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2014/11/03

北條九代記 卷第六 二位禪尼逝去

      ○二位禪尼逝去

同七月の初比より二位禪尼、心地、例ならず惱み給ふ。神社佛寺の御祈禱樣々に營み、和丹(わたん)南流の醫師參集(まゐりつど)うて、補瀉温涼(ほしやううんりやう)の劑(ざい)を投じ、君臣佐使(くんしんさし)の功を假(か)るといへども、鍼灸薬石の效(しるし)は露計(ばかり)も是(これ)なし。同じ十二日、遂に逝去し給ひけり。春秋六十九歳。法名をば如實(によじつ)とぞ號しける。右大將賴朝卿の妻室、北條時政の娘、前將軍賴家、右大臣實朝公の御母なり、賴朝卿薨去の後、天下の後見として政務の進退、皆、此禪尼の才智を以て危き世を執靜(とりしづ)め。諸人皆恐隨(おそれしたが)ひ、尼將軍と申せしが、無常の使(つかひ)は威勢權貴(ゐせいけんき)も選ぶ事なく、智謀奇才も片去(かたさ)らず。高きも卑しき遁るゝ者は更になし。葬禮は陸奥守義時の墓の後(うしろ)、新御堂の傍(かたはら)に送り納め參(まゐら)せ、一堆(たい)卵塔の下に埋れて名のみ殘らせ給ひけり。淨衣(じやうえ)の御送(おんおくり)、相州、武州を初て、大名、小名、數を盡して出でられけり。鎌倉中、物の音を揚げられず。打潛(うちひそま)りて靜(しづか)なり。其比、世に云習(ならは)しけるやうは、去年十二月、義時の後室、御物思に沈みて、鎌倉に怨(うらみ)深く、伊豆の北條にして、遂に儚(はかな)くなり給ふ。其怨靈、鎌倉に來りて、二位禪尼の御所の女房達、幻に見ける者、恐驚(おそれおどろ)きて絶入(たえい)りける事、度々(たびたび)なり。後には禪尼の目にも見えて、言葉には出だされざりれけれども、内々は御祈禱もおはしけるに、禪尼程なく心地煩(わづらひ)出給ひ、今、かく逝去し給ふ事もこの故なりとぞ沙汰しける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の元仁元(一二二四)年十二月二十四日及び「吾妻鏡脱漏」の嘉禄元(一二二五)年七月十一日・十二日などの記事に基づく。病的な女性嫌悪の筆者は、そうでなくても為政者として不適格者と断じていた政子の死を、ここでは直近に伊賀氏の変で幽閉され、伊豆の北条で亡くなっていた北条義時後妻伊賀の方の怨霊譚として確信犯で結びつけている(彼女の没年は不詳であるが、この前年の貞応三(一二二四)年八月に政子の命によって伊豆北条へ配流となった後、以下に見るように四ヶ月後の十二月二十四日には危篤となったとする知らせが鎌倉に届いており、その直後に死去したものと推測されている)。如何にもな作りで、どちらかと言えば政子好きの私には、やや不快な書き振りである。最後に示す「吾妻鏡」の叙述との大きな隔たり(呂后は問題があるが、何より神功皇后に並べんとしている点に着目されたい)をよくお読み戴きたい。

「和丹南流の醫師」底本頭書に『和丹――和氣氏丹波氏』とある。「和氣氏」は前権(さきのごんの)侍医和気定基、「丹波氏」は丹波頼経(良基)。以下に見るように、「吾妻鏡」に療治を行った医師として登場する。

「補瀉温涼の劑」下痢を押さえたり、また、体の気を温めたり冷ましたりする薬物。

「君臣佐使の功を假る」増淵氏の訳では、薬剤の効果を指すものとして、『主薬と補助薬の効力を期待して用い』ると訳しておられる。

「片去らず」どちらか一方に因果応報として現わすようなことはない、という意味。

「葬禮は陸奥守義時の墓の後、新御堂の傍に送り納め參せ、一堆卵塔の下に埋れて名のみ殘らせ給ひけり」「新御堂」は明王院の東側にあったとされる大慈寺(建暦二(一二一二)年に実朝が父頼朝のために創建した寺院で、勝長寿院を「大御堂」と呼称したのに対して「新御堂」と呼ばれた)で、葬儀が行われた場所としてはおかしくないが、「吾妻鏡脱漏」には「新御堂」で荼毘に付したとはっきり記されてあるのでこの叙述は根拠が不明。私は葬送も埋葬も勝長寿院と考えており、この叙述には肯んじ得ない。現在、当該地に政子の墓と称するものもない。但し、私が恋愛関係を深く疑っている伝大江広元の墓と称するものが、まさにこの大慈寺の近くの尾根に存在しており、そういう観点からみるとこの「新御堂」という謂いは、必ずしも誤伝として一蹴する気になれないというのも本音ではある。因みに現在の寿福寺にある政子の墓と称するものは並ぶ実朝のそれ(これも首なしの遺体はやはり勝長寿院に葬られている)ととともに単なる供養塔に過ぎない。

