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2014/11/30

北條九代記 卷第六 勝木七郎子息則定本領安堵

      ○勝木七郎子息則定本領安堵

同二年正月二十三日に、將軍家、由比浦に出で給ふ。小笠懸、遠笠懸、次に流鏑馬、犬追物を御覧ぜらる。小山〔の〕五郎、三浦四郎、武田五郎、小笠原六郎に別の仰(おほせ)ましまして作物(つくりもの)を射させられ、御入興は限なし。去年十月末つ方この浦に出で給ひ、流鏑馬のありける次(ついで)に相摸〔の〕四郎、足利五郎、小山五郎、武田六郎、小笠原六郎、三浦又太郎以下の輩(ともがら)に仰せて、三的(みまと)の後に、三々九・四六三等の作物を射させらる。「この藝は朝夕に御覽ぜらるべき事にあらず」と相摸守時房内々諫め申さるゝといへども、深く御入興の餘連々(れんれん)御覽ましまして、今にその事を賞せらる。同二月六日鶴ヶ岡の別當法印は僧綱(そうがう)の衆五六人相倶して、御所に參り、盃酒(はいしゆ)を獻ぜらる。相州參られしかば、駿河〔の〕前司以下數輩(すはい)召れて伺候す。此所に上綱(じやうがう)の召俱せし兒(ちご)、年の程十二、三計(ばかり)なりけるが、同輩の兒童(じどう)には杳(はるか)に勝(まさ)りて容儀偉(ようぎうるはし)く、しかる藝能、至りて勝(すぐ)れ、聲、美しく歌ひければ、梁塵(りやうぢん)宛然(さながら)飛揚して、庭の梢に風戰ぎ、聞く人、耳を涼(すずし)めたり。今樣、朗詠し、廻雪(くわいせつ)の袖を翻せば、天津少女(あまつをとめ)の舞の姿もさこそと思準(おもひなぞら)へ、雲の通路(かよひぢ)吹閉(ふきと)ぢよと、滿座、その興を催され、將軍家御感の餘(あまり)、「如何なる者の子にて有りげるぞ」と問はせ給ふ。法印、申されけるは、「去ぬる承久の兵亂に圖(はか)らざるに官軍に召されし勝木(かつきの)七郎則宗(のりむね)が子にて候。所領悉く沒收(もつしゆ)せられ、一族、家人(けにん)、離散して、忽に孤(みなしご)となり、山林に吟(さまよ)ひけるを、この法師が養ひ置きて候。又、この外には誰(たれ)をかも賴むべき人とては更になき者にて候」と申されしかば、武藏守、「其は誠に不便(ふびん)の事」と仰せらる。彼(か)の則宗は、正治の比には梶原景時に同意せしかば、召禁(めしいまし)められけるを、適(たまたま)、免許を蒙(かうぶ)り、本領を安堵して筑前國に下向せしに、院の西面(せいめん)に召されて、官軍に加へられ、身の滅亡に及びたり。然れ共、家門久しき者の末なり。御取立、之あらば忠義を存じ奉るべし、と各(おのおの)申し上げらるゝ。同じき八日、評定を遂げられ、勝木七郎則宗が本領、筑前國勝木莊(かつきのしやう)元の如く、返し下さる。此所は中野〔の〕太郎助能(すけよし)が承久の勲功に依て勸賞(けんじやう)行はれし領地なれども、子息の童(わらは)に返し賜(たまは)り、助能には筑後國高津、包行(かねゆき)の兩莊を其替(かはり)に賜りけり。一藝一能に感應すれば、自然にその德、備(そなは)る事、古今、是、爾(しか)なりと、有難かりける御惠(おんめぐみ)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜元(一二二九)年十月二十二日、寛喜二年閏正月二十三日、二月六日・七日・八日などの記事に基づく。

「將軍家」頼経。当時、十一~十二歳。後に掲げる「吾妻鏡」で見るように、関東武士の射芸に歓喜する少年であった。

「勝木七郎」は後に出る勝木則宗。梶原景時の家人。相撲の達人で第二代将軍頼家の側近でもあったが、梶原殿の乱の時、梶原殿についていたとして罰せられた。後に赦免されて出身地であった筑前国御牧(みまき)郡(現在の遠賀郡)に帰国、後に鳥羽院の西面の侍となったが、承久の乱で京方に加わったために所領を没収、一族は離散した。「北條九代記 卷第二」の「勝木七郎生捕らる付畠山重忠廉讓」を参照されたい。

