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2015/01/20

耳嚢 巻之九 鬼岩寺山中異人の事

 鬼岩寺山中異人の事

 

 在番の仁、文化六の春の頃往來せしに、川留又は風雨にて駿州藤枝の驛に永く逗留なし、徒然(つれづれ)退屈のあまり宿内近邊をあちこち逍遙なしけるに、茶屋やうの老人、何方の御方やと尋(たづね)しゆゑ、東都の者にて川留等の退屈の儘、此邊珍らしき事もありや、見所も有るべしと徘徊する旨を答へければ、當所に何も珍ら敷(しき)事もなし、鬼岩寺(きがんじ)の山ちうに異人あり、是を尋ね給へ、しかれども其道難所なれば其姿にては難成(なりがたし)と言(いひ)しゆゑ、股引わらじに身輕の出立(いでたち)して、山際までの案内を賴みけるに、右鬼岩寺の山は甚ださかしく、かろうじて漸(やうやく)絶頂まで至りしに、絶頂は餘程の廣場にて小松など參差(しんし)とありて、ひとつの庵室(あんじつ)體(てい)の處あり。床には武器など並べありて一人の老翁ありし故立寄(たちより)ければ、能(よく)こそ尋給ひし、旅人にやと尋しゆゑ、有(あり)し次第幷(ならびに)里人の咄ゆゑ對顏(たいがん)を得たく來りしなり、教へし人は、此山中の僊(せん)なりといひし由かたりければ、全(まつたく)我(われ)仙術を得たるにあらず、年も九十歳餘にて、かく人はなれに住(すむ)故、仙などゝいひもせん、元田中の城主本多(ほんだ)家の臣にて、先年本多家に一亂ありし時、我身も退身(たいしん)申付(まうしつけ)られしが、年立(としたち)て我あやまりなき事わかりて再勤もゆるされしかど、世にへつらひあらんも面白からず、跡は忰(せがれ)成(なる)ものに讓りて、かく山居して世塵を遁れをるなり、主人よりも少々の手當も給(たまは)り、忰よりも見繼(みつぐ)間、今日の食事に愁ひなし、しかれども絶壁の地故、時として薪水(しんすい)の便(べん)を失ふ事あれば、生米(なまごめ)を嚙(かみ)て飢(うゑ)を凌ぐ、元より一人なれば何も不足と思ふ事なし、何ぞふるまひ申度(まうした)けれど、かゝる事故其貯(たくはへ)なし、酒少々有(あり)とて、酒をあたゝめ、聊(いささか)の口とりを出しける故、是を飮(のみ)て暫く物語りせしに、古しへより馬を好みて乘(のる)由にて、一疋の馬を引出(ひきいだ)し二三遍も乘、御身も乘給へといふ故少し計(ばかり)乘りしが、彼(かの)馬甚だかんつよく中々手に及兼(およびかね)しが、老翁は岩壁の嫌ひなく丸木橋等を渡り、又は絶壁等飛越(とびこ)しける有樣、仙と云(いふ)もむべならず思われて、其事を尋訪(たづねとひ)しに、馴候得(なれさふらえ)ば、馬の乘方(のりかた)もかゝる絶域(ぜつゐき)に住むも、安き事なりと答へし上、御身も早く戻り給へ、噺(はなし)もつきてければ我等も面倒に思ふ也といふ故、暇乞(いとまごひ)して戻りける由。其名も聞しが忘れたり。書留(かきと)め置きしを求め出し與ふべしと、親友山本某、知れる人の物語りなりと云し。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:六つ前の「吐血を留る奇法の事」の「予が親友山本某」と同一人(それ以後でもニュース・ソースに同人らしい人物がいる)と考えてよく、同一の情報屋由来で連関する。実在する変人畸人譚シリーズ。

・「文化六の春」「卷之九」の執筆推定下限は同文化六(一八〇九)年夏。

・「在番の仁」大番組(おおばんぐみ)・大番の勤士。老中に属し、戦時は先陣を切る役で、平時には江戸城・大坂城・京都二条城及び江戸市中の警備を交代で行った。ここはその大坂城及び二条城の交替の在番方を指す。

