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2014/12/29

北條九代記 卷之七 夏雪 付 勘文 竝 北條修理亮時氏卒去

      ○夏雪  勘文  北條修理亮時氏卒去

同十六日、美濃國より飛脚到來してまうしけるは、「去ぬる九日辰刻に、當國蒔田莊(まきたのしやう)に大雪降りて、一尺餘に及ぶ」と云へり。武藏守泰時、甚(はなはだ)畏れしめたまふ。武藏國金子郷(かねこのがう)にても、この日、雪交りに雨降りて、後には雹(あられ)の降りければ、これに打たれて、鳥獸(とりけだもの)多く死せしと注し申す。「凡そ六月中、雨、更に降り止む日なし。水無月の降雨は、豊年の兆(てう)とはいへども、涼氣、その法(はふ)に過(すぎ)たり。夏、熱(あつ)かるべくして、却(かへつ)て寒涼(かんりよう)なるは、秋、疫癘(えきれい)行はるとぞいふなる。この行末愈(いよいよ)覺束(おぼつか)なし。五穀も定(さだめ)て登(みの)らざらんか。風雨、節に違ふときんば、歳、必じ飢荒すと書典(しよてん)にも見えたり。只事にあらず。關東の政務、私(わたくし)ある歟(か)。善を賞し、惡を誡め、身を忘れて世を救ふ志(こゝろざし)、このうち中にも誤(あやまり)あらん。陰陽の氣運、正(たゞし)からず。天道(てんだう)の咎(とがめ)、何事ぞ。泰時一人が身に負うて、萬民を助けさせ給へ」と、涙を流して歎かれけり。夫(それ)、盛夏の節に雪の降りける事、孝元天皇三十九年六月に降雪あり。推古天皇三十四年六月に大雪あり。醍醐天皇延喜八年六月に大雪降りて、皆、不吉なり。又當今(たうぎん)の御宇に當(あたつ)て、今月九日に雪降りたり。何(いづれ)も帝世(ていせい)、皆、各(おのおの)二十六代を隔つ。上古の時すら不吉なり。况(まし)て末世(まつせ)の今、九夏(きうか)の天に雪の降ること、如何樣(いかさま)、宜しかるまじと思はぬ人もなかりけり。泰時の嫡子修理亮時氏は、去ぬる貞應三年六月に、相摸守時房の長男、掃部助時盛と同時に、京都六波羅に上洛せしめ、洛中の成敗(せいばい)を行はれ、両人ながら、父に替りて政務をいたしける所に、病氣に依て、鎌倉に歸られ、泰時の舍弟、駿河守重時、その替に上洛せしむ。時氏、愈(いよいよ)、病惱(びやうなう)重くして、遂に六月十八日に卒去あり。次男時實は、去ぬる嘉祿三年六月に卒(そつ)す。四、五ヶ年の間に、泰時、既に、三人の息を失ひ給ふ。愁歎の色深く、腸(はらわた)を斷ち給ふといへども、力及ばざる事なれば、時氏の尸(かばね)をば大慈寺の傍(かたはら)なる山の麓に葬送し、中陰の佛事作善(さぜん)、最(いと)慇(ねんごろ)に致されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年六月十一日・十六日及び同巻の寛喜二年六月十八日の記事に拠る。以下暫くの章は所謂、「寛喜(かんき)の飢饉」とよばれたは、寛喜二年から翌寛喜三年にかけて発生した異常気象による大飢饉を主調として描く。これは鎌倉時代を通じて最大規模の大飢饉となった。「吾妻鏡」の引用は特にこれを必要と認めないので省略する。

「同年」寛喜二(一二三〇)年。

「美濃國」「蒔田莊」現在の岐阜県大垣市

「一尺餘」凡そ三十センチメートルあまりも。

「武藏國金子郷にても、この日、雪交りに雨降りて、後には雹(あられ)の降りければ、これに打たれて、鳥獸多く死せし」「武藏國金子郷」は現在の埼玉県入間市。「この日」とあるが蒔田荘と同日ではなく、先立つ五日前の六月十一日のことであった(「吾妻鏡」)。「雹(あられ)」の読みはママ。

「疫癘」疫病。

「關東の政務、私ある歟」私(わたし)が執り行っているこの関東の御政道に、私自身がしかと認識していない私事(わたくしごと:利己的な部分。)があるからなのか?

