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2014/11/10

今日の芭蕉シンクロニティ この道を行く人なしに秋の暮 / 此道を行人なしや秋のくれ / 人聲やこの道かへる秋の暮 / 此道や行人なしに秋のくれ

本日二〇一四年十一月  十日(本年の陰暦では閏九月十八日)

   元禄七年 九月二十三日

はグレゴリオ暦では

  一六九四年十一月  十日

である。芭蕉五十一歳、芭蕉の生涯はこの十八日後に閉じた。――

 芭蕉はこの九月八日、病体を押して郷里伊賀を出立、奈良に一泊して、九日に大阪に着き、高津の宮の洒堂(しゃどう:近江蕉門であったが大阪に移住していた。)亭を宿として大阪俳人らと交流していた(後に大阪蕉門の之道(しどう)亭へ、さらに十月五日には危篤となって同十二日に最期を迎えることとなる南御堂前花屋仁右衛門の貸座敷に移っている)。この大阪行は膳所の正秀らの懇願によって、洒堂と之道との不和を調停することが主たる目的であった。芭蕉のそれは見た目には成功したかように見えたものの、実際には不調に終わった(以下に示す書簡にもそうした雰囲気に嫌気がさした芭蕉の本音が現れている)。加えて芭蕉の病状は思わしくなく、この二十日頃まで毎晩、悪寒と頭痛に悩まされ続けたが、この二十一日以降はやや小康状態を取り戻していた。この二十三日に認めた窪田猿雖(えんすい)・服部土芳宛(連名。二人連名で来た書簡への返礼)の書簡(注で総て掲げた)が残り、そこに以下の句が載る。

 

この道を行く人なしに秋の暮

 

この句は「淡路島」(諷竹(ふうちく)=之道)編・元禄十一年刊)には、

 

此道(このみち)を行人(ゆくひと)なしや秋のくれ

 

と載る。更に、二日後の九月二十五日附曲水宛書簡では書簡中で「この道を行く人なしに秋の暮」の改案の部分案として、

 

人聲(ひとごゑ)やこの道かへる秋の暮

 

とを示している(句の形でではない。)。この句形は成句の形で「笈日記」や真蹟に残る。

 そして、その翌日の九月二十六日、大坂新清水(きよみず)の茶屋に於いて和田泥足(でいそく)が催した半歌仙の発句では、この「人聲や」の句形と、知られた、

 

  所思

此道や行人なしに秋のくれ

 

の句形を示し、一座の者にその選択を任せた(前書「所思」は「笈日記」のもの)。山本健吉「芭蕉全句」(講談社学術文庫二〇一二年刊)によれば、するとその場で「この道や行くひとなしに と獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半(さふらはん)」ということで「此道や」に決まった、とある(評言を述べた人物は山本氏当該書には記されていない。引用部は恣意的に正字化した)。



Miti

      (撮影:矢口七十七氏)

[やぶちゃん注:窪田猿雖(意専)は本名、窪田惣七郎。猿雖は俳号で意専は法名。伊賀上野の門人で内神屋(うちのかみや)という屋号で手広く商いを行っていた富豪であり、芭蕉の信頼が厚く、土芳に次ぐところの伊賀蕉門の重鎮であった。以下、初案初出である同書簡を示す(底本は富山奏校注「芭蕉文集」(新潮日本古典文学集成昭和五三(一九七八)年刊)を用いたが、恣意的に正字化した)。

 

先日、御連翰(ごれんかん)かたじけなく、御無事のよし珍重に存じ奉り候。拙者も、そこもと生壁(なまかべ)さし出で候ところ、參着以後、毎晩震ひ付き申し候て、やうやう頃日(けいじつ)、つねの通りに罷りなり候。ここもと、おつつけ立ち申すべく候。長居無益がましく存じ候て、早々看板破り申すべく候。隨分人知れずひそかに罷り在り候へども、とかくと事やかましく候て、もはや飽き果て候。

[やぶちゃん字注:以下は、底本では二行目以降が一字下げ。]

一、兩吟感心。拙者逗留の内は、この筋見えかね、心もとなく存じ候ところ、さてさて驚き入り候。「五十三次」前句(まへく)共秀逸かと、いづれも感心申し候。そのほか珍重あまた、總體(そうてい)「輕(かろ)み」あらはれ、大悦(たいえつ)すくなからず候。委細に御報申したく候へども、いまだ氣分もすぐれず、なにかと取り紛れ候あひだ、伊勢より便(びん)次第に、細翰を以て申し上ぐべく候。右の氣分ゆゑ、發句もしかじか得つかまつらず候。

 

   九日(ここのか)、南都を立ちける心を

 菊に出でて奈良と難波(なには)は宵月夜(よひづきよ)

 

    秋夜(しうや)

秋の夜を打ち崩(くず)したる咄(はなし)かな

 

    秋暮(しうぼ)

この道を行く人なしに秋の暮

              ばせを

   二十三日         (書判)

 意 專 樣

 土 芳 樣

   いづれもかたへ御心得、殊(こと)には半殘子(はんざんし)たのみ奉り候。

 

