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2015/01/15

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  瑞泉寺

    ●瑞泉寺

理智光寺跡の東北紅葉谷にありて鶴岡一鳥居より十四五町あり錦屏山と號す和〔古語山花開似錦澗水湛如藍とあり當寺の景四季の開花屏風に似たり故に山號とすと云ふ〕關東十刹の一にて嘉曆二年起立。開山は夢想國師。中興開基は足利基氏なり。當寺住持職は昔は圓覺寺西堂の僧をもて補せらる。是私の補仕(ほし)にあらす。公帖(こうてう)を下されて補せられしなり。當寺に足利基氏の墓〔貞治六年四月廿六日死〕基氏の母大方夫人の墓〔應安元年九月廿九日死〕氏滿の墓〔應永五年十一月四日死〕義詮の墓〔應安元年四月七日公命により遺骨を分て當寺に葬る〕あり。基氏氏滿等の木像は。もと惣門の内の右方に開山堂ありて其中に納めありしか。堂宇破壞せしに因り。今本堂中に並置す。本堂には本尊釋迦を安す。本堂の前に普濟の二字を扁(へん)す。勅額と傳ふるのみ。其時代筆者の傳を失ふ。古傳に據れは當寺祖塔祥雲菴の額なり。彼菴廢せし後爰に移せしなるべし。本堂には當時氏滿筆大雄寶殿の四字を扁せしと云ふ。今は亡(う)せり。又本堂左右の聯(れん)に德共春和盛功將造化歸とあり。誰の書なるを詳にせす。

塔頭廢跡 永安寺跡内外右方の谷を云ふ。蓬萊山と號す。開祖は曇芳なり。應永五年十一月四日。管領氏滿逝せし後其祠堂として剏建ありしなり。

祥雲菴跡 域外(ゐきぐわい)左方(さはう)にあり。是古の祖塔(そとう)なり。廢置の事蹟を傳へす。此餘長春院。勝光院。果證院。保壽院。南芳院。羅漢院。三聖院。妙智院。證悟院。吉祥院。西芳院。東禪院等の塔頭在しと傳ふれど。悉く廢して其遺蹤も詳ならす。

遍界一覽亭跡 本堂北方の山上にあり。山麓より山頂に至る凡百間許にして。十八曲の坂路(はんろ)を爲す。頂上に亭跡(ていせき)あり〔南北八間東西五間〕嘉曆三年の建立なり。夢窓國師此亭にて詩を賦し。又歌を詠せり〔夢窓國師詠草曰瑞泉院の一覽亭にて雪の降ける日前も又重なる山の庵にて梢に續く庭の白雪〕基氏此亭にて櫻花紅葉等を翫て詩を賦し。又五山の僧徒等か亭席にての詩文章許多(きよた)あり。此餘一覽亭集と名(なづ)くるもの一卷あり。諸名僧の詩作を載す。其後何れの頃廢せしにや。元祿の頃。水戸光國卿より山上に一堂を建立ありて。千手觀音像を安す。其傍に寮を建て。爰に彼一覽亭集の原本を板(はん)に彫らて掛置れしとぞ。天明中堂寮ともに破壞せしかは。此板今本堂に懸けり。

[やぶちゃん注:「十四五町」約一・五三~一・六四キロメートル。

「古語山花開似錦澗水湛如藍とあり」これは「碧巌録」第八十二則の「大龍堅固法身」にある章句「山花開似錦 澗水湛如藍」(山花(さんか)開きて錦(にしき)に似たり 澗水(かんすい)湛(たた)へて藍のごとし)。

「關東十刹」室町幕府によって定められた「天下十刹」が至徳三(一三八六)年の五山制度改革による十刹制度改革によって確定した関東での五山の寺格。禅興寺(第一位/鎌倉山の内/廃寺であるが現存する明月院は旧塔頭)・瑞泉寺(第二位)・東勝寺(第三位/鎌倉葛西ケ谷/廃寺)・万寿寺(第四位/鎌倉長谷/廃寺)・大慶寺(たいけいじ/第五位/鎌倉寺分/現存)・興聖寺(こうしょうじ/第六位/廃寺若しくは形式上の格附けで実在しなかったか)・東漸寺(第七位/横浜市磯子区杉田/現存)・善福寺(第八位/鎌倉由比ヶ浜近辺か/廃寺)・法泉寺(第九位/鎌倉扇ヶ谷法泉寺ヶ谷/廃寺)・長楽寺(第十位/群馬県太田市世良田町/現存するが江戸初期に天海大僧正によって天台宗に改宗)。現存するのは以上下線の四寺のみ。

「嘉曆二年」一三二七年。当初の開基は鎌倉幕府御家人二階堂貞藤(さだふじ 法名は道薀(どううん):政所執事を務め、北条高時を補佐したものの、鎌倉幕府滅亡後には建武政権に参加、雑訴決断所所四番衆(建武新政期に設置された訴訟機関)として北陸道を管轄したが、建武元(一三三四)年に西園寺公宗(きんむね)による北条氏再興の陰謀に加担したとされて六条河原で処刑。以上はウィキの「二階堂貞藤」に拠る)。開創当時は瑞泉院と称した。院を寺と改め、規模も整ったのは本文に中興とする初代鎌倉公方足利基氏(興国元/暦応三(一三四〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年四月二十六日)の頃と考えられる。

