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2014/11/22

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (中)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである。

 芭蕉は幻住庵記(元祿三年、四十七歳)に於て自ら『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』と述べてをり、芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり何れも芭蕉が身體虛弱であつたことを立證してゐる。

又、去來抄には、

『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』

とあり、彼が胃腸或は痔の病があり、すこぶる長雪隱であつた事を物語つてゐる。

 彼は消化器系統が弱かつたけれども酒も煙草も相當たしなんでゐた。

 

 飮みあけて花いけにせん二升樽

 たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾

 

 〇〇して彼が五十一歳にして落命したのも園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた。

 芭蕉は不眠症にも陷りがちであつたやうに思はれる。この事は彼の文章のはしばしや句にも現はれてゐる。

 

■やぶちゃん注

・「芭蕉は又身體虛弱にして特に消化器系統の持病がありしばしば下血したやうである」芭蕉の持病と直接の死因については二〇一三年の陰暦祥月命日の私の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」の評釈で考証したが、ここでその部分を改めてここに再掲しておく。

   *

 芭蕉は九月二十九日夜、激しい下痢症状を起こし、言葉を発することも出来ないほどに衰弱した。翌(この年の九月は小の月)十月一日に下痢二十余度、同二日三十余度、同三日三十余度と重い泄痢症状が持続し、三日には病床に伺候した弟子の手を握って放さず、悪寒と振顫、足先の冷感を訴えた。同五日、駕籠で之道亭から大坂南御堂前花屋仁左衛門の貸座敷に病床を移して、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛らが看病に当たり、また膳所・大津・伊勢などの門人らに危篤の報が告げられた。同六日には、やや小康を得、床から起き上がって庭を見たりしたが、この時、既に憔悴し尽くして顔は枯木のように痩せ衰えていたという。

 芭蕉の死因には諸説があり、当時は九月二十七日の園女(そのめ:彼女の事蹟とこの時詠まれた「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」についてはブログ記事を参照されたい。)邸の句会で供された茸の中毒と噂され、園女や門弟たちもそう信じていたとされるが、芭蕉だけが茸にあたったと考えるのは無理があり、彼の悪寒や頭痛を伴う症状は既にそれに先立つ九月十日晩方(前々日の九月八日に体調不良を押して伊賀を出発、前日に奈良を立って宵に大坂着という強行軍にも着目)から発症しており、それがまた波状的に繰り返し毎晩起っていることからも悪意に満ちた流言に過ぎないと思われる。「松尾芭蕉の病状より、病名を推定してください」というネットの質問に対する回答を参考にすると、一般に彼の命を奪ったと考えられる劇症型の下痢症状は食中毒か赤痢かと言われているものの、単なる食中毒にしては下痢・発熱・悪寒の持続期間が長過ぎること、この元禄二年に大阪では赤痢や腸チフスの流行は見られなかったことから、重度の心身疲労による免疫力低下に由来する、感染力はそれほど強くない感染性の腸炎の可能性か、感染症ではない潰瘍性大腸炎などが疑われているようである。後者についてみると、芭蕉には痔の持病があったが、現代では長い痔と思っていたものが実は潰瘍性大腸炎であったというケースがあって、芭蕉のように症状が収まったり強くなったりする緩解期と活動期が繰り返し起こる病態は潰瘍性大腸炎の所見によく似ているとある。何より接触した人々や看病人に同様の症状が出ていないとすれば、感染性の腸炎よりもこの潰瘍性大腸炎の疑いの方が濃くなる。そうした病態を長年放置し続け、しかも旅や門人間のいざこざに心労を重ねた結果として免疫力が低下、その状態で呼ばれた句会(園女邸に限らず数多い)で食べつけない、胃腸にストレスのかかり易い山海の珍味の類いを食した結果、何らかの菌又はウイルスに食物感染して食中毒に感染、しかしすでに腸の機能が衰えていたため、自然治癒力が働かず、度重なる下痢による脱水と栄養失調による体重減少で衰弱が進み、遂に死に至った――といった推定がリンク先の回答にはある。頗る首肯出来る推論であると私には思われる。

   *

 

・『やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり』「幻住庵記」の末尾の部分に現われる。以下、最終章を総て示す。

   *

 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞(らう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「樂天は五臟の神(しん)を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質(けんぐぶんしつ)の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。

 

  先づ賴む椎(しひ)の木も有り夏木立(なつこだち)

 

   *

・「樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」これは、

――白居易は詩を作るに五臓の気をすっかり使い果たしてしまい、詩聖杜甫はそのために痩せ細ってしまった。彼らに比ぶれば、私ごときは無芸無才にして愚鈍虚弱の性質(たち)ではあるが、それらは大小の差こそあれ、ともに夢、幻しの如きものではなかろうか。――