・「鬼岩寺」底本鈴木氏注に、『静岡県藤枝市大字鬼岩寺。真言宗。岩田山(岩田は藤枝の古名)一名鬼岩山に在る。寺中に、鬼岩または真言岩と称する巨石がある』と記す。楞巌山(りょうごんざん)鬼岩寺。現存。有限会社「佐野石材」が運営するサイト「藤枝宿」内の同寺の記載(かなり詳しい。まさにこの文化年間にここにいた東海道の黒犬と呼ばれた強犬「クロ」の話など必読。藩主本多侯も登場する)によれば、寛保二(一七四一)年に同寺三十一世照秀の記した「鬼岩寺縁起」によれば、神亀三(七二六)年に行基菩薩によって開創されたとする。行基が東国への布教の途次、此の地に立ち寄ったところ、『寺も無く仏教を信じる者が少ないのを憐れんだ行基は、衆生を救済し、仏教弘通の根拠地とするため、自らの手で聖観世音菩薩を彫りあげて祀ったのが、鬼岩寺の始まりであったという。現在この観世音菩薩は秘仏で』、三十三年に一度の開扉法要以外には拝顔出来ないとある。開創から百年ほどが過ぎた弘仁年間(八一〇年~八二三年)のこと、『弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。ちょうどこの頃悪い鬼が出て人々を苦しめ、困りはてていた。そこへ弘法大師が訪れたので、村の人々はこれ幸いと大師に鬼退治をお願いした。そこで大師は五大尊の像を』描き、七日間に亙って『秘咒を加持すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。そこで大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめると、荒れていた空はたちまち晴れわたり、翌日から鬼岩寺村に鬼は出なくなった。これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称するようになり、真言宗に改宗され、村の名も鬼岩寺村と称するようになった。今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている』とある。それ以降、本寺は名を知られるようになり、建久三(一一九二)年には『鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のために、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという』とある。

・「參差」長短の等しくないさま、揃わぬさまで、ここは細いひょろひょろした松が長短混ぜて、つんつんと不揃いに生えているさまを指している。

・「僊」底本では右に『(仙)』と訂正注するが、この「僊」自体が山人・仙人の謂いである。

・「九十歳餘」この数値が正しいとして文化六年から遡ると、この老人の生年は享保四(一七一九)年前後となる。

・「田中の城主」底本鈴木氏注に、『享保十五年本多伯耆守正矩が上州沼田から転封し明治維新まで在城した。四万石。田中城は藤枝市田中。もと今川氏の部将が守ったが元亀元年甲州勢に乗取られ、修築を加えて田中城と称するようになった』とある。田中城は現在の静岡県藤枝市西益津にあった平城で、江戸時代は田中藩の藩庁が置かれた。以下、ウィキの「田中城」より引く。天文六(一五三七)年に駿河今川氏によって築かれ、永禄一三(一五七〇)年の『武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された』が、天正一〇(一五八二年)年に『徳川勢により攻められ落城』、天正一八(一五九〇)年の『徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となった』。慶長六(一六〇一)年、『酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った』。その後、酒井は慶長一四(一六〇九)年に川越に転出、『以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された』。なお、元和二(一六一六)年一月、家康はこの『田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食し』ているが、『これが家康の死因とする説がある』(現在の研究では死因は胃癌説が主流)。寛永一〇(一六三三)年以後は松平・水野・北条氏らが封じられた後、享保一五(一七三〇)年に本多正矩が四万石で封ぜられ、以降、明治維新まで同藩主となった。

