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2015/01/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 不思議な洞窟にてモース先生インディー・ジョーンズとなるの巻

 我々が食事をしている最中、数名の村民が、驚いたり、崇めたりする為にのぞき込んだ。その中で一人、丘の片側に洞窟があり、そこには陶器が僅か入っているということを話した。北方の洞窟で見出される陶器の特異な形式を知り、且つ洞窟は埋葬場で、そして器物が米や酒やその他の供物の為に洞窟内に置かれてあることを知っている私は、筆と紙とをかりて、洞窟内の器物の輪郭を画いて見た。知事はその絵を男達に見せ、この通りかとたずねた。すると彼等は奇妙に当惑しながら、実は自分達はその陶器を見たことが無く、彼等の又もまた見ていないが、彼等の祖父が、かつて丘のその側に細い路がつくられた時、土工たちが洞窟の屋根をつきやぶり、そして器物を見たことがあるという話を、語り伝えたのだといった。

[やぶちゃん注:「陶器」原文は確かに“pottery”であるが、ここまで読んでこられた方々はお分かりの通り、モースの使うこれは広範な土製の器を指す語であって、彼は縄文や弥生の「土器」及び「須恵器」(古墳時代中期から平安時代にかけて作られた轆轤(ろくろ)成形されて登り窯で高温焼成した、先行する「土器」に比して比較的硬質な灰黒色の土器。主に朝鮮からの渡来人が製作した祝部(いわいべ)土器)のことを指していることは明白である。

「洞窟」問題はこれが何処の如何なる時代のもので(但し、初期建造からそのまま維持されたのではなく、時代を経て、別な用途に転用改造されたことは後に出る特異な地下通路形態の図からも明らかであると思われる)、どこにあったものか、である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも載らない(私の感触では磯野先生はこれらは総て「当尾貝塚」及びその周辺に集中してあった遺跡と考えておられるように思う)。「丘の片側」という表現からは、この直前に彼が発掘した損壊した古墳の近くであるとしか読めない。それは何度も言うが、同時にこの時、モースが発掘した「貝塚」が「当尾貝塚」であったか「大野貝塚」であったかをも決定し得る重要なヒントともなるのである。私にはこれは元は所謂、古墳であったとしか思われない(くどいが、その後に人が入って一部が別なものに転用された可能性が大きい。後の箇所で、モースはこれを「地下墓所」と呼称しながら――これは明らかに古墳時代の真正の古墳の謂いとしか読めない――、そこについてまた富岡が「そこにはかつて鉱坑が掘られた」と言っていることに注意されたい)。熊本の考古学や郷土史・地誌にお詳しい方なら、以下に出る不思議なこの洞窟を同定することは容易なはずである(にも拘らず、ネット上では私の捜し方が悪いせいか、見出せないのである)。どうか、御教授をお願いしたいのである。]

 

 昼食後、我々は彼等に案内させてその場所へ行った。どしや降りの雨の中を、殆ど半マイルの間、急な坂の泥を.バシャバシャやって登ると、彼等は立止り、道路の崖の側を指さした。のぞき込むと十フィートばかり下に穴があいていて、そこから泥水が、まるで堰口みたいに流れ出ている。これが洞窟の入口なのである。こんな激流は、麝香鼠(じゃこうねずみ)か海狸(ビーバー)に非んば、堰き止めることは出来ぬ。どこから一体水が流れ込むのだろうと思ってあたりを見廻すと、我々が立っている所で、あふれた溝が、その水の多くを失いつつある。知事はここで溝を掘る許可を得た。掘ると、洞窟の屋根にある穴を蓋(おお)う何本かの丸太が現れた。路のはるか上方で溝を堰き、水を急な土手越しに流すようにした。穴は直径二フィート位しか無い。

[やぶちゃん注:「半マイル」約八百メートル。「貝塚」からほど近い、海岸線に近い昼食を摂った漁師の家からである。――貝塚――古墳――海岸直近――そしてこの不思議な洞窟――海賊の宝探しではないのだ。これが分からぬはずがないと思うのだが……。

