句の採点を請い、点の多さを競うもので、当時はこの即吟即点が流行していた。かつては芭蕉自身も熱中し、其角なども点取り競争を煽った。後の享保期(一七一六年~一七三六年)の江戸・京都・大坂で爆発的に流行して百韻を中心に連衆(れんじゅ)の点を計算して順位を定め、景品も添えるといった体たらくとなる。以上は平凡社「世界大百科事典」の記載を参照した。)を志向していたことに対して強く諫める意識が働いていると考えられるからである。詳細は富山氏の当該注(新潮日本古典集成「芭蕉文集」二八七頁注一四)を参照されたい。

・「庵の佛」深川芭蕉庵に置かれていた釈迦出山(しゅっさん)の尊像(永い修行にも拘わらず悟りを得られずに山を出る釈迦の姿を描いたもの)を指す。これは貞亨元(一六八四)年頃に第二次芭蕉庵完成に際して江戸蕉門の文鱗が芭蕉に贈ったもので、芭蕉はこれを愛し、芭蕉庵の本尊としていた。

・「出家」支考は還俗していたが、生涯を僧形で通した。

・「ばせを/(朱印)」ここだけは支考の代筆でなく、芭蕉自らが署名捺印している。

 

 

【その三】

 

一、杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なき事に存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御樂しみになさるべく候。

一、甚五兵衞殿へ申し候。ながなが御厚情にあづかり、死後迄も忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひも致さず、互ひに殘念是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後はやく御樂しみなさるべく候。御内室樣の相變らざる御懇情、最後迄もよろこび申し候。

一、門人かた、其角は此方へのぼり、嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候。

    元祿七年十月

 

                ばせを

                 (朱印)

 

□やぶちゃん注

・「老後の御樂しみになさるべく候」富山氏は、芭蕉は『決して、俳諧を安易な老後の慰みと考えていたのではない』とされて、ここに非常に長い注を附しておられる。そこでは、『即ち、芭蕉の探求する高次元の芸境は、精進を積んだ老練の境に至ることを必要とした』のであり、『ここでも芭蕉は、俳諧を老後の楽しみとする前提条件として、「いよいよ俳諧御つとめ候て」と、一層の精進を』一番の高弟である杉風にさえ『要望している点に注目しなければならない』と結んでおられる。非常に説得力がある。詳しくは是非、富山氏の注を参照されたい。

・「甚五兵衞殿」美濃蕉門の中川甚五兵衛(生没年未詳)。名は守雄。俳号、濁子(じょくし)。大垣藩士で、江戸詰めの際に蕉に入った。絵もよくし、「野ざらし紀行絵巻」(芭蕉跋文附)を描いている。杉風と親しく、また赤穂事件の大石良雄とも親交を結んでいる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「門人かた」江戸蕉門連中への最後の呼びかけ。

・「嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候」蕉門十哲で其角と双璧をなす、芭蕉最古参(芭蕉より十歳年下)の高弟服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は淡路国三原郡小榎並村(現在の兵庫県南あわじ市榎列(えなみ))の出。参照したウィキ服部雪」によれば、『服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった』。延宝元(一六七三)年、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となり、元禄元(一六八八)年に「若水」を刊行して立机、宗匠となったが、芭蕉没年の元禄七(一六九四)年の「露払」の撰に関して深川蕉門と深刻な対立を生じた。『作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し』、元禄五(一六九二)年の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えているが、『芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど』、既にして芭蕉没前に師弟関係には軋みが発生していたことが分かる。芭蕉逝去から十日後の十月二十二日、江戸で芭蕉の訃報を聞くと、嵐雪は『その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下に かくねむるらん 雪仏 」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった』と記す。この遺書でも、遂に江戸蕉門の重鎮たるはずの嵐雪への直接の言葉かけはなく、ただ――「其角は此方へのぼり」――たまたま其角は来阪していて幸いにも逢うことが出来た、されば彼に――「嵐雪を初めとして殘らず、御心得なさるべく候」――嵐雪を初めとして江戸の門弟たち皆々へ、どうかよろしく、とお伝え下さるように――という末尾には、これ、なかなかくるものがあると言わざるを得まい。

・「ばせを/(朱印)」これも【その二】と同じく、ここのみ、芭蕉自らが署名捺印している。

尾形龜之助「私 私はそのとき朝の紅茶を飮んでゐた」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 私 私はそのとき朝の紅茶を飮んでゐた

        尾形龜之助

 

私の心は山を登る

 

そして

私の心は少しの重みをもつて私について來る

 

×

 

十一月の晴れわたつた朝

私は新らしい洋服にそでをとほしてゐる

 

×

 

髮につけた明るいりぼん

私の心は輕るい

 

 

[注:「新らしい」「輕るい」はママ。「りぼん」は底本では傍点「ヽ」が附く。]

 

 Watasi11gatu

 

 我 我那候在喝早晨的

 

我心爬山

 

于是

我心有一点重量而它跟着我走

×

十一月份 晴的早晨

一次穿新衣服

×

戴上光亮色的发带

我的心就快起来

 

         矢口七十七/ 

2014/11/25

現存する松尾芭蕉最後の書簡――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

[やぶちゃん注:近江蕉門である膳所の菅沼曲水宛書簡。元禄七年九月二十五日附(グレゴリオ暦では一六九四年十一月十二日に相当する)。発信場所は洒堂亭か。これが現存する芭蕉生前最後の書簡である。

 菅沼曲水(万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)は近江国膳所(現在の滋賀県大津市)出身の武士。曲翠とも。本名は菅沼定常、通称は外記。徳川家康に従った菅沼定盈(さだみつ)の曾孫。膳所藩(本多家)では中老として重きを成しながら、近江蕉門の重鎮にして芭蕉のパトロン的存在でもあった。江戸在府中に芭蕉の門人となったが、芭蕉は初対面で「ただ者に非ず」と感じたとされる。芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた後、膳所で越年して帰郷、その元禄三(一六九〇)年春に膳所を再訪、四月六日から七月二十三日まで、現在の滋賀県大津市国分にある近津尾(ちかつお)八幡宮境内にあった故菅沼定知(曲水の伯父)の別荘幻住庵に滞在、知られた名筆「幻住庵の記」を残したが、そこでは「勇士菅沼氏曲水子」と記している。彼は後の享保二(一七一七)年、不正を働く家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害、自らも切腹自害した。芭蕉と同じ義仲寺に眠る。

 底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化し、読点と読みも増やした。句の読みは私の好みから排除した。最後に富山氏の注その他を参考に、簡単な注を附した。]

 

遊刀(いうたう)貴墨(きぼく)、かたじけなく拜見つかまつり、伊州(いしふ)へも素牛(そぎう)たよりに御細翰(ごさいかん)、文章・玉句、感心、且つは過ぎつる昔も思ひ出でられ候。このたび、また御句あまた、感心つかまつり候。御秀作も少々相(あひ)見え候。是非存知寄り申し上ぐべく候へども、なにかと心いとま御座無く、取り重なり候あひだ、暫時閑暇を得候時分、委細貴報申し上ぐべく候。さて、洒堂一家衆(さだういつけしゆう)、そこもと御衆(おんしゆう)、たつて御勸め候につき、わりなく杖(つゑ)をひき候。おもしろからぬ旅寢(たびね)の躰(てい)、無益(むやく)の歩行(ありき)、悔み申すばかりに御座候。まづ伊州にて山氣(さんき)にあたり、到着の明くる日より寒氣(さむき)・熱・晩々におそひ、やうやう頃日(けいじつ)、常の持病ばかりに罷(まか)り成り候。ここもと、おつつけ、發足(ほつそく)つかまつるべく候。もしくは貴境(ききやう)へめぐり申すべくやと、支考なども勸め候へども、まづ大寒(たいかん)いたらざる内に伊勢まで參り候て、その後の勝手につかまつるべく候。伊賀より大坂(おほざか)まで十七八里、ところどころ歩(あゆ)み候て、貴樣行脚(きさまあんぎや)の心だめしにと存じ奉り候へども、なかなか二里とは續きかね、あはれなるものにくづほれ候あひだ、御同心、必ず御無用に思(おぼ)し召し候。隨分おもしろからぬことと、御合點(おんがてん)なさるべく候。達者なる若法師めしつれられ候はんこそ、珍重たるべく候はん。ここもと愚句、珍しき事も得つかまつらず候。少々ある中に、

 

  秋の夜を打ち崩したる咄かな

 

  この道を行人なしに秋の暮

 

「人聲やこの道かへる」とも、句作り申候。京・江戸の狀したため候折ふしに御座候て、早々、何事をもわきまへ申さず候。以上

                  ばせを

                  (書判)

   九月二十五日

  曲翠樣

     貴存

   なほなほ子供たち御無事のよし、めでたく存じ奉り候。

 

□やぶちゃん注

・「遊刀」膳所住の近江蕉門の一人。この時、たまたま大阪に来ていた。

・「貴墨」あなたの手紙。曲水はこの遊刀に来阪していることを聴いた芭蕉への書簡を託したのである。

・「伊州」伊賀。

・「素牛たより」これに先立つ同年の夏、曲水は伊賀に芭蕉を訪ねた美濃蕉門の廣瀬素牛(惟然)にもやはり書簡を託していた。

・「存知寄り申し上ぐべく候へども」それらの句について小生の感じたことを申し上げたく思っていたのですが。

・「取り重なり」瑣事多忙にして。

・「洒堂一家衆」膳所出身の近江蕉門であったが、この頃、大阪に移住して一家を成していた浜田酒堂一門のこと。既に各所で述べた通り、大坂蕉門の槐本(えのもと)之道一派と決定的な対立を起こしており、芭蕉の来阪もその仲介が目的であった(見た目は和解したように見えたが実際には不首尾であった)。この辺りは、今日の芭蕉シンクロニティ この道を行く人なしに秋の暮の私の注に引いた先立つ九月二十三日附窪田猿雖(えんすい)・服部土芳宛なども参照されたい。

・「そこもと御衆」曲水を始めとする膳所の近江蕉門。水田正秀らが特に仲裁の要請を芭蕉に懇請していた。以下、それを「わりなく」(仕方なく気が進まぬままに)受けた結果が「おもしろからぬ旅寢」「無益の歩行」であった、「悔み申すばかり」と、やや恨み言を含んだ謂いに読める。

・「山氣」山地独特の激しい温度差を伴う寒冷現象を指すか。

・「頃日」近頃になって。

・「常の持病」芭蕉は難治性の痔の外、推定で胆石症かとも思われるような疝痛や半ば習慣的となっていた胃痙攣の症状もあったらしい。

・「おつつけ」追っ付け。近いうちには。さっさと。

・「發足」旅立ち。

・「貴境へめぐり申すべくや」一つ、穏やかなあなた(曲水)のおられる膳所へ廻って見られては如何ですか?

・「大寒」ここは本格的な寒さの謂い。

・「勝手につかまつる」後はその折りの状況に合わせて対処したい。

・「貴樣行脚の心だめし」あなたと二人の吟行のためのウォーミング・アップ。富山氏注に、支考の「芭蕉翁追善之日記」によれば、曲水は『芭蕉と共に大和地方を行脚することを計画していた』とある。

・「御同心」私との同行(どうぎょう)の行脚。

・「隨分おもしろからぬことと、御合點なさるべく候」かくなる脆弱となり果てたる私との同行行脚では、如何にも不快なる旅となりますことと、御理解の上、どうか、お諦め下さいませ。

・「達者なる若法師」富山氏注に支考や素牛(惟然)を指すとある。二人とも僧形(支考は還俗していたが終生、僧形を通した)であった

・「珍重」俳諧連歌に於ける褒め言葉の常套語。至極結構。

・「ここもと」最近の私の。

・「秋の夜を打ち崩したる咄かな」本書簡を認める四日前の九月二十一日の夜、車庸(しゃよう)亭で興行された車庸・洒堂・游刀(ゆうとう)・諷竹(之道)・惟然・支考による七吟半歌仙(しかしこれは歌仙を半ばで打ち切ったもののようにも思われる)の発句。この夜会こそがまさに対立する洒堂と之道二人の不和を和ませようとするものであったのだが、実は十八句の内、之道は五句目の一句しか詠んでいない。芭蕉の――秋の夜の寂寥を一気に「うち崩す」ようなこの賑やかな夜の宴――という表面上の謂いが、「崩す」という不穏な響きとともに、逆に決裂している二人の間の深い底知れぬ闇と、その場の秋の一層の心の侘しさを厭が上にも感じさせる荒涼とした句として、私はずっとこの句を読んできた(この注については安東次男「芭蕉百五十句」を参考にした)。

・「この道を行人なしに秋の暮」以下の改案提案も含め、先にリンクした私の今日の芭蕉シンクロニティ この道を行く人なしに秋の暮を参照されたい。

・「子供たち」富山氏注に、芭蕉が以前の膳所滞在中、親しんだ曲水の息子竹助らに対して格別の『親愛感を持っていた』ことが先行する書簡にあることを示唆しておられる。

前後日記 支考 (全)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

前後日記   支考

 

[やぶちゃん注:各務支考編になる元禄八(一六九五)年奥書の「笈日記」の一節。「笈日記」は芭蕉の死後に支考自らが伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡って芭蕉の遺句や遺文を集めたものであるが、その中に芭蕉臨終の前後が日記風に詳しく記されており、以下はその部分。底本は小宮豊隆校訂「芭蕉臨終記 花屋日記」(昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)の「附錄の一」を用いた。踊り字は「〱」「〲」は正字若しくは「々」に代えた。ポイント落ち割注は〔 〕同ポイントで出した。本文脇に附された編者のママ注記は省略した。小宮氏によって補填された字は《 》で示した。]

 

 

   去年元祿の秋九月九日、奈良より難波津

   にわたる。生涯の邊より日を暮して

菊に出て奈良と難波は宵月夜     翁

 

   今宵は十三夜の月をかけて、すみよしの

   市に詣けるに、晝のほどより雨ふりて、

   吟行しづかならず。殊に暮々は惡寒にな

   やみ申されしが、その日もわづらはしと

   て、かいくれ歸りける也。次の夜はいと

   心地よしとて、畦止亭に行て、前夜の月

   の名殘をつくなふ。住吉の市に立てとい

   へる前書ありて

舛買て分別かはる月見かな

 

   十六日の夜、去來・正秀が文をひらくに、

   奈良の鹿殊の外に感じて、その奧に人々

   の句あり。

北嵯峨や町を打越す鹿の聲      丈 草

露草や朝日にひかる鹿の角      野 明

猿の後聞出しけりしかの聾      荒 雀

棹鹿の爪に紅さすもみぢかな     爲 有

振わけて尾花に見せよ鹿の角     風 國

啼鹿を椎の木間に見付たり      去 來

南大門たてこまれてや鹿の聲     正 秀

   冬の鹿

鹿の影とがつて襲き月夜哉      洒 堂

きよつとして霞に立や鹿の角     支 考

川越て身ぶるひすごし雪の鹿     臥 高

 

  其柳亭

秋もはやはらつく雨に月の形     翁

    此句の先「昨日からちよつちよつと

秋も時雨かな」といふ句なりけるに、い

かにおもはれけむ、月の形にはなしかえ

申されし。廿一日・二日の夜は雨もそぼ

   降りて靜なれば

秋の夜を打崩したる咄かな

    此句は寂寞枯稿の場をふみやぶりたる

   老後の活計、なにものかおよび候はんと、

   おのおの感じ申あひぬ。

 

   車庸亭

面白き龝の朝寐や亭主ぶり      翁

 

     廿六日は淸水の茶店に連吟して、

    泥足が集の俳語あり。連衆十二人。

人聲や此道かへる秋のくれ

此道や行人なしに龝の暮

     此二句の間いづれをかと申されしに、

    この道や行ひとなしにと獨歩したる所、

    誰かその後にしたがひ候半とて、是に、

    所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。

    爰にしるさず。

松風や軒をめぐつて秋暮ぬ

   是はあるじの男の深くのぞみけるより、

  かきてとゞめ申されし。

 

   旅懷

此秋は何で年よる雲に鳥

     此句はその朝より心に籠てねんじ申

    されしに、下の五文字寸々の腸をさか

    れける也。是はやむ事なき世に、何を

    して身のいたづらに老ぬらんと、身に

    おもひわびられけるが、されば此秋は

    いかなる事の心にかなはざるにかあら

    ん、伊賀を出て後は、明暮になやみ申

    されしが、京・大津の間をへて、伊勢

    の方におもむくべきか、それも人々の

    ふさがりてとどめなば、わりなき心も

    出きぬべし、とかくしてちからつきな

    ば、ひたぶるの長谷越すべきよし、し

    のびたる時はふくめられしに、たゞ羽

    をのみかいつくろひて、立日もなくな

    り給へるくやしさ、いとゞいはむ方な

    し。

 

白菊の目にたてゝ見る塵もなし    翁

     是は園女が風雅の美をいへる一章な

    るべし。昨日の一會を生前の名殘とお

    もへば、その時の面影も見るやうにお

    もはるゝ也。

 

   畦止亭

    今宵は九月廿八日の夜なれば、秋の名

   殘をおしむとて、七種の戀を結題にして、

   おのおのほつ句あり。是は泥足が其便集

   に出し侍れば、爰にしるさず。

 

    明日の夜は芝柏が方にまねき、おもふ

    よしにてほつ句つかはし申されし。

秋深き隣は何をする人ぞ       翁

 

 

 廿九日

 此夜より泄痢のいたはりありて、神無月一日の朝にいたる。しかるを此叟は、よのつね腹の心地惡しかりければ、是もそのまゝにてやみなんと思ひいけるに、二日・三日の比よりやゝつのりて、終に此愁とはなしける也。されば病中の間は、晉子が終焉記にくはしければ、但よのつねの上、わづかにかきもらしぬる事を、支考が見聞には記し侍る。

 

 十月五日

 此朝南の御堂の前、しづかなる方に病床をうつして、膳所・大津の間、伊勢・尾張のしたしき人々に、文したゝめつかはす。その暮支考をめして、殊の外に心の安置したるよし申されしを、さばかりの知識達も生死は天命とこそおぼし候へ、たゞ心のやすからんはありがたう侍ると申して、介抱のものも心とけぬ。

 

 六日

 きのふの暮よりなにがしが藥にいとこゝちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思うはるれ。

 

 七日

 此朝湖南の正秀夜船より來る。直に枕のほとりにめされて、何ともいふ事はなくて、泪をおとし給へりけるが、いかなる心かおはしけむしらず。その程も過ぎるに、洛の去來きたる。その暮つがた乙州・木節・丈艸おのおの來りつどふ。平田の李由きたる。

 洛の去來は、しばらくも病家をはなれず。いかなるゆへにかと申に、此夏阿叟の我方にいまして、誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老て子のごとくする事侍らずと仰せられしを、いさしらず、去來は世務にひかれてさるべき孝道もなきに、かゝる事承る事の肝に銘じおぼえければ、せめて此度ははなれじとこそおもひ候へと申されし也。

 

 八日

 之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに

     病中吟

    旅に病で夢は枯野をかけ廻る   翁

 その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍《る》らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の轉變を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやゝ半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の聲におどろく。是を佛の妄執といましめ給へるたゝちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辭世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。

[やぶちゃん字注:「たゝち」は「こゝち」の原典の誤字であろう。]

 

 九日

 服用の後支考にむきて、此事は去來にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

    大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もなき跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

    淸瀧や波にちり込む靑松葉    翁

 

 十日

 此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去來をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたゝめしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名殘におくらる。その後は正秀あづかりて、木曾塚の舊草にかへる。

 是より後、十六日の夜曲翠亭に會して、おのおのひらき見るに、伊賀への文は、たゞ何事もなくて先だち給へる事の、あさましうおぼゆるよし、かへすがへす申殘されしなり。

 外の三通には、思ひをける形見の品々、おほくは反故・文章等の有所、なつかしき人々への永き別をおしめるなりけり。

  一 新式  埋木 〔二傳〕

  一 古今ノ序註  百人一首 〔兩部〕

  一 三日月日記  奧の細道

  一 披風  銅鉢

[やぶちゃん字注:「披風」は「被風」(ひふ:羽織様の外着。)の誤字。]

 その外ばせを庵に安置申されし出山の尊像は、支考が方につたへ侍る。是は行脚の形見なるべし。

 夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍《る》らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十餘年にして百變百化す。しかれどもそのさかひ、眞・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさゞるよし。唇を打うるほし打うるほしやゝ談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。

 

 十一日

 此暮相に晋子幸に來りて、今夜の伽にくはゝりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この藥かの藥とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。たゞねがはくは老子が藥にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。

 

 十二日

 されば此叟のやみつき申されしより、飮食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名殘も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立歸りてあたゝかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はたゞ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曾塚の舊草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉燒香の外に、餘哀の者も三百人も侍るベし。

 

 十八日

 所願忌

 湖南・江北の門人おのおの義仲寺に會して、無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。塚の東隅に芭蕉一本を植て、世の人に冬夏の盛衰をしめすとなり。此日百韵あり。略之。

    なきがらを笠にかくすや枯尾花 其角

    温石さめてみな氷る聲     支考

    行燈の外よりしらむ海山に   丈草

 

 乃至

 霜月三十日 此時は伊勢の國にありて、我草庵にこの日の供養をまうけ侍る。

 大練忌

 葉落て山つきぬれば、曉の雲の歸るべきたよりもなく、日暮て道遠ければ夜の鶴のうらむべき方もなし。されば此叟の宿世、いくばく人にかちぎりをきける。生前の九十日はしらぬ事のくやしさをかなしみ、死後の四十九日はかへらぬ事のかなしさをくやむ。すべての明暮は誰がためにかかなしみ、誰がためにかくやめるならむ。

 

    節のおもひや竹に積る雪 支考

 

   右は去年の冬季歸鳥庵におゐて記焉

 

[やぶちゃん字注:「節」の後半は底本では踊り字「〱」。]

芭蕉翁終焉記 其角 (後)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

以下を読むと、芥川龍之介の「枯野抄」で、如何にも如何にも芥川好みの言い掛けの語とばかり思い込んでいた、最初の其角の描写の中の、

   *

 「では、御先へ」と、隣の去來に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顏をのぞきこんだ。實を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、豫測めいた考もなかつた譯ではない。が、かうして愈末期(まつご)の水をとつて見ると、自分の實際の心もちは全然その芝居めいた豫測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに瘦せ衰へた、致死期の師匠の不氣味な姿は、殆面を背(そむ)けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌惡の情を彼に起させた。いや、單に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして來る、最も堪へ難い種類の嫌惡であつた。彼はこの時、偶然な契機(けいき)によつて、醜き一切に對する反感を師匠の病軀の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享樂家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事實が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇だつたのであらうか。――兎に角、垂死の芭蕉の顏に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい脣に、一刷毛の水を塗るや否や、顏をしかめて引き下つた。尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌惡の情は、さう云ふ道德感に顧慮すべく、餘り強烈だつたものらしい。


   *

この、私なんぞは、素敵におぞましいものとばかり感じていた
「致死期」(下線太字やぶちゃん)という単語が実はまさに、この其角の終焉記に出る「知死期」という語を巧みにインスパイアしたのだということが分かる。



九日・十日はことにくるしげ成に、其角、和泉の府淡の輪といふわたりへまいりたるたよりを、乙州に尋ねられけるに、なつかしと思ひ出でられたるにこそとて、やがて文したゝめて、むかひ參りし道たがひぬ。予は岩翁・龜翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕
大坂に著て、何心なくおきなの行衞覺束なしとばかりに尋ければ、かくなやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたなき懷(ヲモヒ)をのべ、力なき聲の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて、住吉の神の引立玉ふにやと歡喜す。わかのうらにても祈つる事は、かく有るべしとも思ひよらず、蟻通の明神の物とがめなきも、有がたく覺侍るに、いとゞ泪せきあげてうづくまり居るを、去來・支考がかたはらにまねくゆへに、退いて妄昧の心をやすめけり。膝をゆるめて病顏をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、

    吹井より鶴を招かん時雨かな  晉子

と祈誓してなぐさめ申けり。先賴む椎の木もありと聞えし幻住庵は、うき世に遠し。木曾殿と塚をならべてと有したはぶれも、後のかたり句に成ぬるぞ。其きさらぎの望月の比と、願へるにたがはず、常にはかなき句どものあるを、前表と思へば、今さらに臨終の聞えもなしとしられ侍り。露しるしなき藥をあたゝむるに、伽のものども寢もやらで、灰書に

    うづくまる藥の下の寒さ哉   丈草

    病中のあまりすゝるや冬ごもり 去來

    引張てふとんぞ寒き笑ひ聲   惟然

    しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考

    おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり 正秀

    鬮とりて菜飯たかする夜伽哉  木節

    皆子也みのむし寒く鳴盡す   乙州

 十二日の申の刻ばかりに、死顏うるはしく睡れるを期として、物打かけ、夜ひそかに長櫃に入れて、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきにせ、去來・乙州・丈艸・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・壽貞が子次郎兵衞・予ともに十人、苫もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、たびねこそあれと、ためしなき奇緣をつぶやき、坐禪・稱名ひとりびとりに、年ごろ日比のたのもしき詞むつまじき教をかたみにして、俳諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを、今さらにしつ。東南西北に招かれて、つひの栖を定めざる身の、もしや奧松島・越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞て驚くばかりの歎ならんに、一夜もそひて、かばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の思いいくばくぞやと、鳥にさめ鐘をかぞへて、伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬禮義信を盡し、京・大坂・大津・膳所の連衆、披官・從者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳來るもの三百餘人也。淨衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてゝ着せまいらす。則義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少引入たる所に、かたのごとく木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。をのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせうを植て、名のかたみとす。常に風景をこのめる癖あり。げにも所は、ながら山・田上山をかまへて、さゞ波も寺前によせ、漕出る舟も觀念の跡をのこし、樵路の鹿・田家の雁、遺骨を湖上の月にてらすこと、かりそめならぬ翁なり。人々七日が程こもりて、かくまでに追善の興行、幸にあへるは予也けりと、人々のなげきを合感して、愚かに終焉の記を殘し侍る也。程もはるけき風のつてに、我翁をしのばん輩は、是をもて囘向のたよりとすべし。

於粟津義仲寺牌位下  晉 子 書  

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ。句と句の間に空行を設けた。]

 

 元祿七年十月十八日 於義仲寺

 

 追善之俳諧

                 晋 子

なきがらを笠に隠すや枯尾花

 

温石さめて皆氷る聲        支 考

 

行灯の外よりしらむ海山に     丈 草

 

やとはぬ馬士の緣に來て居る    惟 然

 

つみ捨し市の古木の長短      木 節

 

洗ふたやうな夕立の顏       李 由

 

森の名をほのめかしたる月の影   之 道

 

野がけの茶の湯鶉待也       去 來

水の霧田中の舟をすべり行     曲 翠

 

旅から旅へ片便宜して       正 秀

 

暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ     臥 高

 

風のくすりを惣々がのむ      泥 足

 

こがすなと齋の豆腐を世話にする  乙 州

 

木戸迄人を添るあやつり      芝 柏

 

葺わたす菖蒲に匂ふ天氣合     昌 房

 

