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2014/12/03

北條九代記 卷第六 鎌倉騷動付武州計略靜謐 / 巻第六 了

これを以って本ブログ・カテゴリ「北條九代記」で、全12巻中6巻までの電子化注釈を終わった。やっと折り返し地点――。



      〇鎌倉騷動
武州計略靜謐

同月晦日丑刻(うしのこく)許(ばかり)に、鎌倉中、俄に騷動し、諸方の武士、甲冑を帶(たい)し、旗(はた)を揚げて、御所に馳せ來るもあり、武藏守泰時の館(たち)に集るもあり、兩所に群集(ぐんじふ)ずる軍兵等(ら)、宛然(さながら)雲霞の如くなり。地下、町人共、寢惚(ねおび)れたる紛(まぎれ)に、「すはや、大事の出來りけるぞ」とて、資財雑具を持搬(もちはこ)び、老いたる親、幼き子を引連れて、我も我もと逃惑ひ、或は馬に蹴られて、吟臥(によぎふ)し、或は人に蹈倒(ふみたふ)されて、起上らず、手足を打損じ、氣を取失ひ、又、その中に盗人ありて、財寶を捩取(もぎと)り、衣裳を剝(はぎと)り、女童(をんなわらべ)の啼叫ぶ聲々巷に盈(み)ち、小路(こうぢ)に餘(あま)りて、物音も聞分(ききわ)かず、いとゞ暗さは暗(くらか)りければ誰(たれ)と云ふ別(わかち)も見えず、上を下にもてかへす。武藏守、「是は如何なる事ぞ」とて、制止を加へらるれども、數百騎の軍勢なれば、只騷ぎに騷ぎて、輒(たやす)く靜まらず。この比、内々命ぜらゝ旨ある歟、甚(はなはだ)穩便ならず。世上の狼戻(らうれい)、この節を次(ついで)として、起立(おきた)つこともありなん、愼み思召すべき由、御所へ御使を參(まゐら)せらる。尾藤左近入道、平(へいの)三郎左衞門尉、諏訪兵衞尉三人、郎從を引率し、御所の門外に出でて、馬に打乘り、「謀叛の輩(ともがら)こそあれ」と高聲に喚(よばは)り、濱邊を指して馳向(はせむか)ふ、數百騎の軍兵等、心得たりとて、彼の三人の跡に付きて稻瀨川にぞ到りける。尾藤入道道然(だうねん)、平〔の〕三郎、諏訪五郎、此所(こゝ)にして馬を立てつゝ、軍兵等に申さるゝやう、「誠には謀叛人はなし、御所の近邊を靜められんが爲なり。子細もなくして、面々、旗を揚げらるゝ事、向後(きようこう)、然るべからず 夜陰の程は各(おのおの)旌(はた)を預り候はん。武州の仰にて候ぞ」とありしかば、老軍(らうぐん)二十四人、御使へ旗をぞ參せける。明(あく)れば三月朔日、旌を獻(けん)ぜし輩(ともがら)を御所に召集め、武州、對面あり。「各(おのおの)異義なく旗を進(しん)ぜらるゝ事神妙(しんべう)に候。但し、子細をも聞届けず、騷動する事、向後、固く愼むべし、旗は家々の紋(もん)に任せて返下(かへしくだ)さるゝ所なり」とて面々に返されけり。一擧の謀(はかりごと)に靜(しづま)りける。世、以て美談せしとかや。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年二月三十日、三月一日に基づく。

「丑刻」午前二時頃。

「地下」「ぢげ(じげ)」と読む。元来は、昇殿を許されない官人の総称またその家格を指し、蔵人(くろうど)を除く六位以下の者。公卿・殿上人に対する語であるが、ここは在郷の下級武士のことを指していよう。

「寢惚(ねおび)れたる」「ねおびる」はラ行下二段活用の動詞で、夢を見て怯える、寝惚(ねぼ)けるの意。

「吟臥(によびふ)し」「によぶ」は「呻吟(によ)ぶ」(元「によふ」)で、バ行四段活用動詞で、うなる・うめく・呻吟する・苦吟するの意。うめいて伏し転げ。

「この比、内々命ぜらゝ旨ある歟、甚穩便ならず。世上の狼戻この節を次として、起立つこともありなん、愼み思召すべき由、御所へ御使を參せらる」「狼戻」狼唳。原義は狼の如く凶悪で道理に背く行為、狼藉・実力行使による違法行為を指す(「戻」の字義はよくなく、曲がる・背く/たがう・罪/咎・虐げる・手荒い/酷い・貪る/欲張るとった意味を持つ。現在の「もどす」というのは国訓に過ぎない)。この部分、分かり難い。文脈としては、

(事態を推察した泰時は、そこで)「この比、内々命ぜらゝ旨ある歟、甚穩便ならず。世上の狼戻、この節を次として、起立つこともありなん、愼み思召すべし。」由、御所へ御使を參せらる。

である。即ち、この騒ぎは将軍頼経(満十二歳)が――ただの退屈しのぎの思いつきか、それとも何らかの意図があったのかは不明ながら――内々に、一部の御家人たちに対し、参集の命令(訓練)を命じたものに端を発したものででもあったらしい。但し、「吾妻鏡」の本文は、将軍の軽率な事前命令をオブラートに包んであり、この「内々命ぜらゝ旨ある歟」は、明らかに泰時が側近三人に秘かに命じられたものか、という別文脈で書かれてある。「北條九代記」はここ全体の文脈は拙いが、この箇所に限っては現実的な解釈を施しているとは言える。