「十フィート」約三メートル。

「麝香鼠」原文は“muskrat”。まず、真正の「麝香鼠」について記す。哺乳綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ Suncus murinus Linnaeus, 1766(本邦産を亜種リュウキュウジャコウネズミSuncus murinus temmincki Abe, 1997 とする説がある)ウィキの「ジャコウネズミ」より引用する。主棲息地はサバンナや森林・農耕地であるが、人里にも生息する。『東南アジア原産だが、アフリカ東部やミクロネシア等にも人為的に移入している。日本では長崎県、鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされているがはっきりとしていない』。体長十二~十六、尾長六~八センチメートル。体重♂四五~八〇、♀三〇~五〇グラムで、『メスよりもオスの方が大型になる。腹側や体側に匂いを出す分泌腺(ジャコウ腺)を持つことからこう呼ばれる。吻端は尖る。尾は太短く、まだらに毛が生え、可動域は狭い』。『食性は肉食性の強い雑食性で昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べるが植物質を摂取することもある。よく動くが、その動作は機敏とは言い難い。繁殖形態は胎生』、一回に三~六匹の幼体を出産する。『子育ての時には幼体は別の幼体や親の尾の基部を咥え、数珠繋ぎになって移動する』(これを「キャラバン行動」と称する。リンク先に剥製画像)。『人間の貨物等に紛れて分布を拡大しており、アフリカ東部やミクロネシアなどにも分布する』。但し、『日本に分布する亜種リュウキュウジャコウネズミの起源は古く、史前帰化動物と考えられている』。『吐く実験動物として利用される。実験動物としてイヌ、ネコなどは嘔吐するが大型であり、ウサギ、ラット、マウスは小型で飼育しやすいが嘔吐しない。ジャコウネズミは小型で、薬物や揺らすことで吐くため嘔吐反射の研究に用いられるようになった。ネズミ類ではないことを強調するためスンクスと呼ばれる。肝硬変の実験のためエタノールを与えて飼育している際、吐いているスンクスを発見し応用されることとなった』。また、『英文学の翻訳で齧歯目のマスクラットをジャコウネズミと翻訳していることが間々あるため、注意を要する』とある。問題はこの最後の部分で、モースはまさに“muskrat”と記しているのである。まさにこれは、哺乳綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ Suncus murinus ではなく、齧歯(ネズミ)目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット Ondatra zibethicus の語訳であると私は思うのである。何故なら、モースはここで水場に大きな巣を作る齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属 Castor を並列させているからである。ウィキマスクラットによれば、マスクラットはアメリカ合衆国・カナダに自然分布し(モースが若き日にフィールド・ワークで親しんだ地域にぴったり一致する)、体長三十・二~三十・三センチメートル、尾長二十一・八~二十三・三センチメートル。柔らかく短い体毛で密に被われ、毛衣は褐色や黒褐色或いは黒色を呈する。尾は側偏し、泳ぐ時には舵の役割を果たしていると考えられ、腹部に臭腺を持ち(ここから発せられる匂いはディスプレイやマーキングに役立つと考えられている)、ここから分泌される匂いが麝香(Musk)に似ていることが名前の由来とある。かつて英名を直訳して「ジャコウネズミ」と呼んだこともあるが、『トガリネズミ目のジャコウネズミと紛らわしいことから、今日ではこの呼称は文学作品の翻訳で見かけるぐらいである』とある。生物学者のモースがこの全くの別種をいっしょくたにすることは全く考えられないことなのである。但し、マスクラットは、『沼などに生息』し、『河川に生息することは少ない』。但し、『陸に上がることは少な』く、『入口が水中にある巣を作り沼地では水中に植物を積みあげた塚を作りその中に、河川では水辺に横穴を掘って巣穴にする』(下線やぶちゃん)。雑食性で、草・水生植物・魚類・甲殻類・貝類などを摂餌とある。

「二フィート」約六十一センチメートル。]

 

 十数名集って来た村の人達に、穴の中へ入れば莫大な褒美をやるといったが、地下墓所へ入ることに関する迷信的の恐怖心が非常に強いので、誰も入ろうといわない。八代から連れて来た車夫達も頭を振り、私の助手もそれを志願しない。こうなれば私が入るばかりだ。知事は、そこにはかつて鉱坑が掘られたのだからといって、私を引き止めようとしたが、若しそうなら、私には、洞窟内の水は外側の流れと同じ水準であることが分っている。私は車夫二人に両手をつかませ、穴の中へ身体を下降させた。まるでポケットの中に入ったように暗く、そして雨空から来る僅かな光線は、穴の入口を暗くする、好奇心に富み、且つ恐怖に襲われた群によって遮られた。私は何かに触ろうとして脚をのばしたが何にもならず、最後に車夫達がつかむ手を無理に振りはなして、お腹のあたり迄、水の中に落ちた。

[やぶちゃん注:「私の助手」既注の教場助手補である種田織三。]

 