車の供ははだし也けり       探 芝

 

澄月の横に流れぬよこた川     胡 故

 

負々下て鴈安堵する        牝 玄

 

菴の客寒いめに逢秋の雨      游 刀

 

ぬす人二人相談の聲        蘇 葉

 

世の花に集の發句の惜まるゝ    智 月

 

多羅の芽立をとりて育つる     呑 舟

此春も折々みゆる筑紫僧      土 芳

 

打出したる刀荷作る        卓 袋

 

四十迄前髮置もならひ      靈 椿

 

苦になる娘たれしのぶらん     野 童

 

一夜とて末つむ花を寐せにけり   素 顰

 

祭の留守に殘したる酒       万 里

 

河風の思の外に吹しめり      誐 々

 

藪にあまりて雀よる家       這 萃

 

鹽賣のことづかりぬる油筒     許 六

 

月の明りにかけしまふ絈      囘 鳬

 

秋も此彼岸過せば草臥て      荒 雀

 

くされた込に立し鷄頭       楚 江

 

小屏風の内より筆を取亂し     野 明

 

四ツになる迄起さねば寢る     風 國

二ウ

ねんごろに草鞋すけてくるゝ也   木 枝

 

女人堂にて泣もことはり      晉 子

 

ひだるさも侍氣にはおもしろく   角 上

 

ふるかふるかと雪またれけり    之 道

 

あれ是と逢夜の小袖目利して    去 來

 

椀そろへたる藏のくらがり     土 芳

 

呑かゝる煙管明よとせがまるゝ   芝 柏

 

ふとんを卷て出す藥物       臥 高

 

弟子にとて狩人の子をまいらする  尚 白

 

月さしかゝる門の井の垢離     昌 房

 

軒の露莚敷たるかたゝがへ     丹 野

 

野分の朝しまりなき空       丈 草

 

花にとて手廻し早き旅道具     惟 然

 

煮た粥くはぬ春の引馬       靈 椿

小機嫌につばめ近よる塀の上    正 秀

 

洗濯に出る川べりの石       囘 鳬

 

日によりて柴の直段もちがふ也   朴 吹

 

袋の猫のもらはれて鳴       角 上

 

里迄はやとひ人遠き峯の寺     泥 足

 

聞やみやこに爪刻む音       尚 白

 

七ツからのれども出さぬ舟手形   卓 袋

 

二季ばらひにて國々の掛      芝 柏

 

内に居る弟むす子のかしこげに   探 芝

 

うしろ山迄刈寄る萱        游 刀

 

此牛を三歩にうれば月見して    楚 江

 

すまふの地取かねて名を付     魚 光

 

社さえ五郎十郎立ならび      晉 子

 

所がらとて代官を殿        風 國

三ウ

打鎰に水上帳を引かけて      支 考

 

乳母と隣へ送る啼兒(ムシ)    正 秀

 

獅子舞の拍子ぬけする晝下     丈 草

 

雨氣の雲に瓦やく也        昌 房

 

在所から醫師の普請を取持て    臥 高

 

片町出かす畠新田         之 道

 

鳥さしの仕合わろき昏の空     去 來

 

木像かとて椅子をゆるがす     泥 足

 

三重がさねむかつくばかり匂はせて 尚 白

 

座敷のもやうかふる名月      卓 袋

 

漣や我ものにして秋の天      角 上

 

經よむうちもしのぶ聖靈      牝 玄

 

かろがろと花見る人に負れ來て   土 芳

 

村よりおろす伊勢講の種      芝 柏

ナヲ

暖になれば小鮓のなれ加減     這 萃

 

軍ばなしを祖父が手の物      臥 高

 

淵は瀨に薩唾の上を通る也     晉 子

 

朝日に向きて念珠押もむ      正 秀

 

幾人の著汚つらん夜著寒し     支 考

 

わすれて替ぬ大小の額       魚 光

 

味噌つきは沙禰に力をあらせばや  楚 江

 

かな聾の何か可笑しき       游 刀

 

ばらばらと恨之助をとりさがし   風 國

 

顏赤うするみりん酒の醉      之 道

 

白鳥の鎗を葛屋に持せかけ     探 芝

 

三河なまりは天下一番       去 來

 

飯しゐに内義も出るけふの月    尚 白

 

功者に機をみてもらふ秋      囘 鳬

ナウ

うそ寒き堺格子の窓明り      芝 柏

 

文庫をおろす獨山伏        土 芳

 

浮雲も晴て五月の日の長さ     惟 然

 

海へも近き武庫川の水       丈 草

 

寮にゐる外より鎖をかけさせて   牝 玄

 

思はぬ狀の奧に戒名        支 考

 

靑天にちりうく花のかうばしく   去 來

 

巣に生たちて千里鷺        正 秀

 

    右四十三人滿座興行。大津・膳所・

    京・嵯峨・攝津・伊賀之連衆也。

    各感シテ愁眉而不巧言也。


[やぶちゃん注:靈椿の句「四十迄前髮置も郷ならひ」の「郷」の傍線はママ。意味不明。音訓というのもおかしく、連句の何かの約束事を示すものか? 識者の御教授を乞うものである。また、野明の句「小屏風の内より筆を取亂し」の「筆」の右には半角の「?」が附されてある。判読字不審ということか?] 

今日只今の芭蕉シンクロニティ 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

現在――
2014年11月25日(本年の陰暦では十月四日)午前2時

元禄7年10月 9日
はグレゴリオ暦では
 
1694年11月25日
 
である。即ち――
 
三二〇年前の今日のこの時刻――
 
芭蕉はふと病床で目覚め――そうして――次の一句を詠んだのである――
   
 
旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る
 
 
   
芭蕉五十一歳――芭蕉の永遠の旅立ちは――この凡そ四日後のことであった――


本句についての僕の詳しい評釈はこちらを。

2014/11/24

かあさん たんじょうび おめでとう

今日は……3年前にALSで亡くなった母の誕生日だった……

かあさん……

誕生日おめでとう!

芭蕉翁終焉記 其角 (前)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

さあ、続けよう――



芭蕉翁終焉記   其角

 

[やぶちゃん注:宝井其角が元禄七(一六九四)年に出した芭蕉追善集「枯尾花」の一節。底本は小宮豊隆校訂「芭蕉臨終記 花屋日記」(昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)の「附錄の一」を用いた。踊り字は「〱」「〲」は正字若しくは「々」に代えた。ポイント落ち割注は〔 〕同ポイントで出した。]

 

芭蕉翁終焉記

 

 はなやかなる春は、かしら重くまなこ濁りて心うし。泉石冷々たる納涼の地は、殊に濕氣をうけて夜もねられず、朝むつけたり。秋はたゞかなしびを添て、腸をつかむばかり也。ともかくもならでや雪のかれ尾花と、無常閉關の折々は、とぶらふ人も便なく立歸て、今年就中老衰なりと歎あへり。抑此翁、孤獨貧窮にして、德業にとめること無量なり。二千餘人の門葉、邊遠ひとつに合信する因と緣との不可思議、いかにとも勘破しがたし。天和三年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり苫をかづきて、煙のうちに生のびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り無所住の心を發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、それより三更月下入無我といひけん、昔の跡に立歸りおはしければ、人々うれしくて、燒原の舊草に庵をむすび、しばしも心とどまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。雨中吟、芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉と侘られしに、堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。その比、圓覺寺大巓和尚と申が、易にくはしくおはしけるによりてうかゞひ侍るに、或時翁が本卦のやうみんとて、年月時日を古曆に合せて筮考せられけるに、萃といふ卦にあたる也。是は一もとの薄の風に吹れ雨にしほれて、うき事の數々しげく成りぬれども、命つれなく、からうじて世にあるさまに譬たり。さればあつまるとよみて、その身は潛ならんとすれども、かなたこなたより事つどひて、心ざしをやすんずる事なしとかや。信に聖典の瑞を感じける。さのごとく草庵に入來る人々の、道をしたへるあまり、とにもかくにも慰むれば、所得たる哉、橋あり、舟有、林あり、塔あり。花の雲鐘は上野か淺草かと眼前の奇景も捨がたく、をのをのがせめておもふもむつまじく侍れど、古郷に聊忍ばるゝ事ありとて、貞享初のとしの秋、知利をともなひ、大和路やよし野の奧も心のこさず、露とくとくこゝろみにうき世すゝがばや。是より人の見ふれたる茶の羽織、ひの木笠になん、いかめしき音やあられと風狂して、こなたかなたのしるべ多く、鄙の長路をいたはる人々、名を乞句を忍ぶこと安からず聞えしかば、隱れかねたる身を竹齋に似たる哉と凩の吟行に、猶々德化して、正風の師と仰ぎ侍る也。近在隣郷より、馬をはせて來りむかふるも、せんかたなし。心をのどめてと思ふ一日もなかりければ、心氣いつしかに衰滅して、病雁のかた田におりて旅ね哉とくるしみけん、其年より大津・膳所の人人いたはり深く、幻住庵〔猿蓑に記あり〕義仲寺、ゆく所至る所の風景を心の物にして、遊べること年あり。元來、根本寺佛頂和尚に嗣法して、ひとり開禪の法師といはれ、一氣鐵鑄生(ナス)いきほひなりけれども、老身くづほるゝまゝに、句毎のからびたる姿までも、自然に山家集の骨髓を得られたる、有がたくや。さればこそ此道の杜子美也ともてはやして、貧交人に厚く、喫茶の會盟に於ては、宗鑑が洒落も教のひとかたに成て、自由體・放狂體、世擧つて口うつしせしも現力也。凡、篤實のちなみ、風雅の妙、花に匂ひ月にかゞやき、柳に流れ雪にひるがへる。須磨・明石の夜泊、淡路島の明ぼの、杖を引はてしもなく、きさがたに能因、木曾路に兼好、二見に西行、高野に寂連、越後の緣は宗祇・宗長、白川に兼載の草庵、いづれもいづれも故人ながら、芭蕉翁についてまぼろしにみえ、いざやいざやとさそはれけん、行衞の空もたのもしくや。〔奥のほそ道といふ記あり〕十餘年がうち、杖と笠とをはなさず、十日とも止る所にては、又こそ我胸の中を、道祖神のさわがし給ふ也と語られしなり。住つかぬ旅の心や置火燵、是は慈鎭和尚の、たびの世にまた旅寐してくさ枕ゆめの中にもゆめをみる哉とよませ給ひしに思ひ合せて侍る也。遊子が一生を旅にくらしてはつと聞得し生涯をかろんじ、四たびむすびつる深川の庵を又立出るとて、鶯や笋籔に老を鳴。人も泣るゝわかれなりしが、心待ちするかたがた、とにかくかしがましとて、ふたゝび伊賀の古郷に庵をかまへ、〔三日月の記有〕爰にてしばしの閑素をうかゞひ給ふに、心あらん人にみせばやと、津の國なる人にまねかれて、爰にも冬籠する便ありとて思ひ立ち給ふも、道祖神のすゝめ成べし。九月廿五日、膳所の曲翠子よりいたはり迎へられし返事に、此道を行く人なしに秋の昏と聞えけるも、終のしをりをしられたる也。伊賀山の嵐紙帳にしめり、有ふれし菌(クサビラ)の塊積(ツカエ)にさはる也と覺えしかど、苦しげなれば例の藥といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去來京より馳せくるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈艸、平田の李由つき添て、支考・惟然と共に、かゝる歎きをつぶやき侍る。もとよりも心神の散亂なかりければ、不淨をはゞかりて、人々近くも招かれず。折々の詞につかへ侍りける。たゞ壁をへだてゝ、命運を祈る聲の耳に入けるにや、心弱きゆめのさめたるはとて、

    旅に病て夢は枯野をかけ廻る

また枯野を廻るゆめ心ともせばやと申されしが、是さえ妄執ながら、風雅の上に死ん身の、道を切に思ふ也と悔まれし。八日の夜の吟也。各はかなく覺えて、

     賀會祈禱の句

    落つきやから手水して神集め  木節

    凩の空見なをすや鶴の聲    去來

    足がろに竹の林やみそさざい  惟然

    初雪にやがて手引ん佐太の宮  正秀

    神のるす賴み力や松のかぜ   之道

    居上ていさみつきけり鷹の貌  伽香

    起さるゝ聲も嬉しき湯婆哉   支考

    水仙や使につれて床離れ    呑舟

    峠こす鴨のさなりや諸きほひ  丈艸

    日にまして見ます顏也霜の菊  乙州

 是ぞ生前の笑納め也。木節が藥を死ぬ迄もとたのみ申されけるも、實也。人々にかゝる汚を耻給へば、坐臥のたすけとなるもの、呑舟と舍羅也。これは之道が貧しくて有ながら、切に心ざしをはこべるにめでゝ、彼が門人ならば他ならずとて、めして介抱の便とし給ふ。そもかれらも緣にふれて、師につかふまつるとは悦びながらも、今はのきはのたすけとなれば、心よわきもことわりにや。各がはからひに、麻の衣の垢つきたるを恨みて、よききぬに脱ぎかはし、夜の衣の薄ければとて、錦繡のめでたきをとゝのへたるぞ、門葉のものどもが面目なり。

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅻ) 全 完結 ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

頃日土芳・卓袋歸郷之砌申遣候筈之處、取紛失念仕候故、今日壹人差立申候。先以、長々之御所勞、未御快無御座段、乍憚隨分御自愛專一に奉存候。此間兩雅丈より被成御聞候通、亡師一七日、於御靈前御追善之百韵、首尾能興行に相成、何れも滿足仕候。然者其席に御傳來之鳥羽之文臺立申候【鳥羽文臺 今長崎にありといふ。】。右此文臺之事者、御聞及も候半、季吟老人より亡師に御讓之、風雅傳來之雅物に御座候。根元玄旨法印より紹巴に御傳被成、貞德・貞室・季吟・亡師と傳り候。如斯之重器に候得者、亡師一代尋常之俳席には御用も無御座、深川之重器と承り候迄に候。然るに先年猿簑集撰成就仕、吟聲之砌、深川より御取寄に相成、其儘に義仲寺に被召置候。亡師も御門人之中に御傳可被成御心にも可有御座候共、亡師者一體此俳詣之事、左樣成俗事に御貪著被成候御氣象にては無御座、全體隱逸禪中風雲之行狀に候得者、傳ん不傳之處にては無御座候。併此後者其場にては濟不申、今度此儘に打捨置候得者、一道者立不申、永芭蕉門埋れ候歟共存候。幸ひ此節其角參り居られ候故、於江戸、其角・嵐雪と申ては、亡師左右之御手と被思召、無二之御愛弟に而御座候。夫故、御靈前に而右文臺讓之事、申開候得者、其角頻に辭退に而、一昨日罷歸申候。許六者病身、木節者老衰、美濃・尾張者遠方に而手屆不申。外に者若輩之者許。夫故先右文臺を義仲寺眞愚上人に預置、一二年も過候はゞ若年之者共、追々出精之上、拔群之者も出來可申、上人に申問候得者、路傍之廢寺、風・火災、又は賊難之恐、貧地獨居故、不任心底と申候斷に而御座候。只今に而老可預置所も無御座候。道心之御人體に候得者、兎角可申入筋も無之、此上者右之雅物に候之條、少比貴方に御預り置可被下候。來春に成候はゞ、拙者參以御熟談も可仕候。則右之品此者に持せ遣候。諸事御賢察可被下候。恐惶哉齊言。

  十月廿七日       向井去來

 松尾半左衞門樣

 

貴翰捧讀。先以、此間者前後之御取計、重疊御勞煩被成下忝奉存候。然者、鳥羽之文臺之事被仰聞趣、逐一承知仕候。如貴命、右文臺之事者、日外亡弟よりも承り、至而大切成雅器に御座候由、右之器物引讓之事、御心配之段、御尤千萬之事に奉存候。然るに其角能時節に參り合被居、辭退之義、手前も不承知に存候。芭蕉門人に其角・嵐雪と申事者、日本に俳諧好候者、誰不存者は無之候。然者門人中に何人か違背之御人も可有之共覺不申。右に付而者拙者より御賴も可申候得共、歸郷に成候と申事に候得者、不能其義候。且又眞愚上人御返答之義者御尤之事に奉存候。將又拙者方に暫く御預可被成旨、併我等事者肉身之事候得共、俗士之事に候へ者、風流中之品物、暫も預り候境界に無之候。何分にも是は雅器之事に候得者、貴雅方に手前より御預申度候。仰之通、明春にも成候はば、拙者罷越拜面之上、兎も角も可仕、是非々々讓方無御座節は、季吟未御存生之事に候得者、元之通返上納可仕。とても先夫迄者、貴雅之方に御預り置可被下候。偏に奉賴候。左候はゞ、芭蕉魂魄も可爲滿足候。卓袋・土芳より始末は承申候。恐惶謹言。

  十月廿九日     松尾半左衞門

               命淸判

 向井去來樣

 

鳥羽文臺    一脚黑塗

長壹尺九寸 幅壹尺二寸 高四寸 板厚三分 筆反壹尺壹寸

[やぶちゃん字注:以上の二行は底本と国会図書館版とをカップリングして読み易く配したものである。]

右老師嗣相承之印、季吟翁より先師に御相承被成候重器に候。今度拙者に御預可被成旨に付、慥に預置申候。後證如件。

  元祿七年甲戌十一月四日   向井去來

 松尾半左衞門殿

但三ヶ所疵 〔二ケ所者小指先程、一ケ所者小キ摺、四方之角損ジ有。〕

 

 

 

翁反故下

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅺ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

巨細之御書翰恭拜誦、御揃益御安泰被成御暮候之由奉遙賀候。然者今度芭蕉事、於大坂致遷化、自病中木曾寺至葬埋候迄、不淺御苦勞被成候由、御文面と申、土芳・卓袋よりも微細に致承知候。惣御連中、別而兩雅丈之御厚情之程、御禮難申盡候。芭蕉事、一所不住之境界に候條、可斯有とは兼而思儲居候得共、今更殘念御推察可被下候。併病中始終御介抱之事、縱令親族之面々附添居候共、斯迄手は屆不申、亡弟身に取て、他方之聞え、親類中之美目、身に餘り奉存候。

一 自大坂兩度之御手簡の中、二日の御狀而已漸十二日之暮方に屆候。外之御狀者未相屆不申候。芭蕉病氣大切成義と爲御知候故、早速使者差出候。最早日限過候碍共、未病氣に而有之と許存候。使之者歸り候は、十六日の朝罷歸候而、其時遷化之事も、遺骸迄近江之樣に送方被成候義も致承知候。卓袋・土芳近江之樣被參候義も、今度承り候之故、追取返し一人差立候。今度は拙者馳參申筈に候碍共、亡弟爰許發足之跡に而、拙者瘧疾勞、而も初瘧と申、老人之事に候故、長々相痛、漸九月下旬致快氣候。瘧後今以服藥いたし、出勤も不仕、氣力も未得不申候。不能其義、諸風子之御聞前恥入申事に候。

一 芭蕉遺狀慥に致落手候。誠に一類中打寄開封、何も一字一涙愁傷御思察可被下候。

一 亡者遺物之儀に付被仰越候趣、御入念之御事に候。併亡弟入道以來者、俗緣之表向無之候。僧分之器材之事に候條、遺言之品者格別、其外は不俵何品、直に義仲寺に寺納共に而可有之哉。夫□□猶又御連中任思召候間、御存寄次第宜御取計可被下僕。

一 壽貞子次郎兵衞事、今度信切之骨折、始終之事感入候。存寄も有之候。勿論譜代之者に候故、其元諸事相仕廻申候はば、一日成共早罷歸候樣、乍慮外被仰入可被下候。

一 相殘居候と有て、古衣裝四品被贈下慥に致落手候。外に古衣裝之類花屋に預被置候由、右之品者必御貪著被下間敷、其儘に被召置可被下候。餘情拜顏申殘候。以上。

  十月廿三日     松尾半左衞門

               命淸判

 晉 其角樣

 向井去來樣

 御連中 樣

 

追啓。御飛脚道違に而踏迷申され、殊に痛所有之由に候間、中一日手前にとゞめ申候。爲念申遣置候。以上。

 

別啓申遣候。芭蕉死去之事、拙者主各、同役共を以申達候處、主公甚殘念に被存趣、夫に付辭世共じゃ無之哉之事被尋候故、土芳・卓袋口述之通申達候得者、貴丈方之紙面直に可被披見との事、任其旨申候處、重而尋に、命終迄に發句は無之哉、若有之候はゞ直書見度と申事に候。若貴丈方、外々御所持之方も候はゞ、暫く拜借申度候。此段御賴申候。

一 自筆之山家集有之候はゞ、書入抔は無之哉。右條々宜御賴申候。爲其重而如是御座候。謹言。

  十月廿三日     松尾半左衞門

 

 其角樣

 去來樣

 

奧書之頭陀之内之品之中、五寸に六寸之切之事、幷に松島蚶潟之繪之事、御望の由、其外何品によらず、隨分御勝手次第に可被成候。少も不苦候。以上。

 

以使札得芳意候。向寒之節に候得共、益御安泰、御寺務可被成恭賀候。拙者無別條罷在候。然者芭蕉居士被致遷化候砌、葬式之節者、段々御苦勞被成下、忝奉存候。早速罷越、御禮詞等申述候筈に御座候得共、乍存疎略打過、背本意候。此段御宥恕被成可被下候。隨而左之通□□納仕候間、宜御囘向被可被下候。拙者も長々の病後、今以引入居申候故、出勤任候得者、早速墓參可仕候。其節拜顏之上萬々可申上候。先右之御禮詞迄、如斯御座候。以上。

  十一月二日     松尾半左衞門

 義仲寺樣

 

   覺

一 御布施      金二百疋

一 同御佛米御齋米料 同二百疋

一 同御茶湯料    同百疋

一 御布施      同百疋 〔松尾氏一類中〕

[やぶちゃん注:「松尾氏一類中」は底本は本文同ポイントであるが、国会図書館版により割注とした。]

 右

 

以飛札御意申候。益御淸雅奉賀候。爰許無異に居申候。然者、師翁遷化之事承り、途方に暮候。いかに成行可申哉。只闇夜と相成。唯愁涙迄に候。取あへず一句案候。靈前に御敬手可被下候。以上。

  十月廿三日         露沾

    去來雅丈

    告て來て死顏ゆかし冬の山  露沾

[やぶちゃん注:前に記した通り、次の一行のみ、行頭から記し、一行空けて続く去来の芭蕉の兄半左衛門宛往復書簡類は再び底本では三字下げとなって、そのまま下巻本文は終了する。]

此外、諸國之弔儀數百ヶ所、繁雜故に除之。

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅹ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

芥川龍之介が「枯野抄」で芭蕉の老僕としている「治郎兵衛」は、原典では実は『壽貞子次郎兵衞』とはっきり記されていることに注目されたい。この一事を以てしても、私は龍之介はやはり本作が偽作だと分かっていた(だからこそ彼を老僕にしても全く事実に反さないとも言えよう)ように思うのである。

 十七日 乙州亭。

一 眞愚上人        金一兩

一 御齋米料        同一兩

一 御供養料        同一兩

一 御茶湯料        同百匹

一 御弟子觀門子      同百匹

一 三井寺常住院御弟子二人 同二百匹

        家來衆三人 銀三兩

  御遺物

一 出山佛一體 御長一寸一分

一 鐡如意一本 〔佛頂禪師より附與。長サ押延て凡一尺九寸位。頭蔦葉形り、金箔。木曾寺にあり。丈草に附與。〕【今長崎にありといふ。】

一 觀音經

一 紙縷袈裟  〔佛頂禪師より附與〕

[やぶちゃん字注:底本では同ポイントであるが、国会図書館版で確認、前の「鐡如意」の記述からも割注と判断した。後の「木硯」も同じ。]

一 被風

一 銅鉢

一 木硯    〔樫木にて旅硯也〕

一 古今集序註 一部

一 百人一首  一部

一 新式    一部

一 奧之細道  一部

一 御笠    一蓋

一 菅蓑    一被

一 御杖    一本

  〔右紙縷袈裟より以下七品は、兼て惟然に御附與之御約諾のよしに候故、直に惟然に附與。〕【惟然に附與ありしものは、今 播磨增井山の麓 風羅堂に納る。】

一 御頭陀   一

[やぶちゃん字注:以下の割注は底本では全体が二字下げ。]

〔中に杜子美詩集・山家集・外に後猿蓑と題ありて、歌仙三卷、發句四五吟程。外は御書捨の反故等入。別に紙に包たる布裂、五寸に六寸許。上包に狹ノ細布と有。進上淸風と。又外に和歌の古短尺二枚、松島蚶潟ノ繪二枚。〕【此狹ノ細布、蚶潟の畫は今 文曉が祕藏す。】

[やぶちゃん字注:以下の本文は底本では全体が三字下げ。]

右の中、紙に包たる五寸に六寸の布裂幷松島蚶潟之畫、若御支無御座候はゞ、御形見下拙に被仰付可被下供樣奉希候。生涯寶物に仕度候。

                去來

 

 十八日 於義仲寺追善之俳諧百韵滿尾す。鳥羽の文臺・松風の硯寫の木硯。連衆四十三人。【此百韵枯尾花集にあり。】

 

[やぶちゃん字注:以下、本文は途中の(そこで指示する)「此外、諸國之弔儀數百ヶ所、繁雜故に除之。」の一行だけが行頭からで、ほかは底本では全体が三字下げで最後まで至っている。]

態壹人差立候。益御平安可被成御座奉恭賀候。皆共無異罷在候。御安意可被下候。然者、尊師於大坂御大病之處、支考・惟然より申進候得共、御返答無御座。遠路故紙面遲著と察候。兎角仕候中、拙者共も罷下り、加御保養候へ共、御養生不被爲相叶、去十二日終に御遷化被遊候。旅中之儀に御座候故、其夜早速近江木曾寺に尊骸を奉遷、十四日迄御報奉待候へ共、御返答不承候間、諸國門人中一等評義に而、則十四日之夜、於木曾寺埋葬仕候。委曲は追々土芳・卓袋歸國之上に而御承知可被下候。

一 別封之一書老師翁御遷化之日、御認被遊候御遺書に而御座候。上書迄に而御封緘者其時より無之候條、左樣被思召御落手可被下候。

一 御遺物之品々者、諸國連衆於義仲寺集會之上、書記之通無相違候條、今度御來臨も御座候はゞ、御見屆之上任御取計申筈に候得共、御左右無御座候故、不得止取計置目錄入御覽申候。御親類方にも乍憚此旨被仰達可被下候。土芳・卓袋歸國口述之上、御返事被成可被下候。一七日御追善供養相仕廻申候故、諸士高引取申候筈に候條、願は御返書承り申度候。書餘兩雅子に御聞可被下供。以上。

  十月十九日         去來

                其角

 松尾半左衞門殿

 

別啓。昨日之俳諧百韵入貴覽候。

一 御遺物目錄之外に左之通相殘居候品、御綿入〔一著〕御袷〔同前〕御肌付〔同前〕御帶〔二筋〕、右は花屋仁左衞門より一昨日次助兵衞方に贈參候。外に古御衣裳之類數多在之候は、大坂出立取急候故、不殘花屋に預置申候。