「同二年正月二十三日」後で掲げるように寛喜二(一二三〇)年正月二十三日の誤り。

「小笠懸」「笠懸」(笠掛)とは疾走する馬上から的に鏑矢を放ち、的を射る騎射の総称で、小笠懸は遠笠懸(後注)を射た後に馬場を逆走して射る騎射。的は一辺が四寸から八寸程度(約十二センチメートルから二十四センチメートル)四方の木製板を竹棹に挟み、埒(走路左右の柵)から一杖前後(約二・三メートル)離れた所に立てる。地上から低くして置かれるため、遠笠懸と違って騎手からは足下に的が見える。矢は小さめの蟇目鏑を付けた矢を用いる。小さな的を射る所から「小笠懸」という。元久年間(一二〇四年~一二〇五年)以降は次第に行われなくなったという。

「遠笠懸」遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これを疏(さぐり:馬の走路。)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(後掲する流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目(おおひきめ)と呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」という(以上の笠懸の記述はウィキの「笠懸」に拠る)

「流鏑馬」は「やぶさめ」、「競馬」は「きそひうま」と読む。騎射の一つで、方形の板を串に挟んで立てた三つの的を、馬に乗って走りながら順々に鏑矢で射るもの。平安末から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、しばしば神社で奉納された。「矢馳せ馬(やばせうま)」の転とされる。馬場は直線で、通常は二町(約二百十八メートル)。進行方向左手に間を置いて三つの的を立てる。馬場から的までの距離は五メートル前後、的の高さは二メートル前後。射手(いて)は狩装束を纏って馬を疾走させ、連続して矢を射る。主に参照したウィキの「流鏑馬」より「歴史」の前半部を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略、改行部を連続させた)。『流鏑馬を含む弓馬礼法は、八九六年(寛平八年)に宇多天皇が源能有に命じて制定され、また『中右記』の永長元年(一〇九六年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延二年(一一三六年)三月四日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永一〇・二・二六条)し、九月十七日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記)『吾妻鏡』には源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮では四十七回の流鏑馬が納められたとされる。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法や兵器が進化して足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた』とある。因みに、私の妻の教え子はこの伝統を今に伝える小笠原家の御曹司で、流鏑馬を引く。

「犬追物」牛追物(うしおうもの:鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたという)などの矢で射る武芸。)から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次(よびつぎ:呼び出し役。)に、百五十匹の犬を投入、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。

「小山五郎」小山長村。下野国の豪族小山氏第四代当主。父は小山朝長で小山朝政の孫。弓矢に優れており、鶴岡馬場の儀式での射手も務めている。

「三浦四郎」三浦家村。三浦義村四男。弓術に優れており、少年の頃に狼藉者に襲われたが、その頭目の股間に狙いを定めて強弓を放って命中させ即死させたという。流鏑馬では家村の弓は百発百中の精度を誇り、執権北条泰時からも藤原秀郷の再来と礼賛された。三浦氏が亡んだ宝治合戦の際には行方を晦まして、その後、執権北条時頼・時宗父子を脅かし続けた「三浦の亡霊」としても知られる。(以上は反アカデミズムでアブナいが故に強烈に私好みのアンサイクロペディアの「三浦家村」に拠る)。

「武田五郎」武田信長。馬術・弓術に優れた鎌倉初期の弓馬四天王(他に小笠原長清・海野幸氏・望月重隆)の一人武田信光の縁者かとも思われる。

「小笠原六郎」小笠原時長。弓馬術礼法小笠原流の祖である小笠原長清の嫡男。小笠原氏の嫡家伴野氏の祖。承久四(一二二二)年の正月に弓始の儀で射手を務め、同年七月にも小笠懸の射手を務めている。

「去年十月末つ方」寛喜元(一二二九)年十月二十日。

「相摸四郎」北条朝直。初代連署北条時房四男で評定衆の一人となった。大仏(おさらぎ)流北条氏祖。ウィキの「北条朝直」によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したが、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄二(一二二六)年には当時の執権『北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められ』たものの、二十一で無位無官の朝直は『愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月には、『朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られ』、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。寛喜元年当時、満二十二歳。

「足利五郎」足利(吉良)長氏(おさうじ)。足利氏の有力一門であった三河吉良氏祖。足利義氏庶長子。ウィキの「吉良長氏」によれば、『母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる』とあり、「吾妻鏡」には安貞二(一二二八)年)七月に『将軍藤原頼経の随兵として登場するのが最初で』、以後、この寛喜元年の『流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い』などに出た後、仁治二(一二四一)年一月の椀飯の記事を最後に「吾妻鏡」からは、『長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる』とある。弘安八(一二八五)年、『霜月騒動で息子満氏を失ったため、嫡孫吉良貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる』とある。寛喜元年当時、未だ満十八歳。