「陰陽の氣運、正からず」夏の盛りに雪が降るというのは、明らかに世界の万物の根源たる陰陽の気の動き、その消長自体が正常でないことを意味している。

「天道の咎、何事ぞ」天は如何なるものを罪とし、如何なる咎めをこの世に下そうとしているのか?!

「孝元天皇三十九年」西暦で紀元前一七六年とする。

「推古天皇三十四年」西暦六二六年。

「延喜八年」は西暦九〇八年であるが、増淵氏の現代語訳では、これは同じ醍醐帝の御代の「延長八年」(西暦九三〇年)の誤りであるとする。

「當今の御宇」当代の御代。第八十六代後堀河天皇(在位は承久三(一二二一)年七月九日~貞永元(一二三二)年)。

・「九夏」九十日の夏の期間。九暑。

・「時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二年六月十八日(一二三〇年七月二十九日)は北条泰時の長男。母は三浦義村の娘矢部禅尼。病没で享年二十八、得宗であったが夭折のために執権にはなっていない逝去の日付は奇しくも三年前に弟時実が暗殺されたのと同日であった。。第四代執権には時氏の長男経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)が就任(祖父泰時逝去の翌日である仁治三(一二四二)年六月十六日。数え十九)している。なお、実は泰時にはもう一人男子、三男がいる。北条公義(きみよし 仁治二(一二四一)年~?)であるが、ウィキの「北条公義」によれば、『すでに長兄の時氏や次兄の時実らが死去していたため、泰時は時氏の長男・北条経時を嗣子に迎えて』しまっており、さらに公義自身も泰時が五十九歳という高齢で生まれた息子であったため、出生翌年、父が死去した際には僅か二歳だったため、『後継者候補には挙げられず、僧侶として余生を送ったといわれ』、『没年など詳しい業績は不明である』とある。

・「貞應三年」一二二四年。

・「鎌倉に歸られ」帰鎌はこの寛喜二(一二三〇)年四月。

・「時實」北条時実(建暦二(一二一二)年~嘉禄三年六月十八日(一二二七年八月一日)

は泰時の次男。時氏は異母兄(母は安保実員の娘)。「吾妻鏡」やウィキの「北条時実」などによれば、第四代将軍藤原(九条)頼経の側近として仕えていたが、丈六堂供養(恐らく後掲する十二所の大慈寺にあった仏堂の供養)を翌日に控えて御家人達がごった返す大雨の鎌倉で、自身の家来高橋次郎(京都の高橋(五条大橋付近)の住人とことさらに特筆するところをみると、どうも時実がプライベートに雇い入れたところの、わけありの家人かとも思われる)によって他の仲間の御家人三人とともに殺害されている。原因は不明であるが、高橋次郎は直ちに捕らえられ、即日腰越の浜で斬刑に処せられている。原因としては仕事上のトラブルなどが考えられているが、高橋家自体はこれ以後も断絶しておらず、その家系は後の執権北条重時の家臣となって存続していることから、時実殺害にはそれなりに情状酌量すべき事情があったとも推測されている、とある(これはまた、名君泰時らしい寛大な処置とも言える)。

「大慈寺」現在の明王院の東にあった古刹。この土地は古くは丈六・丈六堂と呼ばれており、江戸時代までは堂だけは残っていたらしい(「新編相模国風土記稿」など)。巨大な丈六の木造仏頭は現在、十二所の光触寺に客仏としてある。]

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