一 御飛脚只今參著被致候。尊翰拜見仕候。御返事仕候筈に候得共、用相認□申候故、貴答不仕候。

[やぶちゃん字注:判読不能字は国会図書館版では二字。]

一 壽貞子次郎兵衞、御國出立之砌より御供仕居候。御病中始終御葬埋之節迄、拔群之骨折被仕候。逐一兩雅より口述に可及候。御病中間之始末、御病體、惟然・支考・次郎兵衞、

拙者迄筆記入貴覺候。已上。

 

尾形龜之助「十一月の晴れた十一時頃」  心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 十一月の晴れた十一時頃

          尾形龜之助

 

じつと
私をみつめた眼を見ました
 
いつか路を曲がらうとしたとき
突きあたりさうになつた少女の
ちよつとだけではあつたが
私の眼をのぞきこんだ眼です
 
私は 今日も眼を求めてゐた
十一月の晴れわたつた十一時頃の
空に

 

 

[心朽窩主人注:本詩の最終行は、初版「色ガラスの街」や思潮社版尾形龜之助全集増補改訂版(一九九九年刊)及び同社現代詩文庫「尾形亀之助詩集」(一九七五年刊)でもすべて、

 

室に

となっている。当初、その通りに、

——

という訳出を行ったのであるが、どうも何かが、おかしい感じがした。訳者二人で議論したところ、この詩中で主人公の「私」が「今日も眼を求めてゐた」のは、「十一月の晴れわたつた十一時頃の」「空」こそが相応しく、「室」というのは何か妙ではないか? という疑義で一致したのであった(但し、尾形の詩の中の詩人は出不精で部屋の中で夢想することは確かに多く、そうした観点からは完全に矛盾した表現(詩想)だと断言は出来ないことは無論である)。考えてみると実は「空」と「室」は、特に古い活字の場合、よく似た字体をしており、誤植・誤読されるケースの多い字なのである。本詩の初出データは未詳であるため初出誌に当たることが出来なかったが、調べてみると、本詩の載る詩集「色ガラスの街」には、「部屋」の意味で「室」と表記した例はこの一篇しか存在しないこと、それに対し、「部屋」という表記が同詩集では二十二箇所も使用されていることが分かった。
 以上の事実から、我々訳者二人は、この「室に」を敢えて「空に」とした上で「原詩」として示し、中国語訳を行うという暴挙に出ることとした。テクスト校合の観点からは全く以って非学術的ではあるが、これは我々二人が、

 

我々の愛するこの尾形の詩は――「室」――では訳せない

 

と感じ、「空」の誤りの可能性があるとすれば、

 

我々の愛するこの尾形の詩は――「空」――こそが正しい用字である

 

という確信犯に至った仕儀なのだと御理解戴きたいのである。大方の御批判や御叱正は覚悟の上である。]

 

 11gatunohareta

 

 十一月份 晴朗的 十一点左右

 

——

发现盯着看我的目光

 

候要在街角拐弯

差点儿撞上的一个女孩子的

虽说只是一瞬

可是从正面窥视我瞳孔深的那目光

 

我 今天也是寻觅着那目光

于十一月份 晴朗的 十一点左右的

天上 ——

  

[矢口七十七附注:集《色ガラスの街》初版,思潮社推出《尾形之助全集》增版(一九九九年刊),思潮社《尾形之助集》(一九七五年刊)上,最后一行都是「室に」,我先翻「房里——」。但得有所不适当,继续检讨,达到了一个结论:寻觅目光的不大可能是在房:「室に」,而可能是在天空中:「空に」。在集《色ガラスの街》初版上人要到房间时一次也没有用「室」一字,而且目的用二十二次「部屋」。并且第二前的日本的字「室」和「空」很像,易被捡错。因此者以「空に」正版翻成中文,多加指正。]

      矢口七十七/
 

[心朽窩主人駄目押し拘り補説:いい加減な思いつきから原詩を弄ったと思われるのは矢口七十七氏ともども非常な心外と心得る。されば、以下に――「室」を「空」に変える――という結論に至ったその経緯を簡単に述べておくこととする。
矢口氏は最初の中国語訳稿を私に示した際、最後に本詩の全体の構成と、そこに感じる、ある時制上の違和感を漏らしている。以下に矢口氏からの来信の当該部分を示す(本人許諾済)。

   * 

最後に、この詩の時間軸についてひとつ完全には腑に落ちないことがあります。冒頭の二行で〈眼を見た〉のは、一体いつのことなのでしょうか。文意から言えば、第二聯の、突き当りそうになったときの少女の眼がすなわち、冒頭のじっと私をみつめる眼である、とも理解はできます。しかし、僕はこう受け取っています。いかがでしょうか。冒頭の二行は、突き当りそうになった時のことを言っているのはないような気がするのです。つまり、事実関係としては…… 

A、昔、どこかで少女と突き当りそうになり、眼をのぞきこまれた。

B、特定の時間の流れとは別の世界で、自分をみつめる眼に気づいた(それは、生まれる前かもしれないくらい、とっくの昔に)。

C、十一月のある晴れた十一時頃である今も、詩人はBの眼を追い求める。そしてBはAと同じものだと感じている。 

時間軸で捉えると、A→C、同時に全てを蔽うように→B→です。

   *

これを受けて、私は私の幾分異なった構成解釈について彼に述べようと思いつつ、原詩を改めて眺めたのであった。――ところが――である。以下、私の矢口氏への返信の一部を――やや動揺と混乱の気味が文面に表われているが――多少の整序を加えたが、ほぼそのままで示す。

   *

……中文訳への変更をもたらすとは思われませんが、私の解釈は少し異なるなあと思いつつ……そうして……そうして原詩を見直し……貴方の訳を眺めながら……

……ふと僕は気がついたのです

……最後の行が「空」じゃないんだ……「室」なんだって……

この最後の行の「室」は実は「空」の誤植なのではないか?!

そもそも「晴れた十一時頃の室(へや)」という謂いは尾形らしいといえるだろうか?

――らしくない――とは言えない。

この詩人は外よりも部屋の中にあって夢想する傾向が強いから――

しかし……「室」?……へや?……部屋?……

尾形はこんな用字をしたっけか?……

調べて見ると、「色ガラスの街」では部屋という意味で「室」を使った詩はこれ一篇しかない。

それに対し、「部屋」は実に22箇所で使用されている。

矢口君――これはもしかすると「空」ではないかしら?!

僕なら最後に「室」(=部屋)で〈それ〉を求めなんかしないのだ。――

「十一月の晴れわたつた十一時頃の」「空」に求めると思ったのだ!――


アプリオリでメタ・フィジカルな観念上の体験記憶。それはあなたの言う「どこか」ですが、しかしそれはどこでもない「どこか」なのです。この最初の提示はそういう意味に於いて全く抽象的な審美的存在と言ってもよい。

A´
ここは「B」ではなく、純粋抽象の「A」を読者に具象化するための「A」の換喩なのです。私の意識ではここで初めてその「少女」は姿を現わします。それは過去の記憶に基づくものであってもよい。しかしそれは何千回何万回とフラッシュ・バックする「懐かしい記憶」であると同時に、永遠に再現され更新され続ける「新しい記憶」です。但し、それは希求するものであって、現実のそれではないところの、ある意味では疑似的な記憶、とも言えるものです。


マグリットの絵のような、静止していながら彼方へ抜けるような虚空の――幻の「十一月の十一時頃の靑空」――に詩人は自ら漂い〈それ〉を求めるのです。

……そうして……ここが問題なのですが……

――その詩人は――晴れた「靑」「空」の中にいる――のであって――「室」(へや)から「空」を見ているのではない――のです……

私自身、今驚いているのですが、私の解釈では最後のそれは――「室」(=部屋)――では毛頭ないように私には思えてしまうのです。[以下、略。]

   *

この後、何度も矢口氏とやり取りを重ねた中で、最初の注に示した通り、敢えて

「室」を「空」に変える

という結論で一致を見たのであった。

再度言うが、アカデミックな立ち位置から考えれば、これはとんでもない暴挙である。

しかし乍ら、矢口氏も私もアカデミズムの人間ではない。

そもそもが私たち二人の「尾形龜之助中文訳」は、私たち二人きりの/たかが/風狂世界での逍遙遊なのである。しかし同時にそれは/されど/である。尾形龜之助の羽毛のような口語の夢幻的な現代詩を中国語に訳すことが、実はどれほど難しいことかということもどこかで御理解戴きたいとは思っているのである。「室」は「空」が分かりがいいや、なんどという甘っちょろい意識ではなく、それなりの「覚悟」を以って矢口氏と私は尾形に対峙している。

さればこそ――かく注を附した上での我らのこの暴虎馮河――何より――詩人尾形龜之助自身が許して呉れるであろう――そんな思いの中で成した「確信犯」であると心得て戴きたいのである。] 

 

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅸ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

文曉という男、これ、とんでもない贋作者だったことがよく解る。底本の小宮豊隆氏の解説によれば、文中の彼による割注にさりげなく記されてある「次郎兵衛日記」というのは、やはり彼の贋作で、彼はちゃっかりここでその広告をしているのである。他にも「凡兆日記」だの『芭蕉關係の僞書を幾つも製造した』とあり、さらに『或文學博士は、この文曉の僞書を、元祿當時のものと信用したらしく、大正時代に、芭蕉關係の貴重な文獻として、是を公けにさへしてゐるのである。文學博士を欺す事の出來るやうな坊主の頭は、心理學的に言つても、十分研究してみる價値があるに違ひない』と、如何にも小宮氏らしい皮肉を述べている(小宮氏のこの解説は昭和一〇(一九三五)年九月十六日のクレジットがある)。

 さて、芥川龍之介が本偽書を主素材として「枯野抄」を書いたのは、大正七(一九一八)年(同年十月一日発行の雑誌『新小説』に掲載、後に『傀儡師』等の作品集に収められた)、芥川龍之介二十六歳の時であるが、現在の芥川研究に於いては、例えば伊藤一郎氏は芥川は本書が偽書であると知っていた可能性を示唆している。この伊藤氏の論文「あこがれと孤独――龍之介「枯野抄」の成立考――」(『文学』1982年6月)は未見であるが、勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」では『
うすうす偽書だと知っていた』とし、翰林書房「芥川龍之介新辞典」では『偽書と知りつつこの作を利用(取捨)した』と表現に微妙な温度差がある。稀代のストーリー・テラーなればこそ、僕は、芥川は文曉のフェイクを既にして御見通しだったものと理解している。



翁反故下 花屋日記

 

 十六日 乙州亭に集合して、義仲寺の住持、其外僧徒に禮物、御遣物等の沙汰におよぶ。

 

[やぶちゃん注:以下の去来其角宛書簡と其角の返信は底本では全体が三字下げ。]

 昨夜迄大に御苦勞被成候。扱今日は先師御遺言之通、御遺物夫々配分仕度、其外寺納等之義申談度、且亦伊賀より一向に返事も無之、至而不審に存候。態と人差立申渡に付、拙夫一人之名目少憚存候故、御連名に加入申度、是等之義及御談合度、又明後日一七日に候條、諸國連中退散無之中、於御靈前御追悼俳諧百韵興行仕度、付而者御終焉之記一章貴雅御書被成度、右膝々可申談間、只今より御出座可被下候。萬端は面上可申上候。以上。

  十月十六日         去來

 其角英雅

 

 御書翰拜讀、御念之御事共忝侯。此間之御辛勞難盡筆頭。扨とよ今日は諸君御集會、先師御遺言之御遺物配分、且寺納其外之勘定可被成旨、又伊賀への御文通に付、拙者立會申候樣被仰聞候趣、畏候。早速馳參可申候得共、今日は宿主曲翠子始臥高・正秀・泥足同心仕、先師御舊跡の幻住庵に罷越、椎の冬木も見、御筆跡の一字一石塔も拜申度、前諾仕置、則唯今出立仕にて候。乍御不□御宥免可被下候。御遺物其外寺納等之事は、乙主人、諸風子に御談可被成候。伊賀への御紙面拙者御連名可被成旨、隨分御同意仕候。

 一 御終焉記之義被仰聞いかゞ可仕哉。併貴命之事に候故、取懸り見可申候。御病氣最初よりの御樣體、貴兄始惟然・支考が覺書勿論、御夜伽の發句等、御書付御見せ可被成候。且次郎兵衞日記、共に御見せ可被成候。出立早々。以上。

  十月十六日         其角

 去來英推

終焉記 枯尾花集といふに有。

次郎兵衞日記は芭蕉談四篇目也追て刻すべし。

2014/11/23

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅷ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 芭蕉葬送―― 上巻 了

 大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の狀、羅漢寺の僧伊勢に急用有て參るよしを、花屋よりしらせければ、是幸ひと賴つかはしけるに、此僧奈良に著たる日より、痢疾にて歩行かなはず、やむことを得ず奈良に滯る。夫故十一日朝、伊賀上野に行人あるを聞つけゝれば、右の狀を仕出しけり。此狀、十二日の暮ごろに上野に屆きけり。土芳・卓袋ひらき見るより大に驚き、とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、是も同時に書狀著せりと云。夫より兩人は、したためそこそこにして、子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、大和の帶解までたゞいそぎに急ぎけれど、月入ての事なれば、くらさはくらし、小路の事ゆゑ、挑灯も消ぬれば、其夜の明がたに帶解に著く。相知れる方に暫らく休らひて、したゝめなどし、是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には過ず。さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、俊德海道をたゞ急にいそぎ【今の地方を以て見れば、くらがりの峠をこして俊德街道に出ず。十三峠とくらがり峠をおもひ誤れるなるべし[やぶちゃん字注:国会図書館版では「地方」は「地圖」となっており、「くらがりの峠をこして俊德街道に出ず」の箇所は「くらがり峠をこしはて俊德街道に出ず」となっている。後者は「越しては」の誤植かとも思われる。]。】、平野口より御城の南をかけぬけ、直に久太助町花屋にかけつけたるは、十三日の暮頃なり。何がなしに、翁の御病氣いかにと問ければ、仁左衞門しかじかと答ふ。爾人ともに殘念まうすばかりなく、さらば葬送なりとも逢ひたてまつらんとて、又ひきかへし、八軒屋にかけ行。幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乘り、伏見京橋に著しは夜明也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に著しは、未入棺し給はざるまへなりければ、諸子に斷りて、死顏のうるはしきを拜しまゐらせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかきくどきけれど、まづ因緣の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく燒香につらなりけり。(〔土芳・卓袋〕物語)

 

 十二日暮に伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、其夜何處にて行違ひたるやらん、夜明て大坂に著。直に花屋にはせたるに、諸子御骸を守り奉りて、のぼり給ひぬと聞より、直に又十三日の晝船に大坂より引かへし、其夜酉の刻にふしみにつく。夜半頃に大津に歸る。(昌房物語)

 

 義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人まゐられ、讀經念佛あり。御入棺は其夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入ても左右なし。去來・其角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。晝のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳にひかへたる人數凡そ三百人餘。しるしらぬ近郷より集る老若男女までをしみ悲しむ。時しも小春の半にて、しづかに天氣晴たわり、月淸朗として湖水の面にかゞやき渡り、名にし粟津のまつに吹起るは、無常の嵐かとおもはれて、月はおもしろきもの、露は哀なるものといへれど、折にふれては何かあはれ成ものならざらむ。矢橋の漣のよするひゞきも、愁人のためには胸にせまり泪を添ふ。(支考記)

 

     引導香語

雪月魂魄。風花精神。等閑一句。驚動人天。嗚呼。奇哉芭蕉。妙哉芭蕉。萬里白雲。一輪明月。五十一年。一字不説。

     各捻香

 丈草 其角 去來 李由 曲翠 正秀

 木節 乙州 臥高 惟然 昌房 探芝

 泥足 之道 芝栢 牝玄 尚白 土芳

 卓袋 許六 丹野 風國 野童 遊刀

 野明 角上 胡故 蘇葉 靈椿 素顰

 囘鳬 萬里 誐々 這萃 荒雀 楚江

 木枝 朴吹 魚光 支考

 諸國代香不記

 右の外近江國中は申に及ばず、京・大坂・美濃・尾張・伊勢・其外國々より京などに登りゐたる諸國の人々、三世値遇の緣をよろこび、我も我もと香手向奉る。其數何百人といふ數しれず。境内狹ければ、表より入たる人は裏へぬけ出るやうにしつらひ置、田の刈跡に道をつけゝれば、燒香の人々はすべて裏へぬけゝるにぞ、さして騷がしき事もなく、葬埋をはりけるは、子の時過になりにける。翁かねて遣命の通り、木曾殿の右のかたに埋葬し奉りけり。

十五日 去來・其角はじめ、膳所・大津の人々、朝疾詣して、先とて土かきあげて卵塔をかたどり、幸ひ塚のうしろに、年ふりたる柳あるをそのまゝにし、御名の形見とて、枯々の芭蕉を一本、兼てこのみ給ひたる茶の木の、今を盛りなる花とともに移し植て、竹もて垣ゆひまはし、香花を手向奉りけり。日のもと廣しといへども、生前に其名豐葦原の浪に響き、其德芙蓉の絶頂に竝ぶ。人丸・赤人のむかしはいざしらず、末代の今にしては實に我翁一人といふべし。

 

[やぶちゃん注:以下の遺筆軸物は底本では全体が三字下げ。]

御先に立候段、殘念に可被思召候。如何樣とも又右衞門便に被成御年被寄、御心靜に御臨終可被成候。至爰申上事無御座候。市兵衞・治右衞門殿・意專老初、不殘御心得奉賴候。中にも十左衞門殿・半左殿、右之通に候。はゝ樣、およし、力落し可申供。以上

  十月十日           桃 靑

                  〔花押〕

 松尾半左衞門樣

新藏は殊に骨被折忝候。

【此一軸再形庵什物。】

【市兵衞 雪芝 事】

【治右衞門 苔蘇 事】

【意專 猿雖 事】

【十右衞門 半殘 事】

【半左衞門 士芳 事】 

 

翁反故上

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅶ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 芭蕉逝去――

 十日 初時雨せり。師、夜の明がたより度數しれず、ひとしほ腦みたまへり。折ふしに語一言ありて、とりしめなきこと多し。木節此日芍藥湯をもる。諸子打より、食事をすゝめまゐらせけれど、すゝみたまはず。梨實をのぞみたまふ。木節かたく制しけれど、頻りに望みたまふゆゑ、やむことを得ずすゝめければ、一片味ひてやみ給ふ。木節云、脾胃うくる處なし、死期ちかきにありと云。申の刻にいたつて人ごゝちつきたまふ。今日は一人も食したるものなし。(惟然記)

 

 十一日 朝またまた時雨す。おもひがけなく、東武の其角きたる。是は東武の誰彼同伴にて參宮の序、和州・紀州を打めぐり、泉州より浪華に打入りしが、はからずも師の勞りおはすと聞つけ、そこ此處とたづねまはり、漸にかけつけたり。直に病床にまゐりて、皮骨連立し給ひたる體を見まゐらせて、且愁ひ且よろこぶ。師も見やりたまひたるまでにて、唯々泪ぐみたまふ。其角も言句なく、さしうつむきゐたりしを、丈草・去來支考其外の衆、次の間に招き、御病性の始終を物がたる。此夜、夜すがら伽して、おもひよりし事ども物がたり居たりしに、亥のときごろより、師、夢のさめたるごとく、粥を望みたまふ。人々嬉しさかぎりなく、次郎兵衞取計ひて、疾く焚あげてすゝめまゐらす。中かさ椀にて、快くめされけり。朔日より已來の食事なり。土鍋に殘りたるを、去來椀にうつし入ておしいたゞき

    病中のあまりすゝりて冬ごもり  去來

 去來曰、趣向を他にもとめず、有あふことを口ずさみて、師を慰めまゐらせん。深く案じいら□と頓に句作りたまへ[やぶちゃん字注:「□」の部分は底本では『一字不明』と注する。国会図書館版では「案じいらすと」と活字化している。]。惟然は前夜正秀と二人にて、一ツの蒲團をひつぱりて被りしに、かなたへひき、こなたへひきて、終夜寢いらざりければ、はてはしらじらと夜明けるにぞ、其事を互に笑ひあひて

    ひつぱりて蒲團に寒きわらひ哉  惟然

    おもひよる夜伽もしたし冬籠   正秀

 一座是をき上し、いづれもどつと笑ひければ、師も笑ひたまへり。人々嬉しさかぎりなく、十日已來の興にぞ有ける。初しぐれなりければ【初しぐれといふより四行 十一日の晝うちのことゝ見るべし。】、空とく晴て日影さしいりたるに、蠅のおほく日南に群りゐたるに、人々黐もて蠅をさし取に、上手下手あるを見給ひて、暫く興にいりたまひけれど、大病中のことなれば忽倦たまひ、直に寢所に入たまふ。支考は、師の發句を減後に一集せん心願あれど、此ごろの病苦に腦みたまふに見あはせゐたりしが、今日機嫌よきに案じて

申出侍らんと、去來に申たりければ、去來はかねて師の心中を知りたりしゆゑ大にいかり、小ざかしき事を申さるゝもの哉、師は平生名聞らしきこと好み給はず。今日漸快き體を見請はべりて、諸人嬉しとおもふ中に、御氣に逆ふこと聞せ申ては、御心を勞しめ申事、奇怪なり。此後御病床ちかくより給ふな、早く其座を立たまへと、聲あらゝかに次の間に追立けり。支考もはからずものいひ出して、諸子の聞前面目をうしなひしが、行々惟然に打むかひ、我に句あり、そこ書給へといひて

    しかられて次の間にたつ寒かな  支考

さすが支考なりければ、師もほの聞給ひて、おかしがり給ひけり。

    鬮とりて菜飯□□□□□□□□  木節

    皆子なり□□□□□□□□□□  乙州

【この二行腐て見えず。枯尾花集に 鬮とりて菜めしたゝかす夜伽哉  みな子也みの蟲寒くなきつくすとあり。[やぶちゃん注:国会図書館版では「鬮とりて菜飯たゝかす夜伽哉」「皆子なりみの虫寒くなきつくす」とある。]】

    うづくまる藥のもとの寒さかな  丈草

    吹井より鶴をまねかむ初しぐれ  其角

 一々惟然吟聲しけれは、師、丈草が句を今一度とのぞみ給ひて、丈草出かされたり。いつ聞てもさびしをり調たり。面白し面白しと、しはがれしこゑもて譽給ひにけり。いつにかはりし機嫌の麗しきをよろこびけるに、木節一人愁をいだける體に見えければ、其角其故をとふ。木節云、病に除中の證といへるあり。大病中絶食なるに俄に食のすゝむことあるは、惡症なり。死期遠きにあらずといへり。さはしらず各さゞめきゐたるに、夜半ごろより又寒熱往來ありて、夜明ごろより顏色土のごとく見えたまひ、暫くは悶亂し人も見しりたまはざりしが、やゝあつて又實證になりたまひ、左右に舍羅・呑舟、うしろよりは次郎兵衞いだきまゐらせて介抱し、程なく夜明ければ十二日なり。兼ては閉籠り給ひしが、へだての障子も襖もとりはなさせ、其角・去來・丈草を是へとて向に見給ひ、穢をはゞかれば咫尺したまふなとことわり、行水を望みたまふ。木節頻りに制しけれど、しきりにのぞみ給ふゆゑ、やむことを得ず、湯をひかせまゐらせけり。座をしづかにあらため、木節が醫術を盡されし事などつとくに謝し給ひ、扨三人の衆を近くめされ、乙州・正秀を左右にし、支考・惟然に筆をとらせ、なきあとの事こまごまと遺言したまふ。病苦すこしも見えたまはず。人々奇異のおもひをなしけり。伊賀の遺書は手づから認めたまひ、外に京・江戸・美濃・尾張もれざる樣に遺言しをはりたまふに、始終は門人中にて筆記す。次第に聲細り、痰喘にて□□ひければ、次郎兵衞素湯にて口を潤しまゐらせけり[やぶちゃん字注:国会図書館版は判読不明字を三字とする。]。やゝ有て去來にむかひたまひ、先頃實永阿闍梨より路通が事を仰有。其後汝が丈草・乙州等に送りし消息、露霜とは聞捨ず。併少しいみはゞかること有て、雲井の餘所にはなし侍りぬ。彼が數年の薪水の勞、努々わすれおかず。我なき跡には、およそに見捨たまはず、風流交り給へ。此事たのみ置はべる。諸國にもつたへ給はれかしと、言終りたまひて餘言なし。合掌たゞしく觀音經ときこえて、かすかに聞え、息のかよひも遠くなり、申の刻過て、埋火のあたゝまりのさむるがごとく、次郎兵衞が抱きまゐらせたるに、よりかゝりて寐入給ひぬとおもふ程に、正念にして終に屬曠につき給ひけり。時に元祿七甲戌十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。

 即刻不淨を淸め、白木の長櫃に納まゐらせ、其夜直に川舟にて伏見まで御供し奉る。其人々には、其角・去來・丈草・乙州・正秀・木節・惟然・支考・之道・呑舟・次郎兵衞・以上十一人。花屋仁左衞門が京へ荷物を送る體にて、長櫃の前後左右をとりまき、念佛誦經おもひおもひに供養し奉る。八幡を過る頃、夜もしらしらと明はなれけるに、僧李由の下りたまへる舟に行逢ければ、いざとて乘移り、相ともにはかなき物がたりして、程なく京橋につく。夫より狼だに通りにかゝり、急ぎにいそぎしほどに、十三日巳の時過には、大津の乙州が宅に入れたてまつりけり。乙州は伏見より先立ていそぎて歸り、座敷を掃除しきよめ、沐浴の用意す。御沐浴は之道・呑舟・次郎兵衞也。御髮の延びさせたまへば、月代には丈草法師まゐられけり。御法衣・淨衣等は、智月と乙州が妻縫奉る。淨衣、白衣にて召させ參らすべき筈なるを、翁はいかなる事にや、兼て茶色の衣裝こそよけれと、すべて茶色を召れければ、智月尼のはからひとして、淨衣も茶色の服にこそせられける。さて送葬は十四日と定り、彼是日沒になりにけり。

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅵ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 320年前の明後日 旅に病で夢は枯野をかけ廻る――

 九日 諸子の取はからひとして、ふるき衣裝又夜具などの、垢つきたる不淨あるを脱かはし、よき衣に召せかへまゐらせ申。師曰、我邊地波濤のほとりに、革を敷寐、塊を枕として、終をとるべき身の、かゝる美々しき褥のうへに、しかも未來までの友どちにぎにぎしく、鬼錄に上らむこと、受生の本望なり。丈草・去來と召。昨夜目のあはざるまゝ、不斗案じ入て、呑舟に書せたり。各詠じたまへ。

