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2014/11/03

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  荏柄天神社

    ●荏柄天神社

荏柄天神社は大倉村の街道の北側にあり。荏柄山と號す。相撲國風土記に云。倭名鈔當郡郷名に荏草と記するあり今其唱を失すれと全く當社地邊の舊唱ならん草にかやの古訓あれはエカラはエカヤの転訛(てんくわ)なるを後文字をさへ今の如く書改(かきあらため)しなるべし入口に鷄栖を建つ。夫より二町餘を隔(へだて)て社前に至る〔左右松樹の並木なり此大門路を馬塲と唱ふ是は當時賴朝舘咫尺の地なれば宿直の人人爰にて馬術調練ありしより名づくと云へり〕爰に石階を設く拜殿あり、本社中央に菅公束帶の座像を置き〔鎌倉志に此像足膝燒ふすふりてあり五臟六腑を作り入れ内に鈴を掛て舌とし頭内に十一面觀音を作りこむと云ふとあり〕右方に天拜山祈誓の立像左方に本地佛十一面觀音の像を置く。勸請の年代を傳へす。賴朝初めて大藏の地に舘造營の時。當社を以て鬼門の鎭神とす。建仁二年九月十一日。將軍賴家菅公か三百年忌の祭事を行ふ。大江廣元奉幣使たり。建保元年二月二十五日。澁河刑部六郎兼守罪(つみ)死刑に定まり、(うれひ)に堪(たへ)す詠歌十首を當社に法樂す。翌日。工藤祐經高參籠ありしか。兼守が獻(けん)せし詠歌を取て將軍家に持參あり。實朝感する餘り其罪を赦(ゆる)す。弘安四年。惟康親王當社造營あり。享德四年六月。成氏追討として今川上總介範忠鎌倉に亂入し。神社佛寺等を燒拂(やきはら)ふ。此時當社に入り。菅公自畫の像を駿州に奪去る。長享元年。先の畫像駿州より遷座あり。天文十七年。社頭造營の爲北條氏當所に關を居ゑ。關錢を取りて社料に充つ。永祿四年。里見左馬頭義弘の軍勢此關門を押破(おしやぶ)り。小田原の地に入りし事あり。天正十八年七月。豐臣秀吉參詣ありて社頭造營の事を沙汰す。慶長十二年。瀧川下總守雄利本社東西の脇殿二宇を修造ありし事棟札に見ゆ。元和八年。鶴岡造營の時若宮八幡の古宮を當社に移し。又料材を賜ひて本社末社悉造營あり。寛文八年。又金子及材木數百本を賜ひしかは。本社末社別當坊に至るまて修理を加ふ。元祿十年。又鶴岡御造營の殘木を賜へり。元文元年四月。先蹤に任せ。又鶴岡修造の殘木を賜はらん事申乞しに即牧野越中守をして是を賜へり。同年九月水野備前守の許に請書を出せり。其後寶暦三年天明元年等にも先規(せんき)の如く鶴岡社頭造營の殘木幷古木等を賜はりて修造ありしと云ふ。

老松殿 本社の東にあり毘沙門を置く。

紅梅殿 本社の西にあり。正宗の刀を神體(しんたい)とせしが。今は不動を置く、共に慶長十二年。瀧川下總守雄利修理す。其後の事は本社と同し。

末社 辨天にて境外にあり、當社は賴朝舘の郭内にありしか。舘を若宮大路に移せし時。當社の末社となれりと云ふ。

銀杏(いてう)一株(かぶ) 神木なり。圍五抱許。

[やぶちゃん注:ここにも引かれてあるように「新編鎌倉志卷之二」の「荏柄天神」の記載は詳細を究める。必読。因みに――私は生まれた時、この境内にいた――

「鷄栖」「とりゐ」と読む。

「二町」約二一八メートル。

「咫尺」「しせき」と読む。「せき」は漢音で「咫」は周尺(小尺)の八寸(約十八センチメートル)を、「尺」(大尺)は一尺(二二・五センチメートル)で、転じて、距離がきわめて近いことをいう。「史記 蘇秦伝」に基づく。

「天拜山祈誓の立像」天拝山(てんぱいざん)は福岡県筑紫野市にある標高二五八メートルの山。大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく、幾度も登頂しては天を拝したという伝記に由来し、その姿を模した立像のことをかくいう。

「十一面觀音の像」この当時はおぞましい廃仏毀釈令により既に神武寺に移されていたはずである。

「建仁二年」西暦一二〇二年。

「建保元年」一二一三年。

「澁河刑部六郎兼守罪死刑に定まり……」後掲される「歌の橋」で知られたエピソード。そこで注することとする。

「弘安四年」一二八一年。

「享德四年」一四五五年。

「長享元年」一四八七年。

「天文十七年」一五四八年。

「北條氏」北条氏康。

「永祿四年」一五六一年。

「天正十八年」一五九〇年。

「慶長十二年」一六〇七年。

「瀧川下總守雄利」滝川雄利(たきがわかつとし 天文一二(一五四三)年~慶長一五(一六一〇)年)は戦国から江戸前期にかけての武将・大名。豊臣政権下では「羽柴下総守」と称され、後に家康の御伽衆の一人となった。常陸片野藩初代藩主(以上はウィキの「滝川雄利」に拠った)。

「元和八年」一六二二年。

「寛文八年」一六八八年。

「元祿十年」一六九七年。

「元文元年」一七三六年。

「牧野越中守」日向延岡藩第二代藩主牧野貞通か。

「水野備前守」当時の幕府作事奉行水野勝彦か。

「寶暦三年」一七五三年。

「天明元年」一七八一年。

「慶長十二年」一六〇六年。]

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