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2015/01/12

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅱ) 

十月十二日、朝の食堂で  

 けさはもう六時から起きてゐる。朝の食事をするまへに、大體こんどの仕事のプランを立てた。とにかく何處か大和の古い村を背景にして、Idyll 風なものが書いてみたい。そして出來るだけそれに萬葉集的な氣分を漂はせたいものだとおもふ。――ちよつと待つた、お前は僕が何かといふとすぐイディルのやうなものを書きたがるので、またかと思つてゐることだらう。しかし、本當をいふと、僕は最近ケーベル博士の本を讀みかへしたおかげで、いままでいい加減に使つてゐたそのイディルといふ樣式の概念をはじめてはつきりと知つたのだよ。ケーベル博士によると、イディルといふのは、ギリシア語では「小さき繪」といふほどの意ださうだ。そしてその中には、物靜かな、小ぢんまりとした環境に生きてゐる素朴な人達の、何物にも煩はせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されてゐる。……どうだ、分かつたかい、僕がそれより他にいい言葉がなかつたので半ば間にあはせに使つてゐたイディルといふのが、思ひがけず僕の考へてゐたものとそつくりそのままなのだ。もうこれからは安心して使はう。いい譯語が見つかつてくれればいいが(どうも牧歌なんぞと譯してしまつてはまづいんだ)……

 さて、お講義はこの位にしておいて、こんどの奴はどんな主題にしてやらうか。なんしろ、萬葉風となると、はじめての領分なのだから、なかなかおいそれとは手ごろな主題も見つかるまい。そのくせ、一つのものを考え出さうとすると、あれもいい、これもちよつと描けさうだ、と一ぺんにいろんなものが浮かんで來てしまつてしやうがない。

 ままよ、けふは一日中、何處か古京のあとでもぶらぶら歩きながら、なまじつかこつちで主題を選ばうなどとしないで、どいつでもいい、向うでもつて僕をつかまへるやうな工合にしてやろう。……

 僕はそんな大樣(おほやう)な氣もちで、朝の食事をすませて、食堂を出た。

 

[やぶちゃん注:「Idyll」私の持つ「羅和事典」には idyllum とあってただ「牧歌」とある。「研究社英和辞典」を見ると、idyll(名詞・可算名詞)①田園詩・牧歌(田園詩に適する)ロマンチックな物語/②田園風景(生活など)/③[音楽用語]田園詩曲/④かりそめの恋・情事とあり、語源としてギリシャ語で「小さな絵画」の意とある。同社「リーダーズ・プラス」によれば、ギリシャ語由来のラテン語が語源とあり、eidos(形の意)の指小辞とある。則ち、本来は「小さな形のもの」の謂いである。そこで今度は eidos を調べると、ギリシャ語 eidos(エイドス)はプラトン哲学に於ける「イデア」とほぼ同じ概念を指す重要な概念であることが分かる。本邦ではしばしば「形相(けいそう)」と訳されるものである。それを受けるアリストテレス哲学に於いては、一種類の事物を他のものから区別する本質的特徴の謂いとなる。ウィキの「エイドス」を見ると、アリストテレスは『「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある』。『質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する』。『すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、とした』とある。私はお雇い外国人として東京帝国大学で哲学と西洋古典学を教えた、知られた哲学者ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年 ロシア出身のドイツ系ロシア人)をまともに読んだことがない迂闊にして暗愚な人間である。この注を附すために、今更ながらケーベル先生の著作を買って繙くほどの余裕もないが、何か、この辰雄が「牧歌」なんどという邦訳は厭だという彼方に、極限にまで凝集した――形相(けいそう)そのもの(第一形相)としてのまさに「在るもの(純粋現実態)――としてのエイドスを私は見たように思うのは――とんだ、お門違いなのかも知れないが――私は私としてそれで腑に落ちたのである。]

 

 

午後、海龍王寺にて  

 天平時代の遺物だといふ轉害門(てがいもん)から、まづ歩き出して、法蓮(ほふれん)いふちよつと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい氣もちさうに佐保路(さほぢ)に向ひ出した。

 此處、佐保山のほとりは、その昔、――ざつと千年もまへには、大伴氏などが多く邸宅を構へ、柳の竝木なども植ゑられて、その下を往來するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくつてゐたこともあつたのださうだけれど、――いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまつ白い道が一直線に突つ切つてゐるつきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いてゐると、背なかが熱くなつてきて苦しい位で、僕は小説などをゆつくりと考へてゐるどころではなかつた。漸つと法華寺(ほつけじ)村に著いた。