    旅に病で夢は枯野をかけ廻る

枯野をめぐる夢心ともし侍る。いづれなるべき。これは辭世にあらず、辭世にあらざるにもあらず。病中の吟なり。併かゝる生死の一大事を前に置ながら、いかに生涯好みし一風流とは言ながら、是も妄執の一ツともいふべけん。今はほいなし。去來言、左にあらず。日々朝雲暮雨の間もおかず、山水野鳥のこゑもすてたまはず。心身風雅ならざるなく、かくる河魚の患につかれ給ひながら、今はのかぎりに其風神の名章を唱へ給ふ事、諸門葉のよろこび、他門の聞え、末代の龜鑑なりと、涕すゝり泪を流す。眼あるもの是を見ば、魂を飛さむ。耳あるもの是をきかば、毛髮これがために動かむ。列座の面々、感慨悲想して、慟絶して、聲なし。是師翁一代遣教經なり。此日より殊更におとろへたまへり。度數しれず。(去來記)

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅴ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 320年前の明日――

 八日 天氣快晴。御不全なり。京の□士來る。信德より消息もて、御病體を問ふ。同近江の角上より使來る。人々勝手の間にて、今度の御所勞平復を祈り奉らんとて、住吉大明神に連中より人を立べしと、去來申おくられければ、各しかるべしと、之道・次郎兵衞は鬮當にて、社務林采女方に祝詞をたのみ、厚く神納の品々おくらる。

各詠

     奉 納

   落つきやから手水して神あつめ   木節

   初雪にやがて手ひかむ佐太の宮   正秀

   峠こそ鴨のさなりや諸きほひ    丈草

   起さるゝ聲もうれしき湯婆哉    支考

   水仙や使につれて床はなれ     呑舟

   居あげていさみつきけり鷹のかほ  伽香

   あしがろに竹のはやしやみそさゞい 惟然

   神のるすたのみぢからや松の風   之道

   日にまして見ます顏なり霜の菊   乙州

   こがらしの客みなほすや鶴の聲   去來

 大勢の集會なりければ、よろこび興じて師を慰め申けり。木節、去來に申けるは、今朝御脈を伺見申に、次第に氣力も衰給ふと見えて、脈體わろし。最初に食滯より起りし泄瀉なれども、根元脾腎の虛にて、大虛の痢疾なり。故に逆逸湯主方なり。猶又加減して心を盡すといへども、藥力とゞかず。願はくは、治法を他國にもとめんとおもふ。去來、師にまうす。師曰、木節が申條尤なれども、いかなる仙方ありて虎口龍鱗を醫すとも、天業いかんかせん。我かく悟道し侍れば、我呼吸の通はん間は、いつまでも木節が神方を服せむ。他に求むる心なしとのたまひける。風流・道德人みな間然することなし。

 支考・乙州等、去來に何かさゝやきければ、去來心得て、病床の機嫌をはからひて申て云、古來より鴻名の宗師、多く大期に辭世有。さばかりの名匠の、辭世はなかりしやと世にいふものもあるべし。あはれ一句を殘したまはゞ、諸門人の望足ぬべし。師の言、きのふの擧句はけふの辭世、今日の擧句はあすの辭世、我生渡云捨し句々、一句として辭世ならざるはなし。若我辭世はいかにと問人あらば、此年頃いひ捨おきし句、いづれなりとも辭世なりと申たまはれかし。諸法從來常示寂滅相、これは是釋尊の辭世にして、一代の佛教、此二句より外はなし。古池や蛙とび込水の音、此句に我一風を興せしより、初て辭世なり。其後百千の句を吐に、此意ならざるはなし。こゝをもつて、句々辭世ならざるはなしと申侍る也と。次郎兵衞が傍より口を潤すにしたがひ、息のかぎり語りたまふ。此語實に玄々微妙、翁の凡人ならざるをしるべし。(支考記)

[やぶちゃん字注:国会図書館版では「□士」の判読不能字は二文字。惟然坊の句「あしがろに竹のはやしやみそさゞい」の下五は「鷦鷯」と漢字表記。]
 

 夜に入て嵯峨の野明・爲有より柿を贈り來る。消息そふ。今日まで伊賀より音信なし。去來・乙州申談じ、態と飛脚を差たつべきよし師に申ければ、師の言、我隱遁の身として虛弱なる身の、數百里の飛杖おもひ立、親族よりとゞめけれど、心儘にせしは我過なり。今大病と申おくりなば、一類中のさわぎ、殊に主公の聞しめしも恐あり。たとひ今度大切におよぶとも、沙汰あるまじとのたまひけり。師の慮の深きこと各感心す。度數六十度におよぶ。(惟然記)

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅳ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 320年前の今日――

因みに――

本日二〇一四年十一月二十三日(本年の陰暦では十月二日)
 
   元禄七年 十月  七日
 
はグレゴリオ暦では
 
  一六九四年十一月二十三日
 
である。芭蕉五十一歳、芭蕉の永遠の旅立ちはこの五日後のことであった。
以下は、従って 三二〇年前の今日の日付 に相当する。



 七日 朝より不相應の暖氣なり。曇りて雨なし。藥方逆逸湯に加減。入麪を好みたまふ。園女より見舞として、菓子等贈きたる。次郎兵衞取計て之道に贈る。鬼貫來る。去來應對して還す。園女・可中・渭川來る。去來・支考會釋す。終日藥をめさず。終日曇る。夜になりて晴る。夜に入て人音もしづかになりければ、灯のもとに人々伽してゐたりければ、乙州・正秀等去來に申けるは、今度師もし泉下の客とならせたまはゞ、此後の風雅いかになり行侍らん。去來默して居たりしが、我も其事心にかゝりしゆゑ、二日の消息屆し故、かくいそぎ參りたり。人々もさおもひたまふや。さあらば今夜閑靜なり。只今の體におはしまさば、御快復おぼつかなし。滅後の俳話をとひたてまつらんとて、靜に枕上に伺ひよりて、機嫌をはからひ問申けり。翁、次郎兵衞にたすけおこされ、息つきたまひてのたまはく、俳語の變化きはまりなし。しかれども眞・行・草の三ツをはなれず。其三ツよりして、千變萬化す。我いまだその轡をめぐらさず。汝等此以後とても、地をはなるゝ事なかれ。地とは、心は杜子美の老をおもひ、さびは西上人の道心をしたひ、調は業平が高儀をうつし、いつまでも、我等世にありとおもひ、ゆめゆめ他に化せらるゝ事なかれ。言たき事あれども、息□□口かなはずと、喘ぎたまひければ、呑舟御口を潤す。又藥をまゐらせてしづまりたまふ。各筆をとりてこれを書く。(惟然記)

[やぶちゃん字注:国会図書館版は判読不能字を「□□□口」(最後は四角ではなく「口」なので注意されたい)と三字分とする。]

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅲ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 四日 朝、木節申さるゝにより、朝鮮人參半兩、道修町伏見尾より取、同く包香十五袋取。天氣よし。之道方より世話にて、洗濯老女をやとひ、師の御衣裝、其外連衆の衣裝をすゝぐ。園女より御菓子幷水仙を送る。支考・惟然介抱。次郎兵衞迚も手屆かね、之道とりはからひとて、舍羅・呑舟と云もの來る。按摩など承る。今日二十度餘におよぶ。度ごとに裏急後重あり。(次郎兵衞記)

 

 五日 朝、丈草・乙州・正秀きたる。天氣曇る。寒冷甚し。時候のゆゑにや、師時々惡寒の氣あり。朝、次郎兵衞天滿に詣る。晝過歸る。夜著蒲團又々五流、米壹斗、醬油二升、鹽壹升、味噌三升、薪二十束、炭二十貫目、雜紙三束なり。今日師食したまはず。湯素麵二箸なり。夜中までに五十度におよぶ。(次郎兵衞記)

 

 六日 天氣陰晴きはまらず。朝の貪食、入麪三箸。前夜終宵寢入たまはず。暫く睡眠したまふ御目さめより、去來をちかくめして、先の頃野明が方に殘し置侍りし、大井川に吟行せし句

   大堰川波にちりなし夏の月    翁

地句あまり景色過たれど、大井川の夏げしき、いひかなへたりとおもひゐたりしが、淸瀧にて

   淸瀧や波にちりこむ靑松葉    翁

と作りし。事柄は變りたれど、同巣なりと人のいはんもいかゞなれば、大ゐ川の句は捨はべらんと汝に申たり。しかるに頃日園女に招れて

   白菊の目に立てゝ見る塵もなし  翁

と吟じたり。是又同案に似て、句の道筋おなじ。それ故前の二句を一向に捨はべりて、白菊の句を殘しおき侍らんとおもふ也。汝の意いかん。去來泪をうかべ、名匠のかく名を惜み、道を重じたまふ有がたさよ。絶句一章に、さまで千辛萬苦したまふ御病腦の中の御骨折、風雅の深情こそ尊とけれ。眼あるもの何者か、此句を同案・同集と見るべき。恐ながら此句を同案・同巣などと申ものは、無眼人と申ものなり。其ゆゑは、此句々景情別々備りて、句意を見る時は、三句ともに別なり。かるがゆゑに、我は句の意を目に見て、句の姿を見ず。青苔日シテ無塵。これはこれ陰者の高儀をほめたる語、今は園女がいまだ若くして、陌上桑の調(ミサホ)あるをほめたまひたる吟なり。意も妙なり、語も妙なり。世人此句を見るもの、園が淸節をしらん。波に塵なしの語は、左太仲が必シモ一ㇾ竹山水ニモ有淸音いへる絶唱もおもはれ、園が二夫にまみえざる貞潔と、大井・淸瀧の絶景と、二句の間相たゝかつて、感じてもあまりありと申せしかば、師も機嫌よくおはしけり。(去來記)

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅱ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

[やぶちゃん字注:以下の去来宛二通は底本ではともに全体が一字下げ。]

飛脚便に申遣候。老師一昨々夜より少し惡寒氣御座候處、起居不穩侯。之道不勝手に候

故、御不自由と存、取計候而、御堂前南久太郎町花屋仁左衞門裏座敷、奇麗閑栖に候之條借受、之道請判に而、先寓居と定候處、今朝者別而御氣分無心元御樣體に候。醫者呼申筈に候得共、早く木節に御樣體御見せ被成度との御事被仰候條、即木節に別紙遣候。此狀著次第、貴雅にも早々御下り相待候。木節御同伴候樣に存候。隨分御急可被下候。不一。

  十月二日            惟然

                  支考

 去 來 樣

猶々別紙急々木節に御屆賴存候。以上。

 

今朝之狀、相達候哉と存候。老師御事、昨夜より泄痢之氣味に而俄に一變、夜中二十餘度之通氣、是は頃夜園女亭に而の、菌之御過食故と相考候。一夜之中に掌を返すが如に、今朝より猶亦通痢度數三十餘度、我等始、之道手を握り候迄に候。此狀著次第、木簡同伴に而急々御下り相待候。南久太郎町花屋仁左衞門と御尋、早々御入可取成候。急々。以上。

  十月二日夜子ノ時        惟然

 去 來 樣

猶々、大津之衆、其外何方へも、手寄手寄御申遣可被成候。木節は急に被參候樣御賴申候。伊賀への常飛脚は無之、幸羅漢寺之弟子伊勢へ越候に、今朝狀賴遣候迄に候。若其方角より幸便も候はば、被仰遣可被下候。

 

 

 三日 廿七日。但晝夜也。天氣曇る。夜半過去來きたる。二日朝之狀、三日之朝屆く。其座より直に打立、伏見に出しは巳の時なりし。夫より船に打乘、八軒屋に著しは亥の時なりしと。直に御病床に參りたりしに、師も嬉しさ胸にせまり、しばしはものものたまはざりしが、諸國に因し人々は我を親のごとく思ひ給ふに、我老ぼれて、やさしき事もなければ、子のごとくおもふこともなく、殊更汝は骨肉を分しおもひあれば、三日見されば千日のおもひせり。しかるに今度かゝる遠境にて難治の菜薪の憂に罹り、再會あるまじくおもひ居たりしに、逢見る事の嬉しさよとて、袂をしぼりたまへば、去來もしばしは於咽せしが、暫くして云、僕世務にいとまなければ、させる實意もつくさゞるに、かゝる御懇意の御言を蒙る事、生をへだつとも忘却不仕と、數行の泪にむせぶ。何樣賣藥の效驗心もとなしとて、去來又消息をしたゝめて、飛脚便に木節につかはす。(支考記)

 

 同三日夜子の時追、つゞいて木節來る。二日出の兩人の消息其夜著せし故、大津を丑の時に立、一番舟に乘しかど、短日ゆゑ遲著。諸子に會釋もそこそこにして、直に御樣體を伺ひ、御脈を胗す。主方逆逸湯を調合す。(支考記)

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅰ) 電子化開始――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

芭蕉臨終記 花屋日記

 

[やぶちゃん注:真宗僧で俳人の文暁(ぶんぎょう 享保二〇(一七三五)年~文化一三(一八一六)年:俗姓は藁井(わらい)。肥後八代の真宗仏光寺派正教(しょうきょう)寺(熊本県八代市本町に現存)住職。蕉風俳諧の復興に尽力した僧蝶夢らと親交があり、小林一茶は彼を慕って寛政四(一七九二)年暮から三ヶ月に渡って同寺に滞在したという。)の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)は上下二巻。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、多量の先行資料を組み合わせて文暁が創作した偽書である。「翁反古」(おきなほご)「芭蕉翁反古文」(ばしょうおうほごぶみ)とも呼ぶ(なお、「翁反古」(おきなほご)という松岡大蟻(たいぎ)編になる天明三(一七八三)年刊の同名の芭蕉書簡集があるが、これとは別物である。因みに、この大蟻のそれも偽書である)。

 正岡子規は本作を読んで落涙、「其角の書ける終焉記はこの日記などに據りて作る」「世界の一大奇書」「十數年間人の筐底にありて能く保存せられたるは我等の幸福にして芭蕉の名譽なり」(「芭蕉雜談」)と絶賛(彼は真作と思っていた)、芥川龍之介が「枯野抄」を書くに当って本作を主素材としたことでも知られる(芥川は本作が偽作であることを薄々感づいていたとも、知っていて確信犯で素材に用いたとも言われる)。

 今回、芭蕉の臨終の床にシンクロして関連作品を電子化注釈してきたが、ここに至って(芭蕉の余命は残り五日ほど)、現在、電子化が成されていないと思われる本作の電子テキスト・データ化に取り掛かることと決した。但し、普段のように注を附け出すと、偽作なだけに膨大な時間が掛かってしまう。芭蕉の死は厳然として直近にある。されば、ベタのテキスト・データとすることとし、禁欲的に字注のみ附した。

 底本は小宮豊隆校訂「芭蕉臨終記 花屋日記」(昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)を用いた。ポイント落ちの頭書(一行四字)は当該箇所の前後(流れを按配して何れかに【 】書きの同ポイントで配した)に入れ、ポイント落ちの割注は〔 〕の同ポイントで当該箇所本文に挿入した(割注については私の判断で読み易くするために字空けを施したり、逆に詰めたりした箇所が多くある)。判読不能字は推定字数分を□で挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。編者による当該実作についての脚注は編集権を侵害するため、省略、本文中の「腦」など誤字の右のママ注記も無視した。疑義のある箇所については国立国会図書館蔵の牧野望東・星野麦人校訂「芭蕉翁花屋日記」(明治三五(一九〇二)年晩鐘会刊)をデジタル化コレクションで視認、参照校合した。字注では「国会図書館版」と略した。]

 

 

芭蕉談花屋實記序

 

 今は一むかし、此花舍某が後廰は、芭煮翁終焉の地なり。時うつりぬれば、木はたちのびて空を支ふ。星うつりぬれば、石は沈みて人しらずなり行ぬ。元亨釋書曰、人去堺留境者也と。誠なるかな此言。湊川の史錄に楠正成が戰死を聞て、齒を喰しばり涙を墮さゞる族は、忠義をしらぬ人なり。花屋の後廰、芭蕉翁の終焉の實記を見て、涕すゝ泪を拭はざる輩は、世に月花をしらぬ人なり。かゝる舊跡有て、此舊記のあきらかに傳りあること、げに風雅の冥合といはむ。是ひとへに去來先生の篤實にして、翁生涯の事實を書記しおかれしゆゑなりとぞ。かく舊き事はしたはしうこそはべれ。浪速潟みじかき蘆の草枕、松島・蚶潟・須磨・明石、身は風雲の行方さだめず、漂泊二十年の曉の夢、こゝにてをはり給ひし面影のたちさらでのみ、千歳の後といへども朽ざらまし。今風花雪月にあそびて翁を慕ふともがらは、此不可思議なる三生値遇の因と緣とを感仰すべし。

   文化七秋八月五日   東肥乞隱文曉識

 

 

翁反故 上 花屋日記

 

         肥後八代 僧 文 曉 著

         浪  速 花屋菴奇淵校

 

 

【松風の軒をめぐりて秋くれぬ    はせを】

九月廿一日 泥足が案内にて、淸水浮瀨の茶店に勝遊し給ふ。茶店の主が需に短尺抔書て打興じたまふ。泥足こゝろに願ふことあるによりて、發句を乞ひければ

    所思

   此道やゆく人なしに秋のくれ   翁

    峽の畠の木にかゝる蔦    泥足

    歌仙一折有略

【毎年九月廿一日浮瀨四郎右衞門亭にて松風の會式あり。花屋菴より執行ふ。此一折の俳譜芭蕉袖草紙にあり。】

連衆十人なり。短日ゆゑ歌仙一折にて止む。今度はしのびて西國へと思ひたち給ひしかど、何となくものわびしく、世のはかなき事おもひつゞけたまひけるにや。此句につきて、ひそかに惟然に物がたりしたまひけり。

     旅懷

  此秋は何でとしよる雲に鳥     翁

 幽玄きはまりなし。奇にして神なるといはん。人間世の作にあらず。其夜より思念ふかく、自失せし人の如し。雲に鳥の五文字、古今未曾有なり。(惟然記)

 

 二十六日 園女亭也。山海の珍味をもて饗應す。婦人ながら禮をただし、敬屈の法を守る、貞潔閑雅の婦人なり。實は伊勢松坂の人とぞ。風雅は何某に學びたりといふ事をしらず。岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時、惟中が妻となる。其時より風雅の名ますます高し。惟中が死後、江戸にくだりて、其角が門人となる。

    白菊の目にたてゝ見る塵もなし 翁

     紅葉に水を流す朝月    園女

連衆九人、歌仙あり。別記。(惟然記)

【歌仙一卷袖草子にあり。】

 

 廿九日 芝柏亭に一集すべき約諾なりしが、數日打續て重食し給しゆゑか、勞りありて、出席なし。發句おくらる。

 此夜より翁腹痛の氣味にて、泄瀉四五行なり。尋常の瀉ならんとおもひて、藥店の胃苓湯を服したまひけれど、驗なく、晦日・朔日・二日と押移りしが、次第に度數重りて、終にかゝる愁とはなりにけり。惟然・支考内議して、いかなる良醫なりとも招き候はんと申ければ、師曰、我本元虛弱なり。心得ぬ醫にみせ侍りて、藥方いかゞあらん。我性は木節ならでしるものなし。願くは木節を急に呼て見せ侍らん。去來も一同に呼よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。夫より兩人消息をしたゝめ、京・大津へぞつかはしける。しかるに之道が亭は狹くして、外に間所もなく、多人數入こみて保養介抱もなるまじくとて、其所此所(ソココヽ)たちまはり、われしる人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衞門と云者の、裏座敷を借り受けり。間所も數ありて、亭主が物數奇に奇麗なり。諸事勝手よろし。其夜すぐに御介抱まうして、花屋に移りたまひけり。此時十月三日也。(次助兵衞記)

 

四日 車庸・畦止・諷竹・舍羅・何中等は、師の病氣をしらず、之道亭にいたりしに、勞りたまふ事を之道より聞侍りて、花屋にまゐる。

病氣不□□□につき、間尋の人たりとも、慢りに座敷にとほる間敷と、張紙を出す。且、仁左衞門に斷り置事。(次郎兵衞記)

【鼠の尿に腐りて見えず。以下度々あり。】

[やぶちゃん字注:「国会図書館版」では不明字は二字。「間尋」の右に「カンジン」とルビする。]

 

   扣帳〔座敷人用品調取覺竝座敷付之道具品々覺〕   次郎兵衞

       戊十月四日

[やぶちゃん字注:以下、底本では二段組みであるが、上段→下段→(次行同)の形で示した。また底本では本文同ポイントであっても疑義のある箇所は国会図書館版で視認、割注に変えたものが多くある。]

一 机一脚

一 硯一面   〔墨 一挺 水入 小刀〕

一 煙草盆二口 〔火入 灰吹 きせる〕

一 帚    二本

一 夜具五流  〔壹具 絹 四具 木綿〕

一 枕    五ツ

一 膳十人前  〔椀猪口皿添〕

一 竈    三口

一 釜鍋    〔一口 三口〕

一 火箸   三

一 茶瓶掛  二口

一 火鉢   二口〔火箸添 眞鍮〕

一 茶碗   十

一 茶碗鉢  三口

一 薄刄庖丁 三本

一 藥鑵   一口

一 藥溜   二ツ

一 研木   一本

一 摺鉢   一口

一 炭斗   一ツ

一 水嚢   一ツ

一 油德利  一ツ

一 盥    二口

一 手水盥  二口

一 行燈   二張

一 懸行燈  二張

一 挑灯   二張

  右

〔同四日〕

一 白米   一斗

〔同〕

一 味噌  〔三升 赤白〕

〔同〕

一 醬油   一升

〔同〕

一 薪    拾束

〔同〕

一 炭    一俵

〔同〕

一 油    一升

〔同〕

一 紙    一束

〔同〕

一 雜紙   一束

〔同〕

一 鹽    一升

  右

〔一ケ月〕

一 座敷料   三歩二朱  相渡

  右 仁左衞門より受取書置






これ――何が凄いって、最後の次郎
兵衛の控え帳だ!

一見、退屈に見える些細な記録に見えるが、ところがどっこい! これっがこの偽書に大いなる命を与えているのだ。

文曉という監督は黒澤明みたようなもんだ。

映像で開けることも療養所の薬戸棚には総て漢方薬がちゃんと入ってる――

カメラに6段しか映らない神社の階段もスタッフやキャストが演じる際に上に続いているという意識がなくてはならぬと20段も作らせてしまう――

それと同んなじだ。ここに記された細々とした小道具が実際、実際に登場して作品の中で生きてくるのは僅かなのだが、それは読者一人ひとり個人の映像の中で、それぞれの読者の忘れ難い記憶の物品として強烈なリアリズムの輝きを放って使われるからである。

子規が涕泣し、龍之介が使わずんばならずと決したのも肯ける。

――いや! 文曉! 侮れぬ!


2014/11/22

芭蕉逝去まで後6日

芭蕉逝去まで後6日となった――

それにシンクロして既に10日――

どうも他のことをやる気になれない――

さて……どうするか……只今、黙考中…………

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (後) 了 ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 芭蕉を崇拜してゐる人々の大部分は彼を大悟徹底の聖者のやうに思つてゐるが彼は決して、其のやうな悟達の人ではなかつた。

 野ざらし紀行(貞享元―二年、四十一歳―二歳)の一節に左の如きものがある。

『富士川のほとりをゆくに三つばかりなる捨

 子のあはれに泣くあり。(中略)袂よりく

 ひ物なげて通る

 

 猿を聞人捨子に秋の風いかに

 

 いかにぞや汝ちゝに憎まれたる歟母にうと

 まれたる歟ちゝは汝をにくむにあらじ、母

 は汝をうとむにあらじ只これ天にして汝が

 性のつたなきになけ

 路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである。

 芭蕉は道を求めたる人とは云ひ得ても決して悟道の人ではなかつたのである。

 嵯峨日記(元祿三年―四十七歳)によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある。

 彼は夢に泣く感傷の子であり又終日妄想散亂の氣になやむ云はゞ心氣耗弱の人であつた。

 彼は氣鬱症の傾向があつたらしい事、消化器系統の持病があつた事――從つて自體虛弱であつた事から推して彼は相當神經質であつたと思はれる。

 彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説、門人杜國との間に男色關係があつたとの説、等があるが、以上の彼の生理より推して自分はむしろ、芭蕉は性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつたと思ふ。

 彼は己れの身體虛弱なる事を自覺し隱遁者としての、俳諧者としての道をとり、又性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか。

 自分には彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれないのである。

 

 旅に寢て夢は枯野をかけめぐる

 

 是は彼の最後の吟詠であるが、寂寞の枯野をかけめぐる狂亂の夢――是が彼の一生であり彼の藝術であつたのである。

 彼は求道の人ではあつても悟道の人ではなかつた。

 彼は病的詩人であつて健康の詩人ではなかつた。

 

■やぶちゃん注

・『「野ざらし紀行」の一節に左の如きものがある……』「野ざらし紀行」の貞享元年(天和四(一六八四)年二月二十一日に改元)の秋、富士川河畔での一節。

   *

 富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵(こよひ)や散るらん、あすや萎(しを)れんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげて通るに、

 

  猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 

    いかにぞや汝、父に惡まれたるか、

    母に疎まれたるか。父は汝を惡むに

    あらじ、母は汝を疎むにあらじ。た

    だこれ天にして、汝が性(さが)の

    拙きを泣け。

 

   *

 語注を附す。

●「この川の早瀨にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。」:この川の目くるめく早瀬の流れにこそこの世のなにがしかの望みのしがらみをかけて、誰か、ここで、この愛しい子の命を救うて呉れと――しかし、この子の父母らは浮世の荒波を凌ぐに耐え切れずなって――ここに儚い命の尽きるまでの間、その誰かに望みを託して捨て置いていったものか、の意。従来の訳では「かけて」を単に比喩とし、早瀬の無常にして無情なる流れに譬えた訳を採るが、ここでは山本健吉氏が「芭蕉全句」(講談社学術文庫)で指摘する、「源氏物語」「手習」の帖の「身を投げし涙の川の早やき瀨にしかがらみかけて誰かとどめし」『という浮舟の歌の文句を不完全に取り入れたものだ。この川の早瀬にしがらみをかけて、誰かこの子の命をとどめてくれるだろうと、もともとはかない人間の命の尽きるまでは生きてくれよと念じて、捨て置いた、という含みがある』という見解を私は強く支持し、訳した。但し、山本氏の推定する極めて濃厚な虚構説には私は逆に組み出来ない。

●「小萩がもとの秋の風」:「源氏物語」「桐壺」の帖で桐壺帝が、母の里方にある我が子若宮(後の光)の身の上を憐れんで、「宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそすれ」と詠んだのを踏まえ、秋風に吹き散らされんとする小萩の花にこの赤子の姿を譬えたもの。

●「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」私にはこれは強烈なリアリズムの中に潜む禅の公案として、ずっと以下のように愛誦してきた。

   *

……古来、文芸にあって猿の声に悲傷を感じるというあなた――その――あなたは――今――この秋風に響き渡っている――この――捨て子の泣き声を――どう聴くか?!……

   *

大方の御批判を俟つものではある。

 

・「路傍の小萩の下にすてられた童をみて何等天眞流露の愛の行動にいでず、『捨てられてゐるのは汝の運命がつたないのだ』などゝ捨て臺詞で通りすぎてゐる。而も『袂より食物なげて通る』などゝは實に言語同斷である。其れが普通人なら兎も角一世の詩人にして僧衣の人である。是を讀んで而も彼を大悟徹底の聖者と云ひ得るか。否、似而非悟道の單なる一エピゴーネンにすぎないのである。むしろこの場合彼の似而非悟道が天眞流露の愛の行動の害をなしてゐるのである」――読みが浅いぜ、鳳作さん!

