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2014/12/10

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 東光寺舊蹟

    ●東光寺舊蹟

大塔宮土牢の前の畠(はたけ)なり。醫王山と號せし禪刹にて。建武二年五月。足利直義大塔宮を東國に下し禁獄せしといふは即ち此所(このところ)なり。開山未だ考えず。相模國風土記に。或説に當寺は民部大夫行光が承元三年に創建せし伽藍にて。玆年十月十日。供養を遂く。時に二位の禪尼を始。北條の一族等參堂ありし事東鑑に見えたる是なるべしと云へど。信據なけれは難しとあり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷三」には、

   *

○東光寺舊跡 東光寺(とうくはうし)の舊跡は、大塔の宮の土籠の前の畠(はたけ)也。醫王山(いわうざん)と號す。開山未考。【鎌倉大ヲホ日記】に、建武二年七月二十三日、兵部卿の宮、直義が爲に、東光寺に於て生害せらるとあり。【竺仙録】に、貞和三年七月二十三日、日本國、相模州、鎌倉縣、東光禪寺住持比丘友桂、國朝の爲に寶塔を建立すとあり。【空華集】に、義堂、東光寺にて、大塔の宮を弔ふの詩あり。

   *

とし、鎌倉七」には、

   *

東光寺舊跡 藥師堂谷にあり。大塔宮土の籠といふの側の畠地をいふ。醫王山と號せしといへども、開山・宗派もしれず。【鎌倉大日記】といふものに、建武二年七月廿三日、兵部卿宮は、直義が爲に、東光寺におゐて生害せらるとあり。或説には、民部大夫行光、永福寺の傍に於て、右大將家の御追善に、一伽藍建立し、承元三年十月十日供養、明王院僧正公胤を導師とす。尼御所渡御し給ふといふ。其後東光寺といふ一寺に成しならん。されど廢せしことも傳へざれば、開山宗派のことも失ひしにや。又云、【竺仙録】といふものに、貞和三年七月廿三日、東光禪師住持比丘友桂、國朝のために寶塔を建立することを載せり。按ずるに、七月廿三日といへば、大塔宮の忌日なれば、みやの御爲に建立せし塔婆なるべし。此寺も廢せしゆへ、外へ移せしにや。

【梅松論】に云、建武元年六月七日、兵部卿親王大將として、將軍の御所に押寄らるべき風聞しける程に、武將の御勢、御所の四面を警衞し奉り、その餘の軍勢二條大路に充滿しける 程に、事の體大儀におよぶに依て、當日無爲になりけれども、將軍より憤り申されければ、全く叡慮にあらず。宮の張行の趣也し程に、十月廿二日の夜、御參内の次を以て、武者所に召籠奉りて、翌朝常盤井殿へ還し奉り、武家のともがら警衞し奉る。同十一月、親王をば細川陸奧守顯氏受取奉りて、關東へ御下向なり。思ひのほかなる御旅のそら、申も中々おろかなり。みやの御謀反、眞實は叡慮にて候しかど、御科を宮にゆずり給ひしかど、鎌くらへ御下向とぞ聞ゑし。宮は二階堂村の藥師龜堂谷に御座有けるが、武家よりも却てきみをうらめしく渡らせ給ふと、御獨ごとをのたまひけるとぞ。

【空華集】に、義堂、東光寺にて、兵部卿のみやを弔の詩あり。

   *

とある(「竺仙録」(じくせんろく)は建長寺などに住した来日僧竺仙梵僊(至元二十九(一二九二)年~貞和四・正平三(一三四八)年)の「竺仙和尚語録」)。

 「吾妻鏡」を見ると、建久二(一一九一)年二月十五日の条の中に、

   *

○原文

[やぶちゃん注:前略。]及晩幕下歷覽大倉山邊給。爲建立精舍。得其靈地給之故也。是去々年征奥州給之時。合戰無爲之後。鎌倉中可草創伽藍之由。有御立願。而彼年暮訖。去年奥州騷動。國土飢饉幷御上洛等計會。依之無營作。於今者郡國悉靜謐。民庶皆豊稔之間。漸有其沙汰。善信。行政。俊兼等可奉行之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

晩に及び、幕下《頼朝》、大倉山の邊りを歷覽し給ふ。精舍建立せんが爲に、其の靈地を得給はんが故なり。是れ、去々年、奥州を征し給ふの時、合戰無爲(ぶゐ)の後は、鎌倉中に伽藍を草創すべきの由、御立願(ごりふぐわん)有り。而るに彼の年は暮れ訖んぬ。去年、奥州騷動し、國土飢饉幷びに御上洛等、計會(けいくわい)す。之に依つて營作無し。今に於いては郡・國、悉く靜謐す。民庶、皆、豊稔(ほうじん)の間、漸く其の沙汰有り。善信《三善》・行政《二階堂》・俊兼《藤原》等、之を奉行すべしと云々。