 瞬間的の沈黙に引きつづいて、穴の口から恐愕の叫声がひびき入った。私は助手に向って、私が無事であることを叫んだ。すると彼は興奮しきった声で、穴の口から大きな有毒の百足(むかで)がはい出して来たというではないか! 私はつばの広い帽子をかぶり、すべすべした護謨外套(ゴムマント)を着ていたが、粗麁な穴の内側から崩れ落ちる土塊や小石だと思っていた物は、実ほ巨大な百足が私に降りかかるのであった。私は文字通り、有毒虫の流れの中に立っていた。彼等は吃驚(びっくり)した蜘蛛(くも)がするように、洞窟の壁を匐(は)い上り、そして天井からパラパラ落ちた。薄暗い光線に日が馴れると共に、私は数百匹の百足が水面を漂うのを見た。そして水流が彼等を漸竭するのを待って、私は陶器を求めて砂中をさぐつた。土砂がそれ迄に沢山集っていて、探さ二フィート以上の堆積が底部全体を蓋っていた。それはまことに気味の悪い経験であったが、私のすべっこい外套とつばの広い帽子とが私を救った。というのは、百足は足がかりが無いので、私を襲うや否や水中に落ちたのであった。私は陶器のことで興奮していたればこそ、恐れ気もなく、こんな暗い、騒々しい洞窟中に、百足の雨をあびてしゃがんでいることが出来たのである。私は博物館のために、標本用の百足を三匹つかまえ、入口に向って洞窟の壁を写生し、そこで繩を下させ、引き上げて貰った。出て見ると、穴の附近には、匐い出すに従って躇みつぶされた百足の死骸が、沢山散らばっていた。

[やぶちゃん注:この妖しい「地下洞窟」シークエンスのハイライトである! これはもう、モース先生! インディー・ジョーンズやないか!! しかも百足を最後にちゃんと標本用に採取してる!!! 好きやねん! モースせんせ!!!

「漸竭」は「ゼンケツ」と読み、だんだんに減衰減少し、最後にはなくなること。「竭」は次第に減ってゆき、遂にはなくなる・続いていたものが終わる。途絶えるの謂いである。]

M586

図―586

 

 水は上流で堰き止め、洞窟からも流し去った。私はついに人力車夫二人に入らせることが出来た。彼等は耨(くわ)を使用して注意深く砂を搔き去り、一時間一生懸命に掘ったあげく、陶器を四個発見した。その一つは完全で、一つは僅かに破損し、他の二つは器の大きな破片である。知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。村民達は、外国の悪魔として私を眺め、私が陶器を持ち去る時、大いに不満を示した。知事は、これ等が大学の博物館に置かれるのであることを説明した。図586は、入口に向って見た洞窟の有様である。中央の拱門(アーチ)は洞窟への入口で、外側にある入口は小さく、そこから洞窟へ向って拡がるのであるが、通廊と同様に曲線をなしている。両側にある鉄門は、どこにも通じていない。

[やぶちゃん注:「知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。」原文は“The Governor drew out the sketch, and I heard him speak to the natives in wonder that I, a foreigner, who had come ten thousand li across the seas, should describe precisely the shape of the vessels to be found, which they had never seen.”。『一万「リ」』は馬鹿正直に換算すると約三万九千キロメートルになるが、これは円を「ドル」、銭を「セント」と表記しているのと同様のモース流単位で、「里」として異文化認識を添えた「マイル」であろう。一万マイルなら約一万六千キロメートルに当たり、現在の東京からニューヨークまでの直線距離一万千キロメートルのややどんぶりな表現となる。]

 

 午後五時、我々は熊本まで二十四マイルの路を、人力車で行く可く出発した。雨は降りずめに降り、通路は極めて悪い――これ程惨憺たる、そして人を疲労させる人力車の旅は、私にとっては初めてであった。私は疲れ切っていた。そして身震いをした程寒く、また起きているのが困難であった程ねむたかったのであるが、一寸でもウトウ卜すると人力車が揺れて、頭がちぎれる程ガクンとなる。貝塚で発見した陶器その他の標本を荷ごしらえするために、種田氏は後に残ったので、私の唯一の伴侶は、英語を一言も解さぬ知事であり、また私の東京日本語――方言に近い――は、彼にとっては、殆ど判らぬものなのであった。八時、我々は車夫の数を増したが、彼等は全距離にわたって歌を歌い、交代に一人ずつ、一足ごとに唸ったり、調子を取ったりした。車夫が歌を歌うとは如何にも珍しいので、しばらくの間私は起きていたが、その珍しさもやがて失せ、熊本へ着いた時の私は、生きているよりも死んでいる方に近かった。熊本の知事は、我々の宿舎として私人の邸宅をあてがってくれたが、私はそのもてなしを充分味う可く余りに寒く、気持悪くさえあったので、靴をぬぐと共に、家の中へ這い込み、濡れた衣類を身につけたまま床にごろりと横たわり、丸太のように眠て了った。

[やぶちゃん注:「午後五時」明治一二(一八七九)年五月二十六日の午後五時と推定される。

「二十四マイル」前出の距離に同じい。三十八・六キロメートル。これがやはり宿泊地であった八代市街から熊本市街への距離であったことが判明する。]

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