――芭蕉の怒りがまるで分かってないじゃないか?!

――あんたは小学生の「道徳」の授業でもやっているつもりかい?

――あんたなら、じゃあ、どうするんだ?

――どうしたら、普遍的な「天眞流露の」――この少年を全的に救う「愛の行動」となるっていうんだい?!

――その現場にあんた自身を実際に立たすこともせずに、鬼の首を取ったように芭蕉を指弾してるあんたこそ――

――「似而非悟道」のヒューマニストだ!

――口元軽く「愛」を囁く「單なる一エピゴーネン」だ!

――これこそ――生温い浪漫主義とか何とか

――真の覚悟を持った理論武装も出来なかった

――大正デモクラシーやプロレタリア文学運動

――否

――戦前から今現在に至るまで日本文芸思潮の膏肓(こうこう)に潜むところの――「害」であり――癌である!……と……私は好きな篠原鳳作に、ちょいと激しい「捨て臺詞」を吐き掛けたくなる部分なのである。

 

・「嵯峨日記によれば『夢に杜國が事云ひ出して沸泣して覺る。(中略)我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散亂の氣、夜陰に夢む、又しかり』とある」これは元禄四(一六九一)年四月二十八日附の「嵯峨日記」の条に出る一節。杜国はこの前年元禄三年二月二十日に配流の地であった渥美半島保美の里に於いて数え三十四の若さで死去していた。

   *

  夢に杜國が事をいひ出して、悌泣(ていきふ)して覺(さ)む。

心神相(あひ)交(まじは)る時は夢をなす。陰(いん)盡きて火を夢見、陽(やう)衰へて水を夢見る。飛鳥(ひてふ)髮をふくむ時は、飛べるを夢見、帶を敷き寢にする時は、蛇を夢見るといへり。枕中記(ちんちゆうき)、槐安國(くわいあんこく)、莊周(さうしふ)が夢蝶(むてふ)、皆そのことはり有りて、妙を盡(つく)さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想(まうざう)散亂の氣、夜陰の夢またしかり。まことに、このものを夢見ること、いはゆる念夢(ねんむ)なり。我に志深く、伊陽の舊里(ふるさと)までしたひ來たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚の勞(らう)を共にた助けて、百日がほど、影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏(しんり)にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂(たもと)をしぼる。

   *

 杜国と芭蕉の関係については私の大部の「笈の小文」の杜国訪問の部分の評釈「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」を参照されたい。以下、語注を附す。

●「心神相交る時は夢をなす……」:以下の夢解釈理論は「列子」に基づく。

●「枕中記」:李既済(りきさい)撰の、「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」などの故事成句で知られる有名な唐代伝奇の一つ。私のブログ記事アクセス・ランキングの特異点の一つ『「枕中記」原文+訓読文+語注』を参照されたい。

●「槐安國」:やはり唐代伝奇の知られた一つ李公佐(りこうさ)撰の「南柯記(なんかのき)」で主人公が夢で訪れる不思議な国で、実は蟻の巣の世界。

●「莊周が夢蝶」:「荘子」(そうじ)の中の知られた「莊周夢爲胡蝶」(莊周、夢に胡蝶とと爲る)の一節。

●「妙を盡さず」決してこれは奇妙なことではないのだ。

●「念夢」いつも心に深く思い込んでいるがために見る夢。

 さて、この記述は寧ろ、異常なまでの芭蕉の杜国への愛情を示すものととってよい。ところが鳳作はこれを続く、芭蕉の「心氣耗弱」「氣鬱症の傾向があつたらしい」「相當神經質」の証左として掲げていることに注意したい。以下の叙述を見てもそうだが、鳳作には恐らく本質的な意味での同性愛に対する理解や親和性は殆んどと言ってよいほどなかったように見受けられ(宮古中学教諭時代には特に可愛がった男子の教え子たちがいるようだが、それらは彼らの芸術的才能への親近性がはっきり見てとれ、特にクナーベン・リーベの様相を呈しているようには私には読み取れない)、この引用の場違いな利用も、何となく分かるような気がするのである。

 

・「彼は正妻は持たなかつたが壽貞尼なる妾があつたとの説」寿貞尼(?~元禄七(一六九四)年六月二日)については伊藤洋氏の「芭蕉DB」の寿尼」の解説が最も充実しているので以下に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に変えてある)。

   *

判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男(二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。

 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄七年六月二日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、六月八日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。

 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄七年六月二日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、「六月二日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。

 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

   *

以下、引用文中の「浅談」は『浅尾庵野坡のこと』(蕉門十哲の一人の志太野坡のこと)、「風律著『小ばなし』」については『風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない』と注され、さらに、「芭蕉の種」の部分について、『寿貞の子供達は猶子』という説があり、それについて『桃印(芭蕉甥)を父親とするという説』についても詳述されておられる(引用分量が多くなるのでリンク先をお読み戴きたい)。前の『●「次助兵衞」』の語注も併せて参照されたい。

 

・「門人杜國との間に男色關係があつたとの説」前の「嵯峨日記」の注を参照されたい。私はあったと思っている。芭蕉には同性愛傾向が非常に濃厚である。言わずもがな乍ら、江戸以前に於いて、本邦での若衆道は普遍的日常的であり、宗教的道徳的にも度を越さない限り許容される、至って正常なる恋愛形態であった。寧ろ、鳳作がそれを「異常性愛」、人ととして犯してはならない「罰」として殊更に忌避しようとしている感じが私には見てとれる。これは彼の父が熱心なクリスチャンであったこと、鳳作自身もキリスト教に強い親和性を持っていたことと無縁ではあるまい。何より鳳作のこの直後の「性的微弱者であつて、さやうな虞れはなかつた」の「さやうな虞れ」という謂いにそれが如実に示していると言ってよい。

 

・「性的微弱者なるが故に妻を持たず女を斷ち禁慾者の道をとつたのではあるまいか」「彼の俳句藝術は、この社會的不具者、生理的不具者として寂寞の重壓力に依つて噴出せしめられたる淋しい花としか思はれない」この仮説や解釈は当時の精神医学の言説からみても聊かおかしい感じがする。寧ろ、その反対に、同性に対する強い衝動若しくは異性と同性双方に対する抑え難いほど強い性衝動を持っていたからこそ、それを自身の中で強く抑制しようとする意識が働いた人間、しかもそれを恐るべき意志の中で実行することが可能であった種類の人間であった、と考える方が私は理にかなっていると考えるのである。そうしたものの強い抑圧が、まさに当時のフロイト流の見解に一致し、芸術的な昇華を齎し、かの孤高にして詩情に満ちた連句や発句を生み出したのだ、と考える(述べる)方が、遙かに自然な気がするし、今の世の感覚から考えても、すこぶる腑に落ちると私は思う。大方の御批判を俟つものである。

 

・「旅に寢て夢は枯野をかけめぐる」鳳作はこの前年、昭和一一(一九三六)年四月刊の『句と評論』に掲載された「篠原鳳作 芭蕉小論」でも、「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」と記しており、この知られた句を鳳作は確信犯としてかく記憶違いしていたらしいことがここからも分かる。最後にまた私の評釈をリンクしておく。

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (中)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである。

 芭蕉は幻住庵記(元祿三年、四十七歳)に於て自ら『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』と述べてをり、芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり何れも芭蕉が身體虛弱であつたことを立證してゐる。

又、去來抄には、

『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』

とあり、彼が胃腸或は痔の病があり、すこぶる長雪隱であつた事を物語つてゐる。

 彼は消化器系統が弱かつたけれども酒も煙草も相當たしなんでゐた。

 

 飮みあけて花いけにせん二升樽

 たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾

 

 〇〇して彼が五十一歳にして落命したのも園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた。

 芭蕉は不眠症にも陷りがちであつたやうに思はれる。この事は彼の文章のはしばしや句にも現はれてゐる。

 

■やぶちゃん注

・「芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである」芭蕉の持病と直接の死因については二〇一三年の陰暦祥月命日の私の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」の評釈で考証したが、ここでその部分を改めてここに再掲しておく。

   *

 芭蕉は九月二十九日夜、激しい下痢症状を起こし、言葉を発することも出来ないほどに衰弱した。翌(この年の九月は小の月)十月一日に下痢二十余度、同二日三十余度、同三日三十余度と重い泄痢症状が持続し、三日には病床に伺候した弟子の手を握って放さず、悪寒と振顫、足先の冷感を訴えた。同五日、駕籠で之道亭から大坂南御堂前花屋仁左衛門の貸座敷に病床を移して、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛らが看病に当たり、また膳所・大津・伊勢などの門人らに危篤の報が告げられた。同六日には、やや小康を得、床から起き上がって庭を見たりしたが、この時、既に憔悴し尽くして顔は枯木のように痩せ衰えていたという。

 芭蕉の死因には諸説があり、当時は九月二十七日の園女(そのめ:彼女の事蹟とこの時詠まれた「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」についてはブログ記事を参照されたい。)邸の句会で供された茸の中毒と噂され、園女や門弟たちもそう信じていたとされるが、芭蕉だけが茸にあたったと考えるのは無理があり、彼の悪寒や頭痛を伴う症状は既にそれに先立つ九月十日晩方(前々日の九月八日に体調不良を押して伊賀を出発、前日に奈良を立って宵に大坂着という強行軍にも着目)から発症しており、それがまた波状的に繰り返し毎晩起っていることからも悪意に満ちた流言に過ぎないと思われる。「松尾芭蕉の病状より、病名を推定してください」というネットの質問に対する回答を参考にすると、一般に彼の命を奪ったと考えられる劇症型の下痢症状は食中毒か赤痢かと言われているものの、単なる食中毒にしては下痢・発熱・悪寒の持続期間が長過ぎること、この元禄二年に大阪では赤痢や腸チフスの流行は見られなかったことから、重度の心身疲労による免疫力低下に由来する、感染力はそれほど強くない感染性の腸炎の可能性か、感染症ではない潰瘍性大腸炎などが疑われているようである。後者についてみると、芭蕉には痔の持病があったが、現代では長い痔と思っていたものが実は潰瘍性大腸炎であったというケースがあって、芭蕉のように症状が収まったり強くなったりする緩解期と活動期が繰り返し起こる病態は潰瘍性大腸炎の所見によく似ているとある。何より接触した人々や看病人に同様の症状が出ていないとすれば、感染性の腸炎よりもこの潰瘍性大腸炎の疑いの方が濃くなる。そうした病態を長年放置し続け、しかも旅や門人間のいざこざに心労を重ねた結果として免疫力が低下、その状態で呼ばれた句会(園女邸に限らず数多い)で食べつけない、胃腸にストレスのかかり易い山海の珍味の類いを食した結果、何らかの菌又はウイルスに食物感染して食中毒に感染、しかしすでに腸の機能が衰えていたため、自然治癒力が働かず、度重なる下痢による脱水と栄養失調による体重減少で衰弱が進み、遂に死に至った――といった推定がリンク先の回答にはある。頗る首肯出来る推論であると私には思われる。

   *

 

・『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』「幻住庵記」の末尾の部分に現われる。以下、最終章を総て示す。

   *

 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞(らう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「樂天は五臟の神(しん)を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質(けんぐぶんしつ)の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。

 

  先づ賴む椎(しひ)の木も有り夏木立(なつこだち)

 

   *

・「樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」これは、

――白居易は詩を作るに五臓の気をすっかり使い果たしてしまい、詩聖杜甫はそのために痩せ細ってしまった。彼らに比ぶれば、私ごときは無芸無才にして愚鈍虚弱の性質(たち)ではあるが、それらは大小の差こそあれ、ともに夢、幻しの如きものではなかろうか。――

という謂いで、白楽天の部分は「白氏文集」の五言古詩「思舊」の中の一句「詩役五藏神」(詩は五藏(臟)の神を役す)に基づき、杜甫のところは、李白が律詩に拘泥する杜甫を揶揄して述べたとする詩の一節にある、「別來太瘦生。總爲從前作詩苦」(別來太(はなは)だ瘦生(さうせい)、總て從前に詩を作るの苦の爲なり)に基づく。自己を卑下しつつ、自身の分を弁えた上で、風狂の道に精進せんとする覚悟を述べたものである。

 

・「芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり」芥川龍之介が「枯野抄」の主素材としたことでも知られる「花屋日記」は、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)のこと。別名「芭蕉翁反古文(ばしょうおうほごぶみ)」「翁反古(おきなほご)」とも呼ぶ。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、偽書である。鳳作が本論を書いた頃には贋作であることはすでに知られていた。鳳作が引用するのは冒頭から直近の日記部の二十九日の条に出る。以下に岩波文庫小宮豊隆校訂「芭蕉終焉記 花屋日記」から引用する(現在、ネット上には本偽作の電子テクスト・データはない。一部に私の読みを歴史的仮名遣で平仮名で附した。片仮名のそれは原著のもの)。

   *

廿九日 芝柏(しはく)亭に一集すべき約諾なりしが、數日打續(うちつづき)て重食(ぢゆうしよく)し給しゆゑか、勞(いたは)りありて、出席なし。發句おくらる。

   秋ふかき隣はなにをする人ぞ    翁

 此夜より翁腹痛の氣味にて、泄瀉(せつしや)四五行なり。尋常の瀉ならんとおもひて、藥店の胃苓湯(いれいたう)を服したまひけれど、驗(しるし)なく、晦日(みそか)・朔日(つひたち)・二日と押(おし)移りしが、次第に度數重りて、終(つひ)にかゝる愁(うれひ)とはなりにけり。惟然・支考内議して、いかなる良醫なりとも招き候はんと申(まうし)ければ、師曰、我(われ)本元(もともと)虛弱なり。心得ぬ醫にみせ侍りて、藥方いかゞあらん。我(わが)性は木節ならでしるものなし。願くは木節を急(とみ)に呼(よび)て見せ侍らん。去來も一同に呼(よび)よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。夫(それ)より兩人消息をしたゝめ、京・大津へぞつかはしける。しかるに之道(しだう)が亭は狹くして、外(ほか)に間所(まどころ)もなく、多人數(たにんず)入(いり)こみて保養介抱もなるまじくとて、其所此所(ソココヽ)たちまはり、われしる人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衞門(みだうまへみなみきゆうたらうまちはなやにざゑもん)と云(いふ)者の、裏座敷を借り受けり。間所も數ありて、亭主が物數奇(ものすき)に奇麗なり。諸事勝手よろし。其夜すぐに御介抱まうして、花屋に移りたまひけり。此時十月三日也。(次助兵衞記)

   *

 語注を附す。

●「芝柏」:根来(ねごろ)芝柏。堺の商人。この元禄七(一六九四)年九月二十九日の夜、芭蕉の歌仙の俳席が大坂にあった芝柏亭で開催される予定であったが、体調を崩した芭蕉はこれに参加出来ず、前夜に作った名吟「秋ふかき」の発句だけを俳莚に届けた(この俳莚は流会になったものと推定される。リンク先は私の評釈)。

●「泄瀉」:下痢。漢方では非感染性消化不良及び消化機能低下を主因とした下痢、「下り腹」をいう(対する「痢疾」(りしつ)は、「しぶり腹」を主訴とするような感染性消化器疾患を主因とする下痢症状をいう)。

●「胃苓湯」:製薬会社の公式記載に、漢方の古典「古今医鑑」(こきんいかん)の「泄瀉門」(せっしゃもん)に収載されている古処方で、胃がもたれて消化不良の気味に処方する「平胃散」(へいいさん)と、喉が渇いて尿量が少なく、吐き気や浮腫みなどの症状に処方する「五苓散」(ごれいさん)とを、合方(がっぽう)したもので、水瀉性の下痢や、嘔吐の症状と口の渇き・尿量の減少といった症状を伴う人の、冷え腹・腹痛・急性胃腸炎・暑気あたり・食あたりに効果があるとある。

●「木節」:望月木節(もくせつ)。近江蕉門の一人。医師として末期の芭蕉の主治医を兼ねた。事実、芭蕉自らが彼の処方や治療を望んだとされている。

●「之道」槐本之道(えのもとしどう 万治二(一六五九)年?~宝永五(一七〇八)年)。本名久右衛門。大坂道修町(どうしゅうまち:現在の大阪府大阪市中央区道修町。薬種問屋街。当時、清やオランダから入った薬は一旦、この道修町に集められてその後に全国に流通していた。それらの薬種を一手に扱う「薬種中買仲間」がここに店を出していた。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが多い)の薬種問屋伏見屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。この元禄七年九月九日に伊賀から大坂に着いた芭蕉は、最初、酒堂(しゃどう:浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)近江膳所の医師で、菅沼曲水と並ぶ近江蕉門の重鎮であったが、この頃、大坂に移住していた)亭に入るが、後に之道亭に、その後、花屋仁左衛門方へと移っている。酒堂と之道はこの頃激しく対立しており、芭蕉は之道の同輩であった膳所の正秀らの懇請を受けて両者の和解を策すため、病体を押してこの大阪へ出向いていた。和睦は一応成功したように見えたが、実際には失敗であった。それを芭蕉も察していた事実は芭蕉終焉時の心理状態を察する上では非常に重要である。

●「御堂前南久太郎町」:現在の大阪市の中心的な産業地区である大阪府大阪市中央区船場(せんば)にある久太郎町通(どおり)。中央大通(おおどおり)が整備されるまでは南久太郎町通と呼ばれた。現在は大阪府大阪市中心部を南北に縦断するである国道御堂筋に面して大阪センタービルや「御堂」として知られる真宗大谷派難波別院などがある(厳密に言うと「御堂」は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が沿道にあることに由来する)。

●「花屋仁左衞門」:一般には宿屋とされるようであるが、事実は「花屋」とあるように御堂に花卉を納める出入りの花屋であった。その「裏座敷」とは花屋所有の貸座敷のことを指す。

●「次助兵衞」:伊賀上野から芭蕉が伴って来た下僕。一説によれば、彼の母は芭蕉の内縁の妻のような存在であった、この三月前に深川芭蕉庵で亡くなった寿貞(じゅてい ?~元禄七年六月二日)の連れ子であったともされる。ところが別説では、治郎兵衛は実は芭蕉が若き日にこの寿貞との間にもうけた実の子であったという驚天動地の説、また、芭蕉の甥桃印との不倫によって出来た子という説(私はこの説を一番信じている)もある不思議な人物である。

 

・「去來抄には、『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』とあり」「去来抄」を出典とするのは誤り。これは宝井其角の撰になる元禄七年刊の芭蕉七回忌追善集「三上吟」(さんじょうぎん)の、その冒頭に出る一節。今泉準一氏の『「三上吟」について』(明治大学教養論集百五十六号)のPDFデータより正字化して示す(熟語記号のダッシュは省略した)。今回、私自身初めて読んだ(下線はやぶちゃん)。

   *

 三上吟      懷舊のことは

先師道上の吟は馬夫ともか覺えて都鄙にわたり枕上の吟は所々の草庵に殘りて門葉(もんえふ)のかたみとたしなめりことさらに厨上の三吟とかやは和漢風藻の人々の得たる一癖と聞え侍るにや故翁ある御方にて會なかはに席を立て長雪隱に居られけるを幾度もめし出ける時やゝへて手洗口そゝき笑ふて云く人間五十年といへり我二十五年をは後架になからへたる也と元より心事の安樂止靜の觀念にいたりて風骨の吟身を脱肉せられけんこの詞厠上の活法ならすや老かさなり杖朽てさらぬ俤のみ今は義仲寺の柿の葉に埋もれ侍り其塚の上に笠をかけたる事をおもひ出て

  七とせとしらすやひとり小夜しくれ

        七吟をみたしぬ

歌吹海に在てといひし夜の雨も粟津によする浪の音に力を添ておもやりぬ然れとも誹言なけれは草の陰にはことはりかましく秋に堪たる落葉をしのひて牌前の塵をはらふのみ也其日これかれをあつむるにあるは侍官のさはり有旅に住なし病にふし心ンにつかはるゝやからはわたくしならす時移り人かはりて亡人の十指におらるゝ事いつをむかしをよむに廿人也花摘をよんでことに多し文集の酬和をしたへるためし驚神のはしと成て爰に一躰をほとこさんとすこの卷中に僧あり此僧の風狂を精進物になしてうき世の味をしらせかほに嵐雪もケ樣。かやうのすかたと成て候と一しほにとむらひ候へは冬の日のならひとて灯のもとに

        七吟をみたしぬ

[やぶちゃん注:以下略。続く連句及び漢詩は上記リンク先で読める。]

   *

因みに、これを鳳作が「去来抄」所収と誤ったのは、実はこれが芥川龍之介からの孫引きであったからではあるまいか?

 実は鳳作がこれを記す以前に第二次芥川龍之介全集が出ているのであるが、そこに載る芭蕉記」の草稿の中に「諧謔」と標題する一章があり(リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)、以下のように出るからである(内容的にも面白いので、やや長いが総て引いた。下線やぶちゃん)。

   *

 

       諧  謔

 

 芭蕉は世人の考へてゐるほど、もの寂しい人ではなかつたらしい。寧ろあらゆる天才のやうに、頗る諧謔を好んだやうである。かう云ふ事實を證明する例は「去來抄」等に傳へられた逸話の中にも乏しくない

 「我翁の常に歎美し給ひし狂歌あり。のぼるべきたよりなければ鳴神の井戸の底にて相果にける。讀み人知らず。」

 「三河の新城にて支考桃鄰同座せられけるに、白雪問ふ、故事は何と使ひ候て新しめ候やらん。翁曰、ある歌仙に、

      薦かぶり居る北の橋詰

     祐經は武運のつよき男にて

 敵打のあらまし事、かかる形容もありぬべし。多くの年月ねらひけるに果報いみじき工藤なり。建久四年五月二十八日まで生のびぬと可笑がり給ひしが、是さへ形見となる。」

 「翁、ある御方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出けるに、やや經て、手を洗ひ口漱ぎて、咲うて曰、人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり云云。」

 「支考云、嵯峨の落柿舍に遊びて談笑の序に、都には蕉門の稀なることを歎きしに、翁は例の咲ひ咲ひ、我家の俳諧は京の土地に合はず。蕎蓼切の汁の甘きにも知るべし。大根の辛みの速かなるに山葵の辛みの諂ひたる匀さへ、例の似て非ならん。此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、俳諧は今日の平話なることを知らば、始めて落柿舍の講中となりて、箸筥の名錄に入るべしとぞ。」

 のみならず芭蕉の俳諧にも諧謔を弄した句は勿論、地口や洒落の多いことは既に周知の事實である。それも世人の考へてゐるやうに、談林の影響のもとに作つた初期の句ばかりにとどまるのではない。元祿以後の句の中にもかう云ふ例は秋の野山の鶉のやうに散在してゐる。

     景淸も花見の座には七兵衞

       箕輪笠島も五月雨の折にふれたりとて、

     笠島やいづこ五月のぬかり道

     わが宿は蚊の小さきを馳走かな

       まだ埋火の消えやらず臘月すゑ京都を立出でて

       乙州が新宅に春を待ちて、

     人に家を買はせて我は年忘れ

       田家にありて

     麥飯にやつるる戀か猫の妻

       鳳來寺に參籠して、

     夜着一つ祈り出したる旅寐かな

       二月吉日とて是橘が剃髮入醫門を賀す、

     初午に狐の剃りし頭かな

       美濃路より李由のもとへ文の音信に、

     童顏に晝寐せうもの床の山

 殊に最後の「童顏」の句は芭蕉の大阪に示寂した元祿七年の作である。すると芭蕉は死に至る迄、諧謔を好んだと云はねばならぬ。

 晩年の芭蕉は幽玄を愛し、寂び栞を説いた[やぶちゃん注:ここで草稿は途切れている。]

   *

 若しくは別な誰かがやはり誤って伝えたものか。少なくとも原拠の「三上吟」から引いたのなら、こんな間違いはしようはずがないからである。

 

・「飮みあけて花いけにせん二升樽」前出の土芳編「蕉翁句集」に元禄四年の部に入れる。厳密な表記は、

 

呑明(もみあけ)て花生(はないけ)にせん二升樽(だる)

 

で、同じ土芳の「蕉翁全伝」(宝永年間成立か)には、

 

此句ハ尾張ノ人ノ方ヨリ濃酒一樽ニ木曾のうど・茶一種ヲ得ラレシヲひろむるトテ、門人多ク集テの時也

 

と注する(引用は岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠った。なお、『集テの』の「の」は中村氏が補訂されたものである)。

 

・「たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾」「紙衾」は「かみふすま」と読む。これは芭蕉の句の中では存疑の部に属するが、その中でもやや確実度が高い句であるよし、中村氏前掲書にある。これは「俳諧 一葉集」の句形で「畫贊」と前書がある。「その濱ゆふ」(素丸編・寛政五(一七九三)年序)では、

 

たのむぞよ寢酒なき夜の古紙子

 

で、「芭蕉袖日記」(素綾(そりょう)編・文化元(一八〇四)年刊)では、

 

たのしさや寢酒なき夜の紙衾

 

となる。

 

・「園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた」「菌」は「きのこ」と読む。俗説乍ら、周囲や園女(そのめ)自身もそう信じ込んでいたらしいことは本注冒頭に示した。

光源氏と日本郵政切手を偽造する夢 附 不完全なる和歌一首を詠む夢

宮中である――

僕は衣冠束帯をしているんである――

その僕の隣に光源氏がいるんである――

そうして二人して……日本郵便切手の多色刷りの切手を……手彫りの木版で……せっせと……偽造しているんである……

……その光景に……左右からすうっと……如何にもな、あの霞がかかって……僕と光は終に「源氏物語」の中の挿絵の一枚になってしまうのであった……

そこから目覚める直前――

「ぷらちなのさそりの尾枝垂(した)る……」

という和歌を僕は読もうとする…………

……というところで――

目が覚めてしまった。蒲団の中で何となく悔しかったんである。
 
何がって?! その和歌を最後まで聴きたかったからに決まってるじゃん!――

多分、「ぷらちなのさそりの尾し垂る」の後は「玉」か「露」だったように思うのだけれど……

にしてもロケーションといい、光源氏のギャラといい、切手の多色刷木版偽造の小道具といい、「ぷらちな」といい――実に「金」のかかった夢である――

2014/11/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 火事の跡

M523

図―523

 

 東京市の消防夫の多くは、建築師や大工で、火を消すと彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。図523は火事に焼けた家で、竹竿から札が下った所を示す。

[やぶちゃん注:こんな事実、私はこのモースの記載と絵によって初めて知った。皆さんは、御存知でしたか?]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  大樂寺

    ●大樂寺

覺園寺域内に在り。古は胡桃ケ谷に在しとぞ。故に胡桃山千秋大樂寺と號す。此に移せし年代は傳はらす、開山は公珍和尚。本尊は鐡像にて願行作。之を試(こゝろみ)の不動と云。是大山寺不動を鑄(ゐ)し時。先試に鑄たる像と云ふ。及び愛染〔運慶作〕藥師〔願行作〕を置く。