・「本多家の臣の臣にて、先年本多家に一亂ありし時、我身も退身申付られし」先の生年推定から家臣であったのを二十代後半から三十代(既に家を継ぎ得る息子がいた以上、そんなに極端に若くはない)から、この時点で九十歳となれば、四十代か五十代の頃まで範囲が広げられるから、「先年本多家に一亂ありし時」というのは、若くて寛延二(一七四九)年前後から宝暦九(一七五九)年、壮年時であったとすれば明和六(一七六九)年頃から安永八(一七七九)年、さらに「先年」という謂いからは十年以内の可能性も否定出来ぬから、実はそれ以降の天明元(一七八一)年から寛政・享和を経て文化元・享和四(一八〇四)年頃まで延ばすことも可能となる(但し、そうすると見た目が九十歳というのが逆に問題となってはくる)。そこでこの「一亂」がヒントになる。経済状態の苦しかった駿河田中藩の歴代藩主の経歴を見てゆくと、第四代藩主本多正温(まさはる 明和三(一七六七)年~天保九(一八三八)年)のところで目がとまった。彼は安永六(一七七七)年に父で第三代藩主であった本多正供(まさとも)の死去に伴い、十歳で家督を継いでいる。『成長してからは親政を行な』って、寛政六(一七九四)年には『紀伊から紀州みかんを取り入れて藩内に流通させ』、寛政九年に『松江藩士だった武術家の仙田政芳を登用して武芸を奨励』するなど、藩政改革にも努力した。寛政一一(一七九九)年には幕命により、『湯島聖堂の再建工事を監督し』ているが、この翌寛政十二(一八〇〇)年の七月に『田中騒動が起こったため、家督を長男の正意に譲って隠居した。この騒動の細部には不明な点が多いが、正温が武芸を奨励するために登用した金田忠勝ら新参と譜代の家臣が主導権をめぐって対立して新参が追放されたためとも、後継者の正意』(まさおき)『の生まれに問題があって騒動が起こったともいわれる』とあるのである(傍線太字はやぶちゃん)。この怪しい藩中の変事(お家騒動っぽい説も記されてある)は、これ以上のことが記されていないのでよく分からない。しかし、時代的には私の下限設定にぎりぎり入る。この寛政十二(一八〇〇)年が、本話の主人公が本意にあらず半強制的に地位を追われた年とすれば、文化六(一八〇九)年までは、九年で「先年」が如何にもしっくりくるではないか。但し、そうすると八十歳頃まで藩の重職を勤めていたことになるが、七十以上で現役というのは当時は必ずしもあり得ぬことではなかった。この「一亂」は私はこの妖しい「田中騒動」とみて間違いないと思うのである。

・「見繼」貢ぐ。生活必需品をここへもたらす。

・「尋訪しに」底本では「訪」の右に『(問)』と訂正注がある。しかし普通に問題なく「たづねとひしに」とこれで読める。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼岩寺(きがんじ)山中の異人の事

 

 在番の御仁で、文化六年の春の頃、交替となって江戸へと帰る途中――川止めであったか、激しき暴風雨にても御座ったか――かの駿河の藤枝(ふじえだ)の宿駅にて、永く逗留せずんばならずなったによって、徒然(つれづれ)の退屈のあまり、宿の内や、その近辺あちこちを、これ、漫(すず)ろに逍遙なんど致いて御座ったと申す。

 茶屋のようなところにて一服致いておったところが、そこにやはり憩うて御座った一人の老人が、

「……お武家さまは、どちらの御家中の御方で御座いまするか?」

と訊ねて参ったによって、

「――拙者は、東都の者にて、川止めなどの退屈しのぎに、この辺りに珍らしきことなどもあるか、名所旧跡なんどでもあろうかと、かく、ぶらついておるので御座る。」

と答えたところ、

「……いんやぁ……当地には、これ、何んも、珍らしきことも御座いませぬ。……おっ!そうじゃ……この近場に、鬼岩寺(きがんじ)と申す山のあって、その山中に、これ、一人の何とも変わった異人の御座いまする。……一つ、笑い話に、この者をお訪ねにならるると宜しゅう御座いましょう。……なれど……その山道はこれ、なかなかの難所で御座いますれば……そのご立派なるご装束にては……ちと……難しゅう御座いまするなぁ……」

と申したによって、

「――相い分かった。しばし待たれい。」

と老人に告ぐると、直ぐに宿へと帰り、股引に草鞋(わらじ)という、至って身軽な出で立ちに着替え、茶屋へととって返すと、老人に案内(あない)を乞うた。

 さても、その山裾までは、この老人に案内して貰い、そこよりは教えられた通りに、登り始めてはみたものの、これがまあ、なかなか、その鬼岩寺の山、はなはだ峻嶮にして、辛うじて、漸やっと絶頂まで達したと申す。

 すると、その絶巓は、これかなりの広き場所で御座って、小さき松などが、しょぼしょぼと不揃いに生えておって、その脇に小さなる庵室(あんじつ)ようのものが一軒、建っておった。

