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2014/11/21

芭蕉の生理 篠原鳳作 附やぶちゃん注 (前)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

芭蕉の生理   篠原鳳作   附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年一月刊の『傘火』に掲載された。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊の「篠原鳳作全句文集」を元としたが、恣意的に正字化してある。鳳作は前年昭和十一年九月十七日に鹿児島市加治屋町自宅にて心臓麻痺により満三十歳で急逝した(彼の死因については「篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月」の私の注を参照されたい)が、これはその未発表の遺稿である。子規の「芭蕉雑談」の引用部の正字表記は注に示す底本と校合した(それに合わせて鳳作の底本本文の「欲」も「慾」に代えてある)。傍点「・」は太字に、傍点「ヽ」は下線に、踊り字「〲」は正字に代えた。「一茶」は「一」「茶」の間に四字分の空隙があるが、詰めた。「〇〇」は判読不能字を示す(底本では右に『(不明)』と編者による傍注がある)。全体を二つに分けて、それぞれの末尾に私の注を附した。また本文中には「片輪者」「片輪」「不具者」という差別用語が頻出する。これらについては批判的視点から読解されんことを望むものである。

 なお、底本では『傘火』の同人であったと思われる朝倉南海男氏以下の附言が末尾に載る(朝倉南海男の著作権は存続しているかも知れないが、本稿の出自を示すものであり、欠かせないのでここに引用することとする。但し、これも正字化させて戴いた)。

   *

南海男言 <故鳳作氏の未發表原稿包を前にして>

 本文は氏の遺稿であり。多分『芭蕉小論』

 執筆當時の物であらうが單なる雜記である

 か書拔であるか詳でない、其の積りで讀ん

 で戴き度い。去日、篠原家に行つて反古の

 整理中發見したもので有る。次々に發表す

 る考へだ、期待され度い。氏としては發表

 を遠慮されて居られたのかも知れないが。

 同家の許可を得て掲ぐ。

   *]

 

   芭蕉の生理

 

『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罷りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

  ◇ 一、もち米一升  一、黑豆一升

 右今夕の夜食に成申侯間御いらせ傳吉にも

 たは御こし可被下候云々。

 ◇只今田舍より僧達三人參供俄に出し可申

 候貯無之供さふく候故にうめんいたし可申

 供そうめんは澤山有之候酒二升御こし賴入

 候云々。

とあり、且歿時の病は菌を喰ふてより起りしと云へば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此の手紙を以て大食の證となすは理由薄弱なりと雖も、手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説、當を得たる物ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はぎる者、往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや

 芭蕉妻を娶らず。其の他婦女子に關する事一切世に傳はらず。芭蕉戒行を怠らざりしか。史傳之を逸したるか姑く記して疑を存す。』

 正岡子規の『芭蕉雜談』にある右の一節を讀んで自分はひそかに微苦笑を禁ずる事が出來なかつた。

 大食家子規の芭蕉大食論なるが故にである。

 正岡子規が瞑目する直前まで非常な大食家であつた事は餘りに有名である。

 又、子規が妻帶しなかつた事は勿論だが、彼が女といふものを一生知らずに終つたといふ事も又確證ある事である。

 その獨身にして大食家なりし子規が芭蕉を評して

『多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者、往々にして非情の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。』

 と芭蕉を自分のともがらとして語つてゐるから、思はず微苦笑せざるを得ないのである。

 芭蕉が大食家であつたか、なかつたかは別として彼が『多情にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる物』であつた事は事實であらうと思う。

 芭蕉が五十一歳にして病歿するまで妻をめとらず獨身であつたといふ事は多くの芭蕉研究家達にはさほど重大視されてゐないが是は非常な重大事である。

『飮む。賭つ。買ふ。』は博徒の標語であるが、この三つの言葉位人生の全貌を簡潔に表現したものはあるまい。

 第一は食慾の滿足を意味し第二は鬪爭精神、或は優越感情の滿足を意味し第三は性急の滿足をいみしてゐる。

 飮んで賭たず、飮んで買はなかつたのが芭蕉の生活である。其故に彼は好物の酒をさえつゝしまんとしてゐたのだ。

 