[やぶちゃん注:「大樂寺」(「だいらくじ」と読む)は明治維新時に廃寺となったと思われる。この本尊は願行上人が大山寺の不動明王を造る前に試しに造ったものと伝えられることから「試みの不動」と呼ばれた。ここにあった阿閦(あしゅく)如来(ここで「藥師」とするもの。同一視された)や愛染明王像は現在、覚園寺に安置されており、愛甲郡依智村浅間神社にはここにあった鐘(貞和六(一三五〇)年鋳造)が現存し、その銘文中には大楽寺の文保元(一三一七)年の伽藍興隆の記載がある(「鎌倉廃寺事典」に拠る)。則ち、本寺はこの発刊当時には最早、存在しなかった。これは思うに実際の踏査をせず、「新編鎌倉志卷之二」及び「鎌倉攬勝考などの記載を無批判に引用した結果であろう。かなり杜撰な仕儀である。]

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (前)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

芭蕉の生理   篠原鳳作   附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年一月刊の『傘火』に掲載された。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊の「篠原鳳作全句文集」を元としたが、恣意的に正字化してある。鳳作は前年昭和十一年九月十七日に鹿児島市加治屋町自宅にて心臓麻痺により満三十歳で急逝した(彼の死因については「篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月」の私の注を参照されたい)が、これはその未発表の遺稿である。子規の「芭蕉雑談」の引用部の正字表記は注に示す底本と校合した(それに合わせて鳳作の底本本文の「欲」も「慾」に代えてある)。傍点「・」は太字に、傍点「ヽ」は下線に、踊り字「〲」は正字に代えた。「一茶」は「一」「茶」の間に四字分の空隙があるが、詰めた。「〇〇」は判読不能字を示す(底本では右に『(不明)』と編者による傍注がある)。全体を二つに分けて、それぞれの末尾に私の注を附した。また本文中には「片輪者」「片輪」「不具者」という差別用語が頻出する。これらについては批判的視点から読解されんことを望むものである。

 なお、底本では『傘火』の同人であったと思われる朝倉南海男氏以下の附言が末尾に載る(朝倉南海男の著作権は存続しているかも知れないが、本稿の出自を示すものであり、欠かせないのでここに引用することとする。但し、これも正字化させて戴いた)。

   *

南海男言 <故鳳作氏の未發表原稿包を前にして>

 本文は氏の遺稿であり。多分『芭蕉小論』

 執筆當時の物であらうが單なる雜記である

 か書拔であるか詳でない、其の積りで讀ん

 で戴き度い。去日、篠原家に行つて反古の

 整理中發見したもので有る。次々に發表す

 る考へだ、期待され度い。氏としては發表

 を遠慮されて居られたのかも知れないが。

 同家の許可を得て掲ぐ。

   *]

 

   芭蕉の生理

 

『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罷りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

  ◇ 一、もち米一升  一、黑豆一升

 右今夕の夜食に成申侯間御いらせ傳吉にも

 たは御こし可被下候云々。

 ◇只今田舍より僧達三人參供俄に出し可申

 候貯無之供さふく候故にうめんいたし可申

 供そうめんは澤山有之候酒二升御こし賴入

 候云々。

とあり、且歿時の病は菌を喰ふてより起りしと云へば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此の手紙を以て大食の證となすは理由薄弱なりと雖も、手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説、當を得たる物ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はぎる者、往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや

 芭蕉妻を娶らず。其の他婦女子に關する事一切世に傳はらず。芭蕉戒行を怠らざりしか。史傳之を逸したるか姑く記して疑を存す。』

 正岡子規の『芭蕉雜談』にある右の一節を讀んで自分はひそかに微苦笑を禁ずる事が出來なかつた。

 大食家子規の芭蕉大食論なるが故にである。

 正岡子規が瞑目する直前まで非常な大食家であつた事は餘りに有名である。

 又、子規が妻帶しなかつた事は勿論だが、彼が女といふものを一生知らずに終つたといふ事も又確證ある事である。

 その獨身にして大食家なりし子規が芭蕉を評して

『多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者、往々にして非情の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。』

 と芭蕉を自分のともがらとして語つてゐるから、思はず微苦笑せざるを得ないのである。

 芭蕉が大食家であつたか、なかつたかは別として彼が『多情にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる物』であつた事は事實であらうと思う。

 芭蕉が五十一歳にして病歿するまで妻をめとらず獨身であつたといふ事は多くの芭蕉研究家達にはさほど重大視されてゐないが是は非常な重大事である。

『飮む。賭つ。買ふ。』は博徒の標語であるが、この三つの言葉位人生の全貌を簡潔に表現したものはあるまい。

 第一は食慾の滿足を意味し第二は鬪爭精神、或は優越感情の滿足を意味し第三は性急の滿足をいみしてゐる。

 飮んで賭たず、飮んで買はなかつたのが芭蕉の生活である。其故に彼は好物の酒をさえつゝしまんとしてゐたのだ。

 

    閑居の箴    貞享三年

 酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪   (四十三歳)

 

 飮んで賭たず、飮んで買はず、自然の寂寞の中に轉々反側したのが芭蕉である。

 芭蕉の俳句の力はこの禁慾的生活の寂寞に發する所が多いやうである。

 芭蕉は正妻をめとらなかつたのみならず女性に對しては嚴とした警戒的態度をとつてゐる。

『女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし』(俳諧掟)

 芭蕉は何故に正妻を娶らなかつたかは大きな研究問題である。子規の言の如く戒行を怠らなかつたのか。妾があつたのか、變態性慾者或は性的不能者であつたのか?

 何れもにはかに斷ずる事は出來ないが、尠くとも文章に現はれたる所に於ても、生活の體面上に於いても彼は嚴としてスイトシズム的態度をとつてゐたのである。

 正妻をもたず、女性に對し常に警戒的態度を持して自己の寂寞に徹した事が芭蕉の俳句に力あらしめた一源泉である事は疑ふ事は出來ない。心理學者の所謂、性慾の昇華せられたものが芭蕉の藝術であつたのではあるまいか。

 一茶の俳句の力は彼が『家なし』のむく鳥であつた事に發する。

 

 むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな   一茶

 

 芭蕉の俳句の力は彼が『家なし』であり又『妻なし』であつた二重の寂寞に發すると思ふのは誤りであらうか。『天才は狂人である』と云ふ言葉があるが自分は『天才とは片輪者である』と信ずる者である。生理的片輪者であるか、社會的片輪者であるかは問はない。この片輪が否應無しに天才を産むのである。

 芭蕉も亦片輪なりしが故に或は自ら求めて片輪たりしが爲に天才となり得たのである。

 

■やぶちゃん注

●「『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり……」:正岡子規の「芭蕉雜談」(ばしょうぞうだん)は新聞「日本」に明治二六(一八九三)年十一月から翌二十七年一月まで連載したもので、後に加筆して「獺祭書屋俳話」(だっさいしょおくはいわ)増補版に収録された。この評論は、この明治二十六年が芭蕉二百年忌に当り、旧派宗匠の間で芭蕉廟や句碑の建立が盛んに計画されていたことを受け、見かけの顕彰にばかりうつつを抜かし、正風を理解しようとしない宗匠連に対しての強い鬱憤から記されたものであった(子規が蕪村を高揚したことはよく知られているが、芭蕉の持つ詩情をも高く評価していた事実も忘れてはならない。但し、この「芭蕉雜談」は芥川龍之介に言わせれば、芭蕉に対する『偶像崇拜に手痛い一撃を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ』(芥川龍之介芭蕉雜記草稿「偶像」より)といった内容であったことは、以下の「補遺」を見ただけでもよく解る。リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)。引用部はその評論の最後の「補遺」の中に出る。私は「獺祭書屋俳話」を所持しないので、国立国会図書館蔵(弘文館明治三五(一九〇二)年刊増補三版)を視認、少々長いけれども簡潔な芭蕉の事蹟紹介を始めとして内容もなかなか面白いので、「補遺」総てを以下に電子化しておくこととする。誤植と思われる句点の一部を移動した。一部の難読部分に〔 〕で私の歴史的仮名遣による読みを附し、ものによっては簡単な語釈も添えた。傍点「ヽ」は太字、「〇」は下線に代えた(一部の打ち方がおかしいがママである)。

   *

         〇補遺

芭蕉に就きて記すべき事多し。然れども余は主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる處を指摘せし者にして爰に芭蕉に評論するの餘暇を得ざれば、一先づ筆を擱かんとす。乃ち、言ひ殘せし事項の二三を列擧してその題目を示し以て本談の結尾とせん。

一、松尾桃靑名は宗房正保元年伊賀國上野に生る。松尾與左衞門の二男なり。十七歳藤堂蟬吟公に仕ふ。寛文三年(廿歳)蟬吟公早世、乃ち家を出でて京師に出で北村季吟に學ぶ。廿九歳江戸に來り杉風に寄居す。四十一歳秋東都を發し東海道を經て故郷伊賀に歸り、翌年二月伊賀を發し、木曾路より甲州を經て、再び江戸に來る。此歳、月を鹿島に見る。四十四歳東海道より伊賀に歸る。翌年伊勢參宮、尋〔つい〕で芳野南都を見て須磨明石に出づ。木曾を經、姥捨の月を賞し三たび東都に來る。四十六歳東都を發し日光白河仙臺より松島に遊び、象潟を通り道を北越に取りて、越前美濃伊勢大和を過ぎ伊賀に歸り直ちに近江に來る。翌年石山の西幻住庵に入る。四十八歳伊賀に歸り京師に寓し冬の初め四たび東都に來る。五十一歳夏深川の草庵を捨てゝ上洛し、京師近江の間を徘徊す。七月伊賀に歸り九月大阪に至る。同月病に罹り十月十二日歿す。遺骸を江州義仲寺義仲の墓側に葬る。

 

一芭蕉が今杖を曳きしは東國に多くして西國に少なし。經過せし國々は山城、大和、攝津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相摸、武藏、下總、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、奧州、出羽、越前、加賀、越中、越後、播磨、紀伊、總て二十八ケ國なり。

芭蕉は所謂正風〔しやうふう〕を起したり然れども正風の興るもとより芭蕉一人の力に在らずして、時運の之をして然らしめし者な貞室の俳句時として正風に近き者あり宗因其角才丸〔さいまる〕、常矩〔つねのり〕等の俳句また夙〔と〕く正風の萌芽を含めり冬の日春の日等を編集せし時は正風發起の際なりと雖も此時正風を作す者芭蕉一人に非ず門弟子亦之を作す門弟子亦皆之を作すのみならず他流の人亦之を作す而して正風發起後と雖も芭蕉の句往々虛栗集的の格調を存。これ等の事實を湊合〔そうごふ:一つに纏めること。〕し精細に之を見なば正風の勃興は時運の變遷自ら然らしめし者にして、芭蕉の機敏唯能く之を發揮せしに過ぎざるを知らん。

芭蕉の俳句は單に自己の境涯を吟咏せし者なり。即ち主觀的に自己が感動せし情緒に非ずんば客觀的に自己が見聞せし風光人事に限りたるなり。是れ固より嘉す〔よみす:良しとする。褒める。〕べきの事と雖も全く己が理想より得來〔えきた〕る目擊以外の風光、經歷以外の人事を抛擲して詩料と爲さざりしは稍〔やや〕芭蕉が局量〔きよくりやう:度量。心の広さ。〕の小なるを見る。(上世の詩人皆然り)然れども芭蕉は好んで山河を跋渉したるを以て實驗上亦夥多〔かた:多過ぎるほどあること。夥しいさま。〕の好題目を得たり。後世の俳家常に几邊〔きへん〕に安坐して且つ實驗以外の事を吟せず而して自ら芭蕉の遺旨〔ゐし:前人の残した考え。〕を奉ずと稱す。井蛙〔せゐあ〕の觀る所三尺の天に過ぎず。笑はざらんと欲するを得んや。好詩料空想に得來りて或は斬新或は流麗或は雄健の俳句を作し世人を罵倒したる者二百年獨り蕪村あるのみ。

一、鳴雪翁曰く芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罹りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

[やぶちゃん字注:以下の引用は底本では全体が三字下げ。]

〇一もち米  一升   一黑豆  一升   一あられ見合〔みあひ:相応。適量。〕

 右、今夕〔こんせき〕の夜食に成申〔なりまうし〕候間、御いらせ〔「貸(いら)せ」貸して利息を取ること。〕傳吉にもたせ御〔お〕こし可被下〔くださるべく〕候云々

〇只今田舍より僧達二三人參候。俄〔にはか〕に出し可申候貯〔たくはへ〕無之〔これなく〕候さふく〔:寒(さぶ)く。〕候故〔ゆゑ〕にうめん〔:「入麺」「煮麺」。素麺を暖かく煮込んだ料理。〕いたし可申〔まうすべく〕候そうめんは澤山有之〔たくさんこれあり〕候酒二升御こし賴入〔たのみいれ〕候云々

とあり且つ沒時の病は菌〔きのこ〕を喰ふてより起りしといへば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此手紙を以て大食の證〔あかし〕となすは理由薄弱なりと雖も手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説當〔たう〕を得たる者ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。

一芭蕉妻を娶らず。其他婦女子に關せる事一切世に傳はらず。芭蕉戒行〔かいぎやう:仏道に於いて戒律を守って修行に励むこと。〕を怠らざりしか、史傳之を逸したるか、姑〔しばら〕く記して疑を存す。

一後世の俳家芭蕉の手蹟を學ぶ者多し。亦以てその尊崇の至れるを見る。

一芭蕉の論述する所支考等諸門人の僞作又は誤傳に出づる者多し。偶〻芭蕉の所説として信憑すべき者も亦幼稺〔えうち:幼稚。〕にして論理に外れたる者少なからねど。さりとてあながち今日より責むべきに非ず。

一芭蕉の弟子を教ふる孔子の弟子を教ふるが如し。各人に向つて絶對的の論理を述ぶるに非ず所謂人を見て法を説く者なり。

一芭蕉甞て戯れに許六が「鼾〔いびき〕の圖」を畫く。彼亦頓智を有す。稍萬能の人に近し。

一天保年間諸國の芭蕉塚を記したる書あり。曾てその足跡の到りし所は言ふを須〔ま〕たず四國・九州の邊土亦到る所に之れ無きは無し。余曾て信州を過ぎ路傍の芭蕉塚を撿〔けみ〕するに多くは是れ天保以後の設立する所に係る。今日六十餘州に存在する芭蕉塚の數に至りては、殆んど枚擧に勝〔た〕へざるべし。

一寛文中には宗房と言ひ延寶天和には桃靑芭蕉と云ふ。いつの頃か自ら

   發句あり芭蕉桃靑宿の春[やぶちゃん注:後注参照。]

と云ふ句を作れり。芭蕉とは深川の草庵に芭蕉ありしを以て門人などの芭蕉の翁と稱へしより雅號となりしとぞ。普通に「はせを」と假名に書く。書き續きの安らかなるを自慢せりといふ。桃靑といふ名は何より得來りしか詳ならず。余臆測するに芭蕉初め李白の磊落なる處を欣慕〔きんぼ:心から悦び慕うこと。〕し、李白といふ字の對句を取りて桃靑と名づけしには非ずや。後年には李白と言はずして杜甫を學びしやうに見ゆれども其年猶壯にして擅林〔これだと「せんりん」となるが、熟語としてはおかしい。談林派の別称である「檀林(だんりん)」の誤字かと思われる。〕に馳驅〔ちく:駆け回って競争すること。〕せし際には勢ひ杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思はる。

   *

「發句あり芭蕉桃靑宿の春」は、

 

發句なり松尾桃靑宿の春

 

が正しい。この句は「俳諧 はせを盥」(ばしょうだらい・朱拙/有隣編・享保九(一七二四)年刊)に載るもので、

 

  貞享年中の吟、素堂・其角と三ツもの有り

 

注してあることから、「延寶天和」の後の貞享年間(一六八四年~一六八七年)の作である。「金蘭集」(浣花井甘井(かんかせいかんい)編・文化三(一八〇六)年序)では、

 

發句あり松尾桃靑宿の春

 

の句形で載る。

 

 

●「酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪」前書「閑居の箴」の「箴」(しん)は、戒めの言葉の意。「俳諧 勧進牒」(かんじんちょう・路通編・元禄四(一六九一)年跋)には「深川雪夜」と前書、「蕉翁句集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年成立)では貞享三(一六八六)年とするから、これなら芭蕉は数え「四十三歳」である。「本朝文鑑」(支考編・享保三(一七一八)年後序)「閑居の箴」は支考がこの時附した題らしい)では以下のように前文が跗く(新潮日本古典集成富山奏校注「芭蕉文集」に載るものを正字化して示した)。

 

 あら物ぐさの翁や。日ごろは人の訪(と)ひ來るもうるさく、人にもまみえじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふなれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわりなしや。物をも言はず、ひとり酒のみて、心に問ひ心に語る。庵(いほり)の戸おしあけて、雪をながめ、または盃(さかづき)をとりて、筆を染め筆を捨つ。あら物ぐるほしの翁や。

 

●「俳諧掟」これは記載によれば、「芭蕉翁七書」(しちしょ・篤老編・享和元(一八〇一)年序)や「俳諧 一葉集」(いちようしゅう・仏兮(ぶっけい)/湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)にも載る、「行脚掟」(あんぎゃのおきて)という芭蕉が男の俳諧師の戒めとして記したものらしい。それによれば、最も早いものは宝暦一〇(一七六〇)年の「五七記」(ごしちき:俳人白井鳥酔が記した友人佐久間柳居の追善集で、その中に生前の柳居が門人を戒めた夜話二十四条と芭蕉の行脚掟十七条を添えたものが出る。)とある。この掟には異なったヴァージョンがあるらしく、「尾花沢市歴史散歩の会」の梅津保氏の芭蕉翁行脚十八ヶ條の掟に三種が載る。この内、まず最初に載るもの(最も古形のものか?)を以下に全文を正字化して引用させて戴く(読み易くするために句読点を加え、誤字と思われるものを訂し、表記の一部を他の二種から類推して整序、読みも歴史的仮名遣に代えて追加してある)。

   *

蕉翁行脚十八ヶ條の掟

一、一宿なすとも、故なき所には再宿すベからず、樹下石上(せきしやう)に臥すとも、あたゝめたる筵(むしろ)と思ふベし

一、腰に寸鐡たり共(とも)帶(たい)すベからず、惣(さう)じてものゝ命を取る事なかれ

一、君父(くんぷ)の仇(あだ)有る處へ門外にも遊ぶベからず、いたゞき蹈(ふま)ぬ心、しのばざる情あれバ也

一、魚鳥獸の肉を好んで食すべからず、美食珍味にふける者ハ、他事にふれやすきものなり、菜根を喰(くひ)てたるなすの語を思ふべし

一、衣類器財は相應にすベし、過ぎたるハよからず、足らざるもしからず

一、人の求(もとめ)なきに、おのが句を出すべからず。のぞみをそむくもしからず

一、たとひ険阻(けんそ)の境(さかひ)たり共、所労(しよらう)の念を起すベからず、起らバ途中より立(たち)歸るべし

一、故なきに馬駕籠(うまかご)に乘るべからず、一枝を、わがやせ足と思ふべし

一、好んで酒を呑(のむ)べからず、饗應によりてハ、かたく辭しがたく共、微醺(びくん)にして止ムべし、亂(みだり)に及(およば)ずの節、迷亂起罪の戒(いましめ)、祭りにもろみを用(もちゐ)るも酔(ゑひ)を惡(にく)んでなり、酒を遠ざかるの訓(くん)あり、つゝしむべし

一、船錢茶代、忘るベからず

一、夕(ゆふべ)を思ひ旦(あさた)をおもふべし、旦暮の行脚といふ事ハ好(このま)ざる事なり

一、人の短をあげて、己が長にほこるハ、甚だいやしき事なり

一、俳談の外、雜談(ざふだん)すべからず、雜だん出なバ、居眠りをして己が勞(らう)を養ふべし

一、女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙(しんしや)せバ、人を以て傳ふベし、惣(すべ)て男女の道は嗣(つぎ)を立てるのみなり、流蕩(りうたう)すれバ、心(こころ)熟一(じゆくいつ)ならず、此道は主(あるじ)へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

一、主(あるじ)あるものは一針一草たり共、取べからず、山河澤(たく)、皆(みな)主なり。慎むべし

一、山河旧跡親しく尋ね入るベし、新(あらた)に私(わたくし)の名を付べからず

一、一字の師たり共、忘るべからず、一句の理(ことわり)をも解せず、人の師と成(なる)事なかれ、人に教(おしふ)るハ、己れをなしたる上の事也

一、一宿一飯のぬしをも、おろそかにおもふベからず、さりとてこびへつらふ事なかれ、如斯(かくのごとき)の人ハ奴(やつこ)たり、只、此道に入る人ハ、此道の人に交(まじは)るベし

       十八ケ條終

   *

以下、リンク先の鳳作が引用した箇所と同一の箇所を改めて三種並べておく(頭の「一、」と読みは除去し、正字化、一部の表記を変更した)。

   *

《鳳作引用》

女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし

《前掲リンク先第一種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立てるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道は主へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

《前掲リンク先第二種》

女性の俳友ニ親しむべからず、師にも弟子にも入らぬもの也、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣じて男女の道ハ嗣を立テるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道ハ主へも敵ニしてなす、よくよく己をかへりみるべし

《前掲リンク先第三種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬ事なり、此道にしたしめば人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立つるのみなり、流蕩すれば心敦一ならず、此道は主一無適にしてなす能くよく己れを省むべし

   *

鳳作の引用は「親炙せば」の箇所を除けば、第三種の形に最も近い。「主一無適」(しゅいつむてき)とは宋の程朱学(ていしゅがく:程顥(ていこう)・程頤(ていい)及び朱熹(しゅき)の儒学解釈学。)に於ける修養説で、心を一つの事に集中させて他に逸らさないことをいう。「論語集注(しっちゅう)」の「学而」に拠る。

 

●「むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな」岩波文庫荻原井泉水編「一茶俳句集」によれば、「江戸道中」と前書があり、文政二(一八二〇)年の作とする。これが正しいとすれば五十六歳の時(既に柏原隠棲後)の句となるが、この前書といい、句柄といい、これは遡る二十年から四十以上の昔、奥深い信州から独り江戸に出でんとする折りの悲哀の一句としか読めない(因みに一茶が江戸に出たのは十五の時、二十五で立机するまでの十年の間の事蹟は不明である)。ウィキの「ムクドリ」の「人間との関係」に、『日本では、文学の中にムクドリがしばしば登場する。椋鳥は冬の季語と定められている。江戸時代、江戸っ子は冬になったら集団で出稼ぎに江戸にやってくる東北人たちを、やかましい田舎者の集団という意味合いで「椋鳥」と呼んで揶揄していた。俳人小林一茶は故郷信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて、「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」という俳句を残している。明治時代には、森鴎外が、日本=世界の中の田舎者という意味で、海外情報を伝える連載コラムに「椋鳥通信」というタイトルをつけた』とある(辞書は勿論、百科事典にだってこんな記載は載り得ない。私がウィキペディアを甚だ称揚する理由は、こうした美事な博物学的記載がそこにあるからである)。

2014/11/20

今日は

これからムーミンに逢いにゆく――

尾形龜之助「七月の 朝の」  心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 七月の 朝の

 

あまりよく晴れてゐない

七月の 朝の

ぼんやりとした負け惜みが

ひとしきり私の書齋を通つて行きました

 

――後

先の尖がつた鉛筆のシンが

私をつかまへて離さなかつた

 (電話)

「モシモシ ―― あなたは尾形龜之助さんですか」

「いいえ ちがひます」

 
 
7asa



 

 七月的 早晨的

 

不怎么晴朗的

七月的 早上的

不服的灵魂 那迷蒙影子

到我房里 徘徊一会儿就直接走去了

 

—— 然后

被削尖的笔芯

它抓住我的心而不放

  (电话)

“喂 —— 您是尾形之助先生?”

“不,我不是”

 

   *

 

[矢口七十七注:这样在的中国人一般会“不,你打了”,但仔体会原,最后出如上中文。]

 

[矢口七十七注(心朽窩主人邦訳):こういう場面では現代の中国人は「不,你打了」(邦訳「いいえ、掛け違いだよ」)というところであるが、原詩のイメージを仔細に吟味し、最終的に上記の中国語訳とした。]


        照片攝影 : 矢口七十七

        照片加工 : 心朽窝主人

2014/11/19

芥川龍之介 枯野抄 授業案 鋭意改訂中

松尾芭蕉終焉の日(本十一月二十八日)に向けて、芥川龍之介の「枯野抄」及び語注+授業案を鋭意改訂中。最終的には全部をカップリングしたPDF一括版を予定している。

これが僕の最新にして最後の授業を実践しない授業案となろうかと思う。

――どこでどう生徒を擽るか――昔を思い出しつつ、少しく楽しんでいる。――

教科書にも参考書にも専門の注釈書にも、これ、ゼッタイ! 負けない! 「テツテ的」! のものにすること、請け合いまっす!

乞うご期待!