「相州」北条時房。

「武州」北条泰時。

 以下、「吾妻鏡」を示す。まずは伊賀の方の危篤の報である元仁元(一二二四)年十二月二十四日の条。

 

〇原文

廿四日乙酉。晴。伊豆國北條飛脚到來。右京兆後室禪尼。去十二日以後病惱。自昨日巳刻及危急之由申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿四日乙酉。晴る。伊豆國北條の飛脚、到來す。右京兆が後室禪尼、去ぬる十二日以後、病惱、昨日、巳の刻より危急に及ぶの由、之を申す。

・「巳の刻」午前十時頃。

 

続いて、「吾妻鏡脱漏」を見る。政子は――まさに(これは洒落ではない。おお真面目なのである)この嘉祿元(一二二五)年六月十日の大江広元の逝去の前後から急激に体調を悪化させている。まず、死去二日後の六月十二日の条に『二位家御不例自去七日御増氣。』(二位家の御不例、去ぬる七日より御増氣(ぞうき)。)とあり、六月十六日に至っては『辰刻。二品御絶入。諸人成群。然而即令復本御。遂日御増氣之間。』(辰の刻〔午前八時頃〕、二品、絶入り御(たま)ふ。諸人、群を成す。 然れども、即ち、本に復せしめ御ふ。)という病態となっている(この直後、に康を取り戻したかに見える政子は、かねて新築した新居への転居を強行している。私はこここそ、政子が広元と心おきなく二人して住まうことを念頭において建造した秘密の蜜の館であったのではないかと思っている)。以下、「吾妻鏡脱漏」嘉禄元(一二二五)年七月の政子葬送の記載まで総て見る。

 

〇原文

六日乙丑。晴。前權侍醫和氣定基〔定經男〕自去夜爲二位家御療治參候。是日來賴經朝臣奉加療治之處。御不例之體。其憑不御之間。匪治術之所及由。依辭申也。

八日丁卯。晴。辰刻。二品東御所令渡御給。是御違例既危急之故也。

十一日庚午。晴。丑刻。二位家薨。御年六十九。是前大將軍後室。二代將軍母儀也。同于前漢之呂后令執行天下給。若又神功皇后令再生。令擁護我國皇基給歟云々。

十二日辛未。霽。寅刻。二品家御事有披露。出家男女濟々焉。民部大夫行盛最前遂素懷畢。戌刻。於御堂御所之地而奉火葬。御葬事者。前陰陽助親職朝臣令沙汰。但自身不參。差進門生宗大夫有季云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日乙丑。晴る。前の權の侍醫和氣定基〔定經が男。〕去ぬる夜より二位家の御療治の爲、參候す。是れ、日來(ひごろ)、賴經朝臣、療治を加へ奉るの處、御不例の體(てい)、其の憑(たの)み御(おは)さざるの間、 治術の及ぶ所に匪ざる由、辭し申すに依つてなり。

八日丁卯。晴る。辰の刻[やぶちゃん注:午前八時頃。]。二品、東御所に渡御せしめ給ふ。是れ、御違例、既に危急の故なり。

十一日庚午。晴る。丑の刻[やぶちゃん注:午前二時頃。]。二位家、薨ず。御年六十九。是れ、前大將軍が後室、二代將軍の母儀なり。前漢の呂后(りよこう)に同じく天下を執行せしめ給ふ。若し又、神功皇后の再生せしめ、我が國の皇基を擁護をせしめ給ふかと云々。

十二日辛未。霽る。寅の刻[やぶちゃん注:午前四時頃]。二品家の御事、披露有り。出家の男女、濟々(せいせい)たり[やぶちゃん注:大勢いた。]。民部大夫行盛、最前に素懷を遂げ畢んぬ。戌の刻[やぶちゃん注:午後八時頃。]、御堂御所の地に於いて火葬し奉る。御葬の事は、前の陰陽の助親職(ちかもと)朝臣、沙汰せしむ。但し、自身は參らず。門生の宗の大夫有季を差し進ずと云々。]

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