 村の入口からちよつと右に外れると、そこに海龍王寺(かいりゆうわうじ)といふ小さな廢寺がある。そこの古い四脚門の陰にはひつて、思はずほつとしながら、うしろをふりかへつてみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平(やまとだひら)一帶が秋の收穫を前にしていかにもふさふさと稻の穗波を打たせながら擴がつてゐる。僕はまぶしさうにそれへ目をやつてゐたが、それからふと自分の立つてゐる古い門のいまにも崩れて來さうなのに氣づき、ああ、この明るい温かな平野が廢都の跡なのかと、いまさらのやうに考へ出した。

 私はそれからその廢寺の八重葎(やへむぐら)の茂つた境内にはひつて往つて、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんだう)(これも天平の遺構ださうだ……)の中を、はづれかかつた櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剝落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい樂書を一つ一つ見たり、しまひには裏の扉口からそつと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えてゐる葎までも何か大事さうに踏まへて、こんどは反對に櫺子の中から明るい土のうへにくつきりと印せられてゐる松の木の影に見入つたりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此處でかうやつて過ごしてゐる。女の來るのを待ちあぐねてゐる古(いにしへ)の貴公子のやうにわれとわが身を描ゐたりしながら。……

 

[やぶちゃん注:「海龍王寺」奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから「隅寺(すみでら)」の別称がある(ウィキの「海龍王寺」より)。同寺公式サイトの「歴史」によれば、飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平三(七三一)年に光明皇后が海龍王寺として改めて創建、苦難の末に唐より帰国を果たした玄昉(げんぼう)が初代住持となったことから、遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことともなったとある。『平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退してい』ったものの、『鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え』、鎌倉幕府は関東御祈願三十四箇寺の一つ選んでいる。『しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場とな』り、『打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途を』辿った。『江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けることとなり、本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たし』のも束の間、『明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大きな打撃を受け』、辰雄が訪れた頃には無住のまさに「廢寺」同前であった(後注参照)。

「轉害門」奈良ホテルから国道三六九号を真北に向って一・四キロメートル地点で西からの一条通りとにぶつかるところに東大寺の境内西北(正倉院西側)の三間一戸八脚門。平安末と室町の戦火を潜り抜けてきた東大寺でも数少ない建造物の一つで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像し得る唯一つの遺構とされる(鎌倉期の修理によって一部が改変されているものの基本部分は奈良の遺稿が保存されているとされる)。

「法蓮」「佐保路」轉害門門前を西に折れて一条通りを真西に向い、佐保川の法蓮橋を渡ったところから西が現在の法蓮町である。轉害門そのものから法蓮橋までは凡そ五〇〇メートル強である。ここから真西にさらに真西に法蓮仲町の交差点を過ぎて一条通りを八〇〇メートルほど辿るとかつての小字地名と思われる辰雄のいう「佐保」路を通過する。現在の法蓮町は東西にかなり広く、西は関西本線を越えて現在の奈良バイパスが一条通りと交叉する箇所(法華寺東交差点。ここまでは法蓮橋から約一・七キロメートル)まであり、ここから西が知られた法華寺や、彼が次に向かった海龍王寺のある法華寺町となっている。海龍王寺へはこの(法華寺東交差点から一条通りを四七〇メートルほど歩き、通りが真北へ折れた直近(法華寺の極直近の東北位置)にある。なお、新潮文庫版「大和路・信濃路」では「佐保路」に「さおじ」とルビを振るが、現行でも「さほじ」が正しい。

「佐保山」は先のロケーションの丁度、中間点辺りの真北にあった山で、広域的には阿保山・奈保山(法蓮町・奈保町一帯)を含む、佐保川北方に広がる丘陵地帯の総称でもある。西部の佐紀山と合わせて平城山丘陵を形成し、周囲には聖武天皇ら皇族の陵墓が点在し、古くから桜の名所としられる地域であって、特に南部を流れる佐保川沿いの桜並木が有名である。この事から、佐保山には春を司る神霊が宿っていると考えられ、佐保姫と呼ばれる女神が信仰されていたが、グーグルのストリート・ヴューで見ても、現在では開発が進み、運動公園や学校、住宅地などになって辰雄が歩いた頃の「見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまつ白い道が一直線に突つ切つてゐるつきり」と描写する素朴な田園風景からは全く変容してまった(以上はウィキの「佐保山」に拠った)。