という謂いで、白楽天の部分は「白氏文集」の五言古詩「思舊」の中の一句「詩役五藏神」(詩は五藏(臟)の神を役す)に基づき、杜甫のところは、李白が律詩に拘泥する杜甫を揶揄して述べたとする詩の一節にある、「別來太瘦生。總爲從前作詩苦」(別來太(はなは)だ瘦生(さうせい)、總て從前に詩を作るの苦の爲なり)に基づく。自己を卑下しつつ、自身の分を弁えた上で、風狂の道に精進せんとする覚悟を述べたものである。

 

・「芭蕉終焉の記たる花屋日記の一節には『芭蕉曰く、我本來虛弱なり、心得ぬ醫師にては藥方も不安心なり木節(芭蕉の門人にして醫道を修めたるもの)は我性を知るものなり、呼びて見せしむべし』とあり」芥川龍之介が「枯野抄」の主素材としたことでも知られる「花屋日記」は、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)のこと。別名「芭蕉翁反古文(ばしょうおうほごぶみ)」「翁反古(おきなほご)」とも呼ぶ。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、偽書である。鳳作が本論を書いた頃には贋作であることはすでに知られていた。鳳作が引用するのは冒頭から直近の日記部の二十九日の条に出る。以下に岩波文庫小宮豊隆校訂「芭蕉終焉記 花屋日記」から引用する(現在、ネット上には本偽作の電子テクスト・データはない。一部に私の読みを歴史的仮名遣で平仮名で附した。片仮名のそれは原著のもの)。

   *

廿九日 芝柏(しはく)亭に一集すべき約諾なりしが、數日打續(うちつづき)て重食(ぢゆうしよく)し給しゆゑか、勞(いたは)りありて、出席なし。發句おくらる。

   秋ふかき隣はなにをする人ぞ    翁

 此夜より翁腹痛の氣味にて、泄瀉(せつしや)四五行なり。尋常の瀉ならんとおもひて、藥店の胃苓湯(いれいたう)を服したまひけれど、驗(しるし)なく、晦日(みそか)・朔日(つひたち)・二日と押(おし)移りしが、次第に度數重りて、終(つひ)にかゝる愁(うれひ)とはなりにけり。惟然・支考内議して、いかなる良醫なりとも招き候はんと申(まうし)ければ、師曰、我(われ)本元(もともと)虛弱なり。心得ぬ醫にみせ侍りて、藥方いかゞあらん。我(わが)性は木節ならでしるものなし。願くは木節を急(とみ)に呼(よび)て見せ侍らん。去來も一同に呼(よび)よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。夫(それ)より兩人消息をしたゝめ、京・大津へぞつかはしける。しかるに之道(しだう)が亭は狹くして、外(ほか)に間所(まどころ)もなく、多人數(たにんず)入(いり)こみて保養介抱もなるまじくとて、其所此所(ソココヽ)たちまはり、われしる人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衞門(みだうまへみなみきゆうたらうまちはなやにざゑもん)と云(いふ)者の、裏座敷を借り受けり。間所も數ありて、亭主が物數奇(ものすき)に奇麗なり。諸事勝手よろし。其夜すぐに御介抱まうして、花屋に移りたまひけり。此時十月三日也。(次助兵衞記)

   *

 語注を附す。

●「芝柏」:根来(ねごろ)芝柏。堺の商人。この元禄七(一六九四)年九月二十九日の夜、芭蕉の歌仙の俳席が大坂にあった芝柏亭で開催される予定であったが、体調を崩した芭蕉はこれに参加出来ず、前夜に作った名吟「秋ふかき」の発句だけを俳莚に届けた(この俳莚は流会になったものと推定される。リンク先は私の評釈)。

●「泄瀉」:下痢。漢方では非感染性消化不良及び消化機能低下を主因とした下痢、「下り腹」をいう(対する「痢疾」(りしつ)は、「しぶり腹」を主訴とするような感染性消化器疾患を主因とする下痢症状をいう)。

●「胃苓湯」:製薬会社の公式記載に、漢方の古典「古今医鑑」(こきんいかん)の「泄瀉門」(せっしゃもん)に収載されている古処方で、胃がもたれて消化不良の気味に処方する「平胃散」(へいいさん)と、喉が渇いて尿量が少なく、吐き気や浮腫みなどの症状に処方する「五苓散」(ごれいさん)とを、合方(がっぽう)したもので、水瀉性の下痢や、嘔吐の症状と口の渇き・尿量の減少といった症状を伴う人の、冷え腹・腹痛・急性胃腸炎・暑気あたり・食あたりに効果があるとある。

