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2014/11/29

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  覺園寺

    ●覺園寺

鷲峰山眞言院と號す。禪律にて京都泉涌寺の末寺なり。本尊藥師〔長八尺運慶作〕及日光月光十二神〔各長五尺宅間作〕を安す。古昔大倉藥師堂或は大倉新御堂或と稱せり。故に今も此地の小名を藥師堂谷と稱す。當寺は永仁四年。平貞時の建立にて。開山は心慧(しんゑ)和尚。諱は智海願行の法嗣(はふし)なり。文和二年十月。足利尊氏當寺門前敷地に造築の沙汰あり。三年佛殿修造成て。十二月。尊氏梁牌銘を書す。其文左の如し。

[やぶちゃん注:以下の梁牌銘は、底本では全体が一字下げ。]

  梁牌銘

今上皇帝聖壽無疆。天下元黎。淳風有道。異國降伏。昌懇祈之法場。伽藍常住。轉不窮之法輪。人々歸敬三寶。國々歌樂太平。敬白、征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹書。

征夷將軍冠蓋一天。武威統於萬邦。榮運及於億載。梵宇固基。至慈尊之出世。法燈無盡。照徧界之重昬。衆僧和合。諸天擁護。敬白。文和三年十二月八日。住持沙門思淳謹誌。

[やぶちゃん注:古義真言宗。明治初年に兼学が禁じられる以前は真言・律・禅・浄土教の四宗兼学の道場であった。北条義時が建保六(一二一九)年に異様な拘り(財政難で周囲から反対されている)の中で半ば私的に私財を擲って建立した大倉薬師堂を前身とする(この薬師堂と実朝暗殺に纏わる変事については「北條九代記」の実朝暗殺前後の回などの注釈でも述べ、愚作小説にも書いた)。第九代執権北条貞時が永仁四(一二九六)年にこれを寺に改めた目的は元寇の難を逃れんことを祈禱せんがためで、鎌倉時代を通じて北条氏の手厚い庇護を受け、幕府滅亡後も後醍醐天皇勅願所、建武中興後は足利氏祈願所となり、修学寺院として大きな勢力を持った。大火によって初期の伽藍が失われたが、文和三(一三五四)年には尊氏の支援によって仏殿が再建された(以下の梁牌名はその時の自署になるものである)。現在の本寺の薬師堂は、元禄期の震災で破損したものを、規模を小さくしつつも、古材を用いて再建したもので、梁に尊氏の自署を天井に現認出来る。しばしば最後の鎌倉らしい寺などとも喧伝される。

「八尺」約二・四二メートル。

「五尺」約一・五二メートル。

 「梁牌銘」を訓読しておく。「昬」は「昏」に同じい。

   *

  梁牌の銘

今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏懇祈の法場を昌にし、伽藍常住、不窮の法輪を轉ず。人々三寶に歸敬し、國々太平を歌樂す。敬して白す 征夷大將軍正二位源朝臣尊氏 謹書

征夷將軍、蓋として一天を冠すること、武威萬邦を統べ、榮運億載に及ぶ。梵宇、基を固くして、慈尊の出世に至る。法燈、盡ること無し。徧界の重昬を照す。衆僧和合し、諸天擁護せん。敬して白す 文和三年十二月八日 住持沙門思淳 謹誌

   *

 当時の覚園寺住職から私が二十代の頃、伺った話では、敗戦まで、この外しようのない逆賊「尊氏」の梁牌サインのお蔭で、しばしば若き日のその和尚は石を投げられた、とのことであった。]

[やぶちゃん注:以下の各項は、底本では二行目以降は一字下げとなっている。]

地藏堂 大地殿の額を掛く。八分字なり。傍に永祿十二歳己巳十月二十四日。芳春(ほうしゆん)院李龍周興新造之とあり。舊くより黑地藏と稱呼し、又里俗は火燒地藏と唱ふ。毎年七月十三日の夜。男女群參(ぐんさん)す。此の堂舊くは鎌倉海濱に在しを。後理智光開山僧願行此に移せしなり。時に此像靈佛にして奇瑞多かりし事、沙石集に見えたり。

