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« カテゴリ 堀辰雄 | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 了 »

2015/01/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水での貝類採取及び深夜の県令岩村通俊の愉しい饗宴の事

M571

図―571

 

 上陸地への帰途、我々は古い陶器を見るために、ある紳士の家へ立寄った。同行した官吏が人々に向って、私が古い陶器に関して、非常に興味を持っていることを話したので、私は沢山の珍しい物を見る機会を得た。図571は、古い朝鮮の盃で直径六インチあり、内側の模様が如何にも変っているので、写生した。こんな奇妙な熊手や床几は、日本では見たことがない。私は大学博物館のためとて、変った形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土の紐(ひも)がついている。いう迄もないが赤い粘土で、厚くて重く、より北方で見出される如何なる陶器とも違ったものである。

[やぶちゃん注:「六インチ」十五・二四センチメートル。

「奇妙な熊手や床几」文脈上はこれは前の盃の外側に描かれたもののように読めるが、盃ではかなり小さい絵になってしまう。別な陶器の図柄か。ともかくも蒐集家ならばこれらのモースがみたものを特定出来そうだ。私は貝なら掬すが、陶器にはまるで関心がない。識者の御教授を乞えると助かる。

「十四インチ」三十五・五六センチメートル。

「大学博物館」前にもこの「博物館」という言葉は出ているのであるが、私はずっと、例えばここで「大学」と称しているところからも、これは当時あった教育博物館(現在の国立科学博物館前身)などではなくて、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 8 東京大学構内」で図示して注したところの、そこの図で『「1・2」を合わせた面積の一階部分が列品(標本室)であった』という場所、モースの半ば私的なコレクション・ルームを「大学博物館」と称しているのではあるまいかと疑っていることをここに述べておきたい。]

 

 古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。知事は私を六時の正餐に招待してくれたのであるが、上陸点へ着いたのは九時であり、それも、途中で起った疾風のおかげで、そうで無かったら、十二時にはなっていたであろう。私は舟から飛び下り、旅館へ駆けつけて靴下と新しいシャツとを身につけ、同行した官吏と、助手との三人で、知事の家へ急いだ。我々は大きくて広々とした美しい部屋へ通された。勿論私は靴をぬいでいた。この部星へ歩いて入ると、知事が出て来て懇(ねんご)ろに私に挨拶したが、殆ど十時に近かったにもかかわらず、彼の態度には、いささかも待ちくたびれたような所が見られなかった。彼の庭園には菊の驚くべき蒐集があり、それ等は数百の燈火で照らされてあった。次に彼は私に数箇の薩摩焼その他を見せ、その興味は全然別の方向にあるものとされている外国人が、かくも早く、支那、朝鮮及び日本の陶器を鑑別することを覚え込んだことに就て、何度か驚嘆した。十時、我々は食事のために、二階へ呼ばれた。すべてで六人で、正餐は私に敬意を表する為とあって西洋風だったが、私はもう日本料理に馴れているので、日本風であったら、より喜んだことと思う。が、私は大いに食って、感謝の意を示した。朝の四時から、私が口に入れたものとては、少量のきたない荒塩をつけた薩摩芋たった二個なのである。

[やぶちゃん注:「古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。」原文は“After a charming time over the old Korean and Japanese pottery we started off again along the shore, as the tide was out, and I had the delight of seeing alive for the first time a number of tropical species of shells, Cypraea, Conus, Murex, and an exquisite little Bulla, During the day the breeze died out, and we were delayed for hours.”である。以下、属同定。この同定はすこぶる明解に行える(以下、フォントはセンチュリー斜体に代える)。

「タカラガイ」“Cypraea” は腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属 Cypraea のタカラガイ類を指す。世界で二百三十種ほどが知られ、本邦近海に産するものは九十種弱。コレクターの間では最も人気のある種で、本種のみを収集するおぞましい(私も無論、好きだが、少なくとも私はこういう偏愛的な連中とは同等に見られたくないのである)フリークも多い(次のイモガイ類も全く同様である。以下の三種は極めて知られた貝であるから画像リンクはしない)。

Conus” 新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus

Murex” 吸腔目アクキガイ科 Murex属のホネガイ Murex pectin 若しくはその近縁種。

Bulla”は“an exquisite little”とあるから、後鰓亜綱異鰓上目後鰓目ナツメガイ科ナツメガイ(棗貝)Bulla vernicosa の小型個体か、その稚貝と考えてよい。ナツメガイは本州中部以南に棲息し、成体の殻高は四・五、殻径は三センチメートルに達する。殻は円筒形でやや厚く、有意に内方に向って巻き込み、螺塔や螺層が現れず、殻頂は狭く窪んで開口する。殻口は下方に開いて外唇は鋭く、中間部は鋭く、彎曲していない。殻表は平滑で光沢を持ち、しかも葡萄色の地に三角形の小さな黒褐色を帯びた小斑が不規則に散布し、四条の濃い色帯を持つ美しい掬すべき貝である(私も好きな貝の一つである。なお、ここまでの記載は主に保育社の吉良図鑑に拠った)。本邦には同属で、酷似した、しかも有意な小型種であるコナツメガイ Bulla orientalis があるが、残念ながらこれは沖繩以南にしか棲息しない。分類の「後鰓亜綱異鰓上目後鰓目」で気づかれた方も多いであろうが、グーグル画像検索「Bulla vernicosaを見て戴くと一目瞭然、「コナツメガイ」と「カイ」がつくが、所謂これは広義の「カイ」で、本種は有殻のウミウシの仲間である。