    閑居の箴    貞享三年

 酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪   (四十三歳)

 

 飮んで賭たず、飮んで買はず、自然の寂寞の中に轉々反側したのが芭蕉である。

 芭蕉の俳句の力はこの禁慾的生活の寂寞に發する所が多いやうである。

 芭蕉は正妻をめとらなかつたのみならず女性に對しては嚴とした警戒的態度をとつてゐる。

『女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし』(俳諧掟)

 芭蕉は何故に正妻を娶らなかつたかは大きな研究問題である。子規の言の如く戒行を怠らなかつたのか。妾があつたのか、變態性慾者或は性的不能者であつたのか?

 何れもにはかに斷ずる事は出來ないが、尠くとも文章に現はれたる所に於ても、生活の體面上に於いても彼は嚴としてスイトシズム的態度をとつてゐたのである。

 正妻をもたず、女性に對し常に警戒的態度を持して自己の寂寞に徹した事が芭蕉の俳句に力あらしめた一源泉である事は疑ふ事は出來ない。心理學者の所謂、性慾の昇華せられたものが芭蕉の藝術であつたのではあるまいか。

 一茶の俳句の力は彼が『家なし』のむく鳥であつた事に發する。

 

 むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな   一茶

 

 芭蕉の俳句の力は彼が『家なし』であり又『妻なし』であつた二重の寂寞に發すると思ふのは誤りであらうか。『天才は狂人である』と云ふ言葉があるが自分は『天才とは片輪者である』と信ずる者である。生理的片輪者であるか、社會的片輪者であるかは問はない。この片輪が否應無しに天才を産むのである。

 芭蕉も亦片輪なりしが故に或は自ら求めて片輪たりしが爲に天才となり得たのである。

 

■やぶちゃん注

●「『鳴雪翁曰く』芭蕉は大食の人なり……」:正岡子規の「芭蕉雜談」(ばしょうぞうだん)は新聞「日本」に明治二六(一八九三)年十一月から翌二十七年一月まで連載したもので、後に加筆して「獺祭書屋俳話」(だっさいしょおくはいわ)増補版に収録された。この評論は、この明治二十六年が芭蕉二百年忌に当り、旧派宗匠の間で芭蕉廟や句碑の建立が盛んに計画されていたことを受け、見かけの顕彰にばかりうつつを抜かし、正風を理解しようとしない宗匠連に対しての強い鬱憤から記されたものであった(子規が蕪村を高揚したことはよく知られているが、芭蕉の持つ詩情をも高く評価していた事実も忘れてはならない。但し、この「芭蕉雜談」は芥川龍之介に言わせれば、芭蕉に対する『偶像崇拜に手痛い一撃を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ』(芥川龍之介芭蕉雜記草稿「偶像」より)といった内容であったことは、以下の「補遺」を見ただけでもよく解る。リンク先は私の同草稿を含めた電子テクスト)。引用部はその評論の最後の「補遺」の中に出る。私は「獺祭書屋俳話」を所持しないので、国立国会図書館蔵(弘文館明治三五(一九〇二)年刊増補三版)を視認、少々長いけれども簡潔な芭蕉の事蹟紹介を始めとして内容もなかなか面白いので、「補遺」総てを以下に電子化しておくこととする。誤植と思われる句点の一部を移動した。一部の難読部分に〔 〕で私の歴史的仮名遣による読みを附し、ものによっては簡単な語釈も添えた。傍点「ヽ」は太字、「〇」は下線に代えた(一部の打ち方がおかしいがママである)。

   *

         〇補遺

芭蕉に就きて記すべき事多し。然れども余は主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる處を指摘せし者にして爰に芭蕉に評論するの餘暇を得ざれば、一先づ筆を擱かんとす。乃ち、言ひ殘せし事項の二三を列擧してその題目を示し以て本談の結尾とせん。