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅳ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして―― 了

三、結語

 新興俳句運動は生活から遊離して花鳥風月に遊んでゐた俳句をして、社會生活の現實面へひきもどして來た。

 是は芭蕉の所謂句と身とを一枚にする事である。

 然し其だけでは足らない。句と身と一枚にするのみならず共に「叫び」を與へなけれはいけない。背後の世界への希求を與へなければいけない。

 芭蕉に於てはこの希望はさびしをりとであつた。其は換言するならば自然の生命の消極的把握であつた。

 新興俳句はいかなる「叫び」を「希求」を持つべきか。

 其は身を持つて求めてゐるものでさへあれば何でもよからう。唯私はヴアイタリテイの世界へ叫ぶのみである。以上をもつてとりとめもない芭蕉論の結語としたい。

2014/11/18

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅲ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 呼びかけの形式はとらずとも、それに劣らず主觀を力強く吐露した句が芭蕉には、すこぶる多い。

 

野ざらしを心に風のしむ身かな

○露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ

○山路きて何やらゆかしすみれ草  (以上野ざらし紀行)

 寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき

○鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 春の夜や籠人ゆかし堂の隅

○父母のしきりに戀し雉子の聲

○蛸壺やはかなき夢を夏の月    (以上芳野紀行)

 あらたふと靑葉若葉の日の光り

 笠島はいづこ五月のぬかり道

○夏草やつはものどもが夢の跡

しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

○あかあかと日はつれなくも秋の風 (以上奧の細道)

 

 以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた。たとへば

 

 辛崎の松は花よりおぼろにて

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

 何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)

 五月雨をあつめて早し最上川

 

等である。

 芭蕉の比較的客觀句を拾つて見よう。

 

 三十日月(ミソカ)無し千とせの杉を抱く嵐

 秋風や藪もはたけも不破の閑

△あけぼのやしら魚白き事一寸

△海くれて鴨のこゑほのかに白し

 年くれぬ笠きて草鞋はきながら

 水取やこもりの僧の沓の音  (以上野ざらし紀行)

 枯芝ややゝかげろふの一二寸

△草臥れて宿かる頃や藤の花

 雲雀より上にやすらふ峠かな

 一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ

 ほとゝぎす消えゆく方や島一つ  (以上芳野紀行)

 蚤虱馬の尿するまくらもと

△涼しさやほの三日月の羽黑山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 荒海や佐渡によこたふ天の川

 月淸し遊行のもてる砂の上

 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

大體以上の如きものであるが、現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい。

 芭煮はたしかに感覺的にすぐれた才能を持つてゐたであらうが、其の作品に感覺的に優れた作品は乏しい。

 彼は感覺を現代の俳人ほどに重視しなかつたのである。「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」と彼はむしろ感覺を超えて直ちに自然の生命へ參入する事を第一としたからである。其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに其をしりぞけて

 

 古池やかはずとびこむ水の音

 

とした芭蕉である。「山吹や」と色彩を點じて句を生命の世界より現象の世界へ墮せしめる事を欲しなかつたのである。

 芭蕉にあつては句に色彩を點ずる場合と雖も「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」である。

 即ち感覺を感覺として終らしめず、更に背後の世界へ入る門たらしめてゐるのである。

 彼の句が總て其に成巧してゐるとは云はないが、唯其を旨としてゐたと云ふ事は云へると思ふ。

 彼は「句と我とを一にせよ」と説いてゐるが、更に彼は句と身と、そして背後の世界――イデヤの世界とを一たらしめんとしてゐるのである。

 

 しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

 鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲


  
是等の句に於ける蟬の聲、鷹一つ、泣く聲、蟾の聲――何れも單なる個的存在ではない。大いなる背後の世界へ融合する所のものである。云はゞ、蟬が鷹が泣聲が大きな光の暈をきてゐるのである。

 芭蕉は句を通して背後の世界へ參入しようとしたのである。

 芭蕉が多くの俳人を拔いて獨り千古の詩人たる所以は、實に此處にあるのである。

 句と身と一枚にすると云ふだけなら、一茶の如きは芭煮に匹敵しうるものであらう。然し一茶の句には背後の世界の輝きが乏しい。

 句と身と、そして背後の世界とが一體になつてゐると云ふ所が、芭蕉の芭蕉たる所以である。

 別言するならば、芭蕉の句には哲學し、宗教し、思慕する彼の魂がのりうつてゐるから偉いのである。

 新興俳句の缺點は淺い事にあると云はれるのは(花鳥諷詠句は尚勿論の事であるが)センスだけあつてフイロソフイがないからである。

 哲學しない藝術なんて要するに光らない螢である。芭蕉の哲學する精神、背後の世界を思慕する精神は、往往にして力強き主觀の吐露となり、自他に對する願望命令――即ち叫びの句となつてゐるのである。

 芭蕉に客觀の句がすくなく主觀の句、呼びかけの句が多いのはこの爲である。

 
 

[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。

 

・「野ざらしを心に風のしむ身かな」「野ざらし紀行」の題名にもなった以下の冒頭の一句。

   *

「千里に旅立ちて、路糧(みちかて)を包まず、三更月下無何(むか)に入る」と言ひけむ昔の人の杖にすがりて、貞享甲子(ぢやうきやうきのえね)秋八月、江上(こうしやう)の破屋をいづる程、風の聲、そゞろ寒げなり。

 

  野ざらしを心に風のしむ身かな

 

  秋十年(ととせ)却(かへ)つて江戸を指す故郷

   *

「千里に旅立ちて、路糧を包まず、三更月下無何に入る」の部分は、実際には「荘子」の「逍遙遊篇」の中にある「適千里者三月聚糧」(千里に適(ゆ)く者は三月糧を聚(あつ)む)と、五山文学の範とされた元の松坡宗憩(ずんばそうけい)撰になる禅僧の偈頌(げじゅ)集「江湖風月集」の中の偃渓広聞(えんけいこうぶん)の句「路不賷糧笑復歌 三更月下入無何」(路を賷(つつ)まず 笑つて復た歌ふ/三更月下 無何に入る)をカップリングしたもの。「三更」は午後十一時から午前一時、「無何」は「無何有(むかう)之郷」の略で自然体で何の作為動作も行わない、自由自在の無我の境地に入ることをいう。

「貞享甲子」貞享元(一六八四)年。

「江上の破屋」天和二(一一八三)年の焼亡の後に再建された第二次芭蕉庵。

「秋十とせ」芭蕉は寛文一二(一六七二)年に故郷伊賀上野を出発、この時まで十二年の間、江戸に住んでいた。因みにこの二句目は、中唐の詩人賈島(かとう)の詩「渡桑乾」(桑乾(さうけん)を渡る)、「客舍幷州已十霜 歸心日夜憶咸陽 無端更渡桑乾水 却望幷州是故鄕」(幷州(へいしふ)に客舍すること 已に十霜/歸心 日夜 咸陽を憶ふ/端 無くも更に渡る 桑乾の水/却つて幷州を望めば 是れ 故鄕)をインスパイアしたもので、愛すべき江戸蕉門らへの別れの挨拶句である。

 

・「露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」「露」は「霧」の誤り。「野ざらし紀行」で前掲の句に続いて、

   *

  關こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

 

   霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

   *

と出る句。「關」は箱根の関所。

 

・「死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ」大垣の谷木因(たにぼくいん)亭での句。

   *

 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、

 

死にもせぬ旅寢の果よ秋の暮

   *

「野ざらし紀行」は恐らくここで満尾とする予定であったものと推定されている。

 

・「山路きて何やらゆかしすみれ草」貞享二年三月中の句。「野ざらし紀行」では、伏見西岸寺での句の後に、

   *

   大津に至る道、山路をこえて

 

 山路來て何やらゆかしすみれ草

   *

と置くが、山本健吉氏は「芭蕉全句」で、後の熱田での歌仙発句として創られたものを、紀行では逢坂を越えて大津へ出る途中吟に仕立て直したものと推定されておられる。この句は「野ざらし紀行」序文で俳友山口素堂が『山路來ての菫、道ばたの木槿(むくげ)こそ、この吟行の秀逸なるべけれ』と称賛している句である(「道ばたの木槿」は大井川を越えてからの一句「道のべに木槿は馬にくはれけり」を指す)。新潮日本古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」で富山氏は、この素堂の絶賛から『察するに、この句は』『木槿の句』『と同様に、意識・心情の深さから、平凡な自然現象の中に、かえって純粋で深遠な自然の生命を感得した作品であることがわかる』と評されておられ、その見解が鳳作の論とよく合致して興味深い。

 

・「野ざらし紀行」前では「野晒紀行」と表記している。同一論文での不統一は珍しい。

 

・「寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「鷹一つみつけてうれしいらこ崎」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「春の夜や籠人ゆかし堂の隅」「籠人」は「こもりど」と読む。「笈の小文」には「初瀨」(長谷寺の初瀬観音)と前書。貞享五(一六八八)年三月二十日の夜の情景である。この前日、芭蕉は杜国とともに伊賀を発ってこの日に長谷寺を詣で、その夜に参籠した。この「籠人」は高貴な女人に違いなく、私は芭蕉の恋句(初瀬観音は恋の成就の祈願所として知られていた)として特に偏愛する一句である。

 

・「父母のしきりに戀し雉子の聲」「笈の小文」には「高野」と前書。貞享五年三月中の句。山本健吉氏前掲書によれば、『松尾家の宗旨は真言宗で、先祖の鬂髪(びんぱつ)も、芭蕉の故主蟬吟』(せんぎん:藤堂良忠。伊賀国上野の城代付き侍大将藤堂新七郎良清(良精とも)の三男で芭蕉は少年期に良忠の扈従として出仕していた(現在では芭蕉は農民出身とする見解が主流である)。参照したウィキの「蝉吟」によれば、『良忠が松永貞徳や北村季吟について俳諧を嗜んでいた縁で芭蕉も俳諧を始めたと』される。ところが寛文六(一六六六)年四月二十五日に蟬吟は二十五歳で夭折してしまい、『芭蕉は良忠の遺骨を高野山におさめ、それよりして無常を観じて故郷を出奔し、一所不在の身で俳諧に専念するようになったという』とある。)『の位牌もここの納骨堂に納めてあった。また、』この『先月二月十八日には伊賀の実家で亡父三十三回忌法要を営み、また母の没後五年』目でもあったことから、芭蕉が『高野山に登ったのは、父母の供養という意味があったのだろう』と記しておられる。一句は「玉葉和歌集」所収の吉野山で詠まれた行基の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をインスパイアするが、これにつき、個人ブログ「ぶらりぶらり見て歩記」の「今も生き続ける空海・高野山3」に、鶴田卓池の自筆稿本「柏青舎聞書」から以下の芭蕉自筆の長い遺文が載るのでこれを恣意的に正字化、読みを歴史的仮名遣にして追加し、読点も一部に加えて引用させて戴く。なおこれは山本氏の前掲書にも、文化七(一八一〇)年刊の士朗著「枇杷園随筆」に「高野登山端書」と仮題した芭蕉の遺文として一部を省略したほぼ同文のものが載っている。

   *

高野のおくにのぼれば、靈場さかんにして、法のともしび消る時なく、坊舍、地をしめて、佛閣、いらかを並べ、一印頓成(いちいんとんじやう)の春の花ハ、寂莫の霞の空に匂ひて、鐘の聲、鈴のひゞきも肝にしミておぼえ、猿の聲、鳥の啼(なく)にも腸を破るばかりにて、御廟(ごびやう)を心靜(しづか)に拜み、骨堂のあたりにたたずみて、倩(つらつら)おもふやうあり。此處(このところ)は多(おほく)の人のかたみ、集れる所にして、我(わが)先祖の鬢髮(びんぱつ)をはじめ、したしくなつかしきかぎりの白骨も、このうちにこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝなみだをとゞめかねて、

    父母の しきりに戀し 雉の聲           翁

   *

この雉子の声は実景であろうが、「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」(巣のある野を焼かれると雉子は身の危険を忘れて子を救おうとし、寒夜に巣籠る鶴は自身の翼で子を蔽って守るという故事、子を思う親の情の非常に深い譬えを受けていることは言うまでもない。

 

・「蛸壺やはかなき夢を夏の月」「笈の小文」では「明石夜泊」と前書。貞享五年四月二十日の作(但し、実際には明石には泊まらず、夜道を戻って須磨で泊まった)。安東次男氏は「芭蕉百五十句」で本句の「はかなき夢」を「源氏物語」の「明石」の帖にある、同じ卯月の一夜の相聞、

 一人寢は君も知りぬやつれづれと思ひあかしの浦さびしさを(明石の入道の娘の歌)

と、

 たび衣うら悲しさに明かし侘び草の枕は夢も結ばず(光源氏の返し)

に基づく一種の艶句として解釈され、諸家が『「夏の月」を当夜その場で出会った事実として、海底の蛸壺に情を寄せる式にたわいもなく読んでいる』『のは解釈とはいえない』と一刀両断しているのは、踝から胼胝(たこ)、基、目から鱗、痛快にして同感で、流石は正調安東節である。

 

・「あらたふと靑葉若葉の日の光り」私の評釈

 

・「笠島はいづこ五月のぬかり道」私の評釈

 

・「夏草やつはものどもが夢の跡」私の評釈

 

・「しづかさや岩にしみ入る蟬の聲」私の評釈

 

・「あかあかと日はつれなくも秋の風」私の評釈

 

・「以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた」ここまで鳳作はやや紋切型の二元論的な主観/客観の分類学に固執してしまっている気味がある。ここでその根本的な誤りに気づいるようだが、そうすると論が進まない。痛し痒しで続けているという気が私には少しする。しかし着眼点はやはり面白いと言えるし、この後の展開も必ずしも誤っているとは思わない。

 

・「辛崎の松は花よりおぼろにて」「野ざらし紀行」の句で、「湖水の眺望」と前書する句。恐らくは貞享元年四月中の句で、大津東今颪町にあった三上千那(せんな)の別院での作と推定される。千那は大津堅田の本福寺第十一世住職で大津蕉門の重鎮。山本氏前掲書によると初案は、

 

辛崎の松は小町が身の朧

 

であったらしく、改作して、

 

辛崎の松は花より朧かな

 

とするも、後の貞享元年五月十二日附千那書簡では、

 

辛崎の松は花より朧にて

 

でご記憶願いたいとしているとある。芭蕉の飽くなき推敲が思い知られる。

 

・「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」「笈の小文」の句で、「西河(にしかう)」という前書を持つ。貞享五年三月二十二日か二十三日頃の作と推定される。「西河」とは吉野郡川上村大字大滝にある「西河(にしこう)の滝」で吉野大滝とも称するが、実際には滝ではなく激流である。「古今和歌集」の紀貫之の「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり」を元とするものの、思い切ったオノマトペイアの視覚が聴覚へと一気に転ずるという、非常に斬新な一句となっている。鳳作が『主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句』とするのも故なしとしない。

 

・「何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)」「笈の小文」の句(前句「ほろほろと」よりも前に出る)。「伊勢山田」は前書。二月四日に伊勢神宮に参拝した際の感懐(山田はその後に興行を行った益光亭の地名らしい)。西行の「山家」に載る「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の本歌取りであるが、山本氏は前掲書でさらに西行の「ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」もインスパイアされているとされ、作句時期からも同感出来るが、山本氏はこれを益光亭の庭の実際の梅の花となさりたいようである(益光の付句「こゑに朝日を含むうぐひす」に拠るもの)。しかし寧ろ、山本氏も『この句の「匂」は神域から匂い出てくるものだから必ずしも花でなくてもよい』と前に記しておられるように、富山奏氏の前掲書で『現実に花の匂がしたにしても、一句は芭蕉の心象風景である』という評言を私はよしとしたいし、鳳作がこの句を敢えて引いたのもその『心象』にこそ目が止まったからに違いないと思われる。

 

・「五月雨をあつめて早し最上川」私の評釈

 

・「三十日(みそか)月無し千とせの杉を抱く嵐」「野ざらし紀行」貞享元年八月三十日の、偶然か、前の「笈の小文」の「何の木の」の句と同じ伊勢山田での句。本文とともに引く。

   *

 腰間(えうかん)に寸鐵をおびず、襟に一囊(いちなう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)あり、俗ににて髮なし。われ、僧にあらずといへども、髮なきものは浮屠(ふと)の屬(ぞく)にたぐへて、神前に入ることを許さず。

 暮て外宮(げくう)に詣ではべりけるに、一の鳥居の陰ほのくらく、御燈(みあかし)ところどころに見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり、深き心を起して、

 

  三十日月なし千年の杉を抱く嵐(あらし)

   *

「寸鐡」小刀(しょうとう)。武士でないことをいう。「一囊」僧が首に掛ける共感や布施を入れるための頭陀袋(ずだぶくろ)。「十八の珠」数珠。「塵」俗臭。「浮屠の屬」僧侶の類い。富山氏の注に『外宮の僧尼拝所には五百枝(いおえ)の杉と称する神杉の大樹があった』とある。

 

・「秋風や藪もはたけも不破の閑」美濃国の歌枕不破の関所跡(岐阜県関ヶ原市)で、実際に秋も末のことであった。言わずもがな、「新古今和歌集」の藤原良経の名歌「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」を実景の実感としてリアルに俳諧化している。

 

・「あけぼのやしら魚白き事一寸」十月、伊勢桑名の浜(山本氏によれば桑名の東郊外、浜の地蔵辺りで木曾川の河口付近とある)での吟詠。前文に、

 草の枕に寢あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出でて、

とある。初案は、

 

雪薄し白魚しろき事一寸

 

であったが、芭蕉は初五を「此五文字いと口おし」(「笈日記」)とし、「あけぼのや」と直している。透徹した鮮烈の印象句で私の偏愛する句である。

 

・「海くれて鴨のこゑほのかに白し」熱田での句。「野ざらし紀行」では、「海邊に日暮(ひくら)して」と前書、「俳諧 皺筥物語」(しわばこものがたり・東藤編・元禄八(一六九五)年跋)では、「尾張の國あつたにまかりける比(ころ)、人々師走の海みんとて船さしけるに」と前書する。「俳諧 蓬莱島」(よもぎじま・闌更編・安永四(一七七五)年刊)では巻末に「貞享岩塩臘月十九日」と記す(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)。これは「ほろほろと」とは逆に聴覚印象が夢幻的に視覚に転ずることによる、寂寥感の余韻醸成が実に美事である。

 

・「年くれぬ笠きて草鞋はきながら」十二月二十五日に故郷伊賀へ着いて後の感懐吟。「野ざらし紀行」には、「爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寢ながらに年の暮ければ、」と前文する。故郷の地にあっても敢えてそこを旅の宿りとするところに風狂の旅に生きんとする芭蕉の覚悟が込められていることに気づく。

 

・「水取やこもりの僧の沓の音」「野ざらし紀行」の奈良東大寺二月堂での修二会(しゅにえ)の句。安東次男氏の名評釈(私のブログ記事)をご覧あれ。

 

・「枯芝ややゝかげろふの一二寸」「笈の小文」故郷伊賀上野滞在中の一句。「曠野」では、

 

枯芝やまだかげろふの一二寸

 

の句形で載る。感懐をストイックに抑えた「やゝ」の方を私は採る。

 

・「草臥れて宿かる頃や藤の花」「笈の小文」には、吉へ向かう途次として、

   *

 旅の具多きは道ざはりなりと、物皆拂ひ捨たれども、夜の料にと紙子(かみこ)ひとつ、合羽(かつぱ)やうの物、硯・筆・紙・藥など、晝餉なんど物に包みてうしろに背負ひたれば、いとど臑(すね)よわく力なき身の、あとざまにひかふるやうにて 、道なほ進まず、ただ物うき事のみ多し。

 

  草臥(くたぶれ)て宿かる頃や藤の花

   *

と描かれてある。但し、実はこの句、元は、

 

  丹波市(たんばいち)、やぎと云(いふ)處、耳なし山の東に泊る

ほとゝぎす宿かる頃や藤の花

 

という夏の句として作った(書簡等によって確認出来る。後述)ものを、春の句に改案してここに恣意的に挿入したものであった。「草臥れて」という上五を選んだことで、これが芭蕉が好んだ「徒然草」第十九段の「藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」を念頭におきつつ、実体験の倦怠と旅愁を描いたものであるということが俄かに伝わってくるようになった。「ほとゝぎす」のままだったら、如何にもな句として最後にはこのシークエンスごと、捨てられていたように私には思われる。この「笈の小文」の構成自体も時間的な操作が加えられてあって(というよりこの句を一つネガティヴなアクセント史として配するためにといった方がよいように感じられる)、実際には吉野遊山のずっと後の四月十一日の吟であることが芭蕉の四月二十五日附猿雖(えんすい)宛書簡によって判明している。

 

・「雲雀より上にやすらふ峠かな」吉野へ参る途中の臍(ほぞ)峠(現在の奈良県の細峠。奈良から吉野に至る「吉野越え」と称されるルートの一つで、桜井から談山神社のある多武峰を通って吉野に至る。標高約七百メートル)に於いて三月二十一日頃、詠まれた句であるが、鳳作が引くのは「曠野」に載る句形で、「笈の小文」では(〔 〕は割注)、

   *

  三輪  多武峯(たふのみね)

  臍峠  〔多武峠より龍門(りゆうもん)へ越ゆる道なり。〕

 

雲雀より空にやすらふ峠かな

   *

個人的には「空に」の方が、天馬空を行くが如く突き抜けていて、遙かによいと思う。

 

・「一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ」「笈の小文」。「衣更」と前書。とすれば、四月一日の吟となる。現在の和歌山市南方の和歌の浦近くでの吟。文字通り「軽み」の重さが軽快に芭蕉の肩へふうわりとかかる小気味よい句である。因みに、「笈の小文」では杜国が、

 

 吉野出て布子賣たし衣がへ  万菊

 

とこの句に和して、載る。

 

・「ほとゝぎす消えゆく方や島一つ」須磨の鉄拐(てっかい)山(神戸六甲山南西にある。海抜二三七メートル。北に鵯越(ひよどりごえ)・南西に鉢伏山・南東の麓には一の谷という、源平の古戦場の直近)山頂より淡路島の方を遠望した際の吟とされる。これは「千載和歌集」夏之部の後徳大寺左大臣の「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ殘れる」の本歌取り乍ら、その声を裁ち入れて、その声が消えた彼方に島影(「鳥影」では断じてない)が幻のように浮かんでいるのである。さながら――マグリットの絵のように――

 

・「蚤虱馬の尿するまくらもと」私の評釈

 

・「涼しさやほの三日月の羽黑山」私の評釈

 

・「雲の峰いくつ崩れて月の山」私の評釈

 

・「荒海や佐渡によこたふ天の川」私の評釈

 

・「月淸し遊行のもてる砂の上」私の評釈

 

・「浪の間や小貝にまじる萩の塵」私の評釈

 

・「現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい」やや厳しい裁断である。というより、失礼ながら鳳作はこれらの句に潜んでいる感覚の夢幻的な自在にして驚くべきメタモルフォーゼ(私はそれこそ当時の新感覚派的なるものであったと言ってさえよいと考えている)が十分に呑み込めていないのではないかと私は深く疑っている。

 

・「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」前出の「祖翁口訣」の一節。

 

・『其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに……』この話、尤もらしく鳳作は書いているが、私も聴いたことはあるものの、どうも今一つ、私には不審に感じられるものであった。実際にかく書かれたものは本人は勿論、第一世代の門人たちの著作にも見当たらないようである。ただ、ウィキの「古池や蛙飛びこむ水の音」には、本句の初出は貞享三(一六八六)年閏三月刊の「蛙合」(かわずあわせ)で、次いで同年八月に「春の日」に収録されたものであるが、「蛙合」『巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる』。『「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池』と推定されており、元禄一三(一七〇〇)年の「暁山集」(芳山編)『のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。「山吹」は和歌的な伝統をもつ言葉であり、そうした言葉との取り合わせによる華やかさや、「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである』とあるので、こうしたシチュエーションもありかなという気はしている。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば『伝説』とした上で、所載するものとして元禄五年刊の支考の「葛の松原」を揚げておられる。原本画像を入手出来たが、読み下す意欲が湧かないので、いつもお世話になっているムーミンパパ氏の「葛の松原(支考著)」から引用させて戴いてお茶を濁すこととする(例によって恣意的に正字化した)。

   *

 弥生も名殘お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文字をかふ(う)むらしめむかとを、よづけ侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。しばらく論ㇾ之、山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實也。實は古今の貫道なればならし。

   *

なるほど、確かに、という感じではある。しかし、である。何より無心に、この、

 

  山吹や蛙飛び込む水の音

 

という句を眺めて見よう。山本氏はこれを思いっきり学術的且つギリギリ好意的に、『山吹と蛙の取合せは伝統的で、二物触発の上に、晩春の濃厚な季節情趣がただよい、句柄が重くねばっている』と評されている。しかしこれ、どう見ても私には、無能な日曜画家が目立とう精神で彩色をやらかしっちまった、お粗末な絵にしか見えないのである。どこかの曖昧宿に埃を被って斜めに傾いで掛かっているような絵だ。そもそもが上五と中七以下が、何ら、精神によって繋がっていない、如何にもヘンテコリンな句にしか私には見えないのである。そもそもが鳴く蛙は声は和歌の伝統にあっても、飛ぶ蛙の水音は歌語にはないはずである(少なくとも日本古典集成「芭蕉句集」で今栄蔵氏はそう断言しておられる)。

 ともかくも取り敢えず以下、同ウィキから引いて本句のデータを纏めておくと、「蛙合」の編者は『芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された』四十『句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである』とし、『一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は』貞享三年と見るのが定説であり、同年正三月下旬に、『井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われ』、『「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である』とある。

 気がつくのは寧ろ、初出と見て間違いない、

 

古池や蛙飛ンだる水の音

 

と、現行の、

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

の大きな印象の相違の方である。「飛んだる」はまさにウィキの最後で述べられている通り、談林派の受け狙いが見え見えの用字であって、その主眼はアッケラカンとした同派に媚びる低レベルな滑稽以外の何ものでもない。ところが「飛びこむ」とした途端に、この句は禅の公案のような静寂を湛えた水墨画に鮮やかに変容する。そうして先の其角の置いた「山吹や蛙飛び込む水の音」のけばけばしい黄色は言うに及ばず、まさしく「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくすべし」という「祖翁口訣」の戒めが美事にだぶってくるように私には思われるのである。この句を前にした門人たちは会心の笑みを漏らしたに違いない。違いないが、彼らの笑みは自ずと、談林の連中がバレ句のような低次元のいやらしい表現に浮かべていた軽佻浮薄な笑いとは、全く以って異なったものであったのである。

 

・「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」同じく「祖翁口訣」の一節。


・「成巧」「成功」の誤植。

2014/11/17

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 冬

〈昭和十三年・冬〉

 

花温室二時日輪は虧けはじめけり

 

今日もはく娑婆苦の足袋の白かりき

 

すゝり泣く艶容足袋を白うしぬ

 

寒うして賣僧のしたる懷ろ手

 

冬かすみして誕生の窓の燭

 

萬年靑の實蝸盧の年浪流れけり

 

[やぶちゃん注:「蝸盧」は「かろ」で蝸牛の殻に喩えて小さい家、狭く粗末な住居、転じて自分の家のことを遜っていう語。]

 

こゝろもち寒卵とておもかりき

 

寒卵嚥(くんの)み世故を囁けり

 

  遊龜公園

 

一蓮寺水べの神樂小夜更けぬ

 

[やぶちゃん注:「遊龜公園」既注。]

 

煖爐燃え蘇鐡の靑き卓に倦む

 

寒ゆるむ螺階は蠱(まじ)の光り盈つ

 

[やぶちゃん注:「蠱」は原義は呪(まじな)いによって相手を呪うことやその術をいうが、ここは、そこから転じた、人を惑わすもの、魔性の気配をいう。]

 

  末弟結婚式後、S―園に晩餐を共にす

 

着粧ふ座邊(ざべ)の電氣爐あつすぎぬ

 

うす靄の日に温室(むろ)の娘は働けり

 

  身延山

 

冬山に數珠賣る尼が栖(すみか)かな

 

  二子塚所見

 

斃馬剝ぐ大火煙らず焚かれけり

 

[やぶちゃん注:馬が登場するところからは、長野県飯田市竜丘にある塚原二子塚古墳か? 五世紀後半頃、この地方が馬の生産を通じて中央の政権と深く関わり、国内屈指の馬生産を誇っていたと考えられており、古墳の発掘品の中には馬具がある旨、加茂鹿道&姫河童氏のサイト「信州考古学探検隊」の「塚原二子塚古墳」の飯田市教育委員会による現地案内板解説にある。]

 

冬耕の婦がくづほれて抱く兒かな

 

嶺々そびえ瀨音しづみて冬田打

 

新墾(にひばり)野照る日あまねく冬耕す

 

月いでて冬耕の火をかすかにす

 

放牧の冬木に胡弓ひく童あり

 

  久しく病牀にありし白石實三、十二月二日

  午後二時五十分遂に永劫不歸の客となる

 

臘月の大智おほよそ寒むかりき

 