「三浦又太郎」三浦氏村。三浦朝村嫡子として父死後の幕政に参加、「吾妻鏡」には射手としてもしばしば名が出る。

「三的」先に示した流鏑馬の定式の三つの的の謂いであろう。

「三々九」教育社の増淵勝一氏の訳注によれば、有意に低い三尺(凡そ九十一センチメートル)の高さに設定した(恐らくは遠笠懸)の的をいうとある。

「四六三」同前の増淵注に、『遠笠懸の一種。十二・十八・九センチ四方の板をくしにはさんだ三つの的を射るもの』とある。

「作物」定型外の、射難い、有意に低い位置に配した独自に作らせた特製の的。

「この藝は朝夕に御覽ぜらるべき事にあらず」この時房の諫めは、恐らくこれが弓術の定式から外れたもので、変型であるために設置に手間がかかり、しかも射手も実際には嫌がる変格物であったからではあるまいか?

「別當法印」鶴岡八幡宮筆頭法印であった定規。

「僧綱」僧尼の統轄・諸大寺の管理や運営に当たった僧の役職。律令制下では僧正・僧都・律師の三綱が定められており、それとは別に法務・威儀師・従儀師を置いて補佐させたが、平安後期には形式化した。ここでは単に高位の僧の称として用いられている。

「相州」北条時房。

「駿河前司」三浦義村。

「上綱」その時に同伴していた重役の僧の内でも、また取り分け身分の高い僧を指す。待ってましたとばかりの後の定規の台詞からは、実は定規自身の稚児であったのではないかとも疑われる(増淵氏は恐らく確信犯で定規の台詞をそのように訳しておられる)。

「梁塵宛然飛揚して」「梁塵秘抄」の書名としても知られる、「梁塵を動かす」の故事に基づく。漢の魯の虞公は声が清らかで歌うと梁の上の塵までも心ときめいて動いたという「劉向(りゅうきょう)別録」の故事による、歌や音楽に優れていることの譬え。

「今樣」今様歌(いまよううた)。平安中期に発生して鎌倉時代にかけて流行した当時の新しい歌謡。短歌形式のもの、七・五の十二音句四句からなるものなどがあって特に後者が代表的な型となった。白拍子・傀儡女(くぐつめ)・遊女などによってしきりに歌われ、貴族社会にも流行、これを好んだ後白河法皇は手ずから「梁塵秘抄」にこれらを集成した。

「廻雪」回雪。雪が舞うようにひらひらと袖を翻す舞い。

「天津少女」天女。

「思準へ」想像されて。

「雲の通路吹閉ぢよ」僧正遍昭の百人一首第十二番歌「天津風(あまつかぜ)雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」。

「吟(さまよ)ひける」「吟」には「さまよふ」という訓も意味もない。泣き叫びい嘯(うそぶ)くという意から派生させた一種の文学的当字であるが、気持ちは分かる。なかなかよいルビだ。

「院の西面」西面の武士(さいめんのぶし)。後鳥羽上皇が院の西面に伺候させた武士。北面の武士とともに院の警備・御幸の護衛・盗賊の追捕などの任に当たらせ、承久の乱では近衛兵となったが、乱後に廃止されている。

「筑前國勝木莊」現在の福岡県八幡西区大字香月(かつき)。

「中野太郎助能」幕府御家人。信濃生まれ。建保七(一二一九)年に実朝を暗殺した公暁の後見人であった勝円阿闍梨を捕縛して北条義時邸へ連行している人物として知られる。「吾妻鏡」の記載からは、泰時の采配によって、恐らくは勝木よりも肥沃で管理されていたと想像される筑後高津・包行の両名田(みょうでん:平安時代以降に口分田の私有化や荒地の開発などを契機として特定個人の私有として集積された田地のこと。所有者の名を冠して譲渡・買得などによって伝領された。荘園・国衙(こくが)領の基本部分を形成し、荘園制崩壊に至るまで年貢の賦課単位として機能し続けた。)を与えられたと解せる。

「勸賞」功労を賞して官位を進めたり、土地や金品物などを与えること。

「子息の童」勝木則定。

「筑後國高津」現在の福岡県北九州市小倉南区高津尾。

「包行」高津に近接する現在の福岡県内の地名と思われるが、不詳。

 

 以下、「吾妻鏡」を順次引いておく(文中の一部に《 》で注を配した)。まず、途中に出る、時系列上で古い寛喜元(一二二九)年十月二十二日の条。

 