●「木節」:望月木節(もくせつ)。近江蕉門の一人。医師として末期の芭蕉の主治医を兼ねた。事実、芭蕉自らが彼の処方や治療を望んだとされている。

●「之道」槐本之道(えのもとしどう 万治二(一六五九)年?~宝永五(一七〇八)年)。本名久右衛門。大坂道修町(どうしゅうまち:現在の大阪府大阪市中央区道修町。薬種問屋街。当時、清やオランダから入った薬は一旦、この道修町に集められてその後に全国に流通していた。それらの薬種を一手に扱う「薬種中買仲間」がここに店を出していた。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが多い)の薬種問屋伏見屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。この元禄七年九月九日に伊賀から大坂に着いた芭蕉は、最初、酒堂(しゃどう:浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)近江膳所の医師で、菅沼曲水と並ぶ近江蕉門の重鎮であったが、この頃、大坂に移住していた)亭に入るが、後に之道亭に、その後、花屋仁左衛門方へと移っている。酒堂と之道はこの頃激しく対立しており、芭蕉は之道の同輩であった膳所の正秀らの懇請を受けて両者の和解を策すため、病体を押してこの大阪へ出向いていた。和睦は一応成功したように見えたが、実際には失敗であった。それを芭蕉も察していた事実は芭蕉終焉時の心理状態を察する上では非常に重要である。

●「御堂前南久太郎町」:現在の大阪市の中心的な産業地区である大阪府大阪市中央区船場(せんば)にある久太郎町通(どおり)。中央大通(おおどおり)が整備されるまでは南久太郎町通と呼ばれた。現在は大阪府大阪市中心部を南北に縦断するである国道御堂筋に面して大阪センタービルや「御堂」として知られる真宗大谷派難波別院などがある(厳密に言うと「御堂」は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が沿道にあることに由来する)。

●「花屋仁左衞門」:一般には宿屋とされるようであるが、事実は「花屋」とあるように御堂に花卉を納める出入りの花屋であった。その「裏座敷」とは花屋所有の貸座敷のことを指す。

●「次助兵衞」:伊賀上野から芭蕉が伴って来た下僕。一説によれば、彼の母は芭蕉の内縁の妻のような存在であった、この三月前に深川芭蕉庵で亡くなった寿貞(じゅてい ?~元禄七年六月二日)の連れ子であったともされる。ところが別説では、治郎兵衛は実は芭蕉が若き日にこの寿貞との間にもうけた実の子であったという驚天動地の説、また、芭蕉の甥桃印との不倫によって出来た子という説(私はこの説を一番信じている)もある不思議な人物である。

 

・「去來抄には、『翁、ある方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出しけるに、手を洗ひて呟ひて曰人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり。』とあり」「去来抄」を出典とするのは誤り。これは宝井其角の撰になる元禄七年刊の芭蕉七回忌追善集「三上吟」(さんじょうぎん)の、その冒頭に出る一節。今泉準一氏の『「三上吟」について』(明治大学教養論集百五十六号)のPDFデータより正字化して示す(熟語記号のダッシュは省略した)。今回、私自身初めて読んだ(下線はやぶちゃん)。

   *

 三上吟      懷舊のことは

先師道上の吟は馬夫ともか覺えて都鄙にわたり枕上の吟は所々の草庵に殘りて門葉(もんえふ)のかたみとたしなめりことさらに厨上の三吟とかやは和漢風藻の人々の得たる一癖と聞え侍るにや故翁ある御方にて會なかはに席を立て長雪隱に居られけるを幾度もめし出ける時やゝへて手洗口そゝき笑ふて云く人間五十年といへり我二十五年をは後架になからへたる也と元より心事の安樂止靜の觀念にいたりて風骨の吟身を脱肉せられけんこの詞厠上の活法ならすや老かさなり杖朽てさらぬ俤のみ今は義仲寺の柿の葉に埋もれ侍り其塚の上に笠をかけたる事をおもひ出て

  七とせとしらすやひとり小夜しくれ

        七吟をみたしぬ

歌吹海に在てといひし夜の雨も粟津によする浪の音に力を添ておもやりぬ然れとも誹言なけれは草の陰にはことはりかましく秋に堪たる落葉をしのひて牌前の塵をはらふのみ也其日これかれをあつむるにあるは侍官のさはり有旅に住なし病にふし心ンにつかはるゝやからはわたくしならす時移り人かはりて亡人の十指におらるゝ事いつをむかしをよむに廿人也花摘をよんでことに多し文集の酬和をしたへるためし驚神のはしと成て爰に一躰をほとこさんとすこの卷中に僧あり此僧の風狂を精進物になしてうき世の味をしらせかほに嵐雪もケ樣。かやうのすかたと成て候と一しほにとむらひ候へは冬の日のならひとて灯のもとに

        七吟をみたしぬ

[やぶちゃん注:以下略。続く連句及び漢詩は上記リンク先で読める。]

   *

因みに、これを鳳作が「去来抄」所収と誤ったのは、実はこれが芥川龍之介からの孫引きであったからではあるまいか?

