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2014/12/07

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大塔宮土籠蹟

    ●大塔宮土籠蹟

鎌倉宮の後の山麓にあり。窟中(くつちう)二段に穿(うが)てり。潤さ二間許にて。内は八疊許りあり。傳へて建武二年直義大塔宮を禁獄せし處と云ふ。相摸風土記には或説を引きて。此邊の人民。往古は山腹を穿ちて穴居せしと云ふに據れは。是もさる類(るゐ)なるべき歟といへり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

相撲風土記に云。太平記曰。建武二年五月三日。宮を直義朝臣に渡されけれは。數百騎の軍勢を以て路次(ろじ)を警固し。鎌倉へ下し奉りて。二階堂の谷(たに)に土の牢を塗(ぬ)りて置進らせける云々。按するに此太平記の文意を正しく土穴中(どけつちう)に禁籠(きんろう)せしと見違へ。此邊山腹の土穴を彼宮土籠の跡なりと云ふは。後世附會の妄誕(もうたん)に近し。太平記の文意を推考すれは。土もて塗籠たる獄舍(ごくしや)を云るにて。元より山腹などを堀穿(ほりうがち)し土穴とは見えす。爰に牢を塗ると云ひ。淵邊義博か宮を弑する條に。牢の御所(ごしよ)に參ると記し。御輿(みこし)を庭に舁据(かきす)ゑたるを御覽してなぞあるを見て。土穴ならさるを識るべし。梅松論にも藥師堂谷の御所と記し。櫻雲記鎌倉大日記等には正しく當寺にて弑すとある。是實を得たりと云ふべし。

[やぶちゃん注: 旧鎌倉御府内には想像を絶する数のやぐらが散在し、こうしたものの中から「景清の」「唐糸の」はたまた「護良親王の」、「土牢(つちろう)」なるものが後追いの伝承によって多量に創作製造され、不当に同定されたと考えてよい。現在、鎌倉宮に行くと、この「護良親王の土牢」はまことしやかに復元されてあるけれども、この「新編相模国風土記稿」や、後に掲げる「鎌倉攬勝考卷之七」で植田盂縉(もうしん)も反論している通り、古記録を見る限り、家屋内への軟禁である。多くの場合、鎌倉では重罪人でも彼等は家臣団の誰彼へお預けになって家屋内に禁錮されており、実は「土牢」などは滅多に存在しなかったのである。私は「やぐら」本来の葬送された人物になってみれば、鵜の目鷹の目で「牢屋」として眺められ、踏み込まれては、死後の安穏もへったくれもない、とんでもない迷惑であろうし、この「護良親王の土牢」などははっきり言って金を払って見る価値はないと断じておく(但し、展示されてある護良親王の悲惨な事蹟を資料で知る分には悪くはない)。以下、「鎌倉攬勝考卷之七」の「大塔宮ノ土牢」と私の注を引いておく。

   *

「大塔宮ノ土牢 東光寺跡の山麓にあり。窟にはあらず。土穴なり。其中を覘(ノゾ)き見るに、二階に掘て二間四方あまり、又一段低き所は凡九尺四方も有べき所。深さ六尺許、上の二間四方許の所も深さ七八尺、みな赤き地なり。【太平記】の作者、みだりに、尊氏將軍の爲に潤飾を設て、武威は嚴盛なることを書たるものなり、將軍の在世の内に、【太平記】全部出來し、將軍の一覽にも備へしといふこと、今川了俊が記にものせたり。夫ゆへ兵部卿親王を、地中の牢へ入奉ると記せしより、土俗口碑に傳へて、土穴の中、入置奉りしことにおもへり。是【太平記】の説に因て、此妄談は起りたるものならん。是に限らず、これに擬て造れるもの、所々の舊跡に多く見へたり、【保暦間記】【梅松論】等も、尊氏將軍の爲に書たるものゆへ、潤飾多けれども、是等の書には土の牢とはしるされず、藥師堂谷の御所にとめおけども、又は牢の御所ともかけり。四面を禁錮し入置奉れば、牢の御所なることは勿論なり。【保暦間記】にいふ、尊氏兵權をとらば、むかしの賴朝にも替るべからず。此次に誅罸せらるべしと、大塔宮申されけるを、帝、さしもの軍忠の人をとらへ、其儀なし。彼宮種々の謀を廻し、尊氏を討んとせしかど、東國の武士多く尊氏方なりし上に、譜代の武勇なれば、輙(たやすく)もうたれずと云云。此親王は、尊氏の武將の機あることを、能見給ひしゆへなり。武き親王にて渡らせ給へば、その思食立れしも謂れなきにしもあらず。尊氏やがて其叔母にして、准后につかへ申せしを、帝遂にまとひ給ふより、護良王の災厄となれり。尊氏將軍ならびに直義には、主君なれば、たとへおのれが讐敵なる親王にもせよ、帝より預り奉りければ、土中へ入置奉り、飮食滓穢(シワイ)[やぶちゃん注:後注参照。]をひとつにすべきや。また弑し奉れることは、其翌年七月、凶徒鎌倉へ攻入しかば、上野親王成良〔十二歳。〕・義詮〔六歳。〕此人々を伴ひ出れば、兵部卿宮は容易に請ひかたく、且は足利家の仇にてましませば、直義が時に取ての幸ひとして、淵邊伊賀守義博に下知して弑し奉りしなり。直義が主君を失ひし罪惡、終には天の譴(セメ)を得て、おのれも毒殺せられ、跡たえけり。

