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2014/12/07

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 船上にて――ある司教と

 晩の七時に我々はまた出帆し、海峡をぬけて再び大洋へ出た。濃霧の中、いささか荒れ模様の海を、岩や島の散在する沿岸に近く、我々は一晩中航行しなくてはならなかった。船客中に天主教の司教が一人いて、私はこの人と興味ある会話をとりかわした。十九年前、パリから来た時彼はフランシスコ派の牧師であったが、その後司教に任命され、ローマで開かれた大廻状会議にも列席した。彼は立派な頭と、大きな、同情深そうな眼とを持っていた。私は彼に、他に同じ事をしている牧師も多数いる上に、十九年間仕事をして、日本に天主教の帰依者が何人いるかと聞いた所、彼は二万人はいると思うといった。彼は仕事に熱中して居るのであるから、この数から二、三千人を引き去るとして、私は三千三百万人を改宗させるのに、どれ程長くかかるかを計算して見ようと思い、また全体として、その言葉で説服することが出来る彼自身の国民の罪人、及び母親の祈禱を覚えているかも知れぬ人々の間で改宗させる為の努力をした方が、如何に、よりよいかを考えた。加之(のみならず)、このようにすれば、日本人と接触する外国人の態度や行儀が、条約港に於てより良好な印象を残すに至つたであろう。司教は訓練された人であった。彼は英語、フランス語、日本語を流暢にあやつり、ラテン語はいう迄もなく、母語同様であった。私は彼にどれ程の金額を受取っているかを尋ねた所が、彼は一ケ月二十ドルだと答えた。牧師は一ケ月十ドルである。彼等は彼等の学校や、婦人慈善団体のために、フランスから醵金を受けるが、非常に倹約で、車馬に乗る代りに歩いたりさえする。彼等が独身で、彼等自身だけを支持すればよいのは事実である。新教の宣教師達は、一年に千ドル貰い、結婚していれば生れる子供一人に就て五十ドルずつ余計に貰う。私はこの司教に向って、彼の教会には絶対的に反対だといったが、彼はそれにもかかわらず、私と一緒に煙草を吸い、また別れた時にも、私の暗澹たる来世を考え、親切のあまり泣き出したりするような事はしなかった。だが、この偉大なる教会は、何という驚異で、そして力であることよ! 天主教徒が世界中どこへ行っても、同一の儀式と信仰とを持つ彼の教会を発見し得るとは、何という一致と、力強さとであろう! 新教の各教会も、現にそれ等を分離している詰らぬ教義をふりすて、すべての教会各派が、若干の簡単な信仰の行為に合致し得たら、それは如何に、より効果的になるであろう!

[やぶちゃん注:ここでモースが逢った司祭というのは、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで知られ、後半生を日本の布教に捧げたフランス人カトリック宣教師ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean 一八二九年~明治一七(一八八四)年)ではなかろうか? ウィキの「ベルナール・プティジャン」を見ると、『フランス生まれのプティジャンは、1854年に司祭に叙階された。1859年にパリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡り、那覇で日本語と日本文化を学んだ。1862年(文久2年)についに横浜に上陸することができ、翌年長崎に渡った。任務は大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということであった。後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得た。こうして建てられたのが大浦天主堂である』。『プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命された。1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などに力を注ぎ、1884年(明治17年)に大浦で死去し、大浦天主堂内に埋葬された』とあるが、ここでモースはこの「司教」――当時プティジャンは既に司教である点で一致――が明治一一(一八七八)年から「十九年前、パリから来た」としており、これはフランス人プティジャンが『パリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡』ったとする事蹟とほぼ完全に一致するように見える。彼の「信徒発見」も引いておきたい。『大浦天主堂は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は『フランス寺』『南蛮寺』と呼び見物に訪れた。プティジャンは訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許していた』。『プティジャンが本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由があった。長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである』。『はたして1865年(元治2年)317日(旧暦220日)の午後、プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。浦上から来た彼らこそ300年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。プティジャンは驚き喜んだ』。『プティジャンはこの仔細をヨーロッパへ書き送り、大きなニュースとなった。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきた。プティジャンは見学を装って訪れる日本人信者に対し、秘密裏にミサや指導を行う。しかし堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府やキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府から迫害や弾圧を受けることにな』った(これを「浦上四番崩れ」という。慶応三(一八六七)年に、隠れキリシタンとして信仰を守り続けてキリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令によって大量に捕縛されて拷問を受け、その後も江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちが流罪とされた事件で、これは諸外国の激しい非難を受け、欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚いて本国に打電したことから、明治六(一八七三)年にキリシタン禁制は廃止となり、慶長一九(一六一四)年以来二百五十九年振りに日本でのキリスト教信仰が公認されることになった発端の事件。ここはウィキの「浦上四番崩れ」に拠った。以下とダブる叙述もあるが敢えて注した)。『しかしプティジャンによるキリスト教徒発見と、明治政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国を動かし、日本に対しキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がり、江戸時代より禁教とされてきたキリスト教信仰の復活のきっかけとなった』とある。私の同定が誤っている場合はご指摘戴ければ幸いである。