[やぶちゃん注:「白石實三」(明治一九(一八八六)年~昭和一二(一九三七)年)は小説家。群馬県生まれ。早稲田大卒。田山花袋に師事。当初は自然主義的な作品を発表したが、後に武蔵野の地誌・歴史に関心を持ち、「武蔵野巡礼」「大東京遊覧地誌」などを執筆した。著作に「姉妹」「滝夜叉姫」など。蛇笏とは早稲田吟社時代からの旧知であった。享年五十二。蛇笏より一つ年下であった。]

 

うそぶきて思春の乙女毛絲編む

 

雲間出る編隊機あはれ寒日和

 

凍花めづ暖房の牕機影ゆく

 

[やぶちゃん注:「牕」は「まど」。窓。]

 

白晝の湯を出て寒の臙脂甘し

 

[やぶちゃん注:「臙脂」は「べに」と読んでいるものと思われる。湯上りの女の口の紅であろうか。]

 

曳きいでし貧馬の鬣(かみ)に雪かかる

 

冬鵙のゆるやかに尾をふれるのみ

 

馬柵の霜火山湖蒼くなりにけり

 

鷗とび磯の茶漁婦に咲きいでぬ

 

  K―院境内に存する嵐外の書

  「山路きて何やらゆかしすみれ草、はせを」

  の句碑いと碑蒸したり

 

茶の木咲きいしぶみ古ぶ寒露かな

 

[やぶちゃん注:「嵐外」江戸後期の俳人辻嵐外(明和八(一七七一)年~弘化二(一八四五)年)と思われる。敦賀に生まれ、通称は政輔、別号に六庵・南無庵・北亭・梛の屋等。久村暁台・高桑闌更らに師事した。超俗的洒落の人で、後に藤田可都里に師事して甲府に住し、「甲斐の山八先生」と称されて敬愛された。現在の南アルプス市落合にある成妙寺に墓がある。「K―院」とあるが、笛吹市境川町藤垈(さかいがわちょうふじぬた)に万亀山向昌院(こうしょういん)という寺があり、ここに嵐外書になる「山路來て何やらゆかしすみれ草」の碑があることがサイト「ムーミンパパの旅日記」のページで判明した。もここに間違いない。リンク先によれば天保一四(一八四三)年建立とある。]

 

寒の雞とさかゆらりともの思ふ

 

金剛纂(やつで)咲き女醫に冷たき心あり

 

[やぶちゃん注:私好みの句である。]

 

苺熟る葉の焦げがちに冬かすみ

 

波奏(かな)で神護(まも)りもす冬いちご

 

いちご熟れ瑠璃空日々に深き冬

 

あるときは雨蕭々と冬いちご

 

冬いちご摘み黄牛(あめうし)を曳く娘かな

 

めざしゆく大刑務所の雪晴れぬ

 

電気爐の翳惱ましくうつろへり

橋本多佳子句集「海彦」  菊作者 Ⅲ

 

猛かりし鵙よ隻翼拡げて見る

 

鱗雲ことごとく紅どこから暮る

 

櫨採唄(はぜとりうた)なぜ櫨採りの子となりしと

 

[やぶちゃん注:「櫨」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum 。木蠟(もくろう)を製するための果実採取をしている情景を詠んだものか。木蠟とはこのハゼノキの果実を蒸して圧搾し、そこから採取される高融点の脂肪質で、和蝋燭・坐薬や軟膏の基剤・ポマード・石鹸・クレヨンなどの原料として利用される。参照したウィキの「ハゼノキ」によれば、『日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。 また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほかすりつぶしてこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、飢救作物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』とある。また、ウィキの「木蝋」には、『生蝋(きろう)とも呼ばれ、ウルシ科のハゼノキ(櫨)やウルシの果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蝋。化学的には狭義の蝋であるワックスエステルではなく、中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分とする』。『搾ってからそのまま冷却して固めたものを「生蝋」(きろう)と呼び、さらに蝋燭の仕上げ用などにはこれを天日にさらすなどして漂白したものを用いる。かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶(つや)出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。このため商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた』。『長崎県では島原藩が藩財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培奨励をしたので、島原半島で盛んにハゼノキの栽培と木蝋製造が行われた。特に昭和になってから選抜された品種、「昭和福櫨」は、果肉に含まれる蝋の含有量が多く、島原半島内で広く栽培された。木蝋製造は島原市の本多木蝋工業所が伝統的な玉絞りによる製造を続け、伝統を守っている』とあり、また、『愛媛県では南予一体、例えば内子(内子町)や川之石(八幡浜市、旧・西宇和郡保内町)は、ハゼノキの栽培が盛んであった。中でも内子は、木蝋の生産が盛んで、江戸時代、大洲藩6万石の経済を支えた柱の一つであった。明治期には一時、海外にも盛んに輸出された』とあり、本句、特に詠唱地が記されていないが、これらの名産地の孰れかであったかとも思われる。]

 

噴井の水遁げをり葡萄作りの留守

 

乳(ち)足り子を地におき葡萄採りいそぐ

 

葡萄畑男が走り日に斑(ふ)ゆれ

 

葡萄樹下処女身に充つ酸さ甘さ

 

葡萄の房切るたび鋏の鉄にほふ

 

鶏頭もゆ疲れしときを伏し隠れ

 

穴まどゐ身の紅鱗をなげきけり

 

[やぶちゃん注:「穴まどゐ」「穴惑い」でるから本来は「穴まどひ」が正しい。秋彼岸を過ぎても冬眠のための穴に籠らずにいる蛇のこと。鱗が赤い色を帯びるとなると、有鱗目ヘビ亜目ユウダ科ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus 若しくはヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii が想起される。孰れも毒蛇であるが、多佳子のアブナい句としてはマムシとしたい私と、実際の紅い鱗というイメージでは実体験上、ヤマカガシの紅い帯が好きな私の双方がいる。因みに、私は蛇好きである。]

 

杉田久女句集 306 杉田久女句集未収録作品 Ⅻ 大正七年(7)

 

大鮎一尾づゝ靑串打つて燒きにけり

 

鼠死に居て氣味わろき井や梅雨に殖えて

 

夏足袋ほすや茄子を支へて竹細し

 

衣紋竹に柿の葉風のつのりけり

 

夏夜人に蓮池ひろく灯を浸す

 

  矢矧川沿岸

 

灯皆消して瀨音に寢るや夏の夜

 

[やぶちゃん注:「矢矧川」「やはぎがは(やはぎがわ)」で、福岡県遠賀郡岡垣町の山中を源流とし、同岡垣町の三里松原(芦屋海岸)で玄界灘に注ぐ川のことと思われる。]

 

起し繪淋し寢ねゐし蒲團積みよせて

 

[やぶちゃん注:「起し繪」建物や樹木などの絵を切り抜いて厚紙で裏打ちし、枠組みの中に立て並べて立体的に構成した、一種のペーパー・クラフト。木版刷りの豊かな彩色がなされたものや、灯火を点ずる仕掛けを施したりしたものもあり、「忠臣蔵」「白浪五人男」「道成寺」などの歌舞伎の舞台や、名所風景などを題材とし、遠近法をも取り入れた江戸時代からある立体の紙玩具である(茶室の設計時などにも利用される)。「立て絵」「立て版古(ばんこ)」とも呼び、大正頃まで流行した。季語としては夏とする。以下、ネットより採句。

 おこし繪に灯をともしけり夕涼み (正岡子規)

 うち並べともし勝たり立版古   (高浜虚子)

 起し繪の男を殺す女かな     (中村草田男)]

 

玻璃の水草白根漲るついりかな

 

  長女病む

 

熱高き子に蔓朝顏の風はげし

 

[やぶちゃん注:長女昌子さん小学一年生の夏である。年譜記載はない。]

 

  入院

 

病兒寢ぬれば我に蠅襲ふ疊哉

 

 次女をよそにあづけ看護する事四日

 

子燕や我になき焦るとあはれなり

 

廣葉雫葉を打つてまた淸水に

 

新涼や黄葉出來そめし小楮

 

[やぶちゃん注:「小楮」「ちさかうぞ(ちさこうぞ)」と読んでいるか。]

 

厨窓にのぞく穗先や箒草

 

くゝりゆるくて瓢正しき形かな

 

梯子かけて瓢のたうき急ぎけり

 

黍に浴めば庭に月噴く泉哉

 

[やぶちゃん注:「浴めば」は「あめば」で「浴む」(マ行上二段動詞)の未然形で、浴びせる、注ぎかけるの謂いであろう。何か、今の私には不思議に心惹かれる句である。]

 

畑厨をめぐれば多し秋の蠅

 

[やぶちゃん注:「畑厨」「はたくり」と読むか。台所の勝手口に隣接した家庭菜園のことか。「畑/厨」ではあるまい。]

 

雞頭に白々と立てぬ厨障子

 

障子まだ張らで夜寒や厨窓

 

丸く寢て犬も夜寒し厨土間

 

葱畑に障子はめたる厨かな

 

竈の灰かきとりかくる冬菜哉

 

笊の目の泥や冬菜をぬき入れて

 

笊いぬいてどこそこ分かつ冬菜哉

 

粉雪散る引窓しめぬ乾鮭に
 
 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 和田平太郎胤長屋敷蹟

    ●和田平太郎胤長屋敷蹟

荏柄天神社の前なり。胤長建保元年三月。奥州に配流の後。此宅地闕所(けつしよ)たるにより。昵近の諸士各是を所望す。然るに四月二日北條義時に此地ありしかは。即義時、金窪左衛門尉行親、安東兵衛尉忠家に割(さ)き與(あた)ふ。各爰に移住せり。今陸田の字に存せり。

[やぶちゃん注:この記載は頗る不十分である。まず、和田胤長(寿永二(一一八三)年~建暦三(一二一三)年)は、鎌倉幕府御家人で信濃源氏であった泉親衡が亡き将軍源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとしたとされる泉親衡の乱(私はこの乱自体が謀略と考えている)の首謀者の一人として陸奥国岩瀬に配流となったのであるが、彼は和田義盛の甥に当り、義盛は一族挙げて助命歎願を訴えたが(首謀者として捕縛された義盛の子義直と義重は赦免されていた)、結局、配流と決してしまう。しかもそうした際に欠所となった土地屋敷は一族連座が適応されない個別な罪状による個人の所領没収の場合、同族にそれを還付するのが原則であったにも拘わらず、強引に(当時の将軍実朝は義盛への屋敷地の引き渡しを一度許諾していた)義時が召し上げてしまい、自身の被官らにこれを与えた上、屋敷にいた義盛の代官を追い出してしまうのである。これが直後の和田合戦の直接の動機となったのであった。この辺りの詳細は、私の北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る謀叛人白状和田義盛叛逆滅亡〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉を参照されたい。ここはせめて鎌倉九」の、

 

和田平太胤長第跡 荏柄天神の大門路より、西の畠地をいふ。【東鑑】に、胤長が屋地、荏柄の前に有て、御所の東に隣り、昵近の士各々是を望み申す。然るに今日、義盛は五條局に附て愁申ていふ、故將軍家の御時より、一族が領所收公の時、いまだ他人に賜らず。彼地は宿直祗候の便あり。拜領せんことを申す。忽是を達しければ、殊に喜悦のおもひをなす。然處、翌四月二日、此地を義時に賜ひける。行親・忠家兩人にわかち與へ、義盛が代官久野谷彌次郎を追出す。是義盛が、憤りを含み、逆心の一ケ條となれりといふ。

 

ぐらいは書くべきところである。

「建保元年三月」建暦三年三月。同年十二月六日に建保に改元されている。

「陸田」「りくでん」と読む。畑のこと。]

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅱ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

二、芭煮俳句の特色

 芭蕉の説く所はしばらく置いて芭蕉の句に即して彼の特色とする所を見てゆく事にしよう。

 芭蕉は旅の詩人と稱せられてゐるが彼の佳句はなる程多くは旅に於てなされたのである。其故今彼の句の特色を説くに際しては便宜上彼の三大紀行と稱せらるゝ野ざらし紀行(四十一歳―四十二歳)芳野紀行(四十四歳―四十五歳)奧の細道(四十六歳)に於て彼が自ら記載せる句からのみ材料を取る事にしたい。

 和歌が主觀を調べに託してのべるものであるとされたのに對し俳句は客觀の姿を借りて主觀をのべる所の具象詩であると觀念されて來た。ことにホトトギス派の如きは俳句より主觀的語句を出來るだけ排除し客觀寫生俳句なるものを標榜して來たのである。此等のホトトギス派及び其の亞流に對抗して「客觀よりも主觀を尊重すべき事花鳥風月よりも社會の實生活を尊重すべき事」を説いて勃興したのが新興俳句である。

 主觀尊重、生活尊重と云ふ限に於ては新興俳句運動は一種の「芭蕉の原始にかへれ」の運動と目する事も出來ると思ふ。

 芭蕉を單なる花鳥風月の徒と見てはいけない。唯芭蕉は天性の個人主義者であり、社會的自覺がなかつただけである。――是は當時の人としては餘儀ない事であつた。自己の生活を重んじ自己の生活に即した句――生活感情の句をつくると云ふ點に於ては芭蕉は何人にもひけをとらないのである。「句と我とを一にせよ」「句身一體」と云ふ事は芭蕉はよく説きもし自ら實踐もしてゐた。

 句を生活よりひき離し花鳥風月のものとしたのは芭蕉でなく蕪村なのである。

 この事は別の機會に説くとして、主觀尊重の芭蕉を説きたい。芭蕉には客觀の勝つた句より、主觀の勝つた句が遙かに多い事は勿論の事であるが、――他の俳人に是を見ずして芭蕉のみに是を多く見るのは――呼びかけの俳句、自他に對する願望命令の句である。主觀觀の最もあらはなる吐出である。三大紀行から「よびかけの句」を拾つて見よう。

 

○砧打つて我に聞かせよや坊が妻

 我衣(きぬ)に伏見の桃のしづくせよ

            (以上野晒紀行)

○旅人と我名呼ばれん初しぐれ

 いざ行かん雪見にころぶ處まで

 此の山のかなしさつげよ野老掘

 よし野にて櫻見せうぞ檜木笠

○若葉して御目の雫ぬぐはばや

            (以上芳野紀行)

○野を横に馬牽きむけよほとゝぎす

這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲

塚も動け我泣く聲は秋の風

 秋涼し手毎にむけや瓜茄子

           (以上奧のほそ道)

 

以上此處に記載しなかつた句まで加へると二十數句の多きに及んでゐるが、特に○印のものは佳句と思ふのである。この中で

 

 這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲

 

の句は社會的にさほど、もてはやされてゐないが、他の語句に劣らない佳句である。芭蕉は「調はずんば舌頭に千轉せよ」とリズムの重んずべき事を教へてゐる。

 芭蕉に於いては俳句は和歌と同樣「調ぶる」ものであつた。

 即ち、俳句は十七音を以て構成された音樂であつたのである。この句の中から下の調べの可憐な事をみよ。

    HAI IDEYO

    KAIYA GA SITANO

    HIKI NO KOE

 I音とO音との微妙な配置から生ずるこの句のリズムの可憐さは、幾度誦して飽かないものがある。恐らくリズムの點から云へば芭蕉俳句中の名句たるを疑はないのである。

 芭蕉は主情の詩人であり象徴の詩人である。而も彼の主情はしらべを通しての主情であり、しらべを通しての象徴であつた。當今俳壇に於て象徴を口にしつゝ而もしらべの何たるかを知らず、佶屈贅牙なる俳句をつくり自ら高しとせる如き者とは雲泥の差があるのである。

 さて上記○印の句は芭蕉の理想とせる 「さび、しをり」を得てゐるかと云へば何れも「さび、しをり」をそなへてゐるのである。

 たとえば蟾の句の如きも墨色の世界――而も一脈の生命のはやなぎのある墨色の世界 ――讀む者をして自然の生命の閑寂の殿堂へ奧深く誘引しないではをかないつやを含んだ墨繪の世界である。この讀む者を誘引してゆく力あるのがしをりの句である。さびしをりを完全に具へた佳句と云へよう。

 ○印の句中、只

 

 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 

の句は「さび、しをり」と云ふには餘りに強烈なる句である。「さび、しをり」といふ念慮をも斷つ絶對の境地に發する叫びの句と云ふべきであらう。

[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。

 

・「芳野紀行」「笈の小文」の別名。現在知られる紀行句文集「笈の小文」には当初、題名がなく、芭蕉の死後、近江蕉門の乙州がかくつけたもので、他にも「卯辰(うたつ)紀行」「大和紀行」「大和後の行記」「須磨紀行」などと呼ばれたが、現在は「笈の小文」以外、殆んど聴かれることがなくなった(なお、「笈の小文」というのは、「猿蓑」を撰した頃に芭蕉自らが厳選した理想的撰集を企画、その草稿の名称に芭蕉がつけたものが「笈の小文」で、全く別のものであった。かくつけたのは乙州の私意である、と中村俊定校注岩波文庫「芭蕉紀行文集」及び新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の解説などにある。何故、多様な別名が残るかというと、乙州のこの私意に対して批判的な蕉門門人らが再編する際に以上の別名を附したことによるのである)。各種記載などで吉野巡りが主体であることから「吉野紀行」の標記でも載るのであるが、漢字表記は厳密には鳳作が記す通り、「芳野紀行」(湖中ら編に成る「俳諧一葉集」(いちようしゅう・文政一〇(一八二七)年刊)に初出する標題)が正しい。

 

・「句と我とを一にせよ」「句身一體」例えば、最晩年の元禄七(一六九四)年一月二十九日附芭蕉高橋怒誰(どすい:本名、高橋喜兵衛。膳所に於ける芭蕉のパトロンの一人で幻住庵を芭蕉に提供した膳所藩重臣菅沼曲水の弟で、兄弟ともに近江蕉門の重鎮であった。)宛書簡に以下のようにある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」のものを正字化して使用させて戴いた。読みは私が歴史的仮名遣で附した)。

   *

一、御修業相進(ごしゆげふあひすすみ)候と珍重(ちんちやう)、唯(ただ)小道小枝(せうだうせうし)に分別動(ふんべつうごき)候て、世上の是非やむ時なく、自智(じち)物(もの)をくらます處、日々より月々年々の修業ならでは物我一智(ぶつがいつち)之場所へ至間敷存(いたるまじくぞんじ)候。誠(まことに)御修業御芳志賴母敷(たのもしき)貴意(きいの)事に令ㇾ感(かんぜしめ)候。佛頂和尚も世上愚人に日々聲をからされ候。御噂なども適々出申(たまたままうしいで)候。猶追而可申上候(なほおつてまうしあぐべくさふらふ)。此節書狀取重(とりかさなり)候。 頓首

    正月廿九日                    はせを

  怒誰雅丈

      貴存

   *

「物我一智」は禅語で物我一如(いちにょ)・物我一致などと同じい。自他の境目がない精神状態、即ち、菩薩行を修した境界(きょうがい)を指し、客観と主観が一つとなることをいう。「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、後、宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長で芭蕉よりも二十一年も長生きした。「奥の細道」では那須の黒羽の雲厳寺にあった佛頂の修業跡を訪ねて「啄木鳥も庵は破らず夏木立」と詠んでいる(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立』を参照されたい)。「雅丈」芭蕉がしばしば用いる脇付。函丈(かんじょう)を洒落れてひねったものか。函丈は「礼記」曲礼上の「席の間丈を函(い)る」に由来し、師から一丈も離れて座る意。通常は師又は目上の人に出す書状の脇付である。彼が目上であるかどうかは不詳。藩士である彼に敬意を示したものと思われる(尤も芭蕉は年下の門人で俳諧師であった去来などにもこの脇付を用いている)。「貴存」も書簡の宛名に添えて敬意を示す脇付。

 また、土芳の「三冊子」に芭蕉の言として(頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」であるが、「師の詞の有しも」は原文が「師の詞のおりしも」であるのを、やや腑に落ちない(「折しも私意を離れよ」でも意は通るが)ので頴原氏の注によって別本の記載に変更した。読みは私が歴史的仮名遣で附した)、

   *

師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百變百化す。しかれどもその境、眞草行(しんさうぎやう)の三ツをはなれず。その三ツが中にいまだ一二をも不盡(つきず)と也。生前折々のたはむれに、俳諧いまだ俵口(たはらぐち)をとかずとも云出られし事度々也。高くこゝろをさとりて俗に歸るべしとの教なり。常に風雅の誠をせめとりて、今なす處俳諧に歸るべしと云(いへ)る也。常(つね)風雅にゐるものは、思ふ心の色、物となりて句姿定(さだま)るものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば外に詞をたくむ。是則(これすなはち)常に誠を勤(つとめ)ざる心の俗なり。誠を勉むるといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知るべし。その心をしらざれば、たどるに誠の道なし。その心を知るは、詩の詠草の跡を追ひ、よく見知(みしり)て、即(すなはち)我(わが)心の筋押直し、爰に趣(おもむき)て自得するやうにせめる事を、誠を勤(つとむ)るとはいふべし。師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行(ゆく)と心得がほにして私(わたくし)の道を行(ゆく)事あり。門人よく己を押直すべき所也。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞の有しも私意を離れよといふ事也。この習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云は物に入てその微の顯(あらはれ)て情感(かんず)るなり、句となる所也。

   *

とあるのが参考となる。

 

・「砧打つて我に聞かせよや坊が妻」芭蕉四十歳、貞享元(一六八四)年九月中旬、吉野宿坊での吟。「野ざらし紀行」の真蹟復刻である安永九(一七八〇)年版「甲子吟行」では、

 

  ある坊に一夜をかりて

碪(きぬた)打(うち)て我にきかせよや坊が妻

 

と載る。「曠野」や明和版「野ざらし紀行」(明和五(一七六八)年)では中七の音数を合わせて、

 

きぬたうちて我にきかせよ坊がつま

 

とするが私は改悪と思う。但しこれは一説(山本健吉氏)に「曠野」の杜撰な編集に起因するものとも言われる。孰れにせよ、覚悟の字余りの呼びかけにこそ、この句の神髄はある。

 

 

・「我衣に伏見の桃のしづくせよ」貞享二年春三月、「野ざらし紀行」の後半、京都伏見の浄土真宗西岸寺での、当第三世上人宝誉上人(俳号、任口(にんこう)。松江重頼門で芭蕉とは旧知の仲であった。当時八十歳、翌年に入寂した)への挨拶句。

 

  伏見西岸寺任口上人に逢うて

わが衣に伏見の桃の雫せよ

 

桃は伏見の名産。

 

・「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」「芳野紀行」=「笈の小文」の冒頭を飾る名句。芭蕉四十三、貞享四年十月十一日の其角亭での餞別句会の世吉(よよし:百韻の初折と名残の折とを組み合わせた四十四句からなる連句形式。)の発句であった。「笈の小文」にはその脇句も引いて、

 

  神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、

 

  旅人と我名よばれん初しぐれ

   また山茶花(さざんくわ)を宿々に(やどやど)して

 

磐城(いはき)の住(ぢゆう)、長太郎といふ者、この脇を付けて、其角亭におゐいて關送りせんともてなす。

 

と載せる。「長太郎」は岩城国平(たいら)藩(現在の福島県いわき市)藩主内藤義概(よしむね)の次男義英(俳号、露沾(ろせん)。「笈の小文」ではこの直後にその露沾の餞(はなむけ)の句と彼の屋敷での餞別会が描出される)の家臣井手由之(ゆうし)。「千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、

 

  はやこなたへといふ露の、むぐらの宿は

  うれたくとも、袖をかたしきて、御とま

  りあれやたび人

たび人と我名よばれむはつしぐれ

 

と載り、この前書は謡曲「梅ヶ枝」(世阿弥作。管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る)の一節を引いたもので、「千鳥掛」原本には謠本通りの胡麻点がつけられてあるという。参照した山本健吉氏「芭蕉全句」には、『能の廻国の行脚僧の姿を自分に擬している気味合があり、句の姿そのものからも、芭蕉の心躍りが感得できる』と評されておられる。

 

・「いざ行かん雪見にころぶ處まで」貞享四年十二月三日、名古屋本町の書肆風月堂の主人夕道(せきどう)の亭での作と推定される。初案は真蹟詠草などにある、

 

  書林風月と聞きし其名もやさしく覺えて、

  しばし立寄りてやすらふ程に、雪の降出

  でければ

いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで

  丁卯臘月(ていばうらふげつ)初、夕道

  何がしに贈る

 

で、「笈の小文」や「曠野」で鳳作の引いた、

 

いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで

 

に改作した後、更に、「花摘」(其角編・元禄三(一六八九)年奥書)の、

 

いざさらば雪見にころぶ所迄

 

の形に決したものと推定されている。どの句形も私の偏愛する句である。

 

・「此の山のかなしさつげよ野老掘」貞享五年(九月三十日に元禄元年に改元)二月中旬、伊勢朝日山の西麓にあった菩提山神宮寺を訪れた際の吟。この寺は八世紀、聖武天皇の勅願によって行基が開山した古刹であったが、当時は既に荒廃していた(現存しない。個人サイト内の「伊勢への道」の「伊勢の寺」の中で、まさに「野老(ところ)掘」りに「かなしさ」を「つげよ」と声掛けしたくなる、「此の山の」現状が見られる)。「野老」は単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。「~ドコロ」と呼ばれる多くの種があるが、特にオニドコロ Dioscorea tokoro を指すことがある。参照したウィキの「トコロ」によれば、食用のヤマノイモなどと同属だが、『食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ』又はヒメドコロDioscorea tenuipes の栽培品種であるエドドコロ(学名はヒメドコロに同じ)が栽培されていた、とある。この句も私の好きな一句である。

・「よし野にて櫻見せうぞ檜木笠」「笈の小文」から引く。

 

 彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しをり)となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の 、いせにて出(いで)むかひ、ともに旅寐(たびね)のあはれをも見、且は我爲(わがため)に童子となりて、道の便りにもならんと、自(みづから)万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有(あり)。いでや門出(かどいで)のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。

    乾坤無住同行二人

 

よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠

 

よし野にてわれも見せうぞ檜笠  万菊丸

 

「万菊丸」は若衆道に興じた坪井杜国の仮りの名である。「かのいらご崎にてちぎり置し」については、私の芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねるを参照されたい(但し、分量膨大に附き、ご覚悟あれかし。急がれる方は最後の注部分のみをご覧になられることをお勧めする)。

 

・「若葉して御目の雫ぬぐはばや」貞享五年四月九日頃、奈良唐招提寺に於いて天平期の傑作として知られる日本最古の肖像彫刻鑑真和上の像を拝した折りの非常に美しい一吟である。「笈の小文」から引いておく。

 

 招提寺鑑眞和尚來朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御目(おんめ)のうち鹽風吹き入りて、つひに御目盲(しひ)させ給ふ尊像を拜して、

 

 若葉して御めの雫ぬぐはばや

 

・「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」評釈

 

・「這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲」私の評釈

 

・「塚も動け我泣く聲は秋の風」私の評釈

 

・「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」私の評釈

 

・「調はずんば舌頭に千轉せよ」「去来抄」の一節。以下に引用する(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」。読みは私が歴史的