〇原文

廿二日丙辰。晴。將軍家令出由比浦給。有流鏑馬。相摸四郎。足利五郎。小山五郎。駿河四郎。武田六郎。小笠原六郎。三浦又太郎。城太郎。佐々木三郎。佐々木加地八郎等爲射手。三的之後。三々九四六三以下作物等各射之。此藝朝夕非可被御覽事之由。如相州。内々雖被諌申。凡依有御入興。不及被止之。連々可被御覽云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日丙辰。晴る。將軍家、由比の浦に出でしめ給ふ。流鏑馬有り。相摸四郎・足利五郎・小山五郎・駿河四郎《家村》・武田六郎・小笠原六郎・三浦又太郎・城太郎《安達義景》・佐々木三郎《泰綱》・佐々木加地(かぢ)《新潟県の旧北蒲原郡加治川村。現在の新発田市下今泉加治地区の地名》八郎《信朝》等、射手たり。三的(みつまと)の後、三々九・四六三以下の作物等、各々、之を射る。此の藝、朝夕に御覽せらるべき事に非ざるの由、相州のごときが、内々に諫(いさ)め申らると雖も、凡そ御入興(ごじゆきよう)有るに依つて、之を止めらるるに及ばず。連々(れんれん)御覽ぜらるべしと云々。

 

 続いて冒頭に出る寛喜二(一二三〇)年閏正月二十三日の条。

 

〇原文

廿三日丙午。天晴。將軍家年首御濱出始也。渡御由比浦。先小笠懸。次遠笠懸。次流鏑馬。次犬追物〔廿疋〕。次小山五郎。三浦四郎。武田六郎。小笠原六郎。隨別仰。射作物等。御入興無他云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日丙午。天晴る。將軍家、年首の御濱出始(おんはまいではじめ)なり。由比の浦に渡御す。先ず小笠懸。次で遠笠懸。次に流鏑馬。次に犬追物〔廿疋〕。次に小山五郎、三浦四郎、武田六郎、小笠原六郎、別なる仰せに隨ひ、作物(つくりもの)等を射る。御入興の他無しと云々。

 

 以下、同寛喜二年二月六日から八日まで。

 

〇原文

六日戊午。鶴岡別當法印參御所。奉盃酒。相州。武州參給。駿河前司已下數輩候座。爰上綱具參兒童之中有藝能抜群之者。依仰數度飜廻雪袖。滿座催其興。將軍家又御感之餘。令問其父祖給。法印申云。承久兵乱之時。不圖被召加官軍之勝木七郎則宗子也。被收公所領之間。則宗妻息從類悉以離散。其身已交山林云々。武州尤不便之由申給。彼則宗者。正治之比。與同平景時之間。被召禁畢。適蒙免許。下向本所筑前國之後。候院西面云々。

七日己未。天晴。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

八日庚申。勝木七郎則宗返給本領筑前國勝木庄也。此所。中野太郎助能爲承久勳功賞。雖令拜領。依被賞子息兒童。給則宗畢。助能又賜替筑後國高津包行兩名。武州殊沙汰之給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日戊午。鶴岡別當法印、御所へ參り、盃酒を奉る。相州《時房》・武州《泰時》參り給ふ。駿河前司已下の數輩、座に候ず。爰に上綱具し參る兒童之中に藝能抜群の者有り。仰せに依つて數度、廻雪の袖を飜へす。滿座、其の興を催す。將軍家、又、御感の餘りに、其の父祖を問はしめ給ふ。法印、申して云はく、

「承久兵乱の時、圖らずも官軍に召し加へらるるの、勝木七郎則宗が子なり。所領を收公せらるるの間、則宗が妻息從類、悉く以つて離散し、其の身、已に山林に交はると云々。

武州、尤も不便の由を申し給ふ。彼の則宗は、正治の比、平《梶原》景時に與同(よだう)する間、召し禁ぜ(いまし)められ畢んぬ。適々(たまたま)免許を蒙りて、本所筑前國へ下向の後、院の西面に候ずと云々。

七日己未。天晴る。將軍家、杜戸へ渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔廿疋。〕等なり。例の射手、皆以つて參上し、各々射藝を施すと云々。

八日庚申。 勝木七郎則宗、本領筑前國勝木庄を返し給はるなり。此の所は、中野太郎助能、承久の勳功の賞として、拝領せしむと雖も、子息兒童が賞せらるるに依つて、則宗に給はり畢んぬ。助能は又、替りに筑後國高津・包行の兩名(みよう)を賜はる。武州、殊に之を沙汰し給ふと云々。]

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