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2014/12/20

「澄江堂遺珠」の「麥秀」のとんでもない誤り / ブログ・カテゴリ――「澄江堂遺珠」という夢魔――始動

内容が誤記という重大な問題を孕んでいるだけに、この部分だけは先に公開しておく。以下は芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」の中の「麥秀」の一篇である。後にある字下げの注は佐藤春夫の手になる注である。



  麥秀

げんげ野に羊雨空を仰ぎ

粉江の塔が見ゆる麥の穗のび

菜たね莢になる水中の鼻さき

石橋に草生ゆる農人の行かんともせず

そらまめ花さく中の墓なり

籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

 

   右「麥秀」六句はその詩體と詩情とを異にす

   るとは云へ亦當然支那游記詩章中のもの

   なるべし。

 

[やぶちゃん注:当初、「澄江堂遺珠」のみで虚心坦懐に芥川龍之介の詩想を読み解こうとしたが、この詩の「粉江の塔」「水中」という語に忽ち行き詰ってしまった。「水中の鼻さき」?……まず、「粉江」で検索したが、龍之介の中国旅行の行程の中にこのような地名(或いは川の名前)は見出せなかった。そこで中国滞留の長い教え子に聴いたところ、「聴いたことがありません。これは本当に中国の地名ですか? 他に情報はありませんか?」との返事を得た。そこで、『「澄江堂遺珠」関連資料』の当該資料を探ってみると、驚くべきことが分かった。これは同資料の『ノート1』の『頁1』に載る以下の詩に該当するのだが(取り消し線は芥川龍之介による抹消を示す)、

 

   麥 秀

 

げんげ野に羊雨空を仰ぎ

松江の塔が見ゆる麥の穗のび

菜たね莢になる水牛の鼻さき

石橋に草生ゆる雨空の 農人農人行かんともせず

そらまめ花さく中の墓なり

籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

 

「粉江」ではなく「松江」であり、「水中」ではなく「水牛」なのである!

「水牛」は納得した。では「松江の塔」とは?……「松江」と言えば、芥川龍之介所縁とすればかの出雲の松江(芥川龍之介「松江印象記」初出形テクストを参照)があるが、「塔」は不審であり、この他に出るロケーションは、佐藤春夫が敢えてここにこの詩を配したように、佐藤が誤読したか誤植かは不明だが「水牛」を引くまでもなく、中国大陸での嘱目と考えなくてはおかしい。そもそも「春雨」が出るが、龍之介の松江訪問は真夏である。とすると……「松江」(しょうこう)「の塔」……と称すべきものは中国にないか?……検索をかけると!……あった!――「松江方塔」である! 上海市観光局公式サイトの記載などよれば、現在の上海市郊外の西区にある古城で、「方塔」は正式名称を「興聖教寺塔」といい、土木構造製の九段階方形の塔で高さは四二・五メートル、造形と構造は唐代の煉瓦作りの塔を真似たもので、中国国内では極めて少ない唐代の北宋塔とある。但し、龍之介はここを訪れた形跡は現存する資料の中にはない。この情報を先の教え子に提示してみた。すると、

   《引用開始》(本人の承諾済)

はい! 松江というのは非常に知れ渡った地名であり、上海市に松江区という行政区もあります。塔も有名です。ただ、かなり距離があります。龍之介はせいぜい上海郊外と言っても同文書院あたりまでしか行っていないという印象でしたので、不思議です。もしかしたら、実際に行っていなくても、写真などで見たのかしらん……龍之介は、そんなことしないよな……

先生、龍之介が上海から杭州へ向かう際に、汽車から見えたのではないかしら? 現在の鉄路(新幹線でなく在来線:昔の線路もおそらく同じ場所を通っていたと仮定すれば)から、距離にして一キロメートル足らずです。これなら、絶対に見えたはずです。僕もその在来軌道を何度も利用しました。しかし残念なことに、方塔が見えた記憶は一度もないのですけれども。

   《引用終了》

という返事を貰った。そこではたと思い当った。この詩は「げんげ野に羊雨空を仰」いでいて、「松江の塔」が「麥の穗のび」た先に「見」えるのであり、「菜たね莢になる水牛の鼻さき」が過ぎ行き、「石橋に草生ゆる雨空の」の中を「農人」は「行かんともせず」に立ち尽くすのが見え、今度は「そらまめ花さく中の墓」があって、「籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨」の降っている景なのだ! これらを嘱目する龍之介は、その「松江の塔」に登ったり、その塔の直下に立ったりなどはしていないのだ! しかも景色は目まぐるしく変わっているではないか?! こんな風に景色がつぎつぎと移り変わるのは――これは車窓から見た景色なのではないか?!……こんなことを考えて、私はまさに教え子の言うように、その杭州に向かう汽車から「麦の穂の伸びた先に松江方塔が見えたのではないか?」と返事をものした。

   《引用開始》

はい! 大正十(一九二一)年五月二日。汽車が上海を出て間もなくのことになるはずです。上海市内を出発して約三十キロほど走ったところですから、当時の汽車の速度などを考えれば約一時間ほどといったところでしょうか。

   《引用終了》

と返事が返ってきた。私はもう、誰が何と言おうとこれは興聖教寺塔、松江(しょうこう)の塔の遠望であると信じて疑わないのである!――]



元旦の全文公開に向けて鋭意努力中ではある。
しかし、この「澄江堂遺珠」はまさに芥川龍之介の残した最大の暗号文である。
僕はこれと死ぬまで取っ組み合う覚悟をした。
さすれば、それを行うためのブログ・カテゴリを『「澄江堂遺珠」という夢魔』とした。
末永く、お付き合いの程を――

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