「尾藤左近入道」尾藤景綱は北条氏得宗被官で御内人。泰時の懐刀。

「平三郎左衞門尉」平盛綱。北条氏家司で内管領長崎氏の祖。実務官僚として泰時をよく補佐した。北条家家法の作定や御成敗式目制定の奉行も務めている。

「諏訪兵衞尉」諏訪盛重。得宗被官で御内人。泰時の側近。法名の蓮仏の名で「吾妻鏡」に多出。

「御所の近邊を靜められんが爲なり」ここで用いられている「られん」という敬語によって、台詞の最後まで読まずとも、この御所とその直近にあった泰時亭からの軍兵の移動が、群集したただならぬ武装兵らを鎮静させるための方途としての、泰時の命であったことが明かされている。

「子細もなくして、面々、旗を揚げらるゝ事」公的に納得出来る理由なしに、安易におのおの家の軍旗を掲げること。

「夜陰の程は」今は御府内の混乱が激しい状況なので、取り敢えず今夜の間は。

「老軍」老練な武士たち。実戦経験を多く積んで戦さによく慣れて巧みであること。

「旗は家々の紋に任せて」旗はそれぞれ各家一族の定紋とつき合せた上、正しく。

 

 以下、連続する「吾妻鏡」の寛喜二(一二三〇)年二月三十日及び三月一日を続けて引いておく。

 

〇原文

卅日壬辰。陰。丑尅。俄鎌倉中騷動。著甲冑揚旗之輩競集于御所幷武州門前。雖被加制止。及數百騎之間。輒難靜謐。方々已移時。武州仰云。御所邊騷動。太不穩便。世上狼唳起於如此之次。尤可愼思食云々。頃之内々依有被命之旨歟。尾藤左近入道。平三郎左衞門尉。諏方兵衞尉引率郎從。出門外。稱有謀叛之輩。指濱馳向之間。數百騎輩。忽以從于彼三人之後。到于稻瀨河邊。道然已下相逢于所馳來之軍士云。無叛逆之族。只爲鎭御所近々之騷動也。爰非仰兮面々揚旗。何樣事哉。若無野心者。夜陰之程可進旗。是武州仰也云々。依之老軍二十餘輩。献旗於御使。各自此所離散訖。

一日癸巳。晴。召聚去夜進旗之輩於御所。武州對面給。各不存異儀。進旗尤神妙也。但無其由緒騷動。向後固可愼云々。旗者任文悉以被返下之。世以莫不美談。彼輩名字。皆被注置之。不知其故云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

卅日壬辰。陰る。丑の尅、俄かに鎌倉中、騷動す。甲冑を著し、旗を揚ぐるの輩、御所幷びに武州の門前に競ひ集まる。制止を加へらると雖も、數百騎に及ぶの間、輒く靜謐し難し。方々、已に時を移す。武州仰せて云はく、

「御所邊の騷動、太(はなは)だ穩便ならず。世上の狼唳(らうれい)、此くのごときの次(ついで)に於いて起こる。尤も愼み思ひし食(め)すべし。」

と云々。

頃之(しばらく)あつて、内々に命ぜらるの旨有るに依りてか、尾藤左近入道・平三郎左衞門尉・諏方兵衞尉、郎從を引率して、門外に出で、

「謀叛の輩有り。」

と稱し、濱を指して馳せ向ふの間、數百騎の輩、忽ち以つて彼の三人の後に從ひ、稻瀨河邊に到る。道然已下、馳せ來る所の軍士に相ひ逢ひ云はく、

「叛逆の族(やから)無し。只、御所近々の騷動を鎭めんが爲なり。爰に仰せに非ずして面々旗を揚げ、何樣(いかやう)の事かな。若し野心無くんば、夜陰の程、旗を進ずべし。是は武州の仰せなり。」

と云々。

之れに依つて老軍二十餘輩、旗を御使に献じ、各々此の所より離散し訖んぬ。

 

(三月)一日癸巳。晴る。去ぬる夜、旗を進ずるの輩を御所へ召し聚(あつ)め、武州、對面し給ふ。

「各々、異儀を存ぜず、旗を進ずることは尤も神妙なり。但し、其の由緒無く騷動すること、向後、固く愼むべし。」

と云々。

旗は文(もん)に任せて、悉く以つて之れを返し下さる。世、以つて美談とせずといふこと莫し。彼の輩の名字(みやうじ)、皆、之れを注し置かる。其の故は知らずと云々。

 

この最後の「彼の輩の名字、皆、之れを注し置かる。其の故は知らず」というのは、訳すなら――この時に参集して旗を指し出した諸士の氏名は、皆、これを記録しておかれた。但し、その理由は分からない。――という意である。これはこのいささか不審な騒動に関わった者たちをリストの残したとも、逆に素直に伝家の神聖なる軍旗を指し出した諸家を顕彰するために残したともとれる。仁政を敷いた泰時であるから好意的に後者でとりたいが、であればわざわざ「其の故は知らず」とは記さないとも私は考えている。]

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