 以下、書簡に注する(底本の富山氏の注を参考にさせて戴いた)。

・「そこもと」そちらの伊賀で。

・「生壁」伊賀滞在中に顔面に生じた吹き出物を塗り立ての乾いていない壁に譬えた。

・「早々看板破り申すべく候」(このなんやかやと五月蠅い大阪は)さっさと立ち去ろうと存じます(「看板」は俳諧師の点興行に譬えた)。芭蕉を迎えた大阪俳壇の喧騒を指すが、「飽き果て候」という言辞を見ても、同時に調停が不調に終わった洒堂・之道の根深い対立にもほとほと嫌気がさしていたことを感じさせる謂いである。

・「兩吟感心」来信に記されてあったと思われる猿雖と土芳の両吟連句。以下、それらに芭蕉が晩年目指した「軽み」の風が、その連句に於いて初めてそれも実に鮮やかに表われていることを手放しで褒め称えているのである。

・「伊勢より便次第に」底本の富山氏の注によれば、大阪と伊勢神宮を結ぶ近道が長谷(現在の奈良県桜井市初瀬(はせ))と名張(三重県名張市)を越えて行く街道筋で、そこを行き来する丁度良い飛脚便があり次第、という意である。

・「菊に出でて奈良と難波は宵月夜」奈良出立と大阪着は九月九日重陽、菊の節句であった。

・「秋の夜を打ち崩したる咄かな」本書簡を認める二日前の九月二十一日の夜、車庸(しゃよう)亭で興行された車庸・洒堂・游刀(ゆうとう)・諷竹(之道)・惟然・支考による七吟半歌仙(しかしこれは歌仙を半ばで打ち切ったもののようにも思われる)の発句。この夜会こそがまさに対立する二人の不和を和ませようとするものであったのだが、実は十八句の内、之道は五句目の一句しか詠んでいない。芭蕉の――秋の夜の寂寥を一気に「うち崩す」ようなこの賑やかな夜の宴――という表面上の謂いが、「崩す」という不穏な響きとともに、逆に決裂している二人の間の深い底知れぬ闇と、その場の秋の一層の心の侘しさを厭が上にも感じさせる荒涼とした句として、私はずっとこの句を読んできた(この注については安東次男「芭蕉百五十句」を参考にした)。

・「半殘子」伊賀上野の古くからの門人である山岸半残(父子ともに門弟で同号を名乗った)。

 

 本句群は、再度、並べて見ると、

 

1 この道を行く人なしに秋の暮

     ↓

2 此道を行人なしや秋のくれ

 或いは

2´人聲やこの道かへる秋の暮

     ↓

3 此道や行人なしに秋のくれ

 

という推敲過程を経たと推定出来る。「1」から「3」へとダイレクトに繋がらないところが、芭蕉が心血を注いだ苦吟であることがかく並べてみるとよく分かる。

 「1」「2」の「を」では、作者の寂寥感の孤高さが完遂されない。

 「2」の中七での切れ字は、実際に詠じてみると、この道の荒涼たる静寂が如何にも間延びしてしまう。

 「2´」は「1」「2」の句の立ち位置から半歩、外縁へ出て、そこに人との繋がりを示す声のみを響かせることによって、対位法的に主人公の孤独な姿を描き出しているが、如何せん、前句にあった凄絶な気配が全く掻き消えてしまっている。山本健吉氏はこの「人聲」に『人声の発散する暖い人間関係の場が思い描かれて』おり、本句には『芭蕉の人懐しさの気持ちが』こもっているとされるが、私はそうした女々しさを、いささかもこの句からは感じとれない(原句を読んでしまえばそうした後戻りのようなことは決して出来るものではないということである)。芭蕉はそんなお人好しではない(「軽み」の観点からは、そうした句作りの可能性も排除は出来ないとは思うが)。そもそも芭蕉がこの「2´」を敢えて「3」と並べて座の連中に示した意図は、寧ろこの句の動機には、

――諸君らの煩わしい「人聲」ゆえに――私は荒涼たる「秋のくれ」――独り「この道をかへる」のだ――

という感懐があるのだということを、確信犯の意志を以って暗に示したものではなかったかと感じている。

 芭蕉はもとより「2´」と「3」を併置出来るようなものとして考えていたはずがないと私は信ずるからである(富山氏は「2´」を『その姿を描かずして、その「人声」のみを言うところ、やるせない寂寥感が胸にせまってくる。やはり、この句も決して素朴な実景描写の作ではない』と評されており、寧ろ、私はこの富山氏の評の方なら支持するに足るものと考えている)。因みに、この二十六日の座にも洒堂と之道は加わっている。

 

 本句(決定稿「3」)は芭蕉の最晩年の一つの孤高の境地を示している。

 しかもそれは――俗界のあらゆる「人」に対する、激しい失望に裏打ちされている――のではなかろうか?

 最早、そこでは、彼がさんざん提唱した「軽み」の境地さえも遙かに「軽」く通り過ぎて――実景ならざる精神の荒涼たる秋暮の曠野を――独り――たった独りゆく――旅人の背中だけが――見えるのである――]

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