 実は鳳作がこれを記す以前に第二次芥川龍之介全集が出ているのであるが、そこに載る芭蕉記」の草稿の中に「諧謔」と標題する一章があり(リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)、以下のように出るからである(内容的にも面白いので、やや長いが総て引いた。下線やぶちゃん)。

   *

 

       諧  謔

 

 芭蕉は世人の考へてゐるほど、もの寂しい人ではなかつたらしい。寧ろあらゆる天才のやうに、頗る諧謔を好んだやうである。かう云ふ事實を證明する例は「去來抄」等に傳へられた逸話の中にも乏しくない

 「我翁の常に歎美し給ひし狂歌あり。のぼるべきたよりなければ鳴神の井戸の底にて相果にける。讀み人知らず。」

 「三河の新城にて支考桃鄰同座せられけるに、白雪問ふ、故事は何と使ひ候て新しめ候やらん。翁曰、ある歌仙に、

      薦かぶり居る北の橋詰

     祐經は武運のつよき男にて

 敵打のあらまし事、かかる形容もありぬべし。多くの年月ねらひけるに果報いみじき工藤なり。建久四年五月二十八日まで生のびぬと可笑がり給ひしが、是さへ形見となる。」

 「翁、ある御方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出けるに、やや經て、手を洗ひ口漱ぎて、咲うて曰、人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり云云。」

 「支考云、嵯峨の落柿舍に遊びて談笑の序に、都には蕉門の稀なることを歎きしに、翁は例の咲ひ咲ひ、我家の俳諧は京の土地に合はず。蕎蓼切の汁の甘きにも知るべし。大根の辛みの速かなるに山葵の辛みの諂ひたる匀さへ、例の似て非ならん。此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、俳諧は今日の平話なることを知らば、始めて落柿舍の講中となりて、箸筥の名錄に入るべしとぞ。」

 のみならず芭蕉の俳諧にも諧謔を弄した句は勿論、地口や洒落の多いことは既に周知の事實である。それも世人の考へてゐるやうに、談林の影響のもとに作つた初期の句ばかりにとどまるのではない。元祿以後の句の中にもかう云ふ例は秋の野山の鶉のやうに散在してゐる。

     景淸も花見の座には七兵衞

       箕輪笠島も五月雨の折にふれたりとて、

     笠島やいづこ五月のぬかり道

     わが宿は蚊の小さきを馳走かな

       まだ埋火の消えやらず臘月すゑ京都を立出でて

       乙州が新宅に春を待ちて、

     人に家を買はせて我は年忘れ

       田家にありて

     麥飯にやつるる戀か猫の妻

       鳳來寺に參籠して、

     夜着一つ祈り出したる旅寐かな

       二月吉日とて是橘が剃髮入醫門を賀す、

     初午に狐の剃りし頭かな

       美濃路より李由のもとへ文の音信に、

     童顏に晝寐せうもの床の山

 殊に最後の「童顏」の句は芭蕉の大阪に示寂した元祿七年の作である。すると芭蕉は死に至る迄、諧謔を好んだと云はねばならぬ。

 晩年の芭蕉は幽玄を愛し、寂び栞を説いた[やぶちゃん注:ここで草稿は途切れている。]

   *

 若しくは別な誰かがやはり誤って伝えたものか。少なくとも原拠の「三上吟」から引いたのなら、こんな間違いはしようはずがないからである。

 

・「飮みあけて花いけにせん二升樽」前出の土芳編「蕉翁句集」に元禄四年の部に入れる。厳密な表記は、

 

呑明(もみあけ)て花生(はないけ)にせん二升樽(だる)

 

で、同じ土芳の「蕉翁全伝」(宝永年間成立か)には、

 

此句ハ尾張ノ人ノ方ヨリ濃酒一樽ニ木曾のうど・茶一種ヲ得ラレシヲひろむるトテ、門人多ク集テの時也

 

と注する(引用は岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠った。なお、『集テの』の「の」は中村氏が補訂されたものである)。

 

・「たのむぞよ寢酒無き夜の紙衾」「紙衾」は「かみふすま」と読む。これは芭蕉の句の中では存疑の部に属するが、その中でもやや確実度が高い句であるよし、中村氏前掲書にある。これは「俳諧 一葉集」の句形で「畫贊」と前書がある。「その濱ゆふ」(素丸編・寛政五(一七九三)年序)では、

 

たのむぞよ寢酒なき夜の古紙子

 

で、「芭蕉袖日記」(素綾(そりょう)編・文化元(一八〇四)年刊)では、

 

たのしさや寢酒なき夜の紙衾

 

となる。

 

・「園女亭にて菌を食べて胃腸を害した結果であつた」「菌」は「きのこ」と読む。俗説乍ら、周囲や園女(そのめ)自身もそう信じ込んでいたらしいことは本注冒頭に示した。

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