 声を掛けて中を覗いてみれば、床(ゆか)には、太刀や弓・槍なんどが並べて御座って、一人の老翁が、そこに座って御座った。

 側へと近寄って参ると、

「――よくぞお越し下された。――旅のお人で御座るか?」

と、静かに訊ねたによって、かく参った次第を述べた上、

「……貴殿がことにつき、里人の話に、面白き御仁なりとのことで御座ったによって、拝顔仕りとう存じ、かくも参った。……お教下されたお方によれば、何でも、この山中の仙人であられる、とのことで御座いましたれば……」

と述べたところ、

「……いやいや……全く以って我ら、仙術を得たるような、大層な者にては、これ、あらず……齢(ようわい)も、はや、九十歳あまりの……ただの老いぼれにて……かく、人離れたる土地に住もうて御座るによって……まあ、人の、仙人なんどと、噂を致いて御座るだけのこと。……我らは……元田中の城主……本多(ほんだ)家が家臣にして……先年、本多家に一騒動、これ、御座った折り……我が身、城主より退身(たいしん)を申しつけられて御座ったが……年の経って、我らに過ちの、これなきこと、ご主(しゅ)もお分かり下され、再勤も許されては御座ったれど……まず……世に諛(へつろ)うて生くるも、これ、面白からざれば、の。……跡は倅(せがれ)なる者に譲り、かく山居して世塵を遁れておる次第。……主人より少々のお手当てなども給わり、倅よりも日々の生活を送るには足るだけの物を送ってよこして御座れば……まず、今日の食事の愁いは御座らぬ。……しかれども、絶壁の辺地ゆえ、時として薪や水の便(べん)に不自由致すことも御座るが、その時は……これ、生米(なまごめ)を嚙みて飢えを凌いでおりまする。……もとより一人身なれば、何の不足と思うことも、これ、御座ない。……何ぞ、貴殿に振る舞いとうは存ずれど……かかる次第なれば、そうした貯えも御座らぬ。……なれど、まあ、酒の少々、これ、御座れば……」

と、酒を温め、僅かばかりの山菜の肴なんどを出だしくれたによって、これを酌み交わしつつ、しばらく物語りなど致いた。

「……拙者、古えより馬を好んで御座る。」

と語り、一疋の馬を庵(いおり)の横手より引き出だいて、二、三遍も巧みに乗り回したかと思うと、

「――御身もお乗りにならるるがよい。」

と申したによって、その馬を借りて、少しばかり乗ってみて御座ったものの、この馬がまた、いたく疳の強き馬にて御座って、なかなか扱いかぬるもので御座った。

 ところが、そんな荒馬を、この老翁は、美事に乗りこなしておられた。

――垂直に聳ゆる岩壁をも、ものともせず、これ、あたかも鵯越(ひよどりごえ)の逆落しよろしく、ぴょんぴょんと身軽に飛ぶように走らせ……

――一本きりの丸木橋なんどをも、これ、五条の大橋の欄干よろしく、怖気づくことものう、すすいっと渡り……

――または、切り立って奈落も朧(おぼろ)な断崖絶壁なんどにても、これ、八艘跳びよろしく、ゆうゆうと飛び越してゆく……

……その、ありさまたるや、まっこと、仙人と申すも、これ、むべならず、と思われて、その絶妙の手綱捌きに、度肝を抜かれ、そのことを訊ねてみて御座ったところが、

「――なに――馴れさえ致さば――これ――馬の乗り方も――かかる――絶界の辺境に住まうことも――安きことにて――御座る。」

と、平然と答えた。

 そうして、

「……さても……御身も早(はよ)う、山をお下りなさるるがよろしかろう。……我ら、既にして、貴殿とお話しすることも、これ、尽きて御座れば。……我らも、もう……話をすることの……少しばかり……面倒に感じて参ったれば、の……」

と呟いたによって、暇ま乞いして、山を下ったと申す。

 

「……その名も訊いて御座ったが……最早、忘れてしもうた。……この出来事につき、書き留め置きしもののあったを、最近見つけたによって、何やらんこうした話をかき集めておる貴殿に、これ、差し上げんと存ずる。……」

と、私の親友山本某(なにがし)が呉れたを、ここにそのまま書き移して御座る。

 山本曰く、

「……これは、私の知れるさる御仁の体験致いた、確かな話で御座るぞ。……」

とのことで御座った。

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