   *

とあって、二年後の建久四(一一九三)年十一月八日の条に、

   *

○原文

八日辛未。前權僧正眞圓〔號亮〕自京都參著。是永福寺傍建梵宇。被安置藥師如來像之間。爲供養導師依被招請也。點比企右衛門尉能員宅。被招入之云々。又願文到著。草式部大輔光範卿。淸書按察使朝方卿云々。

○やぶちゃんの書き下し文

八日辛未。前の權僧正眞圓〔亮と號す。〕京都より參著す。是れ、永福寺の傍らに梵宇を建て、藥師如來像を安置せらるるの間、供養導師として招請せらるに依つてなり。比企右衛門尉能員が宅を點じ、之を招き入れらると云々。

又、願文(ぐわんもん)、到著す。草は式部大輔光範卿《藤原》、淸書は按察使朝方卿《葉室》と云々。

   *

とある(「願文」は永福寺開山式の式典用のもの)。これらを受けて「相模国風土記稿」は、『これは薬師堂であるから東光寺が医王山の名を負っている点と、その位置関係からみて東光寺の前身かとも見られる』と臆測している。この同書の臆測部分は貫・川副著「鎌倉廃寺事典」からで、同事典では『要するにこの堂は永福寺の伽藍の一環として建てられたものであるらしい』とし、「吾妻鏡」建久四(一一九三)年十一月二十七日のクレジットのみを附す。この条は、「廿七日庚寅。永福寺藥師堂供養也。將軍家渡御寺内。於南門外整行列。千葉小太郎成胤持御劔。愛甲三郎季隆懸御調度云々。」(廿七日庚寅。永福寺藥師堂の供養なり。將軍家《頼朝》、寺内に渡御す。南門外に於いて行列を整ふ。千葉小太郎成胤、御劔(ぎよけん)を持つ。愛甲三郎季隆、御調度を懸くと云々。)で始まる「永福寺」の「薬師堂」供養の記事である。

 以下、「風俗画報」本文の注を施しておく。

「建武二年」西暦一三三五年。

「民部大夫行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)。二階堂行政の子で政所執事。二階堂行村兄。以下、ウィキ二階堂行光を参考に資料を加えながら記す(『 』はウィキの引用)。建保六(一二一八)年に源実朝が右大臣となった政所始(「吾妻鏡」十二月二十日の条)を記す記事の冒頭を見ると、「去二日。將軍家令任右大臣給。仍今日有政所始。右京兆幷當所執事信濃守行光。及家司文章博士仲章朝臣……」(去ぬる二日、將軍家、右大臣に任ぜしめ給ふ。仍つて今日、政所始め有り。右京兆幷びに當所の執事信濃守行光、 及び家司文章博士仲章朝臣……)とあって、北条義時(右京兆)の次席で政所実務官僚トップとして登場している。『この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の』「吾妻鏡」建保七・承久元(一二一九)年二月十三日の条で、「十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏狀。望此事云云。」(十三日庚戌(かのえいぬ)。信濃前司行光、上洛す。是れ、六條宮・冷泉宮兩所の間、關東の將軍と爲し、下向せしめ御(たま)ふべしの由、禪定二位家《政子》申せしめ給ふの使節なり。宿老の御家人、又、連署の奏狀を捧げ、此の事を望むと云云。)と、行光が政子直々の使者として朝廷に赴いて、次期将軍招聘の交渉を行っている点である(慈円の「愚管抄」にも当時の記載がある)。『このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ』、また、実は「吾妻鏡」自体のこの時期の記録の多くが、『この二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている』。この後、行光の後の政所執事は一旦、行光の甥伊賀光宗に移ったが、光宗が元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変によって流罪となった後、行光の子である二階堂行盛が就任、以降、この家系が、ほぼ政所執事を世襲することとなった。

「承元三年に創建にて。玆年十月十日。供養を遂く」「吾妻鏡」承元三(一二〇九)年十月十日の条を引く。

   *

○原文

十日庚午。雨降。民部大夫行光。永福寺之傍建立一伽藍。今日遂供養。以明王院僧正公胤爲導師。尼御臺所渡御。相州。武州。前大膳大夫。遠江守。大夫屬入道已下。爲聽聞參。堂上堂下如市。導師御布施。會塲儀等盡美。時之壯觀也。

○やぶちゃんの書き下し文

十日庚午。雨、降る。民部大夫行光、永福寺の傍らに一伽藍を建立す。今日供養を遂ぐ。明王院僧正公胤を以つて導師と爲す。尼御臺所《政子》、渡御す。相州《義時》・武州《泰時》・前大膳大夫《広元》・遠江守《源(大江)親広》・大夫屬入道《善信》已下、聽聞のに爲參る。堂上堂下、市のごとし。導師の御布施、會塲の儀等、美を盡す。時の壯觀なり。

   *

「信據なけれは難しとあり」「相模国風土記稿」は、東光寺をこの時のこの伽藍に絞るまでの同定は不可能だというのである。確かにそうではある。]

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