[やぶちゃん注:「八分字」とは、「大地殿」の文字が八のパートに分かれていることをいうか? 識者の御教授を乞う。

「永祿十二歳己巳」「己巳」(つちのとみ)。西暦一五六九年。

「奇瑞」「新編鎌倉志卷之二」の「覺園寺」の「地藏堂」の項の中に、

   *

相伴ふ、此の地藏、地獄を廻り、罪人の苦(くるし)みを見てたへかね、自ら獄卒(ごくそつ)にかはり火を燒(た)き、罪人の焰(ほのを)をやめらるゝとなり。是故に、毎年七月十三日の夜、男女參詣す。數度彩色(さいしき)を加へけれども、又一夜の内に本(もと)の如く黑くなるとなん。

   *

とある。ここまで記さないと案内記としてはダメであると私は思う。

「沙石集に見えたり」以下は私が「鎌倉攬勝考卷之五」の注で示したものであるが、再掲しておく。この「沙石集」の話は同書「卷第二 六 地藏菩薩種々利益事」の冒頭に現れるものである(底本は一九六六年刊岩波古典文学大系版を用いたが、本文ルビ仮名カタカナ表記が読み難いため、ひらがな化して示し、繰り返し記号「〱」「〲」は正字化、一部のルビや編集記号を省略した)。

   *

 鎌倉の濱に、古き地藏堂あり。丈六の地藏を安置(あんぢ)す。其邊の浦人常に詣(まうで)けり。或時、日比詣ける浦人共、面々に夢に見けるは、若僧の美目形(みめかたちち)うつくしきが、「日來常に見參(げんざん)しつるに、人に賣(うられ)て外へこそまかれ。さて名殘惜くて、詣で來る」と、の給ふと見て、怪み思ふ程に、此堂の主(ぬし)貧(まづしき)儘に、先祖の堂を賣(うる)間(あひだ)、東寺の大勸進の願行坊上人、是れを買て、二階堂の邊に遷造(うつしつくら)んとて、佛像を渡し奉るに、人夫不足にて思煩(おもひわづら)ふ處に、いづくよりともなく、下種(げす)法師の勢(せい)大きなるが來りて、「十人が振舞は仕(つかまつる)べし」とて、持ち奉る夫(ふ)、今十人ばかり不足なるに、此法師甲斐甲斐しくもちて、やすやすと運(はこび)渡しつ。さて食(じき)せさんとする程に、かきけつ樣に失(うせ)ぬ。權化のわざにやと人怪む。同法の僧、慥(たしか)に見て語(かたり)侍りき。さて彼の佛のうなじの貧相(ひんさう)におわしますを、上人、佛師を呼(よび)て、なをさしめんとするに、「靈像にておわしませば、輙(たやす)く破(やぶり)がたし」と云ひければ、別の佛師を呼(よば)んとする處に、件(くだん)の佛師來て、「夢に、若(わかき)僧來(きたり)て、「只我身をばなをせ。苦見(くるしみ)亡きぞ」と、仰らるゝと見て候へば」とて、直し奉りぬ。又其後檀那出來て、供料など寄進してけり。佛の相も人の相に違ずといへり。當代の不思議也。彼の上人の弟子の説也。世間又かくれなし。さて彼の夢に見奉りし浦人、信を致し、歩(あゆみ)を運(はこび)て詣で、よその人も聞及(ききおよび)、貴び崇(あがめ)奉るとなん。[やぶちゃん注:以下、一般論としての仏像補修の理を解くが省略する。]

   *]

弘法護摩壇蹟 寺後の山上に平石あり。其石上(せいじやう)に護摩(ごま)を燒し蹟と云ふ穴あり〔方四尺深二尺許〕其傍に又穴あり〔各徑八寸許〕加持水(かちすゐ)と名つけて自然水を貯ふ。如何なる旱天にも涸るゝ事なしと云ふ。又此邊山腹に巖穴あり〔方九尺深二間〕法王窟と唱ふ。其由來を傳へす。