「知事」先に注した鹿児島県令岩村通俊。以下のモースの観察を見ても、彼は実に誠実な人物であることが知れる。彼の故郷の宿毛市立宿毛歴史館公式サイト内にある「岩村通俊記載を読むと、彼の人となりがよく分かる。なお、この深夜の饗応の膳は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の推定によるなら、明治一二(一八七九)年五月二十三日の午後十時に始まり、翌二十四日未明の午前二時に終わっている。以下見るように、この数時間後の早朝に鹿児島を出帆しているので、薩摩芋二個の昼間の遠征観察採集から宴会――相当ハードな予定である(後段に出る船上でのバタンキューもさもありなん、である)。]

 

 列席した一人の紳士は面白いことをするのが好きで、正餐が半分も終らぬ内に、両手で色々と変ったことをやり出した。私は彼のやったことをすべて真似することが出来たが、只指を曲げて腕につけることは出来なかった。そこで私は彼等に両手を反対の方向に廻し、お仕舞には右手を左手より速く廻すという芸当をやって見せた。彼等がこれをやろうとして死物狂になる有様には、実に笑わざるを得なかったが、誰にも出来なかった。

[やぶちゃん注:「指を曲げて腕につけることは出来なかった」私は出来ますよ、モース先生。因みに、先生がやられたのは、所謂「アブラハムの子の踊り」のようなものでしょうか? 見たかったな、モース先生の「アブラハムの子の踊り」!]

 

 次に私は一寸の間刀を借して貰い度いと頼んだ。刀は前の布に包まれて持ち出された。刀を抜くことに伴う権威と儀礼を承知している私は、先ず謝辞を述べ、僅かに横を向いてから、刃を私の方に向けて刀を抜いた。これは両手の甲を下に、柄を片手で、鞘(さや)の柄に近く別の手で握り、そこで刀を抜き、両手で完全にひっくりかえしてから、刀を掌で鍔(つば)に納めようというのである。所が誰にも刀と鞘とを並行にすることが出来ず、大抵は直角にするのであった。

[やぶちゃん注:ちょっと意味が分からないのだが、モース先生の左右の腕の膝関節が非常に柔軟で、左右の腕を反転させて、その左右に持っているものを反転させる前の平行状態にまで持って行けるということを指しているか? だとすると、これは私も出来ない。]

M572

図―572

 

 私はまた彼等に、私が子供の時田舎の学校で覚えた、床でやる芸をいくつか見せたが、酒を飲んだり遊んだりしたので、一同大いに面白くなった。知事は彼がそれから洒を飲んだ薩摩焼の徳利を呉れた。これは何年か前、特に彼のためにつくられたのであるが、彼はこれでは酒の入りようが足らぬといった。図572はその徳利と、それに附属する深い函形の皿との写生である。深い木製の皿には相対した側に穴があり、それを清める時に、ここから布を引き出す。

 

 午前二時、我々は別れを告げねばならなかったが、一同、非常に面白く、愉快だったといった。我々は暗い中を旅籠屋へ急ぎ、その日採集した物を包み上げ、恰も夜が明けようとする時汽船へ向けて出立した。我々は錨の捲きあげられる音を聞き、動き始めた汽船に乗り込んだ。私は二十四時間活動しつづけ、曳網を行い、殆ど何も食わずに赫々たる太陽の下を八マイルも歩き、今や疲労のあまり固い甲板の上にぶっ倒れて熟睡して了った。

[やぶちゃん注:「八マイル」十二・八七キロメートル。元垂水での貝積層までが徒歩片道(3マイル×2)で、それにその他の歩行距離(+1マイル)である。]

 

 長崎で手に入れそこねた米国からの私宛の郵便物が、陸路鹿児島へ転送されたということを、私はどうにかした方法で耳に入れた。が、汽船は定刻に出帆するので、待っている訳には行かず、又しても私はそれを見ずに行かねばならぬ。だが、郵便局に、それを長崎へ戻すことを命じた。私は長崎には一週間か、あるいはそれ以上滞在することになっていた。

[やぶちゃん注:この五月二十四日早朝の鹿児島出帆後、幾つかの寄り道をしながら(後注する)モースは長崎に、六日後の五月三十日に戻っている。]

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