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2014/12/09

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鎌倉宮

    ●鎌倉宮

鎌倉宮は大塔宮土牢(つちろう)の前に在り。明治二年創建。大塔宮を祀る。官幣中社なり。社殿拜殿共に白木造にて。鳥居には今上天皇陛下の十四歳の御時に書(かゝ)せられし鎌倉宮の額を掲く。拜殿の左脇に小社二あり。東に面して建つ。左なるは村上義照。右なるは大塔宮の侍姫南の方を祀れるものなり。さて本社創建の時の出來高及び御造營掛(かゝり)等(とう)は左の如しといふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げで、二行目及び三行目の割注は底本では下インデント二行。]

     大塔宮御社御創營出來高御入用

一金九千四百四拾兩〔大工木挽諸職人山挽物石類御買上代幷田地畑地山共御買上御入用〕

一金三千七百四拾壹兩〔於東京御材木銅鐡物御疊緣御張付紙共御買上ケ運送共御入用〕

        永九百三拾三文六分

 合金壹萬三千百八拾壹兩

         永九百三拾三文六分

    但檜挽木同板御藏御有合御遣方致し候

  右同斷出來日數四十八日

   巳二月廿三日より山林幷畑地開發取掛四

   月十日御造營皆出來翌十一日神祇官へ曳

   渡相濟申候事

          御造營御用掛

             営繕司知事

                岩男助之丞

          同判事頭取並

                秋山杢兵衛

          同附屬

        准八等官    田村 健藏

        准九等官    岩田 藤藏

        同       河合喜兵衛

[やぶちゃん注:「大塔宮土籠蹟」の「鎌倉宮」注参照。

「村上義照」大塔宮護良親王の身代わりとなって壮絶な死を遂げた忠臣村上義光(よしてる ?~元弘三・正慶二(一三三三)年四月十五日)のこと。信濃村上源氏の出身。以下、ウィキの「村上義光」から引く。『『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉』した九人の一人として登場、「太平記」巻第五の「大塔宮熊野落事」に、『道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉し』ていた『赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし』、ともに供奉していた『平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた』。『遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ』、四~五丈(約十二~十五メートル)の『かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた』。『護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)』とあり、また、「太平記」巻第七の「吉野城軍事」の下りには、元弘三年、幕府方の二階堂貞藤が六万余騎を率いて吉野山に攻め入った際、『護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂』(吉野山にある金峯山寺の本堂)『まで兵が迫った。親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。 義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る』とある。『なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した』。墓所と伝えられるものが、現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山寺の本堂より北西約一・四キロメートルの場所にあり、『案内板によると身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという』とある。

「大塔宮の侍姫南の方」南の方は藤原保藤の娘雛鶴姫。親王殺害時には親王の子を身籠っていたが、この子は後に日蓮宗に帰依して出家、日叡と称し、大町松葉ヶ谷の荒廃していた法難の跡地を整備、実質上の法妙寺(形の上では妙法寺五世)開山となった。父護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建てて、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)に因んで山号を楞厳山と名付けた。妙法寺境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母南の方と日叡自身の墓が現存する(ウィキの「妙法寺 (鎌倉市大町)」に拠った)。南の方は「侍姫」(じき)とあるように正妻(彼の正妻は北畠親房の娘立花姫)ではなく側室であった。

「出來高」土木用語で部分的に完了した工事のことを指し、その出来高部分に対して代金を支払うことを「出来高払い」という。

「永」は江戸時代に幕府が永楽銭の通用を禁じた際に主に関東の畑作貢租や物価表示に用いた銭貨の名目的呼称、仮想通貨。ここは、「一兩」を、永一貫文=金一両として「九百三拾三文六分」として計算する、ということを意味している。

「岩男助之丞」岩男俊貞(天保七(一八三六)年~明治一六(一八八三)年)か? 元肥後藩士で肥後細川藩校時習館に学び、勝海舟の神戸海軍塾に入塾。入塾に際して坂本龍馬と熊本から神戸まで同行した。明治五(一八七二)年に米国ボストンに留学、帰国後に大蔵省主計局監督正・酒田県大参事・熊本県議会副議長等を歴任している。ネット検索では彼は「岩男助之丞」を名乗っている。

「秋山杢兵衛」以下「田村健藏」「岩田藤藏」「河合喜兵衛」四名については、鎌倉宮自体への私の意識が冷淡であるため、遺憾ながら探索の触手が動かない。鎌倉宮を愛されるお方に委ねたい。悪しからず。なお一応、検索はかけてみたがそれらしい人物(後に高官になったり、何らかの事蹟が残る者)は見当たらなかったと言い添えておく。]

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