[やぶちゃん注:この覚園寺境内の北の尾根の張り出しの部分、やや東の杉ヶ谷やぐら群を中心に、辺り一帯の多数のやぐら群を通称、「百八やぐら」と呼称している。「法王窟(やぐら)」や「団子窟」など、その幾つかは「鎌倉攬勝考卷之九」の最後に絵入りで紹介されているので参照されたいが(これは「新編鎌倉志」にはない、鎌倉特有のやぐらを不完全ながらも初めて纏めて紹介した非常に優れた記載であると私は思っている)。これらの大部分は古くからこの覚園寺の管理にあった、これについて私の知人と思われる(と言うより私の妻の知人と思われる)もちださんのHPの「百八やぐら群」に、ここが覚園寺の持ちとなったのはいつごろかはよくわからないとした上で、以下のような面白い記事を載せておられる。引用させて戴く。覚園寺文書の内の『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえるが、これを「いはくら=やぐら」とよみ、その祭祀権・所有権などを公方府などから承認されたさいの文書群の存在をしめすもの、とのみかたがある。空想をめぐらせば、北条氏関係の古いやぐらをひきつづき供養することを覚園寺に許した(もとめた?)ということになるのだろう』。幕府滅亡後、『同寺はまず後醍醐天皇の勅願寺として、ついで足利氏が独自に復興した。思淳和尚は尊氏・直義から信任され、いまも住職等が懐中電灯で解説してくれる薬師堂』にある梁牌に『に尊氏とともにサインした長老である。こうした状況から見て、後醍醐や尊氏の意図は滅亡した幕府の亡霊を鎮魂供養することにあったとみてまちがいないし、梁牌にかかれているように天皇(後光厳天皇)や「征夷将軍」の息災長寿、異国降伏など、国家の重大事にかかわる怨霊ののろいを慎重に取り除くためだった。これを裏付けるのは命日供養のなかに直義(兄・尊氏によって殺害)の名もみいだせることである』。この梁牌のクレジット、正平九・文和三(一三五四)年『といえば尊氏によって元弘以来戦没者供養の一切経が書かれたのと同じ年にあたる』。『覚園寺文書で興味深いのは、薬師三尊の胎内銘札だ。江戸後期、天保のころに寺が荒廃したので、院代儀英、寺の目代源兵衛という者が仏像をねこそぎ江戸・回向院にはこんでいって出開帳(展覧会)をおこなった。これが失敗におわり、莫大な借金を負ったばかりか仏像も破損。追い詰められたふたりは逐電、のたれ死んでしまった。たまたま二階堂村の豪農が修繕費を負担して再興にこぎつけたが、のちの誡めにとこのてんまつを銘札に書き付けてのこすことにした、とある』。沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」寛永十(一六三三)年の頃は、『荒廃した鎌倉の寺々のなかでも覚園寺はまだましなほうだった。それでも江戸後期にはこのていたらくにおちいっていた。やぐらももはや、だれのお墓でもなくなり、正体不明ななぞの遺跡になっていたらしい』とある。ここでもちださんが『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえる』とするのは、「鎌倉市史 資料編第一」の覚園寺文書に載る応永一四(一四〇七)年六月十九日のクレジットを持つ五二二番資料「覺園寺文書目錄」中の一条、

一 石藏安堵等一結在之、

を指す。但し、同書には頭書して『石藏山淨業寺カ』とあって、「鎌倉市史」の編者はこれを足利将軍家の直轄領(御料所)にあった浄業(じょうごう)寺かと推定しており、百八やぐらのことを指すとは考えていない。

 孰れにせよ、ここに限らず、鎌倉及び旧鎌倉御府内地域と遠隔地でも鎌倉の寺の旧寺領内にのみ存在が限定されるとされるやぐら群の管理は全くの放置と言ってよい酷さである。今の内に徹底的に精査し、ちゃんとした保存措置をとらないと、私はこの鎌倉独特の謎のやぐら群の秘密(私は鎌倉のやぐらは圧倒的な埋葬者の不明性は勿論、その装飾や鎌倉市内での分布の局地性なども謎だらけと言ってよいと考えている)永久に解き明かされることはなくなってしまうと真剣に危惧している。

棟立井 覺園寺後の山上にあり。古傳に弘法此井を穿て閼伽の料(れう)とせしと云ふ。鎌倉十井の一なり。

[やぶちゃん注:上部(井戸自体は横井戸形式)にある石が家屋の屋根の棟立(むねたて)、即ち、破風(はふ)の形をしているところからかく呼ばれ、「破風の井」とも呼称する。私は現認したことがない。白井永二編「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊)によれば、昭和三六(一九六一)年の山崩れによって土中に埋まってしまい、棟形の一部しか確認が出来ないとある。]

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