「晩の七時」明治一二(一八七九)年五月十一日。十日午後に神戸を出た名古屋丸は馬関(下関)に寄港、長崎到着は十二日の朝であった。

「フランシスコ派の牧師」原文は“Franciscan priest”で、フランシスコ会はカトリック教会の修道会であるから、「牧師」ではなく、「司祭」と訳すべきところである。』

「大廻状会議」原文は“the great encyclical council”。この“encyclical”はローマ教皇が全司教へ送る回勅のことを指すから、カトリック教会での代表司教(理事)の総協議会といった謂いか?

「条約港」既注。ここまでモースが強烈な皮肉を延々と述べている点に着目されたい。十九年で一万七、八千人を改宗させ得たとして、その時の日本の総人口の三千三百万人(明治一二(一八七九)年一月一日当時の日本の現住総人口はそれよりもっと多い約三千六百四十六万四千人と推定されている。ウィキの「国勢調査以前の日本の人口統計」に拠る)総てを改宗させるには単純に三万四千年以上かかる計算になり、この司教が生地フランスで不信心な連中を改宗させた方が遙かに現実的であり、しかもそれによって正しく敬虔で誠実なる(ここも無論、皮肉)キリスト教徒が既にして世界に蔓延しておれば、日本開国後、条約港にやってきた他国人の中に、あんなにも日本人を見下した卑劣な態度をとる外国人を、遙かに減らし得たはずではないか、と徹底的に揶揄しているのである。キリスト教嫌いのモースならではの、如何にもねちっこい批判である。

「牧師は一ケ月十ドルである」ここも“The priests”で、ここはカトリック内に於ける「司教」(“Catholic bishop”)の下位の地位を指しているから、「司祭」と訳すべきところである。そうしないと、以下のプロテスタントの牧師が彼らに比べて金銭的に遙かに優遇されていること(これはこの司教が新教を非難する意図で語ったことかも知れない)をどう思うのかと訊ねたかった感じのモースの叙述が生きてこない。モースはカトリックと比べるとより遙かにプロテスタント嫌いであったこともこの前後から窺える。モースに言わせれば、プロテスタントの牧師連中はキリスト教に反意を示しただけで、別れる時にも「私の暗澹たる来世を考え、親切のあまり泣き出したりするような事」をやらかす鼻持ちならない連中だ、と言いたい雰囲気である。以前にも述べたが、毛皮商人であったモースの父は、敬虔なプロテスタントであった。本断章は最後をそのプロテスタントが激しく教派・教団・に分離して、個別の教義に固執して、本来の純粋な信仰から遠くかけ離れてしまっている、その結果としてカトリック教会のような取り敢えずの布教の成功を手に出来ぬのだと指弾して終わるのである。

「醵金」「きょきん」と読む。ある特定の目的のために金を出し合うこと。又はその金。]

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