「海龍王寺といふ小さな廢寺」「そこの古い四脚門」ウィキの「海龍王寺」によれば、『明治以降は境内の荒廃が進み、無住の時期が続いたが』、昭和二八(一九五三)年に『住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた』とあり、すっかり荘厳にして綺麗になってしまっている。辰雄が訪ねた当時の雰囲気は「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編1」にある、岩波写真文庫「奈良―東部―」の写真で辛うじて想像出来る。特に『当時の海龍王寺の門前』のリンク写真をご覧になられたい。その下に辰雄とあなたと立たせてみることこそが本作を読む上では肝要であると私は思うのである。因みにそこには、当時の海龍王寺の門前には何もなく、若草山(海龍王寺のほぼ東の四・五キロメートルにある)までも遠望出来たらしいとある。

「西金堂」海龍王寺公式サイトの「伽藍」によれば、『創建当時からの建物』であり、鎌倉時代と昭和四十年から翌四十一年(一九六五、六年)にかけて『大きな修理を受けてはいるものの、一部に奈良時代の木材を残してい』るもので、『規模や形式には大きな変更がなく、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存していないことから非常に価値の高いものと評価されてい』る、とある。現在は重要文化財指定を受けており、ウィキの「海龍王寺」によれば、『内部に五重小塔(国宝)を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面』三間、側面二間の『小規模な仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。古代の仏堂で現存するものは、構造的に中心部の「身舎」(もや)と、その周囲の「庇」という』二つの部分から構成されるものが多いが、『この西金堂は「身舎」のみで「庇」にあたる部分がない、簡素な建物である。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に再建に近い大修理を受けており、奈良時代の部材はその多くが当初位置ではなく、堂内の他の場所に転用されている。創建時より規模や様式的は変更は無いと考えられている』とある。

「磚」塼・甎とも表記する。中国に於いて粘土を型で固めて焼くか、乾燥させて作った灰黒色の煉瓦をいう。漢代に発達して城壁・家屋・墓室の構築に用いられたが、日本にも伝来して飛鳥時代の寺院跡や鎌倉時代の唐様建築などに用いられた。……この最後の段落で私たちは、辰雄と連れ立って、「その廢寺」となった荒れた海龍王寺「の八重葎の茂つた境内にはひつて往つて、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂」「の中を、はづれかかつた櫺子ごしにのぞ」き、「そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剝落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい樂書を一つ一つ見たり、しまひには裏の扉口からそつと堂内に忍びこんで、磚のすき間から生えてゐる葎までも何か大事さうに踏まへて、こんどは反對に櫺子の中から明るい土のうへにくつきりと印せられてゐる松の木の影に見入つたりしながら」「小一時間ばかり」そこで過ごしてみたくなるではないか。そうして……辰雄と同じように……私は……「女の來るのを待ちあぐねてゐる古の貴公子のやうにわれとわが身を描ゐたりし」てみたくなるのである……]

 

 

夕方、奈良への歸途  

 海龍王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買つて、それを皮ごど嚙りながら、こんどは佐紀山(さきやま)らしい林のある方に向つて歩き出した。「どうもまだまだ駄目だ。それに、どうしてかうおれは中世的に出來上がつてゐるのだらう。いくら天平好みの寺だといつたつて、こんな小つちやな寺の、しかもその廢頽した氣分に、こんなにうつつを拔かしてゐたのでは。……こんな事では、いつまで立つても萬葉氣分にはひれさうにもない。まあ、せいぜい何處やらにまだ萬葉の香りのうつすらと殘つてゐる伊勢物語風なものぐらいしか考へられまい。もつと思ひきりうぶな、いきいきとした生活氣分を求めなくつては。……」そんなことを僕は柿を嚙り嚙り反省もした。

 僕はすこし歩き疲れた頃、やつと山裾の小さな村にはいつた。歌姫(うたひめ)といふ美しい字名(あざな)だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもふやうな村にも見えたが、ちよつと意外だつたのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構へのなかに、中庭が廣くとつてあつて、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでゐる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに擴げながらのんびりと働いてゐる光景が、ちよつとピサロの繪にでもありさうな構圖で、なんとなく佛蘭西あたりの農家のやうな感じだ。