「西堂」は「せいどう」と読み、禅宗寺院に於いて他の寺院の住職を務めて引退した僧侶を指す

「補仕」「ほし」のルビもままであるが、あまり聴き馴れない。但し、特定の職を命じて宛がうという謂いでは、違和感はない。しかし私にはこれは「補任」の誤字が強く疑われる。

「公帖」通常は公帖(こうじょう)と読む。五山制度に於いて足利将軍家が発給した五山十刹などの住持を任命(補任)する辞令。

「基氏の母大方夫人の墓〔應安元年九月廿九日死〕」足利尊氏の正室赤橋登子(あかはしとうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二十年五月四日(一三六五年五月二十五日))。北条氏一族で得宗家に次いで家格の高かった赤橋家の出身で父は北条久時。同母兄に鎌倉幕府の最後の執権赤橋守時がいる。尊氏の死後は「大方殿」「大方禅尼」(「おおがた」か)と呼ばれていることから、夫の死に殉じて出家したものと思われる。しかしこの没年、應安元年は一三六八年で日付も異なり、はなはだ不審である。これは、「新編相模国風土記稿」の「瑞泉寺」の項に基づくものらしいが、この齟齬がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。

「氏滿の墓〔應永五年十一月四日死〕」基氏の子で第二代鎌倉公方足利氏満(正平一四/延文四(一三五九)年~応永五(一三九八)年十一月四日)。

「義詮の墓〔應安元年四月七日公命により遺骨を分て當寺に葬る〕」足利尊氏嫡男で室町幕府第二代将軍足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年)。彼の正規の墓は京都嵯峨野の宝筐院(ほうきょういん/但し、当時は観林寺)に本人の遺言によって敬慕していた亡ぼした敵方の大将楠木正行(まさつら:正成嫡男)の墓の横にある。應安元年は一三六八年であるから、死の翌年の分骨である。

「普濟」とは「普(あまね)く濟(すく)ふ」という謂いである。

「德共春和盛功將造化歸」不詳。これはしかし、中唐の詩人孫逖(そんてき 六九六年?~七六一年)の五言排律「奉和李右相賞會昌林亭」の中の、

 德與春和盛 功將造化

の誤りではなかろうか? 全詩は中文サイトで読める。断っておくが、私はこの詩が読め、理解している訳では毛頭ない。

「剏建」「さうけん(そうけん)」と読む。創建に同じい。

「遺蹤」「いしよう(いしょう)」で、以前にあった・起った物事の跡。蹤(あとかた)。

「百間」百八十一・八メートル。

「南北八間東西五間」南北十四・五メートル、東西約九・一メートル。

「嘉暦三年」一三二八年。夢想窓石の建立。

「一覽亭集」一覽亭記。私の新編鎌倉志卷之二で全文を電子化しており、また私が我流で訓読したものがある(これは「新編鎌倉志」の電子化注釈で最も困難な作業であった)ので、挑まれん方は、覚悟を持ってどうぞ!

元祿の頃。水戸光國卿より山上に一堂を建立ありて。千手觀音像を安す。其傍に寮を建て。爰に彼一覽亭集の原本を板に彫らて掛置れしとぞ」一部の情報に、この再建した亭で光圀は「新編鎌倉志」の編纂をさせたとあるのだが、これは果たして正しい謂いであろうか? そもそも「新編鎌倉志」は延宝年間(一六七三~一六八一)に水戸藩主水戸光圀(寛永五(一六二三)年~元禄十三(一七〇一)年)が家臣で彰考館(光圀が『大日本史』編纂のために江戸小石川門の藩邸内に置いた修史局)館員であった河井恒久(友水)や、松村清之(伯胤)・力石忠一(叔貫)らに命じて編纂したものである。当初、光圀自身が延宝二(一六七四)年に来鎌、名所旧跡を歴遊、家臣に記録させた「鎌倉日記」がプロトタイプである(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行一回きりであったと言われている)。後、延宝四(一六七六)年の秋、河井に社寺名刹の来歴に就いて調べさせた。当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師松村清之は頗る鎌倉の地誌に詳しく、河井はこの松村に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くなり、力石が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられた、全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌であるが、まず、何より、その上梓は本文にある元禄(一六八八年~一七〇四)よりも前のことであることに注意せねばならない。また、膨大且つ検証に時間のかかる「新編鎌倉志」の編纂をあの山の中の小亭で主編集を行ったというのは、少なくとも私にはちょっと考え難い。但し、例えばこの新編鎌倉志卷之二の、ここで詠まれた(或いはここで詠んだものとして仮想された)多量の漢詩群を含む「一覽亭記」についての部分編輯を、ここで行ったというのなら、私はすこぶる附きで賛同するものではある。大方の御批判を俟つ。「爰に彼一覽亭集の原本を板に彫らて掛置れしとぞ。天明中堂寮ともに破壞せしかは。此板今本堂に懸けり」光圀が荒廃した一覧亭を修復再興させ、この「一覧亭集詩板」なるものを亭の脇に掲げたことは事実らしい(新編鎌倉志卷之二での復刻の異様な力の入れようからもそれは自然に理解される)。現在は瑞泉寺が所蔵している(私は復元された遍界一覧亭とともに未見)。

「天明」一七八一年~一七八九年。]

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