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2015/01/19

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 モースの描ける古墳石棺の蓋の図

M585

図―585

 

 最初に私に大野村の貝塚の話をしてくれた地質学者ライマン教授は、貝塚附近に奇妙な石の棺のあることも話した。我々は容易にそれを発見したが、巨大な石槨であった。蓋の末端はこわれ、また下向きになっていたが、埋葬に関する迷信が原因して、村民達に我々がそれをひっくり返すことを助力させるのは、困難であった。然し我々の人力車夫は一向おかまい無しで、石の周囲を掘り、桿(さお)を槓杆(てこ)にして、我々はそれをひっくり返した。図585はその外見をざっと写生したもので、内側は小間(パネル)に刻んである。この古さは千年、あるいは千二百年であると信じられる。八代の知事はこれに就て何も知らなかったので、最大の興味を以て見るのであった。

[やぶちゃん注:図はその石棺の蓋の部分のデッサンである。素晴らしい子細な描出であるが、これは最早、原物は残っていないのではあるまいか?

 さて、この「見塚附近に」ある「奇妙な石の棺」――《モースが発掘した貝塚のすぐ近くにある古墳》――こそが、実は逆にこの貝塚が「当尾貝塚」であったか、「大野貝塚」であったかという私の疑問に答えてくれる大きなヒントでもあるはずなのである。ところが、この熊本の宇城(うき)市(当尾貝塚在)及び八代郡内(大野貝塚在)には多くの古墳があることが分かって、これまた途方に暮れてしまった。しかしそれでも気をとり直して一つ一つ調べてみた。すると――当尾貝塚のあった松橋(まつばせ)町大野の直近、西南方向(現在の大野地区の境から二百メートル圏内)、 宇城市松橋町松橋の松橋西養護学校の北、医師会館脇の大塚公園に前方後円墳があるのを見出した。「日本古墳見学協会本部」公式サイトの「松橋大塚古墳」で現在の外観(現在は古墳の丘上部が平削されて公園となり、後円部の一部のみが残っている由)が視認出来る。そこにある説明版(画像)によれば、松橋台地古墳群の一つで古墳時代中期のものと推定されており、古墳の長軸の長さは七十メートル、前方部の短径が約二十五メートル、後円部の直径が四十二メートル、後円部の高さが約六メートルの典型的前方後円墳とある。この古墳――若しくはこの古墳群の別の一つで、より「当尾貝塚」近くに当時存在した古墳――であったとするならば、距離的にも「貝塚附近」でしっくりくる円墳だからこそ、モースはちょっと見ただけで「容易にそれを発見」出来たと考えれば、すこぶる自然ではないか?……やっぱり、モースの発掘したのは当尾貝塚だったのか?……いやいや、やっぱり、ともかくも識者の御教授をじっくり待つこととしよう

「ライマン教授」四つ前の段落『第十七章 南方の旅 貝塚発掘 ――切に考古学者の見解を乞う! モースが発掘したのは「当尾貝塚」だったのか? それとも「大野貝塚」だったのか?――』の私の注を参照のこと。

「石槨」は「セッカク」と読み、石で造られた棺を入れる外廓構造物をいう。本邦では古墳時代にみられる。

「この古さは千年、あるいは千二百年である」明治一二(一八七九)年から一二〇〇年前となると、西暦六七九年(天武天皇八年)となる。現在、考古学では古墳時代を、古墳特に前方後円墳の築造が卓越した時代と規定し、広義には三世紀半ば過ぎから七世紀末頃までの約四〇〇年間を指すことが多い。中でも三世紀半ば過ぎから六世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代で、「前方後円墳の時代」と呼ばれることもあり、また、前方後円墳が造られなくなった七世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を「古墳時代終末期」と呼ぶこともある、とウィキの「古墳時代」には記載されている。ここに書かれた推定年代は、現在の古墳時代中期(凡そ五世紀初めから終わりまでの期間)の建造という推定からは、二百年ばかり新し過ぎるが、本邦の歴史学や考古学の曙の時期の推定であるからこれは仕方がない。

「八代の知事」これは熊本県令富岡敬明に従っていたのかも知れない当時の八代地方の地方長官とも読めるが、私はこの日、発掘に同行した富岡のことを、かく書き誤ったものだと思う。]

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