 ちよつとその中にはいつて往つて、女どもと、その村の聞きとりにくいやうな方言かなんかで話がしてみたかつたのだけれど、氣輕にそんなことの出來るやうな性分ならいい。僕ときたひには、そうやつて門の外からのぞいてゐるところを女どもにちらつと見とがめられただけで、もうそこには居たたまれない位になるのだからね。……

 氣の小さな僕が、そうやつて農家の前に立ち止まり立ち止まり、二三軒見て歩いてゐるうちに、急に五六人の村の子たちに立ちよられて、怪訝さうに顏をじろじろ見られだしたのには往生した。そのあげく、僕はまるでそんな村の子たちに追はれるようにして、その村を出た。

 その村はづれには、おあつらへむきに、鎭守の森があつた。僕はとうとう追ひつめられるやうに、その森のなかに逃げ込み、そこの木蔭でやつと一息ついた。

 

[やぶちゃん注:「佐紀山」これは、海龍王寺門前の北方にある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)のコナベ古墳やウワナベ古墳一帯を指しているように思われる。

「せいぜい何處やらにまだ萬葉の香りのうつすらと殘つてゐる伊勢物語風なものぐらいしか考へられまい」これはこの旅で構想され、後に書かれた「曠野」(同昭和一六(一九四一)年十二月『改造』に発表)の話柄と合致する。

「歌姫」現在の奈良市歌姫町。辰雄は海龍王寺を出ると、左折して北へ向かい、コナベ・ウワナベ古墳を遙かに見つつ、それらの古墳の手前、現在の法花寺北の交差点を左に折れ、平城宮跡を横切って、東西に走る県道一〇四号が南北に走る県道七五一号と交差する佐紀町交差点まで辿ったものらしい(海龍王寺門前からではここまで実測で一・五キロメートル)。ここから県道七五一号を一キロ弱真北へ向かった所に、この歌姫という村はあった。「南都銀行」の観光案内サイト「ええ古都なら」の「歌姫街道 古代の歌姫が暮らした街道」に辰雄が辿ったこの南北の道について、以下のようにある。『京都府の木津川市へ向かうこの道は、かつては歌姫街道と呼ばれ、京都と奈良を結ぶ重要な交通路だった。壬申の乱で大友皇子の近江軍が飛鳥に攻めこむ際には、ここを越えきたといわれている。また平城京造営のときには、この街道を通って建築資材が運ばれた。歌姫街道とはなんともロマンチックな名前だが、平城宮で雅楽を奏し、舞を舞った女官たちがこの街道沿いに多く住まいしたため、この名前が付いたという』。『街道はずいぶんと開けたが、歌姫町のバス停を北へ過ぎた辺りから急に細くなり、古い民家が点在する。京へ向かい、街道がやや下り坂になったところに鎮座するのが、農業や旅の安全を守る神を祀る添御縣坐神社である。神社の前をさらに北へ過ぎると、道はカーブを描きながら下り、やがて広々とした田園風景となる』とある。……しかし、この日に辰雄が辿った地名の、何とことごとくが、美しい響きを持っていることだろう。奈良に疎い私でさえ、この地名だけで何かこころからあくがれ出でるものがあるような気がするのである。……

「ピサロ」フランスの印象派の画家ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。多くの農村を舞台と下風景画や人物画を描いている。グーグル画像検索「Jacob Camille Pissarroを見られるがよい。辰雄の謂いがまことに、しっくりとくる。

「鎭守の森」これは位置的に見て、歌姫の集落の添御県坐神社 (そうのみあがたにいますじんじゃ)と思われる。この神社は大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置し、大和から旅する者が旅の安全を願ったところの、まさに国境――異界への通路――に鎮座する手向けの神として尊崇されていたのである。
 
「村の子たちに追はれるようにして、その村を出」、「その村はづれに」ある「おあつらへむき」の「鎭守の森」がって、そこに「僕はとうとう追ひつめられるやうに、なかに逃げ込み、そこの木蔭でやつと一息ついた」……この情景がまた、素晴らしいではないか! これは子どもたちの時空を超えた鬼ごっこによって追われた詩人――神に選ばれた者――が、昼なお暗き古代の異界へと繋がるところ、妖しい鎮守の森の奥へと誘われたのではあるまいか?……]

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