一、松尾桃靑名は宗房正保元年伊賀國上野に生る。松尾與左衞門の二男なり。十七歳藤堂蟬吟公に仕ふ。寛文三年(廿歳)蟬吟公早世、乃ち家を出でて京師に出で北村季吟に學ぶ。廿九歳江戸に來り杉風に寄居す。四十一歳秋東都を發し東海道を經て故郷伊賀に歸り、翌年二月伊賀を發し、木曾路より甲州を經て、再び江戸に來る。此歳、月を鹿島に見る。四十四歳東海道より伊賀に歸る。翌年伊勢參宮、尋〔つい〕で芳野南都を見て須磨明石に出づ。木曾を經、姥捨の月を賞し三たび東都に來る。四十六歳東都を發し日光白河仙臺より松島に遊び、象潟を通り道を北越に取りて、越前美濃伊勢大和を過ぎ伊賀に歸り直ちに近江に來る。翌年石山の西幻住庵に入る。四十八歳伊賀に歸り京師に寓し冬の初め四たび東都に來る。五十一歳夏深川の草庵を捨てゝ上洛し、京師近江の間を徘徊す。七月伊賀に歸り九月大阪に至る。同月病に罹り十月十二日歿す。遺骸を江州義仲寺義仲の墓側に葬る。

 

一芭蕉が今杖を曳きしは東國に多くして西國に少なし。經過せし國々は山城、大和、攝津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相摸、武藏、下總、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、奧州、出羽、越前、加賀、越中、越後、播磨、紀伊、總て二十八ケ國なり。

芭蕉は所謂正風〔しやうふう〕を起したり然れども正風の興るもとより芭蕉一人の力に在らずして、時運の之をして然らしめし者な貞室の俳句時として正風に近き者あり宗因其角才丸〔さいまる〕、常矩〔つねのり〕等の俳句また夙〔と〕く正風の萌芽を含めり冬の日春の日等を編集せし時は正風發起の際なりと雖も此時正風を作す者芭蕉一人に非ず門弟子亦之を作す門弟子亦皆之を作すのみならず他流の人亦之を作す而して正風發起後と雖も芭蕉の句往々虛栗集的の格調を存。これ等の事實を湊合〔そうごふ:一つに纏めること。〕し精細に之を見なば正風の勃興は時運の變遷自ら然らしめし者にして、芭蕉の機敏唯能く之を發揮せしに過ぎざるを知らん。

芭蕉の俳句は單に自己の境涯を吟咏せし者なり。即ち主觀的に自己が感動せし情緒に非ずんば客觀的に自己が見聞せし風光人事に限りたるなり。是れ固より嘉す〔よみす:良しとする。褒める。〕べきの事と雖も全く己が理想より得來〔えきた〕る目擊以外の風光、經歷以外の人事を抛擲して詩料と爲さざりしは稍〔やや〕芭蕉が局量〔きよくりやう:度量。心の広さ。〕の小なるを見る。(上世の詩人皆然り)然れども芭蕉は好んで山河を跋渉したるを以て實驗上亦夥多〔かた:多過ぎるほどあること。夥しいさま。〕の好題目を得たり。後世の俳家常に几邊〔きへん〕に安坐して且つ實驗以外の事を吟せず而して自ら芭蕉の遺旨〔ゐし:前人の残した考え。〕を奉ずと稱す。井蛙〔せゐあ〕の觀る所三尺の天に過ぎず。笑はざらんと欲するを得んや。好詩料空想に得來りて或は斬新或は流麗或は雄健の俳句を作し世人を罵倒したる者二百年獨り蕪村あるのみ。

一、鳴雪翁曰く芭蕉は大食の人なり、故に胃病に罹りて歿せし者ならん。其證は芭蕉の手簡に

[やぶちゃん字注:以下の引用は底本では全体が三字下げ。]

