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2015/01/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本県令富岡敬明と逢う

 我々は知事を熊本城に訪問した。彼は立派な老紳士で、我々の為に佳美な日本式の正餐を用意していてくれ、我々は大いにそれをたのしんだ。知事は城内を案内し、二年前の籠城の話をして聞かせた。この時、城は敵に包囲されること六週間に及び、建物の多くは焼け落ち、市民や兵士の殺された者も多く、そして熊本市は灰燼に帰した。知事は城にいたが、反逆兵達は、彼が住んでいるとされる建物を壊滅することに、特に努力した。建物はいずれも、あちらこちら打ちこわされ、銃弾の穴をとどめた箇所も多い。自分の経験を話しながら、この老人が興奮して行く有様は興味があった。

[やぶちゃん注:「知事」当時の熊本県令富岡敬明(けいめい/よしあき 文政五(一八二二)年~明治四二(一九〇九)年)。山梨県権参事、熊本県知事、貴族院議員などを歴任する。漢詩人としても知られた。以下、ウィキの「富岡敬明」によれば、佐賀藩支藩の小城藩士神代次兵衛利温の次男として生まれたが、天保三(一八三二)年に小城藩士富岡惣八の養子となった。天保一三年、小城藩世嗣鍋島三平(後の小城藩第十代藩主鍋島直亮)の側役(そばやく)となり、江戸藩邸御留守居介役・御留守居添役・西丸聞番差次・神田橋御門番頭・総目附兼文武方指南役を歴任したが、三十七歳の時、大酒を呑んだ上で失態を犯して処分され、小城藩北端にあった大野村へ山内目代(代官)として左遷された(彼は幕末に於ける佐賀の最後の代官と呼ばれる)。『この時、脱藩の罪により永蟄居の処分を受け困窮していた江藤新平を迎え入れ、役所の近くで寺子屋を開かせた。その後、藩主直亮没後に藩内で専横を振るったという御蔵方太田蔵人に対し、敬明ら有志による刃傷事件(小城藩騒動)が起こる。事件は未遂に終わり、敬明は自首し死罪を言い渡されるが、佐賀藩主鍋島斉正の助命により終身禁錮、家名断絶、家屋敷田地一切没収となる』。明治二(一八六九)年、『赦免となり、佐賀本藩弁務となる。諫早郡令、神崎西山内郡令を歴任し、軍事局係も兼任 。その後も物産局係、上佐賀郡令などを短期の間に慌ただしく歴任』、明治三(一八七〇)年には小城富岡家の再興を許されて『長男の重明を士族として』二十五石を給せられている。『また佐賀本藩の永代藩士となり大属となり少参事試補となり名を「耿介」と改める』。明治四(一八七一)年には佐賀藩権大参事となるが同年に廃藩置県が行われ、その後は伊万里県権参事から明治五年には山梨県権参事に任じられた。山梨では県令藤村紫朗の片腕とし藤村の主導した道路改修事業や県北西部の日野原開拓事業などに尽力、後、名東県(徳島県)権令兼五等判事を経て、明治九年十一月に熊本県権令となったが、その権令在任中にここで語られる『西南戦争に遭遇し、熊本城で』熊本城攻防戦を指揮した官軍熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)少将、『参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と』五十四日間に及ぶ『籠城戦を耐え抜いた(西南戦争の経緯については敬明自身が「篭城日誌」として記録している)。その後、熊本県令、同知事とな』なった(県令就任は明治九(一八七六)年十一月二十日で、退任は明治二四(一八九一)年、途中で知事に名称が変更されている)。退任後は、『山梨県西山梨郡里垣村(現:甲府市善光寺町)へ一家で移住し』、同年四月九日附で貴族院勅選議員に任じられた(明治二十五年三月まで在任)。『晩年は山梨における漢詩壇でも活躍し』たとある。検索で画像を見ると、なかなかに不敵な面構えをされておられる。

「二年前の籠城」明治一〇(一八七七)年の西南戦争に於ける最初の実戦がこの熊本城で二月二十日に開始され(薩摩軍による総攻撃は二十二日)、熊本城長囲戦は四月十四日までの実に五十二日間七週間余に及び、熊本城は不落の名城を名実ともに実証したのであった(諸資料の数字)。厳密には熊本鎮台司令長官谷干城は前日の二月十四日の段階で籠城を決意しており、ここから薩摩軍の実際の撤退日までを個人的に計算してみると、六十日弱約二ヶ月八週間となる。この戦闘による死者だけで七百七十三名に及んだ。詳細はウィキ西南戦争などを参照されたい。]

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