[やぶちゃん注:「滓穢」の「滓」は底本では、「※」=「氵」+(「突」-「大」+{「全」-「欧」+「ヌ」})であるが、こんな字は存在しないと思われる。また、ルビも底本では「シクイ」とあるが、「穢」を「クイ」若しくは「イ」と読むことはない。これは「飮食滓穢(おんじきしわい)」の誤りで、「飮食滓穢をひとつにすべきや」で『いくらなんでも、親王を、飲食と排泄を一緒くたにするような劣悪なる土牢の中に籠め置くなんどということがあり得ようか、いや、ない』、と述べているものと思われる。「滓穢」の「滓」もけがれの意で、「滓穢」で『けがれ』の意の熟語である。排泄の忌み言葉として用いている。大塔宮の土牢は、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されている。植田の土牢への疑義にもある通り、この「復元」された土牢は、郷土史研究家の間ではすこぶる付きで評判が悪い、ということは今一度、付け加えておきたい。]

   *

「大塔宮」護良(もりなが/もりよし)親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年七月二十三日)は建武政権下の征夷大将軍。後醍醐天皇の皇子。母は源親子。法名は尊雲、大塔宮は号(これは「おおとうおみや」とも「だいとうのみや」とも読む)。若くして天台座主となったが、父天皇の討幕計画に協力することとなり、元弘の乱の頃に環俗して護良親王と改名、熊野・吉野辺に潜行して国々諸方に令旨を発し、勤王の兵を募った。建武新政下では征夷大将軍、兵部卿に任命されたが、足利氏と対立して讒訴に遇い、鎌倉の足利直義の監視下に幽閉された。北条高時の遺児時行による中先代の乱が勃発、鎌倉から敗走することとなった足利直義が、彼が時行に奉じられる事を警戒し、その命を受けた家臣淵辺義博(後注参照)によって殺害された。但し、途中から父後醍醐天皇とも結局不和となり、「梅松論」(軍記物。作者不詳。但し、夢窓疎石に関係の深い足利尊氏方の僧かとも言われる。成立は延元四・暦応二(一三三九)以後とされる。「大鏡」風の問答体という特徴を持ち、上巻では鎌倉の幕府政権を縦覧、下巻では足利尊氏の動静とその正当性を詳述し、最後に夢窓国師の談義により尊氏を称揚する)では皇位簒奪の濡衣を父から着せられたことから、『武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』と語ったとも記されてある。

「鎌倉宮」武家から天皇制社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛えて明治二(一八六九)年に明治天皇により護良親王を祀る神社の造営を命じられ、同年七月に彼が殺害されたとされる二階堂の東光寺(廃寺年不詳)跡の現在地に社殿が造営された。鎌倉内市街地内では非常に新しい神社であり、神社本庁の包括下には当初から入っていない単立神社である(以上は主にウィキ鎌倉宮に拠った)。

「二間」約三・六メートル。

「淵辺義博」(?~建武二(一三三五)年)足利直義家臣。相模国高座郡大野村渕辺原(現在の神奈川県相模原市中央区淵野辺周辺)の地頭。ウィキ淵辺義博によれば、『「太平記」によれば、義博は土牢の中で親王に刀の鋒を噛み折られるなど苦戦するが、格闘の末にその首を取った。外へ出て首を確認してみると、首はまるで生きているように両眼を見開いたまま自分をにらみつけていたので、義博は「このような首は主君に見せないものだ」と中国の故事をふまえて考え、近くの藪の中に首を捨ててその場を立ち去ったとされる。(明治維新後に東光寺跡に建てられた鎌倉宮の境内には、「御構廟(おかまえどころ)」と伝わる竹薮がある)』。『直義は時行に鎌倉を占領されるが、京から出陣した尊氏とともに北条軍を破り、鎌倉を奪還する。尊氏は鎌倉に居座って建武政権から離脱し、後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じた。直義らが軍を率いて新田軍を迎え撃ったが敗北と撤退を続け、駿河の手越河原で戦って敗れ、義博も戦死した。「難太平記」によれば、直義らは新田軍に追いつめられ、義博が敵中に突撃して戦死し、今川範国が直義を説得して撤退させたとされる』とその最期を記す。但し、一つの伝説として、『護良親王の殺害を命じられた義博は、親王を哀れんでその命を助け、淵野辺の地より現在の宮城県石巻市に送り、逃がしたという。この際、主君の命に背いた義博は、妻子に害が及ぶのを恐れ、その縁を切り、現在の相模原市と東京都町田市との境界を流れる境川にかかる橋(別れ橋)のたもとの榎木の下で妻子と別れた、と伝えられている。橋は後に架け替えられ、現在の中里橋となったが、たもとに残る榎木は「縁切り榎木」として、今日まで残っていると伝えられている』とあるのを概ね血も涙もない非情の男のように思われている彼のために付け加えておきたい。

「藥師堂谷」覚園寺のある谷戸。覚園寺の前身である北条義時の建てた大倉薬師堂に因む。

「櫻雲記」著者未詳で江戸初期の成立。文保二 (一三一八) 年から長禄三 (一四五九) 年までの後醍醐天皇即位から南北朝合体を経て南朝遺臣の末路までを記述する。三巻([ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「鎌倉大日記」「かまくらおおにっき」と読む。治承四(一一八〇)年から天正一七(一五八九)年に至る四〇九年間に亙る鎌倉初期から江戸時代直前までを年表風に記した年代記。一巻。関白・将軍・執権・六波羅探題・管領・関東公方・関東管領・政所及び問注所執事について歴代の人名を記して官名・世系等をも注記、併せて各年の重要事件も記載する。作者・成立年代ともに不詳であるが,南北朝末頃に原型が成立、それ以後書き継がれたものと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

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