〇一もち米  一升   一黑豆  一升   一あられ見合〔みあひ:相応。適量。〕

 右、今夕〔こんせき〕の夜食に成申〔なりまうし〕候間、御いらせ〔「貸(いら)せ」貸して利息を取ること。〕傳吉にもたせ御〔お〕こし可被下〔くださるべく〕候云々

〇只今田舍より僧達二三人參候。俄〔にはか〕に出し可申候貯〔たくはへ〕無之〔これなく〕候さふく〔:寒(さぶ)く。〕候故〔ゆゑ〕にうめん〔:「入麺」「煮麺」。素麺を暖かく煮込んだ料理。〕いたし可申〔まうすべく〕候そうめんは澤山有之〔たくさんこれあり〕候酒二升御こし賴入〔たのみいれ〕候云々

とあり且つ沒時の病は菌〔きのこ〕を喰ふてより起りしといへば必ず胃弱の人なりしに相違なしと。單に此手紙を以て大食の證〔あかし〕となすは理由薄弱なりと雖も手紙は兎に角に余は鳴雪翁の説當〔たう〕を得たる者ならんと思ふなり。多情の人にして肉體の慾を他に伸ばす能はざる者往々にして非常の食慾を有す。芭蕉或は其一人に非るを得んや。

一芭蕉妻を娶らず。其他婦女子に關せる事一切世に傳はらず。芭蕉戒行〔かいぎやう:仏道に於いて戒律を守って修行に励むこと。〕を怠らざりしか、史傳之を逸したるか、姑〔しばら〕く記して疑を存す。

一後世の俳家芭蕉の手蹟を學ぶ者多し。亦以てその尊崇の至れるを見る。

一芭蕉の論述する所支考等諸門人の僞作又は誤傳に出づる者多し。偶〻芭蕉の所説として信憑すべき者も亦幼稺〔えうち:幼稚。〕にして論理に外れたる者少なからねど。さりとてあながち今日より責むべきに非ず。

一芭蕉の弟子を教ふる孔子の弟子を教ふるが如し。各人に向つて絶對的の論理を述ぶるに非ず所謂人を見て法を説く者なり。

一芭蕉甞て戯れに許六が「鼾〔いびき〕の圖」を畫く。彼亦頓智を有す。稍萬能の人に近し。

一天保年間諸國の芭蕉塚を記したる書あり。曾てその足跡の到りし所は言ふを須〔ま〕たず四國・九州の邊土亦到る所に之れ無きは無し。余曾て信州を過ぎ路傍の芭蕉塚を撿〔けみ〕するに多くは是れ天保以後の設立する所に係る。今日六十餘州に存在する芭蕉塚の數に至りては、殆んど枚擧に勝〔た〕へざるべし。

一寛文中には宗房と言ひ延寶天和には桃靑芭蕉と云ふ。いつの頃か自ら

   發句あり芭蕉桃靑宿の春[やぶちゃん注:後注参照。]

と云ふ句を作れり。芭蕉とは深川の草庵に芭蕉ありしを以て門人などの芭蕉の翁と稱へしより雅號となりしとぞ。普通に「はせを」と假名に書く。書き續きの安らかなるを自慢せりといふ。桃靑といふ名は何より得來りしか詳ならず。余臆測するに芭蕉初め李白の磊落なる處を欣慕〔きんぼ:心から悦び慕うこと。〕し、李白といふ字の對句を取りて桃靑と名づけしには非ずや。後年には李白と言はずして杜甫を學びしやうに見ゆれども其年猶壯にして擅林〔これだと「せんりん」となるが、熟語としてはおかしい。談林派の別称である「檀林(だんりん)」の誤字かと思われる。〕に馳驅〔ちく:駆け回って競争すること。〕せし際には勢ひ杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思はる。

   *

「發句あり芭蕉桃靑宿の春」は、

 

發句なり松尾桃靑宿の春

 

が正しい。この句は「俳諧 はせを盥」(ばしょうだらい・朱拙/有隣編・享保九(一七二四)年刊)に載るもので、

 

  貞享年中の吟、素堂・其角と三ツもの有り

 

注してあることから、「延寶天和」の後の貞享年間(一六八四年~一六八七年)の作である。「金蘭集」(浣花井甘井(かんかせいかんい)編・文化三(一八〇六)年序)では、

 

發句あり松尾桃靑宿の春

 

の句形で載る。

 

 

●「酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪」前書「閑居の箴」の「箴」(しん)は、戒めの言葉の意。「俳諧 勧進牒」(かんじんちょう・路通編・元禄四(一六九一)年跋)には「深川雪夜」と前書、「蕉翁句集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年成立)では貞享三(一六八六)年とするから、これなら芭蕉は数え「四十三歳」である。「本朝文鑑」(支考編・享保三(一七一八)年後序)「閑居の箴」は支考がこの時附した題らしい)では以下のように前文が跗く(新潮日本古典集成富山奏校注「芭蕉文集」に載るものを正字化して示した)。

 

 あら物ぐさの翁や。日ごろは人の訪(と)ひ來るもうるさく、人にもまみえじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふなれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわりなしや。物をも言はず、ひとり酒のみて、心に問ひ心に語る。庵(いほり)の戸おしあけて、雪をながめ、または盃(さかづき)をとりて、筆を染め筆を捨つ。あら物ぐるほしの翁や。

 

●「俳諧掟」これは記載によれば、「芭蕉翁七書」(しちしょ・篤老編・享和元(一八〇一)年序)や「俳諧 一葉集」(いちようしゅう・仏兮(ぶっけい)/湖中編・文政一〇(一八二七)年刊)にも載る、「行脚掟」(あんぎゃのおきて)という芭蕉が男の俳諧師の戒めとして記したものらしい。それによれば、最も早いものは宝暦一〇(一七六〇)年の「五七記」(ごしちき:俳人白井鳥酔が記した友人佐久間柳居の追善集で、その中に生前の柳居が門人を戒めた夜話二十四条と芭蕉の行脚掟十七条を添えたものが出る。)とある。この掟には異なったヴァージョンがあるらしく、「尾花沢市歴史散歩の会」の梅津保氏の芭蕉翁行脚十八ヶ條の掟に三種が載る。この内、まず最初に載るもの(最も古形のものか?)を以下に全文を正字化して引用させて戴く(読み易くするために句読点を加え、誤字と思われるものを訂し、表記の一部を他の二種から類推して整序、読みも歴史的仮名遣に代えて追加してある)。

   *

蕉翁行脚十八ヶ條の掟

一、一宿なすとも、故なき所には再宿すベからず、樹下石上(せきしやう)に臥すとも、あたゝめたる筵(むしろ)と思ふベし

一、腰に寸鐡たり共(とも)帶(たい)すベからず、惣(さう)じてものゝ命を取る事なかれ

一、君父(くんぷ)の仇(あだ)有る處へ門外にも遊ぶベからず、いたゞき蹈(ふま)ぬ心、しのばざる情あれバ也

一、魚鳥獸の肉を好んで食すべからず、美食珍味にふける者ハ、他事にふれやすきものなり、菜根を喰(くひ)てたるなすの語を思ふべし

一、衣類器財は相應にすベし、過ぎたるハよからず、足らざるもしからず

一、人の求(もとめ)なきに、おのが句を出すべからず。のぞみをそむくもしからず

一、たとひ険阻(けんそ)の境(さかひ)たり共、所労(しよらう)の念を起すベからず、起らバ途中より立(たち)歸るべし

一、故なきに馬駕籠(うまかご)に乘るべからず、一枝を、わがやせ足と思ふべし

一、好んで酒を呑(のむ)べからず、饗應によりてハ、かたく辭しがたく共、微醺(びくん)にして止ムべし、亂(みだり)に及(およば)ずの節、迷亂起罪の戒(いましめ)、祭りにもろみを用(もちゐ)るも酔(ゑひ)を惡(にく)んでなり、酒を遠ざかるの訓(くん)あり、つゝしむべし

一、船錢茶代、忘るベからず

一、夕(ゆふべ)を思ひ旦(あさた)をおもふべし、旦暮の行脚といふ事ハ好(このま)ざる事なり

一、人の短をあげて、己が長にほこるハ、甚だいやしき事なり

一、俳談の外、雜談(ざふだん)すべからず、雜だん出なバ、居眠りをして己が勞(らう)を養ふべし

一、女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙(しんしや)せバ、人を以て傳ふベし、惣(すべ)て男女の道は嗣(つぎ)を立てるのみなり、流蕩(りうたう)すれバ、心(こころ)熟一(じゆくいつ)ならず、此道は主(あるじ)へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

一、主(あるじ)あるものは一針一草たり共、取べからず、山河澤(たく)、皆(みな)主なり。慎むべし

一、山河旧跡親しく尋ね入るベし、新(あらた)に私(わたくし)の名を付べからず

一、一字の師たり共、忘るべからず、一句の理(ことわり)をも解せず、人の師と成(なる)事なかれ、人に教(おしふ)るハ、己れをなしたる上の事也

一、一宿一飯のぬしをも、おろそかにおもふベからず、さりとてこびへつらふ事なかれ、如斯(かくのごとき)の人ハ奴(やつこ)たり、只、此道に入る人ハ、此道の人に交(まじは)るベし

       十八ケ條終

   *

以下、リンク先の鳳作が引用した箇所と同一の箇所を改めて三種並べておく(頭の「一、」と読みは除去し、正字化、一部の表記を変更した)。

   *

《鳳作引用》

女性の俳友に親しむべからず。師にも弟子にもいらぬことなり。此道に親灸せば人をもて傳ふべし。總て男女の道は嗣を立つるのみなり。流蕩すれば心敦一ならず。此道は主一無適にてなす。能く己を省るべし

《前掲リンク先第一種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬものなり、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立てるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道は主へも敵にしてなす、己をかへりみるべし

《前掲リンク先第二種》

女性の俳友ニ親しむべからず、師にも弟子にも入らぬもの也、此道に親炙せバ、人を以て傳ふベし、惣じて男女の道ハ嗣を立テるのみなり、流蕩すれバ、心熟一ならず、此道ハ主へも敵ニしてなす、よくよく己をかへりみるべし

《前掲リンク先第三種》

女性を俳友に親しむべからず、師にも弟子にも入らぬ事なり、此道にしたしめば人を以て傳ふベし、惣て男女の道は嗣を立つるのみなり、流蕩すれば心敦一ならず、此道は主一無適にしてなす能くよく己れを省むべし

   *

鳳作の引用は「親炙せば」の箇所を除けば、第三種の形に最も近い。「主一無適」(しゅいつむてき)とは宋の程朱学(ていしゅがく:程顥(ていこう)・程頤(ていい)及び朱熹(しゅき)の儒学解釈学。)に於ける修養説で、心を一つの事に集中させて他に逸らさないことをいう。「論語集注(しっちゅう)」の「学而」に拠る。

 

●「むく鳥とひとに呼ばるゝ寒さかな」岩波文庫荻原井泉水編「一茶俳句集」によれば、「江戸道中」と前書があり、文政二(一八二〇)年の作とする。これが正しいとすれば五十六歳の時(既に柏原隠棲後)の句となるが、この前書といい、句柄といい、これは遡る二十年から四十以上の昔、奥深い信州から独り江戸に出でんとする折りの悲哀の一句としか読めない(因みに一茶が江戸に出たのは十五の時、二十五で立机するまでの十年の間の事蹟は不明である)。ウィキの「ムクドリ」の「人間との関係」に、『日本では、文学の中にムクドリがしばしば登場する。椋鳥は冬の季語と定められている。江戸時代、江戸っ子は冬になったら集団で出稼ぎに江戸にやってくる東北人たちを、やかましい田舎者の集団という意味合いで「椋鳥」と呼んで揶揄していた。俳人小林一茶は故郷信濃から江戸に向かう道中にその屈辱を受けて、「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」という俳句を残している。明治時代には、森鴎外が、日本=世界の中の田舎者という意味で、海外情報を伝える連載コラムに「椋鳥通信」というタイトルをつけた』とある(辞書は勿論、百科事典にだってこんな記載は載り得ない。私がウィキペディアを甚だ称揚する理由は、こうした美事な博物学的記載がそこにあるからである)。

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